万次郎のいた町 ~フェアヘイブン

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写真は、アメリカ東部、マサチューセッツ州のニューベッドフォードという町の、ある朝の光景です。

撮影された1912年というのは、この街の基幹産業だった「捕鯨」に変わって、石油燃料の精製や繊維産業が盛んになった時代であり、こうした工場や学校に通う子供たちは、冬の間、休みになると、こうした凍った池の公園でつどい、ホッケーなどに興じていたのでしょう。

捕鯨の町ということで、どことなくこの少年たちも漁師の子供のような風情があるような気がするのですが、気のせいでしょうか。

このニューベッドフォードという町は、その東側を流れるアクシネット川を隔てた対岸にある「フェアヘーブン」と結びつきが強く、もともとは一つでした。

このフェアヘーブンは実は日本人には大変縁がある場所です。土佐の国の漁師だった中浜万次郎が、嵐で遭難した際、救ってくれたアメリカの捕鯨船の船長が住んでいた町であり、万次郎はこの船長に引き取られ、ここで育ったという話は有名です。

ニューベッドフォードとフェアヘーブンは、ボストンから車で約1時間南へ走ったところにあります。しばらく西へ走ればそこはもうロード・アイランド州という位置関係であり、ここにはペリー総督が日本へと船出したニューポートの港もあり、こうしてみるとこの一帯は日本と実に縁が深いところです。

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東へ走れば1620年メイフラワー号が到着したことで有名なケープコッド半島があります。メイフラワー号は、ヨーロッパからの移民が初めてアメリカに渡った移民船であり、アメリカ植民地化のシンボルとされている船です。

同船に乗っていた船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派で、信教の自由を求めてこの船に乗りました。このため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書でも必ず触れられている船です。

このニューベッドフォード一帯の土地を最初にインディアンから買い求めたのは、イギリス人36人のグループでした。1652年のことであり、そのうちの1人ジョン・クックはメイフラワー号に乗ってアメリカへ渡った約100人の1人でもありました。

クックはこの土地をダートマスと名づけ、家を建てて実際に住みつきましたが、この植民地は次第に発展し、やがて議会ができるようになると、クックはダートマスを代表する議長に選ばれました。1695年にこの土地で息を引き取りましたが、メイフラワー号でアメリカに渡った男性のなかで最後まで生き残った人物として知られています。

アクシュネット川西岸に近い旧ダートマスの部分は、当初ベッドフォード村と呼ばれており、1787年に正式にニューベッドフォード町として法人化されました。このとき川向うのフェアヘイブンも合わせて同じ行政区に組み込まれ、1796年には両街の間に橋が建設され、ともに成長していきました。

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しかし、フェアヘイブンは1812年にニューベッドフォードから分離して独立した町となりました。この間、移民はどんどん増えていきましたが、1800年まではまだ、ニューベッドフォードとその周辺社会は、大部分がイングランド、スコットランド、ウェールズ出身のプロテスタントで構成されていました。

19世紀前半にはポルトガルからの移民が捕鯨業に関連してニューベッドフォードとその周辺地域に入ってくるようになり、同様に20世紀に入るとポーランド系移民やユダヤ系移民も入ってくるようになりました。

ジョン万次郎がこの街で暮らすようになるころには、街の人々の多くは捕鯨業で活動し、物資を売り、船の艤装を行っていました。

ジョン万次郎を救い、フェアヘイブンの街に連れてきた人物は、「ウィリアム・ホイットフィールド」といいました。1804年にこの街で生まれましたが、両親を幼くしてなくしており、祖母に育てられました。

叔父ジョージ·ウィットフィールドは捕鯨船の船長であり、彼はその成長過程でこの叔父に大きな影響を受け、のちに自らも捕鯨船を操るようになります。

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北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかりました。1785年に独立戦争に勝利したアメリカは、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨に積極的に参入していきました。

当初は北米沿岸だけで捕鯨行為が行われていたましたが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船とした、いわゆる「アメリカ式捕鯨」へと発展しました。

これ以前に北大西洋で行われていたヨーロッパ式の捕鯨では、その猟場は、グリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る海域でした。このころの漁法は小さな漁船が多数集合で動くというもので、1650年頃以降にその出船数はピークに達し、毎年250~300隻の捕鯨船を含む船団が出漁していました。

この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、その後の日本捕鯨のようにクジラ全てを用いるものではありません。ヨーロッパ諸国の中では一時オランダが優位であり、オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになりました。

しかし、その後18世紀後半には、イギリスも捕鯨に参入し、世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は瞬く間に勢力を広げました。ところがこのころから、大西洋ではクジラ資源の枯渇が目立つようになってきました、このため、その操業海域も太平洋へと移っていきました。

多くの捕鯨船が太平洋全域へ活動を拡大していきましたが、北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動しました。

ヨーロッパから出航した船団は、大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲しますが、捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃と呼ばれる捕鯨銃が開発されました。捕殺したクジラは船の脇で解体されます。船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存しました。

そして、帰国後はノルウェー北部のスピッツベルゲン島などに設けられた捕鯨基地にこれらの油が集められましたが、ここの港は樽で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していたといいます。

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日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まりました。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化しており、多くの薪水を出先で補給しながら、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになりました。

このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機でした。鯨をもとめて日本近海に現れる捕鯨船の捕獲対象種はコククジラやセミクジラ、ザトウクジラなどであり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定されました。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500~700隻に達しました。

このころには、アメリカもまたかなりの捕鯨船を保有するようになっており、マッコウクジラとセミクジラ各5千頭をも捕獲し、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラだけでも7千~1万頭を1年に捕獲していたといいます。

南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていましたが、こうした捕鯨船の母港となったニュー・ベッドフォードは大いに繁栄しました。

そんな中、土佐に生まれた万次郎は、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活していました。そこへたまたま通りがかったのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号であり、その船長こそがホイットフィールドでした。

ジョン・ハウランド号は、上述のメイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、のちにマサチューセッツ州知事なども務めたジョン・ハウランドにちなんでく名づけられた三本マストの帆船でした。大きさは377トン、長さ34メートル、幅8.3メートル深さ4.2メートルであっという記録が残っています。無論、万次郎が見た事もない大きさの船でした。

万次郎は、この船に仲間と共に救助されましたが、これが天保12年(1841年)のことで、万次郎はまだ14歳でした。このころまだ日本は鎖国していたため、ホイットフィールド船長一行は、漂流者たちを日本に送り届けることを断念し、彼等とともにアメリカに帰港することにしました。

その途中立ち寄ったハワイでは、漂流者たち全員を下す予定でしたが、船長のホイットフィールドに最年少の万次郎の利発さに気付き、彼に本国に一緒に来ないか、と誘いました。万次郎は迷いますが、元より好奇心の強い子だったことから、渡米を決意します。

こうして、万次郎は、ホイットフィールド船長とともに、ニューベッドフォード港に入りました。その後、船長の家のあるフェアヘイブンに住むようになり、ここでは、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられました。

その後、万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となり、この地にあったールド・ストーン・スクールという、現在では高校にあたる公立校に通うようになります。船長からの期待に応えるべく必死に勉強したといい、わずか数年で英語もマスターし、この学校は首席に近い成績で卒業したようです。

1844年(弘化元年)、17歳で入った、私立のルイス・バートレット・スクールは、船員育成のための商船学校のようなところで、ここで万次郎は、英語は無論のこと、数学・測量・航海術・造船技術などを幅広く学びます。寝る間を惜しんで熱心に勉強し、ここでも首席となった彼は、同時に民主主義や男女平等などのアメリカの進取的な概念をも学びました。

その後ここで得た経験が、幕末から明治維新にかけて生かされ、時代の寵児になったことは言うまでもありません。その帰国の試みは2度行われました。最初上陸した琉球では、官吏に入国を拒否されましたが、二度目は役人に見つからないように入国に成功しました。

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こうして約10年ぶりに帰国した万次郎は、その後薩摩を経て土佐藩に身を移され、すぐに士分に取り立てられました。さらには徳川幕府に徴用され、咸臨丸に乗って勝海舟とともにアメリカに「里帰り」もしました。

が、このときの寄港地はサンフランシスコだったため、フェアヘイブンには戻っていません。帰国後は、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命され、翌年には同船で小笠原諸島近海に向い、洋式船で日本初となる捕鯨なども行っています。

幕末の動乱時には、戦闘などには参加せず、翻訳をしたり、士民に英語の教示を行っていますが、土佐藩にできた「開成館」という学校でも教授となって英語、航海術、測量術などを教えていたほか、かつて世話になった薩摩藩の招きをも受け、ここでも航海術や英語を教授していました。

明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されましたが、その翌年の明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されました。

その帰国は大西洋経由であったことから、このとき万次郎は第二の故郷、フェアヘイブンに立ち寄っています。恩人のホイットフィールドとも再会し、このとき、身に着けていた日本刀を贈りました。

この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されているそうです。

このホイットフィールド船長の家が建っていたのは、フェアヘイブンの北側の一角だといい、ここはこの地へ最初に入植したジョン・クックらも始めに住みついたところだといいます。渡し船の船着場がおかれ、ニューベッドフォードと呼ばれるようになる前には、町の中心として栄えていたそうです。

今でもこの地区には1742年に建てられた家を筆頭に、十八世紀の家が十軒以上並んでいるといい、他の家もほとんどが十九世紀はじめに建てられたものです。1796年に最初の橋が川にかかったときには、フェリーが廃止されると同時に活動の中心が橋のある南へ移り、発展からとりのこされました。

以後、もともとオックスフォード・ヴィレッジと呼ばれていたこの一角を現地の人は、ポヴァティー・ポイント(povety pointo)と呼ぶようになりました。これは直訳すれば「貧しい街」という意味です。が、貧民街であったわけではなくこれは愛称にすぎず、昔から現在に至るまで綺麗に整備されたまちです。

万次郎がこの町に来た頃にはこの二つの町だけで200隻以上の捕鯨船を有しており、捕鯨で大いに町が潤っていたころです。このポヴァティー・ポイントにも世界の海で活躍する船乗りが何人か家をかまえ、静かな住宅街であり、その雰囲気は、万次郎がいた頃からその後ほとんど変わっていないようです。

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フェアヘイブンの街並み

万次郎を伴ってこの街に帰って来たとき、ホイットフィールド船長は37~38歳だったようですが、まだ子供はいなかったようです。が、その後、万次郎が在米中及び帰国してからは、妻のアルベルティーナとの中に4人の子供を設けました。

ホイットフィールドは、その後フェアヘイブンの都市行政委員などを勤めるなど政治家としても活躍し、のちにマサチューセッツ州選出の議員なども勤めたようです。が、1886年に82歳で亡くなっています。

その墓は、フェアヘイブン北西部のアクシネット川の河岸にある「リバーサイド墓地」にあり、この墓は、昭和天皇や多くの日本人高官によって訪問されたそうです。彼の孫トーマス·ウィットフィールドもまた、政治家の道を進み、1944に62歳で亡くなるまでは、歴史の中でも二番目に長いフェアヘブン市選出議員の地位にあったといいます。

ちなみに、万次郎は明治3年の渡米後、帰国してからすぐに軽い脳溢血を起こしますが回復しました。しかしその後は表立った活動はせず、時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたものの断り、最後は土佐へ戻り、ここで一教育者としての道を選んで余生を過ごしました。

明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られています。その故郷である、土佐清水市は、この万次郎との縁で、1987年からフェアヘイブンとニューベッドフォードの姉妹都市となっています。

その二つの町は、現在でも漁業と製造業がさかんです。が、最近では観光業も成長産業になっているといい、芸術祭的なものやポルトガル移民を中心とした祭りなど目当ての観光客が増えているといいます。

歴史ある捕鯨産業も観光ネタであり、ニューベッドフォード捕鯨国立歴史公園はアメリカ合衆国の歴史における捕鯨産業の影響に焦点を当てた唯一の国立公園だそうで、その中心にはニューベッドフォード捕鯨博物館という、捕鯨の歴史を紹介する博物館もあるようです。

現在、フェアヘイブンには、「万次郎トレイル」なる観光ルートがつくられています。スタート地点となるミリセント図書館には、万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されています。

そのほか、万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、船長の家、万次郎が一時ホームステイしたイーベン・エイキンの家、英語を習ったアレン姉妹の家、ホイットフィールド家の墓、通ったオールド・ストーン・スクール、航海術などを学んだバートレット・スクールなどを巡るようです。

さらに船長の家は、2009年にホイットフィールド・万次郎友好記念館としてリニューアルしているそうです。

歴史好きのあなたはぜひ訪れてみたい場所なのではないでしょうか。

Whitfield-Manjiro-Friendship-House-500x525ホイットフィールド・万次郎友好記念館

100年の時を超え~マーモンモーター社

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マーモンモーター社は、インディアナ州のインディアナポリスで1902年に創業し、1933年まで続いた会社です。

このインディアナポリスという町はあまり日本人には馴染のない街かもしれません。場所は五大湖のうちのミシガン湖のすぐ真南に位置し、アメリカ中東部の中規模都市といったところです。最近では外資系を含めた自動車工業の成長によって、五大湖周辺の都市にしては人口増加を続けている珍しいケースの都市です。

マーモンの親会社は、1851年の製造に設立された小麦粉を製造する器械を製造する会社でしたが、その技術を応用して自動車生産に乗り出しました。マーモンの名は、その初代社長であるハワード・マーモンの名を冠したものです。

この会社で1902年から製造された空冷式V4エンジンは、この時代にあってかなり先駆的なものであり、翌年からはさらにV6とV8エンジンも生産するようになり、これを搭載した車両は信頼性が高く、すぐにスピード感あふれる高級車としての評判を得るようになりました。

1911年には、モーターレースの最高峰、インディアナポリス500で入賞するなど、その後も実力を蓄えつづけていきました。次々と新車を製造していきましたが、中でもとくに軽量化のためにアルミニウムを多用したボディを持つクルマの製造で定評がありました。

また、多数の人が乗れる高級リムジンも製造していましたが、7人乗りのモデルで、6350ドルもし、これは現在の価格に換算すると、1ドル120円として、およそ1900万円にもなります。

冒頭の写真は、コンバーチブルであり、乗車できるのは4~5人ですから、これよりは安かったでしょうが、少なくとも4000ドル以上、現在の日本円では、1200万円以上はしたでしょう。撮影年度は不詳であり、このクルマの車種も不明ですが、デザイン的な完成度からみて、同社の全盛期のものと思われ、おそらくは1920年代のものと推定されます。

しかし、この1920年代後半ごろから、市場の成熟化により、次第にこうした高級車は売れなくなっていったため、同社の収益も悪化。そこで、1929年にはより安価な1000ドル台の乗用車を売り出しましたが、このころにはフォードがもっと安価なT型フォードなどを売り出しており、その価格は半値以下の300~500ドルという安さでした。

このため、この新型車「ルーズベルト」は、まったく売れず、業績はさらに悪化。そこへ追い打ちをかけるように、1929にはウォール街で大暴落が起き、時代は大恐慌の悪夢の中に入っていきました。

同社は1927年に世界に先駆けてシリンダーの数が16気筒もあるV16エンジンの開発なども手掛けていましたが、これは完成できず、1933年にはついに、全車種の自動車生産を中止しました。

しかし、これより少し前の1931年、マーモン・ヘリントン社は、ハワードの息子であるウォルター・C・マーモンの呼びかけに応じた、アーサー・W・ヘリントンとの共同で、新しい会社を設立していました。

これが、マーモン・ヘリントン社であり、同社はそれまでの高級自動車における優れたエンジンの製造技術を生かした、トラックの製造を中心にした企業でした。軍用の航空機用給油トラックや軽火砲牽引用の4輪駆動車のシャーシ、民間航空機用給油トラックなどを製造しましたが、軍などから発注も多く、順風満帆な操業を開始しました。

その後、4輪駆動車の製造だけでなく、既存の2輪駆動車の4輪駆動車への改装もまた同社の事業の一部であり、このほか商用の配送用バンや乗用車も製造するようになり、その延長で同社は商業トラック用シャーシの上に架装可能な軍用装甲車の設計を行うようになりました。

この技術は1938年に南アフリカ共和国に採用されましたが、これを生かして製造された車両は「マーモン・ヘリントン装甲車」として知られ、北アフリカ戦線でイギリス陸軍やイギリス連邦諸国の陸軍で活躍しました。

また、戦車も製造するようになり、1940年には、オランダ領東インド陸軍からの発注を受け、「マーモン・ヘリントン CTL」という戦車も開発、製造しました。

輸送中にインド陸軍が日本軍に降伏したために配備が間に合いませんでしたが、残りの生産分はオーストラリアに訓練用戦車として配備されたほか、アメリカ陸軍が引き取って運用し、北方アメリカ領であるアリューシャン列島やアラスカに配備されました。

その貧弱な武装と装甲から、アメリカ兵からは軽蔑されましたが、インド陸軍からは、この車両が搭載していたハーキュリーズエンジンの高い信頼性を評価しました。

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1942年 アラスカの山岳地帯で行動中の2両のマーモン・ヘリントン CTL

ちょうどこのころ、第二次世界大戦中にイギリスは、それまでの主力戦車のひとつ、「テトラーク軽戦車」の代替となる空挺作戦専用の軽戦車の開発を模索していましたが、航空機その他の開発製造に忙しく開発は進んでいませんでした。

しかも、戦争に突入して軍の工場の生産能力は著しく低下しており、ついには新型戦車をイギリス国内では生産しないことに決めました。

その代わりに、ということで同盟国であるアメリカ政府にテトラークの代替戦車の開発と生産を要請しましたが、これは重量9~10トンという軽量の戦車の開発を求めるものでした。この重量はこの時代の軍用グライダーに搭載できる程度のものとして決められたものです。

さっそく、アメリカ合衆国の武器省は、この戦車の開発を任せる会社の選定に入り、この中で、ゼネラルモーターズ、ジョン・W・クリスティー、マーモン・ヘリントン社の3社を選び、それぞれに設計を依頼するという、コンペティション方式を採用しました。

こうして選定された各社はそれぞれの持ち味を生かした新型戦車の設計に入りましたが、1941年5月に開催された会議で武器省はマーモン・ヘリントン社の設計案を採択し、同社に試作車を完成するよう要請しました。同社の前身であるマーモン社時代に開発した車両の軽量化技術が高い評価を得たようです。

そして、この戦車は、武器省により「Light Tank T9 (Airborne)」と名付けられました。日本語にすると「軽戦車T9(空挺型))とうことになりますが、後に「M22」と改称されます。

しかし、このイギリスから開発を依頼された戦車は、この当時アメリカ軍がこのような車両を搭載できる大型の輸送機を保有していなかったため、そのままでは使うことができませんでした。

このため、輸送時には砲塔を取り外して車体を機体の下に吊り下げる方式とし、軽量化のため車体前面の固定式機関銃や砲塔の旋回装置、主砲のジャイロスタビライザー(砲安定装置)などが取り外されたT9E1として改良されました。

砲塔を取り外す形式としたことで、着陸した輸送機から下ろした後に組立作業を行う必要が生じ、このためアメリカ軍では本車は空挺降下させて運用することができません。このため、「輸送機で空輸することが可能」という程度の「空挺戦車」となってしまい、空挺部隊の持つ「奇襲性」を発揮できないことは本車の重大な欠点となりました。

しかし、アメリカ軍はせっかく開発したからということで、T9E1が完成する前の1942年4月に早くも500輌の量産命令を出し、試作車の性能も満足のいくものだったことから、更に1400輌の追加発注が行われました。

ただ、ちょうどこのころ、敵国であるドイツや日本軍の衰弱ぶりが顕著となってきたため、1944年2月に830輌が完成した時点で生産は打ち切られました。そして、結局アメリカ軍が実戦でこの車両を使うことなく、戦争は終了しました。

一方、この戦車の開発を依頼したイギリスには、このうちの280輌が送られ、実戦に投入されました。イギリスは既に大型のグライダーであるGAL49“ハミルカー”を保有していたため、1945年3月に行われたライン川渡河作戦、ヴァーシティー作戦にこのうちの12輌が参加しました。

M22_locust_06ハミルカー グライダーより降車するM22“ローカスト”

イギリス軍第6空挺師団所属で、愛称に「ローカスト(Locust)」の名が与えられました。ワタリバッタのことで、これは日本語では「いなご」に近い種類ですが、やや日本のものより大きいバッタです。

こうして実践配備されたローカストでしたが、この頃にはもうすでにドイツ側の抵抗力は落ちており、戦闘も散発的なものだったこともあり、本車の真価を問うことはできなかったようです。そして、これが第二次世界大戦におけるM22の唯一の実戦使用例となりました。

M22_Locust_light_tank_at_Bovingtonボービントン戦車博物館(イギリス)のM22

しかし、こうした戦争にも使える頑丈な車両を作る技術を蓄えたことはその後のマーモン・ヘリントン社の運営においては強みとなりました。戦後もこうした特殊車両の製造技術を生かし、戦前からのお付き合いのあったアメリカ空軍やアメリカ海軍の空港に空港用消防車などを納入しました。

ただ、戦争は終結し、その後の軍需目的の車両の販売は目に見えて落ち込むことは容易に予想されたことから、同社は民間市場への復帰を目指します。そして1946年には、「トロリーバス」を製作して路線バスの市場に参入することを目論みます。

第二次世界大戦の終結は、既に軍用車両需要の急激な低下を招いていましたが、既に民間の乗用車製造には多数の会社がぶら下がっており、同社としては他社も参入し得ない車両製造の分野を模索していました。

そこで同社は、トロリーバスならば、マーモン社時代に蓄えていたアルミボディなどによる軽量化技術が生かせると考えたわけです。なお、この当時は「トロリーバス」よりも「トロリーコーチ」(trolley coaches) という呼び方のほうが一般的でした。

こうして、軽量なモノコック構造ボディや強靭なダブルガーダー式側板といった革新的な技術の採用が取り入れられたトロリーコーチが完成しました。そして市場に出された、この車両は、戦後の市場でベストセラーとなり、北米の多くの都市のバス会社で採用されるようになりました。

知られているなかでも特に多数を購入したのが、シカゴとサンフランシスコであり、シカゴでは、1951年から52年にかけて1度に349台もの大量の車両が納入されました。

そのほかにも米国内16都市にトロリーバスを供給し、ブラジルの2都市へも販売するまでになり、トロリーコーチといえば、マーモン・ヘリントン社と言われるまでになりました。こうした同社によるトロリーバスの製造は1946年から1959年まで続き、総計1624台の車両が生産されました。

米国内の路線から退役したマーモン・ヘリントン社製のトロリーバスの中には、中古車としてメキシコに販売されるものもあり、これらは1960年代末から1970年代末にかけて同国内のあちこちで使われていました。

Dayton 515 (1949 Marmon-Herrington). Photo by Steve Morgan.1949年製 マーモン・ヘリントン TC48 トロリーバス

しかしトロリーバスは、架線下においてしか走れないため、道路交通量の増加とともに走行に困難をきたすようになり、また性能の良いエンジンを持った大型のバスの開発が進んだことなどから、順次廃止されていきました。

こうして最初は高級車、次に軍事用車両、そしてトロリーバスと、製造車種を次々と変えて生き残ってきた同社は、また苦境に立たされるようになりました。

このため、1960年代初めには、ついにハイアット・ホテル・グループの経営者一族である、プリツカー家に買収されてしまいました。間もなく完成車製造の分野から撤退し、それまでも継続していたトラック製造における設計部門は「マーモン」ブランドを使用する新会社、マーモン・モーター・カンパニーへと売却されました。

奇しくもこれは、創業当初の会社名と同じ、ということになります。一方のマーモン・ヘリントン社は、1964年にマーモン・グループという、グループ企業の一員となりましたが、同社は現在でも2輪駆動の商用トラックを4輪駆動に改装する、という同社が創業当時にやっていたような事業を継続しています。

しかし、それと並行して重量車両用のアクセルを製造するなど多角化も進めており、長年軍部に車両を提供したこともあり、同社製のアクセルは最新の軍用車両や商用トラックにも使用されているということです。

このほか、4輪駆動用改造キットの製造に加えて、中型や大型トラック市場向けの前輪駆動用アクセルやトランスファーケースを製造するようにもなりました。トランスファーケースは、4四輪駆動車にみられる部品であり、トランスミッションに接続され、エンジン出力をドライブシャフト(プロペラシャフト)を介して前後軸に分配するための機構です。

まさに老兵は死なず、といった具合で、同社は今も健在ですが、2008年には、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハに本部を置く世界最大の投資持株会社、バークシャー・ハサウェイが、マーモン・グループやマーモン・ヘリントン社を擁するマーモン・ホールディングスの過半数の株式を取得しました。このため、同社は現在このハサウェイの傘下にあります。

今日ご紹介したマーモン社は、アルミを用いた車両の製造技術や4輪駆動車の製造といった、時代を経ても褪せない技術の開発における先駆者ともいえる会社であり、こうした優れた技術を持った会社というものは、時代を超えて生き残るだけのバイタリティを常に持っている、ということがおわかりいただけたでしょう。

同じ自動車といえども、その時代時代のニーズをうまく読み取り、工夫をこらして新たな需要を生み出すような製品を創っていく、というのはどこの国のメーカーでもやっていることではありますが、100年以上の時間を経てなお生き残るというのはなかなかできることではありません。

今後日本のメーカーも見習うべきものがあるかもしれず、あまり知られていない会社ではありますが、その業態を改めて研究してみる、というのも良いのではないでしょうか。

かつてトラック製造などで不祥事を起こし、その反動で現在も低迷を続けているM自動車さんなどはとくに見習っていただきたいものです。

クリーブランドとロックフェラー

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写真は、アメリカ東部、5大湖の一番南にあるエリー湖のほとりにある、オハイオ州の町、クリーブランド(Cleveland)で1900年代初頭に撮影されたものです。

クリーブランドは、大西洋岸からはおよそ700~800キロ離れた内陸にありますが、エリー湖からその北東側にあるオンタリオ湖、さらにここからカナダ側へ抜け、セントローレンス川を北東へ進むと大西洋へ出ることができます。

またオハイオ州を南東部へと南下するオハイオ川は、その先でミシシッピ川と合流しており、ルイジアナ州まで続くこの川をたどれば、メキシコ湾へ抜けることも可能です。

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こうした位置関係から、早くから北米のあちこちにめぐらされた運河や鉄道の起点となり、豊富な水もあることから、工業都市として発展しました。かつてはオハイオ州最大の都市であり、全米でも上位10位以内に入る大都市でした。

冒頭の写真は、市の中央部を南北に流れエリー湖に注ぐ「カヤホガ川」という川の河口付近です。これが撮影された1900~1920年頃には既に川の両岸に工場が建ち並び、工業地帯を形成していました。

写っている船は、賑やかだったころのこの街から別の町へ旅立つフェリーと思われ、その右手に長々とあるのはそのターミナルを兼ねた鉄道駅でしょう。同じ場所を別の角度から撮影した航空写真が以下のものです。この写真の右端に橋のようなものが写っていますが、冒頭の写真はおそらくここから撮影したものと考えられます。

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クリーブランドは1776年のアメリカ独立から20年を経た1796年に、オハイオ州北東部のコネチカット州の「西部保留地」として建設されました。「保留地」というのは、このころのアメリカではまだ各州毎に自治権が確立しておらず、立場の強い州は他の州に利便の良い土地などの貸借を要求し、これを自州の都合の良いように使っていました。

コネチカット州というのは、ニューヨークの北に広がる大西洋に面する州ですが、なぜそんな州がクリーブランドのような内陸の地を所望したかといえば、コネチカット州のすぐ西側にはペンシルバニア州があり、これはもともとコネチカット州の一部でした。

しかし、広大すぎるためにこれを連邦政府が手放すように命じましたが、コネチカットの住民にとっては領地の削減になるわけで、大きな権益を失うことにもなります。このため、その見返りとして、エリー湖のほとりの交通や利水の良い便利な場所の租借を求めたもので、これが西部保留地です。

この権利はその後1803年にオハイオ州が独立した州として認められるまでは永続しましたが、とまれこの西部保留地は当初、コネチカット州所有の飛び地における中心地として発展することになります。

クリーブランドという地名はこのコネチカット西部保留地の管理会社として設立された「コネチカット土地会社」を率いていたモーゼス・クリーブランド将軍からつけられたものです。

その後この保留地はたいした開発もされず、10数年が過ぎていきました。しかし、1810年代初頭か入植者が住居を建て始め、1814年には正式な村になりました。

近隣が湿地性の低地で、冬の寒さが厳しいにもかかわらず、湖岸に位置するクリーブランド一帯は将来有望な土地であったため、1832年にオハイオ川とエリー湖を結ぶ運河が完成すると、急成長を遂げていくようになります。

上述のとおり、これにより、オハイオ川・ミシシッピ川を通ってメキシコ湾へ抜けることができるようになり、また、エリー湖・オンタリオ湖・セントローレンス川を通って大西洋へ抜ける航路が確立され、加えて鉄道が開通すると、クリーブランドの成長はさらに進んでいき、1836年にクリーブランドは市に昇格しました。

クリーブランドは、五大湖西に広がるミネソタ州で産出される鉄鉱石が、五大湖を航行する貨物船で運ばれてきた際の積み下ろし地でもありました。また、オハイオ州南部にはアパラチア山脈があり、ここでは鉄鉱石が採れたため、これが鉄道で運ばれ、同じくクリーブランドに集積されました。

そしてクリーブランドからはさらにボストン、シカゴやデトロイトへとこれらの物資が出荷されましたが、こうした好立地条件からクリーブランドでも次第に鉄鋼産業や自動車産業などの重工業が発達するようになり、アメリカ北東部における、工業の中心地のひとつになっていきました。

冒頭の写真が撮影された1900年代初頭のクリーブランドは80万人近い人口を抱え、560万のニューヨーク、270万のシカゴ、180万のフィラデルフィア、100万のデトロイトに次いで全米第5の都市になりました。

1936年と翌1937年の夏には、クリーブランド市制施行100年を記念して、エリー湖畔でグレート・レイクス博覧会が開催され、世界恐慌のすぐあとにもかかわらず、この博覧会は1936年の第1シーズンには400万人を、1937年の第2シーズンには700万人を動員しました。

第二次世界大戦の終戦後も発展が続きましたが、この時代では文化の面での成長も著しく、スポーツにおいては、アメリカMLBのクリーブランド・インディアンスが1948年のワールドシリーズで28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いたほか、1949年には、オール・アメリカ・シティ賞の第1回受賞都市に選ばれました。

実業界においてもクリーブランドは「全米で最も元気な土地」とされ、1950年には市の人口は90万人のピークに達し、全米でも第7の規模でした。しかし、1960年代に入ると市の経済を支えていた重工業は衰退し始めていきました。

他州の著しい技術開発についていけず、それまで市の経済を支えてきた製造業の地位が相対的に低下してきたためで、このため従来工業が市の基盤を支えていたものが、商業や金融業、サービス業が市の経済の主体となっていきました。

ところが、その後さらに悪いことに、連邦最高裁判所がクリーブランドの学校に差別撤廃のためにバス通学を義務付けました。黒人と白人を同じバスに乗せて学校へ行かせることが平等だとする命令であり、これが市の衰退をさらに加速させていく要因となりました。

元よりオハイオ州は南北戦争でも北軍側についた州であり、後にオハイオ州出身の退役軍人から5人のアメリカ合衆国大統領が出たほどですが、従来の繁栄は白人が築いたものだとする気風が強く、黒人蔑視の風潮は根強く残っていました。

この「強制バス通学」に反発した白人住民は、次々と郊外へと移り住んでいくようになり、これはいわゆるホワイト・フライトと呼ばれる現象です。このころ全米の多くの主要都市で見られたもので、クリーブランドでも例外ではありませんでした。

一方では、都市が“無秩序に拡大”していく「スプロール現象」も顕著になり、1960年代には暴動が頻繁に起こるようになり、1968年には白人と黒人の間で銃撃戦まで起こりました。こうした暴動はいずれも市の東側に位置し、アフリカ系の住民が多い地域で発生しました。

1969年には、カヤホガ川の水面に流されていた産業廃棄物のオイルに引火したことが原因で大規模な火災も発生し、このころまでには財政も逼迫し、さらには地元スポーツチームも不振といった具合に、クリーブランドはボロボロでした。やがてメディアはこのまちをThe Mistake on the Lake(湖岸の落ちこぼれ)と呼ぶようになっていきます。

しかし、それ以後、市はその汚名を雪ぐために手を尽くし、近年では官民共同でダウンタウンの再建にあたり、都市再生が進みました。都市圏全体の見直しが進められ、とりわけダウンタウンの再生は目覚しいものがあり、1994年には大規模な競技場が完成しました。

かつては港湾施設で占められていたエリー湖岸の地区には「ロックの殿堂」や科学センターといった娯楽施設・文化施設が建つようになり、こうした復活をみたメディアは、いつしかクリーブランドをComeback City(復活の街)と呼ぶようになりました。

2005年のエコノミスト紙の調査では、クリーブランドはピッツバーグと並んで、全米で最も住みやすい都市の1つに挙げられており、また同年の別の号では、同誌はクリーブランドをアメリカ合衆国本土48州で最もビジネスミーティングに適した都市として挙げられるまでになりました。

現在もその復興は続いています。が、その一方で、ダウンタウン近隣の住宅街、インナーシティの治安は依然として軒並み悪く、また市内の公立学校システムは重大な問題を抱えたままのようです。

とはいえ、市では、経済成長、若いプロフェッショナル層の確保、ウォーターフロント地区の有効活用による収益向上の3つを優先度の高い事項として挙げ、さらなる発展を目指した改革を進めています。

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ところで、クリーブランドと言えば、アメリカのレジェンドともいわれ、スタンダード・オイルを創設して億万長者になった「ジョン・ロックフェラー」は、この街で成功し、富を築き上げました。

スタンダード・オイル社はアメリカ初のトラスト(企業合同体・財閥のようなもので、現在は違法とされる)を結成することで、石油市場を独占し、これを率いたロックフェラーはアメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となりました。インフレーションを考慮すると、史上最高の富豪とされています。

引退後も40年間生き続け、その間資産の大部分を慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に費やし、医療・教育・科学研究促進などを目的とした「ロックフェラー財団」を創設したことでも有名です。

彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症(こうちゅうしょう・寄生虫病の一種)や黄熱病の根絶に貢献しましたが、その研究所で日本の野口英世が働いていたことは有名な話です。また彼は、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供するなど、教育の普及の上でも多大な貢献をしました。

ただ彼と競合した人々の中には破産に追い込まれた者も少なくなく、寡占もしくは不公正な商習慣の追求の直接の結果として、石油産業を支配して莫大な私財を蓄えた実業家、というレッテルも常について回ります。こうした実業家や銀行家のことをアメリカでは軽蔑的な意味合いをこめて「泥棒男爵」と呼びます。

伝記作家のロン・チャーナウという人は、「彼の良い面はとことん良く、悪い面はそれと同じくらい悪かった」と述べており、また「史上これほど矛盾した人物は他にいない」とも書いており、後世の評価はさまざまです。

これだけいろいろ慈善事業を行っておきながら、このように批評が分かれる理由は、ひとつは彼が容赦ない方法で「商敵」を潰していったこともありますが、その蓄えた資産の大きさが膨大なものであることによる、ひがみややっかみもあるでしょう。

例えば1902年のアメリカのGDPは240億ドルでしたが、同年のロックフェラーの資産は約2億ドルに達していたといい、彼が1937年に亡くなった時点で、当時のアメリカのGDPが920億ドルだったのに対し、ロックフェラーが家族へ残した遺産は14億ドルと見積もられています。

この額は現在の価値に換算しても、近現代史上最も大きな額であり、ビル・ゲイツもサム・ウォルトンも遠く及ばないものです。

その長い一生(満97歳没)を追うことは簡単ではないのですが、今日のテーマであるクリーブランドに関連したことを中心になるべく簡潔にまとめておきましょう。

ロックフェラーは、ニューヨーク州リッチフォードで、1839年7月8日に生まれました。父のウィリアムはかつて林業を営んでいましたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」を名乗って白樺から抽出した健康飲料のようなものを売り歩いていたようです。

家には闖入者のように時折帰ってくるだけで、生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だったといいます。しかし、母のイライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘しました。

夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあったといい、家に十分な金を入れるでもなく、母子は常に貧乏でした。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだといい、若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けました。

奔放な父の性格のため、一家はあちこちを転々としましたが、ロックフェラーが14歳のとき、彼等はクリーブランド近郊のストロングスビルに移りました。

彼はここのクリーブランド中央高校で学びましたが、その後商業専門学校でも10週間のビジネスコースを受講しました。ここで簿記を学んだことが、その後の商売に生かされるようになりましたが、早くから算術と経理の才能を持っていたようです。

ロックフェラーは父に似ず、行儀がよく、真面目で勉強や仕事に熱心な少年だったといい、さらに信心深く几帳面で分別があったと、当時の彼を知る人は評しています。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できたともいい、また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていました。

16歳のとき、クリーブランドの製造委託会社で簿記助手の職を得ると、長時間働き、すぐにそのオフィスの仕事の全てに精通するようになりました。このころから既に対価として得た給料の約6%を寄付を始めており、20歳のころまでにはその額も増し、10%をバプテスト教会に寄付するようになっていたといいます。

おそらくは敬虔なクリスチャンであった母の影響であったと思われ、キリスト教の教えである人に分かち与える、という精神が子供のころから身についていたのでしょう。とはいえ、金銭に対する執着はそれなりにあったようで、このころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたといいます。

そしてそれはほぼ実現しました。ただ、目標をはるかに超える大きな金額を貯めることができたことと、100歳までには3歳ほど足らなかったことだけが誤算でしたが。

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18歳のロックフェラー(1857年ごろ)

こうして製造委託会社で貯めた金をもとに、20歳になったロックフェラーは、資本金4,000ドルで友人のモーリス・B・クラークとともに、自らも製造委託会社を設立しました。

食料品の卸売りからはじめましたが、やがて着実に利益を上げるようになり、4年後には新たな投資ができるまで発展し、当時クリーブランドの新興工業地域に建設された製油所にその金を投資しました。

ちょうどこのころは石油産業の勃興期であり、その背景には、それまで工業用燃料として使われていた鯨油がクジラの乱獲によって減り始め、高価すぎる燃料となってきていたことがあげられます。より安価な燃料が必要とされていた時代であり、ロックフェラーはまさに時代の潮流に乗ったわけです。

このころ、ロックフェラーは、共同経営者のクラークと対立するようになっており、製造委託会社の持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、それで得た金で共同で持っていた精油事業の株をクラークから改めて買収しました。

その買い取った権利を基に、別の共同経営者に今度はアンドリュースという化学者を選び、ロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立しました。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、この会社は順調に推移し、彼は多額の借金をしては投資し、得た利益を再投資しては資産を増やしていきました。

25歳のとき、ロックフェラーは、地元クリーヴランドで、教師のローラ・セレスティア・スペルマンと結婚しました。5人の子を授かりましたが、うち4人は娘で、末っ子だけが男でした。この1人息子ジョンは、のちにロックフェラー2世として知られるようになる人物です。

ロックフェラーは地元のバプテスト教会の熱心な会衆の1人で、日曜学校で教え、評議員や教会の事務を務め、時には門番役も買って出ていました。生涯にわたって信仰を行動指針とし、それが自身の成功の源泉だと信じていたといい、「神が私に金を与えた」とも言っており、蓄財を恥じることはありませんでした。

イングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジョン・ウェスレーの格言「得られる全てを得て、可能な限り節約し、全てを与えなさい」を信条としていたともいいます。

その2年後の1866年、弟ウィリアムもまたクリーブランドに別の製油所を建てたため、ロックフェラーは、この弟ともパートーナーシップを結び、さらにその翌年には、ヘンリー・M・フラグラーがパートナーに加わりました。このため、会社は「ロックフェラー・アンド・アンドリュース・アンド・フラグラー」という長ったらしい名前になりました。

その2年後の1868年、ロックフェラー29歳のときにこの会社は、クリーブランドの2つの製油所とニューヨークの販売子会社を持つようになり、ついにこの当時世界最大の精油会社となりました。そしてこの会社こそが後のスタンダード・オイルです。

そのころまでには南北戦争が終わっており(1865年)、クリーブランドはピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、原油の大部分を産出していたペンシルベニア州北部と共にアメリカの石油精製拠点のひとつになっていました。

1870年、ロックフェラーらはスタンダード・オイル・オブ・オハイオを結成し、ここで初めて「スタンダード・オイル」の名が世にでました。同社はすぐにオハイオ州で最も高収益な製油所となっていき、アメリカ屈指のガソリンやケロシン(灯油、ジェット燃料などに使われる)の生産量を達成するまでに成長していくようになります。

その後、ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などのあらゆる手段を駆使して事業を強化していきました。

スタンダード・オイルは徐々に水平統合を達成し、それによってアメリカでの石油の精製と販売をほぼ支配下におさめました。1882年ごろには、アメリカ国内に2万の油井、4千マイルのパイプライン、5千台のタンク車、10万人以上の従業員を抱える巨大帝国となっており、石油精製の世界シェアは絶頂期には90%に達しました。

John-D-Rockefeller-sen1875年ごろの写真

しかし、1880年代後半になるとその勢いにも陰りがでてきました。この当時まだ世界の原油の85%はペンシルベニア産でしたが、しだいにロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始め、ビルマやジャワでも油田が発見されました。さらに白熱電球が発明され、照明目的で灯油を燃やすことが減っていきました。

このため、1890年代に入るとロックフェラーは鉄鉱山と鉄鉱石の輸送などの事業に事業拡大の矛先を向けるようになります。このため鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと衝突するようになり、新聞などで彼らの対立がよく報道されるようになりました。

この時期に、ロックフェラーは引退を考え始めていたようで、日常の経営は側近に任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入し、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになりました。

1911年、72歳になったロックフェラーは、まだ名目上とはいえ、社長の肩書きを保っていました。しかし、このころにはアメリカも、自由競争の結果発展した大企業を放任することが、むしろ逆に自由競争を阻害するという考え方が主流を占めるようになっていました。

そしてこの年ついにアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイルをシャーマン法(アメリカの独占禁止法)に違反しているとの判決を下します。

最高裁は同社が形成したトラストが不法に市場を独占しているとして解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割されることとなりました。解体された時点でロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していましたが、彼も含め株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合のぶんだけ得るところとなりました。

こうしてロックフェラーの石油業界への影響力は減退しましたが、その後10年間で分割された各社も大きな利益を上げ続けたため、その株式から多大な利益を得ることができました。それらの価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がったため、ロックフェラーの個人資産は会社分離前より更に大きい9億ドルにまで膨れ上がりました。

上で述べたとおりそうした膨大な資産はかなりの額が慈善事業として医学研究や教育に費やされましたが、多くは内部留保され、のちに遺族に受け継がれました。晩年のロックフェラーは、どこへ行っても大人には10セント硬貨、子どもには5セント硬貨をあげることで知られるようになったといい、時にはふざけて友人の富豪にも硬貨を与えたといいます。

しかし、ついにその人生の最後を迎えることになります。最晩年は動脈硬化を起こしていたといい、それが原因で、1937年5月23日、98歳の誕生日の2カ月前に、フロリダ州オーモンド・ビーチの自宅で亡くなりました。

ロックフェラーは自らの一族に莫大な生前贈与を行っており、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアには多くを与えました。結果、一族は20世紀のアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一家となりました。

ロックフェラーの孫デイヴィッド・ロックフェラーはチェース・マンハッタン銀行のCEOを20年間務めました。同じくロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーは、ジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任し、もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事に就任しました。

彼の遺体は、その後、オハイオ州クリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬されました。市の東側に位置している墓地であり、クリーブランドの屋外博物館と見なされています。無宗派墓地として全ての人種、宗教、生き方の区別無しに開かれており、これまでに合わせて107,000人以上が埋葬されています。

エリー湖が北側にあり、名前通りに湖を眺望する事ができます。1881年に暗殺された第20代アメリカ合衆国大統領、ジェームズ・ガーフィールドの記念館は墓地内で最も有名な記念碑であり、そのすぐ近くには、大理石でできたロックフェラー家の記念碑も建っています。

クリーブランドを興したロックフェラーとの強い結びつきを示す記念碑でもあります。

Garfield_Memorial_2013-09-14_17-58-11ガーフィールド記念館

OLYMPUS DIGITAL CAMERAロックフェラー家の記念碑

空飛ぶ要塞 B-17

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写真は、「空飛ぶ要塞(Flying Fortress)」と呼ばれた、アメリカ空軍の四発重戦略爆撃機B-17です。

1935年にアメリカ合衆国のボーイング社が開発した飛行機で、第二次世界大戦では、初期の太平洋戦域や、中期までの北アフリカ・地中海・フランスでの偵察と戦術爆撃、そして後期1943年半ばからのドイツ本土への戦略爆撃に本格的に運用されました。

特にドイツ本土爆撃でドイツの工業力を空から喪失させ、ヒトラー政権とナチスドイツを敗北へ追い込み、その高々度での優れた性能と強い防御力はドイツ空軍を大いに悩ませました。

建造が決まった1930年代初頭には、沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用とする、より機動力のある飛行機にする予定でしたが、1934年になって計画変更となり、敵国の飛行機よりも、むしろその飛行機を製造する工業組織を目標にすることが重要視されるようになり、「護衛なしでやっていける」爆撃機をめざして開発が行なわれることになりました。

こうして1934年8月8日、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機だったマーチンB-10(双発機)の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した「多発爆撃機」を製造するようボーイング社に対して正式な要請が出されました。

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この当時はまだ日本やドイツとの戦争は始まっておらず、その配備の目的はアラスカ、ハワイなどアメリカの沿岸地域を防衛することでした。しかし、第二次世界大戦参戦以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能の爆撃機を保有する事については議会・納税者からの反対が根強かったといいます。

そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である」という名目の下、「空飛ぶ要塞」と命名されました。列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することがその念頭にあったといいます。

その開発にあたってボーイングの技術者たちに課されたのは、敵国の工場を目標にするにあたり、「長距離を飛ぶ」ことができ、しかも「護衛を要しない」爆撃機にする、という点でした。

まず最初の長距離を飛べる、という点をクリアーするためには、まず燃費をよくすることが必要です。このために、流体力学的に優れた突起物の無いスマートな機体を製造することなどが試みられました。

B-17の機体ラインは非常に滑らかな曲線と直線で構成されており、後には多数の機銃を装備したいかにも「要塞」らしい様相を呈するようなりますが、こうした凸凹を持たない初期の機体ラインは流麗そのものでした。

また、長距離を飛ばすための仕組みとしては、爆撃機として世界最初の「排気タービン」が採用されました。

排気タービン式過給器は、エンジン排気という余剰エネルギーを利用して、エンジン内に大量の空気と燃料を強制的に送り込む装置であり、空気の薄い高高度で飛行する際、ピストンエンジン(レシプロエンジン)の出力を確保するのに必要不可欠でした。

このエンジンを採用することで、ドイツや日本が保有する航空機よりもより高い高度を飛ぶことができるようになり、その後の開戦において、日独の空軍は、高高度から侵入するこうしたアメリカ軍の爆撃機の迎撃に非常に苦労しました。

この過給機を装備したことにより、B-17の高空性能は従来機に比べて大幅に改善されました。この技術は、後に自動車においても、いわゆる「ターボ」として応用されるに至っています。しかし、課題である燃料消費量は十分に克服することができず、このため重くなることを覚悟で大容量の燃料タンクを備えることでこれに対処しました。

次いでの「護衛を要しない」については、まず試作機では機銃が5丁も搭載されました。しかしこれでも足りないと判断され、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備するようになっていました。

護衛機にその防御を期待しない航空機を目指したため、機体主要部には重厚な防弾板が施され、これにより優秀な防弾能力・耐久力を持つようになり、その能力は敵の戦闘機の小火器程度での撃墜を困難にしました。

ただ、当初の防弾処理はまだ未熟であり、初期の開発段階ではイギリス空軍のハンドレページ ハリファックス爆撃機と比較して劣るような内容でした。このため改良に改良を重ね、太平洋戦争突入直前にはより重厚な防備がなされるようになりました。

こうした開戦直前から生産が開始されるようになったB-17・E型の防備能力は、戦争を通じてさらに大幅に強化され、また多数の同機を密集させ、編隊飛行させることでより防御火力の濃密化が図ることができました。
かなりの重装備が施されたことから、その総重量は25~29 tにも達しましたが、そのかわり最大速度は従来機のB-10の343km/hを大幅に超える426 km/hを達成し、2700 kg以上の爆弾を満載しての航続距離3219 kmを実現しました。

なお、B-17では従来型の照準器に改良を加え、新たな爆撃照準器も開発されましたが、この照準器は補正外の風や敵の投弾妨害によってあまり命中精度は良くなかったとも言われています。

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こうして次々とドイツ上空や太平洋上に向かってB-17は飛び立っていいきましたが、第二次大戦の開戦後に使用されたのは、「フォートレスII型」とされる上述のE型や、さらにこれを改良したF型こと、「フォートレスIII型」などでした。

アメリカの参戦後は主力爆撃機として活躍。主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事しました。当初は、北アフリカに進出したドイツ軍の掃討などに兵力が分散されたため、ヨーロッパ内での本格的な爆撃作戦には参加しませんでしたが、1943年ごろからは、欧州内の昼間爆撃が本格化しはじめました。

フランスへの近距離爆撃で経験を積んでから、次第にドイツ本土への爆撃にも出撃するようになっていきましたが、その後戦闘を重ねるにつけ、いくら防御性能に関する改良を重ねても「護衛なし」という点だけは達成できないことが判ってきました。

このため、出撃にあたっては護衛戦闘機をつけることが多くなりました。ところがこのころ護衛戦闘機の多くはB-17に比べて航続距離が充分ではなかったため、やむを得ず爆撃機だけで編隊を組んで出撃することも多く、このためドイツ迎撃戦闘機により多数の損害を受けました。

1943年ころには10%を越える損害を出ていたといいます。しかし、B-17の編隊は密集隊形で濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害し、ときには逆に戦闘機を撃墜することもありました。

また、B-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体であるため、エンジンがひとつや二つが止まっても、機体や翼が穴だらけになっても母基地のあったイギリスまで帰ってきたものが多数ありました。

撃墜されるということは、それだけ多くの搭乗員を失ってしまうことになり、たとえボロボロになっても搭乗員を連れ帰ることができるということは非常に重要でした。また、傷だらけになったB-17も補修をすれば再飛行が可能になるものも多く、戦力の消耗を防ぐことができるという意味でも非常に優秀な飛行機だったといえます。

しかも、1944年以降は、より長距離を飛ぶことができるP-51マスタングのような優秀な戦闘機が護衛として随伴するようになり、これによってB-17の損害は一気に減少していきました。

こうして、B-17は次第に多くの戦果をあげるようになり、都市への夜間爆撃を担当したイギリス軍のランカスター爆撃機以上に、ドイツの継戦能力を削ぐ立役者となりました。しかもその都度乗員たちを無事に基地に連れ帰ってくれるB-17は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名をも授かるようになりました。

このアメリカのB-17とイギリスのランカスターだけで、第二次世界大戦中に実に約60万トンの爆弾を投下したといわれており、これによってヨーロッパ戦線での形勢は次第に連合国側に有利になっていきました。

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一方、太平洋では日本軍との戦いが始まっており、ここにもB-17が投入されるようになりました。主にアメリカの植民地のフィリピンや、同じ連合国軍のオーストラリアに配備され、太平洋戦争中期まで活動しました。

ただ、太平洋戦線が始まった1941年当時は、アメリカ軍をはじめとする連合国軍は日本軍に押されっぱなしで劣勢だったこともあり、B-17もヨーロッパ戦線のような活躍は出来ませんでした。

このため、フィリピン、マニラ近郊のコレヒドール島などでB-17CやB-17Dなど複数の機体が日本陸軍に完全な形で鹵獲される、といったことも起きました。鹵獲(ろかく)とは、敵から奪った兵器をそのまま自軍の兵器にしたり、改良や改造を施して使用することです。

P-40ウォーホークやハリケーン、バッファロー、ロッキード・ハドソンなどの戦闘機も多数鹵獲されており、こうした機体は、日本軍によって南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用されたほか、内地の陸軍飛行実験部に送られ研究対象にされました。

また、「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、羽田飛行場での鹵獲機展示会で展示された後、全国を巡回展示されたものもあったといいます。

このほか戦意高揚映画として製作され、1942年10月に公開された「翼の凱歌」では、映画の終盤において、鹵獲されたB-17が日本の戦闘機に攻撃される、といった戦闘シーンに使われました。

その後、戦争も中盤になるにつけ、次第に戦力を回復してきたアメリカは、日本が占領した各地にこのB-17で爆撃をしかけるようになり、日本軍もこの爆撃機に手を焼くようになります。

海軍が誇る主力戦闘機であった零式艦上戦闘機隊ですら、かなりてこずったようです。しかし、その後鹵獲された機体を飛ばし、これを教材として訓練を重ねた結果、次第に接近戦に持ち込めば撃墜する可能性もあることなどがわかってきました。

ただ、それにしても相当の反復攻撃を加えなければ落とせない爆撃機であることも判明し、その対応に日本側は苦慮したといいます。

ガダルカナル島攻防戦の第一線にあった、この当時の第六海軍航空隊の隊長は、零戦対B-17の対決を以下のように記しています。

「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。」

「撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。」

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その後、アメリカ空軍は、太平洋南東のパプアニューギニアにある「ポートモレスビー」を主たる基地として反撃をはじめ、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対してB-17による爆撃を加えるようになりました。しかし、その後1942年から1943年になると、B-24がこの爆撃に参加するようになりました。

このころB-17は既にアメリカ陸軍の主力重爆撃機として定着し、その並外れた堅牢性で高い評価を受けてはいたものの、航続距離の短さが難点でした。

爆弾を満載して3200 km以上を飛べるというのはたしかに優れた性能ではありますが、行った以上は帰ってくる必要があるわけで、その半分の1600kmは太平洋のあちこちに散らばる日本軍の拠点を叩くためには不十分でした。

これに対してB-24はもともと飛行艇をベースに開発された輸送機であり、堅牢性ではB-17には劣りましたが、航続距離に優れ、その太い胴体断面を生かし、爆弾搭載量でも2300kg を積むB-17を凌ぎ、2700kgを積むことができました。それでいて航続距離およそ4200kmは大幅にB-17を超えていました。

この大きな機内容積と長い航続距離の組み合わせによって、B-24は高い汎用性を持つところとなり、このため次第にB-17装備部隊は順次B-24に改編されるようになり、より航続距離の短くて済む他方面に転出していきました。

さらに戦争後半になると、B-17の後継とみなされ、同じくボーイング社が開発し、超空の要塞(スーパーフォートレス、Superfortress)」と呼ばれたB-29が戦場に投入されるようになりました。

これにより、偵察や救難などに従事している機体を除きB-17はその姿を次第に消していき、偵察や救難などに従事していた機体もまた日本本土空襲を行うB-29の支援などを行うだけになっていきました。

しかし、第二次世界大戦を通じてのB-17はもっとも活躍した航空機のひとつといえます。戦中だけでなく、戦後も継続生産されて輸出され、こうして生産されたB-17各型の総数は12731機にのぼり、これは戦争後段で活躍したB-29の生産数3970機の3倍以上にもおよびます。

戦争中や戦争終結後も、アメリカやイギリス以外の国において配備され、これらは鹵獲に用いた日本やドイツを除いても19ヵ国にも及びます。ちなみに、この中には中華民国や
旧ソビエト連邦も含まれています。

が、戦後70年を経て現存する数は少なく、アメリカ本土では、ワシントン州の Museum of Flight に B-17F が、カリフォルニア州の Planes of Fame Air Museum に B-17G が2機展示されているのみです。

多くの日本人の命を奪ったであろう飛行機であり、爆撃機という忌まわしい戦争に使われた武器ではありますが、その美しい機体の永久保存を望みたいところです。

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ニューヨーク港 1901年

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「ニュ-ヨーク港」とよく一口に言いますが、かなり広範囲に広がる港湾区域を指し、ぱっとすぐにその位置が言えるような単純なものではありません。

東京湾にある「東京港」は、湾岸一帯の地区をさしますが、ニューヨーク港の場合は、川やラグーンが複雑に入り組んでいて、その港湾空域は、ハドソン川河口近くにある川、湾および干満のある入り江などを指し、これらを集合的に「ニューヨーク港」と呼んでいます。しかし、アメリカ合衆国地理命名局では「ニューヨーク港」という言葉はありません。

とはいえ、歴史的、政治的、商業的にも「ニューヨーク港」と一括して使われることも多い呼称であり、一般に、ニューヨーク港という場合、主に以下の7つのエリアを指します。

1.ハドソン川
2.イースト川
3.ロングアイランド湾
4.ニューアーク湾
5.アッパー・ニューヨーク湾
6.ローワー・ニューヨーク湾
7.ジャマイカ湾

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ローワー・ニューヨーク湾の外には広い海原が広がり、これは大西洋です。その先およそ3000海里、5600kmの海路を経て、ヨーロッパ大陸に至ります。

逆に外海から湾内に入ってくるとそこには複雑な港湾区域が広がっており、これらの各地区には「水路」がめぐらされていて、ニューヨーク港はこれによって成り立っているといっても過言ではありません。その水路面積は、現時点で約1200平方マイル (3100 km2)に及び、また海岸(河岸)線の総延長は、1000マイル (1600 km)以上に及びます。

ニューヨーク市のすぐ西隣はニュージャージー州となっていて、その港湾区域の一部は同州の一部にもなっており、ニューヨーク市5区とニュージャージー州近郷都市の岸辺を含んだものがニューヨーク港であり、時には「ニューヨーク&ニュージャージー港」といった表現もされることもあるようです。

このため、ニューヨーク港には12の個別に活動する港湾施設がありますが、これはニューヨーク州とニュージャージー合同で創設された港湾公社の港湾施設として管理運営されています。

合衆国では最大の石油輸入量と2番目のコンテナ取扱量を誇っています。しかし、近代における航空機の発達により、ニューヨーク港は旅客輸送の点では重要性を失ってきました。

このため、かつてのように大西洋を渡ってヨーロッパへ船出する旅客船などはめっきり減りましたが、それでも今なお、ニューヨーク市域を巡る幾つかの定期航路が生き残っています。

このほか、通勤用フェリーおよび観光客用周遊船もニューヨーク港内を巡っており、最近、ブルックリンのレッドフックには新しい旅客施設も開館しました。これらのフェリーは大半が私企業によって運営されています。(但し、スタテンアイランド・フェリーはニューヨーク市運輸局が運航)。

なお、ニューヨーク港を管理する港湾公社は、ニューヨーク市にある、ラガーディア空港とジョン・F・ケネディ国際空港、とニュージャージー州川のニューアーク・リバティー国際空港の主要3空港を運営しており、現在では船による旅客収入よりもこちらの空の港から得る収入のほうが多くなっているようです。

このニューヨーク港の歴史ですが、その昔、17世紀には先住民族であるレナペ族とう部族が住みついており、彼らが漁労や移動のために築いた、小さな水路がありました。これを港といえるかどうかはわかりませんが、ここを最初に訪れたと記録があるのが、現在ハドソン川にその名を残すヘンリー・ハドソンです。

イングランドの航海士、探検家で、北アメリカ東海岸やカナダ北東部を探検しました。ハドソン湾、ハドソン海峡、ハドソン川は彼の名にちなみますが、ハドソン湾発見後に、乗組員の反乱に巻き込まれ、そのまま消息不明となりました。

ハドソンがニューヨークを発見したのは1609年のことで、その後15年経た1624年から本格的な恒久的開拓地が始められました。間もなくこれらの場所の間を渡し舟が結ぶようになり、イーストリバー下流のマンハッタンの岸に風や氷から守るために桟橋が築かれました。

この桟橋は1648年に完成しており、ここはその後1783年にアメリカ合衆国が独立したあとに本格的に拡張されるようになり、現在のニューヨーク港の礎となりました。

1824年、アメリカでは初めての乾ドックがイーストリバーに完成し、ここで外洋にも出ることのできるような高性能の蒸気船が建造されるようになると、急速にニューヨーク港は発展していきました。続いて1825年のエリー運河の完成で、ニューヨークはアメリカ内陸部とヨーロッパおよびアメリカ東海岸を結ぶ最も重要な中継港にもなります。

1840年頃までに、ニューヨーク港を経由する旅客と貨物量はアメリカ全土の他の主要港を合わせたよりも多くなり、1900年までに世界でも最大級の港となりました。

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冒頭の写真は、ちょうどそのころのものであり、手前右側に停泊している2隻は帆船です。が、その後ろの倉庫群の合間には、蒸気船の煙突が数多く見て取れるほか、湾岸道路沿いに古式ゆかしい荷馬車が多数行き来しています。

その向こうに見えるのはイースト川に架かる1883年に完成したブルックリン大橋のようであり、その位置関係からこの写真は、ニューヨーク港南側のアッパー・ニューヨーク湾付近から北西側に向けて撮影されたものと推定されます。

このころニューヨーク港が急速に発展していったことを想像できる活気のある写真であり、これが撮影されたとされる1900年を挟み、1892年から1956年の間にはヨーロッパから1200万人もの移民がニューヨークに到着したとされています。

その後、ニューヨーク市内には次々と道路がつくられましたが、こうした主要道路の建設によって効率的な輸送が行われる前には、外部から着た貨物は水路を通って渡し舟で市内各地に運ばれていました。

これと同時にアメリカ大陸内には東部を中心に鉄道網が張り巡らされるようになってきており、内陸から運ばれてきた綿花や麦といった農作物はこれらを輸出するために列車を使ってニューヨーク港に集積されました。

こうした列車から積み出された貨物を転がして効率的に船積みできるよう甲板にレールを敷いた「列車いかだ」といった、小さな船が考案され、これを湾上に並べて船までリレーする「小船隊」などが開発されました。

また、大きな船は水路を鋭角に回る時に小型船の助力を必要としたため、これを助ける「タグボート」が考案され、さらには河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するため平底の船舶がつくられるようになりました。これは現在「艀、(はしけ)」として知られているものです。

さらに、総計240マイル (380 km)にも及ぶ狭い水路を通り、ニューヨーク港内の奥にまで大型船舶を航行させるためには、水先案内人が必要となります。

多数の船舶が行き交う港や海峡、内海において、それらの環境に精通することが困難な外航船や内航船の船長を補助し、船舶を安全かつ効率的に導く専門家のことで、現在では国家資格である、水先人免許の取得が義務付けられている職人です。

現在における水先人は、港や狭い水路に近付いてきた大型船か、またはこれから離岸する大型船に直接乗り込み、船橋に立ってその船の行先を誘導することが職務です。このためには、小型船で目的の船まで移動しなければならず、この行き帰りに使用する小型船を「水先案内船」(パイロット・ボート)と呼びます。

しかし、この時代にはまだこうしたパイロット・ボートは自らが先を航行し、大型船を先導して安全な航路に誘導していました。その多くは下の写真のように帆船であり、この写真でもわかるように、ひと目でどこの所属かわかるように番号や記号などがその帆に描かれていました。

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パイロット・ボート

その後ニューヨーク港は、第一次、第二次大戦を経て、大西洋を横断する物資の集積地として発達していきましたが、港の活動はこの第二次大戦のころがピークであり、750の桟橋に425隻の外洋型船舶が横付けし、500隻以上が港内に停泊して係船への割付を待っていました。

港内各所には1100の倉庫と1.5平方マイル (3.8 km2)という広大な荷捌きヤードを擁し、575隻のタグボートと39箇所の造船所があったと、記録にはあります。また、1801年にはニューヨーク海軍造船所が建造されており、ここで生み出された数々の軍艦もニューヨーク港内にその威容を示していました。

ところが、この隆盛を極めていたニューヨーク港は、二次世界中、ドイツのUボートによる度々の攻撃を受け、大きな被害を出しました。1942年の1月から8月にかけ、ドイツ側の作戦名「ドラムビート」作戦においては、明確な総数はわかりませんが、おそらくは20隻以上のUボートが、3度にわたって、ニューヨーク港を襲いました。

これに先立つ1940年から41年にかけて、Uボートはイギリスやフランスの港湾を襲撃し、多数の商船を沈没させており、ドイツ海軍には大きな被害もなく、極めて戦果が大きかったことから、この作戦は連合国側からは「第一次ハッピータイム」と呼ばれました。

これに次ぎ、大西洋を渡ってニューヨーク港を襲撃し、第一次以上の戦果をあげたこの作戦は、「第二次ハッピータイム」と呼ばれました。Uボートの艦長はニューヨークの町の灯りを背景にして浮かび上がる標的船に容易に狙いを付けることができ、港内にアメリカ海軍の艦船が集中していたにも拘らず、少ない損失で攻撃を実行することができました。

この三波に渡る攻撃による被害は膨大のものとなり、この間に失われた貨物量は、第二次世界大戦を通じてニューヨーク港で扱われた総貨物量のおよそ4分の1にも達しました。最初の攻撃だけでも、3~4万トンクラスの貨物船が4隻、7000トンクラスが1隻沈められ、ほかにも10に上る船舶が炎上しました。

この最初の攻撃は、「2番目の真珠湾」とも呼ばれ、このときの合衆国艦隊司令長官、アーネストJ·キングには大きなが批判の声が寄せられました。

しかし、それにもかかわらず効果的な対策はとられず、その後、二波、三波の攻撃も行われましたが、その度に損害は増し、結局8月までの7か月間に大小合わせて609隻もの船が沈められ、310万トンの貨物と数千人の命が失われました。

事態を重く見た合衆国政府は、ヨーロッパの他の連合国とも連携してこのUボート掃討作戦を開始し、その後アメリカ海軍自らの手で確実に海底に葬ったとされるものが9隻、これを含めておそらく撃沈されたとするものの総数は22隻に上ったとされています。

しかし、失われた貨物や人命に比べればドイツ軍側に与えた損害はあまりにも寡少であり、それだけドイツ側にとってはおいしい作戦であったために「ハッピータイム」と呼ばれたわけです。

この当時のニューヨーク港は、ヨーロッパの連合国側へ送る物資が集中しており、主要積み出し点であったためにドイツ側には効率良い攻撃ができたわけです。また合衆国政府は、戦禍の中心地はヨーロッパであって、アメリカ本土は大丈夫、と踏んでいたきらいがあり、適切な護衛船が配備されていなかったことも被害を大きくした要因でした。

さらに、多数の貨物船を護衛の軍艦で守りながら集団で移動させる、護送船団方式という方式にも問題があり、船団を形成するために一度に多数の船舶をニューヨーク港に停泊させたことも被害を拡大させた原因でした。

Staten_Island_Ferry_terminal

このように第二次世界大戦当時のニューヨーク港は、ドイツに狙いうちされるほど世界でも有数な港であったわけですが、戦後は航空や自動車に押され、現在はさすがにそのころの隆盛ぶりはありません。しかし、なおも多数の船舶が出入りする世界的にも大きな港であるには変わりはなく、その維持管理も欠かせません。

とくに、港というものは、潮汐の干満や海流などによって外海から土砂が流れ込むものであり、また、ハドソン川のような大きな川からは川砂が流入してきます。このため、これらの土砂が徐々に堆積していくため、港内の水路や航路は、常に浚渫によりその深さを一定に保つ必要があります。

こうした港内の水深管理は、アメリカでは、「陸軍工兵隊」という特殊部隊の管轄とされており、この工兵隊は、日本でいうところの国土交通省の工事事務所のような役割を担っています。こうした港湾整備だけでなく、アメリカ全土の道路やダム、河川などの洪水対策をも受け持っている総合技術部隊でもあります。

ニューヨーク港の元々の自然の水深は約17フィート (5 m)ほどでしたが、1880年にこの工兵隊が水深を管理するようになってからは、約24フィート (7 m)まで掘り下げられ、さらに1891年までには、主要船舶航路はその水深が30フィート (9 m)にまでなりました。

第二次世界大戦のときには、さらに大型の船舶に対応させるために主要水路の水深を45フィート (13.5 m)にまで掘り下げ、さらに現在はその水深を50フィート (15 m)にするべく、工事が進められているといいます。

しかしここまで掘り下げると、岩層にまで達する場所も多くなり爆破が必要になります。爆破によって出た岩石の処理も必要となり、岩を運び出して廃棄処理する特殊船舶の開発や、廃棄場所の確保も必要となり、かなり大がかりな事業となります。

それでも現時点で約70カ所でこうした掘削が続けられているといい、世界でも類例のない、大規模な浚渫船隊が形成されているとのことです。ただ、この作業は時として騒音や振動を生むため、とくに港内西部にあるスタテンアイランドなどの住人からは苦情が寄せられているといいます。

しかし、そうした騒音公害以上に、ニューヨークっ子を震撼とさせたのが2001年9月11日に発生した、同時多発テロです。このときとくにニューヨーク港の施設に被害が出たわけではありませんが、目と鼻の先のワールドトレードセンターなどが破壊されたことから、その後港内の警備も一段と厳しくなりました。

そうした矢先の、2006年、ニューヨーク港の港湾施設の管理運営を委託されていたイギリスの船会社であるP&Oが、アラブ首長国連邦の港湾管理運営会社であるドバイ・ポート・ワールド(DPW)に売却される、という事件が起きました。

P&Oはニューヨーク港だけでなく、ニューアーク港、フィラデルフィア港、ボルチモア港、ニューオーリンズ港、マイアミ港といったアメリカ東海岸の主要港でコンテナターミナルを運営しており、その運営会社がイギリスだということで、アメリカ人の誰しもが安心しきっていました。

ところが、多角化路線が祟って関連企業の売却などを余儀なくされ、最近では海運・輸送業に資源を集中する決定を行って再建を急いでいましたがやはり経営は思わしくなく、そこへその買収を申し出たのがDPWでした。

DPWの属するアラブ首長国連邦は、アメリカとは友好関係を築いており、アラブ世界の中でも最もアメリカに親密な国のひとつです。が、現在大きな問題となっているシリアやイスラム国などと同じくイスラム教を尊守する国であり、当然この買収はアメリカ合衆国で激しい反発を招きました。

P&O買収は、アメリカ政府の各省の委員で組織する委員会で審議され一旦は了解されていました。しかし港湾の運営がアラブ首長国連邦の企業に移ること、またこの国がこれまでもアルカーイダメンバーの資金集めや人材供給の舞台となってきたことなどを共和党や民主党の下院議員が問題視し、激しく反発しました。

ところが、この当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、この取引を無効にすることは誤ったシグナルを米国の友人に送ることになるとして議員らに拒否権を発動することを警告し、政府内からもアラブ首長国連邦は親米国家であり米軍のペルシャ湾展開の基地ともなっている、とDPWの経営取得を支持する声が上がりました。

しかし2006年2月には議会とホワイトハウスの間で緊張感が高まり、投資の自由を優先するか米国のインフラの防衛を優先するかでメディアや論者を巻き込んだ争いになりました。

3月初旬にはDPWがアメリカ国内での港湾運営を米国資本に売却すると説明したことが明らかになり、結局DPWはアメリカの港湾部門をアメリカ企業、AIG傘下の資産管理会社に売却して撤退しています。

このように世界屈指の港といわれるニューヨーク港もまた、アメリカの中にありながら、アラブ社会の影響を受けているわけであり、いわんや多数のアラブ系の移民を抱えている合衆国という国の矛盾やジレンマはそうそう簡単に解消されることはありません。

かつての第二次大戦のドイツからの攻撃のように、アラブの過激派から再びこの地が襲撃されるのではないか、という不安をニューヨークっ子は払しょくできずに今日も過ごしていることでしょう。

我々日本人としては第三の真珠湾攻撃と呼ばれるような悲劇が二度と引き起こされぬよう、祈りたいところです。

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