ゴーストシップ 1916

まるで幽霊船のように見えるこの写真の船は、ドイツの元客船、クロムプリンツ・ウィルヘルム号といいます。ドイツのブレーメンなどの港とアメリカのニューヨークを結ぶ北大西洋航路に就航し、この当時は最速かつ最も豪華なライナーの一つでした。




しかし、1914年に第一次大戦が勃発したことから、「補助巡洋艦(仮装巡洋艦)」として改装されることが決まり、大小の機関銃や小砲などを装備され、ドイツ海軍の兵員が乗船してきました。その運用の目的は、主に大西洋上を運行する連合国軍の民間船を見つけては拿捕、または破壊する(沈没させる)ことでした。

1914年9月までのおよそ一年の間にウィルヘルム号によって拿捕または沈められた船は、13隻にのぼり、これらにはイギリス、ノルウェー、フランスが主なものでしたが、ロシア船などの国籍の船もあります(ロシア船はのちに開放)。

しかしその後戦況はドイツにとって不利なものになっていき、ドイツに比較的友好的であったブラジルなどで石炭を補給したりしながら活動を続けていました。制海権は次第に連合国が握るようになり、イギリス海軍ほかの連合国軍に発見される恐れがあることから、なかなか補給のために南米の友好国などにも近づくことできなくなりました。

次第に石炭の供給が減少するとともに、長い航海を続けていたことから、船員の中に病気を発する者が急増しました。病気の原因は、主に牛肉やパン、野菜といって新鮮な食物の不足による壊血病などが主で、それ以外にも多くの船員が、肺炎、胸膜炎、リウマチなどの多くの症例を発するようになりました。

また、連合国軍との戦闘で負傷した船員も多く、出血や骨折や脱臼などを抱える患者もおり、次第に船全体が病院船のような様相を示すまでになりました。



結果として船長はこれ以上の後悔は無理と判断し、アメリカ南部のバージニア州、ヘンリー岬沖に向かい、そこでアメリカ海軍に拿捕される道を選びました。乗組員は全員拘留され、船はポーツマスのノーフォーク海軍造船所に曳航。乗組員およそ1000人は近くのキャンプに捕虜として収容され、ここは「ドイツ村」と呼ばれました。

冒頭の写真は、ウィルヘルム号がこのあとノーフォークからフィラデルフィアまで牽引されていく様子を撮影したものです。長い航海であちこちが錆びつき、またところどころには連合国軍からの攻撃を受けて損傷したと思われるような箇所もあり、ほとんど幽霊船のように見えます。



ノーフォーク沖を曳航されるクロムプリンツ・ウィルヘルム号

同船は、その後改装を受け、「フォン・ストゥーベン」と改名され、アメリカ海軍の元で、再度、補助巡洋艦として運用されるようになり、主に武器・兵器の輸送などに供用されました。1918年に世界大戦が終了するまでは、幾度かUボートに遭遇し、撃沈される瀬戸際まで行ったこともありましたが、無事戦火を切り抜けています。

戦後は、バロン・フォン・スチューベンと船名を変え、およそ5年の間、貨物船として運用されましたが、1923年に退役し、ボストンでスクラップとなりました。



ちなみに、この船には「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」という姉妹船があり、その名の由来は「偉大なる皇帝ヴィルヘルム」の意でした。クロムプリンツ・ウィルヘルムと同様に快速を誇り、初めてドイツの船舶でブルーリボン賞を受賞しています。

こちらも、第一次世界大戦では補助巡洋艦として運用され、イギリスの貨物船などを襲撃して、3隻を沈没させるなどの戦果をあげました。しかし就航後わずか一ヶ月後でイギリス巡洋艦からの攻撃を受け、逃走中に浅瀬に入り込んだため、自沈しています。

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ

ドイツはUボートをはじめとして高い造船技術を持つ国ですが、ふたつの大戦をはさんで数多くの艦船を失いました。日本も同様ですが、それらが現在も残っていれば、もっと世界の海は賑やかだろうと残念に思うのは、船フェチの私だけでしょうか。




ワシントン海軍工廠

Title: P.T. Russell of Navy Yard with ocean depth finder, 4/27/26
Date Created/Published: [19]26 April 27.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller(original)

写真は、1926年、アメリカの首都、ワシントンD.C.の南東部に位置する、ワシントン海軍工廠内で撮影されたものです。1872年に創刊されたアメリカの科学雑誌、「ポピュラーサイエンス“Popular Science”」 誌に掲載されたもので、アメリカ海軍の開発研究について報じた記事の一部に使われました。

写っているP.T.ラッセルなる人物は、海軍工廠に関する音響関係の技術者のようです。彼の前に置かれている装置は、左から右に、水深測定器、サウンドトランスミッター(送信機)とサウンドレシーバー(受信機)です。送信機は船底に取り付けられ、それを船上の航海士が受信し、測定器で分析します

この年の国立科学アカデミーの年次総会で展示される予定のもののようで、これをポピュラーサイエンスが取材したようです。




このワシントン海軍工廠ですが、現在はワシントンD.C.にはありません。2006年にバージニア州クアンティコある海軍海兵隊基地に移転しました。

しかし、移転後もその遺構がかなり残されています。米国海軍としては最も古い施設のひとつで、1973年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1976年5月11日にはアメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されました。

現在では、その建物の一部と跡地が現在米海軍の式典に使用されているほか、行政センター、アメリカ海軍作戦部、海軍歴史センター本部、海軍犯罪捜査局(NCIS)、海軍原子炉事務所、海兵隊学校などの各種組織が置かれています。

この「海軍工廠」とはそもそも何か、ですが、これは艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことです。兵器の製造が主な仕事ですが、それを開発する研究部門が重要な地位を占めており、いわば軍の戦争兵器製造の中枢的機能を持っていました。

日本でも、明治時代に、海軍鎮守府の直轄組織として、横須賀・佐世保・呉などに同様のものが建設されました。第二次世界大戦期間中は軍備増強によってさらに増え、舞鶴、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置していました。



ワシントン海軍工廠の発足は1809年にまで遡ります。工廠の北の壁は監視所と共に建てられ、現在はラトローブ・ゲートとして知られています。工廠の南側の境界にはアナコスティア川があり、西側の境界は未開発の沼という、湿地帯に作られた施設でした。後に規模が大きくなり、土地が不足してくるとアナコスティア川に沿って埋立を行い対応しました。

米西戦争中の1814年にワシントンが焼き討ちにあった後、大規模な改築が行われ、ワシントン海軍工廠は海軍最大の造船所および艤装工場となりました。その結果、小は70フィートの砲艦から、大は246フィートのフリゲート艦・ミネソタ(USS Minnesota)まで、22隻の艦艇が独立戦争までに建造されました。

イギリスとの独立戦争後も拡張が続いていき、一世紀以上をかけて、工廠の主力は兵器の生産と技術開発に移行していきました。工廠には米国の最も初期の蒸気機関が設置され、碇(いかり)、鎖といったものや、さらには船舶用蒸気機関の作製までが行われるようになりました。

南北戦争中、工廠は北軍にとってのワシントン防衛の重要地点となりました。エイブラハム・リンカーン大統領は工廠長補佐のジョン・ダールグレン(John A. Dahlgren)中佐に絶大な信頼をおいており、しばしば工廠を訪れていたといいます。

アメリカで初めて建造された装甲艦として複数製造された有名な「モニター艦」も、南軍の装甲艦バージニアとの歴史的な海戦、ハンプトン・ローズ海戦の後、このワシントン海軍工廠で修理されています。

合衆国初の戦艦、”モニター”

リンカーン大統領暗殺事件のとき、その共謀者達は、逮捕の後工廠へと連行されたといいます。また、実行犯のジョン・ウィルクス・ブースの遺体は工廠に係留されていたモニター艦モントーク(USS Montauk)上で検死され、本人確認がなされました。

1862年頃のワシントン海軍工廠

第一次世界大戦後も工廠は技術進歩の中心であり続け、1866年、ワシントン海軍工廠は、海軍の全兵器の製造工場となりました。そして、第二次世界大戦までには、ワシントン海軍工廠は世界最大の軍需工場となっていました。

ここで設計・製造された武器は米国が関与した1960年代までの各所の戦場で使用され、最盛時には、工廠の敷地は126エーカー(0.5 km2)に達し、188の建物で25000人が働いていたといいます。精密な光学装置の部品から巨大な16インチ砲まで、全てここで製造されていました。

以前のブログ “TORPEDO SHOP 1917” で紹介した魚雷製造の技術もこのワシントン海軍工廠でその技術が培われてきたものです。

ワシントン海軍工廠における魚雷製造

兵器の生産は第二次世界大戦後も1961年まで続けられましたが、3年後の1964年7月、その活動は終了しました。工場の建物は当初種々の事務所に転用されましたが、最近は再整備が進み、上述のような海軍の諸施設が運用されています。



このワシントン海軍工廠では、様々な科学技術上の発明が行われました。米英戦争中には世界で初めてとなる時限式の機雷の研究と試験が行われたほか、1822年には型艦のオーバーホールのために米国最初の曳揚装置(marine railway)が据え付けられました。

緩斜面に曳かれたレールの上を艦船を滑らすように上陸させ、陸上で船艇のチェックや牡蠣殻落とし、再塗装などができるようにしたもので、これにより頻繁に艦船のメンテナンスができるようになり、飛躍的に寿命が延びました。

最初の艦艇用カタパルトは、1912年に隣接するアナコスティア川で試験されたもので、風洞実験装置は1918年に初めて設置されました。こうした軍用機器の開発だけでなく、パナマ運河閘門用の巨大な歯車もここで鋳造されたたもので、このほか負傷した兵士のための義手、義眼、義歯の設計にも海軍工廠は関与していました。

幕末の1860年には日本からの使節団も受け入れています。目付であった小栗忠順は、その設備に感銘を受け、近代工業の象徴として工廠で生産されたネジを持ち帰ったといい、当時のニューヨークタイムズは、小栗が「近い将来、日本にこのような施設を造りたい」と語ったと報じています。これは後に横須賀造船所として実現しました。

ワシントン海軍工廠での使節団:前列右から2人目が、小栗忠順

大西洋横断飛行に成功したことで知られる有名なチャールズ・リンドバーグの1927年の帰還地地もワシントン海軍工廠でした。英国のジョージ6世もワシントン滞在中に工廠を訪問したこともあります。

現在は海軍博物館(Navy Museum)があり、またキューバ危機、ベトナム戦争などで活躍した駆逐艦バリー(USS Barry)も博物館として一般に開放されています。バリーはワシントン地区の指揮官交代式典にしばしば利用されているといいます。

USSバリー(Barry)

なお、現在アメリカには海軍工廠として存続しているものはなく、従来のその機能のほとんどは、各海軍基地内にある造船所などで賄っているようです。多くの海軍工廠が廃止されたのは、冷戦が終了し世界的に軍縮の気運が高まり、建艦のニーズも縮小したためです。




デュケイン・インクライン

Title: [Duquesne Incline, Pittsburgh, Pa.]
Related Names:
Detroit Publishing Co. , publisher
Date Created/Published: [between 1900 and 1915]
Medium: 1 negative : glass ; 8 x 10 in.(original)

デュケイン・インクラインは、ピッツバーグの南部に位置するワシントン山に設置された「インクライン(鋼索鉄道)」で、長さ800フィート(244 m)、高さ400フィート(122 m)あり、30度の角度で傾斜しています。

ピッツバーグ(Pittsburgh)は、アメリカ東部、ペンシルベニア州南西部に位置する都市です。

かつては鉄鋼生産の中心地として栄えましたが、鉄を精錬するために大量の石炭が必要であり、当初このインクラインもその運搬を行う目的で建設されたようです。このため、ワシントン山には、”Coal Hill(石炭丘)“の別名があります。

このピッツバーグは、オハイオ川の河岸段丘のそばに作られた街です。丘が連なる起伏に富んだ地形となっており、勾配の急な坂道が多いことで知られています。

標高は地区によってかなりの開きがありますが、ダウンタウンの標高は220-250m程度、オハイオ川の河岸は標高216mです。これに対して崖上のマウント・ワシントン地区の標高は約320-350mと、河岸から一気に100m以上高くなります。

1860年代にピッツバーグは、鉄鋼生産の産業基盤を大きく拡大し、このとき多数のドイツ人が移入してきました。勤勉な彼らは、街の産業発展に大いに尽くしましたが、移民であったため、街の中心部には住まず、主にワシントン山の上の地区に定住しました。

このため、崖下にあった工場地帯に彼らドイツ人労働者を運ぶための利便にと作れたのがこうしたインクラインで、現在のピッツバーグにはこのディケイン・インクラインともうひとつ、モノンガヒラ・インクラインが残っており、両方とも19世紀末のほぼ同時期に作られたものです。


モノンガヒラ・インクライン

インクラインとは、標高差の大きい場所での輸送を容易にするための装置で、通常のレールのほか、ワイヤロープなどで台車を昇降させます。日本では東京の西にある高尾山のケーブルカーがかなり近い形態といえるでしょう。

しかし、高尾山のケーブルカーは電動ですが、ピッツバーグのこれらのインクラインは 当初、蒸気駆動でした。

上述のとおり、当初は石炭の運搬目的で設置され、その稼働のためにも石炭が使われました。その後、ドイツ人他の労働人口も増えるにつけ、労働者移動の上でも重宝されるようになり、構造上の強化なども徐々に図られていったようです。

現在残されているふたつのうち、最初にできたのは、モノンガヒラ・インクラインで1870年。 ディケイン・インクラインのほうはその7年後の1877年に完成しました。19世紀末から20世紀はじめの最盛期には、これ以外にも複数のインクラインが完成し、稼働していたようです。




第二次世界大戦中には、ピッツバーグでは9500万トンもの鉄鋼が生産されていました。しかし、この頃になると、鉄鋼を生産するのに必要な石炭の燃焼に伴って大気汚染が著しくなり、毎日のようにスモッグが発生するようになりました。

下の写真は1900年ころのもので、崖の上からピッツバーグを見たものですが、このころすでに遠くのほうがスモッグによって霞んでいるのがわかります。

戦後、アメリカでは急速なモータリゼーションが進み、ピッツバーグでも多くの道路ができるとともに、ワシントン山の上下を結ぶ道路も多数できました。これにより、インクラインは不要となり、1960年代までには多くが廃止され、最後に残ったのが、このモノンガヒラ・インクラインとデュケイン・インクラインというわけです。

1960年代に入ってもピッツバーグの産業は発展を続けていましたが、1962 年には、デュケイン・インクラインもついに永久閉鎖が決定されました。長年の使用による痛みも著しく、大きな修理が必要であったためですが、それを存続させるための後援者もいなかったためです。

ところが、この廃止を聞いた崖上のデュケイン・ハイト、という地区の住民が、インクラインの存続を叫び始め、 資金集めに乗り出しました。 この試みは成功し、保存に専念する非営利団体が結成されると、その保護のもと、1963 年 7 月 にインクラインの運行が再開されました。

その後、1970年代に入ると、ピッツバーグの鉄鋼業は衰退に転じていきました。工場は相次いで閉鎖に追い込まれ、街には大量の失業者があふれるようになっていきます。

しかし1980年代に入ると、街は鉄鋼業に依存していた従前の産業構造から脱却し、新たな産業を模索しながら地域経済を発展させるように舵を取り始めました。

もともと、この街の鉄鋼業は、ピッツバーグに本部を置く財閥、メロン財閥(モルガン財閥)とロックフェラー財閥の投資によって成り立っていましたが、両者もこの時期からは鉄鋼業に見切りをつけ、地域のハイテク産業・保健・教育・金融に投資をはじめました。

これにより、街は活気を取り戻し、現在はロボット・生物医学技術・核工学などのハイテク産業や、保険・金融・観光・サービス業を中心とする産業が活発な町として全米を代表する町になりました。



ピッツバーグの中心業務地区(CBD)である「ピッツバーグ・ダウンタウン」には超高層建築物が林立し、世界的にも有名な企業や団体の本部がある地区となり、しばしば「ゴールデン・トライアングル」(Golden Triangle)とも呼ばれています。

ドイツをはじめ、欧州とのつきあいが長いピッツバーグは学術都市でもあります。

カーネギーメロン大学・デュケイン大学・ピッツバーグ大学など、多数の大学が市内および都市圏内にキャンパスを置きます。カーネギーメロン大学とピッツバーグ大学がキャンパスを置いているオークランド地区は、高等教育・研究機関や文化施設が特に集中しています。

この街の発展とともに、残っていたインクラインもまたその内容を一新しました。 観光産業もまた、この街の大きな収益のひとつとなってきたためです。

19世紀後半にフィラデルフィアの J. G. ブリル会社((J. G. Brill and Company)により製造された車両はリニューアルされて、近代的な雰囲気を装うようになったともに、頂上には新たに展望台が追加されました。

ここからは、「ゴールデン・トライアングル」 の光景が一望でき、デュケイン・インクラインは今ではピッツバーグ市の観光において、最も人気の高い呼び物となっています。

現在のデュケイン・インクラインとゴールデントライアングル
(上の写真と見比べてみてください)

ちなみに、このインクラインは、 ラッセル・クロウ主演の映画、スリーデイズ(The Next Three Days)の中でも登場するとともに、1983 年の映画 フラッシュダンス (Flashdance)のなかでもピッツバーグの象徴として扱われていました。

ビデオ店でこれらの映画を見るときには、ぜひ現在の姿を確認してみてください。




JFKとジャクリーンの婚姻

Title: [Jackie Bouvier Kennedy and John F. Kennedy, in wedding attire, with members of the wedding party]
Creator(s): Frissell, Toni, 1907-1988, photographer
Date Created/Published: [Sept. 12 1953]

アメリカ史上、最も有名な大統領の一人、J.F.ケネディは36歳になった1953年の9月12日にフランス系アメリカ人の名門の娘である当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚しました。

ジャクリーンの父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築きました。しかし、大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳の時に離婚しました。

母はその後裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚したため、ジャクリーンはその後、何不自由なく育ったようです。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻しました。




二人が知り合ったのは、ジャクリーンが1951年ジョージ・ワシントン大学を卒業後に継父オーチンクロスの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者となった時のことです。ケネディ兄弟と親しいチャールズ・バーレットの自宅で開かれたパーティーに彼女が招かれ、そこで二人は恋に落ちました。

1951年6月からデートを重ねていましたが、1953年に入ってアイゼンハワー大統領の就任祝賀舞踏会に同伴で出席してからは、真剣な交際に発展していきます。父ジョセフは早くからジャクリーンを気に入った様子だったといい、二人の仲が深まって「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」で、ケネディからプロポーズしたといわれています。

このホテルはボストンにある老舗ホテルで、ホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもあります。

ジャクリーンがケネディのプロポーズを受け入れるとケネディ家は豪華な挙式を執り行いました。冒頭の写真がそれです。場所はジャクリーンの継父ヒュー・D・オーチンクロスが持つ97エーカーの広大な土地と豪邸のあるロードアイランド州ニューポートのハマースミス・ファームでした。

まず6月25日にヒュー・D・オーチンクロスとジャネット夫妻の主催で正式な婚約披露パーティーが開かれ、9月12日に結婚式がニューポートのセント・メアリー教会で行われて、クッシング大司教のもとで二人は愛を誓い合いました。

この婚儀では、ローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられたといい、また同じハマースミス・ファームで行なわれた式後の結婚披露宴には300人もの招待者が出席する豪華なものでした。なお、この披露宴にも参加したジャクリーンの実父ジョン・ブービエは前日の結婚式では、その前から飲みすぎて酔い潰れ、式に出席できなかったといいます。

その後、ケネディは1961年1月20日にアメリカ大統領に就任しました。このとき43歳の若さであり、ジャクリーン自身も31歳でファーストレディとなりました。

誰の目にも幸せな結婚に見え、しかも美男美女のカップルであり、全米の羨望をあつめましたが、しかし今日、ケネディは結婚前のみならず、結婚後、そして大統領就任後も複数の女性と不倫関係を持ち続けていたことが明らかになっています。

その中には女優やマフィアの愛人から部下の妻までが含まれており、それらは、上院議員時代の議員事務所の受付嬢だったパメラ・ターニャ、女優のアンジー・ディキンソン、同じく女優のジーン・カーメン、ホワイトハウスのワーキングガールのプリシア・ウイアとジル・カウエン、メアリー・ピンショー・マイヤー]、そしてドイツ人外交官の妻などです。

1980年代後半に公表されたFBIの報告によると、ホワイトハウスを監視していたFBI当局は在任2年10ヵ月の間に大統領が親密な関係を持った女性を少なくとも32名リストアップしています。

そして最も有名なのは、1950年代後半から妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードから紹介された映画女優のマリリン・モンローです。就任後の1962年5月まで不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されています。

さらに大統領予備選挙前の1960年2月、シカゴのマフィア「シカゴ・アウトフィット」のボスのサム・ジアンカーナは、彼と関係のあったフランク・シナトラに、女をあてがうよう指示しました。その女性こそが、シナトラの元恋人でありジアンカーナの愛人でもあったジュディス・キャンベルでした。

これを機に、ケネディはその後の大統領予備選挙時においてもモンローと併行してジュディス・キャンベルとも不倫関係を持つようになります。ホワイトハウスでのキャンベルとの通話記録は70回を数え、2人っきりの食事が20回はあったことがわかっています。




しかしその後、彼女らとの関係はすぐに終焉を迎えます。ケネディがマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合ったことと、ジアンカーナらのマフィアが2人の関係が暴露されそうになったことが原因でした。

このころケネディは、マフィアの取り締まりを強化しようとしていましたが、一方のジアンカーナらマフィア側はこの二人の不倫関係をその取締り抑止の取引に使おうとしました。これを知った当時のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーは、政権の危うさを憂慮し、ケネディの長男で司法長官を務めていたロバート・ケネディに強く忠告しました。

これを聞いた息子は驚き、父を諌めます。こうして彼の忠告により、ケネディとモンローの間は終焉を迎えることとなりますが、同じくマフィアがらみでの縁であったキャンベルとの関係も間もなく終焉を迎えることになりました。

モンローは、その関係が終わりを迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク州のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティーに、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデー」の歌を披露しました。

この際に、ケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席したといわれています。

ちなみに、マリリンモンローは、この日から3ヶ月後の1962年8月5日、ロサンゼルスの自宅で薬物の過剰投与により死亡しました(36歳)。このモンローの死には、現在でもケネディやマフィアにまつわる数々の陰謀論が噂されています。

しかし、当の本人であるケネディもそのわずか一年半後、ダラスで暗殺されました。ジャクリーンのファーストレディーとしての経歴もわずか2年10カ月で終焉を迎え、ホワイトハウスを去ることになります。

そして5年後の1968年秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせました。このころまだ39歳の彼女は、単なる元大統領夫人という枠を超えて、ファッションアイコンとして世界の女性の憧れでした。

特にケネディ大統領が撃たれた時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして多くの人々の記憶に残っています。

この結婚を機に、ジャクリーンは、ケネディとの間にできた3人の子女とも距離を置くようになりました。しかし、再婚相手のオナシスの関係も愛情に結ばれているとは言い難く、1973年に飛行機事故で息子を失うとオナシスはより気難しくなり、二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていきました。

パリ16区フォッシュ通り界隈のアパルトマンをジャクリーン共々邸宅にもしていましたが、1975年3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていたといいます。



オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩むことになります。まだ50歳前のことでした。晩年のジャクリーンには、新たな恋人ができ、それはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマンでした。

しかし、テンペルズマンは結婚していました。妻と長く別居してはいたものの、離婚できなかったため、ジャクリーンと再婚することはありませんでしたが、仲睦まじかったといわれています。マサチューセッツ州沖にある、風光明媚なマーサズ・ヴィニヤード島で二人は穏やかに過ごし、齢を重ねていきました。

なお、ジャクリーンの相続したオナシスの財産は彼女のテンペルスマンの手によって数億ドルに利殖されたといいます。彼女の愛と金にまつわる話はゴマンとありますが、ここではそれには触れないでおきましょう。

その後1994年、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知りました。

短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去りました。その死に際には、一度は袂を分かったケネディ家の人々が再び彼女のそばに集まりました。

その亡骸は、元の大統領夫人としてアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの墓の横に埋葬されています。

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サイロシティ 1900

写真は、米東部、バッファローにおける1900年(明治33年)頃の写真です。

バッファローはニューヨークからおよそ西北へ500km。五大湖のひとつエリー湖の東端に接し、ナイアガラ川の始点に位置します。すぐ北側に向かってナイアガラ川が北上し、この川はナイアガラ滝を経て、カナダ側のオンタリオ湖に達します。

この地方におけるヨーロッパ人の入植は、1758年のフランス人による入植地の開基をはじめとします。バッファロー川の河口に築かれたこの入植地一帯は、1825年にエリー運河が開通すると、ニューヨーク市と直結され、その商業上の価値を増しました。

通商のための拠点となるととともに、ナイアガラ滝を利用して作られる豊富な電力によって工業が盛んとなり、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られるまでになり、数カ所の製鉄所が煙を上げていました。




こうして、入植当初、約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した当時の人口は1万人を超えたといいます。

バッファローではまた、20世紀初頭から穀物産業もさかんとなり、アメリカ中西部の穀物が大量に運び込まれました。このため、街の中心を流れるバッファロー川沿いにはアメリカ最大規模の穀物倉庫が多数建設されました。

とくに、ビールの原料となる麦芽、それを製造するための大麦を貯蔵する大型サイロが立ち並ぶようになり、その後、穀物生産はさらに大規模になっていきます。

それにともなってサイロも大規模化すると高さ20メートル(ビルでいうと6~7階規模)直径7メートルもあるような巨大な「タワーサイロ」と呼ばれるようなものが次々と出現してきます。そしてやがてこの一帯は「サイロシティ」と呼ばれるようになりました。冒頭の写真がそれです。

下の写真の背後にそびえるのは、そのなかでも最大のサイロ、「グレートノーザンエレベーター」で、1897年に完成した当時は世界最大のサイロでした。

グレートノーザンエレベーター

「エレベーター」の呼称は、この巨大なサイロに穀物を搬入するエレベーターが併設されていたからです。

このころ、米中央部のグレートプレーンズと呼ばれる穀倉地帯でも、高さが40mを超える規模の穀物倉庫が数多く建設され、「プレーリーの摩天楼」と呼ばれる特異な景観を見せました。大型化したことにより巨大なエレベーターにて搬入を行うようになり、田舎にあるエレベーターという意味で「カントリーエレベーター」呼ばれることもあります。

また、穀物集積地にあるものをターミナルエレベーターと呼び、米南部のニューオーリンズはアメリカ合衆国の穀物輸出の一大拠点で、ターミナルエレベーターが多く設置されていました。バッファローのそれもまたターミナルエレベータといわれるべきものです。



さらに20世紀後半に入ってからの米各地のサイロは、鉄筋コンクリート製、スチール製、そして強化プラスチック製と多様化していきました。サイロシティに今もそびえ立つ背高のサイロの数々は、レンガ造りのレトロなものからコンクリート製、鋼板製の巨大サイロまでさまざまです。

しかし、タワーサイロは穀物を詰め込む作業から、取り出して船に積み込む作業まで、いずれも重労働です。そのうえ修理やメンテナンス費用が大きくて、新規に建てようものなら数千万円もかかりました。

このため、やがて低コストで、しかも重機を使って作業ができる、ラップサイレージやバンカーサイロなど低型サイロに移り変わっていきました。1993年ころまでにはほぼその役目を終えましたが、使われることの少なくなった塔型サイロは、現在に至るまで放置されています。

グレートノーザンエレベーターも1980年代後半、当時の所有者ピルズベリー社によって放棄されました。この建物はバッファロー川地区でも最も古いもののひとつですが、ほとんどが現在は稼働していません。

現在のサイロシティ(一部)

バッファローでは20世紀後半からは主要産業であった鉄鋼業も衰退し、治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていきました。

ただ、近年は市街地再開発が進み、医療、教育分野の育成が実を結び、今日では大都市でも治安はかなりいい方に数えられます。2001年にはUSAトゥデイ紙で「アメリカで最もフレンドリーな都市」であるとされました。また過去から現在に至るまで、すぐ近くにあるナイアガラ観光の基地としての役割も失ってはいません。