JFKとジャクリーンの婚姻

Title: [Jackie Bouvier Kennedy and John F. Kennedy, in wedding attire, with members of the wedding party]
Creator(s): Frissell, Toni, 1907-1988, photographer
Date Created/Published: [Sept. 12 1953]

アメリカ史上、最も有名な大統領の一人、J.F.ケネディは36歳になった1953年の9月12日にフランス系アメリカ人の名門の娘である当時24歳のジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚しました。

ジャクリーンの父はフランス系のジョン・ブービエ、母はアイルランド系のジャネット・リーで、父ジョン・ブービエは株取引で財産を築きました。しかし、大恐慌で財産を失い、アルコール依存症となって母ジャネット・リーとはジャクリーンが11歳の時に離婚しました。

母はその後裕福な株式仲買人でスタンダード・オイルの相続人の一人であったヒュー・D・オーチンクロスと再婚したため、ジャクリーンはその後、何不自由なく育ったようです。名門ヴァッサー女子大に進学し、フランスのソルボンヌ大学に留学し、アメリカに戻るとジョージ・ワシントン大学に編入してフランス文学を専攻しました。




二人が知り合ったのは、ジャクリーンが1951年ジョージ・ワシントン大学を卒業後に継父オーチンクロスの紹介でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者となった時のことです。ケネディ兄弟と親しいチャールズ・バーレットの自宅で開かれたパーティーに彼女が招かれ、そこで二人は恋に落ちました。

1951年6月からデートを重ねていましたが、1953年に入ってアイゼンハワー大統領の就任祝賀舞踏会に同伴で出席してからは、真剣な交際に発展していきます。父ジョセフは早くからジャクリーンを気に入った様子だったといい、二人の仲が深まって「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」で、ケネディからプロポーズしたといわれています。

このホテルはボストンにある老舗ホテルで、ホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもあります。

ジャクリーンがケネディのプロポーズを受け入れるとケネディ家は豪華な挙式を執り行いました。冒頭の写真がそれです。場所はジャクリーンの継父ヒュー・D・オーチンクロスが持つ97エーカーの広大な土地と豪邸のあるロードアイランド州ニューポートのハマースミス・ファームでした。

まず6月25日にヒュー・D・オーチンクロスとジャネット夫妻の主催で正式な婚約披露パーティーが開かれ、9月12日に結婚式がニューポートのセント・メアリー教会で行われて、クッシング大司教のもとで二人は愛を誓い合いました。

この婚儀では、ローマ教皇ピウス12世からの祝辞が読み上げられたといい、また同じハマースミス・ファームで行なわれた式後の結婚披露宴には300人もの招待者が出席する豪華なものでした。なお、この披露宴にも参加したジャクリーンの実父ジョン・ブービエは前日の結婚式では、その前から飲みすぎて酔い潰れ、式に出席できなかったといいます。

その後、ケネディは1961年1月20日にアメリカ大統領に就任しました。このとき43歳の若さであり、ジャクリーン自身も31歳でファーストレディとなりました。

誰の目にも幸せな結婚に見え、しかも美男美女のカップルであり、全米の羨望をあつめましたが、しかし今日、ケネディは結婚前のみならず、結婚後、そして大統領就任後も複数の女性と不倫関係を持ち続けていたことが明らかになっています。

その中には女優やマフィアの愛人から部下の妻までが含まれており、それらは、上院議員時代の議員事務所の受付嬢だったパメラ・ターニャ、女優のアンジー・ディキンソン、同じく女優のジーン・カーメン、ホワイトハウスのワーキングガールのプリシア・ウイアとジル・カウエン、メアリー・ピンショー・マイヤー]、そしてドイツ人外交官の妻などです。

1980年代後半に公表されたFBIの報告によると、ホワイトハウスを監視していたFBI当局は在任2年10ヵ月の間に大統領が親密な関係を持った女性を少なくとも32名リストアップしています。

そして最も有名なのは、1950年代後半から妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードから紹介された映画女優のマリリン・モンローです。就任後の1962年5月まで不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されています。

さらに大統領予備選挙前の1960年2月、シカゴのマフィア「シカゴ・アウトフィット」のボスのサム・ジアンカーナは、彼と関係のあったフランク・シナトラに、女をあてがうよう指示しました。その女性こそが、シナトラの元恋人でありジアンカーナの愛人でもあったジュディス・キャンベルでした。

これを機に、ケネディはその後の大統領予備選挙時においてもモンローと併行してジュディス・キャンベルとも不倫関係を持つようになります。ホワイトハウスでのキャンベルとの通話記録は70回を数え、2人っきりの食事が20回はあったことがわかっています。




しかしその後、彼女らとの関係はすぐに終焉を迎えます。ケネディがマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合ったことと、ジアンカーナらのマフィアが2人の関係が暴露されそうになったことが原因でした。

このころケネディは、マフィアの取り締まりを強化しようとしていましたが、一方のジアンカーナらマフィア側はこの二人の不倫関係をその取締り抑止の取引に使おうとしました。これを知った当時のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーは、政権の危うさを憂慮し、ケネディの長男で司法長官を務めていたロバート・ケネディに強く忠告しました。

これを聞いた息子は驚き、父を諌めます。こうして彼の忠告により、ケネディとモンローの間は終焉を迎えることとなりますが、同じくマフィアがらみでの縁であったキャンベルとの関係も間もなく終焉を迎えることになりました。

モンローは、その関係が終わりを迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク州のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティーに、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデー」の歌を披露しました。

この際に、ケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席したといわれています。

ちなみに、マリリンモンローは、この日から3ヶ月後の1962年8月5日、ロサンゼルスの自宅で薬物の過剰投与により死亡しました(36歳)。このモンローの死には、現在でもケネディやマフィアにまつわる数々の陰謀論が噂されています。

しかし、当の本人であるケネディもそのわずか一年半後、ダラスで暗殺されました。ジャクリーンのファーストレディーとしての経歴もわずか2年10カ月で終焉を迎え、ホワイトハウスを去ることになります。

そして5年後の1968年秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせました。このころまだ39歳の彼女は、単なる元大統領夫人という枠を超えて、ファッションアイコンとして世界の女性の憧れでした。

特にケネディ大統領が撃たれた時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして多くの人々の記憶に残っています。

この結婚を機に、ジャクリーンは、ケネディとの間にできた3人の子女とも距離を置くようになりました。しかし、再婚相手のオナシスの関係も愛情に結ばれているとは言い難く、1973年に飛行機事故で息子を失うとオナシスはより気難しくなり、二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていきました。

パリ16区フォッシュ通り界隈のアパルトマンをジャクリーン共々邸宅にもしていましたが、1975年3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていたといいます。



オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩むことになります。まだ50歳前のことでした。晩年のジャクリーンには、新たな恋人ができ、それはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマンでした。

しかし、テンペルズマンは結婚していました。妻と長く別居してはいたものの、離婚できなかったため、ジャクリーンと再婚することはありませんでしたが、仲睦まじかったといわれています。マサチューセッツ州沖にある、風光明媚なマーサズ・ヴィニヤード島で二人は穏やかに過ごし、齢を重ねていきました。

なお、ジャクリーンの相続したオナシスの財産は彼女のテンペルスマンの手によって数億ドルに利殖されたといいます。彼女の愛と金にまつわる話はゴマンとありますが、ここではそれには触れないでおきましょう。

その後1994年、ジャクリーンは自分が非ホジキンリンパ腫に罹患したことを知りました。

短い闘病生活の間に病は急速に進行し、5月19日ジャクリーン・オナシスは64歳で世を去りました。その死に際には、一度は袂を分かったケネディ家の人々が再び彼女のそばに集まりました。

その亡骸は、元の大統領夫人としてアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの墓の横に埋葬されています。

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サイロシティ 1900

写真は、米東部、バッファローにおける1900年(明治33年)頃の写真です。

バッファローはニューヨークからおよそ西北へ500km。五大湖のひとつエリー湖の東端に接し、ナイアガラ川の始点に位置します。すぐ北側に向かってナイアガラ川が北上し、この川はナイアガラ滝を経て、カナダ側のオンタリオ湖に達します。

この地方におけるヨーロッパ人の入植は、1758年のフランス人による入植地の開基をはじめとします。バッファロー川の河口に築かれたこの入植地一帯は、1825年にエリー運河が開通すると、ニューヨーク市と直結され、その商業上の価値を増しました。

通商のための拠点となるととともに、ナイアガラ滝を利用して作られる豊富な電力によって工業が盛んとなり、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られるまでになり、数カ所の製鉄所が煙を上げていました。




こうして、入植当初、約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した当時の人口は1万人を超えたといいます。

バッファローではまた、20世紀初頭から穀物産業もさかんとなり、アメリカ中西部の穀物が大量に運び込まれました。このため、街の中心を流れるバッファロー川沿いにはアメリカ最大規模の穀物倉庫が多数建設されました。

とくに、ビールの原料となる麦芽、それを製造するための大麦を貯蔵する大型サイロが立ち並ぶようになり、その後、穀物生産はさらに大規模になっていきます。

それにともなってサイロも大規模化すると高さ20メートル(ビルでいうと6~7階規模)直径7メートルもあるような巨大な「タワーサイロ」と呼ばれるようなものが次々と出現してきます。そしてやがてこの一帯は「サイロシティ」と呼ばれるようになりました。冒頭の写真がそれです。

下の写真の背後にそびえるのは、そのなかでも最大のサイロ、「グレートノーザンエレベーター」で、1897年に完成した当時は世界最大のサイロでした。

グレートノーザンエレベーター

「エレベーター」の呼称は、この巨大なサイロに穀物を搬入するエレベーターが併設されていたからです。

このころ、米中央部のグレートプレーンズと呼ばれる穀倉地帯でも、高さが40mを超える規模の穀物倉庫が数多く建設され、「プレーリーの摩天楼」と呼ばれる特異な景観を見せました。大型化したことにより巨大なエレベーターにて搬入を行うようになり、田舎にあるエレベーターという意味で「カントリーエレベーター」呼ばれることもあります。

また、穀物集積地にあるものをターミナルエレベーターと呼び、米南部のニューオーリンズはアメリカ合衆国の穀物輸出の一大拠点で、ターミナルエレベーターが多く設置されていました。バッファローのそれもまたターミナルエレベータといわれるべきものです。



さらに20世紀後半に入ってからの米各地のサイロは、鉄筋コンクリート製、スチール製、そして強化プラスチック製と多様化していきました。サイロシティに今もそびえ立つ背高のサイロの数々は、レンガ造りのレトロなものからコンクリート製、鋼板製の巨大サイロまでさまざまです。

しかし、タワーサイロは穀物を詰め込む作業から、取り出して船に積み込む作業まで、いずれも重労働です。そのうえ修理やメンテナンス費用が大きくて、新規に建てようものなら数千万円もかかりました。

このため、やがて低コストで、しかも重機を使って作業ができる、ラップサイレージやバンカーサイロなど低型サイロに移り変わっていきました。1993年ころまでにはほぼその役目を終えましたが、使われることの少なくなった塔型サイロは、現在に至るまで放置されています。

グレートノーザンエレベーターも1980年代後半、当時の所有者ピルズベリー社によって放棄されました。この建物はバッファロー川地区でも最も古いもののひとつですが、ほとんどが現在は稼働していません。

現在のサイロシティ(一部)

バッファローでは20世紀後半からは主要産業であった鉄鋼業も衰退し、治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていきました。

ただ、近年は市街地再開発が進み、医療、教育分野の育成が実を結び、今日では大都市でも治安はかなりいい方に数えられます。2001年にはUSAトゥデイ紙で「アメリカで最もフレンドリーな都市」であるとされました。また過去から現在に至るまで、すぐ近くにあるナイアガラ観光の基地としての役割も失ってはいません。




M4ガスマスク

ガスマスクを使った演習をするジョージ・キャンブラー軍曹 1942年9月 フォート・ベルヴォア、ヴァージニア。

フォート・ベルヴォアは、ワシントンD.C.のすぐ南に位置する場所で、現在、アメリカ陸軍情報保全コマンド(United States Army Intelligence and Security Command 略称:INSCOM)が置かれています。

1977年に、アメリカ陸軍の主要情報部隊を集約して出来た組織で、諜報、防諜、および情報作戦を行っています。INSCOMには、防諜、電子戦、および情報戦における重要な責任があり、さらに、I軍の近代化と訓練にも関わっています。

部隊防護(部隊の安全に関わる情報収集)も携わっており、よくわかりませんが、第二次世界大戦時には、その前身の組織が写真にあるようなガスマスクのテストを行っていたものと推察されます。




ガスマスクとは、毒ガス・粉塵・微生物・毒素などの有害なものや強烈な匂いをするものから体を守るために顔面に着用するマスクで、目など傷つきやすい組織や鼻・口を覆うものです。

初期の物は軍用ではなく民生用だでした。1799年にドイツの博物学者兼探検家で鉱山技師でもあった、アレクサンダー・フォン・フンボルトが開発した粉塵防護用の物が最初だと言われています。

1854年にイギリスでステンハウス式ガスマスクが販売されましたが、これは、普通のマスクに活性炭フィルターを付けた程度で目を防護する機能がありませんでした。

日本でも、幕末の1858年(安政4年)ごろに備後国の医師宮太柱が、銀山における防塵マスクとして、鉄の枠に梅肉を布で挟み込んだ「福面(ふくめん)」を開発し、石見銀山で使用したとされます。

1874年に酸素ボンベを背負って酸欠状態でも活動できるスバートン式が開発されましたが、これが現代でも消防で使用されている物の原型です。

アメリカ軍におけるガスマスク開発の歴史は、第二次世界大戦前あたりがはじまりと思われ、大戦中は「M4ガスマスク」が使用されていました。おそらくは写真のものがそれか、その改良形を実験している様子と思われます。




第二次世界大戦中には大規模な化学兵器戦は行われませんでしたが、各部隊にかならず装備されていたため、次のような本来の用途とは違う使い方もされていたようです。

・キャニスターのフィルターを浄水器の代わりにして飲料水を濾過する。ただし、フィルターが濡れているとガスマスクとして使用できないため、規則で禁止されていた。
・顔面を凍傷から守る防寒具。
・ガスマスクを携行するケース(布または金属製)を、雑嚢代わりに使う。

その後、第一次世界大戦が勃発し、化学兵器が大規模に使用されたことに対する防御手段として各国の軍に採用されるようになります。イギリス軍では、1915年2月に目を覆うゴーグルと民間用のガスマスクをセットにした簡易ガスマスクの支給を始め、その年の後半からは本格的なガスマスクを支給するようになりました。

旧ソ連軍では、自動車化狙撃兵(機械化歩兵)という特殊部隊がガスマスクを呼吸器として流用していました。

演習で戦闘状況に入ると装甲兵員輸送車のハッチがすべて閉められるため、車内の換気が極端に悪くなります。

このため、兵士たちは隔離式のガスマスクを装着し、吸収缶を外すとホースの先端を銃眼から外に突き出して、少しでも新鮮な外気を吸おうとしていたといいます。

アメリカ軍もその後、ガスマスクの改良を重ねています。米軍の装備には代々Mのアルファベットが付けられるのが慣習で、戦後の1960年代にM17ガスマスクが開発され、軍に採用されるとこれがベストセラーとなりました。以後30年にわたってM17A1、M17A2と改良されながら使用されています。

しかし、1991年の湾岸戦争で砂漠での使用に不向きであることがわかると、新型機の開発と配備が急速に進められ、 M40 Field Protective Maskが採用されました。2009年12月からは最新式のM50ガスマスクへの更新が進められています。


M40 Field Protective Mask


最新式のM50ガスマスク

このM50ガスマスクは核・化学・生物兵器に汚染された状況下で24時間の連続使用ができるといい、小型軽量で不快感を減らし、より効果的です。大きな特徴として、フィルターの使用期限が切れると青くなる指標が付けられているそうです。

ちなみに、日本の陸上自衛隊の防護マスクは、「個人用防護装備」の中に含まれており、平成12年に85式防護マスク4型および88式戦闘用防護衣の後継として採用されました。制式名称は「00式個人用防護装備」と呼ばれています。

平成13年から普通科教導連隊や第14普通科連隊等、警備隊区内に重要防護施設が存在する部隊から優先的に配布され、順次戦闘用防護衣との更新が進んでいます。

陸上自衛隊の個人用防護装備

全備重量:7.7kg。防護マスクは内蔵式であり、有毒ガス、液滴、空気中を浮遊する微粒子状物質から全身を保護します。マスクは旧型よりも視界が広くかつ目ガラスが従来のガラスから強化プラスチックに変更されています。また、従来品と違い眼鏡を着用している隊員もそのまま装着出来るように仕様変更されています。

防護マスクは、防護衣ともに有毒化学剤およびフォールアウト(核兵器や原子力事故などで生じた放射性物質を含んだ塵、放射性降下物のことで、一般には死の灰という)に対処できます。防護衣は汗を外部・内部へ発散することが出来るという優れものです。

しかし、地下鉄サリン事件において防護衣を着用した隊員が作業中尿意を催しても対処できず、実に8時間後作業終了後にトイレに駆け込む事案が発生したため、「排尿」を目的とした装備も封入されているそうです。

北の脅威が高まっている昨今、できるだけ使われないことを祈りたいものです。




The largest perfect crystal globe

写真は、世界最大とされる無色透明な水晶球です。

直径32.7cm、重量48.5kg。アメリカの国立自然史博物館所蔵で、水晶の後ろに立っている人物は、ジョージ・パーキンス・メリル博士(George Perkins Merrill、1854-1929)。

アメリカ合衆国の地質学者で、隕石や隕石クレーターの研究などを行っていた人物です。細かい経歴はわかりませんが、メイン州、Auburn に生まれ、メイン大学 (University of Maine)、コネチカット州のウェズリアン大学、ジョンズ・ホプキンス大学で学んだ後、1881年にスミソニアン博物館の学芸員となった、とされます。

1893年から1916年までジョージ・ワシントン大学(当時はColumbian大学)の地質学、鉱物学の教授も務めたのち、1897年、43歳のとき、スミソニアン博物館の学芸員長に任じられました。

全く無名の学者、というわけではなく、1922年に全米科学アカデミーの会員に選ばれ、J・ローレンス・スミス・メダルを受賞しています。鉱物学者、ローレンス・スミスの功績を記念して、全米科学アカデミーが、流星、隕石などの研究に関する研究に対して授与するもので、賞金は現在、5万ドルです。




このローレンス・スミス(John Lawrence Smith、1818-1883)のほうは、元医師で、鉱物学の分野で功績のあった学者です。1846年から1850年の間、トルコ政府のために、鉱物資源の研究を行い、ナクソス島の有名なエメリー鉱石の鉱脈を発見したことで知られます。

エメリーとは、19世紀末にカーボ ランダムの製造 が工業化されるまでは、研磨材の主体をなしていたもので、ギ リシヤやトルコ、北米などの主産地は重要資源でした。化学者としても知られ、倒立型顕微鏡を発明するなどの功績もあります。隕石の収集を行ったことでも知られ、スミスのコレクションは没後、ハーバード大学に寄贈されました。

メリル博士が学芸員長を務めたスミソニアン博物館は、正式には「スミソニアン国立自然史博物館:National Museum of Natural History)といい、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.にある博物館で、植物、動物、化石、鉱石、岩石、隕石の標本や文化工芸品など、総数にしておよそ1億2千5百万個を超えるコレクションを誇る、国立の博物館です。

スミソニアン博物館は、ひとつではなく、全部で15の博物館からなる「博物館群」であり、国立自然史博物館はその一つです。博物館の所有物はスミソニアン協会の所有物の大半を占め、またスミソニアン博物館群の中では二番目に人気が高いとされています。

また、およそ世界各国185人の自然史学者の拠点ともなっており、これは世界における自然及び文化史の研究に貢献する「科学者団体」としては、最も規模の大きいものです。

写真にある水晶玉がどういう由来のものかについては、いろいろ調べてみましたがわかりません。写真は1925年のもので、下にある最近撮影されたらしい写真の撮影年が2008年となっていることから、少なくとも83年以上の歴史はあるものということになります。

水晶玉とは水晶を球状に加工した物のこと。一般的に色の付いた水晶ではなく、無色透明な水晶が材料として選ばれます。定義の上では球状に加工した水晶であれば水晶玉と言えるので、その大きさは問われませんが、後述するように一般的に人間にとっては、その用途ゆえに扱いやすい大きさであることが求められます。

古くから作られてきたと言われているものの、いつ頃から作られだしたのかは定かではありません。

水晶は宝石の一種として扱われることもありますが、無色透明な水晶は地球の大陸地殻ではそれほど珍しい鉱物ではありません。しかも水晶はクォーツ時計など工業用途にも利用されるため、人工的に生産されることすらあり、こちらは「人工水晶」とよばれます。人工生産できるため、大きくて無色透明な水晶を入手することも比較的容易です。



しかし、天然の水晶は主に六角柱状の結晶として産出するので、円形にするためには加工が必要になり、大昔には貴重品でした。比較的硬い鉱物であるため曲面に加工するのは難しく、他の宝石ほど希少ではないものの、それを球状に加工することに高い希少性が発生します。

硬度が高くないため、近代においては身に着ける装飾品として使われることはそれほど多くはありませんが、大昔には希少な装飾用具のひとつでした。水晶にはこのほか呪術的な力があるとされ、昔からパワーストーンとして扱れてきました。

スクライング(scrying)に用いられることも多く、これは水晶を見つめることにより、眼に入った物理的光に対応しない視覚イメージ、すなわち幻視を得ることです。古くから占いの方法として用いられ、儀式魔術では霊的存在の姿を確認したり、霊界のビジョンが得られるなどとされてきました。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「水晶球」 (1902)

科学的な根拠は何らありませんが、透明な水晶は、純粋な白い光を反射して、強いヒーリングエネルギーを作り出し、すべてを浄化し、清めてくれる、といいます。

また「場のエネルギー」を整え、持つ人のエネルギーを高めたりする、といわれます。わが家には10cm大の水晶のほか、大小の水晶があり、家の中のパワーを高めてくれています。

各種の宝石店などで入手できますが、問題は人工のガラス玉をつかまされること。そうならないためには信頼できる店を選ぶことが重要です。

自分で見分ける方法はいろいろあるようですが、ひとつには、本物の水晶を通して細い線を見るとある一定の角度で二重に見えます。髪の毛か何かを透かしながら水晶を廻してみると、どこかで二重線になるはずです。

ガラスではこのような現象はおこりません。また、人工的な美しさと天然の自然の美しさとの違いは全く違います。自分の目を信じて確認してみましょう。




TORPEDO SHOP 1917

Title: NAVY YARD, U.S., WASHINGTON. TORPEDO SHOP
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: 1917. 大正6年
Medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller

写真は、アメリカ東海岸、ワシントンD.C.にある海軍工廠での写真で、“TORPEDO SHOP“は「魚雷工場」です。年は1917年、日本では大正6年で、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦、第一次世界大戦の真っただ中の写真です。



アメリカは、1917年4月6日にドイツへ宣戦布告しており、さらに12月にオーストリアに対しても宣戦布告しています。日本はこれより3年早く1914年にドイツに宣戦布告して、参戦しています。

この大戦でアメリカはドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国軍とたたかいましたが、目立った海戦は行っていません。が、ヨーロッパ戦線での戦闘を支援するためジョン・パーシング将軍指揮の下、大量の兵士を派遣しており、その兵員輸送のために海軍が総動員されています。

また、大戦中の1915年にドイツ潜水艦U-20により攻撃されて沈没したルシタニア号の事件やドイツの無差別潜水艦作戦などによって、世論ではドイツ非難の声が高まっており、ドイツとの海での海戦に備えての数々の準備を行っていました。冒頭の写真は大量の魚雷を製造している現場であり、おそらくはその一環だったでしょう。



魚雷は、大砲と比べ小型な発射機で運用できる上、たくさんの火薬を搭載して目標にぶつけることができるので、この当時から、モーターボートのような船でも大型戦艦を撃沈する能力をもっていました。

そのため魚雷が実用化された1870年代には、魚雷を搭載した小型艇として「水雷艇」が新たに開発されました。水雷艇は大型艦に肉薄し、魚雷による攻撃を行いますが、この水雷艇を駆逐し大型艦を守るために、逆に駆逐艦が開発されました。

ところがこの駆逐艦も魚雷が主兵装の一つだったため、やがては駆逐艦が水雷艇の役割も果たすようになり、現在に至っています。

さらに潜水艦による水中からの魚雷攻撃や航空機から投下される魚雷(航空魚雷)も第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになりました。

現代の魚雷は目的により大きく2種類に分類されます。一つは主として対艦攻撃用の大型・長射程の魚雷であり、長魚雷(重魚雷)であり、もう一つは対潜水艦攻撃用の小型・短射程の魚雷で、短魚雷(軽魚雷)と呼ばれます。

初期の魚雷は制御装置をもたなかったので潮流や波の影響を受けやすく、目的の方向に真っ直ぐ進むことすらままならなかったようです。航走距離が短かったこともありますが、命中させるためにはできる限り目標に接近して発射することが要求されました。

第一次世界大戦の頃になると、深度、速度、進路の調整を可能にする装置が開発されました。これにより命中精度が向上するとともに、標的に対して放射線状に複数の魚雷を発射することや、航行する遠距離の艦船も攻撃目標とすることなどが可能になりました。

そのひとつ、Mk10はアメリカ合衆国で運用された魚雷です。E・W・ブリス社とアメリカ海軍魚雷局(Naval Torpedo Station)が開発したもので、1915年よりアメリカ海軍に配備が開始され、1945年まで用いられています。

冒頭の写真の撮影年は1917年であることから、このMk10だと考えられます。R級潜水艦やS級潜水艦において主兵装として搭載されました。対水上艦用の無誘導魚雷であり、アルコール・水併用の蒸気タービン推進であったようです。

Mk10は第一次世界大戦のみならず第二次世界大戦の全期間を通じ、潜水艦隊で運用され続けましたが、この魚雷の後継として開発されたものはいろいろ問題が多かったようです。

とくにアメリカ海軍が第二次世界大戦時に使用したMk13、Mk14、Mk15魚雷は当初性能が悪く、命中しても爆発しないことがたびたびありました。日本海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸は、1943年7月24日に米潜水艦ティノサから12発の雷撃を受けましたが、うち10発が不発でした。

船体両舷に不発魚雷10発が突き刺さったままトラック島に曳航されてきましたが、その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから「花魁船」と言われました。

また、ガトー級潜水艦タリビー、バラオ級潜水艦タングのように舵の故障により発射した魚雷が潜水艦自身に命中して沈没するという悲劇も生じました。両者とも、発射した魚雷のうち1本が、円を描いて自らに命中したのでした。

しかし、大戦末期になるとアメリカ軍はこれらの欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力をもつHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えました。


サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ
で展示されたMk.14魚雷

現在、魚雷の推進方式には、電気、ガスタービンモノプロペラントなどさまざまなものがありますが、近年の魚雷には、推進器にポンプジェットを採用したものも出てきており、その速力は60ノット(時速111km)を超える場合もあります。

アメリカ合衆国の最新型魚雷の一つである Mk.50 バラクーダの推進装置は、閉サイクル蒸気タービンであり、これは液体金属燃料のリチウムと六フッ化硫黄を閉鎖空間で燃焼させることにより、魚雷外への排気を不要としたものです。

深海においても使用が可能であり、さらに、弾頭にはHEATとよばれる成型炸薬弾が使われており、これは対戦車用の砲弾と同じ威力を持ち、敵潜水艦の強固な耐圧船殻を破壊できるようになっています。

なお、日本の海上自衛隊が採用した日本製の97式魚雷も同程度の性能と互換性を有しています。