バーミングハム ~民権運動の町

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バーミングハム(Birmingham)はアメリカ南東部にある、アラバマ州の最大都市です。極めて、といっていいほど日本人には馴染のない州なので、どこだか見当がつかない、という人もいるでしょうが、位置的には、フロリダのすぐ左上になります。

写真は、この町におけるメッセンジャーボーイの写真です。きりりとしたまなざしをしており、いかにも機敏そうです。服装からおそらくは、警察関連の仕事をしていたのではないかと考えられます。撮影は1914年、この町の人口が急激に減ったころのものです。

市名はイギリスのバーミンガム市にちなんで名付けられましたが、バーミンハムと呼ばれることのほうが多いようです。

南北戦争が終結して6年後の1871年、鉄道路線が交差する場所に町がつくられたのがはじまりです。しかしその後、アラバマ州では、南北戦争後も、継続する人種差別、農業不況、ワタミゾウムシの蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住しました。

これが、グレートマイグレーションと呼ばれるものです。20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていき、1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになりました。

しかしその後、アパラチア山系の豊富な石炭や鉄鉱石を利用し鉄鋼業がさかんになると、田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住しました。

この結果、バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増するとともに、「南部のピッツバーグ」と呼ばれました。しかし、1930年代の大不況では深刻な打撃を受けました。ただ、その後は持ち直し、第二次大戦が始まると、バーミングハムが属する、ジェファーソン郡には軍需産業の拠点が築かれたことから、この町にも再び活気がでました。

戦後は、製造業とサービス産業が隆盛するようになりましたが、片や綿花など換金作物はその重要性を失っていきました。

市民のマジョリティはこの当時から黒人であり、現在でも市人口の70%以上が黒人です。かつてはアメリカで一番人種差別がひどい町とまで言われた。そのため1950年代から1960年代にかけては黒人の公民権運動のひとつ、「バーミングハム運動」の舞台となりました。

バーミングハム運動は、黒人解放運動で高名な、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと南部キリスト教指導者会議 (SCLC)が組織し展開したもので、この当時アメリカ各地で活発化した公民権運動のひとつです。バーミングハムにおける、主としてアフリカ系アメリカ人に対する不平等を正そうとする運動でもあります。

この運動は1963年春に行なわれ、黒人の若者と白人側の市当局との対立を広く知らしめることになり、最終的には市政府に差別的な法律を変えさせる圧力となりました。キング牧師率いる運動家らは、不公正と考えられる法律に対して、非暴力による直接行動の戦術を用いました。

1960年代初め、バーミングハムは米国でも最も人種分離の激しい都市のひとつで、黒人市民らは暴力による報復と同様に、法的および経済的な格差に直面していました。これに講義したキング牧師は、1963年4月にバーミングハム市警に逮捕され、また同年9月にはクー・クラックス・クランにより教会が爆破され犠牲者が出るようになりました。

このため、全ての人種に雇用機会を与え、公共施設やレストラン、店舗における人種差別を終わらせるという目標のため、企業家に圧力を与える不買運動などのボイコットを行おうと、黒人たちは立ち上がりました。

企業家らがボイコットに抵抗すると、SCLCの運動家ワイアット・ティー・ウォーカーとバーミングハム住人のフレッド・シャトルワース牧師は、Confrontation(対立)の頭文字Cをとって「プロジェクトC」と名付けた一連のシットインとデモ行進を開始し、大量逮捕の誘発を目論みました。

シットインとは、「座り込み」のことで、文字通り座りこむだけの抗議行動です。公道や自治体の施設前などで座り込むことによって、公的機能を麻痺さえるため、大量逮捕につながりやすくなります。

しかし、あまりにもたくさんの運動者が逮捕されたため、これによって運動に参加する大人のボランティアが足りなくなると、SCLCの指導者たちに訓練された高校生、大学生、さらには小学生らがデモ行進に参加し、数百名の逮捕者を出すようになりました。

抗議活動をやめさせるために、ユージーン・”ブル”・コナー署長が率いるバーミングハム警察は、子供たちや無関係の見物人に対しても消防用の高圧放水と警察犬を用いました。これらの出来事を伝えるマスコミ報道によって、南部の人種差別は非常に強く注目されるようになっていきました。

運動で繰り広げられた暴力的なシーンには世界から抗議の声が上がり、ついには、この当時の大統領、ジョン・F・ケネディ政権による連邦政府の介入まで引き起こしました。運動の終結までにキングの名声は高まり、コナーは失職しました。

黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律、「ジム・クロウ法」を示す標識は取り外され、公共の場所は黒人にとってよりオープンになりました。こうして、多くの犠牲者を出すことなく、効果的に抗議運動を展開できたことで、バーミングハム運動はその後、全米中の直接行動の抗議の手本となっていきました。

さらには、黒人のアメリカ人への不当な扱いにマスコミの注目を引きつけることとなり、運動は人種差別の問題において全国的な力を生み出しました。その後人種差別撤廃が急速に進むことはありませんでしたが、徐々にこうした動きは全米に広まったきっかけとなり、この運動は1964年の公民権法の成立に向けて国を後押しする重要な要因となりました。

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こうして、バーミングハムは、アパラチア山脈の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼都市としてますます栄えるようになりました。現在では鉄鋼、金属関連の企業が多く本社を置いており、金属製品製造大手のAmerican Cast Iron Pipe Company (ACIPCO)、 水道管大手のMcWaneなどは特にバーミングハムを代表する大企業です。

また、1970年代~1980年代に、同市の経済は転換期を迎え、医療やバイオケミカルの分野も発展するようになりました。されに現在では、バーミングハムは金融の分野で全米に知られるようになっています。

現在では、アメリカ南東部における最も重要なビジネスセンターの一つであり、同時にアメリカ最大の銀行業の中心地のひとつとして発展しています。銀行業のRegions Financial Corporationを初めとする全米屈指の銀行や保険業者もここに拠点を置くようになっているほか、AT&Tグループに属する電話が会社の拠点もあります。

バーミングハムには、これといって観光の名所というところはありません。が、アラバマはソウル・ミュージック、カントリー・ミュージック、ブルース、ブルーグラスなどルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた州であり、州内にはあちこちにそうした音楽関連の施設があるようです。

また、最南部にはモービルの町があり、ここにはメキシコ湾に面したビーチを持っており、この海浜は州経済の大きな収入源です。モービル近郊のガルフコースト一帯は白砂の海岸が広がり、穴場のビーチリゾートにもなっています。

沿岸は新鮮な海の幸が豊富で、シュリンプを始め、クラブ、オイスターなどの料理が名物。映画、「フォレスト・ガンプ」の舞台となったことでも知られ、以後は観光都市として注目を浴びるようになっています。一度お出かけになってみてはいかがでしょうか。

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ビンガムキャニオン鉱山 ~ユタ州

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写真のビンガムキャニオン鉱山のある、ユタ州は、19世紀後半から、鉱業が盛んであり、多くの会社が職を求める移住者を惹きつけてきました。今日でも鉱業はユタ経済にとって主要産業であり続けています。産出される鉱物は、銅、銀、モリブデン、亜鉛、鉛、ベリリウムなどであり、化石燃料として石炭、石油、天然ガスなども産出されています。

その代表的存在とされるのが、ビンガムキャニオン鉱山であり、ここには、世界最大の露天掘り鉱山です。世界最大といわれる採掘穴もあり、この穴での採掘は、1863年から発掘が始まって以後現在も続けられており、穴もどんどん大きくなっていて、現在直径4キロほどもあるそうです。

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「ユタ」の名は、この地に先住するインディアン部族、にちなみます。ユテ族といい、ユテの意味は、「山の民」です。

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州都および最大都市はソルトレイクシティであり、州人口およそ280万人の約80%はソルトレイクシティ市を中心とするワサッチフロントと呼ばれる地域に住んでいます。このために州内の大半の地域にはほとんど人が住んでおらず、ユタ州は国内で6番目に都市集中が進んだ州となっています。

前史時代からインディアンが住んでいましたが、ヨーロッパ人によって19世紀後半に始まった探検時代には、ナヴァホ族など5部族のインディアンが住んでいました。

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 ユタ州南部のザイオン国立公園、州内には5つの国立公園がある

そこへ、「末日聖徒イエス・キリスト教会」すなわち、モルモン教の信者たちが入植してきました。彼等は当初、教団の創始者、ジョセフ・スミス・ジュニアの指導を受けて五大湖南部のイリノイ州で生活していましたが周辺住民から迫害を受け、信者11,000人以上は、近隣との争いが絶えず、宗祖のジョセフ・スミスも殺害されました。

それを引き継いだのが、教会の大官長ブリガム・ヤングで、ヤングとモルモン開拓者の最初の集団は1847年にソルトレイク・バレーに移住し、その後の22年間、7万人以上の開拓者が平原を横切り、ユタに入ってきました。

1847年に最初の開拓者が到着した時のユタはメキシコ領でした。しかし、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(墨西哥)の間で勃発し、これは米墨戦争と呼ばれましたが、アメリカが勝利しました。

この結果、現在のアメリカ合衆国南西部がメキシコから委譲され、その中に含まれていたユタは、「ユタ準州」として1850年に創設されました。知事は、無論、指導者のブリガム・ヤングです。ユテ族インディアンに因んで、州名はユタとされ、1856年にはソルトレイクシティ市に準州都が移りました。

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 ブリガム・ヤング

市民のほとんどは、当然モルモン教徒でした。彼等がイリノイ州でも嫌われた理由のひとつは、その教会員の中で複婚すなわち一夫多妻制を実行していることであり、このため、準州に昇格したあとも、モルモン教徒と周囲の州、あるいはアメリカ合衆国政府との間に軋轢が絶えませんでした。

モルモン教徒が一夫多妻制を実行しているという話が広まると、彼等は非アメリカ人であり、反逆者と見なされるようになります。1857年、モルモン教徒であった元陪席判事が、職務放棄をするとともに不道徳な行為を行っているという、悪質な告発があったのを受け、時のジェームズ・ブキャナン大統領は、ユタに軍事遠征隊を派遣しました。

この2500人の派兵に対し、教団側はそれに勝る3000人の兵を集め、政府と対決する姿勢を示し、一触即発の事態となりました。

そんな中、1857年9月11日、アメリカ東南部のアーカンソー州からカリフォルニア州を目指し移動していた開拓団がソルトレイク郊外に滞留しました。このとき、これを耳にしたモルモン教徒の中に、この開拓者一行の中に初代教祖を殺害した者がいるというデマが流れました。

このため、教団の一部の急進派が武装蜂起し、この開拓民を襲撃して虐殺しました。これが世に言う「マウンテンメドウの虐殺」と呼ばれるものです。彼等は、この武装集団の指導者、ジョン・D・リーという人物の指令のまま、7歳以下の18人の子供を除く、約120人の男性、女性、およびティーンエイジャーのすべてを殺害しました。

大統領の命により派遣されてきていたアメリカ陸軍はこれをうけて、教団に対して攻撃を開始、戦闘状態に陥りましたが、この交戦を「ユタ戦争」と呼びます。政府軍とモルモン軍との戦争は、モルモン軍が政府軍の物資基地を焼き討ちにすることに成功し、彼等に有利に動きました。

このため、政府軍は冬の到来とともに11月には北東のワイオミングに撤退を余儀なくされます。その後も戦意が下がる一方の政府軍でしたが、そんな中、首都ワシントンでは、非モルモン教徒で、指導者のヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインという人物が和平交渉を買って出ました。

紛争の長期化を恐れていた、ブキャナン大統領は、この申し出を渡りに船とばかりに喜び、彼をユタ準州との仲介者に立てることを了承します。

こうして、1858年の2月にケインがソルトレークに到着し、ヤング知事らとの交渉の末、秋には和平が成立しました。事後処理としては、政府はモルモン教徒を処罰しない、その代わりに政府はユタを占拠しない、そして、ヤングに代わり政府からの知事を受け入れるといったことが決まりました。

こうして、戦争は終結したものの、連邦政府によりマウンテンメドウの虐殺の徹底解明と責任が問題として残されました。虐殺の主導者、ジョン・リーは、長らく教団に匿われていましたが、教団と政府の和解が進む中、全ての責任を負わされる形で逮捕され、虐殺事件の発生地で銃殺刑にされました。

また、教団側は、その後連邦政府との軋轢の解消に努めるようになり、およそ30年後の1890年には、軋轢の主因となっていた一夫多妻制を自主的に中断しました。

ユタ戦争の終結後、ブリガム・ヤングに代わってアルフレッド・カミングが準州知事に就任し、ヤングは準州政府の実権をカミングに渡しました。が、その後もヤングが準州の実権を持ち続けたといわれています。大統領が指名した知事が辞任することが続き、これが準州政府の伝統になっていきました。

その後、南北戦争が始まり、1861年には連邦政府軍がユタ準州内から撤退する、という事態も発生しましたが、翌年には、北軍将軍であるパトリック・コナーがカリフォルニアの志願兵連隊を率いて到着しました。

コナーは、非モルモン教徒を準州内に誘致することを奨励しましたが、こうして入植してきた移民が、準州内のトゥーイル郡で鉱物が発見しため、他州から多数の坑夫達が集まり始めました。

1869年には、グレートソルト湖の北、プロモントリー・サミットで最初の大陸横断鉄道が開通し、この鉄道開通によって次第に州内に入る移民の数はさらに増え、そのうちの一部は影響力ある事業家となり、資産を築くようになりました。

1870年代と1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止しました。これを受けて、ユタが州昇格を連邦政府に申請したところ、これが認められましたが、このとき州昇格を認める条件の1つとして、州憲法に一夫多妻制の禁止が盛り込まれました。州昇格は1896年1月4日に正式のものとなりました。

その後のユタ州は、平和のまま推移しました。1953年、ネバダ州にあるネバダ核実験場においてなされた核兵器の核実験による「死の灰」が、南部のセントジョージ市などに到達し多数の住民が被曝する、という事件などがありましたが、1978年よりサンダンス映画祭が毎年にパークシティにおいて開催されるようになるなど、文化的な活動も増えました。

20世紀の初期から州内にブライスキャニオン国立公園やザイオン国立公園などの国立公園が設立され、ユタ州は自然の景観美で知られるようになり、観光客も増えました。1950年代、1960年代、1970年代と州間高速道路が整備され、とくに州南部の景観が良い地域へアクセスしやすくなりました。

1939年にアルタ・スキー場が開設されてからは、世界でも名高いスキー・リゾートとなり、ワサッチ山脈の乾燥しパウダー状の雪は世界でも最もスキーに適していると考えられています。ユタ州の車のナンバープレートには、「地球上でも最も偉大な雪」という表示があります。

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冬季のグレートソルト湖

こうした全米でも有数の冬季のリゾート地という評価を受けるようになった結果、ソルトレイクシティ市は1995年に2002年冬季オリンピック開催地に選ばれ、この大会は地域経済に大きな好況をもたらしました。スキー場の人気が高まり、オリンピックに使われたワサッチフロントに散らばる多くの会場は、現在でもスポーツイベントに使われています。

さらにこのオリンピックは、UTA TRAXと呼ばれる軽鉄道(ライト・レール)が、ソルトレイク・バレー内に造られ、これは市周辺の高規格道路の再整備に繋がりました。

20世紀後半にユタ州は急速に成長し、今日でも州内のあちこちで、人口増加が起こっています。全米でも成長率の高い州です。ただ、開発のために農業用地や原生地がなくなっていくので、交通と都市集中が大きな悩みのタネとなっているようです。

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 モルモン教のソルトレイク神殿、主要な観光地となっている

 

キャンベル・キッド

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写真は、”Campbell Kid”と呼ばれるこの当時流行した人形で遊ぶ少女たちです。ニューヨークで1912年3月に撮影されました。

Campbell(キャンベル)といえば「スープ」、というぐらい、スープ缶詰を売りにした会社です。起業当時以来、広告に多額の投資をしており、最もよく知られているのが、この「キャンベル・キッズ」スープシリーズの広告です。

この人形には名前があり、「ドリーディングル」といいます。そのもととなったのは、人気コミック作家だった「グレース・ドレイトン」の作品で、「ピクトリアル・レヴィー」という女性誌の中に描かれていました。

写真で少女たちが遊んでいるような人形もこのコミックとのコラボで発売されたようですが、なにぶん100年以上も前の話であり、おそらく現存していたとしても非常に希少なものでしょう。下のイラストがこのドリーディングルであり、冒頭の写真と見比べてみると、写真のほうは横向きに寝せてありますが、同一のものであることがわかります。

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キャンベルの最もよく知られた製品といえば、その濃縮スープでしょう。近年では非濃縮の特製スープ、乾燥スープミックス、グレイビー(肉汁ソース)を始めとするその取扱濃縮食品に加えて、より広範囲の食品全般を包括するまでに成長しています。

キャンベルは1869年に青果商のジョセフ・A・キャンベルとアイスボックスメーカーのエイブラハム・アンダーソンの手によって設立されました。設立当初の社名は「ジョセフ・A・キャンベル保存加工会社」と呼ばれ、缶・瓶詰めのトマト、野菜、ゼリー、スープ、薬味や挽肉を製造・販売していました。

1896年になる頃、アンダーソンは共同事業を退き、新会社「ジョセフ・キャンベル株式会社」を再建・組織するために最初の会社をあとにしました。1897年、新しいキャンベル社の協力者となる、ジョン・T・ドーランス博士が、週給僅か7ドル50セントの賃金で働き始めます。

マサチューセッツ工科大学とドイツのゲッティンゲン大学で学位を取得する程の才能に溢れる化学者であったドーランスは、最も割合の大きい材料である水の量を半分に減らすことにより、スープを濃縮する商業的に実現可能な製法を開発しました。

世紀が20世紀へと変わる頃、当時アメリカの食生活においてスープは必需食料品ではありませんでしたが、ヨーロッパではよく食べられていたものでした。しかし、ドーランスの開発した濃縮スープは、1缶10セントという手ごろな値段とその利便性がすぐに大衆の間で大人気となりました。

1900年にはパリ万国博覧会にこの濃縮スープ缶製品が出品され、現在もそのラベルには、このとき受賞したゴールドメダルがあしらわれています。

その赤と白のデザインは、1898年、キャンベルズの重役の一人であったハーバートン・ウィリアムズが、自身も参加していたコーネル大学のアメリカン・フットボールチームで使用されていたユニフォームの爽やかな色彩に感化されて採用されたものです。

ウィリアムズが重役会にこの赤と白のラベルデザイン案の採用を打診した結果採用となりましたが、そのデザインと上述の1900年パリ万国博覧会で獲得したゴールドメダルの組み合わせは、今日までほとんど変わっていません。

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キャンベル・スープ社は、冒頭のキャンベル・キッズなどの広告キャンペーンを初めとして他にも多数の広告を出しており、過去にその販売推進キャンペーンに使用されたデザインの多くは、現在でもアメリカの収集用広告市場でも価値のあるものとなっています。

1916年に出版された「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」の中でキャセロール料理のつなぎとして手作りしたクリームソースの代わりに濃縮クリームスープの缶詰を使うことが提案され、北米の家庭料理から手作りのクリームソースが駆逐されるきっかけとなりました。

野菜ジュースである「V8」が発売された1933年以降、この当時の映画俳優で、のちにアメリカ合衆国第40代大統領となる、ロナルド・レーガンに依頼し、彼の姿が宣伝用ポスターなどに使われました。

1949年には「”Easy Ways to Good Meals”(簡単にできる美味しい食事)」というレシピ小冊子の中でスープの缶詰を2、3種類混ぜ合わせて新しい味を作り出す提案をしています。ただし、缶詰のスープを混ぜ合わせること自体は1930年代にすでに行われており、キャンベル・スープ社の発案ではありません。

1968年には、1960年代に流行していたペーパードレスにスープ缶が描かれた「スーパー(Souper)ドレス」を、スープ缶を2缶購入した消費者に1ドルで提供しました。

このほか、キャンベルズ製品のメニューブックや、料理本シリーズである「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」なども製作しています。この中でこの当時とくに親しまれたレシピの一つには、現代人の味覚としては少々へんな感じがしますが、「トマトスープ・ケーキ」などでした。

同社は著名な商業用公演施設も所有しています。主なものに、以前はアメリカ人俳優のオーソン・ウェルズがニューヨークに設立したマーキュリー劇場があります。現在では、キャンベル・プレイハウスに名称を変更しています。キャンベルズはまた1938年の12月に、この劇場が運営するラジオ劇場番組のスポンサーを引き受け、現在でも続けています。

1994年時点での売り上げ上位3製品はチキン・ヌードル、クリーム・オブ・マッシュルーム、トマトでした。消費者は一年毎におよそ25億個ものスープ缶を購入しているといい、最新のデータはよくわかりませんが、おそらくこれ以上の売り上げがあるのではないでしょうか。

至る所で目にするその赤と白の缶のデザインは、1960年代のアメリカを代表するポップアートの芸術家・アンディー・ウォーホルの作品「キャンベルのスープ缶」の素材となったことでも有名です。

この缶を題材とし、1962年から1968年にかけて描かれた因習打破的な一連の絵画は、その多くがペンシルベニア州にあるアンディー・ウォーホル美術館(ピッツバーグカーネギー美術館)に展示されています。

ウォーホルの作品として取り上げられたことを祝すキャンペーンとして、2004年に同社は、通常の赤と白のデザインとは異なるラベルの全4種の限定デザイン缶を公表しました。これら新しいラベルはウォーホルの絵画を模してシルクスクリーンの色調を使用し、上半分が影部分で底側半分は違うデザインといったものです。

その一つにはオレンジ色とピンク色を基調とした部分のものがあり、別の影部分は青色である。通常の缶のデザインラベルから逸脱したこのキャンペーンは、同社の100年を越える歴史の中でも数少ない珍しい事例となりました。

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これら限定デザイン缶の販売はアメリカ合衆国東海岸を中心に展開され、アメリカの大手スーパーの一つであるジャイアント・イーグルを通じて西海岸側でもゆっくりと流通の幅を広げています。

日本においては、キャンベル・ジャパンとSSKセールスを通して日本向けに味を調整した製品が数種類発売されているほか、都市部の輸入食料品店ではオリジナルの各種スープが販売されています。

また、沖縄県では米軍統治時代から家庭の常備食として広く親しまれており、特定の銘柄については米国とほとんど変わらない価格(1缶数十円程度)で購入することが可能だということです。

客船オリンピック

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オリンピックは、1900年代にイギリスのホワイトスターライン社が、イギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどを結ぶ大西洋航路に就航させた客船です。

姉妹船に、タイタニックとブリタニックがありますが、タイタニックはご存知のとおり氷山にぶつかって沈没し、ブリタニックは第一次世界大戦中にドイツ軍の敷設した機雷に接触して浸水、こちらも沈没しました。

不幸で短命だったこれら姉妹船と異なり、オリンピックは24年におよぶ長い就航期間と、逆に軍艦を沈める戦果を上げるなどの活躍ぶりから「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持ちます。

オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられています。イギリスの造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、3隻の大型客船造船を発案したのがその建造の発端です。

その3隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工され、その直後にに2番船タイタニックが造船され、少し遅れて3番船のブリタニックの造船が開始、という順番です。

冒頭の写真が撮影されたのは、1911年6月21日となっています。オリンピックの就航はこの一週間前の1911年6月14日ですから、この写真は処女航海で大西洋を渡り、ニューヨーク港についたばかり、あるいはニューヨーク港から逆にイギリスに向けて出立する前の写真ということになります。

背後に似たような4本マストの客船が停泊していますが、このころにはまだ姉妹船のタイタニックやブリタニックは就航していませんから、これはホワイトスターライン社と同じく多数の客船を保有していたイギリスのキュナード社のルシタニアかモーリタニアのどちらかと思われます。

いずれもオリンピック級とは一回り小さい(オリンピック級が排水量52000トンに対して44000トン程度)ものの、遠目ですからそれほどの差異は感じられません。

この当時、ホワイトスターライン社とキュナード社は、大西洋路線をめぐって激しい建造合戦を繰り返しており、両社はライバル関係にありました。ルシタニア・モーリタニアの姉妹船はオリンピック級よりも5年早く就航していますが、アメリカへの移民は急増しており、この2船の就航によりキュナード社は大きな利益をあげていました。

ホワイトスターライン社は、それまでもアラビック(1903年就航、15,801 トン)アドリアティック(1907年就航、24,541トン)などを保有していましたが、老朽化が進んでおり、乗客数も速度もキュナード社の船よりも劣っていました。オリンピック級3船の建造は、その巻き返しを一気に図るためのものでした。

当時は世界で最も巨大な船で、今でいう巨大クルーズ船といえるほどの規模です。それに加え“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、当初は何かとトラブルが多い船でした。

その先行きは、翌年その処女航海で沈没したタイタニックと似たような悲劇を暗示しているようにも思われました。が、幸いにもその後の運行は安定し、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない中、オリンピックは1船体制で大西洋を駆け巡りました。

Olympic_ggbain_09366オリンピック(冒頭の写真と同じころ)

実はオリンピックは、タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻でした。しかし、このとき両船は800kmも離れていました。

沈没現場に到着したのは約107km離れた地点にいた、ライバル会社のキュナード社の客船、カルパチアであったということは皮肉です。オリンピックがタイタニックの沈没地点に到着したのは、カルパチアが残る遭難者を救助した後でした。

SH-27B8出航直前のタイタニック

オリンピックとタイタニックの両船の建造は、オリンピックのほうが、1908年12月16日起工、タイタニックのほうが3ヵ月後の1909年3月31日起工とほぼ同時期であり、設計も同じであったことから、見た目には瓜二つでした。このため、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあったといいます。

しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていました。

例えばAデッキ(最上階のデッキ)の一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラス窓が取り付けられた半室内状に変更されました。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るためでした。

後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りです。またオリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックではBデッキのプロムナードデッキが廃止され、窓際全体が1等客室に変更されました。

このため、1等客室の数はタイタニックのほうが多く、総トン数もタイタニックのほうがわずかに重くなりました。そのタイタニックの沈没を受けて、ホワイトスターライン社はその後、オリンピックの船体側面を2重構造化、救命ボートの数を倍以上に増やしました。

Olympic_and_Titanic姉妹船タイタニック(右)と並ぶオリンピック(左)

タイタニックの沈没により、ホワイトスターライン社の評判はガタ落ちとなり、多くの乗客をキュナード社に奪われる状況となったためで、同社は乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。しかし、タイタニックの就航・沈没から2年後の、1914年にブリタニックがようやく進水式を迎えました。

これにより、それまでオリンピックただ1船だけ運営されていた大西洋路線にカツが入るところとなり、ホワイトスターライン社の幹部は喜びました。しかし、それもつかのまのことで、それから時間をおかずして、第一次世界大戦が勃発します。

進水式を迎えたばかりだったブリタニックは、第一次世界大戦勃発により竣工が翌年に延ばされ、さらには竣工直後の1915年12月12日、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されてしまいます。船体は純白に塗られ、船体には緑のラインと赤十字が描かれました。

オリンピックのほうも当初徴用を免れていたものの、これに先立つ1915年9月に軍事物質輸送船として徴用されることになります。戦局はこのころかなり進んでおり、1914年10月27日にオリンピックは、アイルランド北方で触雷したイギリスの戦艦オーディシャスの曳航を要請されました。

このときオリンピックは現場へ急行し、沈没船の乗員の救助にあたり、オーディシャスをロープで牽引して本国に向かいましたが、途中荒天のために曳航綱が切れ、オーディシャスは沈没しました。

その後も、イギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用されましたが、このころ大西洋に神出鬼没で連合国軍を脅かしていたドイツの艦船などに対抗するため、12ポンド砲と4.7インチ機関銃が取り付けられました。

こうした武器の艤装を終え、1915年9月24日には新たに「輸送船2410」として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主として、東地中海において人員の輸送任務を続けました。

このころ、姉妹船のブリタニックも病院船として活躍しており、1916年11月半ばにエーゲ海のムノス島へ向けてサウサンプトンから出航しました。11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝に石炭と水の補給のためナポリに到着しました。

嵐のため、ブリタニックは19日午後までナポリに滞在していましたが、天候が回復した隙にブリタニックは出航します。11月21日の早い時間にギリシャ南部のケア海峡に入りました。しかしその直後、ブリタニックは同海峡に敷設してあった機雷に触雷します。船長は機関を停止して防水扉を閉じるよう命じましたが、なぜか浸水は止まりません。

しかたなくエンジンを再起動して近くの島に船体を乗り上げようと試みましたが、船体に穴が開いたにもかかわらず航行したので、結果的にタイタニックの3分の1の50分で沈没することとなりました。

病院船として運用されていたため多数の病傷者がいましたが、幸いにもその多くは救助され、死者は21名で済みました。その大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

HMHS_Britannic徴用され塗装が変更されたブリタニック

Britannic_sinking
沈没するブリタニック

こうしてオリンピック級の姉妹船のなかで唯一生き残ることになったオリンピックは、1916年から1917年にかけて、同じ連合国であるカナダ政府に徴用されるところとなり、カナダの東部のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行う任務につきました。1917年には、従来の装備に加えてさらに6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施されました。

RMTOlympic
迷彩塗装を施されたオリンピック

翌年の1917年にはアメリカがこの戦争に参戦しました。このため、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送が必要となり、オリンピックはそのためにニューヨークなどの東海岸の港とイギリスを結ぶ大西洋路線に就航することになりました。

そうした中、1918年5月12日に、オリンピックは中央同盟国側のドイツの潜水艦U-ボートから突如雷撃を受けます。

このとき、オリンピックはアメリカ兵を多数乗船させてフランスに近づきつつありましたが、この日の早朝、見張りが500メートル先に浮上したUボートを発見。すぐさま乗船していた砲手によって12ポンド砲が火を噴きました。これに驚いたUボートはすぐさま潜航を始め、30mほどの水深を保ちつつ、その艦尾をオリンピックに向けました。

オリンピックの船長バートラム・フォックス・ヘイズは、このとき魚雷を避けようと転舵を命じていますが、Uボート(U-103)の艦尾発射管から放たれた魚雷は航跡を描きつつオリンピックの船底に命中します。

しかし、この魚雷は不発弾でした。ヘイズ船長はこの雷撃を回避した直後にさらに回頭し、このとき魚雷の成果を見届けようと浮上しつつあったUボートに体当たりを喰らわせました。

U-ボートは、大きくカーブを描いて体当たりしてきたオリンピックのちょうど船尾付近で強打され、この衝撃で、司令塔のあたりが破壊され、そこへ続いてオリンピックの左舷側が直撃し、そこにあったプロペラが気密室を切り裂きながら進みました。

これにより沈没を免れないと悟ったUボートのクルーは、船体ごと拿捕されることを恐れ、バラストタンクを解放して、潜水艦を自沈させました。

このとき、オリンピックも少なくとも2か所がへこみ、船首部分の衝角がねじまげられるほどの損傷を受けましたが、もともと頑丈な水密隔壁で守られている部分であったため、事なきを得ました。

このとき、オリンピックは、U-ボートの生存者を救うために機関を停止し、その結果31名の敵兵を助けました。のちにこのU-ボートクルーは、オリンピックを発見したとき、2つの船尾魚雷を用意していたことを明らかにしました。

そのうち一発は実際に発射されましたが、上述のとおり不発であり、もうひとつは魚雷管に注水される間もなくオリンピックの体当たりを受けたために、発射されなかったことがわかりました。それにしても、巨大な船体を体当たりさせて潜水艦を撃沈したという例は稀で、これは第一次世界大戦中においても商船が軍艦を撃沈した唯一の事例となりました。

のちに、この船長のヘイズの行動には批判も集まりましたが、彼はアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走りました。戦後、客船となり点検を受けた際に、喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、これが上述の不発の魚雷の衝突痕と確認されました。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられています。

オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続けました。500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

引退後のオリンピックは解体される予定でしたが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられました。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り、屋敷として使用しました。

Grand_staircase

オリンピックの内装 映画タイタニックでも再現された

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用することが決定しました。

そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で現在も営業されており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されているとのことです。オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることからその後放映された映画「タイタニック」の影響もあり、連日の大盛況だそうです。

Olympic_and_Mauretania
解体ドックに移されたモーリタニア(右)とオリンピック(左)

議事堂前を飛行するオートジャイロ

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オートジャイロとは航空機の一種で、ジャイロコプター、あるいはジャイロプレーンとも呼ばれます。

上部に回転翼(ローター)を装備し、見た目はヘリコプターにも似ています。しかしヘリコプターは動力によってローターを直接回転させますが、オートジャイロの場合ローターは駆動されておらず、飛行時には機体の前などについているプロペラなどのほかの動力によって前進します。

ローターの役割は、機体を前に押し出すことではなく、このプロペラの前進によってローターに下側から揚力、つまり強い上向きの強い気流が生み出されます。ローターの一枚一枚には角度がついていて、この下側からの気流を受けることによってローターが回ります。このことによりさらに強い揚力が生み出されるため、機体が持ち上がります。

従って通常の飛行機では揚力を受けるための巨大な翼がありますが、オートジャイロには進行方向の制御を行うためのほんの小さな翼があるだけです。つまりは、飛行機の翼の役割を回転翼が担うわけです。

飛行に必要な揚力は上部にある回転翼によって生み出し、前進するための動力はプロペラが行います。ローターには動力はないので、ヘリコプターのようなホバリングは出来ず、無風状態では原理上垂直離陸はできません。ただし、プロペラとの併用により、固定翼機に比べればかなり短い距離での離着陸が可能です。

なお、ヘリコプターには、万一のエンジンの呼称の際に、電動でプロペラを回すオートローテーションという機能があり、エンジントラブルがあった場合には、この機能によって墜落することなく、無事地上に降りることができます。オートジャイロのローターの機能はこれと同じといえ、滑走距離ほぼゼロの実質的な垂直着陸は可能というわけです。

オートジャイロは、1923年にスペインのフアン・デ・ラ・シェルヴァという技術者により実用化されました。1923年1月17日に初飛行を成功させました。1930年代当時、世界各国で軍事利用が行われていたことは意外に知られていません。

アメリカ海軍では1931年(昭和6年)にピトケアンPCA-2というオートじジャイロを開発し、その改良型のXOP-1試作観測機を、世界で初めて空母ラングレーからで離発着させることに成功しています。これは史上初の艦載回転翼機ということになります。が、これは実用化は見送られています。製造費用などの面で問題があったのでしょう。

これより少し遅れてアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊が、開発したのが、冒頭の写真のKD-1です。こちらは少量ですが生産ベースに乗り、シリーズ化されました。

このKD-1では、ローターの付け根には蝶番がとりつけられ、回転中の揚力の急な変化や揚力のムラを防ぎ、安定した飛行が実現されました。

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また、シェルヴァらが発明してすぐのころは補助翼、方向舵、昇降舵の三舵がとりつけられ、これにより機体の制御がされていましたが、KD-1以降は翼の回転面を左右に傾けることが可能になり、より旋回が容易になり、回転面の迎え角を増減させることによって上昇と降下も簡単にできるようになりました。

またKD-1ではありませんが、後に日本などによって改良された機種では、動力でローターを回す機構を備えている機体も出現し、この機種ではエンジンからローターへ動力を伝える機構にクラッチが追加されました。

離陸時に、クラッチを繋いでローターを回し、回転数が充分に上がった時点でクラッチを切れば、ローターに急激に揚力が発生し、機体がより簡単に空中に持ち上げられます。

同時に前進用プロペラの回転数を上げれば、そのまま水平飛行に移ることが出来るので、より垂直離陸機としての機能は増します。このオートジャイロ特有の離陸方式を跳躍離陸(ジャンプ・テイクオフ)と呼び、現代のオートジャイロの多くがこの機能を備えています。

操縦の感覚はヘリコプターよりも飛行機に似ているといわれますが、方式は上述のように根本的に違っています。また、翼がないので、飛行機のようなアクロバット飛行ができません。その代わりに、飛行姿勢がそれほど変化せず、安定して飛行できるというメリットがあります。

また、ローターの回転面すべてで姿勢を制御しているので、三舵で制御する飛行機より強力な旋回が可能です。ただし、上下を軸とした水平方向の回転、これをヨーイングといいますが、これを固定した方向舵で行っているので、これを尾部のローターで行っている、ヘリコプターのような、空中で停止しながらの方向転換(ホバリングターン)はできません。

上述のとおり、アメリカ海兵隊などが少数ながらケレット KD-1シリーズを採用しましたが、一方ではオートジャイロの発明者、シェルヴァはその後、イギリスでシェルヴァ社を設立し、多くの成功機を生み出しました。

さらに開発を進め、シェルヴァC.30という実用機を開発しました。スペイン海軍は、これを1934年に水上機母艦デダロに搭載しており、イギリス海軍も1935年には空母カレイジャスでのシエルバC.30の離発着に成功しています。のちにはイタリア海軍の重巡洋艦フィウメでの発着艦実験にも成功しています。

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シェルヴァ社が開発してイギリス軍に納入したオートジャイロ

日本でもこうした潮流に乗り遅れまいと、1932年(昭和7年)イギリスからシェルヴァC.19が2機輸入され、内1機は海軍で研究用に、もう1機は朝日新聞社が購入しました。

翌1933年(昭和8年)には陸軍が学芸技術奨励寄付金でアメリカから、上述のKD-1の試験機である、ケレット K-3を2機(愛国第81号と第82号)購入しましたが、その後この海軍のC.19と陸軍のK-3は事故で失われました。

1939年(昭和14年)、陸軍航空本部はアメリカから、当時最新型のケレット KD-1A(KD-1の改良型)を1機購入しますが、これも1940年(昭和15年)に事故で中破しました。このように、日本は輸入したオートジャイロをことごとく落しており、おそらくこのころはまだ機体の制御がかなり困難な代物だったのでしょう。

ところが、ちょうどこのころ陸軍技術本部は、気球の替わりとなる弾着観測機の開発を模索しており、このオートジャイロに目をつけました。その背景には前年のノモンハン事件において、日本陸軍砲兵の揚げた弾着観測用係留気球がソ連軍戦闘機に撃墜され役目を果たせなかったという事由がありました。

このため、航空本部から破損したKD-1Aを譲り受け、萱場製作所という会社に修理を依頼しました。

この会社は、航空機用油圧緩衝脚(オレオ)や、航空母艦のカタパルトなどを製作していた会社でしたが、戦後70年を経た現在では、「カヤバ工業株式会社(KYB)」という大会社になっています。現在では航空機部品だけでなく、自動車部品•鉄道車両部品•建設機械部品•などのほか各種油圧システム製品を製造する世界的メーカーです。

萱場製作所の創業者、萱場資郎は、ジェット機時代の到来を予測し無尾翼ジェット機の試作に関心を寄せていました。この修理依頼は、ジェット機研究を初めた矢先のことであり、渡りに船とばかりこの依頼を受け、これを独自の国産技術として昇華させるべく、「萱場式オートジャイロ」の開発にとりかかります。

1941年(昭和16年)4月に修理の終わった試作機(KD-1A復元機、萱場式オートジャイロ原型一号機)は、同年5月26日に玉川飛行場にて初飛行しました。試験結果は良好で、同年5月、陸軍技術本部はこれを原型とした国産型2機(原型二号機と三号機)の製作を、萱場製作所(現KYB)と神戸製鋼所に依頼しました。

こうして、1943年(昭和18年)始めに国産初の初号機が完成します。国産型の胴体は萱場製作所製で、エンジンと駆動装置は神戸製鋼所製でした。無論、この完成した国産型も多摩川河畔での飛行試験で成功を収めました。

本機が離陸する際には、エンジンを始動し、クラッチを引きエンジンをローターに接続し、ローターをあらかじめ回転させる、という上述の機構が取り入れらました。回転数が毎分180回転に達したらローターのクラッチを切り、機首のプロペラで前進、ローターが自然回転により毎分220~240回転に達し、発生する揚力で自然に離陸できましした。

本機はまた動力でローターを駆動する機構を備えていましたが、ローターのピッチ(進行方向に対する上下動)の変更機能を持たなかったため、現代のオートジャイロのように、まったくの無滑走で離陸する跳躍離陸の機能は備えていません。

しかし、向かい風なら数mの滑走で離陸でき、無風状態でも30~50mほどで充分だったため、実用上は必要無かったと思われます。空中でエンジンを全開すれば、15度の仰角姿勢でほとんど空中で静止状態でいることができ(ホバリング)、その姿勢で空中でゆっくりではあるものの、360度方向転換することも可能でした。

操縦はローターの回転面を傾ける事で、揚力の分力により行われ、また着陸はほとんど滑走せずに行う事が可能でした。さらに上述のとおり、万が一エンジンが停止したとしてもオートローテーションで安全に着陸できるという機能も既に兼ねそろえていました。

Kayaba_ka-1萱場式 カ号

こうした優れた機能を持っていた国産型は、1942年(昭和17年)「カ号一型観測機(カ-1)」と名付けられて陸軍に正式採用されました。“カ号”の名前は、「萱場製作所」や「観測機」のカではなく、「回転翼」の頭文字をとったものです。

また、のちに“オ号”(オ-1、オ-2)とも呼ばれましたが、これはオートジャイロの頭文字に由来します。ソロモン群島要地奪回の作戦名である「カ号作戦」との混同を避けるため1944年以降に改称されたものです。本機のバリエーションは数種の改造試作型を含めこの「オ号」のオ-6まで存在します。

太平洋戦争へ突入する1942年12月には萱場製作所の仙台製造所において実用機の生産がはじまりました。1943年には60機、1944年(昭和19年)に毎月20機の量産が行われました。これらの多くは「カ号観測機」として実践投入され、陸軍の訓練における弾着観測や、海軍の対潜哨戒にも充てられました。

無論、日本で実戦配備されたものとしては唯一のオートジャイロです。試作機(原型一号機)はアメリカ製のジャコブスL-4MA-7 空冷星形7気筒エンジンを搭載していましたが、敵国のものを使うわけにはいかないため、実用機ではこれを国産型ではドイツ製のアルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジンを使用しました。

このエンジンは、のちに神戸製鋼所で国産化されましたが、しかしアルグスエンジンはトラブルが多く、このエンジンを使った機体の生産は約20機で打ち切られました。以後は試作機と同じジャコブスエンジンを神戸製鋼所で国産化したものを搭載し、この機体は「カ号二型観測機(カ-2)」と発展しました。

このころの機体構造は、胴体と垂直尾翼と方向舵は鋼管骨組でしたが、これに貼るのは金属ではなく、羽布張りでした。水平尾翼も木製のうえにこれも羽布張りで昇降舵はありませんでした。さらに機体前部に取り付けられるプロペラは木製固定ピッチ2翅でした。

ローターも鋼管桁に合板を貼ったものにすぎず、3枚のローターを有していましたが、これは後方に折りたたむことができました。こうしたペラペラな機体であったため、ほとんどが戦闘には投入されず、戦中に使われたものの多くは観測、探索用でした。

機体の生産は、上述の萱場製作所仙台工場で行われ、エンジンは神戸製鋼所大垣工場にて行われました。しかし戦争が進むにつれて物資が枯渇するようになり、エンジンやプロペラなど重要部品の供給の遅れから、生産は遅々として進みませんでした。このため、終戦までには生産予定を大きく下回る合計98機しか軍に納入されませんでした。

しかもその内、完成していた10数機は被爆によって破壊され、約30機はエンジンがついていない状態でした。このため、実質、実用となり空を飛ぶことが可能だったのは50機前後とされます。実戦配備されたのはその内の約30機で、そのうちの20機が対潜哨戒機としての使用でした。

使用された場所ですが、これは当初予定された中国大陸での弾着観測任務にはほとんど使用されず、その後の戦局の変化から、多くがフィリピンに送られました。実践に投入された対潜哨戒機などにもかろうじて攻撃能力を持たせるため、前席の観測員席を改造して胴体下に小さなドラム缶のような60 kg爆雷1発懸吊されました。

その重量分を観測員を降ろして確保し、後席の操縦士のみの単座機として運用されましたが、爆雷を積載していない時は通常の複座機として運用できました。この場合の使用目的は主に偵察、連絡任務でした。

1943年、陸軍はカ号を空母に艦載して対潜哨戒機として使うことを考えました。現在でいうところのヘリコプター空母に近いものです。母船としては、この目的のために従来船の飛行甲板の拡幅と航空艤装などが施された特殊舟艇も用意され、これは「あきつ丸」と「熊野丸」でした。

同年6月には、本格的な空母に生まれ変わった。あきつ丸においてカ号の発着艦実験が行われ成功しており、7月には、オートジャイロ搭乗員10名が選抜され、愛知県豊橋市郊外大清水村の、老津陸軍飛行場にて教育訓練を受けました。翌、1944年9月に第1期生が卒業しましたが、しかしカ号が艦載されることはありませんでした。

この役目は、このころちょうど開発された国産初の垂直離発着固定翼機(STOL)とも呼ばれる「三式指揮連絡機」にとって代わられました。カ号や現在のオスプレイのようなローターは持っていませんが、固定翼の後ろに巨大なフラップが取り付けられ、これにより離発着距離、離陸58m、着陸62mを実現しました。

風速5m程度の向かい風があれば30m前後での離着陸も可能であり、こちらが採用された理由は、カ号の生産が遅々として進まなかったことと、本格的な空母で運用するならば固定翼機のほうがオートジャイロより搭載量などの面で総合的な能力で勝ると判断されたためです。

Kokusai_Ki-76三式指揮連絡機

三式指揮連絡機は1944年8月から11月まであきつ丸に艦載され対潜哨戒任務に就きました。一方、老津陸軍飛行場で訓練を受けた第1期生と第2期生の計50名は、教育訓練終了と共に、同年10月、広島市宇品の陸軍船舶司令部本部内に「船舶飛行第2中隊」が編成され、ここに所属する兵士としてあきつ丸に配属されました。

これは日本初の回転翼機部隊でしたが、彼等を乗せてフィリピン方面に向かっていたあきつ丸は1944年11月に米軍の潜水艦攻撃により沈没しました。この時、ごく少数のカ号が「貨物として」積載されていましたが、あきつ丸とともに失われました。

また、この頃レイテ島が陥落し南方航路は事実上閉鎖され、南方航路での船団護衛任務自体が無くなった為、カ号は日本本土の陸上基地で運用されることになりました。

その後、残された船舶飛行第2中隊の面々は、福岡の雁ノ巣(がんのす)飛行場に移動し、壱岐水道などの索敵・哨戒・警護飛行の任務に就きました。1944年秋頃から壱岐に筒城浜(つつきはま)基地の建設が始められ、1944年末にほぼ完成。

草地を平坦にしただけの未舗装の滑走路は、長さ約200m足らず、幅約40mであり、屋根をシートや竹や藁などで擬装した、半地下壕式格納庫が十数ヶ所構築されたこの基地に、
船舶飛行第2中隊がやってきました。1945年(昭和20年)1月始め頃のことで、搭乗員と整備兵、合わせて約200名、雁ノ巣飛行場から移動してきました。

運用されるカ号は約20機であり、すぐに壱岐水道の索敵・哨戒・護衛飛行が開始されました。5月からは対馬の厳原(いづはら)飛行場にも分遣され、最後に残された大陸とのシーレーンである博多~釜山間での対潜哨戒や船団直衛任務に従事しました。

しかしこのころから、米艦載機が頻繁に出現するようになったため、6月に能登半島方面に移動し、石川県の七尾(ななお)基地でこれまでと同様に索敵などの任務を行いました。しかし、8月15日にここで終戦を迎えます。

本来の目的であるシーレーン防衛の任務はきわめて小規模ながら一応果たしましたが、結局、潜水艦撃沈などの当初目標としたような具体的な戦果を上げることはできませんでした。

日本を破り勝利したアメリカでは、ちょうどこのころシコルスキー R-4やR-6などのヘリコプターが実用化・大量生産されるようになっていました。沿岸警備隊や陸軍が対潜哨戒や輸送任務に艦載して使用されるなど既に実用化されており、カ号のような古い時代のオートジャイロの時代は終焉の時を迎えました。

日本でカ号を生産した萱場製作所の手本となった、イギリスのシェルバ社やアヴロ社、アメリカのケレット社などでもその後オートジャイロの開発が続けられましたが、市場は収束の方向に向かい、やがてこれらの会社もヘリコプターなどの生産に移っていきました。

一時は軍用や商業用にまで使用されていオートジャイロは現在ではほとんどがヘリコプターに取って代わられてしまい、オートジャイロといえば、スポーツ用のものがほとんどとなっています。

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007の映画で使用されたスポーツ用オートジャイロ