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雪の女王

2014-1120671ディズニー映画「アナと雪の女王」が世界的に大ヒットしていて、日本でもゴールデンウィークを終えた5月6日までで、動員1265万人、興行収入159億円を突破したそうです。

ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンの歴代の映画の興行収入においても断トツの1位となり、日本歴代の興行収入でも「アバター」の156億円を超え、8位となったとかで、日本でもっともヒットした3D映画、ということになるようです。

興行収入200億円超えも射程圏内で、過去に200億円を超えたのは、「千と千尋の神隠し」(2001年)、「タイタニック」(1998年)、「ハリー・ポッターと賢者の石』」2001年)の3作品しかないそうですが、どうやら「アナ雪」もこれに並びそうです。

実は、我々も先月の末、これを見に行きました。骨折して長いリハビリを送っていた母が退院してきていたのですが、まだまだ自由には歩けないことから、何か室内娯楽を、ということで、かねてより評判の高かったこの映画を見に行ったわけです。

私の感想としては、ストーリー的には、まぁお子ちゃま向けの内容だな、と物足りなくは思ったものの、ところどころに大人のための寓話的な内容も盛り込まれていて、見終わったあとにそうしたことがジワジワ利いてきました。ちょっと考えさせられてしまう、といった部分もあって、なかなか良かったと思います。

しかし驚くべきは、この映画のCGの素晴らしさで、その映像の美しさには本当に感動しました。主演の松たか子さんやエンディングでMay.Jさんが歌う「ありのままに」の響きもこのCGとよくマッチングしていて、この映画を見た人の多くが、「あリの~♪ ままのぉ~♫」とついつい口ずさんでしまう、というのも分かる気がします。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズが製作したこの映画の原案は無論、アンデルセンの童話「雪の女王」ですが、ストーリーは全く異なり、雪と氷の魔力を持つ女王エルサと、その妹の姉妹を主人公として、彼等自らが住まう王国を救うという話です。

ディズニー映画で、主人公が女性の場合、これを「ディズニープリンセス」というそうですが、過去13人のプリンセスがいる中で、今回は史上初の2人のプリンセスが登場し、このことも話題になりました。

本家英語版のほうでは、「ありのままに」の英語バージョン「Let it go」も歌ったイディナ・メンゼルが姉のエルサ役をやりました。どちらかというと舞台女優として有名な人で、映画作品ではあまりヒット作への出演がなく、2007年のディズニー映画、「魔法にかけられて」でもちょい役でしか出演していませんでした。

2003年にミュージカル「オズの魔法使い」で西の悪い魔女役をやってトニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞しており、こうしたミュージカルのキャストレコーディングCD以外にも歌手として2枚アルバムを出しているなど、歌手としても定評のある人のようです。

日本でも、松たか子さんやMay.Jさんの日本語版のほうが有名になってしまったので、あまり流れていないかと思いきや、この英語版のほうも大人気のようで、日本以外の国でも大ヒットしており、You Tubeでの再生回数も1000万回を軽く超えているそうです。

この歌は、第86回アカデミー賞では、歌曲賞に輝いており、また、映画本編としては長編アニメ映画賞も受賞してダブル受賞を果たしました。ほかにもゴールデングローブ賞のアニメ映画賞を受賞したほか、アニメのアカデミー賞といわれるアニー賞では、作品賞、監督賞、声優賞、美術賞、そして音楽賞と、数々の賞を総なめにしました。

本作と「風立ちぬ」でアカデミー長編アニメ映画賞を争ったスタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんも、「原作に引っ張られずに、今の時代を表している作品になっている」と高い評価をしているそうです。

アンデルセンによる原作のストーリーは、カイとゲルダという仲良しの男女の子供が主役です。ある日、悪魔の作った鏡の欠片がカイの眼と心臓に刺さり、彼の性格は一変してしまい、そこへどこからともなく雪の女王が現れて、彼を連れ去ってしまう、という話です。

春になって少女のゲルダは、カイを探しに出かけ、太陽や花、動物の声に耳を傾けながら雪の女王の行方を探しあてていきますが、途中で山賊に襲われあわや殺されようになるなど苦難に満ちた旅を続けます。しかし、逆にこの山賊の娘にも助けられ、とうとう雪の女王の宮殿にたどり着いたゲルだは、カイを見つけて涙を流して喜びます。

そしてその涙がカイの心に突き刺さった鏡の欠片を溶かし、カイは元の優しさを取り戻し、二人は手を取り合って故郷に帰る、というストーリーです。

このとき、雪の女王は何もせず、二人が帰るのを黙って許したようで、もう少し派手に暴れて話を面白くせんかーい、と私的には突っ込みたくなるエンディングなのですが、このように原作では雪の女王はむしろ脇役です。

本作では、雪の女王たるエルサと妹のアナが主役であり、アナの恋物語もまたこの話の中に盛り込まれています。ところが、エルサのほうは、数ある男性からの求婚をも拒否する、といった設定になっており、この話のエンディングにおいて扱われる「愛」もまた、男女の愛ではなく、姉妹愛になっています。

ここのところは、なんのことやら映画を見た人ではないとわかりにくいでしょうが、ここでネタバレするのもなんなのであまり触れません。が、この姉妹愛に代表されるように、愛にも色々な形があり、同性愛もそのひとつです。

このため、アメリカではこの映画の主テーマでもある、「ありのままの自分」を歌い上げる「Let it go」は、実は同性愛者たちのカミングアウトの歌ではないか、と解釈する向きもあるそうです。

このため、キリスト教関係者などの中には、この映画は子供を同性愛に導くのではと批判する向きもある一方で、逆にキリスト教的自己犠牲を尊ぶものである、といった評価もあり、あちらでもかなりのヒットをしただけに、多彩な解釈を生む問題作とみなされているようです。

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もっとも日本では、こうした風潮はなく、むしろ「ありのままに」を人生の応援歌として位置づけ、これによって大いに勇気づけられるといった声も高く、一般のサラリーマンのおっさんが、ありの~ままの~姿ァ見せる・の・よ~(上司に)と口ずさみながら出勤する様子が各地で見られるようになるなど、社会現象になっているそうです。

確かに耳に心地良い歌であることは確かで、ビートルズの「let it be」にもつながるものがあるよな、と思っていたら、昨日のお昼のワイドショーでも、これに着想を得た歌ではないか、といったことを音楽関係の専門家さんがおっしゃっていました。

このLet it goとlet it beの意味はだいたい同じようなものなのですが、let it beは「現在形」とでもいうのでしょうか、今のままでいいよ、無理に変えようとしないで今のままをありのままを受け入れましょうという意味です。

一方、Let it goのほうは、こうした現状維持ではなく、goですから、ありのままの自分「it」を解き放て「let go」という意味になり、より能動的な意味があります。従って、現状のままに満足せずに頑張ろう!という意味になり、これが人生の応援歌、といわれるゆえんでしょう。

実はこの「雪の女王」というストーリーの企画はかなり昔からあったようで、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズは長年にわたってアンデルセン童話を翻案したものを作品化しようと考えていたようです。

しかし、企画が持ち上がるたびに、廃案となり、2010年時点ではかなり具体的なプロジェクトとして形を成したものの結局は棚上げされました。その理由は、2000年以降ディズニーアニメが長きに渡って低迷していたためであり、1998年にアニー賞を受賞した「ムーラン」以降、ディズニーのアニメ映画はめだったヒット作がありませんでした。

ところが、2011年に公開された「塔の上のラプンツェル」において久々のヒットを放ち、この成功を受けてディズニーは「Frozen」と題された新作を2013年末に公開すると発表しました。

こうして2012年から本格的に制作され始めたこの映画においては、舞台となる王国のある場所のモデルとしてノルウェーが選ばれました。同国のフィヨルドの地形や建築物、とくにスターヴ教会と呼ばれる教会などは、製作者たちにインスピレーションを与え、城のデザインなどに生かされたといいます。

このスターヴ教会というのは、ウルネスの木造教会とも呼ばれ、英語表記では”Urnes stavkirke”と書かれるようです。ノルウェー東部の山岳地帯にあり、ノルウェー語でスターヴ(stav)は、「垂直に立った支柱」のこと、stavkirkeのkirkeは「キルケ」と発音し、教会のことです。

1979年に、ユネスコの世界遺産に登録されたこの教会は、ルストラフィヨルドを望むことができ、高さ120メートルの崖の上にあり、現在は、ノルウェー考古物保存教会が所有していますが、時々、ミサが催されるなど、現役の教会です。

建築されたのは、1130年前後と推測されていて、この近辺にはこれだけでなく、ほかにも教会が多いそうで、こうしたウルネスの教会建築は、キリスト教建築とヴァイキング建築が結びついた「ウルネス様式」と呼ばれ、これらはスカンディナヴィアに生息する数々の動物をモチーフにしたスタイルだそうです。

この教会の写真をネットで探してみましたが、背後にある際立ったフィヨルドとその足元に広がる深い青い海をバックに立つこの教会は本当に美しく、製作者たちのインスピレーションを掻きたてたというのもわかります。

このほか、映画のドローウィングには、ローズマリングと呼ばれるノルウェーの伝統的な花柄模様がインテリアなどさまざまな場所に利用されたそうで、キャラクターの服装としてもノルウェーの民族衣装を採用したり、ローズマリングを入れるなど、ノルウェーを意識したデザインが生かされたといいます。

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ただ、エルサが「雪の女王」となってからの衣装などにあしらわれている雪の結晶などは、CGスタッフによる一からのオリジナルだそうで、氷の城もこの衣装と統一感を持たせたデザインにしたそうです。

これもまた映画を見た人ではないとわからないのですが、こうした細かい模様の描写の素晴らしさだけでなく、複雑にデザインされた雪や氷がキラキラと光りながら流れ動くアニメーションは本当に見るものを圧倒します。

これらコスチュームデザインや背景画のCGは薄い生地を何十枚も重ねるようにデザインされたそうで、膨大なレイヤーが費やされたといい、これもまた映画を見た人はお気づきでしょうが、この映画のエンディングに流れるCG関係者の数はハンパなものではありません。

私もかつてこんなに長いエンディングロールをみたのは初めてで、しかもそのほとんどすべてがCG関係者という映画はこれまでもあまりないのではないでしょうか。

こうしたコンピュータ・グラフィックスがディズニー映画で本格的に採用されたのは1982年の「TRON」からだそうで、この映画では世界で初めて全面的にコンピューターグラフィックスが導入され、話題を集めました。

当初、こうしたCGの造画には、高性能ワークステーションや専用のレンダリングサーバ、時としてスーパーコンピュータなども用いてレンダリング処理を行っており、莫大な大変コストがかかるものでした。

しかし、最近ではパソコンの高性能化に伴い、安価で高性能なパソコンを使って分散レンダリングを行う方法が主流となり、安価なパソコンをレンダリング専用にクラスター化したものを使います。

ちなみに、レンダリングとは、コンピュータプログラムを用いて画像・映像・音声などを生成することをいいます。またクラスターというのは、複数のコンピュータを結合し、クラスター、つまり「葡萄の房」のようにひとまとまりとしたシステムのことです。

こうしたクラスターを使ってレンダリングを行い、CGを作成するチームのことを「レンダーファーム」呼びますが、ディズニー映画を作るような大手プロダクションでは数百台規模のパソコンをクラスター化してレンダーファームを構成する例が多くなっているそうです。

映像のレンダリングでは、あらかじめ一枚一枚の画像を作り、それらを繋げて映像化していきますが、一枚ずつセルに絵具(アニメカラー)で彩色する工程を踏んでいた昔のアニメーションのほうが臨場感が出しやすいことから用いられることもあり、その制作にも最近はコンピュータ彩色導入することで効率化が図られているそうです。

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こうしたCG映画が主流となる以前より、ウォルト・ディズニー社は創業以来、多くの傑作アニメ映画を生み出してきました。

世界初のトーキーアニメ、長編アニメ、カラーアニメなど歴史に残る業績を残してきましたが、創業者であるウォルト・ディズニーが亡くなった1966年以降低迷し、1990年代に再び黄金期を迎えました。

復活の立役者は当時映画部門の責任者だったジェフリー・カッツェンバーグという人です。彼は伝統的なディズニー・アニメを再建する一方で、CGアニメ時代の到来を受けて、CG技術の草分けともいわれる「ピクサー社」との提携を実現しました。

しかし1994年にカッツェンバーグはディズニーを辞職しドリームワークスの設立に関わることになり、ピクサーとも製作方針の食い違いなどから不仲になっていきました。

ピクサーもディズニーとは「カーズ」を最後に契約を終了する予定でしたが、2005年にピクサーと相性の悪かったディズニーのCEOが退任したことから、関係を再び修復。そして2006年、ディズニーはピクサーをM&Aにより買収し完全子会社としました。

その後、アップルコンピュータとピクサーのCEOだったスティーブ・ジョブズは、株式交換によってディズニーの筆頭株主になると共に役員に就任しました。そのジョブズも今や亡くなってしまいましたが、ウォルト・ディズニー・カンパニーの筆頭株主は、今も彼の意思を継いで設立されたスティーブン・P・ジョブズ・トラストとなっています。

現在のウォルト・ディズニー・カンパニーは、本業の映画の製作やテーマパークの経営を中心に、三大ネットワークのひとつである放送局のABCやスポーツ専門放送局ESPN、インターネット・ポータル「go.com(Walt Disney Internet Group・旧infoseek)」などを傘下に納める世界有数のメディア・エンターテインメント系総合企業体です。

無論、浦安のディズニーランドを運営する、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社もこのウォルト・ディズニー・カンパニーの日本における現地法人です。

その創業者のウォルト・ディズニーを知らない人はいないでしょうが、これはアメリカ・イリノイ州シカゴに生まれた実業家です。

もともとはアニメーターでしたが、その後プロデューサー、映画監督、脚本家、声優、など数々をこなすンターテイナーとして活躍しましたが、世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキー・マウス」の生みの親であります。

兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは1923年の設立であり、ハリウッドを拠点とし、当初は「ディズニー・ブラザーズ社」と言っていました。

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当初は、兄のロイ・ディズニーと共にミズーリ州のカンザスシティーに住んでいた時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社としてのスタートでした。

このアリスは、実写作品だったようですが、会社を運営していく過程で、これをアニメとして制作する機会を得たウォルトはアニメーター仲間を集めることとし、こうして会社はアニメ製作の専門会社へと転進しました。

これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側、シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは、その後ロス西北部にあるバーバンクへの1939年の移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けました。

やがて少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていきました。1925年には、自社キャラクターとして「しあわせウサギのオズワルド」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル社の配給で制作しました。

「オズワルドシリーズ」はスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進のきっかけを作りました。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って会社を大きくし、こうしてディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長していきました。

ところが1928年のこと、彼等の映画を配給していたユニバーサル社が法外な配給手数料を支払う様に要求し、ウォルトがこれを拒否するとユニバーサル社は露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けてきました。

ディズニー社は、配給会社であるユニバーサル社の管理下に置かれていた事も不利に働き、こうしてディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれました。

このとき最後までウォルトに付き従ったアニメーターがおり、彼の名は、アブ・アイワークスといいました。

アイワークスはウォルトと同い年。1901年のミズーリ州カンザスシテ生まれで、ディズニー・カンパニーではアニメーター兼特殊効果技師を努めていました。のちに、ミッキーマウスの生みの親としても知られる人物であり、ウォルトは諦めず、このアイワークスとの二人三脚でディズニー再建に取り掛かる事を決めます。

再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中でライバルとして度々登場させていた敵役のねずみを主役に抜擢し、これを映画化することにしました。

アブ・アイワークスがスケッチをしたこのねずみは、実はユニバーサルに持っていかれたキャラクター、オズワルドそっくりでした。ただ、オズワルドはウサギであっために耳が長く描かれていましたが、このキャラクターではねずみであるため、耳が丸く描かれていました。

このねずみ、すなわちミッキーマウスは、かつてウォルトがミズーリのカンザスシティでアニメーターとして働いていた当時に飼っていたマウスにヒントを得て、ウォルト自身がスケッチしたと一般には言われています。が、これは権利処理の問題をクリアするためであって、実際にはアイワークスの作品というのが定説のようです。

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このころ、アメリカでは「フィリックス・ザ・キャット」というクロネコキャラクターの漫画が流行っていましたが、二人はこれに似せた「ジュリアス・ザ・キャット」というものもディズニー社の作品として登場させており、フェリックスを製作していた会社のプロデューサーからは、模倣であると、何度も警告されていました。

ウォルトはこの当時既に監督や演出に専念し始めていたため、作画監督を委ねられたアイワークスが、これらのキャラクターの作画を担当していたのでしたが、こうした批判や中傷をかわしながらデザインを修正し、世に知られる「ミッキーマウス」の完成に至るまでには、かなりの紆余曲折があったようです。

が、出来上がったものは現在に至っても大変優れたデザインであり、後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っています。

ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは主として演出面で高い才能を発揮していきました。

因みに当初このキャラクターは、ミッキーではなく、「モーティマー」とされる予定でした。が、ウォルトの妻のリリアン・ディズニーのアイディアで「ミッキー・マウス」と変更されました。ただ、モーティマーの名は、後の作品でミッキーのライバルキャラクターに用いられました。

ミッキーマウスシリーズの第一作「プレーン・クレイジー」はサイレント映画として作られましたが、第二作「蒸気船ウィリー」で効果音や声を吹き込んで世界初のトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われました。

場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽が盛り込まれるといった手法はこのとき確立され、ウォルト自らがミッキーマウスの声を演じていました。

こうした演出技法は、その後長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、その優れた合成技法はディズニー時代を築き、ミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献しました。

これとは対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画技術を失ったユニバーサル社のキャラクター、オズワルドは次第に人気を失っていき、、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になりました。

こうして、ミッキーマウスはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社はますます発展していきました。ウォルトはこうした成功によって得た資金によって、1955年にはカリフォルニア州アナハイムにて、150エーカーの土地を購入。自らの名を冠したテーマパークであるディズニーランドを開設しました。

このときディズニーが参考にしたのは、カリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」と、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園だったそうです。

1965年、ウォルトは後にウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートとなる土地をフロリダ州の中心に求めました。マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地に造成する予定のテーマパークは彼により「エプコット」と名付けられました。

が、そのウォルトも1966年12月、肺癌のためウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの完成を見ないまま死去。翌年、最後に手がけた遺作「ジャングル・ブック」が公開されました。

彼は晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食べるのが一番のお気に入りだったといいます。その反面ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていたそうです。

この思想は、現在浦安や、香港やパリ近郊にも建設されているディズニーランドの土台となっている大事な思想です。

ディズニーランドは日常から切り離された架空の世界を冒険するというコンセプトにのっとり、パーク内では徹底した雰囲気作りが行われており、パークにはいわゆる「従業員」がおらず、従業員を「キャスト」来客を「ゲスト」と呼んで、キャストは全員がディズニー作品にのっとったコスチュームをまとって役を演じながら作業をしています。

パークの周囲を木枝で覆って隠し、逆に中からは周囲の住宅や電車の駅が見えないようにしたり、食料やゴミの運搬は地下の通路を通じて搬送することで、現実感をゲストに与えないようにしてあります。

これは東京ディズニーランドでも同じで、他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除がまるで1つのショーであるかの如く行われているのをご存知の方も多いことでしょう。

ウォルトは生前のディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています」と語ったそうです。

その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれているとともに、数多く制作されたディズニー映画の中にも生かされています。

その最新作である、アナと雪の女王は、その興行が終わらないうちから、早くもディズニー作品の中でも最高傑作との呼び声も高いようです。まだご覧になっていない方は、連休疲れの残る今週末を終えたら、「口直し」のつもりで劇場に足を運ばれてはいかがでしょうか。

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酪農王国 ~函南町

2014-1060383この4連休の伊豆は、イモ洗い状態でした。

他県ナンバーの車であふれかえり、夕方ちょっと買い物に出たことがありましたが、その帰りには沼津方面へ向かう長い車の列ができており、もう少し時間が遅れていたら、この渋滞に巻き込まれるところでした。

修善寺あたりでもこんな状態ですから、東名高速や国道一号にたどり着くまでには、一時間、いやもしかしたら二時間ぐらいかかるだろう、さぞかしお疲れだろうな~と我がことのように心配してしまいました。

実はこの連休中の初日の土曜日にも、所要があって小田原まで行ったのですが、このときは午前中だったのにも関わらず、帰りに渋滞に巻き込まれそうだったため、本来は箱根の峠を越えて三島経由で帰ってくるところを熱海経由で伊東まで抜けて帰ってくることにしました。

ところが、この熱海がやはりクセもので、市街に入るとやはりすごい車の量であり、脇道を通って伊東方面へ抜けようとしたところ、にっちもさっちも動かなくなり、結局、熱海市街だけで通り抜けに一時間近くかかってしまいました。

熱海より先も渋滞が予想されたため、結局伊東方面に抜けるのはあきらめ、山の手側を通って函南に抜ける道を選びんでようやくこの渋滞の魔の手から抜け出すことができました。

後で調べるとこの道路は「函南街道」と呼ばれ、正式には熱海函南線、もしくは県道11号と呼ばれる道路で、熱海市を起点とし函南町に至る主要地方道であることがわかりました。

熱海函南線を略して「熱函道路」とも呼ばれているようで、これは「あつかん」かと思いきや「ねっかん」と読むようで、その昔は、別に旧道区間があり、これは熱海峠を越えるルートのため、カーブや急勾配が多く、また冬季には雪の影響があり、円滑な交通に支障も多かったようです。

これを解消するために、県が全長およそ全長1,268mの「鷹ノ巣山トンネル」を建設し、これを抜ける新ルートを整備。この新道区間は、静岡県道路公社の管理運営による有料道路として、普通車の通行料300円が設定されていたようですが、1997年(平成9年)に無料化されたそうです。

途中の熱海峠は、標高617 mもあり、これを下っていくと、右正面には富士山も垣間見ることができ、その下に広がる田方平野のたおやかな眺めとも合いまってなかなかの絶景です。

惜しむらくは車を止めてじっくりこの光景を眺める場所がないことですが、私が気が付かなかっただけで、もしかしたら小さな駐車場ぐらいは整備されていたかもしれません。

この日は少し帰りを急いでいたので、じっくりとこの光景を楽しむ余裕はありませんでしたが、今度もっと天気の良い日などに、また来たいと思わせる場所でした。

この熱函道路の終点である函南町ですが、その言葉の言われを調べると、「函」という字は、その昔、「函嶺」と呼ばれた箱根山から取ったようです。箱根の南にある街、つまり函南というわけです。

太古にはすぐ近くまで海があったことから、箱根山西南麓の緩斜地帯にあたるこの地域には、縄文・弥生時代の遺跡が各所にみられ、古墳としては、静岡県最大規模の「柏谷横穴群」と呼ばれるものもあります。

鎌倉時代以降、この地は「仁田氏」という土豪として治めており、この仁田氏は古くから函南の歴史に関わってきました。とくに有名なエピソードとしては、1180年(治承4年)蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵したき、この仁田家の仁田次郎忠俊、仁田四郎忠常がつき従ったことなどです。

この仁田四郎忠常は1193年(建久4年)に頼朝が催した「富士の巻狩り」において、大猪退治をしたことで有名で、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際にも兄の曾我祐成を討取ったことなどでも後年名を知られるようになりました。

曾我兄弟というのは、頼朝の家臣であった河津祐泰という人の息子たちで、この祐泰は同じく頼朝の寵臣であった工藤祐経に所領争いの結果、射殺されました。兄弟はこれを恨みに思い、長じてからかたき討ちの機会を待っていたとき、ちょうどこの巻き狩りがあることを知り、狩りの最中酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たしたのでした。

騒ぎを聞きつけて集まってきた頼朝の配下の武士たちは、兄弟を取り囲みますが、兄弟はここで10人もの敵を斬りつつ応戦したといわれています。しかし最後には力尽き、ついに兄の祐成(すけなり)が四郎忠常に討たれました。

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弟の時致(ときむね)は取り押さえられ、頼朝の面前に差し出されましたが、この弟は腹の据わった男で、この当時既に一大権力者になっていた頼朝を前でも臆せず、とうとうと仇討ちに至った心底を述べたといいます。これに感銘した頼朝も一度は助命を考えたようですが、殺された祐経にも遺児がおりその心情にも憚られました。

また、信義に基づく敵討ちであったとはいえ、この当時は軍事演習の意味もあった巻狩りという一大行事の場を乱し、しかも頼朝の寵臣を殺すという罪を犯した二人の行為は、源家の紀律を乱すものであり、他の家臣たちの手前もあり、減刑は許されませんでした。

結局、頼朝は時致に斬首を申し渡しましたが、その最後のときの様子も堂々としていたそうで、念仏を唱えながら従容と斬られて死んでいったそうです。

このとき斬首をした人物は、どうやら工藤祐経の家の者だったらしく、時致を斬るとき、わざと刃を潰した刀で斬首をしたそうです。このため、一度には首が落ちず、ようやく引きちぎるようにして落ちたといいます。

想像しただけでぞっとしますが、この残酷な処刑にはさすがに頼朝も怒ったといいます。そのときは許したようですが、後日思い返してもやはり腹立たしかったらしく、この人物を捕えるように命じましたが、捕まる前に逃亡していました。

ところが、この人物はさらに後日、時致の霊に悩まされて狂い死んだといい、こうした一連の話は、後年の江戸時代に「曽我物語」としてまとめられました。

江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の間では大人気のヒーロー物として一世を風靡しましたが、潰した刀での斬首といい、狂い死にといい、ちょっと誇張過ぎるように思われるエピソードは、曽我兄弟人気にあやかって後年創作されたものと考えるべきでしょう。

兄の祐成は20歳、弟の時致は19歳だったようで、この二人の首は、小田原の曽我という場所に埋葬され、その場所は「花畑」と呼ばれていたそうです。が、はっきりした場所はわかっていないようで、この敵討ちの話が後年有名になったことから、あちこちにその墓があります。

関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるといいますが、その中で有力とされるものに、小田原でも「曽我の里」と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)があり、ここが彼等の墓としてはもっとも信憑性が高い場所といわれているようです。

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さて、この曽我兄弟を討った仁田四郎ゆかりの函南町のことですが、ここは鎌倉時代から室町時代初期まで、その郷村の多くが。熱海にある伊豆山神社の神領だったそうです。

その後、小田原北条氏の時代になると、北条早雲によって平定されてその傘下の武将たちの所領になっていきましたが、その後秀吉による小田原攻めによって豊臣家の所領となり、
1600年の関ヶ原の戦いまでは、秀吉参加の韮山城主、内藤信成の領地となっていました。

しかし、秀吉もまた家康によって取って代わられたため、内藤信成は駿河府中への転封となり、函南の大部分は旗本領となりました。

その後、宝暦6年(1756年)にその後長く沼津を治めることになる、水野家が沼津に転封され、水野忠友が沼津藩の初代領主として着任。この函南もその大部分が沼津藩に編入されました。

明治に入ってからの廃藩置県では、この地は韮山県に編入されましたが、すぐに今度は足柄県に編入。これらの県がすべて廃止されて、静岡県となった1876年(明治9年)にようやく函南は静岡県に属することになりました。

この函南は、緩やかな山の斜面にある温暖な土地柄であることから、これに着目して牧場として開拓することを思いついた人たちがいました。仁田常種、川口秋平というのがそれで、この二人によって、1881年(明治14年)には「丹那産馬会社」が設立されました。

「丹那」というのは、函南町のど真ん中を走る丹那トンネルの真上にある一帯のことで、その直上は現在、「酪農王国オラッチェ」というレジャー施設を兼ねた牧場となっています。

この仁田常種という人は、上で書いた源頼朝の家臣の仁田志郎忠常を遠祖とする人らしく、この人の子供で、明治4年(1871年)生まれの「仁田大八郎」は、この仁田忠常から数えて三十七代目となる仁田家の当主です。

東京帝国大学卒の俊才だったようで、25歳のとき、この当時の仁田村に、「仁田信用組合」を設立して組合長となり、41歳で静岡県信連会長、52歳のときには産業組合中央会静岡支部会長などを歴任しながら、酪農王国としての函南町の礎を築きました。

1932年(昭和7年)、61歳のときには、帝国議会衆議院議員にもなり、1945年(昭和20年)に75歳で死去するまで、「人のために尽くすことは無駄にはならない」という考えの下、私財を投じて、この地域の発展に尽しました。

衆議院議員時代に、鳩山一郎との親交を深め、度々自宅に招いていたそうで、鳩山一郎が仁田大八郎にあてた「為仁田老兄」の書と二人が背広姿で撮った貴重な写真が現存するそうです。

「田方農林学校」という農学校も創立しており、伊豆箱根鉄道の前身となる駿豆電気株式会社の発起人も務め、現在も伊豆箱根鉄道にある「伊豆仁田駅」を開業させたのもこの人です。

伊豆に来るとたいていのスーパーにおいてある「丹那牛乳」という牛乳を作る組合を組織したのもこの人です。おそらくは神奈川を中心とする関東地方西部の町々にも浸透しているブランド名であり、私も多摩地区に住んでいたころこの丹那牛乳の1リットルパックをよく目にしました。

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もっとも、この丹那牛乳という名称は、上述の仁田常種のパートナー、川口秋平が付けたブランド名のようです。川口家は、代々丹那の地で名主を勤めてきた名家であり、この家の31代目の当主でした。上でも紹介したとおり、仁田常種とパートナーを組み、伊豆産馬会社を興しました。

伊豆半島で乳業を始めたのは、修善寺の植田七郎という人が明治3年にが始めたのが最初といわれていますが、仁田大八郎と川口秋平の二人は、明治21年に初めてこの伊豆産馬会社の農場で搾乳業に成功しています。

その後明治32年に、常種と協力してアメリカからホルスタインを輸入し、従来の雑種乳牛から本格的なホルスタイン種一色の改良を計り、村人にもその技術を貸与して酪農を推奨しつつ、事業を拡大していきました。

仁田と川口が売り出した牛乳は、当初「三島牛乳」と言っていたようですが、この牛乳販売事業は経営が安定せず、明治29年に製造をやめ、明治34年には廃業に至りました。二人はどうやらこれを契機に別々の道を歩み始めたようです。

二人で始め、失敗に終わった牛乳事業でしたが、その後川口秋平はこれを再興し、大正末期に「伊豆畜産購買販売利用組合」を設立し、自分の出身地にちなんで改めてブランド名を「丹那牛乳」としました。

そして、それまで腐りやすいため地元でしか需要がなく「農乳」と言われていた牛乳を沼津や小田原などの市街地にも配達する組織を固めるなど、「市乳」化を進め、やがては東京への市乳販売の途を開きました。

こうして川口が再開した酪農事業は牛乳販売を中心として順調に推移していきましたが、この事業は、意外な方向に向かっていきました。大正7年(1918年)に建設が始まった東海道線の、丹那トンネルがその事業に大きな影響を与えたためです。

1918年(大正7年)3月21日、熱海町の梅園付近の坑口予定地で起工式が行われた丹那トンネルは、排煙効果の高い、また脱線事故等に際しての復旧作業を考慮し複線型をオーストリア式で掘削するという当時の日本鉄道技術では画期的な工事でした。

当初は、第一次世界大戦による好景気により電力価格が高騰したことで電力供給の合意に至らず、電気式の掘削機械が使えなかったため、工事はカンテラ照明にツルハシを使用した原始的な手掘りで開始されました。

建設現場に電力供給が行われるようになったのは、1921年(大正10年)に三島口に火力発電所が建設されてからであり、照明が電灯に切り替えられたほか、牛馬に頼っていた余土輸送にも電気機関車が利用されることとなり、トンネル掘削は急ピッチで進みました。

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ところが、この丹那トンネルは、丹那盆地という窪地の下を通ることから、その地質的構造上、大量の湧水が噴き出すという問題がありました。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生することもありました。

この湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられ、水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15kmに達し、排水量は6億立方メートルにも達しました。この量は、箱根芦ノ湖の貯水量の3倍ともされる膨大なものでした。

このため、トンネルの真上に当たり、周囲よりも50~100mも低い函南村の丹那盆地では、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になりました。住民の抗議運動も過激化したため鉄道省は丹那盆地の渇水対策として、貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等にも追われることとなりました。

トンネルが開通する5か月前の1934年(昭和9年)7月には、丹那トンネルの工事を原因とする深刻な農業用水の不足に悩む農民が、比較的水の豊富だった隣の地区を襲撃するといった事件もあり、この当時の村長がその調整のための疲労で辞職する、といったこともありました。

この事件は、「水騒擾事件」とよばれ、それ以降村長不在という異常事態にまで発展したため、静岡県が介入。丹那トンネル開通後二年経った昭和11年4月になってようやく事態は収束しました。

この丹那トンネル工事による湧水問題により、函南の農業は、大きな変換点を迎えることとなりました。完成した丹那トンネルからは現在でも大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われました。

このため湿田が乾田となり、底なし田の後が宅地となり、7カ所あったワサビ沢もすべて消失してしまいました。このため、それまで主体であった水田農業をやめてしまう農家があいつぎ、これに変わって新たに彼らが取り組むようになったのが、仁田と川口が長年取り組んできた酪農でした。

こうして結果的に、丹那トンネルの補償金の多くが酪農開発に回るようになり、函南はその後「酪農の函南」として発展していくことになりました。

それまでも行っていた牛乳事業においては、昭和30年、国庫補助金8万円、県補助金8万円を受け、集団飲用牛乳施設として函南東部農業協同組合、丹那牛乳処理工場が完成し、「丹那牛乳」の本格的な製造、販売が開始されました。

その後も事業は順調に発展し、昭和33年には、学校給食牛乳を開始し、昭和35年には、優良工場として県食品衛生協会長賞受賞。昭和51年にはさらに優良施設工場として厚生大臣賞受賞しました。

ちょうどこのころ、丹那牛乳だけでなく、日本の牛乳業界には大きな技術革新がありました。牛乳は腐敗しやすく保存が困難だった事から長年に渡り各農家の小規模な生産に頼っているのが現状であり、市乳の販売による業務拡大を狙う丹那牛乳もまた、その市場の拡大に悩んでいました。

ところが、ちょうどこのころ風味を損なわない低温殺菌法(パスチャライゼーション)という殺菌法が実用化されたことによりこの様相は一変しました。

パスチャライゼーション(Pasteurization)という名前は、実は、ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされるルイ・パスツールにちなんでいます。

1866年にこの微生物学の祖であるパスツールらは、ワインの殺菌法として、それまでの主流であった高温殺菌法に変わる殺菌法として低温殺菌法を発明しました。

パスチャライゼーションは、微生物を完全に死滅させることではなく、害のない程度にまで減少させることを目的としています。従って一部の耐熱菌は残存しうるため、一般に消費期限を高温殺菌品より短く設定されるものの、この方法を用いると、素材の風味を損なわず、ワインや酒に含まれるアルコール分を飛ばさずに殺菌を行うことが可能となります。

高温殺菌法と比較して、熱変性などによる品質・風味の変化が抑えられるという大きな利点があり、この技術がさらに牛乳の市場を増やすために役立ったのです。

ところが実は日本では、パスツールに先立つこと300年も前の1560年頃に日本酒において同じ方法が経験的に生み出され、以来、「火入れ」として行われてきていたそうで、このことはあまり知られておらず、川口らも知らなかったようです。

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とまれ、こうした新技術が牛乳にも応用され、牛乳の風味を損なうことなく、大規模に生産され、丹那牛乳は東京などの大都市にも出荷可能となったのです。

昭和57年8月にこの低温殺菌牛乳製造販売開始し、以来、東京では明治屋・京王ストア・などでも扱われるようになり、神奈川県でも東急百貨店やロビンソン百貨店、サンジェルマンなどが丹那牛乳を置くようになりました。

現在、静岡県内には38店、神奈川県にも2店の販売店を有し、学校給食用としては、三島市・沼津市を初めとてして、伊豆のほぼすべての小学校に出荷しています。

かつて丹那トンネルの掘削によって水が失われてしまった丹那盆地は、現在「酪農王国オラッチェ」という酪農をテーマとした観光施設に生まれ変わりました。

ORATCHE(オラッチェ)の意味は、オランダ語か何かと思ったら、Organic(有機農業)、Refresh(心身の疲れを癒す)、Agriculture(農業)、Tanna(丹那)、Comfortable(心地よい)、Healthy(健康)、Ecology(地球環境)、のそれぞれの頭文字を取った造語だそうです。

安心・安全で新鮮な地元の食材にこだわった乳製品や地ビールなどを製造しており、予約をすれば製造工程を見学することができるそうで、また、乳食品の手作り体験やレストランでの食事も楽しめるようです。朝採り新鮮野菜市も行われているということで、我が家からは少々距離はあるのですが、今度もう一度ここへ行ってみたいと思っています。

ところで、熱海~函南間を貫くトンネルは、函南村の下を通ることから、本来なら「函南トンネル」と呼ばれるべきものでした。

これをそうせず、「丹那トンネル」と命名したのは、トンネルの測量隊が丹那盆地に滞在した際に、丹那の有力者であった川口秋平が手厚くもてなしたからだそうです。

鉄道の関係者は、その感謝の念から「丹那トンネル」という名称を発案し、またここに発見された断層にも丹那の名が与えられました。

牛乳のほうもまた函南牛乳とはされず、丹那牛乳と呼ばれていますが、これだけは命名者が丹那の有力者川口周平だったからです。

この丹那牛乳ですが、なかなかおいしいと思います。丹那牛乳の大きな特徴は「酪農家と工場が近いこと」だそうで、一番の売れ筋、「丹那3.6牛乳」の場合でも、一番遠い酪農家で片道2時間の距離だそうです。

搾られたばかりの生乳は栄養成分が多いゆえに、時間が経つにつれ細菌が増え、酸化し、風味が劣化してしまいます。丹那牛乳では非常に短時間で、生乳を酪農家から工場に運ぶことができるので、雑菌が少ない良質な生乳を加工できるといいます。

パックに印字されている賞味期限は加工された時点からの期限になります。その前の、搾られてから加工されるまでにかかる時間こそが、牛乳の鮮度とおいしさを決定付ける重要な要素です。

だから丹那牛乳はおいしいのだと、ホムペにも書いてありました。関東に住んでいるのにまだ一度もこれを飲んだことのないという貴兄もまた、いちどこの美味しい牛乳を飲んでみてください。そして、伊豆へお越しの際には、酪農王国にも立ち寄ってみてください。

88

2014-11202875月になりました。

今日は、八十八夜で、これは立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後日)にあたる雑設です。

節(ざっせつ)というのは、案外と知らない人が多いと思いますが、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことです。

全部で、9つしかなく、これは、節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日ですが、これに、初午・三元、盂蘭盆、大祓を加える場合もあるようです。

初午(はつうま)とは、2月の最初の午の日で稲荷社の祭があるときで、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものです。また三元は1月中旬、7月中旬、12月中旬などで、いずれの日も15日ごろ、つまりほぼ満月の時期で、死者の罪を赦すことで厄除けとしたりする日のことです・

また、社日(しゃにち)というのも、あまり聞いたことがないと思いますが、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日で春と秋にあります。産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝するのですが、各地で都会化が進んでいるため、あまり顧みられなくなり、ほとんど名ばかりになっています。

このほか、半夏生(はんげしょう)もあまり知られていませんが、これは半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃で、毎年7月2日頃にあたり、この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いようです。

一方、八十八夜は、あと3日ほどで立夏になる日ですが、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期でもあります。地方によっては5月半ばごろまで遅霜の被害が発生するところもあり、このため、農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節が作られました

「♪夏も近づく八十八夜…」と文部省唱歌「茶摘み」に歌われているとおり、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれています。

ここ静岡で産出されるお茶は、その名も「静岡茶」で通るブランド名であり、牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は国内第一位です。宇治茶と並び「日本2大茶」と称されますが、これに狭山茶を含めて3大茶とする場合もあるようです。

この牧之原台地というのは、静岡県中西部にある台地で、位置的には静岡と浜松のちょうど中間ぐらいの場所です。島田市、牧之原市、菊川市にまたがっており、古くは大井川の扇状地だったものが隆起したためにできた土地のようです。

標高40-200mで、北側から南側へかけて緩く傾斜しているため、日当たりがよく温暖で、石が多くて水はけが良い赤土で、霜が降りることもありません。

ただ、高地であるために、水を引いてもすぐに流れてしまい、また台地は溜池を造るにも不適だったために、牧之原台地は長いこと不毛の土地でした。

稲作などにはまったく不向きな土地柄であり、江戸時代までは、麓の村々の入会地、つまり草刈り場としてしか使われていませんでしたが、明治期になって、江戸を追われた幕臣などの士族が中心になって、比較的高地に強く商品作物として魅力があるお茶の栽培を始めました。

当初は、基幹技術もなく、なれない農作業で武士たちの開拓は至難を極めましたが、長年の研究の末、栽培に成功し、現在の大茶園が形成されました。

それまでもお茶の栽培に適した土地は静岡以西にもありましたが、牧の原台地は作付面積がより広く、また東京や名古屋、大阪などの大消費地に近いこともあり、次第に他地域を凌駕するようになっていきました。

県内には他にも磐田市の磐田原台地や浜松市の三方原台地などもあり、それぞれ牧之原ほどではないにせよ、茶栽培も盛んに行われており、これらも合わせて、静岡茶は日本一といわれるようになっています。

ちょうど今頃が先月摘んだばかりの一番茶、すなわち新茶が出回るころであり、先月末に病院でのリハビリと我が家での一カ月に及ぶ生活に区切りをつけて山口に帰っていった母も、手土産にと売り出されたばかりのこの新茶を買っていきました。

さて、今日はこのお茶の話を延々としてもいいかなとも思ったのですが、前にも何度かお茶の話題をここでしたので、「二番煎じ」にもなるのでやめにしようと思います。

そこで、八十八夜の88にちなんで、1988年という年はどんな年だったかな?と調べてみたところ、これは昭和63年のことであり、ちょうど昭和時代が最後を迎える年でした。

9月19日には、前年に消化器官手術を受けられた昭和天皇が吐血されて重篤となり、それ以降、日本各地で天皇の健康に配慮し祭事やイベントの中止・自粛が相次ぎました。

年が明けての、1月7日、やはり昭和天皇が崩御され、皇太子明仁親王が即位。小渕恵三内閣官房長官(後の内閣総理大臣)が記者会見を行い、新元号を「平成」と発表されたニュースのことが今でも思い起こされます。この日は、昭和最後の日となり、昭和64年は、昭和元年(12月25~31日)と同じく、7日間のみとなりました。

ちなみに、私はこのときまでハワイ大学在学中で、この日はちょうど短い冬休みの中の一日で、その先週までの試験疲れでぐったりとしていたころでした。小渕官房長官による新元号発表の映像は、後に日本に帰ってから初めてそうだったことを知ったのでした。

朝起きて、住んでいたアパートの入口の外にいつものように投げ出してある(アメリカでは新聞がドアの外に置かれているのが普通)新聞(ホノルルアドバタイザー)を取り上げたところ、第一面にデカデカと昭和天皇の肖像画が掲載されているのを見た衝撃を今でも思い出します。

この新聞には崩御されたばかりのことでもあり、危篤になられてからの状況についてはあまり触れられておらず、日本とも関係の深いハワイという土地柄のこともあり、昭和天皇のそれまでの足跡とともに、真珠湾攻撃との関わりなどが主な記事だったと記憶しています。

この新聞は今でも大切に取ってありますが、肖像画付きということで、いつの日かきっとプレミアムがついて、高値で取引されるに違いない、と踏んでいます。

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この昭和最後の年である1988年というのは、日本にとっても年号が平成に変わって新しい時代に入ったわけですが、世界的にみても、この年の1月に- ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長主導の下、ペレストロイカ開始され、5月にはレーガンアメリカ大統領が訪ソ、首脳会議が開催されるなど、新しい時代を感じさせる年でした。

一方国内では、天皇の崩御以外の事件としては、3月には青函トンネルが開通し、その翌月には瀬戸大橋が開通したということがあり、これで、本州とそれ以外の島すべてが陸続きになるという、記念すべき年でもありました。

このほかあまり大きな事件、事故はない年でしたが、それでも6月にはリクルート事件が発覚しており、7月には、遊漁船「第一富士丸」と海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が衝突して、死者30名、負傷者17名を出すという惨事がおこりました。

7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖で、海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属の潜水艦「なだしお」(排水量2250トン、乗員74名)と遊漁船「第一富士丸」(154総トン、全長28.5m、定員44名)が衝突し、第一富士丸が沈没。

この第一富士丸は定員44名だったのにもかかわらず、乗客39・乗員9合わせて48人が乗るという定員超過があったことがわかっており、このことが事故原因につながったかどうかまでは解明されませんでしたが、このうち30名が死亡、17名が重軽傷を負いました。

死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見され、残りの1名は救助後病院で死亡。この事件では、事故発生時の救助・通報の遅れに対する批判やバッシングが相次ぎましたが、これは、つい最近韓国で起こったフェリー沈没事件を想起させます。

その後、艦長らが衝突時の航海日誌を後に書き改めていたことなどがわかり、これを新聞各紙が「改竄」と報じたことなどから、さらに問題は拡大していきました。

このため、この当時はなだしおのような自衛艦では「軍事機密」ということで、その性能を公表することがあまりなされていませんでしたが、機密とされる旋回性能などを検証データとして開示するよう裁判所が求め、これらが公表されたことなどでも話題となりました。

結果として、事件があってから4年後の1992年(平成4年)に、なだしお・第一富士丸双方の責任者に有罪判決が下されましたが、この事件によってこの当時の防衛長官である瓦力(かわらつとむ)氏が引責辞任するという事態にまで発展しました。

この事故発生の経緯を簡単に書くと、「なだしお」は、7月23日早朝に在日米軍横須賀海軍施設を出港。伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終えて、横須賀基地へ帰投を開始していました。なだしおの乗組員は艦長を含め73名に第2潜水隊司令を加えた計74名が乗艦しており、この航海中は浮上航行でした。

同船の所属していた富士商事有限会社は赤字経営で従業員への給料遅配が続いており、この船の船長は1か月前に船長に就任していましたが、この航海を最後に同船を降りる意向で、不満を抱きつつ操船していたといいます。

午後3時35分、なだしおが右前方に第一富士丸を確認、その2分後には衝突回避のため右転を行いましたが、間に合わず、突直前第一富士丸は咄嗟に左転しましたが、なだしおと衝突。衝突後すぐに「溺者救助」が発令され、なだしおは、付近にいた護衛艦「ちとせ」や潜水艦「せとしお」へ救助要請しましたが、遭難信号は出しませんでした。

なだしおは衝突後、スクリューを後進したため数百メートル後退しましたが、十数分後に現場へ戻ると、第一富士丸の右側に近づきゴムボートや命綱を用いて救助活動を行い3名を救助しました。

しかしこのとき既に第一富士丸は左に転覆しており、あとでわかったことですが、このとき左側の方により多くの遭難者がいました。なだしお以外にも、近隣を航行していた民間のヨットが3名を、民間タンカーが13名、護衛艦「ちとせ」が1名を救助し、救助者は20名に及びました。が、のちにこのうちの一名が死亡しました。

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事故発生から30分も経たない、午後4時頃には、第一富士丸の所有者である、富士商事の穴沢薫社長らが、早くも現場へ急行しましたが、一方、自衛隊側では、午後4時30分頃になってようやく、目黒区の宿舎にいた東山収一郎海上幕僚長に第一報が届きました。

このとき瓦力長官は、石川県に滞在しており、この幕僚長からの事故発生の知らせも比較的早く受けたようですが、この事故を知って東京に戻ろうとしたとき、なぜか航空自衛隊機が準備できず、民間機を待ったため帰京が遅れました。

この海難事故においては、事故発生直後に、当事者のなだしお自らが行った救助活動において、たった「3名しか救助できなかった」という事実に批判が集中し、「潜水艦乗員は甲板に立ったまま見殺しにした」などの「証言」が相次いで報じられ、世間の大きな注目を集めました。

ただし、中には誇張や誤報も存在したことがのちには判明しており、このことも二週間前に発生した韓国のフェリー「セウォル号」の遭難事件と似ており、まったく事実と異なることが報道されて、独り歩きしています。

しかし、なだしお側がすぐに救助活動を行わなかったのは、流線型の特殊形状を持つ潜水艦という艦艇の性質上の問題でもありました。スクリューを止めてもその艇の周辺には渦巻きなどの海水の擾乱があり、救出のためにすぐに海中に飛び込むと、この擾乱や止まりかけているスクリューによる二次被害の可能性があります。

こうした点には、報道はほとんど触れておらず、一方的に自衛隊側が悪い、とされたのはやはり報道側にも問題があったといえるでしょう。

しかし、船舶の航行数が多い横須賀沖のような海域では、大型の艦船である潜水艦が不注意によって起こした事故は大参事になる可能性は高く、その非は自衛隊にあり、との世間からの批判が集中しました。

このため、事故後3日を経た7月26日には久保彰潜水艦隊司令官が横須賀地方総監部に待機する行方不明者家族に謝罪し、翌27日には東山海幕長が総監部の遺体安置所において、遺族らに謝罪しました。が、東山海幕長は、この直前に「潜水艦は無過失」と発言して世論の反発を買っています。

なだしおの乗組員のうち、艦長ら幹部15名を除く乗組員59名については、8月2日夜になってようやく上陸が許可されましたが、艦長は更迭されました。この艦長は8月17日から事故犠牲者遺族のもとを訪問し謝罪しており、翌年7月、防衛庁は東山海幕長とこの艦長ら海上自衛隊幹部13名への行政処分を発表しました。

この事故を巡っては、海で起こった事故をさばく、「海難審判」と自衛隊側を加害者とみなした「刑事事件」としての裁判の2つが行われました。

海難審判庁はその裁決において、なだしおの回避の遅れと、第一富士丸の接近してからの左転、双方に同等の過失があったと判示し、両者に過失があったとしました。

この海難審判で元船長は、「同等の過失」とされたことを不服とし、処分取り消しを求めて行政訴訟を起こしましたが、1994年(平成6年)2月、東京高等裁判所は請求を退けたものの、なだしおに主因があったと認定しました。この結果について、元船長は「100%の勝訴」と発言した上で、改めて犠牲者に謝罪の意を示しました。

一方の刑事事件としての裁判のほうは、1992年(平成4年)12月、横浜地方裁判所での判決では、海難審判と異なり「横切り船航法」を採用したうえで、避航船であるなだしお側に主因があると認定しました。

しかし、なだしお側の回避行動の遅れに加え、第一富士丸側の回避行動にも遅れがあったことを認め、なだしお元艦長に禁錮2年6か月執行猶予4年、第一富士丸元船長に禁錮1年6か月執行猶予4年の判決を下し、この判決に対して両者とも控訴しない方針を固めたため、判決は確定しました。

執行猶予とはいえ、有罪判決であったため、このためこのなだしおの元艦長は、自衛隊法に基づき失職しています。

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この事故が発生した、浦賀水道というのは、昔から船舶の通行が多い場所で、戦後、同水道の往来が活発になると海難事故が多発する傾向にありました。

この海域には、海堡(かいほ)と呼ばれる明治時代に作られた海上要塞のようなものがあり、事故が起こった浦賀水道にもこの当時はまだ「第三海堡」と呼ばれる海堡が残っていました。

日本は明治から大正にかけて、山縣有朋陸軍大将が日本全土を外敵から守るために「要塞化」することを主張。このため、東京湾にも千葉県富津岬沖から、神奈川県横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島、すなわち海堡が造成されました。

完成後は兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて東京湾口に円弧状に存在する防衛ラインの一環として運用されましたが、戦後この海堡は洋上要塞として機能しないばかりか、東京湾を出入りする船舶の輻輳(ふくそう)から海難事故の原因だと再々指摘されていました。

このため、元東京都知事で、ヨット愛好家でもあった石原慎太郎氏をはじめ、船舶運航関係者が撤去を声高く主張していましたが、明治期に建設されたこれらの人工島はかなり堅牢に設計されていたため撤去が困難でした。

三つある海堡のうち、第一海堡と第二海堡は東京湾要塞の一部として、実際に対空砲などが置かれ、第二次世界大戦の終了時まで運用されていました。

一方、第三海堡は、1892年に起工され、1921年に完成するまでに30年もの歳月がかかっており、これは三つの海堡の中で最も水深が深く、水深39メートルもある場所に造成され難工事となったためでした。

しかし完成から2年後関東大震災により崩壊し4.8メートルも沈下し、全体の三分の一が水没してしまったために復旧は困難と判断されて廃止・除籍され、島自体は無人島のまま戦後まで残されました。

ところが、この海域で船舶を運行する側からみると、この海堡は浦賀水道のど真ん中にあるため実に邪魔な存在であり、このため撤去を望む声が高く出ていました。一方では漁業関係者からはこれらの人工島の周辺は良い漁場であり、撤去したあともその基礎部分などが魚礁代わりとして絶好の漁場となっていたことから、存続が望まれていました。

しかし、この事故の影響で、結局2000年(平成12年)になって撤去が決定し、2007年8月になってようやく撤去が完了しました。撤去の際、取り壊された構造物は第三海堡跡南西2,000m の海域に投棄され魚礁などに再利用されましたが、その一部は陸揚げして綿密に調査されました。

この海堡の造成技術は、当時の土木工事の水準を超えていたとされ、その優れた人工島造成技術が分析するためでした。兵舎や弾薬庫など陸揚げされた構造物は横須賀市浦郷町の国土交通省関東地方整備局追浜展示施設で公開されている。また、構造部のひとつであった大型兵舎は、横須賀市にある「うみかぜ公園」に展示されています。

これは、横須賀市平成町にある横須賀市の海浜公園で、横須賀新港の南東約1.5kmの海沿いに立地しており、猿島や東京湾を間近に見ることができ、園内には、マウンテンバイクコースや各種スポーツ施設もあり、このほかバーベキューができる広場や花壇、子供の遊具などもあって家族で遊べるそうです。

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ところで、この海難事故における、第一富士丸の沈没は、「轟沈」とよばれるほど短時間での沈没であったそうで、この瞬時の沈没のため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが犠牲者を多くした原因とみなされています。

日本観戦の歴史上のこのほかの轟沈の例としては、日露戦争時、日本海軍の戦艦「初瀬」が、旅順港沖でロシア海軍の機雷に触れ、1分10秒で轟沈した例があります。

戦艦「大和」も傾斜・横転から爆発をともなう水没まで、わずか数分だったそうで、味方残存駆逐艦が発した報告電文でも「ヤマトゴウチン。2ジ23プン」となっています。

また、空母「大鳳」は、マリアナ沖海戦に参加中、潜水艦からの魚雷攻撃が原因で漏れて気化した航空機燃料が充満、これに引火して爆発炎上して瞬時に沈没しており、戦艦陸奥もまた、柱島泊地に停泊中、謎の爆発をおこして短い時間で沈没しています。

私の祖父がかつて乗船したこともあった、戦艦扶桑もまた、スリガオ海峡海戦において被雷により爆発、真っ二つに折れて沈没していますが、これは彼の退役したはるか後年のことです。

このように戦艦や空母のようなど大きな船が瞬時に沈んでしまう様というのは、「壮観」などというと死没者に失礼でしょうが、壮絶なものであるには違いありません。

ましては150トン余りの第一富士丸などの小船がその15倍もの大きさのある潜水艦にぶつかられて起こした沈没は、本当に一瞬だったに違いなく、乗っていた人たちもあっ!という間もなかったに違いありません。

それに比べて今回の韓国のフェリー事故では、沈没までに数時間もの余裕があったのにも関わらず数多くの被害者を出しており、これは単なる災害ではなくもう立派な人災です。

事故後半月以上を経て徐々にその詳細が明らかになってきているようですが、日本としても他人の芝生で起きたこと、などと傍観せずにその原因究明を通じて得られるであろう数多くの教訓を今後に備えてしっかり把握しておくべきでしょう。

韓国のフェリー事故では、日本の海上保安庁に相当する海洋警察や海難救助部隊が強く非難されているようですが、これと海上保安庁を比較して、日本ならあんなふうにはならない、海猿ならばきっともっと多くの人が救えただろう、といったかんじの論調の報道が相次いでいます。

1988年のこのなだしお事件の直後には、翌年の1989年度入学の海上保安大学校の受験者数が5年ぶりに増加に転じたそうで、これはこの事故により、保安庁の存在がクローズアップされて海上保安官への人気が高まったためとと推測されます。

保安庁やには優れたレスキュー部隊があり、これを賞賛すること自体は決して悪いことではないとは思います。東北大震災のときにも数多くの人命救護や被災者の救出に当たった自衛隊が賞賛されたことがあり、この保安庁の件も同じことでしょう。

ただ、こうして何か大きな事件があるたびに「軍事」にもつながる装備を持ったこうした組織がもてはやされるのが少々気になっています。憲法改正にもつながる風潮なのかな、と心配してしまうのは私だけでしょうか。

ところで、「撃沈」というのは、日常生活や仕事での失敗や、色々な試験での不合格、酒に酔いつぶれること、また失恋、勝負の敗北などを意味する俗語としても使われます。

この連休も明日からはいよいよ4連休というクライマックスに入りますが、連休明けには、遊び疲れで力尽き、「轟沈」となる人も多いかもしれません。

くれぐれも連休中の酒の飲みすぎ、遊びすぎには注意しましょう。

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現在・過去・未来

2014-1100458連休だ連休だというので、祝休日の並びがどうなのか、といったことにばかり気を取られていましたが、気がつけば今日は4月最後の日です。

あ~もう5月かぁーと、改めて月日の流れる速さを感じてしまうのですが、齢をとると時間の流れを早く感じるようになるというわけで、私ももうそういう齢なのだろうな、と何をいまさら、といわれそうですがついついそう思ってしまいます。

特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、時間の流れが遅くなるとされているそうなので、いっそマグロのように一日中走り回っていたら時間がゆっくり流れるかも……などと馬鹿なことを考えてみたりもします。

また、タイムマシンがあれば昔に戻れるのに……は誰でも考えることでしょうが、最新の研究では、どうも無理そうだ、という見解のほうが多いようです。

かの有名なイギリスの理論物理学者、スティーヴン・ホーキング博士も、はっきりと、「タイムマシンは不可能である」と述べ、その理由としては、「過去に行くことを許容する時間的閉曲線が存在するためには、場のエネルギーが無限大でなくてはならない」と言っています。

難しいことはよくわかりませんが、ようするにものすごいエネルギー量が必要だということのようですが、現在の科学技術レベルでは理解しがたい高レベルのエネルギー量は宇宙のあちこちに存在するということもわかっているようなので、そうしたエネルギーを獲得すればもしかしたらタイムトラベルはできるのかもしれません。

ただ、タイムトラベルというと何やらおどろおどろしいSF的なタイムマシンが必要、というイメージがありますが、変化を意識していないうちに周囲は変化していってしまう、といったこともタイムトラベルと呼ぶのなら、ウラシマ効果というのがあります。

ウラシマ効果というのは、上述の相対性理論に基づき、もしも光速に近い宇宙船で宇宙を駆けめぐり、何年か後、出発地点に戻ってきたような場合、出発地点にいた人は年を取り、宇宙船にいた人は年を取らないという現象が生じる(だろう)、というものです。

この場合、宇宙船は未来への一方通行のタイムマシンの役目を果たすことになります。宇宙船から地球のような静止系を見ると、静止系は相対的に運動していることになりますが、時間の遅れが生じるのは宇宙船側です。

この状態が、昔話の「浦島太郎」において、主人公の浦島太郎が竜宮城に行って過ごした数日間に、地上では何百年という時間が過ぎていたという話にそっくりであるため、日本のSF作家がこうした現象をウラシマ効果と呼んだのです。

SFでは、わりとよく使われる話であり、映画「猿の惑星」はその典型でした。長い間宇宙を漂流していた宇宙飛行士たちが未知の惑星に不時着し、そこは猿が支配する世界だった、という設定ですが、実はこれは地球であり、人類が滅びたあとに、猿たちが君臨するようになる未来の世界だった、というストーリーです。

日本のアニメにも再三登場し、「ドラえもん」では、映画やテレビでのび太が何度もウラシマ体験をしており、藤子・F・不二雄のSF短編の中でも、地球を離れたパイロットが、宇宙船の機内では10年ほどしか経っていないのに、地球では1000年の月日が流れていたという話が出てきます。

宇宙において高速に動くことによって、時間の遅れが生じるという科学的に立証された物理現象ではあるのですが、現状では人間の生活に影響が出るほどの高速は出しえないことはわかりきっており、それは誰しもが認めるところなのですが、もしかしたら……と思わせるところが、このガジェットの魅力でしょう。

これよりももっと現実的に可能性のあるタイムトラベルもあります。「コールドスリープ」がそれで、人体を低温状態に保ち、目的地に着くまでの時間経過による搭乗員の老化を防ぐ装置のことを指します。

火星探査などの宇宙船での惑星間移動などにおいて利用できるのではないかといわれており、またタイムトラベルの手段としても、未来だけへ行くという、一方通行であるならば可能ではないかと言われるものです。

一般にコールドスリープには、低温状態にして睡眠後に時々覚醒するタイプや、ある一定時期に活動を停止させる冬眠タイプ、完全に凍らせてその後「解凍」する冷凍タイプなどがあります。

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なぜこうした方法が宇宙旅行に有効かといえば、例えば地球と火星の間での移動には現状の技術を使っても数か月はかかるといわれており、この間の搭乗員の食料、酸素といった生命維持系の調達のためには非常に大きな宇宙船が必要になってしまいます。

また、船員の健康・体力の維持や退屈しのぎなどの施設も必要であり、これらの生活に要するものを少なく抑えることができれば宇宙船の質量を減らすことができ、その分だけ燃料を減らすことができるわけです。

さらに、将来的には火星以外の惑星探査ということになると、その移動時間は数十年やそれ以上にも及ぶ可能性もあり、こうなると人間の寿命との競争ということになってきます。このため、その対策としてはコールドスリープが最も有効ではないか、というわけです。

アメリカでは既に来たる火星探査に向けて現実的な方法が検討されているということです。しかし課題も多く、一番大きい問題は、長期間、無重力状態に肉体がさらされると、筋肉の衰えや骨が脆くなるということです。寝ている間は体を動かすことができませんから、こうした衰えはなかなか防ぐことができません。

また、重力がある状態で長期間同じ姿勢のまま睡眠を行うと、床ずれを起こして皮膚が壊死する、といったことや、いっそ冷凍してしまえ、といった場合には、水分が凍結した時に起こる体積膨張により細胞を破壊してしまう恐れがあります。

生命を保ったまま人間を冷凍できるかどうかについては、種々の研究がされているようですが、やはり脳などの冷凍技術が一番難しいらしいようです。ただ、精子の冷凍保存は実用化されており、まったくの不可能ではない、とみなされているようです。

冷凍後に蘇生できるという保証はありませんが、クライオニクス(cryonics)と呼ばれる人体冷凍保存のサービスも存在し、これは、死んだ直後の人体を冷凍保存し、医療技術の発展した未来に復活の望みを託すというものです。

しかし、現在の技術で冷凍保存されたものが、遥かに進んでいるであろうとはいえ、未来の技術をもってうまく解凍できるか、については懐疑的な見方が多く、実際に復活させることができるかどうかについては悲観的や否定的な意見が多いようです。

ただ、肉体は滅びても、記憶や意識といった、脳の働きが完全にコピーできて永久保存ができるのであれば、肉体だけは後から作り直せばいいわけです。

これについては、今何かと世間を騒がせている日本の理化学研究所の若山照彦というドクターらのチームが、2008年に死後16年間冷凍保存されていたマウスからクローンマウスを産み出すことに成功しており、これにより、理論的には冷凍保存された人の遺体からクローン人間を生み出すことが可能ではないかといわれています。

この技術を応用すれば、人間の再生もできるというわけですが、再生した人が記憶を失ってしまっては困るわけで、ここでコピーしていた過去の自分の脳の中身を移しかえる、ということが必要になります。

人間の脳の中身を移し替えるなんてできるわけないよ~、という人も多いかもしれませんが、将来的に開発されるであろうコンピュータでは、人間の脳の働きを100%解析できるだろうといわれており、けっして不可能なことではないのかもしれません。

ただ、こうしてコンピュータに真似させてできた頭脳は、いわゆる「人工知能」であり、器械にすぎないコンピュータに持たせることができる意識は果たして人間とコミュニケーションが可能な意識なのか、といった議論があり、人間と機械類との間では相互にそれを認識できないのではないか、と指摘する人もいるようです。

こうした話はSF作品にもよく見られ、映画「2001年宇宙の旅」にもあったように、この映画に登場するコンピュータは、時には人間のよき友人となり、時には人類の敵にさえ成り得る存在として描かれますが、実はあくまでプログラムで動作しているにすぎず、人間のような感情は持っていなかった、というのがオチです。

一方、2008年のアメリカ映画「イーグル・アイ」に登場するコンピュータは、合衆国憲法を文字通りの意味で解釈し、現行政府が憲法を逸脱した存在と判断したため、反逆を起こす、というストーリーで、これは、当初与えられた指示の通りに行動しているものが次第に進化して、独自の意識を持つようになった、というものです。

機械が果たして人間の心を持ち得るか、というのはSFにおいても科学においても永遠のテーマですが、宇宙旅行というものを人類が実際に経験するであろう未来世界においては、我々の子孫が現実的に直面する問題になっていくのでしょう。

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スピリチュアル的な観点からいえば、退行催眠などによって、過去の自分と向き合うということも、現実的に実行が可能なタイムトラベルといえるかもしれません。

魂は永遠であり、肉体は滅びてもその都度生まれ変わって、次世代に受け継がれていく、ということを信じるのならば、その魂の記憶を辿ることはタイムトラベルにほかなりません。

アメリカ合衆国の精神科医であるブライアン・L・ワイス博士によって催眠療法中に「前世記憶」が発見され、1986年に出版された”Life Between Life“という本で世に知られるようになったという話はこのブログでも何度か紹介しました。

退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(前世記憶)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったり、とくに深層心理面での治療に役立つとされ、ワイス博士はこの処方を多くの患者に施し、数多くの人を救ったと言われています。

こうした前世の記憶は、誤った催眠療法の誘導によって捏造された、実際には起っていないはずの創造された記憶だと批判する人も多いようですが、「過去性の記憶」と実際の歴史との符号を調査した結果、完全に一致するケースも相次ぎ、先進的な研究をしている医学者の中でも信じる人が増えています。

この「前世療法」の話というのは、書き出すとまた長くなるので、簡単に述べますが、人はすべて数ある前世から転生してきて今生に生きており、その前世までに経験してきた問題や課題が現生では病気などとして持ち越されている場合が多く、その問題が何であるかを退行催眠によって見つけ出し、治療に役立てようというものです。

私たちの本質は魂という一つのエネルギーであり、さまざまなことを学ぶために人生を何回も繰り返し輪廻転生しますが、1回の人生では学びきれないため、また、いろいろな境遇に身をおき、さまざまな体験をすることによって人に共感できるようになるとともに、そうした経験を通じて、魂は「成長」を続けていきます。

これまでも、多くの医師や心理学者が退行催眠や臨死体験の研究により、人間は輪廻転生する存在であることを確信しています。

その例証として良くとりあげられるのは、今生では一度も聞いたことも習ったこともない外国語をしゃべることができる患者がいることや、亡くなって霊的存在となっていた祖母が孫に話した母親の子ども時代の秘密が後で事実だと確認できた、といったことなどですが、こうした傍証データはいくらでもあります。

ただ、自分で実際に退行催眠や未来世療法を体験しなくとも、こうした多くの状況証拠をもとに、輪廻転生というものがあると信じられるようになるだけでも、余分な不安や恐怖がかなり薄められるなどの効果があり、それこそが前世療法的な効果だと考える学者もいるようです。

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実はこのワイス博士は、「未来世療法」という本も執筆されていて、これは、自分の魂の来世もまた予見できる、というものです。

実はまだ私もこの本を読んではいないのですが、そこには未来の自分の日常生活を垣間見る方法が書いてある、ということではないようで、未来は変えられるということ、そして、私たちはより良い未来を生きられるのだということを、実感できる、そのことによって魂が救われる、といったことが書いてあるようです。

未来の自分を予見できるということは、すなわち退行睡眠などにより、過去の自分だけでなく、未来の自分を見るためにタイムスリップすることもできる、ということになります。

実際に読んでもいないのに、その内容を披露するのも無謀なのですが、その内容を紹介したサイトなどがいくつかあったので、それらを参考にした上で、以下に少し書いてみたいと思います。

それらによると、一つの未来世療法の例としては、宗教的な理由から日頃よりアラブ人をののしっていたユダヤ人のある女性の例があり、この女性は、9.11の自爆テロに遭遇したことから、その「症状」が悪化したといいます。

ワイス博士がその過去生を退行睡眠によって確認したところ、この女性のある人生においては、ナチの士官としてユダヤ人を虫けらのように殺していたことがわかりました。このため、生まれ変わった現在では、逆に前世で虐待したユダヤ人に自らなり、その気持ちを味わうという人生を選んで生まれてきました。

しかし、過去生においても差別や偏見をなくすという学びがなかったために、今生になっても今度はアラブ人を忌み嫌うことになり、相手は変わってもまた誰かを憎しみ続けるということを続けているため、苦しんでいるらしいということがわかりました。

そこで、ワイス博士は再び退行睡眠によってこの女性に、この状態で次に転生したらどうなるか、その未来を体験させることにしました。

すると、なんとその次の来世で彼女はイスラム教の少女となり、今度は再びユダヤ人をののしっている姿が見えてきたといいます。さらには、また次の生では東アフリカに住むキリスト教徒の男性となり、その周囲にヒンズー教徒が増えていくことに怒っている姿が見えてきました。

彼女はそれらの来世を見た時に、自分はいつも誰かを憎んでいることに気がつきました。そしてそこでようやく暴力は苦しみを増すだけで、怒りは思いやりと愛によってとけてゆくことを実感でき、他の人々や文化に対する自分の思いこみを変えなければならないこと、憎しみを理解に変える必要があることを実感をもって学びました。

こうしてワイス博士は、患者に味来を見させることによって、その人が持っている偏見や差別を手放させ、より浄化された魂に導くことができることを発見しました。

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以後、多くの患者にその未来を催眠で体験してもらうようになったといいます。がしかしお気づきのとおり、未来世は過去世のようにそれが事実かどうか確認することはできません。

このことについて人に問われると、ワイス博士はその患者が見た未来が実際に起こることかどうかは問題ではなく、その経験を通じて現世の魂が救われるかどうかが問題である、と答えたそうです。

そして患者にとっては、たとえそれが本人創作した「未来のシナリオ」であったとしても、それを作る時に潜在意識にある自分の望みが投影されていればよく、こうしたシナリオはどんなものであれ、深層心理が作り出したものであれば治療のために役立ち、その当人にとって意味がある、とも答えたといいます。

そうした意味では、この「未来の記憶」は夢のようなものでもあります。しばしばそこにはシンボルや暗喩、心の奥にある希望や欲望、実際の記憶や予知的体験などの混合物が含まれる可能性がありますが、ワイス博士はそれでいいのだといいます。

患者が未来を見たからといって、必ずしもそれが「本当の」未来であるとは言えません。それにもかかわらず、記憶の持つ力強さと即時性は、すぐに患者の現在と未来の人生を変え、改善するといいます。こうした変化は、彼らが見たものが真実かどうか検証することよりも、ずっと大切なことだといいます。

来世を確認することはできなかったとしても、この例で紹介した女性は、ワイス博士の治療により、未来を実感することで今の状況を変えることができたそうです。

未来は固定的なものではなく、自分の自由意志による選択によって無限の可能性があり、それを患者に選択することによって治癒が促されるように仕向けることをワイス博士は発見し、これを「未来世療法」と命名することにしました。

こうした「治療」によって、現在の状況が改善されることにより来世が肯定的に変わっていくということは必然でしょう。

過去も現在も未来も、その人だけのものであり、今、ここに、同時に起こっていて、年、月、日、時間、分という地球時間を計る時間軸とはまったく違う何かによって進んでいる、と考えれば、その人だけには自分の未来も予見できるのかもしれません。

曹洞宗の開祖、道元禅師が「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という著書の中で、「一切世界のあらゆる事物は、連っている時である。それは有時であるから我の有時である」と言っているそうですが、これはすべての存在は深いところでつながっており、自分もまたそれに連なっている、という意味のようです。

すべての存在は自分も含めて、過去、現在、未来をも含み皆つながっているというのは、スケールが大きくなかなか理解することはできにくいのですが、真理を極めた人の目から見れば、やはりこのような表現になるのだと思います。

すべての存在はつながっている。だから互いの違いを理解し調和を求めることが大切である、ましてや自分の未来を知れば、自分を理解し、自分や自分を取り巻く世界との真の調和を見出すことができる、というわけです。

いかがでしょうか。連休の中、忙しかった4月までの繁忙から抜け出し、ようやくまとまった休みを得ることができる、という人も多いと思います。

この休みにはひとつ、自分でも退行睡眠にチャレンジして、自分だけにしかできない、未来旅行や過去への旅を経験してみてはいかがでしょうか。

ちなみに、退行睡眠については、PHP研究所から、「ワイス博士の前世療法」「心を癒す ワイス博士の過去生退行瞑想」といった本が出版されており、付属のCDを聞きながら、自発的に退行睡眠を試みることができます。

私も何度か退行睡眠をやり、過去の自分を見出したことがあります。みなさんも連休のさなか、ぜひ素敵なタイムスリップしてみてください。

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カイコの夢

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先週末、富岡製糸場がユネスコの境遺産に登録される見通しである、との報道がなされ、関係者の間では喜びの声があがっているようです。

ご存知の方も多いと思いますが、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場で、1872年(明治5年)に開業しました。

現在も当時の繰糸所、繭倉庫などがきれいなまま現存しているとのことで、これは、最後にこれを所有していた片倉工業という会社が、この施設を売らず、貸さず、壊さないをモットーに大事に保全してきたためだからそうで、その維持費だけでも年間1億円かかっていた、といいますから、その功績は大いに称えられるべきものでしょう。

この工場は、日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、ユネスコ登録の前からもうすでに敷地全体が国指定の史跡や重要文化財に指定されており、製糸工場本体だけでなく、これに関連する「絹産業遺産群」も合わせて今年ドーハで行われる世界遺産委員会で正式登録される見通しということです。

この富岡製糸場がある群馬県一帯は古くから養蚕業がさかんであり、この界隈にはほかにも養蚕に関連した文化遺産も多く、県北の沼田市には樹齢1500年ともいわれる「薄根の大クワ」が残っており、これは天然記念物に指定されているヤマグワの木としては、日本最大で、地元の人々からは神木として崇められているそうです。

ほかにも、1792年ごろに建てられた冨沢家住宅という重要文化財に指定されている養蚕農家があり、この冨沢家がある中之条町にはほかにも同様の古い養蚕農家があって、これらは「赤岩地区養蚕農家群」として、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

この養蚕の技術は、日本には紀元前200年くらいに、稲作と同時期にもたらされたと考えられています。文書に残っている記録としては、195年に百済から蚕種技術が伝えられたという記録があるほか、283年にも絹織物の技術が伝えられたとする記録があり、養蚕技術の発展とともに日本の歴史は作られてきました。

この養蚕に使われるカイコですが、チョウ目・カイコガ科に属する昆虫の一種で、正式和名は「カイコガ」という蛾です。「カイコ」という名称は本来この幼虫の名称ですが、一般的にはこの種全般をも指します。

ご存知のとおり、クワ(桑)の木の葉っぱを食べ、絹を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作ります。この繭をたくさん集めて紡いだものがすなわち絹糸になるわけですが、この養蚕業は日本という国の農業の進展に大きく寄与し、日本人は有史以来カイコとともに生きてきたといっても過言ではないでしょう。

しかし、最近はレーヨンのような安価な人絹に押されてカイコはほとんど日本では作られなくなり、自前でカイコを飼って絹を産出している会社はもう2~3社しか残っていないようです。

当然、カイコそのものを見たことのある人もほとんどいないのではないかと思われますが、
実は私はみたことがあります。

息子が通っていた東京多摩地区の小学校の周辺にはその昔たくさんの養蚕農家があったそうで、その関係からこの小学校では児童たちにカイコの幼虫を持ち帰らせ、クワの葉っぱを与えて繭になるまで大きくなる様子を観察させる、という情操教育を行っています。

我々が住んでいた家のすぐ前にも大きな桑の木があったため、彼は学校から帰ってくるたびにこの桑の木の緑を取ってきてはカイコに与えていましたが、わずか一週間ほどの間に丸々と太って大きくなり、やがて10日目ごろから口から糸を吐いて、繭を作り始めました。

次第に丸い繭になっていく様子は実に幻想的で、息子とともにその様子を食い入るように見ていたことを思い出します。

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このカイコですが、家蚕(かさん)とも呼ばれ、実は家畜化された昆虫で、野生には生息しません。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができません。

カイコを野外の桑にとまらせて自然に返そうとしても、ほぼ一昼夜のうちに鳥や他の昆虫などに捕食されてしまうそうです。また、カイコの幼虫はお腹についている脚でモノを掴む力が非常に弱いので、自力で木の幹などに付着し続けることができず、風が吹いたりするとすぐに落下して死んでしまうそうです。

成虫になると一応、羽も生えてくるのですが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、飛ぶことはできません。

養蚕は少なくとも5000年の歴史を持つといわれ、こうしたカイコの家畜化は長い間に人間によってなされたものです。伝説によれば中国の黄帝の后・西陵氏が、庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めたと言われており、絹(silk)の語源は、西陵氏の中国読みを、英語に直したもの“Si Ling-chu”からきているそうです。

カイコの祖先は東アジアに現在も生息するクワコという種だそうですが、これを飼育して絹糸を取る事は、現代の技術であっても不可能に近く、5000年以上前の人間が、どのようにしてクワコを飼いならして、現在のようにカイコを家畜にしたのかは、まったくもって不明だということです。

このため、カイコの祖先は、クワコとは近縁ではあるものの別種の、現代人にとっては未知の昆虫ではないかという説もあるようで、もしかしたら、太古に宇宙人がどこかの星からもたらしたものなのかもしれません]。

カイコは、ミツバチなどと並び、愛玩用以外の目的で飼育される世界的にも重要な昆虫です。これを飼うのは無論、天然繊維の絹の採取にありますが、とくに日本では戦前には絹は主要な輸出品であり、合成繊維が開発されるまで日本の近代化を支えました。

農家にとって貴重な現金収入源であり、地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方で呼ばれていました。山口のウチの実家でもその昔カイコを飼っていて、母もまた、「お蚕様」と呼んでいた、と述懐していました。

このためか、その昔は他の昆虫のように数を数えるのにも「一匹、二匹」ではなく「一頭、二頭」と数えていたそうです。

このカイコが吐き出す繭ですが、驚くなかれ、すべて一本の糸からできており、切れ切れではないということです。絹を取るには、繭を丸ごと茹で、ほぐれてきた糸をより合わせて紡いでいきます。

繊維用以外では、繭に着色などを施して工芸品にしたものを「繭玉」と呼んだりしますが、このほか絹の成分を化粧品に加えることもあり、繭の利用は多彩です。

ただ、茹でて絹を取った後のカイコの蛹はかわいそうに熱で死んでしまいます。しかし、日本の養蚕農家の多くは、このカイコの死骸もまた有効利用し、鯉、鶏、豚などの飼料として使ったほか、さなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることもありました。

また、貴重なタンパク源としてこれを食するという風習があり、長野県や群馬県の一部では佃煮にしたものを「どきょ」などと呼んで保存食にしていました。このどきょは、現在でも長野県などではスーパー等で売られおり、伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼んで、これも佃煮にして食べるそうです。

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このように、その昔は日本人の生活に密着していた昆虫であるだけに、日本の各地にカイコにまつわる民話や神話が残っています。

古くは「古事記」にも登場し、高天原を追放されたスサノオノミコト(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した、という話があります。

しかし、スサノオはたまたまその様子を覗き見してしまい、穢れた食物を差し出したな、と怒って、オオゲツヒメを殺してしまいました。すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じたといい、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部からは麦、尻には大豆が生まれ、そしてカイコは頭から生まれたといいます。

養蚕自体は、奈良時代にはもうすでに全国的に行われるようになり、絹は租庸調の税制における税として集められました。しかし、この当時の日本の技術は劣っており、国内生産で全ての需要を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの輸入が広く行われていました。

この輸入は江戸時代に至るまで続き、その代金としての金銀銅の流出を懸念した江戸幕府は国内の養蚕農家の奮起を促し、このため諸藩もが殖産事業としての養蚕技術の発展に努めました。

その結果、幕末期までには技術改良がかなり進み、画期的な技術も発明され、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになりました。これはちょうど日本が鎖国から開国に転じようとしていた時期でもあり、このため生糸は重要な輸出品となっていきました。

明治時代には欧米の優れた技術も輸入されるようになったころから、養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を生み出す養蚕業は重要な「外貨獲得産業」とみなされました。

我が国の富国強兵の礎を築いたといっても過言ではなく、日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたものです。

ただ、日本の絹がもてはやされたもうひとつの背景としては、同時期においてヨーロッパでカイコの伝染病の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあったようで、アジアではライバルは中国しかおらず、その中国にも1900年頃には抜き勝ち、日本は世界一の生糸の輸出国になりました。

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しかし、1929年の世界大恐慌、1939年にはヨーロッパで第二次世界大戦がはじまり、これに続いて日本もアメリカを相手に太平洋戦争を始めたため、生糸の輸出は途絶しました。ほぼ同時期に絹の代替品としてナイロンが発明されたこともあり、日本の養蚕業は、ほぼ壊滅状況に至ります。

敗戦後の復興を経て、ようやく養蚕業も復活し、1970年代ころまでには再び生産量も増えていきましたが、それでもかつて1935年ころのピーク時の半分以下の生産量しかありませんでした。その後も、農業人口の減少や化学繊維の普及で衰退が進み、2014年現在での日本産生糸の生産量は、最盛期の1%ほどにすぎない、といわれています。



こうしてかつての日本の栄光を支えた絹産業は、現在ではさびしいものになってしまいましたが、往時には世界最先端といわれたその技術の証しとしては、各地にその名残がとどめられており、富岡製糸場はそれらの中でも最大級のものです。

群馬県にこの器械製糸の官営模範工場を建てることが決まったのは1870年のことでした。富岡の地が選ばれたのは、周辺での養蚕業がさかんで原料の繭の調達がしやすいことなどが理由であり、建設に当たっては、元和年間に富岡を拓いた中野七蔵という代官の屋敷が工場用地の一部として活用されました。

明治政府は、フランス人のポール・ブリューナという人物を呼んでその指導を仰ぐこととし、彼の指導のもとにフランスの製糸器械が導入された富岡製糸場は1872年におおよそが完成し、その年の内には部分操業が始まりました。

この製糸場は一般向けにも公開されており、これは見物人たちに近代工業とはどのようなものかを具体的に知らしめることが目的でした。また、ここに全国から集められた工女たちは、一連の技術を習得した後、出身地に戻って、さらに後輩の指導に当たり、そのために建設された日本各地の器械製糸場からさらにその技術が地域に伝えられました。

富岡製糸場自体も最初は公営の施設としてスタートしましたが、その後は民間への払い下げを経て、利潤追求のために労働が強化されていくとともに、さらなる技術開発を行っていくように変化していきました。

ここ伊豆でも、西伊豆の松崎は古くから早場繭の産地として知られており、大正3年発行の「南豆風土誌」によると、この地方における養蚕の起源は、少なくとも200余年も前から行なわれていた、と記録されています。

特に幕末から明治のはじめにかけては、横浜の生糸商人が大量買いつけに訪れ、その初繭取り引きで決められる「伊豆松崎相場」は欧米にまで知られるほどだったといい、ここに富岡製糸場の新技術を取り入れたのは、松崎・大沢村の名主、依田佐二平という人物でした。

このことについては、以前にも以下のブログで書いていますので、ご興味のある方はのぞいてみてください。

北の国から
頼母のこと
松崎にて

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依田佐二平は、明治5年、わが国初の官営製糸工場として開設された富岡製糸場へ、自分の一族から若い女性6名を派遣、製糸技術を進んで習わせました。

実は、富岡製糸場は、まったく当初女工のなり手がなく、初代所長である尾高淳忠は非常に困っていました。工場の建設を進めることと並行し、明治5年2月には、政府から工女]募集の布達が出されたのでしが、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたこともあり、思うように女工が集まらなかったのです。

政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出し、尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇を最初の工女として入場させました。

また、とくに全国各地の士族の娘を優先して募集しており、これは女工が卑しい職業ではないことを示す目的でした。こうした風潮の中、伊豆の依田佐二平が自分の村の娘たちを派遣したというのは、かなり思い切った行為だったと思われ、このことからも、また時代の先見性に富んだ人物であったことがうかがわれます。

明治8年、技術を習得した女工たちが帰郷すると、佐二平は、当時はまだ松崎村と呼ばれていたこの地の清水という場所に水車を動力とする25人繰り富岡式木製製糸機械を設置、し生糸の試作を開始しました。

さらにその翌年、この工場を大沢村の自邸内に移転し、松崎製糸場の名で40人繰り、のちに60人繰りに拡張して、本格的製糸業を始めています。これは静岡県下の民営製糸工場としては第1号であり、これを契機に明治後半までには、松崎周辺と県内各地に続々と製糸場が設立されるようになりました。

明治44年当時の賀茂郡では、この依田の松崎製糸場をはじめとして、隣接する岩科村の岩科、三浜村の勝田、南中村の山本、稲生沢村の河内、稲梓村の鈴木、下河津村の正木、河津の全部で8つの製糸場が操業していました。

このほか生成した糸を巻くだけの「座繰り」と呼ばれる工場5ヵ所を合わせ、西伊豆から南伊豆にかけての総釜数は433個にもおよび、女工総数は442人、絹糸の総生産量は4,787貫、総生産額はおよそ20万円に達しました(現在の価値では8億円ほど)

養蚕を通じて農家の経済を豊かにし、地域の産業振興をと目指した佐二平は、優良桑苗を無償で配ったり、良質の繭生産者を表彰したり、繭と生糸の品質向上のために全力を注ぎ、明治40年のアメリカ・セントルイス博覧会では銀牌を、アラスカユーコン太平洋万国博覧会では金牌、イタリア博覧会の際には名誉賞状を受けるなど、数々の栄誉に輝きました。

ただ、戦前の大恐慌に端を発した不況時代を反映して伊豆の製糸産業も次第に衰退の道を辿り始め、大正8年に佐二平が病に倒れたあげく、同じ年に発生した関東大震災によって、横浜港の倉庫に保管中の生糸が被災するにおよんで、依田の松崎製糸場はついに倒産のやむなきに至りました。

西伊豆や南伊豆のほかの製糸工場もまた次々と閉鎖されていきましたが、これは伊豆だけのこどではなく、全国的な衰退でした。

この依田邸にあった松崎製糸場は、当初は富岡の官営工場と並び称せられほど規模が大きかったといいますが、現在この依田邸だけは残っており、その大部分は「大沢温泉ホテル」というホテルに改築され、その土蔵脇に、今もわずかながら製糸場の跡が残っています。

このように、富岡製糸場の役割は単に技術面の貢献にとどまらず、近代的な工場制度を日本各地にもたらしました。

ところが、この当時の富岡の工女たちの待遇は、「あゝ野麦峠」という映画がヒットしたことや、労働問題などに鋭く切り込んだ細井和喜蔵著のルポルタージュ。「女工哀史」などが出版されたことから、その労働環境はひどいものであった、といわれています。

しかし、富岡製糸場が開城した当初はそれほど過酷なものではなく、特に当初はおおむね勤務時間も休日も整っていたといいます。ただ、その後富岡製糸場もまた民間に払い下げられ、企業としての厳しい生き残り競争の中で、労働の監視や管理が強化されていったようです、

それらについては、今日ここで書くとまた長くなりそうなので、やめておくとして、この富岡製糸場の今回の世界遺産登録が、なぜ単体ではなく、「絹産業遺産群」なのかについて最後に触れておきましょう。

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明治以降、製糸業の発展に伴い、繭の増産も求められるようになったわけですが、考えてみればカイコのような昆虫というものは、夏や秋夏などの暖かい時期には活発ですが、冬になると活動力が低下し、このため繭を作ってくれません。

この繭を増産し、年間を通じて安定した繭玉の供給を行うためには、蚕種が孵る時期を遅らせ、夏や秋に養蚕する数を増やす必要が出てきます。

そこで、活用されたのが「風穴」と呼ばれる洞窟でした。夏でも冷暗な風穴の存在は、気温の上昇が孵化の目安となる蚕を蚕種のまま留めおくのに適しており、こうした蚕種保存への風穴はとくに長野県に多く、幕末の1865年(慶応元年)ころにこれを利用した繭玉の冷暗が始まりました。

長野ではその後、蚕種貯蔵風穴の数を増やし、明治30年代にはその数30以上にもなって他県を凌駕していましたが、富岡製糸場のある群馬ではごく例外的な単発の利用を除けば、あまり本格的な風穴の利用はありませんでした。

その群馬での風穴利用の初期に作られ、日本最大級の蚕種貯蔵風穴に成長したのが「荒船風穴」でした。荒船風穴では1905年から1913年までに3つの風穴が繭の冷暗用として整備されており、これを作り上げたのが庭屋千壽(にわやせんじゅ)とその父の静太郎という人物でした。

千壽は高山社蚕業学校の卒業生であり、在学中に長野の風穴などについての知見を得ていたことがここでの風穴の整備に役立ちましたが、この関連で群馬ではこのほか県内第2位の規模だったとも言われる栃窪風穴も作られ、これらが遺産群の候補となりました。

また、生産した絹を外国に輸出するためには、交通が必要です。群馬には海はなく、このため東京や横浜まで生糸を運ぶためには鉄道が必要でした。このため、荒船風穴の近くに作られたのが上野鉄道(こうづけてつどう)であり、これは現存する「上信電鉄」です。

1897年に県北の高崎から県南西部の下仁田を結んで開通したこの鉄道は、生糸、繭、蚕種の運搬などを目的に開かれた鉄道で、筆頭株主は三井銀行でした。富岡製糸場はこの鉄道が開通した当時、三井家に属しており、その、株主の半分以上が養蚕農家でした。

ただ、この鉄道だけでは、群馬やさらに内陸の長野の生糸を運搬することができず、これより更に西へ鉄道を結ぶ必要があり、こうして開通したのが、長野と群馬を結ぶ「碓氷線(1893年開通)でした。

この碓氷線には、「碓氷峠」という勾配の急な難所があり、ここの鉄道施設のひとつ、碓氷第三橋梁(めがね橋)は、明治中期の面影を残したレトロな有様で、現在も鉄道ファンならず、一般にも人気の観光スポットです。

碓氷越えを果たした碓氷線は絹産業との関わりだけでなく、日本の鉄道史にとっても重要なものであり、近代化遺産の中で最初の重要文化財に指定される、これもまた世界遺産登録がなされる施設のひとつとなりました。

このほか申請がなされるのは、伊勢崎市に残る養蚕業を行っていた古民家である田島弥平旧宅(や、高山社跡と呼ばれる施設などです。高山社は高山長五郎という人によって高山村(現藤岡市高山)に設立されたもので、外気の条件に合わせて、風通しと暖気を使い分けてカイコを育成する「清温育」という技術が導入された施設です。

最終的な推薦物件は、「富岡製糸場」(富岡市)のほか、この「高山社跡」(藤岡市)、「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、「荒船風穴」(下仁田町)の4件で、これらの選定にあたり、当初は日本の近代化に対する貢献に力点が置かれていました。

が、むしろ国際的な絹産業史の中での意義を強調する方向のほうがアピールするという意見が出て、この方向で推薦されることになったといいます。

日本国内では、2012年8月に世界遺産センターに正式推薦されることが決定し、翌年2013年1月に正式な推薦書が世界遺産センターに受理されました。

その後、同年9月に世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) から調査委員が派遣されてきて現地調査を行い、この現地調査を踏まえて、ICOMOSは先n4月26日に正式に「登録」を勧告しました。

この勧告に基づいて、二か月後の6月にも正式に登録が発表される見通しで、登録されれば、日本の世界遺産の中で産業遺産としては石見銀山遺跡とその文化的景観(2007年登録)に次いで2例目であり、いわゆる近代化遺産としては初めてのことになります。

無論メインは富岡製糸場ですが、この施設を現在に至るまで保存し続けてきた片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業)がその操業を終えたのは1987年のことでした。

それまでの間、新たな機械が導入されることもあったといいますが、もともと工場自体が巨大に作られていたためは、改築などを必要とせずにそうした機械を受け入れることができたことが、オリジナル性を保ってきた理由だといいます。

私としても前々から登録されてもされていなくても、ぜひ見に行きたいと考えていただけに、ぜひ訪れてみたいと考えています。みなさんもいかがでしょうか。

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