実は昨日、この別荘地の自治会主催の、秋祭りがありました。「ふれあいフェスタ2014」と銘打ち、朝からのべ100人ほどが集まったかと思いますが、この催しもそうなのですが、11月はやたらに公的イベントが多く、また、私的にもいろいろ課題を抱えていて目が回りそうです。
が、朝起きてからやることがある、というのはある意味ありがたいことであり、世の中には毎日が日曜日、というリタイア組もたくさんおられるようで、そうした人達は毎日何をやって過ごそうか……と考えあぐねているうちに、さらに齢を重ねていくようです。
もう亡くなっていますが、私の父もそうであり、公務員であった30数年ののちもしばらくは民間会社で働いていましたが、そこを退職して山口に引っ込んだ晩年は、とくに趣味というものもなく、日がな家の周りのことばかりやっていたようです。
家の周りのことというのは、すなわち植物いじりや日曜大工的なことなわけですが、そこから創作されて出来上がってくるものは、他人様の評価を受けるようなものでもなく、あくまで自己満足の世界の中の産物です。
それをなんとか人にこれは!と言わせるようなものにしてこそ、自己表現だろうと思うのですが、その意欲を失わせていくものが、やはり「老い」というものなのでしょうか。
昨日行われたこの別荘地での秋イベントにおいても、ついついそうしたここに住まう人々の「老い」を感じてしまいました。
実は私は、今年の春からこの地域の役員を仰せつかっており、この秋祭りイベントの企画などにも関わったのですが、その中において、住民側からいろいろ自主的にやってもらう類のメニューも考える、ということもやりました。
例えば、ステージに上がって何か持ちネタ、例えば歌とか手品とかなんでもよいのですが、そうしたものは誰でもとはいいませんが、中には「芸達者」な人もいるものです。この別荘地にも該当者が誰かいないか、と声をかけたわけですが、誰一人手を上げるものはなく、結局、まずこの「芸達者さんあつまれ」イベントは露と消えました。
それなら、フリーマーケットはどうか、と思いつき、これも集ってみたところ、手を上げる人はまったくおらず、結局やめようか、という話になりました。ところが、後で聞いた話ではその昔の秋祭りでは「バザー」なるものをやったことがあるそうで、その時はたくさんの品物が集まったそうです。
このときのバザーでは、そうして集まったたくさんの古着や陶器などを地区の役員さんたちが自分たちで仕分けし、値段をつけて売るというあんばいだったようですが、そうした自分たちがあまり手を貸さず、誰かがやってくれるとう仕組みには参加する人が多かった、ということのようです。
ところが、フリーマーケットを自分でやるとなると、品物を揃え、値札もつけ、実際の販売においてもお客さんとのやりとりも含めてそれなりに手間暇がかかります。実際、今回の秋祭りでは、我々夫婦と以前から親しくしている一軒のご近所さんとともにフリマを出してみたのですが、その準備やら片づけやらで結構大変でした。
ところが、このフリマもまたこの別荘地ではるか昔に行われたことがあるらしく、これは昨日の我々のショップを訪れた一人の居住者から聞きました。
このことから、おそらくはバザーもフリーマーケットも過去に何回か開催されたことがあり、それを我々は知らされていなかった、あるいは、今年の執行委員たちも知らない、覚えていない、ということだったようです。
いずれにせよ、実際にこうしたショップの運営を自分たちで行ってみると、その大変さがわかり、とくにフリーマーケットは個人運営であるためその負担が増します。
それがゆえに、結局は開かれなくなっていったと推察され、バザーもまた、役員さんたちの労苦が大変ということで廃止され、やがてはバザーもフリマも、その他の住民が自主的に行動を起こすような行事はあまり行われない秋祭りになっていったということのようです。
さらについでに言えば、同じくこの別荘地で「文化祭」をやろうとう企画も出しました。お年寄りならば一つや二つ何かの趣味を持っているはずであり、短歌でも絵手紙でも絵画や写真でも持ち寄ればちょっとした展覧会はできそうなものだと思ったわけです。
ところがこれについても反応は薄く、ここでもやはり芸達者さんやフリマの募集といったイベントと同じような壁を感じてしまいました。
こうした状況を俯瞰して、ちょっと考え込んでしまったのですが、ようするに、自分で手を動かして能動的にやろう、できるという人が少ないということなのだろうと推測され、そして、そうした活力を奪っているものこそが、やはり「老い」なのだろうか、と思うわけです。
ごたぶんにもれず、この街の高齢化は進んでおり、しかも別荘地という土地柄もあり、リタイア組が多いのは当然です。
ただ、この別荘地は比較的交通の便がよく、このため最近は一般住宅化している地域も増えてきており、これを反映して若い世代も少しずつ増えてきています。
我々も含めて40代、50代の若い人達も少なくなく、こうした人達の奮起も期待できないわけではないのですが、しかしやはり私も含め、やはりリタイア前には日々が忙しく、そうしたお年寄りたちの御面倒ばかりみているわけにもいきません。
さすれば、やはり老人たちは老人たちなりに自分のコミュニティを活発化させていくためには自助の努力をしていただくのがしかるべき道だろうと思うのですが、やはり寄る年波にはかなわぬ、というところなのでしょう。
想像するに、これと同様の現象は伊豆だけでなく、全国各地にあり、やはりどこの町でもお年寄りばかりが増えて次第に活力がなくなってきている、というのが現状なのでしょう。
いわゆる「高齢化社会」であり、この高齢化の定義とは、一般に総人口に占めるおおむね65歳以上の老年人口の比率で表され、その率が7%以上のものをこう呼びます。一般に高高齢化率7~14%が普通の高齢化社会ですが、これが21%を超える超高齢社会と呼び、日本では2007年(平成19年)に21.5%となり、見事に超高齢社会となりました。
昨年の統計では、65歳以上の人口は3186万人となり、総人口に占める割合は25.0%と過去最高を更新し、これは人口の4人に1人が高齢者ということになります。日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという三点において、世界一の高齢化社会といえ、その原因はやはり少子化が原因です。
出生数が減り、一方で、平均寿命が延びて高齢者が増えているためにほかならず、1947-1949年(昭和22-24年)の第一次第1次ベビーブームのいわゆる団塊の世代が、2012年から2014年にかけて相次いで65歳に到達したため、高齢化のスピード加速したものです。
来年以降は、このピークが終り、高齢化のペースは徐々弱まる見通しですが、相変わらず少子化が改善されない限り、2020年(平成32年)には高齢化率は29.1%、2035年(平成47年)には33.4%に達し、やがては人口の3人に1人が高齢者になる、というお先真っ暗な状況です。
昨年、日本人の平均寿命は男性80.21歳、女性86.61歳で、いずれも過去最高を更新したと厚生労働省が発表しましたが、おそらくは更に日本人の寿命は延びていくのでしょう。
が、高齢であるということが決して悪いわけではなく、齢を重ねても元気であり、人さまのお世話にならずに生きていければいいわけです。しかし、やはりそういうわけにもいかず、年を重ねればそれまで自分でできたこともできなくなる人も多く、上でも述べてきたように、何につけても自分で能動的に何かをやろうという活力が失せてきます。
つまり、やる気がない、ということであり、このやる気は、動機づけ、ともいい、英語ではモチベーションです。何等かの行動を始め、目標に向かって維持・調整する能力のわけですが、人間を含めた動物は、その行動を起こすためにさまざまなその方向性を定めるいくつもの要因を持っています。
生命を維持し、種を保存させるための生得的な動機。飢え、睡眠、排泄、身体的損傷回復などは、「生理的動機づけ」といい、義務、賞罰、強制などといった社会活動によってもたらされ動機づけを「外発的動機づけ」といいます。
たとえばテストで高得点を取るためにする勉強や、昇給を目指して仕事を頑張る場合などがそれにあたり、自己の価値観や人生目標と一致している場合はより、効果の高い外発的動機づけとなります。
また、こうした人生目標を持つ、などのように他人さまから与えられる動機づけではなく、自分の好奇心や関心・興味によってもたらされる動機づけもあり、これはで「内発的動機づけ」といい、賞罰に依存しないものです。
外発的動機づけは内発的動機づけと両立しうるものであり、人さまからぶら下げられたバナナを食べたい、と思う気持ちはまさにそれで、何かいいことをやるとバナナという褒美がもらえる、という外発的動機づけと、自分が食べたいいう内発的動機づけが同時に進行するわけです。
つまり、「欲」があるからその行動を起こすわけであり、欲とは、何かを欲しいと思うことや、そう感じている状態であり、ヒトや動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じるのが「欲」という感覚です。
よく、齢をとると「欲」がなくなる、といいますが、これはつまり高齢になればなるほど、いろんな刺激を受けてきたそれまでの人生以上の刺激がなくなるということでもあり、自発的動機付けや外発的動機付けを起こさせようとする「欲」がなくなること自体が、気力がなくなる原因と考えられます。
人間は、ある欲求が満たされると、より高次の欲求を満たそうとします。これらの欲求には、「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」などがあり、この5つの順番はそれぞれ低次元から高次元までに向かっており、低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行するといわれています。
最も次元の高い「自己実現欲求」は「成長欲求」とも呼びますが、人は食や住居などを得ることによって生理的な欲求や安全が確保されると、次は、社会的な欲求を満たすために仕事に出、その中で自我を押さえつつ納得し、さらにはそこに自分の成長を見出して満足します。
こうして多くの人は働き盛りの時代を終え、年金を貰うような年齢になると、社会的欲求に満足し、自我的にも自己成長をも達成したがゆえに、それ以上自分を高める意義を失ってしまいます。それがつまり、欲のなさにつながり、さらにはやる気が出ない、ということになり、やがては活力のないボケた人達になっていくのでしょう。
仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものであり、悪いものとしていませんが、基本的には無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めています。この仏教が普及している日本では、こうした教えもあり、自然と欲からの解放を求めている、という傾向があるような気がします。
先の東北の大震災で被災した日本人は、自らが手ひどいダメージを受けているにもかかわらず配給の列に整然と並んで世界から賞賛を浴びましたが、これもこうした仏教の教えに基づいて身についた無欲の心から来ているもの、とも考えられます。
さすれば、今のような高齢化社会を迎えた日本での活力を失わせているものもまた、この無欲の精神なのかもしれません。よく日本人はおとなしいといわれますが、齢をとるにつけさらに欲がなくなり、というよりもさらに欲をなくして仏様のようになろうとし、であるがゆえに、やる気がなくなっていく、という気がするのです。
で、あるならば、齢をとっても元気でいるためには、やはり何かにつけ「欲」を持つことが一番ということになります。リタイアによって自己実現の目標を失った人も、何等かの新たな目標を持つということがすなわち、欲を満たす行為に向かうということであり、元気を取り戻すということにほかならないのではないでしょうか。
無論、齢をとると体力が要るような目標は立てられません。三浦雄一郎さんのように80歳になってからエベレスト登頂に成功する、といった人は稀有でしょう。が、それほどではないにせよ、80歳なのにスゴイ、というわれる老スポーツマンはたくさんいます。
ましてや、文筆や文芸その他の芸術活動であれば、齢を経てもやれることはそれ以上に多いはずであり、さらには長い年月の間に重ねて経験によって若い人よりもずっと上達するのが早い、といった分野もあるに違いありません。
齢をとっても欲を持ち、自分が達成できる目標を持つ、持たせるということが高齢化が進む今の日本にもっとも求められているような気がします。
さて、振り返ってみるに、我が町のジジババ、いや失礼。私の町の愛するお年寄りたちにいかに欲を持たせるかが問題です。
まずはどんなものが欲を引き立てるか、というところから考え始めねばなりませんが、色々と考えているうちに、そうしたモノが思い浮かんでくるように思います。
まさかカジノやお色気バーをやるわけにはいかないでしょうが、それほど刺激が強くなくても齢を重ねたお年寄りの欲望を掻きたてるような何かがあるに違いありません。強烈すぎて昇天されても困りますが……
来年の秋祭りにはそうしたよくばり爺さんや婆さんばかりの町になっていることを願い、今日の項の筆を折りたいと思います。