靖国

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先日、一人息子君の大学の卒業式があり、九段下の日本武道館に行ってきました。

式は滞りなく終わり、午後は卒業生のみで懇親会行われるとのこと。この会に出席できない我々父兄は、当の本人と記念撮影をしただけで、あえなく、その場で解散となりました。が、せっかくだから、これまで参拝したことがなかった、隣接する靖国神社に詣でようと、二人でランチを済ませた後、参拝に向かいました。

同じく九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀るあの神社です。一昨日桜の開花宣言があったばかりですが、この神社の境内にある標本木がその開花宣言の指標になっていることはみなさんもご存知でしょう。

元来は「東京招魂社」という名称でした。

その昔、平安時代の中頃から「招魂祭」というものが民間で行われるようになり、やがて貴族社会にも浸透しましたがそれに由来する名前です。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていました。

このほか、病気やお産などの際にも魂は身体から遊離するとされ、このように体から離れていった魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行ったのが招魂祭です。生者に対して行う祭祀であり、もともとは死者に対して行うことは禁止されていました。

一方、死者・生者に対する神道儀礼は「鎮魂祭」と称されて区別されていました。鎮魂とは、「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式であり、魂を外から揺すって魂に活力を与えることで、これを「魂振(たまふり)」ともいいました。

こちらは、宮中で「新嘗祭」の前日に天皇の鎮魂を行う儀式でした。この新嘗祭とは皇家における収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する、というものです。

片や、前日の鎮魂祭は太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われる儀式であり、新嘗祭と同じく太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期に行われます。太陽の日が弱まるということはすなわち天皇の力も弱まることになるため、新嘗祭という重大な祭事に臨む前に、弱くなっている天皇の霊力を強化するわけです。

以後、長い間、この鎮魂祭は皇室で受け継がれ、現在も行われていますが、この「鎮魂」という言葉は天皇家の間では毎年の儀式で使われてきたのに対し、もともと民間信仰から出た行事である招魂祭に基づく「招魂」という言葉は長い間あまり日の目を見ることはありませんでした。

招魂の儀式はもともと民間の儀式ですが、江戸時代ころまでにはかなり衰退し、江戸幕府が管理していた天文道、暦道である陰陽道などに啓示されていた行事の中にも入っていません。

というのも、もともとこの儀式は朝鮮人が行う儀式である、と考えられたためのようです。招魂とは、元は朝鮮から入ってきた概念であり、彼の国では彷徨える御霊を招き、この世での未練を断ち切らせ、あるいは自分の肉体が既にこの世には無いことを教え、死者の国(常世の国あるいは黄泉の国)へ行かせる儀式と考えていました。

それが平安の時代に入り、日本にも入ってきて民間にも定着しましたが、上述のとおり、日本には皇室を中心に鎮魂という考え方があったため、招魂はオフィシャルにはなれませんでした。

ところが幕末になって、急にこの招魂祭と言われるものが広く行われるようになりました。そのきっかけは、実は、明治天皇の父、前の天皇である孝明天皇が謀略で殺害されたためだったとする説があります。

孝明天皇は、もともと攘夷運動に熱心で、西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な天皇でした。また、晩年には公武合体に傾き、これに批判的な薩長の要人たちからは、できれば排除したい対象となっていきました。

孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていましたが、それ以外では至って壮健であったといわれています。ところが、慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして満35歳で突然崩御。死因は天然痘と診断されました。

その死の直後から、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していきます。こうした状況などから、その死因に対する不審説が漏れ広がっていきました。現在に至るまでこの他殺説は根強く、研究者たちの間では議論が続いています。

このとき、孝明天皇を暗殺した中心人物こそが三条実美、伊藤博文 西郷隆盛ではなかったか、とする説もあり、このほか彼らは李王家の家臣を祖とする派閥だったとする奇説もあります。謀略で殺した孝明天皇の招魂が必要だと考えた朝鮮系の彼らは、その魂を招魂して、無事にあの世に旅立たせ、明治の時代を安穏にしようとした、というわけです。

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真偽はともかく、ここで、長らく埋もれていた招魂という言葉が改めて世に出るようになります。日本で初めての招魂社は、「櫻山招魂場」と呼ばれ、これはその当時の長州、現山口県下関にあることから、朝鮮にも近いこの長州を基盤に全国に広まっていったと考えられます。

ちなみに、この神社は慶応元年(1865年)8月創建で、現在も「櫻山神社」と呼ばれ、現存しています。私も行ったことがありませんが、グーグルマップをみると、下関駅から北へ1.5kmほど離れたところにあり、ストリート・ビューで見ると、確かに入り口の鳥居のそばに「櫻山招魂社」と書かれた石碑が立てられています。

こうした長州での動きに連動して、戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)明けには、東征大総督、有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行しました。また、同年春、太政官布告で京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることも命じました。この招魂社が現在の「京都霊山護国神社」です。

さらに同年夏、京都の河東操錬場において神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉国者を慰霊する祭典が行われるなど、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設として、各地で招魂社創立の動きが出てくるようになります。

それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇は即座にその勅許を出しました。これを受けて1869年(明治2年)に、現在の九段下の地に招魂社創建が決定され、ここに、「東京招魂社」として現在の靖国神社が竣工しました。ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは1872年(明治5年)のことでした。

同年8月には、皇室付きの五辻安仲(いつつじ やすなか)が勅使として差遣され、時の軍務官知事、「仁和寺宮嘉彰親王」を祭主に戊辰の戦没者3,588柱の合祀鎮祭が、この出来たての招魂社で執り行われました。

その後、その名称は靖国神社へと変わりましたが、「靖国」の名は、明治天皇の一声によって改称されたものです。この「靖国」は中国の古典「春秋左氏伝」に出てくる「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としています。

明治天皇は「招魂社」という名について、「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」と唱えたといわれます。どういう意味かというと、「招魂」は臨時・一時的な祭祀を指し、「社」は恒久施設を指すということであり、明治天皇は招魂社の中に二つの意味が含まれることに矛盾があると考えたようです。

こうして靖国神社への改称が1879年(明治12年)に行われ、以来、東京では招魂社というよりも靖国の名のほうが親しまれるようになっていきます。

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ところが、地方では招魂社という名前の神社が多数残りました。それまで明治政府はこうした招魂社の創立には官費を支給していました。しかしあまりにも招魂社創建の出願が増えたため、その数を制限することとし、1901年(明治34年)には官費支給対象の招魂社には「官祭」を行うことを義務付けました。

一方、支給対象外の招魂社は「私祭招魂社」と呼んで区別しました。しかし、その後の日清・日露戦争後もさらに私費による私祭招魂社創建の出願が増えたため、内務省神社局は1907年(明治40年)に「招魂社創建ニ關スル件」を内務省通達として発し、さらに細かく招魂社の設置基準を定めました。

そしてその中で、真の招魂社の祭神は靖国神社合祀の者に限る、ということにしました。これによってその創設に制限を加えて抑制したわけですが、にもかかわらず、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)に支那事変(日中戦争)が勃発すると、戦没者の霊を郷土で祭りたい、招魂社を建てたいという要望が各地でさらに高まりました。

このため、さらに1939年(昭和14年)にも「招魂社ノ創立ニ關スル件」をこのころ創設されていた「神社局」の名で通達し、一部の例外を除いて各道府県に招魂社は1社のみ創立を許可する、という厳しい制限を加えました。

また、同じく同年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年)を内務省通達として発し、それまでの公認招魂社の名を「護國神社」と改称、それまで曖昧だった神社としての制度を明確にしました。

この「護国」の名称は、1872年(明治5年)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」や、1882年(明治15年)「軍人勅諭」の一節「國家の保護に尽さば」に基づいています。祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に「護国の英霊」といった用語が広く用いられていて親しみも深い、との理由で採用されたものです。

こうした一連の改革により、招魂社改め、護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社にまで減りました。詳しい統計は残っていませんが、おそらくはそれまでは1000、あるいはそれ以上の招魂社があったものと考えられます。

ただ、こうして現在に至るまで残る各地の護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、必ずしも靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているものも多くあります。そのため、公式には、各地にある護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされているものも多いようです。

しかし、共に「英霊を祀る」とする靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もあります。主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っています。

なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られています。また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒、女子挺身隊員も祭神として祀られています。

このように、靖国神社にせよ、護国神社にせよ、亡くなった戦没者の魂を慰霊する、というのは尊いことです。しかし亡くなった魂というのは、何も幕末から維新、またその後の戦争にかけてのみ生じたわけではなく、古くは平安の時代から戦国時代に至るまで多数の魂が失われてきているわけであり、幕末以降の魂だけを祀るというのは、そもそもヘンな話です。

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ところが、靖国神社や護国神社の多くはこれを「幕末以降の動乱で亡くなった人」、と限定つきでこれを祭神にしてしまいました。幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年(嘉永6年)のペリー来航、いわゆる「黒船来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等のすべての戦没者がそれです。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになりました。

この「英霊」という語は直接的には幕末の水戸藩の学者、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来します。

藤田東湖は、日本古来の伝統を追求する「水戸学」の提唱者であり、その「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。

本来は他者を救うために亡くなった人々全般に対する敬称ですが、大日本帝国憲法体制成立後は公式には天皇の命令に従い戦って戦死した者を指すようになりました。

やがてそれまでは靖国神社や各地の護国神社に祀られている戦没将兵を「忠魂」・「忠霊」と称していたものをも、人々はこの国粋主義者的な用語を知ってか知らずしてか(おそらくは知らずして)、「英霊」という言葉で呼ぶようになっていきます。

ところが、太平洋戦争敗北以降、政教分離政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなりました。護国神社も同様です。当然、戦前の軍国主義を思わせる「英霊」という用語も失われていくかと思われました。がしかしこれを存続させようという人々も多く残りました。

とくに敗戦を契機に成立した日本国憲法に対しては、その発布の直後からこれを否定し敗戦以前の政体を復活させようとする動きがすぐに出始めました。その中で、1947年11月には「日本遺族厚生連盟」が発足、1953年には日本遺族会へと発展しました。

現在に至るまで「英霊」の顕彰と慰霊に関する事業、戦没者遺族の相互扶助、生活相談に関する事業などを実施している法人であり、この遺族会は、現在でも靖国神社など特定の宗教団体と密接な関係があるとされています。

こうした「英霊」の復活の動きは、政教分離政策によって切り離されたはずの靖国神社の国家管理を復活させようとする動きと合致する部分も多かったようです。これすなわち、現日本国憲法体制の否定にもつながる、というわけであり、当然こうした解釈は日本国憲法を守るべきとする立場の人々には認められるものではありません。

このために、長年、政治的・思想的な論争の対象となってきており、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等起こるたびに、批判とそれに対する応酬が繰り返され、様々な問題が生じています。

また、戦争被害を受けた、という主張をしている中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に、これを猛烈に批判、反発しています。

これに対し、満州国や朝鮮半島一帯は第二次世界大戦時には日本領であり、そもそも日本と交戦関係になかったとし、中国や韓国が「戦争被害」にあったとする事実はない、と主張する日本人もいます。が、無論、そんなのは屁理屈にすぎません。

こうしたことから、1985年の中曽根康弘首相、2001年の小泉純一郎首相の公式参拝は日本国内や中国・韓国との間で問題となり、国内では公人の公式参拝が政教分離原則など憲法違反かどうかを確認する訴訟も行われました。このほかにもこれまで11人の首相と多数の閣僚が参拝していますが、これらの是非もともに問われるようになりました。

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こうした靖国神社参拝に対する反対者の主な意見としては、彼らは戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているというものです。戦前の軍国主義を象徴するような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社が主張する第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになるという主張です。

靖国神社が主張しているという、この「歴史観」の中心になるものは、言うまでもなく、戦没者の「英霊」を祭神として祀るということですが、これを言い換えるならば、すなわち「軍神」という考え方です。

靖国神社の境内には、本殿に隣接して「遊就館」という、合祀された「英霊」の遺品や資料、戦争で使用された兵器などを展示する「戦争博物館」がありますが、この中の展示物の説明文の中にはふんだんにこの「軍神」という言葉出てきます。勇猛な戦死者の美称として古来から使われてきましたが、戦争を美化する用語の最たるものです。

こうした戦争必肯論の賛同者はよく、アメリカの公式儀礼の様子を引き合いに出します。アメリカも日本と同じく政教分離が原則となっていますが、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてます。しかし、これが問題になったことは一度もない、というわけです。

同様に、もともと靖国神社は古来からある神道に基づき建造された神社であり、しかも国家のために殉難した人の霊を祀るための国策でできた神社なのだから、諸外国からも文句は言われる筋合いはない、と彼らは主張します。

しかし、殉難者を祀るというのは理解できますが、靖国神社は明治の創建以来わずか150年弱しか経ておらず、伊勢神宮や出雲大社のように、文字通り日本の歴史そのもののような神社とは同列に扱って議論することはできません。

そうしたいわば底が浅い神社に、なぜか政治家は執着したがります。とくに自民党の議員・閣僚などは、公人としての靖国参拝を批判されると、「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という主張を繰り返しています。

公人であっても、戦争で亡くなった御霊を慰霊する気持ちは一般人と変わりない、というわけで、人権的な観点からも私人の側面を強調視しており、「個人の信仰や信念も尊重されるべきである、と言っています。参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」とも。

これはある種正しいといえるでしょう。個人としてふるまっているわけであるから、とやかく言われる筋合いはない、というわけです。公人だってゴルフに行くことがあり、これがとがめられているわけではありません。

しかし、これらはあくまで個人の意見にすぎず、その個人を包含する与党である自民党ですら、このように靖国神社に参拝することを是とするか非とするかについては党としての公式見解を出していません。これは民主党(民進党)も同じです。この二つの政党に属する議員の中には賛成派も反対派もいます(公明、共産は基本的には反対)。

ところが、この靖国神社に合祀されている「戦犯」の扱いについて、日本の国会は、靖国神社に合祀されている、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者も、国内法では犯罪者ではないと決議してしまっています。諸外国からこの「戦犯」とされる人々が合祀されていることを批判されているにもかかわらず、です。

戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていませんでした。

しかし、1950年代には、国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する国会決議が相次いで採決され、1952年(昭和27年)、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達されました。

これにより、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われるようになりました。つまり、国内においては、第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所で有罪となった人々の復権は正式に認められたわけです。従って靖国神社に祭られているすべての「英霊」についてもその存在を認めた格好です。

ただ、「戦犯」という汚名の名誉回復については「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」としています。この戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、現在に至るまで歴代の政権は判断を避けています。

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このように、なにやら非常にもどかしい「政治的判断」の上に、現在に至るまで靖国問題の議論は続いてきているわけです。ただ、上述のとおり、靖国神社は国家管理を離れた一宗教法人となっており、日本政府との直接的な関係はない、とする点だけは明らかです。

しかし、裏返せば、これはすなわち、政府とは関係はないが、その存続に対してもは否定していないということにほかならず、またその存在を認めているということは、そこに合祀されている、かつて戦犯とされた人々をも含めた「英霊」の存在を認めている、ということになります。

こうしたあいまいさが、諸外国を怒らせているわけであり、判断があやふやな状況のままに歴代の閣僚や議員が、繰り返し繰り返し、靖国に参拝することがまた新たな批判を浴びています。

国民の間においても、肯定派と否定派がそれぞれ多数おり、「英霊」という「神」、あるいは考え方を認めるのか、また閣僚による公式参拝を認めていいのか、ひいては靖国神社の存在の是非は、と現在でも国を二分するほどの大議論となっています。が、それにもかかわらずなかなか解決の道は見えてこないようです。

私自身の意見を言わせていたただくと、そもそも「神社」という呼称でありながら、そこに人が「神」として祀られている、ということ自体がおかしいと思います。

たしかに、神道においても「人物神」という考え方があります。いわゆる、御霊信仰(ごりょうしんこう)というものであり、これは、人々を脅かすような天災や疫病の発生は、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖したところから来ているものです。

これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとしたのが日本古来からある「人物神」信仰のはじまりと考えていいでしょう。

古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王といった奈良時代の貴族、皇室関係者などは亡霊になったとされ、こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこりました。これが御霊信仰です。

大宰府に左遷されて非業の死を遂げた菅原道真もその一人ですが、こうして死して怨霊となるというのは、それなりの理由があって怨霊になるのであって、その根本は「意趣」を返すためです。古代から中世の一般的な認識としては怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていました。

このため、平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を立て続けに建立しています。

こうして考えると、確かに戦争で亡くなった方々の多くの死も同じく非業の死であったかもしれません。しかし、そうして戦争で亡くなったことに対する「意趣返し」のために怨霊になるとは考えにくく、これを祀るために社を建造する、というのは古来から伝わっている御霊信仰の思想からみてもおかしな話です。

従って、戦争で亡くなった戦士を「護国の英雄」として、死後賞賛の対象となるような人物神として扱って祭祀することはそもそもの神道教学上からも間違っているということになります。

また、靖国神社では、戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となっています。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外です。郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られています。

戊辰戦争以前の幕末期において、日本の中央政府として朝廷・諸外国から認知されていた江戸幕府によって刑死・戦死した吉田松陰・橋本左内・久坂玄瑞らも「新政府側」ということで合祀されているばかりか、病死である高杉晋作も合祀されています。

さらに、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中には文民が含まれています。加えて、軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり、空襲で亡くなった文民・民間人は対象外です。

唯一の救いは、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判に於ける死者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い、という点であり、これは評価できます。

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このほか、靖国神社はその創建当初、主に長州人を中心に建立されたことも気になります。戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べています。

そもそも明治天皇に東京招魂社(靖国神社)の建立を進言したのは、事実上の「日本軍」の創設者であり、長州出身の元勲、大村益次郎です。現在の靖国神社の参道には、一番目立つところに彼の銅像が立っています。

彼は純粋なる「兵学者」であり、国学や神道に傾倒するといった「文学的」な性格は持ち合わせていなかったようです。が、維新を通じて数多く亡くなった母国長州の数多くの同志の魂をどうしても慰霊したい、という思いがあったのでしょう。しかし、「最高軍司令官」の立場を利用して、そうした葬祭事を天皇に進言した、と批判されても仕方ありません。

このほかにも、靖国神社への合祀には多数の矛盾があります。

明治維新の功労者であっても後に叛乱を起こした西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていない、乃木希典、東郷平八郎といった著名な軍人や八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者等は、戦時の死歿者でないため祀られていない、戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員等に関しては祀られていないなど、合祀の基準があいまいなのも気になります。

こうしたことも反映してか、先代の昭和天皇をはじめ、今上天皇は靖国神社への参拝を長く行っていません。また、戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していましたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言しました。

同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇の親拝が行なわれなくなりましたが、これはこの三木総理の発言が原因であると言われてきました。ところが、2006年になって昭和天皇の側近で宮内庁長官を務めた富田朝彦が、「富田メモ」を発表し、この中に昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかりました。

以下が該当部分です。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

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「松平の子の今の宮司」というのは、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男で、幕末の四賢候といわれた松平春嶽の孫、松平永芳のことで、この人は戦前は海軍軍人、戦後は陸上自衛官を務めたあと、靖国神社第6代宮司となり、このとき、A級戦犯の合祀を実施したことで知られている人物です。

また、「筑波」とは、筑波藤麿(ふじまろ)という元皇族で、終戦直後の1946年(昭和21年)に、靖国神社宮司に就任し、宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議されました。しかし、合祀はするものの、時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀は実行されませんでした。

一方、松岡とは、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した「松岡洋右」のことで、「白取」とは、戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた「白鳥敏夫」のことです。

昭和天皇はドイツびいきだった松岡を嫌っていたといい、また日独伊三国同盟の推進を図った白鳥についても同様の理由であまりそりが合わなかったといわれています。このため、この二人が戦後の極東軍事裁判でA級戦犯になったあと、筑波はその合祀を後回しにしたのにもかかわらず、松平宮司の代にこれを靖国神社に合祀したことを怒っていたようです。

靖国神社が彼らを含むA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードも残っており、上のメモはそれを裏付けるものとされています。

こうした事実から、昭和天皇は靖国神社存続にも反対だった、と決めつけるのは早計ですが、それまでは足しげく参拝されていたのに、A級戦犯合祀後からは次第に足が遠のいて行った、というのは事実のことのようです。

繰り返すようですが、現在の靖国神社は旧皇居に隣接し、まるで公共施設のようにみなされていますが、戦後は一宗教法人にすぎず、しかも国立ではなく、ただの神道の一神社にすぎません。

そうした事実を再確認するだけでも、公人の靖国参拝の不合理性ははっきりしていると私的には思うわけですが、戦前の国家神道の復活の動きや、こうしたA級戦犯合祀問題が複雑にからまって議論がいまだに続いています。

こうした議論は、今から50年ほど前の1969年(昭和44年)に始まったようです。この年、靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が議員立法案として自由民主党から提出されたことがあり、このときから神社の政教分離に関する現在のような議論が沸騰し始めたといわれます。

しかし、靖国神社を国家管理の施設に復活させる案として国会に提出されたこの案は、宗教色を薄める内容への反対もあり、廃案となりました。

現在に至るまで、それならA級戦犯だけ、合祀から分離すればいいじゃないか、という意見も存在しますが、靖国神社はA級戦犯の「分祀」は「不可能」として拒否しています。

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それなら、もう靖国神社というものは切り捨てて、いっそのこと新しい追悼施設を作ってはどうか、という意見も当然ながらに存在します。

もともとは、2001年(平成13年)、当時内閣官房長官だった福田康夫氏(のちに総理大臣)が、私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させ。4年後には超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が設立されたのがきっかけです。

日本人ならば、戦没者の魂をねぎらう常設の国家的な戦没者追悼施設はぜひ必要と考えるのは当たり前です。しかし、靖国神社では、これまで述べてきたように、歴史的・宗教的・国際的などの多数の問題があり、それならば靖国神社に代わる国立の追悼施設を設置すればいい、というわけです。

実は、靖国神社すぐ隣には、「千鳥ケ淵戦没者墓苑」という国立の施設が既にあります。無宗教形式の施設であり、靖国神社のような宗教色はありません。ただ、納められているのは引き取り手がない無名戦士の遺骨のみであり、戦死者全体を追悼・慰霊する場ではありません。

ならば、これを拡張・強化し、現在の日本にふさわしい追悼施設にすればいい、という意見も根強くあるようです。が、それなら、すでに靖国神社に合祀「されてしまっている」魂はどうするのか、という議論が他方ではあって、一筋縄ではいきません。

また、仮にこうした施設ができたとしても、すぐ靖国神社廃止、というわけにもいきません。そもそも民間の一宗教法人を国家が廃止するなど信教の自由上不可能です。

ただし、民間の一宗教法人である靖国神社に国家の公式の追悼・慰霊の役割を担わせることそのものは、津地鎮祭訴訟で示された基準に照らし、政教分離の原則に反するため憲法違反です。1965年に三重の津市で市立体育館建設の際に行われた地鎮祭をめぐり、憲法に定められた政教分離原則に反するのではないかと争われた行政訴訟では市が敗訴しました。

一方では、1952年以降、全国戦没者追悼式が毎年開催され、特定の宗教によらない形で天皇、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官なども出席しています。対象は民間の空襲被災者なども含み、これこそがそうした目的の場に違いありません。が、惜しむらくは常設の施設ではありません。

ちなみに、この戦没者追悼式は1964年に一度だけ靖国神社で開催されたことがあります。スペースの問題もあるから、というのが当時の表だった理由だったようですが、このころから閣僚の靖国参拝の問題も影響が出始めました。翌年は上の裁判結果も出たため、以後は日本武道館で開催されています。

以上の現状を前提に、国が公式に戦士・戦没者を追悼する常設の施設が必要との立場からは、新たな国立追悼施設が必要との意見があり、その中にはやはり千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充したほうが安上がりだ、とする意見も根強いようです。

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現在、自民党とタッグを組んでいる公明党は「日本国民も外国要人も天皇陛下もわだかまりなく、心から戦没者を追悼できるような施設のあり方を検討してもいいのではないか」とこの「国立追悼施設」に賛成しています。

自民党の中からも賛同の声が上がっています。2001年、小泉純一郎政権時代に首相官邸において、戦没者追悼施設の在り方、必要性、既存施設との関係について議論するため「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が設けられ、2002年には報告書が出されました。

また2005年、超党派の議員連盟の国立追悼施設を考える会が発足したほか、従来、「靖国神社に代わる戦没者追悼国立施設の設置」には反対の立場を取っていた日本遺族会も、最近ではこの新施設に賛同をしているようです。

昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀とされる上の富田メモが2007年に見つかったことが、その翻意のひとつの理由のようです。当時会長であった、自民党の古賀誠議員が2007年の10月に三重県津市で開かれた同県遺族会の講演で、分祀の検討を始めたことを述べました。

靖国神社へのA級戦犯合祀に関し、「首相の公式参拝だけで事足りるのか。天皇陛下を含め国民すべてがお参りできる、わだかまりのない施設を残すべきだ」と述べており、天皇の参拝実現も念頭に、A級戦犯分祀を含む論議を進めるべきだとの考えを表明しました。

古賀議員のこの発言をみると、戦犯の分祀をすれば、天皇の靖国神社への参拝が実現する、ひいては新しい施設を建設する必要はない、ということではないようです。このため、現在の遺族会は、こうしたリーダーの発言を受け、靖国神社問題を解決する手段として戦没者追悼国立施設の設立を積極的に検討しているといいます。

東京オリンピックまで、あと4年です。

4年後のこの大会のときには、この靖国問題をはじめとして各種の国際問題でぎくしゃくしている中国や韓国も含め、世界中から人々が訪れます。

それまでには、そうした靖国神社に変わる新たな国家施設をぜひ作り、問題解消したうえで、すっきりとした気分で競技大会を開くべきだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

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桜咲く季節に……

2016-0608久々の書き込みです。

長らくブログをお休みしていますが、別に病気になった、とかいうわけではありません。

それなら何ナノよ、とおっしゃるでしょうし、いぶかる方も多いでしょう。が、あまり気にしないでください。

大きな環境変化があり、それに対してどう対処していくか、をお悩み中、とだけ書いておきましょう。

…… 3月も半ばを過ぎました。

旧暦3月を弥生(やよい)と呼びます。その由来は、「草木がいよいよ生い茂る月」だそうで、この「いよいよ生い茂る」というのを古語では、「弥や生ひ茂る」というそうです。なので、「木草弥や生ひ茂る月」→「木草弥や生ひ月」となり、さらにつづまって「弥や生ひ(いやおひ)」→「弥生(やおひ=やよひ=やよい」となったというわけです。

日本ではこの月を境に年度が替ります。会社ではいわゆる「人事異動」があり、会社・官公庁だけでなく学校でも引越しや移行作業、新生活の始まりなどで忙しくなります。

4月から始まる新しい会計年度を前に、金銭だけでなく人があわただしく動く時期であり、学校でも学年が変わるなど大きな変化があります。ある組織を「卒業」し、別の組織への移動が集中するのもこの時期であって、月を通して卒業式や送別会が行われます。

数多くの出会いと別れもあるわけですが、そんな中、桜が満開になり、やがて4月になると散っていきます。桜は、多くの人にとって「人生の転機」を思わせる花でしょう。

散りゆく前に行うのが「花見」であり、3月は、この弥生という呼称以外にも、他に、「花月」、「花見月」という呼び方もあります。この「花」とはいうまでもなく桜のことです。このため、「桜月」と呼ぶこともあるようですが、まさに日本人にとっては「花の中の花」でもあります。

いったいいつ頃から日本人はこんなにも桜が好きになったのだろう、ということなのですが、これは平安時代あたりがはじまりのようです。この時代、「国風文化」というものが勃興し、以後、桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

それより以前の中国の影響が強かった奈良時代の文化は、「唐風」といいました。これに対して、純和風、倭風の文化を「国風」と呼び、現在まで続く日本の文化の基礎となりました。

時間軸としては、だいたい11世紀ころに確立された文化です。その「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる調和のとれた優美さにある、といわれます。そしてこの「調和美」とは極めて女性的な感覚です。

平安時代は日本史上最も女性の感性が大切された時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映されました。とどのつまりは、日本の文化は女性が形成した文化と言っても過言ではないでしょう。

この国風文化の普及した平安時代には、内裏では調度を整えるにあたり、公式な場や「ハレ」の場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風にしつらえました。が、一方では私的な場、「ケ」の場では和風にあつらえるという使い分けをしました。表では男性が活躍し、裏で女性が支える、というのとどこか似ています。

この「ハレとケ」とは、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。ハレ(晴れ、霽れ)とは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表しています。

このうち、もともとハレとは、折り目・節目を指す概念です。つまり、桜が咲き、散るという節目の季節にもぴったりの概念でもあります。語源は言うまでもなく、晴天を表す「晴れ」であり、晴れ渡った空のように慶事があったときに使われるようになったものです。

「晴れの舞台」「晴れ着」といった風に使われます。晴れの舞台とは、生涯に一度あるかないかの大事な場面であり、晴れ着は、結婚式や祝い事などの折り目・節目のめでたい儀礼で着用する衣服のことであるわけです。

しかし、ハレの日が一年中続くわけはなく、曇りや雨の日、嵐の日も当然あるわけであり、そうした日もあるからこそ、ハレの日がめでたく感じられるわけです。このため、国風文化においても、このハレの対局にあるものとして、「ケ」が形成されました。

現在では、晴れ着に対するものを「普段着」といいますが、平安の世ではこれを「ケ着」と言いました。ただ、現在では、「ケ」はほとんど使われなくなっています。明治時代あたりから言葉としてあまり使われなくなり、ほぼ死語になってしまいました。現在でもよく使われるハレとは対照的です。

使われなくなった理由はよくわかりませんが、やはり誰しもがマイナスな要素を含む言葉を口にしたくはない、と思ったからでしょう。「ケ」とは穢れ(けがれ)のケでもあるからです。

なお、現代では単に天気が良いことを「晴れ」といいますが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、一瞬晴れ間がさしたように当たる日についてのみ「晴れ」とする、と定義した記録があるそうです。このことからもわかるように、ハレということばの裏には、とかく「節目」という概念が見え隠れします。

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こうした節目節目を大事にする文化、言い換えれば、ことあるごとに行事を行い、儀式を重んじる、といった文化は、11世紀までに確立した「摂関政治」に影響を与えました。

というか、摂関政治がこの国風文化を育みました。摂関政治とは、平安時代に藤原氏の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態です。つまりは政略結婚の典型といえます。

摂関政治が台頭した結果、天皇が不在のままでも政務が遂行されることが多くなり、天皇が直接関与しない朝廷運営の成立につながりました。すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となりました。これすなわち、現在に至るまで続く天皇制の基礎になっているわけです。

この摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけてという時期は、唐が衰えた時代です。混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持するだけで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていました。

そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなりました。その結果として、節目を尊重する国風文化が花開いたわけであり、この文化は、その後、12世紀の院政期に至るまでの文化にも広く影響を与えました。これが「院政期文化」です。

院政期文化は、平安末期文化ともいい、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化です。この院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きが多くみられました。

ただ、国政文化の延長上にあった文化です。なので、場合によっては、国風文化とこの院政期文化を合わせて国風文化と呼ぶこともあるようで、こうした摂関政治や院政といった政治風土を背景に日本独自の文化が確立されました。

平安のはじめにそれが創造された時期から院政期文化に移行する間までの期間に現在の日本を代表するような文化が熟成されていった、というわけであり、冒頭で述べたようにこの時代に日本文化の基礎が形づくられた、といっても過言ではないでしょう。

例えば、衣類については、いわゆる「着物」というものを生み出しました。それまでの和服は、男女ともに上下2部式であり、男性は上衣とゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んだもの、女性は上衣と裾の長いロングスカート様の姿がふつうでした。

これが、国風文化が形成される間に、日本の湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良い、ゆったりとしたシルエットになり、現在の着物の基礎ができました。また、男性用の装具として、衣冠、束帯、直衣、狩衣といったものも生まれました。聖徳太子が着ているあの衣装です。

また、女性用としては、十二単が流行り、また、細長(ほそなが)と呼ばれる産着のような服を一般人は着るようになりました。これは狩衣に形状が似ており、安倍晴明が着ているような薄い着物です。

このほか、宗教では「御霊信仰」が確立されました。人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖します。また、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことですが、これが現在まで続く「神道」のルーツです。

建築物としては、平等院鳳凰堂をはじめとし、醍醐寺五重塔ほか、現在でも日本を代表する建築物が数多く建造され、これらがすべてその後の日本の建築様式の基礎になりました。と同時にこれらの建築物に収められた彫刻や絵画の技法もその後の日本の文化の形成におおいに影響を与えました。

とくに、大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた山水屏風などが確立したのもこの時代です。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されました。

源氏物語絵巻や、信貴山縁起(院政期)、鳥獣人物戯画(院政期)といった、教科書に出てくるような、日本の象徴にもよくたとえられるようなものが描かれたのもこの時代です。

また、いわゆる「日本刀」と呼ばれる刀剣を鋳造する技術が確立したのもこの時代です。古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多いのが特徴であり、古くから続く血統では権威の証として尊ばれました。

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そして、こうして花開いた国風文化の中心にあったのは、やはり「桜」です。

春の象徴、花の代名詞として扱われるこの花は、多くの衣装や装飾物にあしらわれるとともに、建築物においてもこの花が咲く季節を想定してその様相が決められることが多かった、とする説まであるそうです。

桜の散る季節にこの木の下で、日本刀でもって介錯を受ける、というのは武士の憧れの死に方でもありました。

国風文化時代に創造されたそのほかの美術作品にも数多く使われるとともに、和歌、俳句をはじめ、文学全般において非常に良く使われました。

音楽においても、この時代に形成された楽器としては、「琴」がありますが、桜は箏曲(そうきょく:琴の曲)としても取り上げられました。日本古謡とされる「さくらさくら」は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものです(さくら さくら やよいの空は 見わたす限り ~という例のヤツ)。

また、後年、江戸時代に発明された三味線音楽においても「地歌」として数多く取り上げられています。

明治時代に滝廉太郎が作曲した歌「花」に唄われているのも桜です。こちらは、「春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が~」というヤツです。高齢の方には、桜の曲と聞いて思い浮かべるのはこの歌という人も多いでしょう。

このように、平安時代に確立した国風文化の中で、節目の花として貴重のものとして扱われはじめて以来、それほど日本においてはサクラは関心の対象として特別な地位を占める花となっていきました。

桜には穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものでもありました。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がありました。

中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に「花」といえば梅をさしていましたが、その後平安時代に国風文化が育つにつれて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになっていきました。

漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる嵯峨天皇(786~842年)は桜を愛し、花見を開いたとされています。また、現在の京都御所にも古式に則って植えられている有名な桜、「左近の桜」は、元は梅であったとされます。これも桜が好きであった仁明天皇(850~833年)が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたのが起源とされています。

平安末期の歌人、西行法師も、「花」すなわち桜を愛したことは有名であり、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名です。西行はこの歌に詠んだ通り、桜の咲く季節に入寂したとされます。

豊臣秀吉もまた桜大好き人間であり、醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年(1598年)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは「醍醐の花見」として後世に伝えられるほどのものでした。

江戸時代には河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が植えられました。また園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることが出来るようになり、江戸末期までには300を超える品種が存在するようになりました。

江戸末期に出現したソメイヨシノを始め、明治以降には加速度的に多くの場所に桜が植えられていきました。

ただ、明治維新後にはこの桜の文化にも危機が訪れました。大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰されると同時に、底に植えられていた数多くの品種の桜が切り倒され燃やされたためです。

これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの園芸品種の枝を採取し自宅の庭で育てました。そして、これに目を付けた江北地区の戸長の清水謙吾という男が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作りました。江北は現在の足立区にあった地名です。

これを嚆矢として多くの桜の園芸品種が小石川植物園などに保存される事になり、その命脈を保つことができました。現在日本中に咲いている桜のほとんどは、この植物園から品種移転されたものです。

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桜はまた、咲いているときよりも散りゆく姿のほうが美しいともよく言われます。

もとより桜は、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でした。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

諸行無常といった感覚にたとえられており、明治以降ではとくに、花のように散る人などのたとえにされてきました。ただし、江戸時代はそのようにすぐに花が散ってしまう様は、家が長続きしないという想像を抱かせたため、桜を家紋とした武家は少なくなっています。

この散りゆく桜が、現在のように日本精神の象徴のようなものとして使われるようになったのは、明治時代以上に日本の軍国化が進んだ大正後期からです。「帝国」と呼ばれたこの当時の日本では、多くの人が戦争で死んでいきましたが、それを桜に例えるようになったからです。

兵器の名称にもよく使われ、第二次大戦末期に作られた特攻機には「桜花」の名が与えられました。また、「同期の桜」などといった、歌も作曲され、戦中によく歌われました。

以後、潔く散るという意味の代名詞として使われるようになり、もともと日本精神に根ざしていた桜は、戦乱を通じてさらに人々の心に強い印象を与える影響力を持つようになっていきます。

旧帝国海軍はこの桜を徽章によく使いましたが、現在でも警察官の徽章はこの桜です。菊だと思っている人が多いようですが、これは「旭日章」といい、桜をあしらったものです。警視庁は、皇居の桜田門前にありますが、このため警察のことを桜田門と呼ぶこともあり、そこから由来して警察のことを「桜の代紋」と呼ぶ場合もあります。

いまではほとんど使いませんが、その昔、刑事もの・警察ものの映画などでは「桜の代紋」といえば警察の呼称でした。

このほか、自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用しています。とくに階級章では、あしらってある桜の数が増えるほど階級があがります。幕僚長などの陸将・海将クラスでは四つの桜が付いた徽章をつけることになっており、逆に最下位クラスの尉官ではひとつです。

身近なところでは、1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインです。1964年には東京オリンピックが開催された際、それに合わせて100円銀貨のデザインを一部変更した記念貨幣が発行されました。

表面は鳳凰でしたが、裏面中央には桜があしらわれており、オリンピックが閉会したあとに発行された新百円硬貨の裏側にも採用されるところとなりました。

現在では、桜といえば日本、日本といえば桜、という印象は世界中に広まっています。無論、日本人にとっては依然、「心の花」です。

各種調査によれば、日本人の大多数の人たちが桜を好んでいるとされます。春を象徴する花として日本人にはなじみが深いものであり、春本番を告げるとともに、「節目」を感じさせる役割を果たしています。それだけに、毎年この時期になると桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わし、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒します。

ところが、これほど人気があるのに、桜はなぜか「国花」ではありません。では別のものがあるのかといえばそれもなく、日本には国花は存在しません。アメリカの国花は薔薇、お隣の韓国の国花はムクゲ、中国は牡丹ですが、日本には法定の国花はありません。

ただ、成文法に基づき国花を指定制定する例はむしろ少数派だそうで、そういう意味では日本だけが特別というわけでもないようです。とはいえ、国花の代表例として使われることは多く、最近では東京オリンピックの誘致の際に作られたシンボルマークは桜をあしらったものでした。

もっとも、桜とともに国花としてよく扱われものには菊もあります。ただ、こちらは皇室の象徴であり、戦前には軍のイメージシンボルでもありました。このため、現在では菊の花を、国を代表する花とすることに多くの人は良い感情を持っていないでしょう。

サクラを意味する漢字「櫻」は、元は中国語で、ユスラウメを意味する言葉だったといいます。ユスラウメの実が実っている様子を指した漢字だそうですが、ただし、日本にユスラウメが入ってきたのは江戸時代後期のことです。このため、それまではそうとは知らず、桜のことを「櫻」と書いていたわけです。

現在では常用漢字として「桜」のほうが定着していますが、この昔ながらの櫻の字が好きな人も多いことでしょう。もともとは「首飾りをつけた女性、もしくは首飾りそのもの」を意味する「嬰」に木偏を付けたものだともいいます。

平安の時代に日本の文化を形作ったのが女性であるならば、その女性を表す文字としてもぴったりといえます。

今年の春に生まれる子供が、女の子であるとわかっているご家庭では、この櫻の文字を中に加えてあげる、というのもいいのではないでしょうか。

この国の桜の文化を作った女性たちが、この春もまたいちだんと美しく輝きますように。

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