桜咲く季節に……

2016-0608久々の書き込みです。

長らくブログをお休みしていますが、別に病気になった、とかいうわけではありません。

それなら何ナノよ、とおっしゃるでしょうし、いぶかる方も多いでしょう。が、あまり気にしないでください。

大きな環境変化があり、それに対してどう対処していくか、をお悩み中、とだけ書いておきましょう。

…… 3月も半ばを過ぎました。

旧暦3月を弥生(やよい)と呼びます。その由来は、「草木がいよいよ生い茂る月」だそうで、この「いよいよ生い茂る」というのを古語では、「弥や生ひ茂る」というそうです。なので、「木草弥や生ひ茂る月」→「木草弥や生ひ月」となり、さらにつづまって「弥や生ひ(いやおひ)」→「弥生(やおひ=やよひ=やよい」となったというわけです。

日本ではこの月を境に年度が替ります。会社ではいわゆる「人事異動」があり、会社・官公庁だけでなく学校でも引越しや移行作業、新生活の始まりなどで忙しくなります。

4月から始まる新しい会計年度を前に、金銭だけでなく人があわただしく動く時期であり、学校でも学年が変わるなど大きな変化があります。ある組織を「卒業」し、別の組織への移動が集中するのもこの時期であって、月を通して卒業式や送別会が行われます。

数多くの出会いと別れもあるわけですが、そんな中、桜が満開になり、やがて4月になると散っていきます。桜は、多くの人にとって「人生の転機」を思わせる花でしょう。

散りゆく前に行うのが「花見」であり、3月は、この弥生という呼称以外にも、他に、「花月」、「花見月」という呼び方もあります。この「花」とはいうまでもなく桜のことです。このため、「桜月」と呼ぶこともあるようですが、まさに日本人にとっては「花の中の花」でもあります。

いったいいつ頃から日本人はこんなにも桜が好きになったのだろう、ということなのですが、これは平安時代あたりがはじまりのようです。この時代、「国風文化」というものが勃興し、以後、桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

それより以前の中国の影響が強かった奈良時代の文化は、「唐風」といいました。これに対して、純和風、倭風の文化を「国風」と呼び、現在まで続く日本の文化の基礎となりました。

時間軸としては、だいたい11世紀ころに確立された文化です。その「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる調和のとれた優美さにある、といわれます。そしてこの「調和美」とは極めて女性的な感覚です。

平安時代は日本史上最も女性の感性が大切された時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映されました。とどのつまりは、日本の文化は女性が形成した文化と言っても過言ではないでしょう。

この国風文化の普及した平安時代には、内裏では調度を整えるにあたり、公式な場や「ハレ」の場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風にしつらえました。が、一方では私的な場、「ケ」の場では和風にあつらえるという使い分けをしました。表では男性が活躍し、裏で女性が支える、というのとどこか似ています。

この「ハレとケ」とは、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。ハレ(晴れ、霽れ)とは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表しています。

このうち、もともとハレとは、折り目・節目を指す概念です。つまり、桜が咲き、散るという節目の季節にもぴったりの概念でもあります。語源は言うまでもなく、晴天を表す「晴れ」であり、晴れ渡った空のように慶事があったときに使われるようになったものです。

「晴れの舞台」「晴れ着」といった風に使われます。晴れの舞台とは、生涯に一度あるかないかの大事な場面であり、晴れ着は、結婚式や祝い事などの折り目・節目のめでたい儀礼で着用する衣服のことであるわけです。

しかし、ハレの日が一年中続くわけはなく、曇りや雨の日、嵐の日も当然あるわけであり、そうした日もあるからこそ、ハレの日がめでたく感じられるわけです。このため、国風文化においても、このハレの対局にあるものとして、「ケ」が形成されました。

現在では、晴れ着に対するものを「普段着」といいますが、平安の世ではこれを「ケ着」と言いました。ただ、現在では、「ケ」はほとんど使われなくなっています。明治時代あたりから言葉としてあまり使われなくなり、ほぼ死語になってしまいました。現在でもよく使われるハレとは対照的です。

使われなくなった理由はよくわかりませんが、やはり誰しもがマイナスな要素を含む言葉を口にしたくはない、と思ったからでしょう。「ケ」とは穢れ(けがれ)のケでもあるからです。

なお、現代では単に天気が良いことを「晴れ」といいますが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、一瞬晴れ間がさしたように当たる日についてのみ「晴れ」とする、と定義した記録があるそうです。このことからもわかるように、ハレということばの裏には、とかく「節目」という概念が見え隠れします。

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こうした節目節目を大事にする文化、言い換えれば、ことあるごとに行事を行い、儀式を重んじる、といった文化は、11世紀までに確立した「摂関政治」に影響を与えました。

というか、摂関政治がこの国風文化を育みました。摂関政治とは、平安時代に藤原氏の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態です。つまりは政略結婚の典型といえます。

摂関政治が台頭した結果、天皇が不在のままでも政務が遂行されることが多くなり、天皇が直接関与しない朝廷運営の成立につながりました。すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となりました。これすなわち、現在に至るまで続く天皇制の基礎になっているわけです。

この摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけてという時期は、唐が衰えた時代です。混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持するだけで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていました。

そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなりました。その結果として、節目を尊重する国風文化が花開いたわけであり、この文化は、その後、12世紀の院政期に至るまでの文化にも広く影響を与えました。これが「院政期文化」です。

院政期文化は、平安末期文化ともいい、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化です。この院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きが多くみられました。

ただ、国政文化の延長上にあった文化です。なので、場合によっては、国風文化とこの院政期文化を合わせて国風文化と呼ぶこともあるようで、こうした摂関政治や院政といった政治風土を背景に日本独自の文化が確立されました。

平安のはじめにそれが創造された時期から院政期文化に移行する間までの期間に現在の日本を代表するような文化が熟成されていった、というわけであり、冒頭で述べたようにこの時代に日本文化の基礎が形づくられた、といっても過言ではないでしょう。

例えば、衣類については、いわゆる「着物」というものを生み出しました。それまでの和服は、男女ともに上下2部式であり、男性は上衣とゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んだもの、女性は上衣と裾の長いロングスカート様の姿がふつうでした。

これが、国風文化が形成される間に、日本の湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良い、ゆったりとしたシルエットになり、現在の着物の基礎ができました。また、男性用の装具として、衣冠、束帯、直衣、狩衣といったものも生まれました。聖徳太子が着ているあの衣装です。

また、女性用としては、十二単が流行り、また、細長(ほそなが)と呼ばれる産着のような服を一般人は着るようになりました。これは狩衣に形状が似ており、安倍晴明が着ているような薄い着物です。

このほか、宗教では「御霊信仰」が確立されました。人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖します。また、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことですが、これが現在まで続く「神道」のルーツです。

建築物としては、平等院鳳凰堂をはじめとし、醍醐寺五重塔ほか、現在でも日本を代表する建築物が数多く建造され、これらがすべてその後の日本の建築様式の基礎になりました。と同時にこれらの建築物に収められた彫刻や絵画の技法もその後の日本の文化の形成におおいに影響を与えました。

とくに、大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた山水屏風などが確立したのもこの時代です。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されました。

源氏物語絵巻や、信貴山縁起(院政期)、鳥獣人物戯画(院政期)といった、教科書に出てくるような、日本の象徴にもよくたとえられるようなものが描かれたのもこの時代です。

また、いわゆる「日本刀」と呼ばれる刀剣を鋳造する技術が確立したのもこの時代です。古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多いのが特徴であり、古くから続く血統では権威の証として尊ばれました。

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そして、こうして花開いた国風文化の中心にあったのは、やはり「桜」です。

春の象徴、花の代名詞として扱われるこの花は、多くの衣装や装飾物にあしらわれるとともに、建築物においてもこの花が咲く季節を想定してその様相が決められることが多かった、とする説まであるそうです。

桜の散る季節にこの木の下で、日本刀でもって介錯を受ける、というのは武士の憧れの死に方でもありました。

国風文化時代に創造されたそのほかの美術作品にも数多く使われるとともに、和歌、俳句をはじめ、文学全般において非常に良く使われました。

音楽においても、この時代に形成された楽器としては、「琴」がありますが、桜は箏曲(そうきょく:琴の曲)としても取り上げられました。日本古謡とされる「さくらさくら」は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものです(さくら さくら やよいの空は 見わたす限り ~という例のヤツ)。

また、後年、江戸時代に発明された三味線音楽においても「地歌」として数多く取り上げられています。

明治時代に滝廉太郎が作曲した歌「花」に唄われているのも桜です。こちらは、「春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が~」というヤツです。高齢の方には、桜の曲と聞いて思い浮かべるのはこの歌という人も多いでしょう。

このように、平安時代に確立した国風文化の中で、節目の花として貴重のものとして扱われはじめて以来、それほど日本においてはサクラは関心の対象として特別な地位を占める花となっていきました。

桜には穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものでもありました。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がありました。

中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に「花」といえば梅をさしていましたが、その後平安時代に国風文化が育つにつれて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになっていきました。

漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる嵯峨天皇(786~842年)は桜を愛し、花見を開いたとされています。また、現在の京都御所にも古式に則って植えられている有名な桜、「左近の桜」は、元は梅であったとされます。これも桜が好きであった仁明天皇(850~833年)が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたのが起源とされています。

平安末期の歌人、西行法師も、「花」すなわち桜を愛したことは有名であり、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名です。西行はこの歌に詠んだ通り、桜の咲く季節に入寂したとされます。

豊臣秀吉もまた桜大好き人間であり、醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年(1598年)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは「醍醐の花見」として後世に伝えられるほどのものでした。

江戸時代には河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が植えられました。また園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることが出来るようになり、江戸末期までには300を超える品種が存在するようになりました。

江戸末期に出現したソメイヨシノを始め、明治以降には加速度的に多くの場所に桜が植えられていきました。

ただ、明治維新後にはこの桜の文化にも危機が訪れました。大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰されると同時に、底に植えられていた数多くの品種の桜が切り倒され燃やされたためです。

これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの園芸品種の枝を採取し自宅の庭で育てました。そして、これに目を付けた江北地区の戸長の清水謙吾という男が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作りました。江北は現在の足立区にあった地名です。

これを嚆矢として多くの桜の園芸品種が小石川植物園などに保存される事になり、その命脈を保つことができました。現在日本中に咲いている桜のほとんどは、この植物園から品種移転されたものです。

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桜はまた、咲いているときよりも散りゆく姿のほうが美しいともよく言われます。

もとより桜は、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でした。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

諸行無常といった感覚にたとえられており、明治以降ではとくに、花のように散る人などのたとえにされてきました。ただし、江戸時代はそのようにすぐに花が散ってしまう様は、家が長続きしないという想像を抱かせたため、桜を家紋とした武家は少なくなっています。

この散りゆく桜が、現在のように日本精神の象徴のようなものとして使われるようになったのは、明治時代以上に日本の軍国化が進んだ大正後期からです。「帝国」と呼ばれたこの当時の日本では、多くの人が戦争で死んでいきましたが、それを桜に例えるようになったからです。

兵器の名称にもよく使われ、第二次大戦末期に作られた特攻機には「桜花」の名が与えられました。また、「同期の桜」などといった、歌も作曲され、戦中によく歌われました。

以後、潔く散るという意味の代名詞として使われるようになり、もともと日本精神に根ざしていた桜は、戦乱を通じてさらに人々の心に強い印象を与える影響力を持つようになっていきます。

旧帝国海軍はこの桜を徽章によく使いましたが、現在でも警察官の徽章はこの桜です。菊だと思っている人が多いようですが、これは「旭日章」といい、桜をあしらったものです。警視庁は、皇居の桜田門前にありますが、このため警察のことを桜田門と呼ぶこともあり、そこから由来して警察のことを「桜の代紋」と呼ぶ場合もあります。

いまではほとんど使いませんが、その昔、刑事もの・警察ものの映画などでは「桜の代紋」といえば警察の呼称でした。

このほか、自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用しています。とくに階級章では、あしらってある桜の数が増えるほど階級があがります。幕僚長などの陸将・海将クラスでは四つの桜が付いた徽章をつけることになっており、逆に最下位クラスの尉官ではひとつです。

身近なところでは、1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインです。1964年には東京オリンピックが開催された際、それに合わせて100円銀貨のデザインを一部変更した記念貨幣が発行されました。

表面は鳳凰でしたが、裏面中央には桜があしらわれており、オリンピックが閉会したあとに発行された新百円硬貨の裏側にも採用されるところとなりました。

現在では、桜といえば日本、日本といえば桜、という印象は世界中に広まっています。無論、日本人にとっては依然、「心の花」です。

各種調査によれば、日本人の大多数の人たちが桜を好んでいるとされます。春を象徴する花として日本人にはなじみが深いものであり、春本番を告げるとともに、「節目」を感じさせる役割を果たしています。それだけに、毎年この時期になると桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わし、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒します。

ところが、これほど人気があるのに、桜はなぜか「国花」ではありません。では別のものがあるのかといえばそれもなく、日本には国花は存在しません。アメリカの国花は薔薇、お隣の韓国の国花はムクゲ、中国は牡丹ですが、日本には法定の国花はありません。

ただ、成文法に基づき国花を指定制定する例はむしろ少数派だそうで、そういう意味では日本だけが特別というわけでもないようです。とはいえ、国花の代表例として使われることは多く、最近では東京オリンピックの誘致の際に作られたシンボルマークは桜をあしらったものでした。

もっとも、桜とともに国花としてよく扱われものには菊もあります。ただ、こちらは皇室の象徴であり、戦前には軍のイメージシンボルでもありました。このため、現在では菊の花を、国を代表する花とすることに多くの人は良い感情を持っていないでしょう。

サクラを意味する漢字「櫻」は、元は中国語で、ユスラウメを意味する言葉だったといいます。ユスラウメの実が実っている様子を指した漢字だそうですが、ただし、日本にユスラウメが入ってきたのは江戸時代後期のことです。このため、それまではそうとは知らず、桜のことを「櫻」と書いていたわけです。

現在では常用漢字として「桜」のほうが定着していますが、この昔ながらの櫻の字が好きな人も多いことでしょう。もともとは「首飾りをつけた女性、もしくは首飾りそのもの」を意味する「嬰」に木偏を付けたものだともいいます。

平安の時代に日本の文化を形作ったのが女性であるならば、その女性を表す文字としてもぴったりといえます。

今年の春に生まれる子供が、女の子であるとわかっているご家庭では、この櫻の文字を中に加えてあげる、というのもいいのではないでしょうか。

この国の桜の文化を作った女性たちが、この春もまたいちだんと美しく輝きますように。

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