それぞれの彩り

連休も明け、初々しい新緑が少し深い色になってきました。

もうすぐ雨の季節が来ますが、この気持ちのいい新緑がなんとかもう少し長続きしないかなと、叶いもしないことを思ったりしています。

「みどり」ということばが登場するのは平安時代になってからだそうです。もともとは「みずみずしさ(瑞々しさ)」を表していたようですが、転じて新芽の色を示すようになったといわれています。緑を表す英語のグリーンも「草(grass)」や「育つ(grow)」が語源であり、こうしたものに新鮮さを感じるのは西洋人も日本人も同じなようです。

では、どうやって人はその緑の色を感じているのでしょうか。目の網膜の真ん中には、「錐体細胞」というものが集中しています。光を感じるために必要な細胞で、だいたい800ナノメートルから400ナノメートルの波長の光に反応します。

長い側の波長の光が赤~黄~緑に相当し、これを感じる錐体をL錐体(赤錐体)、短い側の青~紫について感度の高いのがS錐体(青錐体)で、二つの中間が、緑~青に感応するM錐体(緑錐体)です。そしてこの3つを感じることができる生物が、3色型色覚生物です。

ほとんどのヒトはS・M・Lの錐体細胞を持っている3色型色覚型生物ですが、ヒト以外では多くの哺乳類が2色型色覚であって、身近なイヌやネコなども2色型色覚です。彼らに見える原色は緑と青などの2色だけです。

しかし、鳥類のほか、カンガルーやコアラなどの有袋類の多くは色4型色覚であり、波長300ナノメートルの紫外線まで見ることができます。赤、黄、緑がヒトにとっての光の3原色ですが、彼らには短波長の範囲にある4番目の原色が見えるようです。

このほか、ある種の鳥と蝶は、目に5つ以上の種類の色覚受容体を持っており、さらに多くの色覚を持つ動物もあって、シャコは16原色と6種の偏光を捉えることができるそうです。

このように、それぞれの生物によって見える世界の色はさまざまです。とかく3色型色覚を持つ人間は自分たちの世界の色が当たり前だと思いがちですが、別の色覚を持って生まれた生物にとっては、彼らが見える色の世界こそが普通の世界です。

このことは、自分たちが普通と思っている世界は他の生物にとっては別の世界であることを意味します。人が3原色の光を使って人工的に再現した色、たとえばカラーテレビの画面を他の色覚受容体を持っている生物が見る場合、人間にとっては自然な色に見えても彼らにとっては自然な色には見えません。

また、同じヒトであっても、色の区別が苦手な人もおり、彼らが見る世界も一般の人とは少し違っているようです。原則ヒトは3色型色覚を持っていますが、2色型色覚の人も存在しており、こうした人たちは「色覚異常」とされています。S・M・Lの3つの錐体細胞のうちのどれかひとつでも問題があると色覚異常になります。

多くは先天性であり、これを先天性色覚異常といい、また後天性である場合を後天性色覚異常といいます。先天性色覚異常を持つ人は、日本においては男性で約5%、女性で約0.2%の割合といわれており、日本全体では320万人もいるといいます。日本人男性の20人に1人という勘定になり、かなり多いな、という印象です。

この比率は人種や国によって差異があり、フランスや北欧では男性で約10%、女性で約0.4%であって、日本より多くなっています。いずれにせよ、けっして少ない数字ではありません。大丈夫なのかしら、と思ってしまいがちですが、心配はありません。こうした異常を持った人でも、一部の色が区別しづらいだけで日常生活にはほとんど影響がありません。




色覚異常者は、かつて「色盲」と呼ばれた時代がありました。これは差別用語には分類されていませんが、「盲(めくら)」という差別用語を連想させることから最近ではあまり使われず、色覚異常、色覚障害、または色弱といった呼び方をされます。

こうした人たちが見ている世界は白黒、という誤解がありますが、これも間違った見方です。全色盲の人というのは極めてまれです。多くの先天色覚異常者は、普通の人と同じように色の違いを感じ取ることができます。ただ、2つ以上の色が同じか違うかを判別する能力(色弁別能という)は普通の人より劣っている場合が多いようです。

軽度の先天色覚異常者の色弁別能は、日常生活で不便を感じる程のものではありません。ただ、割と重症な場合は信号の色の判別が難しい、肉の焼け具合がわからない、人の顔色が分からないといったこともあり、こうした場合には生活に支障が出ることもやむをえません。

とくに人の生死に関係する状況では致命的なものになる可能性があります。戦争や紛争もそのひとつです。かつて、徴兵制が世界的に行われていた時代には色覚異常は過剰に障害として問題視され、徴兵不適格者は社会的にあらゆる場面で差別を受けました。

日本の徴兵検査では「石原表」というものが官民で広く用いられていました。これは陸軍の軍医であった石原忍軍医監が新たな色盲検査表として開発したもので、その後学校保健の場にも取り入れられ、現在でも広く使われています。

この石原と言う人は、東京麹町の生まれで父も軍人でした。子供の頃には父親の任務地を転々としましたが、東京帝国大学医科大学に進学し、その後母校の医学部長に就任しました。人望の篤い人だったようで、教え子から伊豆半島の河津に別荘を贈られました。しかし、軍に属していたことから終戦とともに教職追放処分を受けました。

戦後はこの別荘に移住し、眼科医院を開業しました。村民の文化向上にも尽力し、東京の自宅を売却して公共図書館を建てたり、私財を投じてバス停から診療所までの道路を整備するなどしたことから「伊豆の聖医」と慕われ、「河津のシュバイツアー」とも呼ばれました。

1963年(昭和38年)に83歳で亡くなったときは町葬となり、自宅から伊豆急行線河津駅付近まで葬列が続いたといいます。1956年(昭和31年)には紫綬褒章も受けています。

石原博士が考案し、1916年(大正5年)に出版された「石原式色覚異常検査表」は懲役の際に使われるようになりました。そして検査の結果として2型色覚と判断された人は兵役免除の対象になりました。これはこの当時は大変不名誉なことです。

本来色覚検査の結果と職業適性は別個にとらえられなくてはならないものです。にもかかわらず、この石原表の判定のみで不適格者の烙印を押された人たちは軍務だけでなく、他の仕事を得る場合にも差別されるようになりました。

また、学校でも広く使われるようになった結果、色覚異常をみんなの前で非難され傷ついたり、プライバシーを侵害されたりする人も出てきました。けっして石原博士のせいではありませんが、この当時の徴兵制、引いては軍部がそうした社会的風潮を作ってしまったのです。




色覚異常が問題であるとする風潮の影響は一般人だけでなく、国民が崇拝していた皇室にまで及びました。大正天皇の皇太子・裕仁親王(昭和天皇)妃に内定していた久邇宮家の良子女王(香淳皇后)にも色覚異常があるのではないかとされたことは大問題に発展しました。

1920年(大正9年)春頃、学習院生徒の身体検査を行った陸軍軍医・草間要が、良子女王の兄弟である久邇宮邦英王の色覚異常を発見しました。さらに兄・朝融王と、母方の叔父・島津忠重にも色覚異常があることがわかりました。

島津家と久邇宮家との間に色覚異常遺伝の関係があると考えた草間は密かに軍医学校長に相談しました。そして陸軍から宮内省にも伝えられる過程で、元老・山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告しました。

この結果、久邇宮家の家系に色覚異常の遺伝があるとして、山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫る事態となり、後年これは「宮中某重大事件」と呼ばれるようになりました。

「某重大事件」というのは、これが世に憚れる事件であることから当事者がそう呼称したものです。この当時、皇族身位令では、皇太子・皇太孫は満10歳になった後、陸軍および海軍の武官になるとされていました。また1909(明治42)年には「陸軍志願者身体検査規則」というものが定められ、色覚異常者を不合格にするとしており、これは海軍も同様でした。

このことから山縣は、良子女王がもし男子を設けた時には、将来、天皇に即位し大元帥になるべきその人物が色覚異常であっては困ると考えました。軍人の色覚異常は不適格であるとされており、軍務を務める皇族が色覚異常であっては示しがつかないと考えたわけです。

そこでまず山県は、良子女王を推挙した波多野敬直宮内大臣を辞任させ、山縣の息のかかった中村雄次郎を後任の宮内大臣としました。中村宮相は医師団に調査を命じ、その結果を受けて山縣は、良子女王の父、久邇宮邦彦王に対し、婚約についての「考慮」を願い出ました。

これはつまりやんわりと辞退してほしいと申し出たにほかなりません。しかし邦彦王は「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」、つまり、一旦内定した婚約を取り消すのは天皇の徳を傷つけると主張し、徹底抗戦の姿勢を示しました。そして皇太子に倫理学を教えていた東宮御学問所御用掛、杉浦重剛らを動員して婚約変更反対の運動を開始しました。

これに対して山縣は隠棲していた小田原の別邸、古希庵から出てきて東京に滞在し、年末までには枢密院議長の辞表を提出して一歩も引かない姿勢を示しました。しかし、これは火に油を注ぐようなもので、久邇宮と杉浦らの反対運動はさらに強固になっていきました。



その後事態は、右翼・反藩閥派・政界を巻き込んで更に波及し、明けて翌年(大正10年)には一部の代議士が動き、政治問題化の様相を示してきました。山縣はなおも婚約辞退にむけて動き続けましたが、山縣閥の有力者、清浦奎吾枢密院副議長が久邇宮側に配慮の姿勢を見せ、当時の総理大臣、原首相や元老達も問題から距離を置くようになりました。

この頃山縣は、皇太子裕仁親王の訪欧を独断で推し進めたとして国粋主義者の反発を受けるようになっており、暴動も懸念される情勢となりました。こうして2ヶ月ほどが経った頃、ついに中村宮相が婚約辞退は不可能であると進言し、これには山縣も反論しませんでした。

これを受けて山縣に加担していた元老・内大臣の松方正義が山縣に無断で辞表を提出したため、山縣も追随せざるを得ず、全官職の辞職と栄典の辞退を申し出ました。ただ、この辞表は原首相の主導で却下されました。

このことで山縣は原を信頼するようになり、陸相の人事問題など、従来山縣主導で行われていたことも原に任せるようになったといわれています。しかしこの騒動で急速に老け込んだ山縣は、毎年の恒例としていた京都での静養も行えないようになっていきました。

秋口には熱を出すようになり、次第に衰弱していった山縣は一時的には回復したもののその後さらに病状は悪化し、大正11年(1922年)2月1日、肺炎と気管支拡大症のため小田原・古稀庵において薨去しました。享年83歳。

同年2月9日に日比谷公園で山縣の国葬が営まれました。当日雨だったこともありますが、1ヶ月前に病没した大隈重信の国民葬には多数の民衆が集まったのに対して閑散としたものだったようです。民主主義に理解を示さなかった山縣はこの当時極めて不人気でした。

このとき、東京日日新聞のある記者は、山縣の国葬をこう書いています。

「国葬らしい気分は少しもせず、まったく官葬か軍葬の観がある。同じ場所で行われた“不老長寿”のような大隈侯の華々しく盛んであった国民葬を想い、“寒鴉枯木”のような寂しい“民ぬき”の国葬を眺めて、何と云っていいか判らぬ気持ちになった」

山縣が皇室という聖域に踏み込んでまで色覚異常者を排除しようとしたのは、この時代の空気がそうさせたのでしょう。徴兵があったこの時代というのは、知的に優秀な人間を誕生させることが、国を豊かにすることだと信じられた時代であり、この風潮はのちにハンセン病者の隔離問題などを引き起こす、悪名高き「優生保護法」の成立に繋がっていきます。



この当時、色覚異常者として不適格とされた人達はあらゆる場面で差別を受けましたが、現代では、誤認を防ぐ色分け法の発達等により、昔ほど問題とはされなくなっています。

しかし、事実上の国軍である自衛隊ではやはり色覚異常者の入隊に制限が設けられています。とくに航空機関係と潜水艦乗組員などにおいては厳しい色覚制限があります。ただ、その他の職種についてはパネルD15テストの結果が正常であれば入隊可とされています。

これは、石原表をより改良したものです。同色相の一対の15個のチップが連続的に色が変化するように並べてあり、2色の区別がつきにくいかどうかを判断するというもので、これで色覚異常の種類・程度を判別することができます。自衛隊だけでなく、航空業界や船舶業界では石原表と合わせて検査に使われることが多くなっています。

自衛隊では、防衛医科大学校の医官がこうしたテストを使って各業務に従事する自衛官の色覚異常を検査しています。ただ、一度検査を行って仮に異常があったとしても軽度ならば入隊が許されます。色覚異常があっても、その後10年間の追跡調査ではほとんど普通の隊員と勤務成績の差は見られないということです。

一般の航空会社でもパイロットになる人に色覚テストを課しています。飛行機の位置灯は左翼端が赤、右翼端が緑、上下が赤色の閃光灯であるため、「赤緑色盲」は致命的です。石原表で正常範囲と認められない場合、多くは不適合となります。しかし、パネルD15テストの検査と眼科の専門医の判断により適合となることもあるそうです。

しかし、航空管制官ともなると、色覚に異常のある人はほぼ不合格となります。航空管制官になるには、航空管制官採用試験に合格して国土交通省の国家公務員として任用される必要があります。つまり、色覚検査は国家公務員法において定められたものということになります。

また、航空整備士や地上支援業務など、地上で飛行機に近づいたり誘導、整備を行う人たちの採用も厳しくなっています。たとえ法的に定めがなくても航空業界におけるこうした分野における色覚異常者の就労は難しくなっているのが現状です

船舶業界ではどうかというと、例えば海技士はパネルD15テストで異常があると受験できません。とくに「赤緑色盲」の場合の受験は厳しそうです。船舶も飛行機と同じで、左舷側に紅灯、右舷側に緑灯の装備が法律で決められており、この識別ができないからです。

同様の理由で、水先人になるためには色盲または強度の色弱でないことが求められます。ただ、小型船舶操縦士は強度異常でも夜間に舷側灯の色が識別できれば免許を取得できます。

それでは一般市民である我々が手にする運転免許はどうでしょうか。これについては、赤、黄、青の3色を見分けることができれば取得できます。ただ、バスの運転手などの採用においては問題になる場合があります。

一般の会社への就職はどうでしょう。かつては、労働安全衛生法では雇い入れ時の健康診断に色覚検査が加えることが義務付けられ、新規採用社員は色覚検査を受ける必要がありました。しかし、採用を制限しないよう指導する目的で2001年に廃止されています。

ただ雇用者が任意に検査を実施することを禁ずるものではなく、企業によっては色覚検査を行い、入社を制限しているところもあります。

このように、こと色の識別が必要となる職業に就くことは現状ではなかなか難しいところがあります。大多数の人が3色型色覚であるこの世界では、社会インフラもまた数的に有利な人達向けに整備されており、仕方がないことといえば仕方のないことではあります。

しかし、色覚異常者は決して「異常者」ではありません。たまたまそのように生まれただけであって、3色型色覚者よりも違った世界が見えるだけです。我々とは違う世界を見ることができているわけであり、考えようによってはむしろ素晴らしいことです。

ヒトにおいては4種の錐体細胞を持った4色型色覚の人が女性に限って生まれうるそうです。4色型色覚を備えた人は、任意の光に対して4つの異なる純粋なスペクトルの光の混合色を作ることができるそうです。いったいどんな美しい世界を見ているのでしょうか。

爬虫類と共通の祖先から進化した哺乳類は、はじめはこの4色型色覚をもっていましたが、約3,000万年前に遺伝子異常を起こして現在のような3色型色覚が主流になったそうです。

2色型色覚の人も卑屈になる必要はありません。3色目の色という余計な色を排除して、他の人には見ることができない、よりシンプルで独特な世界を満喫しているわけですから。

しかし、一般生活ではやはり支障が出ます。このため、最近ではこうした色覚異常の人にも優しい社会実現しつつあり、「カラーユニバーサルデザイン」を意識したデザインが導入されています。これは、色弱の人にも情報がきちんと伝わるよう、色使いに配慮する試みです。

きっかけとなったのは、1994年に、進学や就職の場合における「調査書」の色覚欄が廃止されたことです。これにより、色覚異常を持つ人も国立大学の理科系学部への入学が可能となりました。公立・私立大学も追随し、今では大学入学の制限はほとんどなくなりました。

その一方で、コンピュータの技術躍進でカラー化が進み、テレビにおける津波警報、天気予報図、選挙特番の画面スーパーなどでは色分け表示が多用され、色覚異常を持つ人への配慮はなされていませんでした。

そこで2001年、伊藤啓(当時:国立基礎生物学研究所)さんと岡部正隆(当時:国立遺伝学研究所)さんが、他の科学者とともに研究を始めたのがカラーユニバーサルデザインです。

自身も色弱者である伊藤啓さんが学会などで、「緑と赤ではなく、緑とマゼンタを使って蛍光顕微鏡の写真を提示してほしい」と主張したことがきっかけとなり、3年後の2004年10月に、「NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構 (CUDO)」が設立されました。

以後、「カラーユニバーサルデザイン認証」に適合したとされる商品などには、CUDOから認定マークが与えられるようになりました。選定ポイントとしては、「出来るだけ多くの人に見分けやすい配色を選ぶ」「色を見分けにくい人にも情報が伝わるようにする」「色の名前を用いたコミュニケーションを可能にする」といった点です。

この結果、多くの企業がこのデザイン認証を得た製品を販売し始めました。例としては、色弱者も区別できるよう開発した3色LED(星和電機)、色覚異常を持つ人にも色識別しやすいカラーチョークのセット(日本理化学工業)、従来の赤色レーザー光の約8倍明るく視認が可能なグリーンレーザーポインター(コクヨ)などがあります。

ウェブサイトの認証例もあり、たとえば、マウスオーバー時のコントラストを強調したり、図表には解説をつけ色のみに依存しないウェブサイや、標準配色のほかハイコントラストの色合い簡単に切り替えることが可能なウェブサイトといったものがあります。

このほか、鉄道会社各社が、時刻表や路線図等に「色覚バリアフリー」を導入し始めており、従来の複数の色を用いた掲示では、黒以外にオレンジに近い赤(濃い赤だと黒と混同)を使ったり、明るめの青(濃い青は黒と混同)を使ったりしています。

さらにJIS規格も、2018年からカラーユニバーサルデザインを取り入れたものに改正されたほか、災害に対する注意警戒情報についても、気象情報(注意・警戒レベル等)などの配色にカラーユニバーサルデザインが取り入れられています。

有名なゲーム「パズドラ」では、オプションに「色覚サポート」というモードがあります。オンにすると、色覚異常の人でもわかりやすいように色のトーン格差が大きくなるようになるしくみで、色弱の程度によってその格差を微調整をすることも可能です。

アップルOSやアンドロイド、ウィンドウズといったOSにもカラーフィルタというものが入っており、これで色覚異常の人も見分けがつきやすくなっているほか、スマホにおいては、色弱の人の色の見え方が体験できる色覚シミュレーションツールもあります。

色覚異常の人は平素から何かと肩身の狭い思いをしているに違いありません。しかし、少しずつではありますが、カラーユニバーサルデザインの考え方が浸透しつつあり、いろいろ開発されるツールによって日常の不便は減り、普通に生活ができるようになってきています。

さらに今後は、3色型色覚を持っている人だけが正常という考え方を捨てることが必要です。「色覚異常」と呼ばれている人たちも普通に物を見ているのだ、という考え方が浸透していけば、誰もが「自分の色」の見え方にコンプレックスを感じることはなくなるでしょう。

それぞれが見る世界が、みな自然で正常な世界です。すべての人が光にあふれた世界を満喫できる社会の実現に向けて、みなさんもぜひご協力ください。

ふたたび渡り鳥になる日

先月の3月11日で、伊豆に来てからちょうど9年になりました。

10年目に突入という節目の今年、これから先をどう生きていこうか、などと考えたりもしていますが、これといってはっきりした展望はありません。ただ、最近夫婦の話題としてよく上がっているのが、「終の棲家」ということ。

今住んでいる家も悪くはないのですが、もともと二人とも中四国地方で生まれ、ともにあちらの環境に慣れ親しんで育った経緯があります。伊豆の暮らしも長くなりましたが、やはり人生の終わりには生まれ育った場所に戻りたいというのが正直な気持ちです。

静岡は気候もよく、交通の便や買い物他の生活基盤も整っていて暮らしやすい場所です。先日もニュースで日本で一番暮らしたいところだと報じられたばかりです。

なのになぜそこを離れようとするのか、と言われると返す言葉もありません。ただ、なんというか刺激が少ない気がします。歴史を感じさせる古い町があるわけではなく、また東京のように新陳代謝の激しい場所でもありません。自然豊かで風光明媚という点が最大の魅力ですが、こと暮らし・生活ということを考えるとすべてが中庸という感じがします。

また、伊豆という土地柄にはなんというか閉塞感があります。北では東海道に接続し、あちこちへのアクセスも悪くないのですが、それ以外の方角は海で行き止まりになっています。

かつてハワイに3年ほど住んでいましたが、そこに似ています。周囲が海で囲まれており、卒業して島を出る前にはもうどこもかしこも行ったところばかりになっていて、閉じ込められたような感覚になったものです。結局日本に帰ってきた理由のひとつはそれです。

このため、もし再度移住するならもっとオープンな土地柄で、しかも文化度も比較的高い場所がいいな、と考えています。候補としてはやはり、中国地方でも山陽側の瀬戸内のどこかですが、納得できる住処を先に選ぶことを重視すべきかもしれません。

今住んでいる家を決めたのも、やはり場所ではなく、家そのものがしっかりしていたことが決め手でした。風が強く、大きな地震の可能性があるものの、高台にあるため水害の心配はありません。自然災害で生活が脅かされる心配は小さいと判断しました。

そんないい条件のところを捨ててまでよそへ移りたいのかとまた言われそうですが、やはり故郷はいいものです。誰でもいつかは戻りたい場所があるのではないでしょうか。

人間にも動物と同じように帰巣本能のようなものがあるのかもしれません。遠く離れた場所からでも自分の巣に戻ることができる能力は多くの動物が持っています。犬には優れた嗅覚や感覚があって、どんなに遠くからでも方向を間違えずに飼い主の元に戻って来ます。




渡り鳥も遠く離れた場所と場所を間違えずに行き来します。その理由は、食糧、環境などいろいろですが、一般には繁殖のために寒さを避けるためと考えられています。このため、夏鳥、冬鳥、という分類法があります。

夏鳥は、日本より南方から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南に渡って行く鳥で、ツバメなどがその代表例です。また、冬鳥は主として越冬のために日本より北方から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北に渡って行く鳥で、ハクチョウやツルなどがそれです。

旅鳥、という分類もあり、これは日本より北で繁殖し、日本より南で越冬するため、渡りの移動の途中に日本を通過して行く鳥です。主として移動時期である春と秋に見られ、シギ、チドリの仲間に多いようです。

こうした渡り鳥の中には、キョクアジサシのように北極圏から南極まで、32,000kmもの長距離を移動するものもいます。また、ハシボソミズナギドリという鳥は、オーストラリアから北上し、太平洋を一周してまた元の場所へ戻ますが、その移動距離も30,000km以上です。

なぜこうした移動をするのか、どうやってその経路を知るのかは、鳥類学における長年の研究テーマのひとつでもあります。鳥を捕獲して刻印のついた足環を付ける鳥類標識調査(バンディング)が日本を含め世界各国で行われています。大型の鳥では、超小型の発信機を付け、人工衛星を使って経路を調べることまで行われています。

その結果、渡り鳥が移動する理由についてはまだ定説といえるほどのものは見つかっていませんが、どう移動経路を見定めているのかについてはわかってきており、現在では三段階ほどの過程を経てそれを決めていると推定されています。

まず最初の段階では、ある時間にある方向に向かって飛び、目的地から数百kmほどのところまで進みます。この移動には太陽や星の配置が指標になります。

そして次の段階では、磁場に頼ると考えられています。地球には地磁気というものがあり、鳥は生まれながらにしてこの磁場を感知する能力を持っており、これを頼りに目的地までさらに詳細な方向を探り、数kmの精度でそこまで進むことができます。

最後の段階では地形や環境の特徴を頼りに最終目的地に到達します。鳥は非常に細かい地図情報を持っており、この段階で頭の中にある精密地図を使います。この地図情報は先天的なものではなく、毎年の移動の際に組み込まれ、修正される後天的なもののようです。




このように渡り鳥は、地形だけでなく、太陽や星の配置、磁場の状況などありとあらゆる自然条件を把握してその目的地にたどり着きます。

しかし渡り鳥ではない鳥の中にもこうした能力に優れたものがおり、その代表的なものは鳩です。帰巣本能が優れ、千キロメートル以上離れた地点から帰巣できることから、古くから通信手段として使われてきました。こうした目的に使われる鳩は伝書バトと呼ばれます。

ローマ帝国では、軍事用の通信手段として広く使われ、以後も戦時の通信手段として重宝され、第二次世界大戦時のイギリス軍は約50万羽の軍用鳩を飼っていたといいます。紀元前約5000年のシュメールの粘土板にも伝書バトに関する記録があるほか、紀元前約3000年のエジプトの文書にも、漁師が漁の成果を知らせるために鳩を利用したと書かれています。

ただ、このころのエジプトでは、鳩だけでなく、様々な鳥で通信することが試みられていたようです。他にどんな鳥が試されていたかまでは記録に残っていませんが、鳩ほど巣へ戻ってくる本能が強いものは他にはいなかったようです。また、数ある鳩のなかでもカワラバトが一番人に馴れて飼いやすく、また飛翔能力、帰巣本能ともに優れていました。

これは、我々も公園でよくみかけるポッポポッポと鳴くあの鳩です。ユーラシア大陸、ヨーロッパを中心に世界的に分布し、日本でも北海道を含む全土で普通に見ることができます。

日本のカワラバトは飛鳥時代には既に渡来していたようです。ただ伝書鳩として使われるようになるのは江戸時代になってからであり、それも輸入されたものが最初のものだったようです。おそらくはオランダの東インド会社あたりが持ち込んだものだったでしょう。

伝書バトを飼育するための技術もこの頃に導入され、以後、京阪神地方を中心に商業用の連絡に使われるようになりました。大坂~大津間の米取引においては、大津の米商は伝書バトによって大坂の米価の情報得ていたようで、商人同士でその速さを競っていたといいます。

日本で普及したきっかけは戦争です。日清戦争や日露戦争では軍事連絡用に主に中国大陸の拠点間での連絡用に使われました。このころから、国産のカワラバトだけでなく、様々な系統の伝書鳩が欧米から輸入され、飼育されるようになりました。

当初、200km以内の伝令や偵察に使われ、のちには、医療用・畜産用等の通信ならび運搬手段として重宝がられました。電気が必要なく、フィルムや薬品・血清・家畜の精子等、軽量な物資を素早く運搬できるなど、無線通信などに比べて多くの利点もあります

民間でも報道用・趣味としても飼育が増え、明治26(1983)年に軍用鳩を払い下げられたものを東京朝日新聞が初めて報道で使用し、2年後に本格運用されるようになりました。このころ新聞各社は有楽町に集中しており、各社の屋上には鳩小屋が作られていたそうです。

その後の第二次大戦中には、食糧難から食用として使われたため民間の飼育量は激減しましたが、軍事用としての伝書バトは大事にされていたようです。戦後になると民間での飼育がブームとなり、とくに若年層の間で人気を呼びました。1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、5年後には年間の脚環登録羽数は400万羽に達しました。

とくに人々が熱狂したのが、伝書鳩レースです。1978年から1980年にかけて漫画雑誌「週刊少年チャンピオン」で連載された「レース鳩0777」もそのブームに拍車をかけました。そのあらすじを簡単に書いておきましょう。

ある日主人公の少年が空から落ちてきた一羽の鳩を拾います。「0666」という文字が刻まれた足輪をつけたそれはただの鳩ではなく、レース鳩界の権威である一人の老人が飼っている名鳩グレート・ピジョン号でした。病気にかかり弱っていたグレートを少年は必死に介抱し、その結果一命をとりとめた鳩を少年は飼い主の元に戻します。

老人はそのお礼にとグレートの子供を少年に与えますが、この鳥の足環番号が78-0777・Bであったことから、少年はこの鳩を「アラシ」と命名しました。花札を使った賭け事のことを「おいちょかぶ」といい、このゲームでは3枚の数字がすべて同じ場合、これをアラシと呼び、無条件で勝ちとなります。「アラシ」の名はこれにちなんだものです。

少年は、アラシ号と共にレースに参加し、様々な出来事や出会いを通してひとりの鳩レーサーとして心身共に成長していく、というのがこの漫画のストーリーです。高度成長時代も一段落したこの頃、新たな趣味を求めていた人々は飼鳩をテーマとするこの話に熱狂しました。



ただ、伝書バトはこれ以前の1965年頃には既に報道では使われなくなっていました。交通の発達や電話や電信の技術が進み、その必要がなくなったためです。この漫画が流行った頃にも既に実際に通信や物資の運搬に使われることは稀でした。

その後もレース用の飼鳩だけは残り、現在でも頻繁に鳩レースが行われています。日本鳩レース協会という社団法人があり、各地で色々なジャンルの鳩レースを主催しています。そのうちの地区ナショナル・レースは、全国60地区ごとに距離600km以上で行われており、1地区で約1万羽の参加鳩があるところもあって、人気レースのひとつです。

また、競馬と同じように、菊花賞レースというのもあり、これは毎年秋に行われる若鳩レースで、その年度の若鳩日本一を決めます。レースは協会傘下の団体ごとに距離300km以上で行われ、全国最高分の速鳩に優勝杯が授与されます。

しかし、1970年代の往時に比べると、飼鳩を行う人はかなり少なくなっているようです。伝書鳩レースの開催回数も漸減傾向にあります。その原因はブームが下り坂になったためばかりではなく、動物愛護の観点や環境保護の観点からのようです。

さらに、鳩レースの平均帰還率が近年、低下傾向を辿るようになったためともいわれています。数千羽規模の登録レースでも、最終レースを待たず全滅することが各地で頻発しており、イギリスでは帰還率が5割を切ったというレースもあったそうです。

その原因は解明されていません。猛禽類の増殖、地球の自転速度の減少と地磁気減衰の影響、携帯電話の電磁波影響などの説がありますが、どれが本命かは確かめられていません。

ただ、地磁気の減衰の影響が最も大きいのでは、ということが言われているようです。鳩はその体内には磁気コンパスがそなわっておりそれを用いて旅をしているらしいとは以前から言われていました。磁場で方位を感じ取る能力がある渡り鳥と同じです。

1988年6月、フランスからイギリスへ向けて行われた国際伝書鳩レースでも、大量の鳩が未帰還に終わりました。このレースは、たまたま強い磁気嵐が起きている日に行われてしまったといい、放たれた5000羽の鳩のうち、2日後のレース終了までにゴールに到着したのはわずか5%程度という、稀に見る悲惨な結果になってしまいました。

この事件をきっかけに鳩の帰巣能力と鳩の磁気との関係を検証するいくつもの実験が行われるようになり、鳩が帰巣のために磁気コンパスを用いていることが証明されました。

地球の磁場は、概ね磁気双極子です。つまり、北極部がS極、南極部がN極に相当し、地球の中心に南北に置かれた棒磁石とみなすことができます。そしてそれぞれを北磁極と南磁極と呼びます。こうした磁場は、地球を磁石とみなしているため「地磁気」とも呼びます。

地磁気は常に一定ではなく、絶え間なく変化しています。そうした変化のうち、一日周期の変化を日変化と呼び、一日周期で数十 nT (ナノテスラ)程度の変化が見られます。地磁気の大きさの単位はテスラ(T)ですが、通常、地球の磁場はとても弱いので、1億分の1テスラであるナノテスラが使われます。

日変化は地球で発生している磁場の影響を受けて起こります。これは地球内部のマグマの活動による地磁気の変化や永年変化によるものですが、地磁気は年々弱くなっており、ここ 100 年で約 6% 弱くなりました。結果として日変化も小さくなっています。

長い地球の歴史ではこれ以上の磁場変化もあり、この程度の磁場変動はそれほど珍しいものではありません。また、我々人間に影響を与えるほど大きなものでもありません。ただ、鳩の帰巣本能に地磁気の減少と日変化の縮小が大きな影響を与えている可能性があり、これが最近の鳩レースでの帰還率が落ち込んでいる理由とされているわけです。

一方、磁場は太陽が出す放射エネルギー、「太陽放射」の影響を受けており、地球上の磁場は時に場所に激しく乱高下します。太陽表面における爆発現象は太陽フレアと呼ばれ、小規模なものは1日3回ほど起きていますが、ときどき巨大なものが起こり、このとき地球上では地磁気が大きく乱れる「磁気嵐」が発生します。

これは数秒で収まることもあれば、数日のスケールで続く場合もありますが、典型的な磁気嵐では地磁気は数時間から1日程度の時間をかけて減少し、その後数日かけて徐々にもとの強さまで回復していくという過程をとります。

磁気嵐に伴う地上の磁場変化は通常時の1000分の1程度ですが、大規模な磁気嵐のときは通常時の100分の1程度にまでなることがあります。こうした激しい磁気嵐が起こる場合、同時に激しいオーロラ嵐も一緒に発生することも多く、その場合、高緯度地域ではその効果による激しい磁場の変化が観測されます。

このような大きな磁場変化は地上の送電線などに誘導電流を作るので、人々の生活にも大きな影響を与えます。例えば1989年3月13日に起きた磁気嵐はカナダのケベック州で大停電を起こすなどの被害をもたらしたほか、米国の気象衛星の通信が止まるなど、北米各国の社会インフラに深刻な影響を与えました。

この一週間前の3月6日には、X15クラスの巨大フレアが発生していました。太陽のフレアの大きさはX6からX28までに分類されており、X15は上から6番目に大きなフレアで、最大級のものです。さらに4日前の3月9日には、太陽活動に伴い、太陽から惑星間空間内へ突発的にプラズマの塊が放出される大規模な「コロナ質量放出」が発生しました。

3月13日の午前2時44分、このころ既に深刻な磁気嵐に襲われていた地球では、さらに極域で非常に強いオーロラが発生しました。このオーロラは、いつもはオーロラなど観測されないアメリカのテキサス州やフロリダ州などの南方でも観測されたほどです。

この時はまだ冷戦の最中であり、多くの人々がこのオーロラを見て、核攻撃が始まったのかと心配しました。また同日の午前、地球周回上にあったスペースシャトル、ディスカバリーが、追跡データ通信衛星を放出しており、これが原因と考えた人も多かったようです。

この激しいオーロラの発生は短波長域での電波障害を引き起こし、さらには、短波、AM、FMにより28の言語でヨーロッパに放送を流していた「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」やソビエト連邦へのラジオ放送の放送断絶も起こしました。

ヨーロッパの人々は初め、ラジオ電波がソビエト政府によって妨害されたと考えましたが、やがてそれだけでは説明のつかない現象が続いていきます。夜になり、電離層では西から東に荷電粒子の河が流れ、同時に地中の至る所にも強い電流が流れました。その結果、極軌道上のいくつかの衛星では、何時間にもわたってコントロールが失われました。

アメリカでは、気象衛星であるGOESとの通信が断絶し、貴重な気象データが失われました。またスペースシャトル・ディスカバリーによって放出されたばかりのデータ中継衛星TDRS-1でも、荷電粒子により、250以上もの電子部品の異常を起こしました。

地磁気の変動は、さらにカナダ・ケベック州の電力公社、ハイドロ・ケベック社の電力網のブレーカーを落としました。同社は長大な送電線網をケベック州に敷設しており、同州の北部のほとんどが楯を伏せたような緩やかな台地「カナダ楯状地(ケベックシールド)」であったため、電流が地中に流れることを妨げました。

その結果、行き先を失った電流は、より抵抗の低いその周辺の送電線に流れ込みました。これにより、ケベック州の西側に位置するジェームズ湾に沿った送電網は、90秒以内に非接続状態になり、これが原因となってケベック州内に大停電を引き起こしました。電源消失は9時間に及び、電力公社はその復旧のために夜を徹しての対応を迫られました。



このように、大規模な磁気嵐が発生すると、通信のみならず電気、電子機器などの設備において著しい障害が出るほか交通にも影響が出ます。2012年の1月に起きた磁気嵐では、ナビゲーションシステムに使用される高周波無線通信に影響を与える可能性があるため、米デルタ航空が北極付近を通る航空機のルート変更を行うなどの処置がとられました。

現代社会において、こうした電気、電子機器は生活していく上で必要不可欠なものです。世界中で普及するインターネットやコンピュータもまたその機能を失ってしまう可能性があることから、その影響を未然に防ぐために各国が磁気嵐を予測する研究を進めています。

アメリカでは、National Space Weather Program(国立宇宙天気プログラム)という計画が2000年からスタートし、2012年からは、実際に「宇宙天気予報」が出されています。

具体的には、太陽フレアの発生による磁気嵐を予測し、宇宙開発機関などに流して電子機器等の保護を促したり、人工衛星や探査機の軌道変更を促したりしています。また、宇宙飛行による人体への影響や航空機への影響を予測し、地上においても磁気異常による方位誘導装置(ジャイロコンパス)への影響などを警告したりしています。

すでに各種のサービス機関や商業セクターが登場しており、「宇宙天気プロバイダー」の名称が確立しようとしています。宇宙天気データモデルの開発が進み、その派生製品やサービスの配布を提供する小規模な会社や大企業内の小さな部門の設立が相次いでおり、かつて日本で天気予報の商業化が許可されたときと同じようなブームが起こりつつあります。

日本ではまだ研究が始まったばかりですが、総務省所管の国立研究開発法人、情報通信研究機構 (NICT) の傘下に、「宇宙天気情報センター」が設立され、1988年(昭和63年)から情報提供が開始されました。2004年(平成16年)以降は、公式ウェブサイト上で公表されています(https://swc.nict.go.jp/)。いずれ日本でも産業化が進んでいくでしょう。

2010年6月、NASAは「太陽活動の極大期を迎える2013年5月頃に大きな磁気嵐が発生する可能性がある」という見解を発表しました。実際、同年5月中旬には最大Xクラスの太陽フレアが2日間で4回発生しましたが、活発な黒点群が地球の正面側を向いていなかったことが幸いして特に被害などは出ませんでした。

その後の経過研究から、近年ではおよそ11年周期で太陽活動が活発になる傾向にあることがわかっており、最近一番活発だったのは、2007~2009年にかけてでした。11年後は昨年の2020年であり、もうそろそろ次の大磁気嵐が起こっても不思議ではありません。

終の棲家は、こうした磁気嵐の影響を受けないところにしたいものです。しかし、地球に住んでいる以上そんな場所はなさそうです。

住み場所を転々とする人のことを「落ち着かない者」という意味をこめて「渡り鳥」と呼ぶことがあります。私は過去に19回引越しをしており、今度さらに引っ越せば20回目となります。まさに渡り鳥です。

渡り鳥をやめ、今度落ち着く先では、磁気嵐が起きても生活に支障をきたさないようにしたいものです。電気・電子機器を一切使わないアナログで原始的な生活もいいかもしれません。どなたか、そうした暮らしができる良い移住先をお教えいただけませんでしょうか?