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流離の果て

先日より、かつての名女優、岡田嘉子さんのことを書いていたら、奇しくも昨夜、森光子さんの訃報が入ってきました。岡田さんともども昭和を代表する名女優であり、哀悼の意を表したいと思います。

逮捕

1938年(昭和13年)1月3日、樺太から国境を越え、ソビエトに不法入国した嘉子と杉本の二人でしたが、歓待されると思いきや、予想外にソ連側の対応は厳しいものでした。

入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(ゲーペーウー:内務人民委員部附属国家政治局、ソ連の秘密警察で、のちのKGB)から厳しい取り調べを受けたあと、別々の独房に入れられました。二人はこののち、二度と会うことはありませんでした。

ソ連に亡命するにあたり、実は杉本にはある目算がありました。その当時ソ連在住だった同じ演劇仲間の「佐野碩(さのせき)」や「土方与志(ひじかたよし)」を頼るつもりだったのです。

佐野は第二次日本共産党の指導者になった佐野学の甥で、母方の祖父は後藤新平。1929年(昭和4年)に結成された日本プロレタリア劇場同盟の中心的存在であり、筋金入りの共産党員でした。

演出家の土方与志夫妻ともに1933年(昭和8年)に入国し、ソ連では世界的演出家のメイエルホリドが主催する国立劇場の演出研究員となり、メイエルホリドの指導を受けました。

土方の祖父は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣などを務めて伯爵を授けられたため、祖父没後に襲爵。新築地劇団を結成し、「プロレタリア・リアリズム」に基づく演劇を志向し、プロレタリア文学の代表作である小林多喜二の「蟹工船」を「北緯五十度以北」という題ではじめて帝国劇場で上演したことで知られています。

彼もまた筋金入りの共産党員であったため、官憲の弾圧を受け、1932年に土方は検挙を受けています。その翌年の1933年(昭和8年)に、小林多喜二は治安維持法違反容疑で逮捕、特別高等警察による拷問で死亡。

その数か月後に吉井は、佐野碩や妻の梅子とともにソ連を訪問。日本プロレタリア演劇同盟の代表として、「ソヴィエト作家同盟」で日本代表として小林多喜二虐殺や日本の革命運動について報告を行っています。この内容はまもなく日本に伝わったため、1934年に爵位を剥奪されたため、土方は帰国せず、そのままソ連に亡命。

嘉子と杉本がソ連に亡命したとき、この佐野と土方がソ連入りした時から5年が経っていましたが、日本国内で二人はソ連にそのまま居残り、亡命していたと考えられていました。

しかし、実際には、佐野と土方の二人はその前年の1937年の8月に大粛清に巻き込まれて国外追放処分になっていおり、嘉子と杉本はそれを知りませんでした。

この点について、土方与志らとともに新築地劇場の創立に参加し、小林多喜二とも親交の深かった、演出家の千田是也は「自分たちの新築地劇団のグループは前年9月にその事実を知っていたが、当時新築地劇団と演劇理論などで対立していた新協劇団の杉本はこの事実を知らなかった」と後に述懐しています。

嘉子と杉本はそうした事実を知らず、佐野と土方を頼ってソ連に亡命したわけですが、このときソ連国内はまさに大粛清の只中であり、杉本と嘉子もスパイ容疑をかけられて逮捕されてしまいます。

大粛清

大粛清とは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代に国内でおこなった大規模な政治弾圧のことで、この弾圧では、党指導者を目指してスターリンに対抗していた者の多くが見せしめ裁判(モスクワ裁判)にかけられ、死刑の宣告を下されました。

死刑宣告を受けたのは、5人の元帥の内の3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人でした。

准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八、九が銃殺というすさまじいものでした。

ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者となり、600人のドイツ共産党員がゲシュタポに引き渡されたほか、ハンガリー革命主導者達12人も捕され処刑。このほか、イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソビエトに逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内わずかな例外を除く全員が銃殺されました。

このほかにもイギリス、フランス、アメリカからの共産党員が殺害され、日本人もスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で多数が殺害されました。

この当時にソ連に渡っていた日本人がどの程度いたのかについては正確な数字はわかっていないようですが、一説によると80人を超える日本人がおり、このほとんどが粛清の対象になったのではないかともいわれています。

処刑そして幽閉

1月3日にソ連入国後、杉本と引き離された嘉子は、その後厳しい取り調べの中拷問と脅迫を受けその一週間後の10日には、スパイ目的で越境したと自白してしまいました。このため、杉本への尋問も拷問を伴った過酷な取り調べとなり、杉本自身や佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイであると認めるように強要されます。

そしてついにそれに抗しきれず「自分はメイエルホリドに会いに来たスパイで、メイエルホリドの助手の佐野もスパイであった」という虚偽の供述をしてしまいます。

その後開かれたソ連軍事法廷で杉本は、この供述は虚偽であると証言を翻し「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」と述べたといいますが、時は既に遅すぎました。

1939年(昭和14年)9月27日、嘉子と杉本の二人に対する裁判がモスクワで行われ、嘉子は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡されました。杉本は容疑を全面的に否認、無罪を主張しましたが、銃殺刑の判決が下され、10月20日、杉本は処刑されました。

杉本がスパイである自分の仲間だったと虚偽の証言をしたメイエルホリドも、この年の第一回全ソ演出家会議で、ソ連当局の圧力によって自己批判を余儀なくされたうえに投獄されました。

その後いったん釈放されますが、その後再度逮捕・投獄され、残忍な拷問を受けた末にフランス、日本とイギリスの諜報部に協力したと無理やり供述させられました。そして、1940年2月に死刑判決を受け、翌日に銃殺刑に処せられています。

その後、ソ連は崩壊してロシア連邦になりますが、ソ連崩壊後に明らかにされたこの当時のメイエルホリドの供述調書の中には、佐野の名前は頻繁に出てきますが、杉本(本名である吉田)の名前はほとんど出てこないといい、起訴状でもスパイ容疑を裏付ける「供述者4人の1人」になっていただけだそうです。

日本のメイエルホリド研究者のひとりは、「杉本の強制自白がメイエルホリド粛清の口実になった」のではなく、メイエルホリドが粛清の対象であることは何年も前からスターリンの方針であり、たまたま日ソ関係が最悪の時期に密入国してきた杉本がメイエルホリドや佐野の名前を口にしたため、その「最後の仕上げ」に利用されたのであろうと語っています。

スターリンの没後、こうした事実が明らかになってきたことから、杉本は冤罪であったことが確認され、1959年になってソ連内でその名誉は回復されます。しかしこうした名誉回復の事実や銃殺されて死亡していたことなどは、その後も長い間日本には伝えられず、病死したとされてきました。

しかし、1980年代になり、ゴルバチョフが登場すると彼のグラスノスチ政策の進行の結果、彼の冤罪死の事実などがようやく日本にも知られるようになりました。

モスクワで行われた裁判で起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された嘉子でしたが、1939年(昭和14年)の12月、モスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVD(エヌカーヴェーデー、GPUの改組組織)のビャトカ第一収容所に送られます。

嘉子はこの収容所でようやく自己を取り戻し、虚偽の証言をして自分や杉本を窮地に陥れたことを後悔したようですが、時既におそしでした。ソ連当局に再審を要求する嘆願書を何度も書き続けたといいますが、ソ連当局からはことごとく無視されたといいます。

このビャトカ第一収容所に約3年間収容された後、1943年(昭和17年)1月からは、モスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、約5年後の1947(昭和年12月になり、嘉子はようやく釈放されます。嘉子42才。杉本とソ連に亡命してから5年の年月が経っていました。

ソ連当局は釈放前にこの5年間の嘉子の幽閉の間の虚構の経歴を作り上げ、外でこれまでの経歴を聞かれたときにこれが事実である話すように嘉子に強要し、これを釈放の条件としたといいます。

ビャトカとモスクワにおけるNKVD監獄での彼女の実際の活動や任務は、その後本人も明らかにしていませんが、何等かの極秘の任務に属したとみられています。

嘉子は後年の自伝や帰国後のテレビ番組で、「釈放は1940年(昭和15年)であり、労役三年後にモスクワに近いチカロフの町に送られて最低限の生活を保証され、第二次世界大戦中、1941年(昭和16年)の独ソ開戦後は看護婦をしていた」と語っていますが、実際は1947年に釈放されるまで劣悪な環境の刑務所に幽閉されていたようです。

「労役三年」や「看護婦をしていた」というのは、釈放の時に幽閉されていた事実を隠蔽するよう指示されたための作り話だったことが、嘉子の死後のNHKによる現地取材の結果から明らかになっています。

結婚そして帰国

ロシア政府から釈放され自由な身になった嘉子ですが、釈放後すぐには日本へもあえて帰国をしませんでした。そして第二次世界大戦終了後、モスクワ放送局に入局し、後の「ロシアの声」といわれる日本語放送のアナウンサーを務めるようになります。

そして、日本人の同僚で、このころハヴァロフスク放送局の日本語アナウンサーをしていた、元日活の人気俳優、「滝口新太郎」と結婚し、穏やかに暮らしはじめます。

滝口新太郎は、1913年(大正2年)生まれで嘉子よりも11才年下でした。子役として舞台で活躍した後、松竹蒲田に入社。20才のころに「忠臣蔵」で嘉子と共演したことがありました。その後日活に入社し、二枚目スターとして活躍するようになり、1936年(昭和11年)にも舞台で嘉子の子供役として出演し、共演を務めています。

その後東宝、大映などにも出演する人気俳優でしたが、1943年(昭和18年)、徴兵され満州に駐留。1945年(昭和20年)、敗戦により軍の上層部や財界人や官僚が日本にいち早く逃げ帰る中、置き去りにされた滝口ら多くの日本人は、ソ連の捕虜となり、シベリアに抑留されました。この点、私の父と同じです。

抑留が終了し、収容所から釈放後は日本に帰ることもできましたが、社会主義の理念に共感したためソ連に残り、ハヴァロフスク放送局の日本語アナウンサーとなります。その後、嘉子がモスクワ放送の日本語課に勤務していることを知り、手紙を送るようになり、1950年(昭和25年)、上司の計らいでモスクワへ転勤させてもらい、岡田と結婚することになりました。

嘉子はこの滝口と結婚前から、再び演劇の道に戻ることを決意し、現地のロシア人演劇学校に通った結果、演劇者としてロシアの舞台にも立つようになっていました。

嘉子と岡田が結婚して、ようやく穏やかな日々を迎えたころの1952年(昭和27年)、この年、ソ連を訪問した参議院議員の「高良とみ」が嘉子の存在を知り、現地でその生存を確認後、日本でこれをアナウンスしたため、日本中が驚きに包まれました。嘉子は同じくソビエトへ渡った杉本とともに、大粛清や大戦の戦乱の中でとうに死んでいたと皆が思っていたからです。

そしてさらに10以上の年月を経たあとの1968年(昭和43年)、日本のあるテレビ番組の中でモスクワの赤の広場からのカラー中継があり、そこに往年のスターであったときと変わらない若々しい口調で話しかける嘉子の姿にまたしても日本中が驚きました。

この中継が話題を呼び、このころの東京都知事であった美濃部亮吉のほか、かつての演劇仲間らが嘉子を帰国させようという運動を盛り上げたため、嘉子もこれに応じ、1972年(昭和47年)、ついに嘉子の帰国が実現することになりました。嘉子はもう70才になっていました。

そして、11月13日、羽田空港に34年ぶりに降り立った嘉子は、かつての大勢のファンや劇団関係者に取り囲まれ、この中にはかつての親しい劇団仲間だった宇野重吉さんも含まれていたということです。

しかし、そこには愛する夫の滝口の姿はありませんでした。この帰国の前年、肝硬変でこの世を去っていたためです。嘉子は、亡くなった夫・滝口の遺骨を胸に抱きながらタラップを降り、激動の人生を歩んできた気丈な彼女もさすがに涙々にあけくれた帰国となりました。

晩年

嘉子は、その後14年間もの間日本で暮らしました。この間、日本の芸能界にも復帰し、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」などのほかの3本の映画に出演したほか、舞台演出にも関わり、数本のテレビドラマのほか、「クイズ面白ゼミナール」「徹子の部屋」などのトーク・バラエティ番組にも出演しました。

しかし、嘉子が80才を超えるころから、ソ連では国内改革が始まり、1985年(昭和60年)からはゴルバチョフ主導でペレストロイカがはじまると、嘉子は「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と考えるようになります。

翌年の1986年(昭和61年)、正式にソ連国籍を取得した嘉子は、この年再びソ連へ戻ります。以後、亡くなるまで日本へは2度と帰国しませんでした。しかし、この間何度か日本のテレビ番組の取材には応じており、モスクワのアパートの自宅内も公開していたといいます。日本からの取材クルーが来るととても喜んでいたという逸話も残っています。

晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことで、モスクワの日本人会の人々がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていたそうですが、1992年、モスクワの病院で死去。90年の波乱に満ちた生涯に幕を閉じました。

嘉子が日本に帰国していた間、服部義治との間に設けた一児、といってもこのころには、もう50才を超えていたと思いますが、この方と嘉子はとうとう再会することはなかったようです。

岡田嘉子の息子さんということで、芸能界にも関わったこともあったようですが、その娘さん(嘉子のお孫さん)のブログによれば、彼女が22才のとき、放浪の旅に出たあと、2005年に亡くなったそうです。

岡田嘉子はこの一児のことを死ぬ間際に思い出したでしょうか。なぜ日本に帰国したときに探し出して会おうとしなかったのかは、ご本人に聞くしかありません。しかし、再会することにはいたたまれない思いがあったでしょう。

しかし、そんな二人もこの世の人ではなくなりました。きっとあの世再開し、生きていたころのことは邂逅されていることでしょう。そう願いつつ、この項を終わりにしたいと思います。

極寒の逃避行

スキャンダル女優

1925年(大正14年)、嘉子は村田実が監督としてメガホンをとる「街の手品師」で主演を務めました。この映画は、「大正14年度朝日新聞最優秀映画」を日本映画で初めて受賞し、新劇出身だった嘉子が一躍映画界におけるスター女優となった記念すべき映画でした。

更にその二年後の1927年(昭和2年)、嘉子は、今度は映画「椿姫」のヒロインに抜擢されます。この映画は大作だっただけに、嘉子もこれまでにない並々ならぬ意欲を持って撮影に挑みましたが、エキストラの群集が群がるロケ現場で、思いがけなく監督の村田実に罵倒に近い叱声を浴びてしまいます。

村田はカットごとに演出を細分化する、いわゆる映画的技法を最初に確立した監督の一人と言われており、この技法は嘉子だけでなく、この当時の他の大女優をいらだたせ、村田監督とは何かとトラブルが多かったといいます。嘉子も自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。

新作の撮影においても、容赦なく自分の型に嘉子をはめ込もうとして演技指導は苛烈を極め、二人の対立の中撮影は進んでいきます。このころ山田隆弥との生活にも行き詰っていた嘉子は、そうした公私の悩みを、「椿姫」での相手役で、美男俳優とうたわれた、「竹内良一」に相談しはじめます。

そしてあろうことか、この竹内と衝動的に駆け落ちし、失踪してしまいます。新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大きな騒ぎになりました。

竹内良一は、嘉子よりもひとつ年下の1903年(明治36年)の東京生まれ。陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつかめたろう)の長男として生まれ、学習院初等科、中等科、高等科と学習院一筋で育ったおぼっちゃまでした。学習院卒業後、築地小劇場の演技研究生となって、演劇を学び、その後村田実の渡欧に同行し、ベルリンで演劇を学びました。

帰国後、村田たちの世話で「日活大将軍撮影所」に入社し、芸名を竹内良一と改めて村田作品に出演していましたが、いわば村田子飼いの秘蔵っ子男優でした。

二人は、この年(昭和2年)の4月、福岡県飯塚市で「発見」され、二人の仲を反対する周囲の手で引き離されますが、良一のほうは嘉子との結婚に強い意志示したため、男爵家から廃嫡され、同年5月には華族の礼遇を停止されました。

その引換として、二人はこの年結婚を許されますが、嘉子は竹内とともに日活を解雇され、事実上映画界から閉め出されます。新聞各紙は、「恋の逃避行」として彼ら二人を大衆のアイドルとして祭り上げましたが、反面、その奔放さに対する反感も強く、映画を干されたあとの活動の中心であった舞台では、立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われたといいます。

そんな中、悪いことはさらに重なります。最愛の母八重が46歳で病死したのです。嘉子が25才のときでした。物心ついたころから女優の道を歩みはじめたため、嘉子と一緒に暮らした時間が少なかった分、娘を深く愛していたようで、嘉子が服部義治との間に設けた一児の養育にあたっても嘉子の代わりとして愛情深く接していたようです。

スキャンダル女優の汚名をかぶり本業の女優業を続けることは苦難の道でしたが、竹内良一とようやく始めた「新婚生活」の中にあっての不幸だけに、残された父武雄と息子の行く末なども思い、スキャンダル女優と名指しで批判されるこの時期は、嘉子にとってかなりつらい一時期だったと思われます。

しかし、嘉子は立ち止まっていませんでした。1928年(昭和3年)、大衆作家、直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げ。この年から1930年(昭和5年)4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回りました。

ちなみに、直木三十五は、脚本家であり映画監督などもこなしましたが、エンターテイメント系の小説を書く第一人者であり、没年の翌年からスタートした「直木賞」は彼にちなんで設けられた賞です。

代表作は、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」を描いた「南国太平記」であり、後年、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の名だたる作家が、この直木の著作を手本にしながら本格的歴史作家として育っていったといわれています。

1931年(昭和6年)、夫の竹内は、日活のライバル松竹に入社し、これがきっかけとなり嘉子も同社の映画女優を務めるようになります。しかし、新しい職場においても嘉子が看板女優として高い評価を得たのに対し、竹内が出演した映画にはなかなか人気が集まりませんでした。

このことが夫婦の間に溝をつくるきっかけとなり、やがて夫婦関係が悪化して竹内は酒に溺れるようになります。そして、ついに5年後の1936年(昭和11年)に二人は別居生活に入ります。

その二年後の1938年(昭和13年)の1月に嘉子がソ連へ亡命したのちの10月、竹内は女優の佐久間妙子と結婚。戦時中は本名(外松良一)で国策映画「秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏」(1943年)に出演し、外人「チャーレス・クーパー」の役などをこなしていますが、その後は目立った作品には出演していません。

戦後、東京都調布市に日本映画俳優学校を設立して教頭に就任。晩年は宗教に心の拠り所を求めていたといい、1959年(昭和34年)に調布市上石原にあった生家の道場において、信者仲間に看取られつつ死去。脳溢血だったそうです。享年55才。

トーキー映画時代

「岡田嘉子一座」の旗揚げ後、二年間の地方巡業についた嘉子でしたが、日本中を巡業した結果、一定の評価を得たため帰京。ちょうどどのころ、日本ではまだ糸口が着いたばかりのトーキー(有声映画)に着目します。

そしてこれに参画すべく、自らのプロダクションを設立し、嘉子が主演、竹内を監督して、舞踏や流行小唄を題材とした映画を製作しはじめ、十数本の映画を完成し、売り込みを図りはじめました。

舞踏を題材にした映画に出演するようになった関係から、このころから嘉子は日本舞踊に本格的に取り組むようになり、日本舞踊家で藤蔭流(とういんりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した藤間静枝(ふじませいし、別名、藤蔭静枝(ふじかげ せいし))の元にも通い始めました。

藤間静枝はこのころ50才を超えていました。30才のころ、この当時慶應義塾大学文学部の教授であった永井荷風と結婚しましたが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、日本舞踊に専念するようになります。

後年、80才で紫綬褒章を授かるなど、日本舞踏家の第一人者でしたが、嘉子はその藤間から名取を許され、日本舞踏家としては「藤蔭嘉子」名乗るほどの腕前になりました。

1932年(昭和7年)、嘉子は30才になりました。この年、日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。しかし栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子といったこの当時の名だたる人気スターのあいだにおいて、嘉子はさすがに若さの盛りを過ぎており、華やかさで彼女らには及ばず、なかなか良い役にも恵まれませんでした。

しかし、高名な小津安二郎監督作品にも出演しており、「また逢う日まで」「東京の女」では主演を務めています。

ただ、こうした作品以外の出演依頼には意欲の湧かないものばかりであり、舞台出身の強みを生かしたいということから、こうしたトーキー映画ばかりを選んで出演をしてみたものの脇役が多くまた、自分とは合わない役柄が続きます。

そんな中1934年(昭和7年)父が病死。服部義治との間に設けた愛児は嘉子の代わりに両親が育ててくれていましたが、母に次いで父も亡くなったことから、おそらくは医家であった九州の父の実家の一族に預けられたものと思われます。

母の死の時もそうでしたが、近親が亡くなるときはいつも嘉子が女優としてその成長に伸び悩んでいるときでした。

父が亡くなったこのときも、衣笠貞之助の股旅物の傑作「一本刀土俵入り」や小津のネオリアリズムの傑作「東京の宿」に出演していますが、「使いにくい女優」と監督から敬遠されていたようで、なかなかその役にのめり込むことができずにいた時期でした。

そして、そんな境遇の自分を打ち払うように、自分が真底打ち込める作品を求め、嘉子は再び舞台の世界へ戻ることを決意します。とはいえ、映画は重要な収入源であったため、全くの出演をやめることもできず、数本の映画出演のかたわら、松竹傘下の新派演劇であった井上正夫一座に参加するようになります。

こうして映画の出演を控え、舞台出演が増えたためもあり、このころから映画人であった夫の竹内との間は次第に冷え切ったものになり、ほとんど別居状態になっていました。

1936年(昭和11年)、34才になった嘉子は、そのころ嘉子の舞台を演出してくれていた、ロシア式演技法の指導者で、演出家の「杉本良吉」と激しい恋におちました。

ところが、この杉本良吉は、1926年に結成された第二次日本共産党のメンバーで、党導部の密命を受け、ソビエト領内のコミンテルンとの連絡のためソ連潜入を試みた経験をもつ、いわゆる共産主義者でした。

コミンテルン

「コミンテルン」の原語はロシア語で「カミンテールン」と発音するようですが、日本語で呼びやすいようにこう呼ばれるようになったものと思われます。英語では、“Communist International”と書きますから、共産主義者の国際組織という意味になります。

コミンテルンは、ロシア帝国が崩壊した、いわゆるロシア革命の2年後の1919年、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワにあった19の共産主義組織またはグループの代表が集まり、創立されたものです。

当初は「世界革命」の実現を目指す組織とされ、新政権であるソ連政府は、資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶ、いわば表向きの「顔」であるのに対し、コミンテルンは世界各国の共産主義による革命運動を支援するための組織であり、いわば共産主義を世界に広げるための「草の根運動」を支援するための国際組織でした。

1919年の第1回大会から1935年の第7回大会まで、ソビエト共産党の指導の下に世界各国から共産主義者を集めた、「コミンテルン世界大会」が開かれ、反ファシズムなどを優先課題として共産主義に賛同する多様な勢力と協調するための会議が開かれました。

しかしレーニンの死後、スターリンが実権を握ると、ソ連邦による「一国社会主義論」、すなわち自分たちの社会主義だけが唯一正しい共産主義であるという主張をはじめたため、コミンテルンは次第にその立場を失っていき、各国の共産主義者も次第に強大な力を持つソ連邦の外交政策を擁護するようになっていきました。

このため、コミンテルンによって結成された中国共産党も、当初はソビエト連邦へ留学して党を結成した勢力が中心でしたが、次第にその勢力を失っていきました。

圧倒的に農民人口が多い中国では、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とする社会主義よりも、農民を対象とした社会主義化の動きのほうが強く、このため農村に拠点を置いて活動していた毛沢東が次第に勢力を拡大していきました。

そしてソ連が一国社会主義論を提唱しはじめたため、中国共産党はこれとは一線を画し、ソ連邦とはまた違った形の農民主体の共産主義が発展していきました。

その後、第二次世界大戦の勃発に伴い、ソ連邦がイギリスやフランスとともに連合国を形成したため、コミンテルンは名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散しましたが、それまでは、中国だけでなく、世界中の国の共産主義者たちが心の拠り所として仰ぎみた組織でした。

日本共産党

日本における共産党も、コミンテルン主導で結成されたもので、1922年に堺利彦、山川均、荒畑寒村らを中心に第一次日本共産党が結成されました。

しかし、日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを国に要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法に反する団体とみなされ、その活動は「非合法」という形を取らざるをえませんでした。

共産党は繰り返し弾圧され、運動が困難となったため、その結果1924年(大正13年)にはいったん解散。しかし二年後の1926年(昭和元年)、かつて解党に反対していたメンバーによって共産党は再結党され、これは第二次日本共産党といわれました。

この第二次共産党の方針も第一次共産党の方針をほぼ継承しており、その活動内容の多くは1925(大正14年)に成立した治安維持法に抵触するものであったため、新生共産党の活動もやはり「非合法」のものがほとんどでした。

しかし、一方では労農党などの合法政党を設立し、これを背景として労働団体など諸団体に入って「合法的」な活動を行っており、これと並行して非合法の地下活動を展開していました。

労働組合などの合法活動に党本部の活動家が顔を出しつつ、裏では違法とされたソ連邦の共産活動家らとの接触を図りながら軍国主義と敵対し、共産主義を流布していくという危なっかしい運営を行っていたのです。

このように表向きでは「合法」の組織とみせかけながら秘密裡に非合法活動を行っていた日本共産党ですが、その後やはりこの裏の活動が暴露され、1928年(昭和3年)の三・一五事件では、治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙されました。

翌年の1929年(昭和4年)でも、四・一六事件と呼ばれる弾圧が起き、この事件でもおよそ1000人が検挙され、共産党は多数の活動家を失います。

相次ぐ弾圧で幹部を失いながらも、指導部は「革命近し」と判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などなどの過激な暴発事件を次々と引きこしていきました。

戦争反対の活動にも力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいては、非合法集会・デモ行進を組織し、同年9月に発生した満州事変に際しては、占領地からの軍隊の即時撤退や帝国主義日本の軍事行動に反対する声明を出すなど、その行動はさらにエスカレートしていきます。

杉本との出会い

杉本良吉が党本部の指導者からソ連邦に侵入し、領内のコミンテルと連絡をとるように言われたのはちょうどこのころのことです。

コミンテルンは1928年に開催された第6回世界コミンテルン大会において、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること」「民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」といった、過激な政治綱領を発表しています。

帝国主義が蔓延する日本などの軍事国家を内戦により崩壊させることを目標に掲げたのです。この結果を受け、コミンテルンではさらに1931年4月、「31年政治テーゼ草案」なるものを出していますが、この草案の中では日本における「社会主義革命」を最優先課題としていました。

杉本は、指導部の密命を受け、ソビエト連邦成立後のソビエト領内のコミンテルンとの連絡をとるために、ソ連潜入を試みたといい、上述のテーゼ草案などを国内に持ち帰り、党本部にコミンテルンの結果などを復命したようです。

この杉本良吉の経歴ですが、1907年(明治40年)東京に生まれ、東京府立第一中学校卒業後、北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退。さらに早稲田大学文学部露文科に入学するもこれも中退して、20才のころから前衛座などのプロレタリア演劇の演出をやっていたようです。

前衛座は、日本プロレタリア文芸連盟が主宰する移動劇団で、「プロレタリア」の名のとおり、個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結びついた「プロレタリア文学」を奉ずる集団です。

日本プロレタリア文芸連盟には中野重治、亀井勝一郎、鹿地亘といったマルクス主義芸術研究会に属する有名人が多数加入しており、いわば共産主義の巣窟のような場所でした。杉本もここに出入りすることによって共産主義に感化されていったものと考えられます。

杉本は嘉子と出会う直前の1935年に、新協劇団という前衛集団に入団し、プロレタリア演劇運動を行っていましたが、この新協劇団も反政府運動を行っているとして5年後の1940年に解散させられています。

杉本もこのころにはプロレタリア演劇運動という表向きの運動よりも、政府打倒を掲げる共産主義運動にどっぷりつかり、劇団そのものも日本共産党分子の隠れ家的存在になっていたものと考えられます。

杉本は、1902年生まれの嘉子よりも5才年下でした。嘉子と知り合ったころには、ロシアから帰国したばかりであり、嘉子から請われて嘉子の舞台の演出家を務め、ロシアで覚えた演出法を試していました。

このころ嘉子が夫の竹内と不仲になっていた一方で、杉本も病身の妻をかかえており、お互い何かと家庭内の問題を打ち明けあううちに、それがやがて激しい恋情へと変わっていったものと考えられます。

嘉子にとってはこの恋もまた不倫でしたが、映画人としての将来を見失い、冷え切った夫との関係が続く生活の中に現れたこの若くて新しい恋人の存在は、彼女にとってなくてはならないオアシスだったのでしょう。

逃避行

1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画や舞台にも表現活動の統制が行われるようになってきました。プロレタリア運動に関わっていた杉本は、過去に軍部からにらまれて逮捕された経歴があり、嘉子と出会ったころは執行猶予中でした。

戦争は激しくなり、健常な男性の多くが中国戦線に投入されるようになっており、杉本にも召集令状が来るのは時間の問題でした。しかし、召集令状を受ければ、戦地へ赴く前の審査で共産主義者であることが暴露される可能性があり、そうなれば刑務所に送られる可能性があると考えた杉本は、ついにソ連への亡命を決意します。

そしてその亡命にあたっては、このころはもう別れることのできない間柄にあった嘉子を連れて行こうと考え、嘉子に打ち明けたところ、嘉子もこれに同意します。

1937年(昭和12年)暮れの12月25日朝、杉本がまず東京を出発しました。追って26日夜、嘉子が東京を出で、2人は宇都宮駅で落ち合い、青森へ行きます。そこから青函連絡船で函館へ行き、湯の川温泉で一泊しました。

その後小樽へ行き、そこから船で稚内、そして樺太へと渡りました。このころ、樺太は日露戦争の戦勝により南半分が日本の領土として割譲されており、二人はこの北半分のソビエト領との間の国境の町、「敷香(しすか)」町にたどりつきます。

ここで彼らは国境警備隊を慰問したいと申し入れます。警備隊は大喜びで二人を迎えました。嘉子と杉本は土産の肉や酒を用意していたといい、これを警備隊に振舞い、ねぎらったと伝えられています。

そして、彼らと親しくなったころを見計らい、杉本が警備隊の隊長に、是非国境を見せて欲しいと願い出ました。土産の食事で気をよくしていた隊長ら警備隊員は、嘉子と杉本を馬橇に乗せ、雪原の国境まで連れて行きます。

途中でスキーに履き替えて国境に立ったときは、夕暮れが迫っていました。国境付近を何気なく散歩していたように見えた二人に、警備隊員が遅くなる前に帰りましょうと、声をかけたとき、振り返った杉本の手には拳銃がありました。

二人は警備隊に馬橇を渡すよう要求し、二人はこれに乗ってソビエト領内に走り出しました。

警備隊員は空に向かって威嚇射撃を行ったといいますが、二人は振り返ることもなく、ソビエト領に向かって逃げていきました。

こうして、1938年(昭和13年)1月3日、二人は樺太国境を超えてソ連に越境入国しました。二人の失踪はほどなくして世間に知られるようになり、有名女優の駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせることになりました。

そしてその後日本は太平洋戦争に突入していき、戦中・戦後の混乱の中で二人の存在は忘れ去られていき、いつしか死んだに違いないと噂されるだけになりました。

その通り杉本はその後ソビエト領内で非業の死を遂げることになりましたが、嘉子はその後も生きながらえ、気の遠くなる年月ののちに再び日本に戻ってくることになります。

しかし、このときの嘉子はそんな日がくることを想像だにしなかったに違いありません。暗いソビエトの灰色の空の下、まだまだ苦痛に満ちた日々が続いていくことになるのです(続く)。

髑髏の舞

岡田嘉子(おかだよしこ)さんという女優さんをご存知でしょうか。ご存知だとしたら、失礼ながらかなりご年配の方か、あるいはその晩年、「男はつらいよ」などの映画や舞台演出のほか、数本のテレビドラマやバラエティ番組に出演したのを覚えている方などではないかと思います。

私自身は直接テレビや映画で現役のころのお姿を拝見した記憶はないのですが、たしか、ソビエトに亡命した有名な女優さんだったな、という程度の認識は持っていました。

この岡田嘉子さんは、大正から昭和初期にかけて流行ったサイレント映画時代のトップ映画女優であり、奔放な恋愛遍歴を持ち、ソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送った人ですが、1972年の今日、11月13日に35年分ぶりに故郷の日本へ帰ってきました。

正直いってそれほど興味のある人物ではなかったのですが、たまたま「今日は何の日?」で亡命先のソビエトから日本に帰ってきたのが今日であると知り、ちょっとだけその略歴でも見てみようかと調べてみて仰天ビックリ。

こんな波乱万丈の人生を送った人がいたのかと驚き、また私が育った広島で生まれたことも知り、このブログでも取り上げてみようと思いました。

この岡田嘉子(以下、敬称略)は、1902年(明治35年)4月21日に、広島県広島市細工町(現在の広島市中区大手町)で生まれました。

細工町の名は、細工職人が多く居住していたことに由来するそうで、江戸の藩政時代の街道筋にあたり、多くの商人が店を構えていました。今の広島の中心部である、デパートそごう前の交差点から南西部あたり一帯の町で、原爆投下の直下にあったとして有名な世界遺産、原爆ドーム、その昔は「島病院」と呼ばれた場所で病院があったあたりになります。

この原爆ドーム前には「元安川」という川があって、原爆ドームの対岸の広大な敷地が「平和記念公園」となっており、原爆資料館や原爆死没者慰霊碑をはじめとする数多くの慰霊碑が設置されています。

資料館や慰霊碑、また資料館を中心とするこの公園の計画は、当時の若手建築家・丹下健三の設計によるもので、また、公園南側の平和大橋・西平和大橋はアメリカ人彫刻家・イサム・ノグチの設計によります。

我々夫婦にとっては懐かしい場所で、二人の母校の高校がすぐ近くにあったことから、「奉仕清掃」などでも出かけましたが、クラスの課外活動などでもよく利用する場所で、私自身は子供のころからよく慣れ親しんだ場所です。……と、これ以上書くと、また大きく逸脱しそうなのでこの辺でやめておきましょう。広島のお話はまたいずれ機会を改めて書くことにします。

岡田家の祖先は、その昔、九州の細川藩の医家だったそうです。嘉子のお父さんの岡田武雄もおそらくは九州の出だったのではないかと思われますが、新聞記者をやっていました。どこの新聞社に勤めていたのかは何を調べても出てきませんが、小さな地方新聞社だったようで、このほかにもいくつかの新聞社とも掛け持ちで仕事をしていたようです。

嘉子の母の八重は福岡の出身で、父の武雄が広島で新聞記者をしていたときに知り合って結婚したのですが、そのお婆さん(嘉子の曾祖母)がポルトガル人だったそうです。

このため、母の八重も洋風の美人で、娘の嘉子もそのエキゾチックな美貌を受け継ぎ、嘉子自身、「母は自分よりずっと美人だった」とその自伝で書いているそうです。

父が物書きだったせいもあり、両親は教育には熱心だったといいます。しかし、この父親の武雄は放浪の癖があり、和歌山から広島、朝鮮の釜山、横須賀と転々としており、その「途中」の広島で結婚して嘉子が生まれることになります。しかし、武雄はここにも落ち着かず、このため一家こぞって上京。東京では湯島に移り住みます。

父はこうした放浪歴があるだけでなく、娘の通う学校で宮城遙拝(皇居の方向に向かって敬礼する行為。天皇への忠誠を誓わせる運動の一つ)の行事があることなどを知ると、これを娘に強要させることを嫌い、学校を休ませてしまうというリベラリストの側面を持っていたようです。

リベラリズムとは、人間は従来の権威から自由であり自己決定権持つという立場であり、自由権や個人主義、国民主権などを主張し、現代資本主義思想の基礎ともなった思想です。

権威主義や全体主義、社会主義の計画経済などに敵対する考え方であり、リベラリストたちの中には、この当時の天皇制を独裁的な権威主義であると決めつけている人たちもいました。

こうした父の放浪癖やリベラリズムを奉ずる考え方は、後年、嘉子の型にはまる事を嫌う奔放な生き方に大きな影響を与えたと考えられます。

東京へ移住した岡田一家ですが、東京でもあちらこちらと転居していたらしく、銀座の泰明小学校という小学校をはじめ、4つの小学校を転々としました。最後に比較的長くいたのが日本女子大付属の豊明小学校で、それも5年生の1学期から6年の2学期までのごく僅かな時間であったといいます。

1915年(大正4年)、東京・女子美術学校西洋画科(現東京女子美術大学)へ入学。わずか13才だったといいますから、父や母から英才教育を受けていたとはいえ、その才能の早熟ぶりが想像されます。

さらには、1917年(大正6年)、父が北海道小樽の「北門日報」の主筆に招かれると、嘉子も女子美術学校を卒業後、翌1918年(大正7年)に小樽に移り、若干15才で父と同じ新聞社の婦人記者として入社しています。

父が会社の中心人物であり、その庇護の元での就職だったと考えられますが、それにしてもわずか15才で新聞記者というのは現在では考えられないことです。これが事実だとすると、さぞや大人びた娘であったことでしょう。

若くして亡くなった「万代恒志」という岡山県の美作市出身の画家がいますが、岡田一家が東京へ移り住んだころ、万代恒志は通っていた教会で嘉子の母の八重をみそめ、是非、挿絵のモデルになって欲しいと頼み込んだそうです。

八重は唐突な申し出ながらも恒志の真面目そうなところに好感をもち、子供の嘉子といっしょならと、しぶしぶモデルになることを同意しました。

この万代恒志が描いた八重と嘉子の母娘の挿絵はいくつかの雑誌に掲載され、評判になったそうで、このあとも万代は嘉子をしばしばモデルとして自宅に招き、嘉子のデッサンを残しています。母の八重だけでなく嘉子もこのころから周囲の耳目を集める美人だったことがわかります。

小樽に移って父の会社に入社した同じ年、社外の慈善演芸会の催しがあり、この中の寸劇に出演してくれないかと嘉子は頼まれ、これにヒロインとして出演。すると、その際立った美貌がたちまち評判となります。

父の武雄は、東京に在住時代、芸術座の「島村抱月」や劇作家の「中村吉蔵」と知り合っています。おそらくは芸能関係の取材によって知己となったと考えられますが、この二人の薦めもあり、嘉子は翌1919年(大正8年)、父に連れられて上京し、中村吉蔵の内弟子となります。

島村抱月は、1871年(明治4年)島根県小国村(現浜田市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学)卒業後に記者となり、読売新聞社会部主任就任後、母校文学部講師となり母校の海外留学生として英独に留学。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、このころから「早稲田文学」を主宰して自然主義運動のため活躍していました。

1906年(明治39年)に坪内逍遥とともにその後の「新劇運動」の母体となる「文芸協会」を設立しますが、1913年(大正2年)にこれを共に立ち上げた女優の「松井須磨子」との恋愛がその組織内で問題視され、文芸協会を脱退。同年、松井とともに新たに「芸術座」を結成しました。

この芸術座では、トルストイの小説を基に抱月が脚色した「復活」(1914年(大正3年))の舞台が大評判になり、各地で興行を行いましたが、松井須磨子が歌う劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット曲になり、歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となりました。この歌や歌詞を聞いたことがある方も多いと思います。

このカチューシャの唄のヒットは、新劇の大衆化に大いに貢献しましたが、その4年後の1918年(大正7年)、抱月はスペイン風邪にかかり急逝。その2ヶ月後の1919年(大正8年)の1月、松井須磨子は芸術座の道具部屋において首つり自殺をしています。

実は、松井須磨子は文芸協会立ち上げのころから島村と不倫関係にあり、島村の死の9年前に離婚、島村とは同棲関係にありました。

須磨子は自分の全存在は抱月あってのものだと信じ込んでいたそうで、抱月の死の二月後の命日、抱月と自分の写真を並べ、花と線香をたむけた前で首を吊ったといいます。涙を誘うエピソードです。

須磨子は島村の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたそうですが、それは叶わず、彼女の墓は郷里の長野市松代市の生家の裏山に埋葬されました。新宿区弁天町の多聞院には分骨墓があるそうです。

嘉子が父に連れられ、東京に出てきたのは、この島村抱月と松井須磨子が亡くなった直後のことであり、このため、嘉子の身柄はとりあえず、抱月の朋友である中村吉蔵に預けられました。

中村は、1877年(明治10年)生まれで島村より6才年下。同じ島根県出身で、大学もその頃早稲田大学と改名していた旧東京専門学校であったことから、島村とは旧知の中でした。

大学卒業後、欧米に留学してノルウェーの劇作家のイプセンなどの影響を受け帰国。春雨と号して新社会劇団を主宰していましたが、島村が芸術座を立ち上げたことから、これに招かれ、一座のための戯曲を書いていました。

新劇女優

芸術座は、島村と松井須磨子の死によって解散となりましたが、中村はこのころはまだ映画を手掛けておらず、文楽や歌劇、演芸などを営んでいた松竹と提携して、「新芸術座」を旗揚げします。

嘉子は、中村から新劇の手ほどきを受けるようになってすぐの1919年(大正8年)の3月、有楽座で「カルメン」という歌劇の端役で初舞台を踏むことになります。

しかし、新芸術座は興業が不調だったせいかやがて解散。中村との縁はここで切れます。そしてこのころ、その昔島村抱月らが立ち上げた「文芸協会」は主宰者が変わって「新文芸協会」という名の一座になっており、嘉子もこれに加わることにします。

そして、その東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生で、服部義治という男性と関係を持ち妊娠してしまいます。嘉子19才のとき(大正10年)のことで、この男性が彼女の「初体験」の相手だったといわれています。が、無論、本当のことは本人同士にしかわかりません。

この服部義治という人物がどういう人物だったかもよくわかりませんが、大学予科ということは、現在の大学の教養学部に相当しますから、相手の年齢も19~20才くらいの同年齢だったでしょう。

早稲田大学ということですが、師匠の中村吉蔵やその朋友の島村抱月も早稲田大学出身であり、その関係からか嘉子の周りには早稲田出身の若手俳優も多く、そうした後輩を先輩の中村吉蔵などが演技指導をするなどして面倒を見ていたのではないでしょうか。

東北で身籠った嘉子ですが、その後ひとり東京に戻り男児を出産。嘉子の「弟」として岡田家の籍に入れることにします。この決断を嘉子自身がしたかどうかはわかりませんが、籍を入れるということは本家の同意がなければできないことであり、19才という年齢を考えると、両親の勧めに従ったのではないかと考えられます。

このとき、相手の服部は結婚を迫ったといいますが、嘉子はこれを拒否したと言われています。が、本人はその気だったかもしれず、家族の反対にあったのかもしれません。

この嘉子が生んだ子供は男性だったようです。嘉子のことをネットで調べていたとき、偶然この男性の娘さんらしい方のブログを発見しました。かつては嘉子同様、女優を目指した方のようで、東宝へ入社後、二本の映画に出られたあと、女優業はおやめになったようです。

このブログの中でも嘉子のことに触れておられ、そこにもお父さんは、戸籍上「岡田嘉子の弟」として育てられたことを書いていらっしゃいます。

蝶ネクタイの小学生時代のお父さんと嘉子の写真が残っているそうで、祖母の嘉子さんの表情は優しい母の顔だったといいます。

嘉子の両親の武雄と八重の二人は、後年嘉子がソビエトへ行く前に亡くなっています。このお子さんを育てたのは親戚筋の誰かだったと思われますが、いろいろ調べてみましたが詳しいことはわかりませんでした。が、誰であるかにせよ、嘉子が母であることは報せなかったようです。

ところが、中学生だったときに父の武雄が亡くなり、そのお葬式のときに、どういうきっかけからか自分が嘉子の子供であることを知ってしまったようです。

この方のお父さん~嘉子の一人息子は、この嘉子のお孫さんによれば、かなり頭の良い人だったそうで、医師のライセンスから料理、映写技師、設計図面、電気技師の資格まで持つなど多彩な才能を持った方だったようです。九州の医家が先祖の家に生まれ、自らも聡明な性格だった嘉子の息子さんもまた優秀な人物になったのでしょう。

両親の助けを得ながら子供を育てる傍ら、多くの劇団の客演をこなしていた嘉子ですが、1921年(大正10年)「舞台協会」主宰の帝劇公演での「出家とその弟子」(倉田百三作)のラブシーンなどが評判となり、一躍新劇のスター女優となりました。

そして、新劇のスターとして各地を巡業するようになりますが、この地方巡業中、嘉子は今度は共演した山田隆弥(やまだたかや)という人物と愛人関係になります。

山田隆弥は1890年(明治23年)埼玉県生まれで、嘉子よりも12才も年上。文芸協会の坪内逍遥に師事し、坪内が自宅に設立した演劇研究所の第1期生であり、松井須磨子の同期に当たります。嘉子らと「舞台協会」を立ち上げ、上述の「出家とその弟子」で嘉子と共演し、その演技が高く評価され、名声を得ていました。

どういう人物であったのか調べてみましたが、あまり詳しい記録がありません。その後日活向島撮影所の映画に5本ほど出演したあと、西宮の東亜キネマ甲陽撮影所製作の映画などにも出演しています。

しかし、40歳代後半以降は全く映画や舞台には登場していません。昭和53年に87才で没していますから、何等かの理由で若かりしころに俳優としての自分に見切りをつけ、その後別の人生を歩んだのでしょう。

映画女優として

1922年(大正11年)「日活向島撮影所」の衣笠貞之助などの女形を中心とする大物俳優らが、女優を優先して採用するという会社の方針に反発し、「国活(国際活映株式会社)」に移籍してしまいます。

このころ、日活向島撮影所は日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作しており、ここで製作された映画作品の配給を日活本社が行っていました。

新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれており、これに対して国活は、日活で元営業部に所属し、日活と袂を切って独立した小林喜三郎氏が率いる新進の映画会社で、日活をライバル視していました。

日活向島はこの引き抜きの穴を埋めるため、このころ「舞台協会」に所属し、そのころめざましい活躍をしていた嘉子やこのころ新進気鋭の女優で14才だった夏川静江などと契約します。

ちなみに夏川静江はその後清純派女優として成功し、戦後は新東宝映画などの各社の映画にも出演しましたが、その後は主に母親役で、1980年代にいたるまで映画やテレビに活躍した人です。1999年に亡くなっていますが、顔写真を見ると、ああこの人か、と思い出す人も多いと思います。

そして、日活における嘉子の第一回作品が、戯曲「出家とその弟子(倉田百三作)」をベースにした1923年(大正12年)の映画、「髑髏の舞」でした。この当時まだ日本映画はサイレント(無声映画)の時代でしたが、愛欲心理描写を売りにしたこの大作で嘉子は町娘を演じ、映画は大ヒット。映画でも一躍スターとなりました。

嘉子は、この後も舞台協会の主宰する舞台への出演の傍ら、日活向島などの映画会社の映画に出演を続けていましたが、この年(大正12年)の9月1日に関東大震災が勃発。これにより、日活向島が閉鎖してしまい、頼みの綱の舞台でも不入りが続いたため、多額の借金を抱えるようになりました。

このころもまだ嘉子は愛人の山田隆弥と関係を続けており、このころ山田は嘉子に結婚を申し込みましたが、その山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が発覚。この妻と分かれてほしいと嘉子は懇願しますが、山田の煮え切らない態度に悩むようになります。

このころ、山田や嘉子が所属する舞台協会は、日活向島と提携して映画を製作していましたが、嘉子は、この山田とそのパトロン妻へのあてつけのつもりで、日活向島からの次回作における出演を拒否し、日活京都撮影所と契約。

さらに、舞台協会の借金を返済するため、日活京都からその出演料を前借りし借金を返済したため、一座を救うため身を売った「大正お軽」と新聞各紙が騒ぎたてました。

「お軽」とは、江戸時代の浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」中に出てくるある判官に仕える腰元の名前で、そのストーリーとしては夫のピンチのために祇園の遊女となるというもの。

このお軽という女性は実在の人物だったらしく、夫の窮地を救ったということで江戸庶民の賞賛を得たということですから、嘉子が新聞に騒がれたのも、夫ならぬ愛人の山田のピンチを身を捨てて救ったと解釈されたためであり、必ずしも悪い評価ではなかったものと思われます。

1925年(大正14年)、嘉子は映画「街の手品師」に主演。この映画では、もともと舞台出身だった嘉子が、自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。しかし、出来上がった作品における嘉子の演技は「完璧に達せる」という高い評価を得ます。

この頃、父の武雄は樺太の「樺太民友新聞」に勤めており、樺太庁大泊町で母の八重、そして嘉子の息子と一緒に住んでいたと思われます。しかし、生活は苦しかったらしく、映画で成功したと聞いた父が嘉子を訪ねて京都までやってきました。

映画「街の手品師」で高い評価を得た嘉子でしたが、一本の映画だけでは十分な収入は得られず、そんな折の両親からの無心に対し、「給料の大半は借金返済に回され、身売りした女郎に変わりが無い」と深刻に悩みつつも、これを用立ててやっています。

続く出演映画、「大地は微笑む」は、溝口健二他の監督によるオムニバス形式で、日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマでした。この当時は大作といわれましたが、嘉子が出演した日活版の評価が最も高い評価を得ました。

このころ、山田隆弥は日活向島と手を切り、東亜キネマの専属になっていました。そしてこの山田の内縁の妻であるというスキャンダルが世間に知られるようになっていたにもかかわらず、「大地は微笑む」での嘉子の演技の評価は高く、この年(大正14年)の映画女優人気投票でトップの座を獲得しました。

この年は結局、計9本の映画に出演することになり、嘉子は文字通り映画界におけるトップ女優としての地位を獲得したのでした。

しかし、そんな中、かつての恋人であり、二人の間に一児を設けた服部義治が突然自らの命を絶つという事件が起こります。山田隆弥と嘉子が愛人関係となったことが公になったことを知ったためといわれ、二人の中を妬んだための自殺といわれています。鉄道自殺でした。

二人の間にできた子供は自分の弟として両親の加護の元にすくすくと成長しており、服部とは完全に縁が切れていると割り切っていたはずの嘉子ですが、その死にはさぞかし心が痛んだことでしょう。

そうした中においても、翌年の1926年(昭和元年)に嘉子は、キネマ旬報ベストテン2位となった「日輪」(村田実監督)他7本の映画に主演。

そして、この年の講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」と発言するなど、スターとしての「人権宣言」をした初の女優としてさらに注目を浴びるようになります。

更に翌年の1927年(昭和2年)の映画「彼をめぐる五人の女」でも主演をこなし、この映画もベストテン2位となります。

それまでの奥ゆかしいイメージの日本の女優と異なり、モダンで新しい時代を予感させる奔放なヒロイン像は、その頃から相次ぐ戦争に突入していく暗い世相の日本の中にあって、新鮮な驚きをもって人々の賞賛を得ていくことになります。

しかし、そんなトップ女優としての絶頂期にありながら、生来の自由奔放な性格はまた新たなスキャンダルを引き起こし、それはまた、やがて来るべきトーキー時代の苦闘と極寒ソビエトへの逃避行へとつながっていくのです(続く)。

宇宙エレベーターのお話


先日、中国北部の万里の長城ツアーで年配の方が三人も亡くなるという痛ましい事件がありました。急激な天候の変化に対応できる装備を持っていらっしゃらなかったことが原因のひとつのようです。

チベット出身の山に慣れたガイドさんがいたようですが、このガイドさんは中国当局がこの地への観光客への立ち入りを禁止していたということを果たして知っていたのでしょうか。

また、ガイドとはいえ、見ず知らずの他人に自分の命を託し、知らなかったとはいえ危険な場所に立ち入ったという点においては、亡くなった方々の自己管理や自己責任の面でやはり弱さがあったと言わざるを得ません。

しかし、それ以上にツアーを提供する側の旅行会社側に大きな問題があったことは間違いありません。「ツアー」という商品を企画しておきながら、売り出した側が現地の下見もせず、危険な場所であると認識していなかった、つまり商品の中身を売主が十分に把握していなかったというのは言語道断です。

「前科」もあるということで、こういう会社が他にもたくさん野放しになっているとすれば、こういう業者に認可を下した行政側も責任を問われてもしかたがないと思います。

行政側の責任といえば、シンドラーエレベーターの事故も同様の臭いがします。こちらも前科があるということで、この業者の運営再開を許可した運輸局は何をやっていたのだと大きな批判が出ています。

この二つの事件に共通するのは、いずれも業者側が売り出した「商品」のことを十分に把握していなかったという点であり、またどちらも人の命に係わるものであったという点です。

先日、テレビでどちらかの有識者さんがおっしゃっていましたが、日本のメーカーの多くは(すべてとはいいませんが)、商品を売ったあとのアフターケアをかなり重視しているということです。

顧客に買ってもらったものに不具合があれば、いずれその評価は他の自社製品にも返ってきます。アフターケアをしっかりやって、自社で売った商品の不具合はとことん直していく、というのが日本製品の良いところだ、とその方はおっしゃっていましたが、私も同感です。

先日、我が家でも冷蔵庫の調子がおかしくなり、メーカーに問い合わせ、系列会社の方が修理に来てくださいました。購入後5年以上も経っており、補償もきかない商品でしたが、懇切丁寧な対応をとっていただき、結局部品も無償で交換してもらいました。

タダで修理してもらったから言うわけではありませんが、こうしたことは欧米では考えにくいサービスだといいます。売ったら売りっぱなし、そういうメーカーが多いそうで、だからこそ日本のようなこういうキメの細かいアフターケアができる商品が世界でも評価されているわけです。

中国や韓国の製品が粗悪とはいいませんが、こうした「使う人のことを考えたモノづくり」はやはり日本のほうが上だし、世界に誇れるものだと思います。いずれこのような日本メーカーの良さが見直され、日本製品が復活する日も遠くないのではないのでしょうか。

もっとも、今回の一連の事故に見られるような悪質業者は徹底して懲らしめるべきです。人の命に係わる商品を、いい加減なチェックだけで済まして儲けようという輩は徹底的に排除して欲しいと思います。

宇宙エレベーター

さて、エレベーターつながり、ということで、今日は「宇宙エレベーター」というモノを話題にしてみたいと思います。

宇宙エレベータは、「軌道エレベータ」という呼び方もあるようですが、まだ公的な正式名称はありません。一般的には、地球などの惑星の表面から静止軌道以上まで伸びる「軌道」を持つエレベーターのことです。

宇宙空間への進出手段として構想されていますが、現状の技術レベルではその建造は極めて困難と考えられており、その構想のほとんどは「空想的」とまでいわれています。

しかし、かつては軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ素材が存在しなかったものの、理論的にその実現が可能な存在としてグラファイト・ウィスカー(人造黒鉛結晶を軽量の束にしたもので原子炉素材などに使われる)などが発見され、さらに20世紀末になってカーボンナノチューブが発見されたことにより、その早期の実現を目指した研究プロジェクトが発足しているそうです。

そのメカニズム

宇宙エレベーターでは、地上から静止軌道以上まで延びる塔や、レール、ケーブルなどに沿って運搬機が上下することで宇宙と地球の間の物資を輸送します。動力を直接ケーブル等に伝えることで、噴射剤の反動を利用するロケットよりも安全に、かつ遥かに低コストで宇宙に物資を送ることができると考えられています。

その概念は簡単です。静止軌道上の人工衛星を、重心を静止軌道上に留めたまま地上に達するまでケーブルを縦長に伸ばし、そのケーブルを伝って昇降することで、地上と宇宙空間を往復するだけです。その際、全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にもケーブルを伸ばしたり、十分な質量を持つアンカーを末端に設けます。


宇宙エレベータの概念図

ケーブルの全長は約10万km必要といわれ、下端(地上)、静止軌道、上端の三ヵ所に発着拠点が設けられます。上端のアンカーにおける移動速度はその高度における脱出速度を上回っているため、ここからは燃料なしでも地球周回軌道から脱して惑星間空間に飛び出すこともでき、ここを「外宇宙」への出発駅とすることもできます。

エレベータという呼称が使われていますが、地上のエレベータのように滑車を介して可動するケーブルで籠を動かすのではなく、固定されたケーブルを伝って籠が上下に移動します。ケーブルは下に行くほど重力が強まり遠心力が弱まる一方、上に行くほど重力が弱まり遠心力が強まるので、ケーブルのどの点においても張力がかかります。

その大きさは、その点より上の構造物に働く重力と遠心力の絶対値の差です。このため、ケーブルは一定の太さではなく、静止軌道から両端に向かって徐々に細くなっていく構造で、こうした構造を「テーパー構造」といいます(静止軌道上の「宇宙ステーション」部分が一番太くなる)。

ただし、地上から数kmの部分は風や雷の影響を避けるために10倍ほど太くし、さらに上空数百kmまではケーブルの構成物質が酸素原子と反応して劣化するのを防ぐために金属で薄くコーティングする必要があります。

荷物を上げ下げする際にコリオリ力(地球の自転による遠心力)が発生し、ケーブルを左右前後に揺さぶりますが、ケーブル自体が地球につなぎ止められているため全体が逆さの振り子状態で「しなり」、エレベーター全体は常に元の位置を維持することが可能です。

地上側の発着拠点(アース・ポート)は、赤道上が有利といわれます。赤道上であればケーブルにかかる張力を小さくできるためです。緯度が上がるほどケーブルにかかる張力が大きくなり、また赤道以外ではケーブルが地面に対して垂直にはならないため、赤道から極端に離れた場所に建設するのは難しくなります。

ただし、これは緯度だけを問題にした場合であり、それ以外にも、気象条件や周辺地域の政治的安定性など考慮すべきことは多く、また赤道は暑い場所であるため、ケーブルの振動や熱による伸縮への対策も必要です。

なお、静止軌道上には、多数の人工衛星や大きなスペースデブリ(宇宙ゴミ)が存在するため、これらとの衝突の回避などのために、アース・ポートは地上に固定するのではなく海上を移動可能なメガフロートなどにしたほうが、衝突の回避を制御しやすいのではないかという意見もあります。

ロケットなどとの比較

現在、地球上から宇宙空間へ人間や物資を運ぶ手段はスペースシャトルなどの化学ロケットしか存在しません。しかし、ロケットは、地球の重力に抗して宇宙空間まで重量物を移動させるために莫大な燃料を消費します。

また、燃料そのものが有害物質であったり、燃焼時に有毒物質を発生したりして、環境を汚染する場合もあり、爆音や有毒ガスの発生以外にも、信頼性や事故発生時の安全措置の面でも不安があります。

このため、将来的に大量の物資・人員を輸送することを念頭に置いた場合、経済的で無公害の輸送手段が望まれ、現在、ロケットに代わるさまざまな輸送手段が検討されており、宇宙エレベータもその一つの候補です。

籠の昇降には電気動力を使い、ロケットのように燃料を運び上げる必要がないため、一度に宇宙空間に運び出す、または宇宙から運び降ろす荷を大幅に増やすことができる可能性があります。

また、上るときに消費した電力は位置エネルギーとして保存されているので、下りで回生ブレーキを使って位置エネルギーを回収すれば、エネルギーの損失がほとんどなく、運転費用が非常に安くて済みます。

ある試算によると、現行ロケットの場合、1ポンドあたりの打ち上げ費用が4~5万ドルなのに対し、軌道エレベータの場合たったの100ドル(1kg当たり220ドル=2万円程度)で済むといいます。

電力供給に関しては、昇降機にパラボラアンテナを装備してマイクロ波ないしは遠赤外レーザーの形で送電する方法などが考えられており、加えて人工衛星やISS(国際宇宙ステーション)などでも使用されている太陽電池や燃料電池も流用できると予想されています。

環境への影響や安全面などを考慮して、ケーブルを通じて供給するべきだという意見もあるようですが、もしカーボンナノチューブを使うとすれば、この素材には電気の十分な伝導性がないため、実用化は難しくなります。

昇降機がケーブルと接触した状態のまま動く場合、その速さは毎時200km程度が想定されていて、現在検討されている10万キロの長さのケーブル上を通り、この速度で「アース・ポート」から静止軌道まで達するためには約1週間までかかり、さらにその上端のアンカーポイントまでは更に5日間もかかる計算です。

エレベータに乗る人は、宇宙飛行士のような特別な訓練を受けなくても宇宙に行くことができますが、移動時間がかかるため、利用者にストレスを与えないように、昇降用の駕籠(昇降機)には高い居住性を持たせる必要があるといわれています。

リニアモーターなどを使用すればもっと時間を短縮でき、例えば昇りのとき1Gで加速し、中間点からは1Gで減速すると約1時間で静止軌道に到着できるそうです。

ただし、この場合、中間地点での速度は時速64000kmにも達するそうで、この速度に昇降機やケーブルが耐えられるかどうかがはなはだ疑問視されていて、今のところ、リニアモータは検討対象外ということのようです。

ちなみに、ISS(国際宇宙ステーション)は地上から一番近いところで高度278 km、遠いところで高度460 kmぐらいのところの軌道を回っており、この程度の高度でよければ、毎時200km程度の速度でもごく短時間に到達できるそうです。

その検討の歴史

宇宙エレベータの着想は、かなり昔からあるようで、ロシア人で「宇宙旅行の父」と呼ばれたコンスタンチン・ツィオルコフスキ博士が1895年に自著の中で記述しているのが一番古いそうです。

1970年代ころから軌道エレベータの材料に関する研究が始まり、その結果、上空に行くに従い重力が小さくなり、かつ遠心力が強くなることを考慮すると、一様な重力場においてこれが切れないような太さのケーブルを想定してその長さは4960kmが必要という算出結果が出ました。ただし、この数値は鋼鉄を想定した場合であり、現実的ではないとされました。

そのため、長い間、宇宙エレベータはSFの素材や未来の工学として概念的なものとして扱われてきただけでしたが、1982年になって、理論的には宇宙エレベータを建造できる強度のグラファイト・ウィスカーが発見され、さらに1991年に極めて高い強度を持つカーボンナノチューブが発見されたことにより、実用化可能と言われるようになりました。

NASAなどは、宇宙エレベータの実現を本気で考えているようで、2031年10月27日の開通を目指し1メートル幅のカーボンナノチューブでできたリボンを、赤道上の海上プラットフォーム上から10万キロ上空まで伸ばすプロジェクトを、全米宇宙協会とともに進めているそうです。

また同じアメリカのLiftPort社という会社もNASAからの援助を受けて宇宙エレベータの早期実現へ向けた研究開発を行っているそうで、実際LiftPort社は2005年9月に同社が開発中の宇宙エレベータの上空での昇降テストを行いました。

この時のテストは、カーボンナノチューブではないケーブルを使用して気球に接続し、次第に気球の高度を上げていくというものでしたが、3回目で高度約1,000フィート(約304.8メートル)に達したそうです。

日本においても、「宇宙エレベーター協会」というのができているそうで、2009年から同協会主催の宇宙エレベーター技術競技会が開かれています。ルールは毎年改定され、2010年第2回大会での競技規則は上空の気球から幅5cmのベルト状のテザー(長くて強靭なヒモ)を垂らし、高度300mまで上昇・下降するというものでした。

ゼネコン大手の「大林組」は建設会社としての視点から、宇宙エレベーターの可能性を探る構想を、2012年2月の広報誌「季刊大林」の中で掲載し、「2050年ころの実現を目指す」としたことから話題を集め、新聞各紙の科学情報欄を賑わせました。

建造方法

宇宙エレベーターの具体的な建造方法としては、長大な吊り橋を建設する場合と同じ方法を採ることなどが提唱されています。まず静止軌道上に人工衛星を設置し、地球側にケーブルを少しずつ下ろしていきます。この場合、ケーブル自体の重さによって重心が静止軌道から外れないように、反対側のアンカー側にもケーブルを伸ばします。

そして地球側に伸ばしたケーブルが地上に達すると、それをガイドにしてケーブルをさらに何本も張って太くしていき、エレベータの最終形を目指します。

なお、カーボンナノチューブは軽量なので、かなり長いガイド用の細いケーブルと必要最小限の付帯設備だけならば、これをロケットに積み込んで静止軌道まで打ち上げることも不可能ではないと考えられています。

どんな工法をとるにせよ、現在の構想では、最終的に必要なケーブルの量は長さ1kmあたり7kg、アンカーまで含めた全体の質量は約1400トンだそうで、建設費は100億ドルから200億ドル(1兆円から2兆円)程度になるとか。ISS(国際宇宙ステーション)の建設・運用には1000億USドル以上の費用がかかっていますが、これに比べればかなり「格安」といえます。

技術的課題

とはいえ、宇宙エレベータを実際に建設するためには、乗り越えなければならない技術的課題が多数あります。

一番心配なのはやはりケーブルの材料で、材料の強度の点では、従来の最強クラスの素材であったピアノ線やケブラー繊維では静止衛星軌道から垂らすには強度がまったく足りませんでした。しかし、カーボンナノチューブ(CNT)の発見により、少なくとも理論上は可能性が見えてきたといえます。

ただし、ケーブルの自重を支えるために必要な比強度(強度/密度)は現在のCNTの2倍の比強度のものが必要考えられており、その開発が必要になります。

CNTの研究では、日本は世界の最先端を行っていると言われており、経済産業省の研究機関、産業技術総合研究所では既に、この強度に近づくことのできる非常に高品質なカーボンナノチューブの生成に成功しているといいます。

また、ケーブル材料としての決め手は従来ではカーボンナノチューブのみと考えられてきましたが、近年、「コロッサルカーボンチューブ」と呼ばれる新物質が開発され、この物質を使えば、破断長は6000kmのケーブルの制作も可能といわれ、地上から静止軌道上までのエレベータケーブルの最低破断長の条件を満たすと考えられています。

ただ、CNTやこれらの新物質を使って、外気圏や宇宙空間などの「極環境」の下で建造物を造るための構造計算や維持運用についてはまったくの白紙状態であり、強い宇宙線にさらされる外宇宙では物性の変化も予測されます。このため、実際のエレベータステーションの建造の前に、そのノウハウの蓄積のための十分な実験と試用の期間が必要と考えられています。

ケーブルを昇降させる昇降機の構造も問題です。エレベータのケーブルにラック式鉄道の様なラック(歯)を設けるような原始的な方法はほぼ不可能であり、昇降機はケーブルとの摩擦のみで地球の重力に逆らって昇降を行う必要があります。

駆動系に十分なトルクを得るには減速ギアなどで機構が複雑になり、重量や故障率を増加させてしまうため、いかにシンプルで軽量な機構で十分な昇降能力を実現するかが課題となっています。

しかし、この問題に関しては、ケーブル材料に比べれば遙かに現実的な課題であり、他分野での技術応用も見込めるため、日本でも大学や研究機関も含めて複数の研究者が既に開発を行っています。前述の宇宙エレベーター協会主宰の競技会でも、気球から吊したテープに小型モデルを昇らせる技術競技が行われたそうです。

このほか、昇降機を動かすエネルギーも課題です。前述のようにマイクロ波もしくは遠赤外レーザーの形で昇降機に送電する方法、太陽電池による発電、搭載型燃料による発電などの方法が考えられています。

これらのうちどのエネルギーを使うかは、昇降機の規模や構造によっても違ってきますが、バックアップの意味も含めて複合的な供給が望ましいと考えられいるようです。

レーザーによる供給については高高度における減衰と十分なエネルギーが得られるか疑問点が残ります。太陽電池の場合、非常に大きなパネルが必要とされます。

搭載型燃料については、燃料電池が有力候補ですが、燃料電池は既に自動車各メーカーが開発合戦を続けており、宇宙エレベータに使えるようなものは将来的には火力発電にも使えるのではないかと期待されています。

建造可能性以外の課題

建造の可能姓などの技術的な問題以外にも課題は山積みです。まず、維持費。宇宙空間は相当に過酷な環境であり、宇宙エレベータのような長大な建造物も日光や宇宙線などにより材料の劣化にさらされる懸念があり、スペースデブリとの衝突による破損も考慮に入れなければなりません。

宇宙エレベータのようなまだ誰も建造したことがないような長大な建造物を維持修繕していくのにどの程度の費用がかかるかは全くの未知数です。建設費用と維持費用が、はたして宇宙エレベータ建造が与える利便に見合うかどうかという、費用対効果の問題もあります。

次に、安全上の問題点があります。宇宙エレベータに対する安全上の脅威としては、航空機やシャトル、人工衛星などとの衝突が考えられます。エレベータのケーブルやシャフトの一部でも損傷した場合、損傷箇所に極めて大きな応力がかかって、エレベータ全体が崩壊する可能性があります。

衝突事故を防ぐためには、宇宙エレベータの周囲の広範囲を飛行禁止区域として設定し、レーダーなどで常時監視することが必要です。

宇宙エレベータの軌道は長い弦とみなせるので、荷物を上げ下げ時や天候悪化のときの震動はこれをある程度予測計算することが可能であり、「弦」を自由にコンピュータ制御することによって震動を打ち消すとともに、弦を動かして人工衛星やスペースデブリとの衝突を回避できると考えられています。

ただし、ある程度大きなスペースデブリは軌道がわかるため、上記の方法で回避できますが、小さなものは衝突を避けられません。宇宙エレベータ自体への影響は軽微で済むとしても、宇宙エレベータの昇降機や乗客・貨物への悪影響が考えられます。

このため、小さなものが衝突することを前提とし、スペースシャトルのように複数の昇降機を用意し、一度使った昇降機を修理して再度使うということなども考えられています。

もし宇宙エレベータがかなり大きなものになり、質量も大きくなれば、万一これが落下した場合、地上の広範囲に被害をもたらす可能性もあります。

ただ、全米宇宙協会などが考案しているような案では昇降機はそれほど巨大化しない構造で、ケーブルもラップフィルム状の薄いものを想定しており、このことから落下時の空気抵抗が大きく、万一落下した場合でも地上に大きな衝撃を与えることはなく、重大な影響を及ぼす可能性は少ないと考えられています。

また、宇宙エレベータは縦にきわめて長大な建造物であり、材質の強度と遠心力や重力などのバランスの下に成り立っているため、テロリストなどによる破壊工作に対してはかなり脆弱な構造物であるという指摘もされています。

類似の問題として、軍事衛星との衝突の可能性も考えられます。軍事衛星は機密上存在自体が秘匿されることもあり、特に低高度を飛ぶ偵察衛星などは周回時間も短く、想定範囲外の衝突が発生する恐れがあります。

これらの「秘密衛星」による衝突をすべて回避するようにコントロールするのは困難ですし、他国の偵察活動の妨げになるような建造物を造ることに異を唱える国家が出てくる可能性もあります。

このほか考えられるのが環境への影響です。宇宙エレベータのような大規模構造物が環境にどのような影響を与えるかはまだ全くわかっていないという状況です。ただし宇宙エレベータのケーブルは極めて細いため、大気の擾乱や熱伝導による気温変化への影響は小さいだろうと考えられています。

アース・ポート建設地点の生態系の変化や、建造に伴う廃棄物による公害なども考えられますが、宇宙エレベータが完成すれば有害物質や騒音を撒き散らすロケットの打ち上げは激減し、相対的には環境によい影響をもたらすのではないか、という意見のほうが多いようです。

いずれにせよ現段階では環境問題への影響は想像の域を出ず、このためこの分野に関しては本格的な研究にはまだ着手されておらず、ましてや定量的に環境への影響を示すことはできません。

政治的課題というのもあります。宇宙エレベータはロケットに比べて遥かに安価な輸送手段ですが、赤道上が有利など建設できる場所が限られています。このため強力な国家や経済ブロックの存在は、アース・ポートの建設において、領海・領空の使用権、宇宙エレベータの権利などが生じ、国際的な紛争が起こる可能性もあります。

しかし、南局大陸の平和利用や、ISSのような国際的な取り組みが成功している時代ですから、技術的な問題さえクリアーできれば、将来的にも各国が協調して宇宙エレベータを建設することは可能でしょう。

…………

以上、長々と宇宙エレベーターについて書いてきましたが、いかがだったでしょう。私も最初は、???実現可能なの?という感じでしたが、書き進めているうちに不可能ではないような気がしてきました。

1957年に打ち上げられた世界初の人工衛星スプートニク1号は、大きさわずか58cm、重さは83kgしかありませんでしたが、いまや世界最大のロケットなら10トンちかい重量物を打ちあげられるといいます。

ましてや、国際宇宙ステーションのように何度も部品を打ちあげて大きな構造物を地球周回軌道上に造ることができる時代です。いつか、宇宙エレベーターも実用化するに違いありません。

スプートニクから約60年が経ちました。私は60年後に生きているでしょうか。生きていなくてもいいですから、それまでに実用化していることを願いましょう。

緒明菊三郎のこと ~旧戸田村(沼津市)

以前、このブログで三島駅前の「楽寿園」のことを話題にしましたが、その時この庭園を朝鮮王朝の李王家から買い取った、「緒明圭造(おあけけいぞう)」なる人物がいることを書きました。

この緒明圭造は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後造船王になったという「緒明菊三郎」の子孫ではないかとも書きましたが、最近これに関する記事をみつけ、どうやら緒明圭造は緒明菊三郎の娘婿だったらしい、ということが分かりました。

どういう経緯で緒明家に養子に入ったのかまでは分かりませんが、これで緒明菊三郎と緒明圭造がつながり、この当時の緒明家の系図がはっきりしました。

つまり、江戸時代に船大工だった嘉吉の息子が、菊三郎、その娘婿が圭造、そしてこの圭造の子孫は、今も三島に在住されており、現在も三島市の名士、ということのようです。

伊豆の戸田で宮大工をされている方のホームページによれば、楽寿園の東側にある「三島市民会館は」はこの緒明家の御子孫の方の土地で、これを三島市に貸しているそうで、また緒明家は静岡銀行の大株主で、かつてその頭取を勤めた方を排出されたこともあり、しかも緒明家の今の御当主のご母堂は西郷隆盛の孫娘さんということです。

これらのことから、この緒明家の「開祖」ともいうべき「緒明菊三郎」氏は、どうやらその当時の明治政府の要人と関わりの中で、大きな財を得るようになった人物であったことがうかがわれます。その人物関係の詳細はまだよく分からないことも多いのですが、とりあえず今現在で私が把握していることを以下にまとめておきたいと思います。

まず、緒明菊三郎のお父さんの嘉吉です。江戸時代に戸田の船大工で、この当時はまだ平民ですから、緒明姓は名乗っていません。これも以前このブログで紹介した戸田造船資料博物館で公開されている資料の中に、ロシアのプチャーチン提督の帰国のために造られた「ヘダ号」の建造に関わった大工7人の名前がありますが、このひとりが、この嘉吉です。

ヘダ号の造船は、この7人だけで行われたわけではなく、そのほかにも数百人単位の大工が関わりましたが、この7人は他の大工の「世話人」ということで選ばれたようで、要するに大工頭、頭領という立場だったようです。

ほかに、上田寅吉、佐山太郎兵衛、鈴木七助、渡辺金右衛門、堤藤吉、石原藤造の名前がありますが、このうち、上田寅吉がリーダー格です。

この上田寅吉はヘダ号の建造に加わったのち、江戸に「長崎海軍伝習所」が開設されると、幕府から「蒸気船製作習得」の命を受け、この伝習所に入所。さらにその後、幕末の1862年(文久2年)から5年間にわたって、榎本武揚や明治政府で重職を歴任した「肥田浜五郎」らと共に「職方」、つまり「技術担当」ということでオランダに留学しています。

オランダから帰国後は、学んできた西洋の造船術を国内で他の技術者に伝授していましたが、やがて幕末の動乱に巻き込まれます。そして榎本武揚に従って箱館戦争にまで参加しますが、維新後許されて、1870年(明治3年)から明治政府に出仕。

その後横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)で造船技術者として、国産軍艦の「天城」「清輝」などの多くの明治海軍の艦船製造に従事しました。

戸田の造船郷土資料博物館前には上田寅吉を顕彰した「大工士碑」があります。また、ここから2kmほど離れた牛ヶ洞には、「造船記念碑」が立っており、碑に刻まれた顕彰の言葉のなかにも「上田寅吉」の名が記されており、戸田の人々にとっては誇るべき郷土の偉人とされているようです。

この上田寅吉と嘉吉は仲がよかったようで、「ヘダ号」の造船時には、嘉吉の息子の菊次郎を手元に置き、そのころまだ10才程度だった菊次郎に船大工としての指南をしています。

後年、こうした上田と交流のあった嘉吉は息子の菊次郎を最新の造船技術を学ばせるため、上田の元に送っていたようです。そしてそこで菊次郎は榎本武揚とも知り合ったようで、戊辰戦争で幕府が新政府軍に敗れた際、幕府軍艦である「開陽丸」に座上して大阪から江戸へ引き上げる榎本に、菊次郎も修理工として付き従っています。

しかし、「蝦夷共和国」終焉まで榎本と行動をともにした上田寅吉とは異なり、菊次郎は箱館戦争には参加していません。このころ父の嘉吉の病気が悪化していたためと伝えられています。

上田寅吉とともにヘダ号の造船のリーダーとして活躍した嘉吉ですが、ヘダ号が建造された江戸末期の時代は、大工頭とはいえ生計は大変貧しく、船大工をしても日銭しか入らないため、そのお母さんが内職をして家計を助けていたといいます。

先だっての戸田の宮大工さんのHPによれば、古着をさばいて「鼻緒」にする内職をしていたそうで、一晩中この鼻緒作りを続け、夜明けを迎えることもしばしばだったようです。

明治になると、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、1870年(明治3年)に平民も苗字を持つことが許される「平民苗字許可令」出され、1875年(明治8年)からは、平民すべてが苗字をつけるよう義務付ける法令もでました。

このとき、大工の嘉吉の家でもその苗字を何にしようかと色々と考えましたが、上述のように母が「夜明け」まで鼻緒の内職をしていたことにちなみ、「緒明」という名字にしたといいます。まるでウソのような話ですが、「緒明」という名前は全国的にみてもほとんどないことから、事実かもしれません。

こうして、嘉吉の息子であった、菊三郎もこのころから、緒明菊三郎と名乗るようになったようです。菊三郎は1845年(弘化2年)生まれですから、明治3年には25才になっていたはずです。

このころ、父親の嘉吉がどういう仕事をしていたのか不明ですが、上田寅吉とともにヘダ号造船に関わったことでもあり、おそらくは嘉吉を初めとする戸田の大工たちも横須賀に呼ばれ、上田寅吉から最新の造船技術を伝授されながら、海軍の艦船の製造に携わっていたのではないでしょうか。

このころ榎本武揚は、明治5年に新政府から許されて開拓使となった後、東京に帰任。明治7年には海軍中将となり、駐露特命全権公使としてロシアに渡って千島・樺太条約を結び帰国。翌年には海軍卿に任じられています。

こうした海軍での要職を務めるようになっていた榎本の紹介か、あるいは横須賀造船所で新しい造船技術を駆使して新造船に励んでいた上田寅吉の紹介で、菊三郎もまた横須賀、あるいは東京に出てきていたと思われます。

現在、横須賀に「緒明山」という公園がありますが、ここはその昔、緒明菊三郎が持っていた土地だそうで、横須賀にも縁が深かった菊三郎が後年財を成してから購入したものと思われます。

しかし、その父の嘉吉の収入は明治になってもまだ乏しく、このころの菊次郎はそうした父に頼ることもできず、東京で暮らし始めたころは生活も苦しかったことでしょう。

あるいは父とともに横須賀造船所で働いていたのかもしれませんが、厳しい生活の中で苦労して貯めたお金で、小さな和船とこれに乗せる蒸気エンジンを苦労して入手することに成功します。

この当時はまだ庶民にとって蒸気で走る船などというものは夢の乗り物であり、これが水の上を走る姿はさぞかし人々の耳目を集めたに違いありません。菊五郎青年の偉いところは、これをただ走らせるだけでなく、「乗船料」をとって、人を乗せれば儲かるのではないか、と考えたところです。

そして、この蒸気和船を隅田川に持って行き、これにひとり一回「一銭」で乗れるという「一銭蒸気船」なる商売を始めました。このころ隅田川に浮かぶ船のほとんどは手漕ぎや帆かけの和舟でしかなかったはずで、そんな中をポンポンと軽やかな音を立てて快走する蒸気船に人々は殺到したようです。

連日行列ができるほどの大繁盛となり、菊三郎はたいへんなお金持ちになっていきました。

このころ、榎本武揚は、かつて同じ伊豆出身の代官である江川太郎左衛門が建造したお台場のうち、4号お台場が何も使われていないので、明治政府が手放そうとしているらしいという話を耳にします。

維新後の明治政府は、このころたいへんな財政窮乏状態にあり、近代国家建設のために国内だけの資金では足りず、イギリスやフランスなどの諸外国からも借金をしまくっていました。旧幕府が保有していたもので売って金になるものは片っ端から売り払っていたようで、使いどころもなく草ぼうぼうになっていたお台場もその候補のひとつでした。

このころ海軍卿にまで上り詰めていた榎本武揚はこの話を聞き、上田寅吉に相談したところ、それなら一銭蒸気船で大儲けしている菊三郎にここを買わせ、そこで我が国初の本格的な西洋式造船所を造ろうと上田が提案しました。

こうして4号お台場に造られたのが「緒明造船所」です。しかし、このお台場を菊三郎は購入したわけではなく、明治政府からの「貸し出し」ということで格安に入手したようです。そういうことができる人物といえばやはり榎本武揚以外には考えられず、その入手にあたって裏で暗躍したに違いありません。

現在での場所は北品川の天王州アイル駅の前にある「第一ホテル」の敷地がそれだそうです。この造船所はその後昭和14年ころまで操業されましたが、太平洋戦争に突入する前に軍備増強をしたかった昭和海軍も金欠であったため、とんでもない安い金額でこの造船所を緒明家から買い取ったという話が残っています。

ちなみに、港区の東京海洋大学の構内に保管され、国の重要文化財に指定されている帆船「明治丸」は、明治政府がイギリスから購入した船ですが、この船のマストを当初の2本マストから3本マストに改造したときの責任者は緒明菊三郎という記録が残っており、改造されたのもこの緒明造船所ではないかと思われます。

榎本武揚の部下に「塚原周造」という人がいましたが、この人は、下総豊田郡(茨城県下妻市)出身で、江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学び、明治政府にあっては大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進め、1886年(明治19年)には逓信省管船局長となりました。

このころ、榎本武揚が箱館戦争当時の同僚で、明治後は農商務大臣になっていた荒井郁之助が、箱館(函館)で討ち死にした戦友の中島三郎助という人物の供養のために造船所の創設を提唱しました。

中島三郎助は、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた人で、その後築地の軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、浦賀にあった長川という川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行うなどの功績のあった人です。

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁であった榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に加わりました。「蝦夷共和国」下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤めましたが、箱館市中が新政府軍に占領された後、本陣五稜郭降伏2日前に二人の息子とともに戦死。享年49才でした。

この荒井郁之助の提案に榎本武揚も賛成し、榎本の部下であった塚原にも声がかかり、榎本、荒井、塚原の三人は会社設立に向け奔走しました。この結果、浦賀の豪商の臼井儀兵衛と、緒明造船所社長になっていた緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立することになりました。

後年、さらにこの会社には後の浅野セメント社長になる浅野総一郎らも参加し、1897年(明治30年)、日本で最初のドライドックを保有する浦賀船渠(ドック)株式会社(現東洋汽船)が設立されました。

こうして、菊三郎は、、自らが興した緒明造船所の経営の傍ら、浦賀船渠などの経営にも参画し、造船業を中心に多角的な事業展開を図っていきました、造船のほかにも海運業を手掛けるようになり、このほかにも銅鉱石の採掘と精錬所の経営、伊豆や関東各地での緑林や開墾なども行うようになりました。

最盛期に菊三郎の所有した汽船の総排水量は3万tにおよんだそうで、明治時代における文字通りの造船王・海運王になりました。

ところが、お台場に造った造船所は、その後、焼失してしまいます。原因は不明ですが、同じ地に再建をしようとしたところ、政府からの貸地であったことから、明治政府からその継続借地の許可が下りなかったようで、この地での再建をあきらめます。

そして、移転を繰り返したのち、1903年(明治36年)になって三重県の志摩郡鳥羽町安楽島(現鳥羽市)に造船所を移す計画を立てました。

この地は遠浅の湿地帯だったようですが、ここに流れ込む「加茂川」という川の下流の浅瀬を埋め立て、ドック、倉庫等を建設し、7~8000トン級の汽船を4~5艘を横付けにし、参宮線も延長するといった遠大な計画でした。そして、大規模な埋立工事を開始しましたが、泥の深い海に堤防を築く事はかなりの難工事だったようです。

三重県関連のホームページ「三重県案内」の中の資料には「現に工事中に属す、今や湾内の浚渫及埋立を企て大船渠数個を設け倉庫を建設し・・・資を投すること百数十万」とあり、多くの経費を投入して工事を進めていたことがわかります。

その後も工事は続けられましたが、日露戦争で所有船が買い上げられてしまい、ついに工事が完工するのを見届けることもならず、菊三郎は、明治42年に死去。65才でした。

この干拓事業は、戦後農林省により再開され、昭和39年に完成しました。昭和45年には鳥羽市に払い下げられ、この土地には、「大明東町・西町」という名前がつけられました。この町名は「緒明」にちなんだものといわれています。

以上が緒明菊三郎に関するまとめです。緒明菊三郎という人物は、歴史上それほど有名な方ではなく、あまり資料のない中でのとりまとめなので苦労しましたが、なんとか形にしてみました。

まだまだ書ききれていない部分もあることでもあり、また後日新資料などを入手したら書き改めてみたいと思います。今日のところはここまでにさせていただきます。