齢を重ねたな、と思うことが多くなってきた。
いよいよ私の人生も佳境に入ってきたようだ。
そうした気分になるだろう、と予想していたわけではないが、今回の長期出張で読もうと、随筆に類する本を数冊持ってきた。
その中に、人生最後を迎える人たちの物語を綴ったものがある。
「病院で死ぬこと」と言うタイトルで、十年ほど前に映画にもなった。
著者は医師で、この本をきっかけに終末医療であるホスピスの専門医になった。
その人が関わることになった末期がん患者たちを通してのそれぞれの人生が語られているが、なにぶんテーマがテーマだけに重苦しい内容も多い。
なぜこんな暗い気分にさせるような本を買ったのかな、と思うのだが、背後で何かささやく人がいたのかもしれない。
そのためもあってか、生きてることの意味やありがたさを改めて考えさせられている。
同世代の知り合いの中で、病や障碍を持っている人もいる中、私はいたって元気である。
右手に関節症の火種は抱えているものの大きな痛みはなく、中国に来てからはダイエットや筋トレの甲斐もあって体調はよい。
…と、なぜこんなことを書きはじめたのか、とペンが止まった。
心の奥底をのぞいて改めて考えてみるに、要は齢ほどには老いていないということを誇りたいらしい。
昔は人生50年と言われた時代があった。それをはるかに超えても生きており、しかも同世代に比べれば中身の調子はすこぶる良い。
外見はともかく。
これだけ健康でいられるということは、つまり生かされている、ということであり、そのためのお役目がまだまだある、ということなのだろう。
いまのところ、ぽっくり死ぬような兆候はないわけであるが、ただ、これからさらに齢を重ねていくなかにおいて変転もあるかもしれない。
一転して死の病に冒される、ということもありうるわけで、それがあってもおかしくない年齢といえるのである。
とはいえ、病というものは年齢に関係なく訪れる。
前妻がそうだった。
周囲を愕然とさせたその彼女の死はしかし、私や関係する人々をより強くした。
と、今では心穏やかに振り返ることができるが、その当時の衝撃は言葉では言い表せない。
いずれまた同じようなことがあるに違いない。
しかし、そうした苦しみをいくつも経験することで、新たな衝撃は弱まっていく。
多大な困難にいくつも直面することで、その魂がより強固なものになっていくからだ。
凝固していくのか、あるいはその表面だけが固くなるのか、ともかく外からの衝撃に耐えられるようになっていく。
鎧のようなものを形成するのかもしれないし、なにか鱗のようなものなのかもしれない。
きらきらと光る無数の片鱗に覆われた球体が、光り輝いている、そんな映像が頭に浮かんでくる。
艱難に耐えて、磨きぬかれた人の魂はきっと輝きを纏って美しいに違いない。
ただ、いまの自分のものもそうか?と考えると、そうでないような気がする。
まだまだ、くすんだ灰色をしていることだろう。
残る時間でそれをどこまで輝かせるようにできるかが問題である。
その終焉のきらめきによって、私の人生が評価される。
あるいは、魂と言うものは、真珠のように貝殻の中でだんだんと成長していくものなのかもしれない。
真珠といえばまるいものを想像するが、形がいびつなものもある。
私のものも真円ではなく、ゆがんでいるように思う。
一般には流通に値しないものではある。
しかし、真珠には変わりない。
丸くない真珠であっても、普通以上の輝きを持ったものもあるはずだ。
形は整っている必要はない。
売り物ではないから。
むしろそのほうが個性があっていい。
いびつではある、しかし美しい輝き持っている。
そんな真珠のまま今生を終えたい。