佳木斯にて 

日本ではゴールデンウィークが終わり、沖縄は梅雨にはいったそうな。

ついこのあいだまでは、身近に起こっていることとして感じることができたのに、遠く離れたこの地ではなにか他人事のように思えます。

今の自分の関心事は何か、といえば、休みの今日何をしようかとか、来週の仕事のだんどりはどうかなどといった、身の回りのことばかりです。

いかにその環境にばかり左右されて生きているか、ということを改めて考えさせられてしまいます。

ここでの生活を終え、ふたたび伊豆へ戻ったら、またそこでの環境に染まるに違いありません。

同じことの繰り返しで何の成長もないな、と思ってしまうと、何か悲しくなってきます。

ここ最近、もっと違う人生があるのではないだろうか、そんなことをよく思います。

無論、修善寺での家内と猫一匹との生活は楽しいものであり、なににも代えがたいものです。

仕事のことを抜きにすれば、こんなにも恵まれた暮らしはこれまでにはなかったものといえるでしょう。

だがしかし、─これは家内ともよく話すことではあるのですが─ ここは終の棲家ではないよな、と感じています。

景色はすばらしいし、生活環境も悪くはない。水も食べ物もおいしいし、気候だっていい。

こんな住みやすいところはそうそうないはずなのですが、人生最後に住むところではないよな、とついつい思ってしまうのです。

なぜだろう、と考えていったときに、思い当たるのは、ここは我々にとってのふるさとではないから、ということ。

家内にとっては広島、私にとっては山口であって、幼少年時代を過ごし慣れ親しんだ環境といえばやはり、中国地方というくくりになります。

(不思議に思うのは、実はふたりとも広島生まれではなく、彼女が松江生まれ、私が大洲生まれで、それぞれがそこを出て広島で出会ったということですが)

気候や風土といったものを静岡と比べて、彼の地のほうが格段優れているというわけでもありません。

ただ、やはり育った環境というものは、そこへの回帰心を呼び起こすものらしく、時に無性に彼の地に帰りたくなります。

そこには何か魂を揺り動かすものがあるようです。







サケや渡り鳥と同じかもしれません。成長するために別の地で暮らしますが、やはりふるさとの地に帰っていきます。

生まれ故郷というものはどんな生物にとっても特別なものであるようです。

その理由はよくわかりませんが、本能という言葉がよく使われるから、きっとそうしたものなのでしょう。

帰巣本能というものがあり、生まれた場所や過去の場所に戻ろうとする行動が多くの動物にみられるそうな。

ヒトの場合は、動物にはない「感情」が、この帰巣本能に影響を与えるようです。

このため、ふるさとを恋しく思う気持ち、懐かしい気持ちが自然と生まれ、故郷に向かう意欲になるといいます。

では何を目指して帰っていくのでしょう。

海や山であったり、空気や臭い、街並みといったものかもしれません。

単独でこれ、とは言い表せないものであり、おそらくはそうした総合的なものなのでしょう。

方言や習慣、モノの考え方、暮らしぶり、といった人間的な要素も関係しているかもしれません。

今住んでいる静岡と比べて、いちいち意識はしていないものの、やはりどこかで、ふるさととは違うよな、と感じているようです。

さらに、なぜそこに帰りたいのか、というこころの中を探ってみました。

すると、居心地がいいから、という答えが浮かんできました。

理屈ではなく、そこにいること自体で落ち着くというか、不安感が消えるというのか、幸せ、というのとも少し違うのですが、安心感があるのです。

つまりはその風土が、既に自分の一部になっている、ということなのでしょう。

それを失っている状態が今であって、それを取り戻したいという思いがどこかにあるに違いありません。

そう、ふるさととは自分の体の一部なのです。

それを取り戻し、元あった自分に立ち返るには、そこへ行くしかありません。

ただ、ふるさとがない、という人もいるでしょう。

生まれた時からあちこちを転々として落ち着いたところがないという人もいて、そういう人はかわいそうだ、という話をよく聞きます。

ただ、これは少し違うと思います。

そういうひとたちは、たしかに体の中にそうして巣くう風土がなかったり、思い入れが小さかったりするかもしれません。

しかしだからといって不幸なわけではなく、いろんな場所に故郷があるわけで、うらやましい、という考え方もできます。

むしろ我々のほうが、一つの場所に縛られていて、かわいそう、と同情されるべきなのかもしれません。

ただ、それでもいい、強く帰りたいと思う場所があるなら、それこそその本能に従えばいいではないか、とも思います。

ストレスの多い社会に生きて一生を終えるより、自分がいちばん居心地が良いと思える場所で死ねるというのは幸せなことです。

魂が生まれ、健全に育った土地には、その魂をはぐくむ良い条件があったに違いありません。

そこへ帰ってそれがどんなものであるかを、再確認せよ、とハイアーセルフがささやいているようです。

中国に来てから2ヵ月が経ちました。

魂の原点を見つめ直すときが近づいている。そんな気がする今日この頃です。