関東甲信越は一昨日から梅雨に入りました。ブログの履歴を見ると、去年は6月8日に梅雨入りしたようなので、10日以上早いことになります。
梅雨入りが早ければ、梅雨明けもおそらく早いだろうということで、今年の夏はまた長く暑くなるのではと懸念されているようですが、果たしてどうでしょう。
伊豆での夏は既に去年経験しています。しかも猛暑といわれるほど暑かったようですから、それを難なく過ごせたのならば、今年の夏は楽勝さ、と思っているのですが、そうした目論見どおりになるかどうか。
さて、その一昨日、ちょうど60年前の5月28日といえば、堀辰雄の命日だったようです。1904年(明治37年)明治の東京生まれで、昭和初期に活躍した日本の作家です。
お父さんの堀浜之助は、広島藩の士族で裁判所勤め。母・西村志気は、東京の町家の娘でしたが、関東大震災の際に亡くなっており、このことはその後の彼の作品に大きな影響を与えたといいます。
府立三中から第一高等学校へ入学。ここでの同窓生には室生犀星や芥川龍之介がおり、彼らとはこのころから親友ともいえる関係を築くようになります。
その後、東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎など、これもまた後年有名となる文芸家達と知り合っており、小林秀雄や永井龍男らの同人誌「山繭」にも関係。このころの前衛文学であり、昭和文学を代表するプロレタリア文学派と芸術派という、二者の流れとのつながりをもちました。
堀辰雄の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっているようです。
1927年、23歳のとき、芥川龍之介が自殺。その報に接し、大きなショックを受けます。この頃の自身の周辺を書いた「聖家族」で1930年文壇デビュー。 しかし、肺結核を病み、軽井沢に療養することも多くなり、これが後年、ここを舞台にした作品を多く残すことにつながっていきました。
また、病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立ったようです。後年の作品「幼年時代」(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響が強くみられるといいます。
マルセル・プルーストというのは、フランスの作家で、パリで医者の息子として裕福な家に生まれました。パリ大学で法律、哲学を学びましたが、このあとはほとんど職に就かず遊んで暮らしていたといいます。このためあまり作品を残していませんが、30代から死の直前までに完成させた大作「失われた時を求めて」は名作といわれています。
プルースト自身の分身である「語り手」を作品に登場させ、そのの精神史に重ね合わせながらこの時代のフランスの世相「ベル・エポック」を描いた大作であり、複雑かつ重層な叙述と物語構成はその後のフランス文学の流れに決定的な影響を与えたといいます。
「ベル・エポック」というのは、19世紀中頃にフランスで栄えた「消費文化」です。プロイセン(ドイツ)との戦争に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、不安定な政治体制下にありました。
が、19世紀末までには産業革命も進み、プルーストが生きた時代には、ボン・マルシェ百貨店(世界最初の百貨店と言われている)などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになっていきました。
1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であり、いわばバブル期のような豪奢な時代です。単にフランス国内の現象としてではなく、この時代のヨーロッパ文化の総体とされることも多いようです。
19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリは、その歴史において最も華やかなりしころといえ、「ベル・エポック」とはその当時の文化を懐かしんで回顧して用いられる言葉でもあります。日本でいえば、大正時代の「大正ロマン(大正モダン)」に近い感覚でしょう。
そしてこのフランスの「良き時代」を描いた「失われた時を求めて」は、プルーストの代表作となり、ジョイス、カフカとともに20世紀を代表する作家として位置づけられているようになっています。
昭和初期に活躍した堀辰雄もまた、プルーストが憧れたベル・エポックと大正ロマンを重ね合わせていたかもしれず、自らをまた日本のプルーストになぞらえていたのかもしれません。
1933年(昭和8年)、軽井沢で療養していた辰雄は、この頃の軽井沢での体験を書いた「美しい村」を発表。ちょうどそのころ矢野綾子という女性と知り合います。その翌年、矢野綾子と婚約しますが、彼女も肺を病んでいたために、1934年(昭和10年)、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院することになります。
しかし、綾子のほうはすぐに結核が悪化し、その冬には亡くなっています。そしてごく短い間にこの婚約者と軽井沢で過ごした美しい体験が、のちの堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となりました。
辰雄はこのころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受けるようになります。折口は、民俗学者、国文学者、国語学者として知られ、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた人でもあり、彼が完成させた研究は「折口学」とまで呼ばれています。
この折口から古典を習得した辰雄は、このころから王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」のような作品や、「大和路・信濃路」(1943年(昭和18年))のような随想的文章を書き始めます。また、現代的な女性の姿を描くことにも挑戦し、「菜穂子」(1941年(昭和16年))のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも挑戦しています。
ちなみに私は、高校時代に「風立ちぬ」を読んでから堀辰雄のファンになり、その後、こうした一連の作品にほとんど目を通しました。が、風立ちぬがみずみずしい風景描写や男女の心理描写に主点を置いていたのに対し、「大和路・信濃路」などは妙にジジくさい作品だな、という印象しか残っていません。
古典文学を学び、これを自らの作品に生かそうとしたことにより、それほどまでに作風がガラリと変わったということだと思います。
これら一連の「古典」を書くようになる少し前の1937年(昭和13年)、辰雄は加藤多恵(1913~2010、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌でこの人と結婚しています。
加藤多恵と出逢ったのは、その前年の昭和12年(1937)の夏のこと。その出逢いは軽井沢の西方にある「追分」でした。辰雄はこの頃、軽井沢にもほど近く、江戸時代の宿場町の面影を残すこの追分の地を深く愛するようになっており、頻繁にこの地を訪れていました。
そして定宿の「油屋旅館」に滞在中、堀は避暑に来ていた多恵とめぐり合ったのです。辰雄は1904年生まれですから、11歳も離れており、かなりの歳の差婚です。しかし、彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといい、二人は病弱ながらも情の深い辰雄に好意を持ったのでしょう。
こうして、ようやく多恵との落ち着いた生活に入った辰雄でしたが、相変わらず体は弱く、いまだ肺結核は治りきっていませんでした。
しかし、戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は徐々に世間にも認められるようになり、同じ文学を目指す多くの後輩の支持をも得るようになってきました。
堀自身もこうした後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られています。とくに、辰雄は、詩人で建築家でもあった「立原道造」を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い、慕っていたといいます。
しかし、その立原は、1939年(昭和15年)、辰雄が結婚して2年目の春に24歳で急逝しています。友人の芥川、数年前には婚約者の綾子を亡くし、また弟のように接していた立原を失うなど身近な人を次々と亡くした辰雄はかなり落ち込んでいたようです。
しかし、そんな辰雄に尽し続けたのが多恵夫人であり、自身も肺結核と闘病する辰雄を励まし、その残る短い人生での執筆作業を見守り続けました。
「菜穂子」は、そんな中、1941年(昭和17年)に書かれました。この小説の登場人物「都築明」のモデルは立原道造であるともいわれており、この登場人物も建築学科出身で建築事務所に勤めているという設定であるなど、いくつか共通点が見受けられます。作品としての「菜穂子」こそが、亡くなった立原へのレクイエムと考えたのかもしれません。
その後も辰雄の症状はあまりかんばしいものではありませんでしたが、なんとか戦争中を生き延びました。しかし、戦争末期のころからは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送りました。
しかし、多恵夫人の看病もむなしく1953年5月28日、夫人にみとられながら没しました。享年48歳。
その後、多恵夫人は「堀多恵子」の名で堀辰雄に関する随筆を多く書き遺しています。死後もこうして辰雄に尽くし続けた多恵夫人でしたが、こちらも2010年4月16日、96歳で没しています。かなり長生きといえ、辰雄のほぼ倍の人生を生きたといえます。
その後、堀辰雄の作品群はしばらく戦後の混乱の中にあって埋もれていましたが、昭和30年代ぐらいからまた脚光を浴びるようになり、「堀辰雄全集」の刊行が目指されるようになりました。そして、書簡資料を発掘し厳密な校訂を加えた稿が出され、1980年に完結。1997年にはその新版も刊行されています。
しかし、中でも堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」だと言われ、不朽の名作という評価を得ています。
そもそも風立ちぬは、1936年(昭和11年)、雑誌「改造」の12月号に、まずその「序曲」が掲載されました。翌年には、雑誌「文藝春秋」に「冬」の章、雑誌「新女苑に「婚約」(のち「春」の章)が掲載。
1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」に終章の「死のかげの谷」を掲載ののち、同年4月、以上を纏めた単行本「風立ちぬ」が野田書房より刊行され、ようやく一冊の本としてまとめられました。
その後も戦中戦後を問わず新潮、岩波文庫などから重版され続けており、現在でも「昭和文学作品フェアー」なるものが書店の主宰などで開かれているときには、たいがい他の有名作家の作品とともに書店の軒先に並んでいます。
その内容をここで詳しく書くよりも、ぜひ読んで欲しいと思いますが、簡単にいうと、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病(結核)に冒されている婚約者に付き添う「私」が彼女の死の影におびえながらも、2人で残された時間を支え合いながら共に生きる、といった物語です。
ある書評によれば、
「時間を超越した生の意味と幸福感が確立してゆく過程が描かれ、風のように去ってゆく時の流れの裡に人間の実体を捉え、生きることよりは死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味をも問うた作品である」
だそうですが、私はそこまで重い作品だとは思いません。メルヘンチックなメロドラマと受け取る人もいるかもしれませんが、そこまで軽くもない。じゃぁどんなの?ということになりますが、これはやはり実際に読んで味わっていただくしかないでしょう。
作中には「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句が出てきます。これは、ポール・ヴァレリーという詩人の詩「海辺の墓地」の一節であり、原作では“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”だそうですが、これを、堀辰雄自身が訳したものです。
ポール・ヴァレリーはフランスの作家、詩人、小説家、評論家です。先述した「ベル・エポック」などの華やかな文化を生み出したフランス第三共和政(1940年のナチス侵攻まで存続したフランスの共和政体)の時代において、多岐に渡る旺盛な著作活動を行い、フランスを代表する「知性」と称される人です。
日本の終戦の年、1945年に亡くなっていますが、その死はこの当時の大統領ドゴールの命によりフランス第一号の国葬をもって遇せられたといいます。1930年から、亡くなった1945年までの間、ほぼ断続的に毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたと言いますが、結局受賞はかないませんでした。
この「風立ちぬ」の「ぬ」は言うまでもなく過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意です。
「いざ生きめやも」の「生きめやも」「は、ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的な表現を堀辰雄が意訳したものです。生きなければならない、しかし……と、その後に襲ってくる不安な状況の予見と一体となった表現であり、なかなか絶妙な言い回しです。
またこれを、「過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている」とまで言う人もおり、うーむそこまで言うか~というかんじですが、何かと意味深なことばではあります。
この「風立ちぬ」の主人公の一人、作中の「私」の婚約者である「節子」のモデルは、無論、堀辰雄と死別した実在の婚約者矢野綾子です。
愛する人との離別を書き、文学として昇華させたものとしては、ほかにも高村光太郎の「智恵子抄」があります。私も先妻を亡くしており、先日も「智恵子抄」を読み返す機会があったのですが、こうした作品を読むと当事者のその悲しみがよくわかります。
なので、「風立ちぬ」も読みかえせばまた学生時代とは違った解釈が今はできると思うのですが、また暗い気分になりかねないので、当面はやめておこうかと思います。
「風立ちぬ」のあらすじは、だいたい諳んじてはいるのですが、ここで書いてしまうと元も子もないのでやめておきましょう。が、少しだけ触れておくと、その最後のほうでは、ある日の夕暮れに療養所で二人が、その最後ともとれる会話を交わすシーンが出てきます。
主人公は、病室の窓から見えるその素晴らしい景色を見ながら、「風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。」
というようなセリフを吐くのですが、これだけでもう泣けてしまいそうです。
この作品の最終章の「死のかげの谷」では、3年ぶりの冬、亡くなった婚約者(節子)と出会ったK村(軽井沢町)にやってきたは主人公が、雪が降る山小屋で亡きフィアンセのことを追想するシーンがあります。
ここの描写もまた美しくかつもの悲しいものがあり、まだ10代で恋愛経験も少なかった私もいたく感動したのを覚えています。
ここのところ、戦前に奥さんの智恵子を亡くし、戦後まもなく、岩手の花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住んで晩年を送った高村光太郎とどこか似ています。彼はここで7年間独居自炊の生活を送っていますが、この間に亡くした妻を述懐する詩をいくつか残しています。
もしかしたら、光太郎も堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、これを意識していたかもしれません。風立ちぬは昭和初期に書かれていますから、戦後に智恵子抄を出している光太郎が目を通していたとしても不思議はないでしょう。
さて、智恵子抄との類似点はともかく、この死別した男女の悲しい物語は、高村作品と同様に多くの人の共感を得るようになり、本としての出版はもとより、映画やテレビでも数多く作品化されていきました。
最初の映画化は、1954年の東宝作品で、監督は島耕二、主演は久我美子、石浜朗だったそうです。我々の世代では、同じ東宝から1976年に出されたもののほうが馴染み深く、このときの主演は、誰あろう、山口百恵と三浦友和でした。
このほか、 1954年(昭和29年)~1962年(昭和37年)までに4度もテレビドラマ化され、一番新しいところでは、短編の青春アニが日本テレビによって作られ、 1986年(昭和61年)に放映されています。
しかしこれ以後、映画やテレビで「風立ちぬ」は制作されていません。
ところが、今年、アニメ映画の大家、宮崎駿がリリースする同名の映画が放映される予定だといいます。彼がかつて「モデルグラフィックス」というアニメ専門誌上で発表した連載漫画であり、その直後からスタジオジブリによりアニメーション映画化されることが決まっていたようです。
今年の夏に劇場公開される予定だそうです。宮崎駿さんが長編アニメーション映画の監督を務めるのは、2008年の「崖の上のポニョ」以来となるということで、話題を集めており、また、宮崎監督が「モデルグラフィックス」で発表した漫画がアニメ化されるのは、1992年の「紅の豚」以来2作目となるということです。
ところが、話の中身は、堀辰雄の風立ちぬとは少し違ったものになるようです。主人公は、実在の人物である「堀越二郎」という航空機の技術者をモデルにしたもので、その半生を描いた作品であり、舞台となるのも軽井沢ではないらしい(原作の「モデルグラフィックス」編を読んでいないのでなんともいえません)。
堀越二郎は1903年(M36)生まれの航空技術者であり、戦後は東京大学をはじめとする大学機関での教授などを歴任した学者です。
群馬県藤岡市に生まれ、東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。三菱九六式といわれる艦上戦闘機の設計において革新的な設計を行ったことで有名ですが、零式艦上戦闘機、つまりゼロ戦の設計主任としてのほうがより知られています。
ゼロ戦のほかにも七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、雷電、烈風といった、後世に語り伝えられる数々の名機の設計を手掛けたことで知られ、戦後は三菱重工業の技術者としてYS-11の設計にも参加しています。
三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関でも活躍し、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めたほか、防衛大学校の教授、日本大学の生産工学部の教授も務めました。1982年死去。享年78。
宮崎監督は、その作品のほとんどにかならず何等かの飛行物体を登場させるほどの飛行機好きであり、このゼロ戦の設計者としても著名な堀越二郎についてもいつかアニメ化したいと考えていたようです。
このため、これから用意されるであろう映画のポスターにも、堀越二郎の名と堀辰雄の二名の名をあげ、「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」と記されているといいます。
しかし、これまで得た情報では、堀越二郎のほうの実際のエピソードを下敷きにしつつも全く別の宮崎監督オリジナルのストーリーが展開されるといい、このことについて堀越二郎の遺族に対しては事前に相談し了解を得ているようです。
が、堀辰雄のほうには言及されていないため、おそらくはオリジナルの「風立ちぬ」のストーリーとはかなり違った展開が予想されます。
配役(声優)などもまだ完全に決まり切っていないようですが、主人公の堀越二郎だけは既に決まっています。
庵野 秀明(あんのひであき)という人で、1960年(昭和35年)生まれといいますから、我々と同世代。どういう人なのかなと思って調べてみたら、なんと私と同郷の山口県の人で、宇部市出身です。
映画監督、アニメーターであり、自ら設立したアニメスタジオ「株式会社カラー」の代表取締役を務めています。代表作に「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」などがありますが、なんといっても「新世紀エヴァンゲリオン」は一番有名です。この「新世紀エヴァンゲリオン」では、第18回日本SF大賞を受賞しています。
その作品では戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊しているほどの軍事オタクといわれます。この風立ちぬの企画が持ち上がった時にも、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(兼社長)に対して、「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしいと申し入れていたそうです。
ジブリとは、「風の谷のナウシカ」の時代からの付き合いだそうで、「風の谷のナウシカ」における作画スタッフの募集告知を見て初めて上京し、その作品が原画として採用されたとか。
ジブリ作品での採用の決め手は、持参した大量の原画を宮崎監督に高く評価されたからで、「風の谷のナウシカ」では最も難しいといわれたクライマックスの巨神兵登場のシーンを任されています。
なんでそんな元アニメーターさんを声優に?という疑問なのですが、宮崎監督は、この庵野さんの声が本作の主人公としてぴったりだと思い、ひそかにその出演を希望していたそうです。
しかし、表だっては、主な声優さんをオーディションで募集することになっていたため、宮崎監督は庵野にもこれを受けることを依頼し、彼もこれには困惑しつつもオーディションを受け、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたといいます。
無論、庵野も出演を受諾。しかし、今のところ、配役が決まっているのは彼だけのようであり、このあとどんな人が配されるのかは、これからのお楽しみといったところです。
気になるあらすじのほうは、東京、名古屋、ドイツを舞台に、航空技術者として活躍した堀越二郎の10代から30代までを中心とした物語が展開されるということです。航空技術者としての活動とともに、「風立ちぬ」のようなヒロインとの恋愛シーンも盛り込まれているとのことですが、詳細はまだわかりません。
ちなみに、このヒロインの名前だけは決まっており、「菜穂子」だそうです。無論、由来は堀辰雄の小説「菜穂子」にちなんでいるのでしょう。
小説のほうの「菜穂子」では、ある小説家との恋を通じて「ロマネスク」を満喫しつつも、その後の結婚においてはその生まれ持った情熱的な性格を封じ込め、つつましく生きようとした一人の女性が描かれています。菜穂子はこの女性の娘であり、彼女を主人公として、その成長の過程で次第に母に反発していく姿が描かれていきます。
母の生き方に疑問を持ちつつも、その母と同じ素質を持っていることにある日気付いた少女が、自分の将来に破滅的な傾向を予感し、結局は心の平和を求め愛のない結婚へ逃避しつつ自己を見つめ直してゆく、という話で、私も確か高校時代に読んでいます。
女性の複雑な心理描写が書かれていて面白い、と思ったかどうかまでは良く覚えていませんが、ふーん、女性ってこんなふうに思考するのか~と、異性を知るという意味ではなかなか興味深い内容、というふうに捉えたような記憶があります。
物語の最後のほうは、不幸な結婚生活に陥ったヒロインと幼馴染の青年との再会が描かれており、彼女を想う青年の孤独な喪失感と、夫を持つ身であるヒロインの不倫感覚との対比が信州の自然を背景に美しく描かれていく……というのですが、無論細かいことは私もよく覚えていません。
ところで、この「菜穂子」の母である女性のモデルになったのは、片山広子という実在の女性作家さんです(筆名:松村みね子)。また、菜穂子の恋人の青年のモデルは、かつての堀辰雄の学友であった芥川龍之介であると言われています。
片山広子は、1878年(明治11年)生まれの歌人、翻訳家であり、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」にも登場しています。「才力の上にも格闘できる女性」という力強く生きる女性としてして描かれ、このほかにも芥川の「相聞」という作品にも出てきます。
芥川龍之介の愛人であった?というわけですが、堀辰雄もこの友人の恋人を良く知っていたと思われ、このためその作品の「菜穂子」にも登場したわけであり、このほかの堀作品である「聖家族」に出てくる「細木夫人」というのもこの片山広子といわれています。
写真をみるとなるほどな、と思わせるような別嬪さんであり、何か知性を感じさせます。晩年の自身の随筆集「燈火節」は、1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しており、文学者としての実力もかなりのものだったようです。
しかし、この「菜緒子」の主人公のヒロインの心は、実は堀自身であるとも言われています。また、菜穂子の結婚後の不倫相手、幼馴染の青年・都築明にもまた、作者自身が投影されているといいます。
一方では前述のとおり、都築明は堀の愛弟子であった立原道造もモデルではなかったかといわれており、立原の急死によってストーリーが書き換えられた可能性もあるということです。
このように、堀辰雄の作品には、亡くなった多くの人の魂が込められているようです。いつの世も、人の死は新たな芸術作品を生んでいく礎となりき……かくいう自らもまたこれなんかな……
おいおい、ところでアニメのほうの「風立ちぬ」の話はどうなったんじゃい、ということなのですが、まだ話題作として登場したばかりなので、私もこれ以上書きようがありません。
ただ、主題歌は、「ひこうき雲」というのだそうで、作詞・作曲・歌とも、あのニューミュージックの女王、荒井由実さんに決定しているとのこと。プロデューサーの鈴木敏夫が主題歌として使用したい意向を打診し、本人から了承を得たとのことですが、どんな歌なのでしょう。こちらも楽しみです。
7月20日封切りの「風立ちぬ」をよろしく。私も見たいと思いますが、みなさんもぜひ見に行きましょう。