コメとサケ


昨日までの三連休は、観光客でごったがえすであろうからと、なるべく外出は避けようと思っていました。しかし、天気も良いことであり、家の中に引きこもっているのも、なんだかなぁということで、お昼もだいぶ回ったころから、外出してきました。

とくに行先は決めていませんでしたが、直前になってタエさんが、前から気になっていた、「奥の院」へ行ってみようか、というので私もその気になり、修善寺温泉を起点にそこまで歩いてみることにしました。

奥の院というのは、修善寺温泉を開いたといわれる弘法大師が、若いころに修業をした寺院であり、修善寺温泉からさらに東へ行った山奥にあります。

境内には、奥の院、すなわち正覚院というお寺と、大師が座禅を組んだという岩洞や滝などがあるらしいのですが、なにぶん、急に決めたことでもあり、詳しいことは何も調べずに出かけることとなり、それでもたぶん、温泉街から20分ほどで着くだろう、と高をくくっていました。

ところが、修善寺温泉から既に3kmほども歩き、少々へばっていたところに現れた標識には、ここより更に「2km先」とあるではありませんか。時計をみると、すでに4時近くになっており、こらから更に現地で色々見るためには、もうかなり遅い時間です。

外出の目的は、気分転換のようなものでもあったことから、じゃあ、無理して今日行くのはやめよう、ということで、二人ともあえなくリタイアを決め、帰宅することに。このへん、体力のない50代の熟年夫婦のこととて、奥の院での秘密レポート?を期待されていた方々には、がっかりかもしれませんが、お許し願うとしましょう。

しかしながら、この散歩は非常に快適なものでした。ふだんは足を踏み入れることのない、修善寺温泉から更に山奥へ分け入ったその場所は、左右前後にのんびりとした田んぼが広がる昔ながらの田園地帯であり、遠景に見えるなだらかな山々は優しく、水が張られた田んぼには今まっさかりの新緑が写り込み、絵のようです。

このあたりの田では、今ちょうど、田植えを始めようかという時期であり、その多くが代掻きを始めるか、既にそれを終えて水を張り始めており、いち早く田植えを終えた田も中にはありました。

弘法大師も歩いたという奥の院への参道には、ところどころ祠もあり、また、各所には、昭和のはじめに、四国八十八ヶ所霊場より移されたという、「御砂」の上に、弘法大師の像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したものがあります。

修善寺では、これを「桂谷八十八ヶ所」と称し、四国と同じ「八十八ヶ所巡り」として、毎年春と秋に、観光協会の主宰で、これを巡回ウォークする催しが開かれます。

白装束に身を包み、「お遍路さん」に変身した観光客が、がチリンチリンと行脚しながら、石碑のある温泉街や周辺の山道を、家内安全・無病息災・大願成就などを祈願しながら歩く姿は、修善寺の風物詩だそうです。

その遍路道は、我々の住む別荘地のすぐ近くにある修禅寺梅林や修善寺自然公園にも伸びていますが、この奥の院に行く途中の参道もそのひとつでもあり、あちこちに石碑が据えられ、ところによっては、休憩所を兼ねてベンチも置いてあり、そこから田園風景がまた美しかったりして、なかなか心憎い気配りです。

何もないといえば何もない田園風景なのですが、いまどき、観光地の近くでこれほどひなびた景色が見れる場所というのも、なかなかないのではないでしょうか。たいていは、何等かのお店や看板などが風景を疎外しているものですが、ここにあるのは農家と田んぼ、そして美しい山と川だけです。

また、景色だけでなく、その周辺には、田んぼの代掻きで出る虫などを目当てなのか、さまざまな鳥たちを見ることができ、カエルの声まであちこちから聞こえてきて、「のどか」というのは本当にこういう場所のことをさすのだと感じました。

ところで、この田植えの準備作業をやっている方々は、遠目にみるとやはりお年寄りがかなり多いようです。稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」をする農家が多くなり、修善寺においても若いお父さんは町に働きに出る、兼業農家の方が多くなっているためです。

この、我々日本人にとっては、最も身な農業であり、それゆえに季節ごとに日本特有の風物詩を醸し出している「稲作」について、改めて調べてみました。

この稲作、北緯50°〜南緯35°の範囲にある世界各地域で稲作は行われており、現在では、米生産の約90%をアジアが占めるそうで、ヨーロッパや中近東、アフリカなどでの産出量は極端に少ないようです。

それだけアジアの風土に適した農作物ということなのでしょうが、その起源は、かつてはミャンマーやベトナムとの国境にも近く、植物相の豊富な中国南西部の「雲南省」といわれてきましたが、最近の考古学的調査によれば、どうやらここはその発祥の地ではないということがわかってきたそうです。

様々な考古学調査から、雲南省の稲作遺跡での稲作は4400年前以上に遡れないことが明らかになってきており、その後日本にも伝来する、「ジャポニカ稲」の起源は東南アジアであるらしい、と茨城県つくば市にある国の機関、農業生物資源研究所も発表しています。

栽培種としてのこの稲の色や食感などの4つの遺伝子を調べたところ、その伝来は、起源の東南アジアから中国の長江付近へ伝わり、同地での栽培化の過程でジャポニカ稲が発生したと推測されるのだそうです。

では、中国以外の東南アジアのどこが本当の原産地か、といわれるとその辺はまだ明らかになっていないようですが、いずれにせよ、中国へ伝来し、これが、ジャポニカ稲として改良され、日本に伝わってきたようで、揚子江下流の浙江省(上海のすぐ南)では、約7000〜6500年前の水田耕作遺物が1970年代に発見されています。

こうしたいわゆる「水稲(すいとう)」は揚子江中・下流域で発達し、日本へもこの地方からどうやら九州に伝播したと考えられていますが、これがどういうルートで、九州のどこに持ち込まれたのが最初だったのかについても、まだ結論が出ておらず、諸説があるようです。

日本への伝来に関しては、揚子江下流域から直接九州北部に伝来したという説や、西南諸島を経て九州南部へ伝わったという説、揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下したのちに九州北部に伝来したとの説があります。

いずれにせよ、日本では九州がその最初の伝来場所らしく、それゆえに、九州に邪馬台国のような強力な国が出現し、この国の起源になったという説が有力視されています。邪馬台国は畿内にあったのではないかという人も多いようですが、やはり強い国を造るためには食糧事情の良さは必須条件であり、米がその条件を満たしたであろうというわけです。

日本最古の水田址遺跡もまた、九州の福岡にあります。弥生時代前期初頭の水田遺構ということで、福岡平野の板付遺跡や菜畑遺跡、野多目遺跡、橋本一丁田遺跡などがそれです。

近年の研究における炭素年代測定法によると、これらの遺跡は約3200年ほど前であり、この結果から、これまでは曖昧とされてきた弥生時代の始まりは、紀元前12世紀まで遡る可能性も出てきたそうです。

こうして、九州に伝来した稲作はその後日本中に広がっていきましたが、寒冷な東北地方にも伝わり、古くから栽培が行われています。しかし、東北地方の太平洋側は「やませ」が発生するため、せっかく栽培した稲も冷害による甚大な被害を受けることが多かったようです。

やませとは、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)のことであり、特に梅雨明け後に吹くことが多いようです。

梅雨明けというと、苗から育てた稲がようやく大きくなろうかなるまいかの時期であり、このやませは、東北地方の太平洋沿岸、時には関東地方の太平洋側にも吹き付け、海上と沿岸付近などの海に面した平野に濃霧を発生させます。この冷たい霧が稲作にとっては大敵な冷害の原因となるのです。

しかし、そうした障害があるにも関わらず、稲作は江戸時代には北海道の渡島半島にまで伝わっています。最初、その規模は微々たるものでしたが、その後明治時代以後は北海道の石狩平野でも栽培されるようになり、寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発が行われました。

品種改良は当初耐寒性の向上や収量が多くなるように行われ、その後「米」は我が国を代表する全国的な農産物となっていきました。最初は、現在よりももっとたくさんの色々な品種が栽培されていましたが、いまのように飽食の時代になってからは、コシヒカリやその系統種のように、味が良くて耐病性が向上したものだけが流通するようになりました。

「米離れ」の原因は、栽培技術が進みすぎ、米余りになるおそれから減反政策を行うようになったためでもあります。米を作らない農家には補助金を支給し、転作を進めたため、ますます米の量は減り、日本人のコメ離れは加速していっています。

農林水産省によると、2011年7月から2012年6月までの国内の主食用米の需要実績は、810万トンと、過去最低を更新したそうで、2012年7月から2013年6月までの需要予測は798万トンとさらに落ち込み、戦後初めて800万トンを割り込む見通しです。

戦後のコメの需要は1963年の1341万トンをピークに、食生活の欧米化や少子化などで減少傾向が続いており、さらに日本の食料自給率は低下していきそうです。

一方、米の流通については、かつては米屋でしか手に入らなかったものが、規制緩和によってスーパーマーケット等にも販売が解禁されており、正規の流通以外で売買される自主流通米が増え、国内の流通販売は自由化されています。また、国際的な貿易自由化の流れにより、高率の関税を課す関税方式での輸入も解禁されるようになりました。

この関税を撤廃しようというのがご存知TPPであり、多くの米作農家が、自由化により自分たちが作ったコメが売れなくなると危惧するのは当然のことです。

TPPが実現し、日本に諸外国の安いコメが入ってくるようになるとすると、日本産の米を作る農家も減っていく可能性もあり、そうなると、昨日見た、あの修善寺の山里の米づくりののどかな風景も見れなくなってしまうのかなぁと少々心配です。

水田の光景は、日本の伝統的文化のひとつといってもよく、日本人と稲作の深い関わりを示すものとしては昔からある田植を始め、田植踊・御田祭・御田植・御田舞などなどの豊作を祈るための多くの儀式や祭、あるいは民俗芸能などが伝承されています。

その筆頭が、皇室が宮中祭祀として行う「新嘗祭(にいなめさい)」であり、これは天皇が皇居の御田で収穫された稲穂を天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝するお祭りごとです。

一般でいえば「収穫祭」にあたるもので、例年、勤労感謝の日の11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝します。皇居内にある神嘉殿(しんかでん)というお社で執り行われます。

このように米は、普通に炊いて食べる「白米」として、最も日本中に浸透した食べ物であるわけですが、日本の食文化にも大きな影響を与え、このほかにも、粥や強飯(おこわ)、餅やちまきなど多様な食べ方を生み出してきました。

醸造して「酒」を作るというのも、古くから行われている利用方法であり、「日本酒」の文化もまた、米同様に、日本を代表するものです。

日本酒の主な原料は、米と水と麹、そして酵母、乳酸菌などです。「麹」というのは、正式には「麹菌」といい、蒸した米にコウジカビの胞子を振りかけて育てたものであり、その名の通り、「菌」の一種です。これが米の主成分であるデンプンをブドウ糖に変えます。そしてその糖に変える過程を「糖化」といいます。

日本酒造りにはもうひとつ、「酵母」というものを使います。酵母もまた、「菌」であり、米のような有機物(食物)を利用して分裂しながら成長します。この状態のことを「発酵」といい、その過程で日本酒ができるわけですが、この発酵をしやすくするために使われるのが、もうひとつの菌類の麹菌です。

酵母には、何十万を超える種類が自然界にあり、それぞれ異なった資質を持っています。そしてこの酵母の多様性こそが、酒の味や香りや質を決定付ける重要な鍵となります。多種多様な酵母の中でも、日本酒の醸造に用いられる酵母のことをとくに「清酒酵母」といいます。

ところが、この酵母は、それだけでは、米に含まれるデンプンを分解する力がありません。そのままでは酵母は米をエネルギー源として利用することができず、言い換えれば、デンプンを分解して直接アルコール発酵を行うことはできません。

これは、デンプンの分子量が大きすぎ、酵母はそのままではデンプンを分解できないためです。これを分解して酵母がアルコール発酵をすることができるようになるためには、下ごしらえが必要であり、まずはデンプンを変化させて、小さな分子にしてやる必要があります。その役割を担うのが米麹であり、その初期段階の分子化が「糖化」です。

米麹には、その元であるコウジカビが持っているα-アミラーゼやグルコアミラーゼといった「分解酵素」が含まれていて、この働きによって米を分解し、「糖化」を促進することができます。これによって、酵母が米をより分解しやすくし、「発酵」を開始できる下地ができるわけです。

米麹には、ほかにもタンパク質でできた別の分解酵素も含まれており、これが米を分解する過程ではアミノ酸やペプチドといった物質が生み出され、こうして生成された物質もまた、酵母の発酵の手助けをします。

また、これらの生成物質は、完成した酒の風味に大きく影響します。こうした麹菌を使って米を分解し、アミノ酸やペプチドといった物質を一次分解して生みだす過程が、いわゆる「麹造り」または「醪(もろみ)」といわれるものです。

こうして、できた麹と酵母をミックスさせることで、米がスムースに分解され、その過程でアルコールが生成されて「お酒」になっていくわけであり、いわば麹と酵母は、夫婦関係のようなものです。どちらが夫でどちらが嫁かわかりませんが、ともかく夫婦の協同作業によって、その子供であるおいしい日本酒が作られていくのです。

なお、この夫婦の協同作業を、見守りつつ常にアドバイスをしている「仲人」のような存在がもうひとつあり、これが「乳酸菌」です。

乳酸菌によって生産される乳酸は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、とくに麹造りなどの仕込みの初期に重要です。また、乳酸を始めとする酸が、酒に「腰」を与えます。もし酸が全くなければ、酒はただ甘いだけのアルコール液になってしまうことから、酒造りにおいは乳酸菌を使って酸を出すことはとくに重視されます。

乳酸菌が仲人のような存在というのはそうした理由からです。夫婦だけで「甘い生活」をさせていると、なまけてしまうので、仲人が時々アドバイスをして、キリっとした生活をさせるよう、指導しているというわけです。

さて、近代以前は、この麹と酵母の夫婦に協同作業をさせる、つまり麹や酵母を水と「合わせる」過程において、色々な思考錯誤がありました。

麹と酵母を合わせるにあたっては、様々な方法があり、古くは、空気中に自然に存在する酵母を取り込んでみたり、酒蔵の樽などに棲みついた「家つき酵母」もしくは「蔵つき酵母」といわれる酵母に頼るなど、その時々の運任せで、酒造りには科学的視点、科学的再現性が欠けていました。

このため、醸造される酒は品質が安定せず、各酒蔵元の職人さん達の経験と勘でそれぞれのブランドが守られてきました。そもそも麹や酵母が「菌」であるという概念がなく、それが生き物らしい、ということはたぶんある程度わかっていたでしょうが、化学的・合理的に安定した醸造法を生み出すということは、どだい無論な相談でした。

ところが、明治時代になると欧米から微生物学の考え方が導入されるようになり、これによって有用な菌株の分離と養育が行うことができるようになりました。こうした技術が全国的に知れ渡るようになると、日本酒の品質の安定と向上が格段に図られるようになっていきます。

1911年(明治44年)第1回全国新酒鑑評会が開かれると、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を採取し、純粋培養して頒布するようになります。

こうして日本酒の製造過程におけるばらつきはなくなり、その後各酒造会社で作られる酒の品質も全国的に安定していくようになっていったのです。以来、戦後の昭和の高度成長時代に至るまで、日本酒はもっとも国民に愛された代表的な酒であり続けました。

その後、国民の生活が豊かになるにつれ、酒の需要も多岐にわたるようになり、ビールやワイン、焼酎といった酒が広く飲まれるようになったことで、日本酒のシェアは徐々に減っていきました。しかし、吟醸酒といった新たな日本酒も開発されたことから、衰退して消えてしまうというところにまでは至りませんでした。

吟醸酒とは、米の外側を削る歩合を多くした上、醪みの段階をより低温とし、通常よりも長期の25日以上として醸造された日本酒です。

昭和50年代に、広島で開発されたのが最初で、この技術は「YK35仕込み」と呼ばれました。YKとは、「読めない空気」ではなく、Yは酒米の「山田錦」のY、Kは「熊本酵母」であり、35は精米歩合35%で、これが最初の吟醸酒でした。

果物のような香が特徴であり、従来の日本酒のような癖がなくてさらっと飲みやすく、冷酒の状態、またはさらに冷やして飲むという飲み方が、男性だけではなく女性にも受け、これによって日本酒衰退に大きな歯止めがかかりました。

しかし、近年、さらに日本酒の消費は減退傾向にあります。日本酒に限らず酒類一般の消費習慣から離れる「アルコール離れ」といわれる現象であり、とくに若者のアルコール離れがメディアなどでもよくとりあげられます。

ただ、アルコール消費量の減少は若者に限らず中高年でも著しいそうで、さらには日本だけではなく世界的な傾向で、フランスでもワインを毎日飲む人は1980年には51%だったのが2005年には21%に減少しているといいます。

日本酒の製造メーカーも、その長期低迷を脱しようとして、さまざまな試行錯誤が重ねていますが、なかなか日本酒の消費回復には結びついていません。

ところが、日本の外に眼を向けると、近年では、海外で日本食ブームとなり、とくにアメリカやフランスを中心とした国々では、吟醸酒ブームが起こっています。とくにニューヨークやパリなどでは、食前酒として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとなりつつあるそうです。

普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、日本国外にも多く存在するのに対し、高いレベルの製造技術やきれいな日本の水が必要な吟醸酒は海外では造ることができず、必然的に吟醸酒は日本からだけ輸出される対象となります。

このため、日本でしか作れない吟醸酒は、高級酒として海外の人達に認識されるようになっており、国税庁の発表によれば、日本酒の日本国内での消費量は2006年(平成18年)には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっていましたが、吟醸酒を中心とした輸出量は年々倍増しているそうです。

イギリスでは2007年、日本食人気の高まりを反映して、伝統あるワインコンテストである「International Wine Challenge」に新たに「SAKE」部門が設置され、2012年には292蔵689銘柄が出品されるようにまでなりました。

これからは、外国でも吟醸酒の製造技術が進化し、これが生産されるようになれば、TPPへの参加もあいまって、それらの海外産の高級吟醸酒がいずれは逆輸入され、安く飲めるようになる、そんな時代が来るのかもしれません。

今、日本人自らが白米を食べるために行われている稲作もまた、海外で吟醸酒を造るための生産の場へとシフトしていく可能性があります。

いつの日か、修善寺郊外のあの美しい田んぼの風景の背後にも、横文字の看板立ち並ぶようになり、そこには、海外の吟醸酒メーカーのロゴと名前が入っているようになるかも。

ま、仮にそうなったとしても、あの美しい田んぼがなくなることだけはあってほしくないように思います。死ぬまでこの地にいるかどうかはわかりませんが、いつまでもあの日本の原風景のような景色が保たれていくことを願ってやみません。

さて、今日は修善寺郊外の散歩に始まり、酒の話に至ってしまいましたが、本来は酒の起源や文化などについても書いておくべきだったかもしれません。

が、それはまた別の機会に譲ることにしましょう。今日は連休の合間ということで、仕事に出ている方も多いと思いますが、この週末からは4連休という人も多いでしょう。今年は「安近短」の傾向が強いといいますから、伊豆へお越しの方も多いに違いありません。

伊豆の山々が観光客で一杯になるのはご勘弁願いたいところですが、もし修善寺に来られることがあれば、今まっさかりの田植えをご覧になるのも結構な目の保養になると思います。一度ご検討してみてはいかがでしょうか。

瑞泉と八重桜 ~旧中伊豆町(伊豆市)

今日からゴールデンウィークです。

といっても、自営業の我々にとっては、とくに連休のありがたみというものは感ぜられず、この間にはどこへ出かけるにも道が渋滞するので、外出するのが億劫になるなど、むしろありがたくない面もあります。

連休中は、行楽地を避け、なるべく人の行かなそうなところをみつけるか、行楽客で込みそうな時間帯を避けるようにしていますが、ここ伊豆に移ってきてからは、そうした逃げ場もあまりなく、今年はどうしようかなと考えている最中です。やはりウチでおとなしくしているのがいいのかもしれません。

ところで、観光客があまり行かない伊豆の場所といえば、西伊豆の南西部がその最たるものでしょう。鉄道やバスなどによるアクセスが悪く、乗用車で行かざるを得ない場所であり、また、下田や土肥、戸田といった主要な港もない場所ですから、海からのアクセスも困難です。

我々が住んでいるのは、「中伊豆」と呼ばれる地域であり、ここからならば1時間半ほどで松崎まで行くことができますが、もし、沼津や三島を起点とするならば、その倍近い時間がかかってしまいます。東京などの関東地方からの車アクセスなら半日行程でも行けるか行けないかの場所です。

ところが、この中伊豆にもあまり観光客が訪れない場所があり、それは、伊豆市の最東端にある旧中伊豆町や、伊豆の国市の旧大仁町の山あいなどです。

先日、山口から来ていた母を三島まで送っていった帰り、夕方までにはかなり時間があったので、ちょっとこのあたりに行ってみようということになり、大仁から県道19号線、通称、大仁宇佐美道路を東進して、この「僻地」を目指しました。

期待?していたとおり、道中には何もなく、途中、地場産品を販売する「農の駅」のようなものがあったほか、伊豆の国市営のさつきが丘公園というスポーツ公園があるくらいで、観光施設らしいものは何一つありません。

さらにその先に、「大仁瑞泉郷」という公園らしきものがある、と聞いていたので、ここを目指していくことにしましたが、各所にこの公園への道案内の表示はあるものの、行けども行けども、なかなか到着しません。

大仁からは、およそ40分ほども走ったころ、ようやく「MOA大仁農場」の看板が見え、山間の谷間に広大な敷地の農場が見えてきましたが、どうやらこの中に大仁瑞泉郷はあるようです。

あとになってわかったのですが、この大仁瑞泉郷や大仁農場というのは、「MOA自然農法文化事業団」という団体が、主に、「自然農法」を推進する生産者グループ(自然農法普及会や研究会など)のために造った施設のようであり、平成11年に静岡県のNPO法人(社団法人)に認定されて以降、その活動拠点としている場所のようです。

MOAというのは、“Mokichi Okada Association”の略だそうで、その名の通り、「岡田茂吉」という人が、1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団、「世界救世教」の関連団体です。

箱根にあるMOA箱根美術館や、熱海のMOA美術館もその関連施設であり、教団所蔵の美術品を展示しているとのことで、前からMOAってなんだ?と思っていた疑問がようやく晴れました。

この世界救世教の公称信者数は、国内に100万人を超えるそうで、海外にも99ヶ国で200万人の信者がおり、タイの約70万人、ブラジルの約44万人とその大部分を占めるようです。

タイ、ブラジルには、国内と同様、聖地と定めた神殿および庭園が建設されており、日本のこの中伊豆もまた、この団体の「庭園」として、「大仁瑞泉郷」の名でこれが建設されたようです。

すぐ近くまで行ったところ、もうすぐゴールデンウィークということで、連休中には、何等かのフェスティバル的なものが開かれる予定のようでしたが、この日は、もうすでに時刻は4時半を過ぎており、入場はあきらめました。

遠目にみると、芝桜などがきれいに植えてある広々とした公園が見え、また敷地内には無農薬野菜を使ったレストランなどもあるようで、今度また機会をあらためて行ってみようかと思います。

ちなみに、世界救世教の特徴的な宗教活動は、「浄霊」という手かざしの儀式的行為を各信者が行うことだそうで、このほか、自然農法という農法を推進することと、芸術活動を行うことがその信義に取り込まれているとか。

「浄霊」とは、同教団で行われる儀式的?行為のことで、病人の患部や、各病気ごとに有効とすされる「急所」に手をかざす事によって、その病状を癒すというものらしく、これは一応、医学的にも「代替医療」のうちの「エネルギー療法」という医療行為としてカテゴライズされているようです。

なので、オウム真理教のような必ずしもいかがわしい信仰集団、ということではなさそうなのですが、世界救世教の一流派では、「おひかり」と呼ばれるペンダント状のものを首にかけることにより、信者なら誰でも行うことが可能な術とされているそうで、そういう話を聞くと、ちょっと引いてしまいます。

創始者の岡田茂吉は、1882年(明治15年)、東京府浅草生まれ。幼少時に実家は貧しく、また茂吉は虚弱体質で次々と病気にかかり、結核にもなり、不治の宣告も受けたこともあります。こうした幼いころの体験により、のちに食生活の安全性をとなえ、「自然農法」を提唱するようになっていったようです。

浅草の尋常小学校、尋常高等小学校を卒業すると、画家を志し、1897年(明治30年)、15歳のとき、東京美術学校予備ノ課程に入学するも眼の病に侵され中退。

その後の青年期に商売を行い、いったんは成功しますが、過労をきっかけとして多数の病気にかかり入院を3回し、不治の宣告を2回受けます。このような体験の中で薬物の持つ副作用に気づき、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げるようになりました。

やがて、小間物屋「光琳堂」をおこし、さらには「岡田商店」という装飾品卸商も経営するようになり、その後は映画館経営なども行うまでになるなど、順当に商売を成功させ収益を上げてきましたが、ある年、取引先銀行の破産で事業が頓挫。

さらに妻が流産や死産を繰り返し、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなどの不幸が重なりました。このころの茂吉は、慈善活動は進んでやるほうでしたが、宗教は大っ嫌いの無神論者だったそうです。しかし、こうした不幸が続いたことで、人の世の儚さを思い、救いを求めて色々な宗教の講話を聴くようになりました。

こうして関わった色々な宗教団体からは、信仰を勧められることもあったようですが、なかなかそうした特定の宗教には心が向かなかったところ、1920年(大正9年)になって、「大本教」という宗教に巡り合います。

大本教は、霊能者の「出口なお」という女性が1892年(明治25年)に設立した、教団組織であり、出口なおに「降りた」とされる、国之常立神(くにのとこたちのかみ)という、日本神話に登場する神様を宗祖としています。

日本書記には、天地開闢(てんちかいびゃく)のときに出現した、一番最初の神と書かれており、日本神話の「根源神」として、大木教のような新宗教や一部の神道で重要視されています。大木教は、戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した宗教団体です。

その教祖、出口なおには、国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって、信者たちに伝えられたとのことで、岡田茂吉も、そのお筆先にあった「世直し思想」に惹かれて入信したようです。

世直し思想というのは、キリスト教でいう「最後の審判」であり、また仏教でいうところの「末法の世」のことです。

また、茂吉はこのころ、歯痛に悩んでいましたが、詰めていた消毒薬を取ったところ、歯痛がよくなったなどの経験に基づいて、「薬が病気のもとではないか」という自分の考えと、大本教の信義である、薬は逆に人にとっては毒になるといいう「薬毒」の教えが一致していたこともまた、入信の決め手となりました。

入信して6年が経った1926年(昭和元年)の暮れのある晩、茂吉は、突然、お腹に光り輝く玉が入ってくる、という神秘体験をします。そして、このとき、その後の自己の使命を悟ったそうで、それがのちの世界救世教の設立でした。

1926年といえば、第一次世界大戦後の経済大恐慌の時です。茂吉も大木教に帰依しつつ自分の会社を経営していましたが、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難になります。

1931年(昭和6年)、茂吉は今度は千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たといい、これをきっかけとして、「岡田式神霊指圧療法」を開始しますが、これがのちの世界救世教における「浄霊」の原型だったようです。

しかし、その術の施布が、大本教の方針と異なるという批判を受けるようになり、入信後から14年経った1934年(昭和9年)に、大本教から追われるようにその組織を離れました。

1935年(昭和10年)地上における「天国建設」を目的として、のちの世界救世教のベースとなる「大日本観音会」の立教を宣言します。

東京の麹町山元町に本部を置き、同年、世田谷区上野毛の玉川郷で、自然農法による栽培実験と研究を始めるようになり、これを通じてその根本原理や食の重要性を信者たちに説くようになります。現在の箱根や熱海にあるMOA美術館の構想も、この玉川郷時代に形づくられたようです。

しかし、時代は徐々に太平洋戦争へ向かう暗い世相に入ってきており、1936年(昭和11年)ころからは、官憲から強い圧迫を受けるようになります。このため、宗教行為と治療行為の分離を迫られ、治療行為部門を「大日本健康協会」として分離。

このころ、茂吉は、今でいう統合医療による療院(病院)を設立する構想をたてており、のちにMOAの組織で建設されるようになった多くの療院はこのころの発案です。しかし、同年の9月、警視庁より療術行為禁止令が出、医療組織は発足して数か月で解散するはめに。

このときのことについて茂吉は後年、自分たちがやっていた療術行為を科学として世に問いたかったが、世間的には「宗教団体」とみなされていたがゆえに、その「浄霊」の効果を正しく認識してもらえなかったと述懐しています。

このあたり、この浄霊というものを経験していない私には、これがどういうものかはよく理解できませんが、気功や霊気(レイキ)など科学的に証明されていない人体の周囲や内部に存在するとされたエネルギー場に作用させる治療法である、「エネルギー療法」や「バイオフィールド療法」などは、古くから欧米では医療行為として認められています。

アメリカ国立衛生研究所 (NIH) に属する国立補完代替医療センター (NCCAM) では、このエネルギー療法のほか、心理面からの働きかけによって身体機能や症状に介入しようとする、瞑想法や芸術療法などを含む医療行為を、「代替医療」として実際の治療に取り入れています。

現在では主流医療に取り込まれているものもあり、それらは、「生物学的治療法(biologically based therapies)とも呼ばれ、ハーブ類や、サプリメントなどの物質を利用したものです。

岡田茂吉が率いる世界救世教における施術においては、病気の原因は薬による二次被害であるとする思想、すなわち大木教における「薬毒」を主に主張しており、西洋医療の投薬や手術、東洋医学の漢方にかわる治療として「浄霊」を取り入れるのだと主張しています。

われわれは、「浄霊」と聞くと、すぐにテレビのオカルト番組で、霊にとり憑かれた人を「霊能者」を自称するひとたちが、エイヤッと背中などを叩いて悪い霊を追い出すシーンが目に浮かべますが、茂吉らが主張する浄霊は、欧米でいうところの、前述の「代替医療」に近いものと思われます。

茂吉は、この浄霊が医療行為として認められるよう、医師を呼んでの懇談会や出版物を出すなど意欲的にその活動を行ったといいますが、とうとう生前には日本の医学会にはこれを認めてもらうことができませんでした。

このため、信者の中には、日本の医学界と対立的な姿勢を見せる者もあり、その結果発生したトラブルなどが新聞に掲載されるようなこともありました。

このため、茂吉の死後、現在の世界救世教は、その方針を、より医学との共存的な姿勢を取る方向に向けているそうで、以来、彼らの浄霊を医療技術者たちに「強要」することはやめ、教団施設内に、自らの医療施設を設け、その施術も教団内の信者を中心に行っているようです。

その内容もとくに秘密にしているわけではないようで、このあたり、極端な秘密主義をとり、過激な殺人集団になっていったオウム真理教などのようないかがわしい宗教団体ではなさそうです。

岡田茂吉の生前、「浄霊」は病気治療法としてのひとつの技術であり、施術者も病気治療の急所などについての基本的な医学知識が必要とされたようです。

ところが、彼の死後は、二代目の教主(岡田茂吉の息子)により世界救世教の浄霊は宗教的儀式(祈り)の面が強調されすぎるようになり、施術者は病気の急所などの知識は必ずしも必要ではないとされるようになったとのことで、このことをめぐって、昭和60年ころから世界救世教の内部でかなり混乱があったようです。

その結果として、その後世界救世教は、大きく分けて二つの流派に分かれ、病気治療的面を強調する会派と、病気治療的面を強調せず宗教儀式的なものとして行う会派が並立するかたちとなり、このあたり、浄土真宗の大谷派と東本願寺派の対立とどこか似ています。

一方、茂吉が唱えた、「自然農法は」、これが現在のように「無農薬有機農法」として注目を集めるよりはるか前の昭和20年代から彼によって提唱されてきたものであり、MOA自然農法文化事業団の前身団体が、独自の無農薬有機農法を研究、実践、推進してきたものです。

岡田茂吉の死後、彼が創設した世界救世教としても、琉球大学の教授で比嘉照夫が提唱する有用微生物群(EM、Effective Microorganisms)を採りいれた土壌改良法による農業の提唱により、環境浄化の活動などを積極的に取り入れるようになりました。

このため、現在では、この「EM農法」による有機栽培と、世界救世教の「自然農法」は同じものであるかのように言われていますが、もともとは別なものです。

現在の世界救世教では、病気治療的面を強調せず宗教儀式的なものとして行う会派、これらには、「世界救世教いづのめ教団」、「世界救世教主之光教」などがあるそうですが、これらの会派は、いまだに自然農法にEM技術を使用する会派として知られています。

一方、こららの会派と一線を引く、会の趣旨の中心を病気治療的面に置く会派で、このEM農法を自然農法において「使用しない」会派のほうは、「東方之光」という会派だそうで、こちらが現在、MOAを名乗り、MOA大仁農場や、 MOA自然農法文化事業団、MOA美術館などを運営している組織です。

このあたりの組織的な実情はかなり複雑なようですが、現代の教主も初代の岡田茂吉の子孫である岡田陽一という方で、茂吉の流派の流を組む、いわば「本流」とみなされているのが、東方之光=MOAということのようです。

じゃあ、東方之光とMOAは何が違うの?という疑問なのですが、これについては、ある別の宗教団体の方がMOAのある教団幹部にインタビューした結果などを読んでみたところ、この教団幹部は、東方之光は「霊」で、MOAは「体」という霊体の関係と答えたということです。

双方とも、表裏一体の交わった活動をしており、組織は別のようにみえても同じ教団に所属する人達が運営している、ということのようで、この大仁にある農場やその他の施設もまた、東方之光が運営しているといっても良いのでしょう。

「瑞泉郷」という名称も、もともとは岡田茂吉が、21世紀にかくあるべき、と考えた「都市構想」を具現化しようとしたものであり、彼はこれを「健康作りの雛形」のようなものと考えていたようです。

そして、その柱となるのが、療院事業、農園事業、花園事業の三大事業であり、これをもって、人々は健康で幸せになれると考えたようです。

当初はこれを熱海に作る世予定だったようですが、適当な場所がなく、その適地を探していたところ、みつかったのが現在の場所であり、本当は「熱海瑞泉郷」になる予定だったものが、現在の「大仁瑞泉郷」になったようです。

現在、瑞泉郷は日本のその他の場所でも建設が進められているそうで(これがどこだか調べてもよくわかりませんでしたが)、このほかタイ、メキシコ、ペルーでも、その国の厚生省、文部省等の行政機関が認めた「生命科学芸術学院」という教育機関を設置しているのだとか。

ハワイでも、瑞泉郷が既に建設が進められ、まもなくこれと同じ「生命科学芸術学院」が誕生するそうです。いずれはロスアンゼルス、東海岸への拡大も模索しているとのことで、何やらここまで聞くと、夢物語のような気もするのですが、現実のことだとすると、ものすごいエネルギッシュな宗教団体です。

私的には、とくにどこの宗教も信じることのない、無宗教派であり、とくにこの世界救世教なるものを支持するつもりもありませんが、岡田茂吉とその流れを組む現在の教団が主唱している、代替医療や自然農法には理解を示したいと思います。

が、それをここまで世界規模でやることには、少々疑問というか、はたしてそこまで「宗教」と称して組織化してやるようなことなのか、という気はします。

このあたり、いろいろ論議の分かれるところでしょう。が、その教義を信じることに疑いを持たず、その考えにまい進できるということはうらやましく感じる部分もあります。教団以外の人さまに迷惑をかけるではなく、自分たちの信条を貫こうとしているのであれば、何らの非難の対象になるものでもありません。

さて、今日は、実は、亡くなった先妻の9年目の命日です。

例年だと、八重桜の咲き誇るころですが、今年は早々と散ってしまいました。八重桜と聞くと、どうしても亡くなった彼女のことが思い出されるので、今年の大河ドラマのタイトルが「八重の桜」であると初めて聞いたときには、ドキッとしたものです。

先日行った、瑞泉郷の入口の道路にも、延々とその八重桜の並木があり、驚いたことにまだ、かなりの花が残っていました。山間で標高が高いためでしょうが、今考えると、なんとなく、この桜に導かれてここへ行ったような気さえします。

本当は今日は、この八重桜にちなんだ、もっと別のことを書こうかと考えていたのですが、話の流れから宗教めいた方向へ行ってしまいました。

世界救世教を設立した、岡田茂吉も、若いころに、妻や子供を亡くしたことがきっかけで、その世界に入っていったようですが、私自身も先妻を亡くしたことで、その後の人生が大きく変わりました。

人の人生を変えるものは、人の死であるというのは、昔からよく言われることですが、その典型が茂吉であり、私自身のことでもあります。

だからといって今後、茂吉のように宗教の世界に入る予定はありませんが、ある日突然おなかに光が入ってきたという茂吉のように、私にもまた何か特別な変化が起こるか日がくるかもしれません。

だとしても、茂吉のような、世界宗教家になれるとはとても思えませんが、せめて自分自身がこれなら納得できる、といえるようなことをひとつくらいは何か成し遂げてあの世へ行ければと思っています。

その何かはまだはっきりと形にはなっていませんが、それを見つけることが、亡くなった先妻への手土産のような気がしてなりません。今年こそ、その私の「瑞泉」を見つけたいと思っています。

未来予想図 Ⅱ

今年もいよいよ明日からゴールデンウイークです。今週末には一年の三分の一が過ぎ去るわけであり、時の速さをあらためて思います。

この調子だと、50年、100年はすぐに過ぎてしまいそうな気さえしますが、現世でのこの肉体をそこまで持たせるのは、SF小説でもない限り無理でしょう。

さて、先日、そのSFにまつわる話題や未来予想図について書きましたが、今日は続編を書いてみたいと思います。

まず最初に、SFはいったい、どれくらい昔からあるのか、ということを見てみましょう。

一説によれば、「最古のSF小説」と呼ばれているのは、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた「イカロメニッパス」ではないかと言われています。

この「イカロメニッパス」では、主人公のメニッパスが両手に翼をつけてオリュンポス山の上から、ギリシア神話の神、イカロスのように飛び立って月の世界に行き、そこで月の哲学者と会います。そして彼に、目を千里眼にしてもらって地上を見て、世界の小ささを実感するという話です。

それからかなり時間が経ちますが、14世紀にダンテ・アリギエーリによって書かれた「神曲」も、当時の科学的知見が盛り込まれたSFであるといわれており、その天国篇では、主人公のダンテが天動説宇宙に基づいて構想された天界を遍歴し、恒星天の上にまで昇っていくという内容になっています。

17世紀に登場した天文学者、ヨハネス・ケプラーは、天動説が主流であった当時、地動説の考えに基づいて小説を書いており、この小説「ケプラーの夢」は、アイスランド人のドゥラコトゥスという主人公が地球と月を自由に往復する精霊に連れられて月世界へと旅行する物語です。

一方、ヨーロッパ以外に目を向けると、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」には、これに登場してくる「神」は、超兵器「インドラの雷」を操りますが、これはすごい破壊力を持っており、その描写は核兵器を連想させるといいます。

このほか、同じインドの叙事詩「ラーマーヤナ」には、大気圏外の航行が可能なヴィマナと呼ばれる乗り物が登場するそうで、これはまさにSFです。

別のインドの文献には、このヴィマナの詳細な解説や、操縦方法までもが記述されているそうで、もしかしたら、太古の昔のインドでは、宇宙人がやってきており、原作者はその「史実」を書き残したのかもしれません。

日本においても、最古の物語といわれ、平安時代に作られた「竹取物語」も、月から人がやってきて再びそこへ帰るというSF的な話であり、室町時代に作られた「浦島太郎」も時間の流れの歪みが描かれており、「タイムマシン」の原型という人もいます。

日本神話の「天孫降臨伝説」も、高度な文明を持つ異星人が天からやってきたお話と考えれば、SFめいてきます。天孫降臨については、以前このブログでも書きましたが、現在の天皇家一族の祖先が天から降りてきたという伝説です。

その後、時代が、19世紀や20世紀と下るようになると、ヨーロッパではよりマニアックなSFが書かれるようになり、その先駆者が先日にもとりあげた、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズなどです。しかし、彼らが活躍するよりも50年以上も前にもすでに発表されたSF小説がありました。

1816年に当時19歳のメアリー・シェリーが書いた「フランケンシュタイン-あるいは現代のプロメテウス」がそれであり、SFというよりもむしろ「怪奇小説」的ではありますが、見方を変えれば、「人造人間」を描いたSF小説にほかなりません。

副題のプロメテウスは、ギリシャ神話の神の名前であり、全能の神、ゼウスともに人類の創造に関わったことから、著者がこのタイトルを選んだものと思われます。

ストーリーをご存知の方も多いと思いますが、これは科学者ヴィクター・フランケンシュタインが死体を集めて繋ぎ合わせ、人造人間を作ることに成功する話です。しかし、その醜さゆえに彼は、人造人間とは名ばかりの「怪物」としてこの世に生まれた自分を憎み、やがて自らを抹消していきます。

造られた「怪物」は「こころ」を持ち、幾度か人間と交流を試みますが、醜い容姿のせいでことごとく拒絶されます。絶望した「怪物」はヴィクター博士に、自分の伴侶となり得る女性の「怪物」造るように要求し、博士はその要求をいったんのみますが、女性の完成間近になってその約束を破ってしまいます。

怒った「怪物」は、博士の妻や友人を殺害したため、博士による「怪物」の追跡劇が始まります。長い追跡の末、博士は北極海で怪物を追い詰めますが、その直前に衰弱し死んでしまいます。「怪物」には良心が残っており、自分の創造主の亡骸の前で、複雑な心境を語った後、自らを「消滅」させるべく、北極海へと消えていき、そして……

という、ストーリーです。1931年にこれをリバイバルして公開された映画のほうの怪物は、研究室から脱走し、村で無差別に殺人を犯したため、怒れる村人たちに風車小屋に追い詰められ、燃え盛る小屋もろとも崩れ去る……という原作とはちょっと違うエンディングになっています。

原作者のメアリー・シェリーは、このほかにも「吸血鬼」の作者としても知られていますが、吸血鬼の話そのものは、ヨーロッパに古くからあります。しかし、フランケンシュタインも吸血鬼もSF小説的に仕上げたという点ではメアリーはその先駆者です。

メアリーの「フランケンシュタイン」はSF的テーマを扱いながらも「怪奇小説」であり、科学小説を書こうというモチベーションによって書かれたわけではありませんが、後世の多くの作家や評論家たちがメアリーに先駆的な業績を認め、SFの先駆者あるいは、創始者であると考えているようです。

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーもまた、SFの開祖の一人であると目されており、彼の作品も、怪奇・恐怖小説の類が多いのですが、「鋸山奇譚」や「大渦に呑まれて」のほか、「ハンス・プファールの無類の冒険」などのように、科学知識を応用した作品も見られます。

とくに「ハンス・プファールの無類の冒険」は、気球による月世界旅行を描いたものであり、この当時の最新の科学知識が用いられており、この小説による影響をその後SFの大家といわれるようになった、ヴェルヌやウェルズもポーも受けているといわれています。

さらに、ジュール・ヴェルヌがそのおよそ半世紀後に書いた、「月世界旅行」は、その後これを読んだ、コンスタンチン・ツィオルコフスキーやフォン・ブラウンといった、その後宇宙工学の大家と言われるようになった科学者に大きな影響を与えました。

彼らは少年期にこれを読んでロケット工学の研究者をめざすようになり、この分野で名を成すようになったといわれています。彼らの手によって発展したロケット工学は、ついには実際に月まで人間を運ぶに至っており、ヴェルヌこそがロケット工学の父だと評価する人までいるようです。

核エネルギーの開発を行い、結果的に原子爆弾を実現させる事となったハンガリーの科学者レオ・シラードもまた、H.G.ウェルズのファンであったそうで、ウェルズの作品「解放された世界」に登場する原子力兵器に触発され、核開発に携わるようになってといわれています。

このほかのロボット、携帯電話、テレビ、潜水艦なども、最初はSFの世界で登場して「未来にはきっと存在するであろう技術」として概念が普及し、その後に現実世界でも実現したものです。

ある意味ではSF作品で培われた「科学技術」が本物の科学へと変身してきたといってもよく、現実味を伴わないフィクションであるとして読まない人も多いようですが、先人科学者たちの創造力を掻きたてる源としては重要な役割を担ってきたわけです。

未来史(Future history)という学究分野もあるそうで、これはSF作家がサイエンス・フィクションの共通の背景として構築したい未来の想像上の歴史です。

作家がその未来史の年表を作ることもあるし、読者が提供された情報を元に年表を再構築することができ、とくに職業作家だけがその研究を行っているわけではなく、現在では、諸分野に関する政策立案・政策提言を主たる業務とする、いわゆるシンクタンク(think tank)に所属する科学者たちも未来史を作っています。

「未来史」という用語を考案したのは、アメリカのSF雑誌であるアスタウンディング誌の編集者のジョン・W・キャンベルであり、同誌が1941年2月号で「未来史」を扱ったのが最初であり、結構古い歴史があります。

未来史を構築した最初の作家は、アメリカのSF作家のニール・R・ジョーンズと言われており、「宇宙飛行士(astronaut)」という用語を初めて使ったのもこの人です。サイボーグやロボット、人体冷凍保存の概念などを考え出したのもこの人といわれています。

当初の未来史研究の実践者は、テクノロジー、経済、社会などの現在の傾向から外挿したり、未来の傾向を予言しようとすることがほとんどでしたが、最近では社会システムや社会の不確かさを検討し、具体的なシナリオを構築することが多くなってきています。

外挿やシナリオ以外にも、様々な科学的な手法や統計学的、経済学的な技法が使われるようになっており、ここまでくると、立派な学問のひとつです。後述しますが、未来史と「未来学」は良く同一視されるようです。

一部のSF作家などは、立派な「フューチャリスト」として認識されており、彼らはきちんとした技術的なトレンドを調べ、そこから自らが導き出した結論を作品に反映させます。

アーサー・C・クラークなどがその代表的な作家であり、その作品は社会的にもそれなりの高い評価を得ています。

もちろん、SF作家の中には技術的あるいは社会的な未来の予測をテーマとせず、単に物語の背景に利用する者も多く、例えば、アーシュラ・K・ル=グウィンは「闇の左手」で予言者、予知能力者、フューチャリストが仕事として予言する世界を描いており、その著作には少々科学の発展からは逸脱したものが多いようです。

しかし、こうしたSF作家たちの作品やシンクタンクの研究者が作った未来史が、限りなく実際に近い、遠い未来の世界を我々に垣間見させてくれているのは確かであり、これによって掻きたてられた想像力によって、また新しい科学技術が創造(想像)されていくにちがいありません。

1990年10月、経済企画庁は今後20年で世界はどうなるのかを「世界経済」「国民生活」「産業経済」「社会資本」の4つのテーマで分析することになりました。その一環として「2010年技術予測研究会」が設置され、特に産業技術に関して集中的な予測が行われました。

2010年技術予測研究会」は1990年12月から101の技術予測を開始し、1991年9月に結果を公表しています。

その内容をみると、たとえば、当時市販されているコンピュータのメモリは4MBが最高でした。4MBといえば、現在のデジカメ写真1枚分程度にすぎませんが、その予測は、これが1〜2年後に64MBになり、2000年頃には1GBになると予測されていました。

ところが、現実には、1GBのDRAMは1995年に開発され、現実が予測より5年ほど早くなっており、このあと2030年に1TB(1000GB)が開発されると目されています。

このように、最近の未来史の予測においては、実際に実現した科学技術の完成の時期が早まり、その「実現度」が急速に加速している感があります。

50年後に実現すると予測したものが、実際には、その10分の1、5分の1の年限で実現することもあり、自分が生きている間には到底実現しないだろうと思われたことが、実際に開発された技術として、その日の朝の朝刊に載っていたりします。

こうした「加速する未来」を科学的な視点から、解き明かそうとする学問があり、これを「未来学( Futurology)」といいます。

未来学は、現状の技術開発の状況から未来を予測するだけではなく、過去の歴史上の状況を踏まえた上で、未来での物事がどう変わっていくかを詳細に調査・推論する学問分野です。

Futurology という言葉は本来、「未来研究」を意味し、これは、ドイツ人の科学者で Ossip K. Flechtheimという人が、1940年代中盤に確率論に基づいた新しい学問として提唱したものです。

「確率論に基づいた」というところがミソであり、これは、時間を直線に喩えると、未来は時間線の中で未だ起きていない部分を指し、これを統計的に予測するということにほかなりません。

すなわち、未だ起きていない事象の存在する時空間、つまり未来は、既に起きた事象と時間の集まりの反対に位置するものであり、現在、すなわち、今起きつつある事象の集まりを境として、過去の向こう側にあるものです。

未来学者とは、この未来を現在と過去の事象から見通し、何らかの分析を試みようとする人々ということになります。未来学は英語圏では最近、“future study(未来研究)”の用語のほうで一般化しつつあるようです。

未来学者が未来を予測するにあたっては、過去から現在に至るまでの傾向から未来の状態を予測するのが典型的な方法論であり、これは Strategic Foresight(戦略的洞察)といわれています。

逆に想定される未来、もしくは望ましい未来をもたらすには今どうすべきかを考える方法を、バックキャスティング(backcasting)といい、こうした手法を使って未来研究を実際に行っている学者たちは、自らをフューチャリスト(futurist)と呼んでいます。

「未来史」を作ることを職務とする、SF作家が自らを「フューチャリスト」と称するのに対し、こちらはあくまで科学者としての称号であり、サイエンティスト、と呼ぶのと似ています。

現在のような学際的性格の未来学あるいは未来研究は、1960年代中盤に、ハンガリー系イギリス人であり、電気工学者・物理学者であるガーボル・デーネシュらによって確立されました。デーネシュの有名な業績としては、ホログラフィーの発明があり、彼はこれにより1971年のノーベル物理学賞を受賞しています。

未来研究は、現在の選択が将来にどう影響するかを研究するものでもあります。予測を行い、ありうべき未来を描くため、変化と安定の源泉・パターン・原因の分析を可能な限り試みます。

「現在」起こっている事象について、今後ありうる変化、もっともらしい変化、望ましい変化を予測し、その予測にあたっては、変化の社会的側面と自然的側面なども考慮します。

このように未来学は、かなり多角的な研究分野ですが、学問分野としては未だ若く、概念や方法論も十分に確立しているとは言いがたい部分もあります。

しかし、マサチューセッツ工科大学の環境学者であり、未来学者でもあるデニス・メドウズらが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題研究で世界的に有名な、スイスの「ローマクラブ(Club of Rome)」というシンクタンクに対して報告した、「成長の限界」という考えかたは、世界中から注目を浴びました。

「成長の限界」とは、システムダイナミクス(実験や広域的な俯瞰が困難であるビジネス・政策などの社会問題を予測するシミュレーションモデル)の手法を使用してとりまとめた研究で、その結果からは、人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する、という研究結果が得られました。

1972年に発表された成果であり、その結論を一言でいうと、

「人は幾何学級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」

というものです。これは「人は子供が生まれてその子供がまた子供を生むので「掛け算」で増えていくのに対し、食料はある土地では年に1回それも同じ量しか生産出来ない、つまり「足し算」になるという概念に基づく結論でした。

現在では、この考え方を未来学の「起点」として考えている学者が多く、多くの企業がこうした未来学の成果を長期的な成長に関する戦略立案に役立てています。

アメリカでは、未来学そのものを教育システムに取り込もうとしており、他の国々に広がりつつあります。

教科としての未来学は、学生が長期的なものの見方ができるような概念・ツール・プロセスを学習させることですが、当然のことながらその延長には、企業や政府機関において、社会問題を専門とするスペシャリストを養成することが視野に入れられています。

余談になりますが、私がまだハワイ大学の大学院生だったころのこと、週末といえどもその週に与えられた課題をこなすべく、ほとんどは図書館で一日中を過ごしていました。が、時に、息抜きのために、その図書館の中にある人文科学系の棚を漁っては、昔の書物を読んでいました。

ハワイ大学は、「日本研究」においても世界でトップクラスにあり、その書棚には、かなり貴重な古文書なども所蔵されていたりします。それらの中には江戸時代の学術書もあり、またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書「心(Kokoro)」や「怪談 (kwaidan)」の初版本(英語)なんてものもありました。

それらの中に混じって、古い日本の雑誌などもあり、戦前の大正、昭和初期時代の「週間朝日」などは、息抜きに読むのには最適でした。

そうした古い史料を読むことで、戦前の日本が何故、どうやって戦争に突入していったか、などの経緯がなんとなくわかるわけですが、これは現在から過去に至るまでの一連の出来事を頭の中に入れた上で、知らず知らずのうちに、その雲のような情報を系統立てて整理しているからでもあります。

現在の未来学では、昔私が図書館でやっていたような暇つぶしをもっとシステム的にやっているわけであり、こうしたプロセスを教育に取り込むことは、長期的な視点を育てる上においても、広範囲なものの見方ができるようになるという点においても、大変有効な方法だと思います。

ちなみに、私が読んだ週間朝日や他の古い日本の雑誌や新聞にも、ときおり「特集」として、「日本の未来はこれからどうなる」的な記事が組まれていました。

それらの未来予測には今現在、実現したものや実現していないものなどがあるわけですが、それらを読みながら、ああこれも当たっている、これは当たっていない、これは少し考え方が足りない、などと自分なりに論評を加えるのが非常に楽しかったことを今でも覚えています。

現在では、未来学者たちが予測した未来が雑誌や新聞などで公表される機会も多くなっています。2012年から2013年の頭にかけて、各国・各機関からさまざまな近未来予想が発表されており、日本のシンクタンクの野村総合研究所もまた、「未来年表2013~2060」を発表しています。

その結果によると、例えば、2021年の3月までには、東日本大震災のために設置された復興庁が廃止となり、2025年までは国民の医療費は、2010年時点で37.5兆円だったものが、52.3兆円と大きく膨らみます。

介護サービスの利用者も41万人にもなり、すべての都道府県で人口が減少。2040年には、高齢化率(65歳以上)が、38.8%になり、総人口は、2050年に9707万人、2060年には8673万人に減少。

経済面をみてみると、2023年には公債残高は1300兆円にもなるものの、2025年、市場が大きく飛躍して1.8兆円規模となります。

同年、IT機器の消費電力はグリーンITにより40%減少し、2030年には次世代自動車が新車販売のうち50~70%を占めるようになり、2035年、ロボット産業の国内生産量が9.7兆円規模に。2050年、太陽光発電は、交換効率が40%を超えるようになり、かつ発電コストは汎用電力並みに。温室ガス排出量は、2050年:2008年比で80%削減。

さらに、世界に目を向けてみると、2035年には、世界の再生エネルギーによる発電量シェアは、全体の1/3にも達し、乗用車の総保有台数は2010年から倍増して17億台に乗ります。世界人口は、2050年、93億人超(現況70億)、65歳以上の人口は、2010年の2.5倍の15億人に。認知症患者が増え、全世界で1億1540万人に。

……といった具合に、最近の未来学に基づいた我が国の「未来予想図」はかなり、具体的な数字をあげてその状況を挙げているのが特徴であり、その昔作られた未来予測のように、○○が×になり、△ができるようになります、的な表現がなされることはまれです。

しかし、これは野村総研のような政府へも情報を提供しているような、どちらかといえばお役所的な臭いのするシンクタンクが作った未来予想図であり、その結果もまた、政府系の研究機関が予測したものをそのまま流用していたりします。

海外のシンクタンクでは、もっと大胆な未来予測をしており、例えば、アメリカの国家情報会議(The National Intelligence Council,NIC)が公表した「グローバル・トレンド2030:もう一つの世界」という報告書では、2030年までに、以下の4大潮流が起こると想定しています。

・個人の力が増大
・世界は多極化に向かう
・富と人口が大きく移動
・食料、水、エネルギー問題が増大

これらの大きなトレンドを上げた上で、さらに具体的には、

「2030年、中国は世界一の経済大国として君臨するも、生産性が向上しないため、1人あたりGDPは先進国に追いついていかず、このため対外強硬策をとる可能性が高い。ただ、中国の栄華は長く続かない」といった予測や、「中東は民主化と中産階級の増大で落ち着くが、石油枯渇で衰退」などといった細かい予測がなされています。

また、「アメリカは世界のトップの地位に戻ることはないが、豊富なエネルギーで世界の安定勢力として貢献」とか、「欧米と日本の経済規模は、2030年までに半分以下に」、「世界の人口の半分が水の需要に苦しみ、アフリカと中東は食料と水不足の危機に瀕する」などといった予測結果もあります。

さらに、食料や水、エネルギーの不足から各国で争奪戦が起こり、このため精密な攻撃兵器や、サイバー兵器、バイオ兵器などを駆使した新タイプの戦争が起きる可能性が示唆されるとともに、2030年までに電気回路やアンテナ、バッテリー、メモリーなどの電子機器が人体とミックスされる、などの科学技術の発展にまで言及しています。

さすが未来学の本家、アメリカならではの予測であり、こうした予測結果をみると、日本のお役所やシンクタンクなどはもう少し本気を出して予測せんかい、という気にもなります。

私が調べた限りでは、他のお役所やシンクタンクの予想も、何かしょぼいというか、ひねりながいというか、あるいは想像力がないというべきなのでしょうか、ともかくあまりよく考えて作られていないものがが多いような気がします。

文部科学省が、「未来技術年表」なるものを作って公表していますが、個々の技術の予測はともかく、全体的なトレンドがどうなるとか、なぜそうなるのかとかの具体的な説明が欠けているようです。ついつい、どうせ、どこかのシンクタンクに任せて作ったのだろうと思うと、白けてしまいます。

そもそも、日本が作った未来史が諸外国で参考にされたなどと言う話は聞いたこともありません。欧米のように、国が国家的な威信をかけ、真剣に未来学に取り組むような科学者や機関を作ってもらいたいところです。

このアメリカ国家情報会議の予想は2030年の世界ですが、イギリスの経済誌「エコノミスト」が2050年の世界を予測しており、その中には、

・全世界的な高齢化にともない、アルツハイマーが増大
・3D技術と医療技術が合体し、微細な細胞を積層させ、3Dコピー機で臓器を製造
・ほとんどの車は他の車と情報共有できるようになる
・戦争はほとんど無人機とロボットの戦いに

といった昔ながらの未来予想図も含まれています。少々科学的な予測としては甘さが見られるような気がしますが、経済紙が作った未来予想だけに、あまり科学技術に詳しい学者が関与していないのかもしれません。

ちなみに、同じイギリスの国営放送局BBCが、なんと2150年先までの未来予測を発表しています。これをみると、例えば、以下のような予想がされています。

2017年 コンピューターに嗅覚が実装される
2019年 高解像度の人工眼球発売
2024年 脳内情報がコンピューターへアップロード可能に
2030年 ほとんどの航空機が自動化 中国が月に領土を主張
2037年 自動車が100%自動化が実現
2045年 人類の知能を超える機械が登場
2050年 高さ10000m(10km)の高層ビルが完成
2060年 火星に居住可能な基地が設置
2062年 世界初のクローン人間登場
2100~2112年 氷河期到来
2150年 人類の寿命が150歳以上に

この予想が「未来学」をもとに出された結果なのか、どういう人達の分析のもとになされたのかは、よくわかりませんが、科学番組で定評のあるBBCのことでもあり、なにやら非常に現実味があるかんじがします。日本のNHKなら、ここまでの予想はできないでしょう。いつもBBCのコンテンツばかり貰って放映しているようですから……

さて、今日もいつものように長くなってしまい、悪口も多くなってきたようなので、そろそろやめにしたいと思います。

最後に、今日の締めくくりとして、アメリカの科学者で「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱し、「パソコンの父」といわれた、アラン・カーティス・ケイ(Alan Curtis Kay)のことばを引用して終わりたいと思います。

これは、アラン・ケイが1970年ころに関わっていた「ゼロックス社」がその保有する研究所の将来予測を執拗に彼に求めたときの回答で、アランらの開発陣と経営陣との軋轢や見解の相違から出た言葉のようです。私も好きなことばなので、前にもこのブログで取り上げたかもしれません。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」

というのがそれです。アラン・ケイは、これをさらに別の機会に補足し、

「未来はただそこにあるのではない。未来は我々が決めるものであり、宇宙の既知の法則に違反しない範囲で望んだ方向に向かわせることができる」

とも述べています。

「宇宙の既知の法則に違反しない範囲で」というところが、彼の科学に対する謙虚な姿勢が出ていて、私が彼のことばが好きな理由でもあります。

みなさんも座右の銘にしてはいかがでしょうか。

未来予想図

先日、山口からやってきて滞在していた母が帰り、我が家はふたたび夫婦二人とネコ一匹の静かな生活に戻りました。

伊豆にいる間は、退屈だろうからと、毎日のようにあちこちに連れ歩いて観光し、おかげでこちらも、一年分かとも思えるほどあちこちの景色を楽しむことができましたが、当の本人も伊豆の自然を満足したようで、帰り際の三島駅では、何度も何度も感謝のことばを聞かされました。

こちらも、ふだんは遠く離れていて、あれこれとしてやることもできなかったものが、ここへ来てようやくできたこともあり、自己満足かもしれませんが、何年かぶりの親孝行をした気にもなりました。

タエさんも両親を亡くして久しかったためか、義理の母とはいえ、この一週間のあいだ、ひさかたぶりに親孝行らしいものをした気分になったようで、かつ楽しかったと言ってくれています。

ところで、このバーさん、昭和7年生まれで、この年は西暦では1932年になります。

この昭和の初めのころ、歴史上は何が起こっていたんだろう、と調べてみたところ、まさにこの年の昭和7年には5.15事件が起こっており、大日本帝国海軍の青年将校らが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺するなど、ちょうど日本が軍国主義まっしぐらの暗闇の中を走り始めたころのことだったようです。

さらにこの年11月にも、陸軍士官学校の教官らによるクーデター未遂事件が起こっており、5.15事件と同様の方法、手段をもって、元老、重臣、警視庁などの襲撃が予定されていましたが、このときは、未然に密告があり、クーデターは発覚して、首謀者は全員逮捕されています。

同年、満州国では帝政が始まり、執政として溥儀が皇帝となります。5月に東郷平八郎元帥が死去すると、日比谷公園で国葬が行われましたが、これを契機に東郷を「軍神」に奉る神社建設の声が全国で起こるなど、「神国日本」の著しい武装化が容認されやすいような風潮が蔓延するようになってきました。

また、海軍の神様的存在だった東郷平八郎元帥が亡くなったことにより、それまで政党内閣との協調を基本としてきた海軍首脳部をコントロールする人間がいなくなり、これが軍縮を進めようとしていた政治家たちと軍部が離反するきっかけとなっていき、その暴走がさらに加速するようになります。

ヨーロッパでも、6月には、ドイツの大統領選挙においてヒトラーが当選。総統と首相を兼任するようになるなど、その後の二次大戦へ向けてファシストたちが台頭し始めていました。

この年の暮れ、日本はついに米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。その翌年の昭和10年には、第二回のロンドン海軍軍縮会議が開催されたものの不調に終わり、その2か月後の1936年1月、日本は同条約会議を正式に脱退します。

こうして軍縮時代が終わり、日本の時計は、いよいよ戦争突入へ向けてカウントダウンを刻み始めるのです。

このように、日本だけでなく世界的にも暗い時代に入りつつあった、1935年の6月、アメリカで行われた「米国化学300年祭」の席上、トーマス・ミドグレーという学者が、「100年後の世界」を予想した演説を行っています。

ミドグレー氏は「百年後には風邪、結核、敗血症はもちろん癌とかその他の現在生命に拘はるとされてゐる多くの病気は根絶するであらう」と語ったことが、1935年6月20日付の日本の朝刊でも掲載されています。

このときから、今年で78年が経過し、100年までにはまだ22年ありますが、残念ながら今のところ、これらの病気の中で根絶したものは一つもありません。

また同じころ、ソ連の科学者たちが書いたリポートでも「二十一世紀に入らないうちに、人類はガンという疫病を忘れてしまうだろう」と自信満々に語られていましたが、この病気の根絶も当面は難しそうです。

このソ連の科学者たちによるリポートは「21世紀からの報告」という題だったそうで、その後、1959年に出版され、その中には、50年後の2009年の段階での世界の予測が記載されています。

我々は、ほぼその50年後の世界にいるわけであり、その内容には興味がそそられるところですが、そこには、例えば「携帯電話」ができているだろうと書かれており、その出現を見事的中させていることには驚かされます。

「旅行をするときにも、大きな荷物を持つこともなくポケットにテレビと電話器を入れ、小さな電子計算器をさげていけば、どこへいっても不便はしない。機械類は、みんな小さくなるので電話器もたばこの箱くらいである。しかし相手の顔を見ながら世界中のだれとでも自由に話ができる」と書かれていたそうで、かなり具体的な内容まで当てています。

医学分野でも「電波を利用した機械をつかえば、どこが悪いか見つけることができ、手術もエンピツくらいのメスで、血もださずに手術してくれる」という記述がみられ、これは現在のCTスキャンやレーザーメスを連想させるものです。

ただ、テレビや電話、そしてこれらとコンピューターの一体化までは想像できなかったようであり、このほか、モスクワに人工太陽が輝くとか、石油からバターや砂糖ができるようになるとかいった、荒唐無稽なものも多かったようです。

このように、その当時の科学先進国、アメリカやソビエトの科学者たちは、なんとか自分たちの技術の「未来予想図」を描こうとしていたようですが、日本でも、経済成長のさなかにこうした予想がさかんに行われています。

1960年に、その当時の科学技術庁が、「21世紀への階段」という調査報告書をまとめていますが、これは当時の東大の学長などの日本の科学者の頭脳を総動員して作られたレポートであり、その中には40年後の日本の姿が描かれていました。

このレポートの中身を、46年後の2006年、文部科学省系のシンクタンクなどが検証しており、その結果として、同レポートに書かれた135項目の予想のうちどれだけが実現したかを公表しています。

それによると、実現したものは、54項目であり、全体のほぼ4割にあたり、なかなかの「正解率」だったようです。

具体的には、携帯電話のほか、電子レンジ、人工授精・精子の永久保存、人工心臓、音声タイプライター、時速100kmで走る自家用車による休日旅行、などが実現しており、このほかにも原子力潜水船(透明窓を備えた潜水客船)というものもありますが、原子力潜水艦は実現したものの、商用の原子力潜水船は実現していません。

とはいえ、実現しなかったものも多く、宇宙への玄関口となる「地球空港」の設置や、家庭のオートメーション化(電子家政婦)、時速500kmのモノレールの実用化などは、実現しなかったものに含まれています。

しかし、アメリカでは現在、2030年代半ばまでに火星の有人周回飛行を行うという目標を掲げ、その計画の中で、月にその前進基地を作る計画があることを公表しており、地球空港とはいえないかもしれませんが、国際宇宙ステーションは既に実現しています。

また日本でもロボット技術が進み、ウェーターロボットや介護ロボットがほぼ実現しており、リニア新幹線も実用化はまだ先になるようですが、2003年には日本の超電導リニアが581 km/hの世界記録を樹立しています。現在は無理でもあと、20~30年後に実現しそうなものはこのほかにもたくさんあるようです。

この予測は、昭和の高度経済成長期に立てられたものですが、さらに時代を遡り、大正や明治のころに公表された「未来予想図」にどんなものがあるかといえば、例えば、「五十年後の太平洋」というタイトルで、大正15年に大阪毎日新聞、東京日々新聞が論文を公募し、同年8月から3ヶ月間両紙上に掲載した論文を単行本にまとめたものがあります。

その一等入選論文の中には、無線電送機(無線で電力を送る機械)、人造人間、「太平洋を三〇時間で横断する一〇〇余人乗り積載量五千トンの飛行機」などの実現予想に関するものがあり、また、日本で発明された「殺人光線」とドイツの発明した「人造人間」によって戦争の意味が無くなり、太平洋に平和が訪れるという予測などもありました。

この「五十年後の太平洋」が対象とする予言年限は、50年後の1976年(昭和51年)だったということですが、上述の科学技術庁による50年後の予想図と比べると、その通り実現したものは少なく、かなり低い的中率だったようです。

しかし、これより少しあとの、昭和2年(1927年)に、子供向けの科学雑誌、「子供の科学」などの出版で有名な誠文堂新光社が、「科学画報」という雑誌を出しており、この中で組まれた「100年後の科学画報」という特集での予測の中には的中したもの多かったようです。

人類、ラジオ、地下文明、建築、都市などが予測された中で、100年後、すなわち2027年には、すでに印刷物というものはなくなり、「蓄音蓄影装置」によって音や印刷情報が送受信される、と書かれており、これは携帯電話やインターネットを介したパソコンにほかなりません。

雑誌などの、編集会議では世界各地から「離身電波」によって参加するとも書かれており、これは、テレビ電話会議のことでしょうか、かなり現実に近い予想をしています。

それでは、これより更に古い明治時代の未来予測はどうでしょうか。

明治34年(1901年)の正月に報知新聞に掲載された100年後の未来予測では、電信や電話に関する項で、マルコーニが発明した無線がより進化して、無線電話で東京からロンドンやニューヨークと自由に話せるようになる、と書かれており、これは100年を待たずしてかなり早くから実現しています。

このほか、「数十年後に」東京の新聞記者は、ヨーロッパで戦争が起こったときに編集局にいながらにしてカラー写真を電送できる、とも書かれており、これも実現しています。

「伝声機が改良され、10里(40キロ)離れた男女が延々と愛を語れるようになる」というものや、電話では、相手の顔がみられる「写真電話」が実現し、写真電話を使えば、遠距離の品物を選んで購入できるようになる、といったものもあり、まるで今日のインターネット全盛の時代を予測したようなものあります。

もっとも、「品物は地中の鉄管を通って瞬時に届く」といった、現在でも実現が難しそうなものもあり、こうした過度の実現予想があちこちにみられるのはちょっとご愛嬌です。

このほか、交通技術では、19世紀末では80日間かかった世界一周も、20世紀には7日もあれば十分であろう、とか、ツェッペリン式の空中船は大いに発達し、軍艦は空を飛び、空中には砲台が設置されるはずである、などのその後の飛行機の商用化、軍用化を見通したかのような記述がみられます。

さらには、

・列車は非常に進化し、暖房冷房装置が完備する。急行ならば時速80キロで、東京神戸間で2時間半で行け、現在4日半かかるニューヨーク・サンフランシスコ間も一昼夜で行けるようになる。動力は石炭を使わないから、煤煙の汚水も出ず給水する必要もない。

・馬車鉄道や鋼索鉄道はなくなり、電気車や圧搾空気車は大改良され、車輪はゴム製となる。先進国では街路上ではなく、空中および地中を走るようになる。

・鉄道は5大陸を貫通して自由に行き来できる。馬車が廃止になり、自動車が安くなる。軍用も馬に代わって自転車と自動車がとってかわる。

などなど、明治時代になされた予測とは考えられないほど、的確な予想がなされており、しかもかなりの的中率で実現しているのには驚かされます。

しかし、現在も実現しておらず、将来にわたっても実現が困難であろうと考えられるものも当然あり、例えば、「1ヶ月以上前に天災を予知できるようになる」とか、「暴風が起これば、大砲を空中に撃つことで雨に変えることが可能となる」、「20世紀も後半になれば、津波もなくなる」といった災害の制御に関してはかなり甘い予測もみられます。

このほか、「獣語の研究が進み、小学校に獣語科ができるようになり、人と犬猫猿は自由に会話でき、下女、下男は多くが犬に占められ、犬が人の使いをする世の中になる」、などの予想もあり、こうしたものをみると、真面目にやっとるんかい、という気にもなり、笑ってしまいます。

しかし、このほかの、医学や理化学などを含めた全般的な予想結果をみても、これが100年以上も前の人が考えついたものなのか、と思えるようなものが本当に多く、明治時代の日本人の想像力の豊かさには感嘆させられます。

とはいえ、現在使われている科学技術の多くは、明治時代に既にその基礎となる技術が発明されていたものも多く、その延長上を辿って行けば、なんとなく予想はつくことは考えられ、驚くべきことではない、という見方もできなくはありません。

誰もが考え付かないような突拍子もない予測は、荒唐無稽だと一笑に付されるだけであり、新聞や雑誌といった、どちらかといえば、「まじめな」刊行物では、あまり無理な予想を出すと、読者から嫌われてしまいます。できるだけ、その当時の最新の知見を用いて、考えうる予測をするというのが筋でしょう。

しかし、SFやファンタジーなどの「空想」の世界となると、またこれは別の話になります。

サイエンス・フィクション(Science Fiction)、略してSFは、その名の通り、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称であり、その時代時代での科学的知見がSF物語のネタやたたき台となってはいますが、その内容は、まじめな未来予想とは隔絶したものになりやすいのは当然です。

しかし、逆にSFが科学の発展を方向付けることもあり、最初は空想だったものが、これがヒントとなって科学技術を発展させるとともに、その発展がさらに次の別の次元のSFを生み出すということが過去には繰り返し行われてきました。

その典型的な例が「ロボット」であるというのはよく言われることです。

手塚治虫の「鉄腕アトム」や横山光輝の「鉄人28号」、あるいは「機動戦士ガンダム」などに憧れてロボット工学の道を進んだ日本の技術者は大勢おり、現在の日本がロボット工学で世界の最先端にいるのは、こうしたフィクション漫画が普及したことに起因する、と考える人も多いようです。

アメリカでも、「2001年宇宙の旅」に誕生した、人工知能を備えたコンピュータ「HAL 9000」を実際に作ってみたい」という動機で人工知能の研究を始めた研究者が多いといいます。アメリカで発明されたコンピューター技術は、その後こうした研究者によって熟成され、今日のこの国の科学技術を支えています。

このほか、科学礼賛的な希望に満ちたアメリカの「科学小説」として、その頂点に立つといわれているのが、1911年にガーンズバックというSF作家によって書かれた「ラルフ124C41+」というSF小説であり、ここには執筆当時にはまだ発明されていなかった未来の道具が100以上も描かれています。

例えば、蛍光照明、飛行機による文字広告、テレビ、ラジオ、プラスチック、ナイター、3D映写機、ジュークボックス、液体肥料、自動販売機、睡眠学習、電波を利用した電力送信、ガラス繊維、ナイロンなどなどであり、1911年といえば、日本では明治44年にあたり、無論この当時には、その存在の影すらありませんでした。

しかし、そのほとんどが現在までに完成されており、その実現はアメリカ人の手によるものばかりではありませんが、漫画の「ドラえもん」のような、「あったらいいな」の世界を各国の技術者が、こうしたSFに触発され、具現化させてきたのです。

このように、現代社会に大きな影響を与えてきたSFですが、「最初のSF作家」として一般に認知されているのが、かの有名な、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズです。

フランス人であるジュール・ヴェルヌは、愛読書のエドガー・アラン・ポーの小説にある科学技術を織りまぜて現実性をより高めるという手法に注目し、1863年に冒険小説「気球に乗って五週間」を発表し、瞬く間に人気作家になりました。

この作品は純粋なSFではありませんでしたが、その後、本格的な科学小説として書かれ、1865年に出版された「月世界旅行」では、砲弾に乗って月へ行くという科学的な宇宙旅行が初めて描かれており、SFの嚆矢(こうし)としての意義は大きいものです。

その後も「海底二万里」や「インド王妃の遺産」などの多くの科学小説が書かれましたが、ヴェルヌの作風はその当時の最新の科学知識を活用したものがほとんどで、当時としてはかなりの現実味と説得力があり、この点がそれ以降に発表されたSF作品とは異なっていました。

これに対して、イギリスのH・G・ウェルズ (ハーバート・ジョージ・ウェルズ)も、ヴェルヌが書いた「月世界旅行」の30年後に「タイム・マシン」を書き、一躍SF作家として有名になりました。

ご存知のとおり、「タイム・マシン」は、主人公のタイムトラベラーが時間を移動する機械を発明し、西暦80万2701年の世界へ行く物語ですが、タイムマシンのほうは、当然のことながら現在でも実用化されていません。

ヴェルヌが冒険小説的な科学小説を書いたのに対し、ウェルズは「ファンタジー」をベースにしたSF小説を書いており、ヴェルヌがその小説の中で「現代世界」を描き、ともすれば単なる科学礼賛になりがちであったのに対し、ウェルズは「未来世界」を描き、幻想的・空想的要素を取り入れることを主題としました。

これにより、「現実から外挿される世界を書きながらも現実という束縛を離れる」という現代SFの特徴を最初に取り入れた作家として広く知られるようになりましたが、その作品群は「科学小説」と考えるには程遠く、蛸型火星人、透明人間、冷凍睡眠装置、最終戦争といった、いわゆる、SFの基本的な「ギミック」は彼が最初に考え出したものです。

「ギミック(gimmick)」とは、「いんちきな仕掛け・からくり・策略」のことであり、ほかにもその後のSFでは「ガジェット(gadget)」と呼ばれものが多用されるようになり、これは、「便利で気の利いた小物、ちょっとした思いつきの目新しい機械・装置、仕掛け」です。

当然、科学的な見地から考案されたものではなく、この点、ヴェルヌがその小説の中で登場させたもののように、現在の我々の世界に実現しているようなものが少ないのはあたりまえです。

それはともかく、このウェルズとヴェルヌの二人が発表したSF群が、その後のSF小説の隆盛の礎を形成したことは間違いありません。

このあと、ウェルズやヴェルヌに影響を受けたコナン・ドイルが登場し、1912年に発表された「失われた世界」や死去する前年の1929年に発表された海洋SF小説「マラコット深海」は、科学的予見に満ちたドイルの傑作といわれ、SF小説の世界ではウェルズとヴェルヌに次ぐ巨匠と目されるようになりました。

SFはその後、イギリスの作家、ジョージ・グリフィスが、後年「スチームパンク(steampunk)」と呼ばれ、現代では、歴史改変もの、サイエンス・ファンタジーの一種として知られる分野を確立し、これが大衆向けの作品として商業的に成功したため、イギリスやヨーロッパではこうしたものを中心としたSFが盛んになっていきました。

「スチームパンク」のスチームとは、蒸気機関のことであり、グリフィスの小説では、ヴィクトリア朝のイギリスや西部開拓時代のアメリカを舞台とする物語が多く、そのような中にSFやファンタジーの要素を組み込んでいます。

例えばヴィクトリア朝の人々が思い描いていたであろう、レトロフューチャーな時代錯誤的テクノロジーまたは未来的技術革新を登場させ、同時にヴィクトリア朝のファッション、文化、建築スタイル、芸術を描くというスタイルは、産業革命のラッシュで疲れていたこの当時のイギリス人やアメリカ人に大いに受けたようです。

こうして、ウェルズらによって最初の完成を見たSF小説は、スチームパンクなどのちょっと違った方向に行きかけましたが、20世紀に入ると、アメリカでは再び、未来予測的で科学礼賛的な希望に満ちた科学小説が流行するようになり、前述の「ラルフ124C41+」などの作品に代表されるような、SF小説の黎明期と呼ばれる時代に突入していきます。

こうしたSF小説の潮流は、その後の日本にも流れ込み、日本でもこうしたSF小説が広く読まれるようになるとともに、日本独自のSF名作も数多く創出されていきました……

……が、そうした歴史などを延々と書いていくと長くなりそうなので、今日はもうこれでやめにしたいと思います。

ただ、こうした日本におけるSF小説の流行は、現在世界に冠たる「日本文化」として知られる、アニメショーンなどの世界を形作る結果となっていったことに少し触れておきましょう。

SF小説から発展した世界は、いまや、漫画、アニメ、ゲームといった多くのメディアに展開され、SF大国日本と呼んでもよいほどの全盛期を迎えています。

現在、SF作品を対象とした文学賞のうち、英語圏においてもっとも有名なものは、1939年から毎年開催されている「SF大会」で選ばれるヒューゴー賞と、アメリカSFファンタジー作家協会(SFWA)に所属するSF作家・編集者・評論家などの投票によって選ばれるネビュラ賞の2つです。

SF大会は、2007年の第65回大会にはアジアで初めて日本でも開催され、その会場は横浜のパシフィコ横浜でしたが、このときのヒューゴー賞トロフィーの台座はフィギアの製作で有名な海洋堂が作成し、ロケット状のトロフィーの隣にウルトラマンが並んだデザインだったそうです。

こうしたSFに関する賞は、日本国内においても数多く創設されており、最も権威のあるものは、SF大会の参加者を中心としたファン投票によって選ばれる「星雲賞」や、日本SF作家クラブ会員の投票によって選ばれた候補作を選考委員が選考する「日本SF大賞」などです。

このほか、SFマガジン読者賞、公募新人賞などの色々な賞が設けられており、こうした賞の受賞作品は、ベストセラーになることも多く、これらを読まれた方も多いのではないでしょうか。

そこから派生したアニメーションは、ロボットと同じく、日本の文化を生み出す「源泉」となっている感があり、たかがフィクションといえども、世界に冠たる科学技術を誇る日本人によって研究され、創出された作品であり、その最先端の技術内容に真剣に目を向ければ、そこにはビジネスや科学における未来を垣間見ることができるはずです。

お気に入りのSF小説をみつけ、遠い未来に目を向けてみましょう。50年後、100年後にはあなたは生きていないかもしれませんが、もしかしたら、生まれ変わって、そこに書いてあることを体験するかもしれない、そう考えると、より楽しいかもしれません。

まだ実現していない未来をSF小説をもとに想像してみる、そして自分なりの予想図を書いてみる、というのも面白いかもしれません。そしてそれを熟成させていけば、きっとあなたもSF小説家になれるに違いありません。

近未来のSF科学小説、あなたも書いてみませんか?

わたつみのこえ


4月も下旬になるというのに、昨日までの寒さはいったいなんだったのでしょう。我が家でももう使うことはないさ、とコンセントを抜き、押入れにしまいかけていた石油ファンヒーターが再び大活躍をしています。

しかし、その寒さも今日くらいまでのようで、明日からはまた平常の気温に戻っていくようです。お天気も回復し、今朝はひさかたぶりに富士山も顔を出しています。

ところで、最近はこのブログを書くにあたり、ネタ探しのために、過去、その日に何があったかを調べる習慣がついてしまっています。

面白そうなネタがあれば、そのままその日のテーマにすることもありますが、興味のないものばかりであれば、まったくオリジナルのテーマを探さなければなりません。

この新たに「無」の状態からひとつのテーマを見つけるという作業は、実は結構しんどいものであり、時には1~2時間かかっても書きたい主題がみつからないこともあります。

そんなときは、ともかく何でもいいからテーマも決めずに書きだし始めると、次第に興が乗ってくるためか、次から次へと新しいテーマがみつかったりします。

日常茶飯事の出来事を書いていたら、思いがけなくその話が宇宙の話や太古の話に発展してしまい、自分でもアレアレっと思うのですが、おそらくこれはひとつの「ブレーンストーミング」なのでしょう。脳を活性化させるためには、案外と良いことなのかもしれません。

ということで、今日もなかなか書きたいことが決まらず、とりあえず書きだしたのですが、まだテーマが決まっていません。

が、まてよ、もう一度今日はどんなことがあったのかみてみよう、と考えて改めて調べてみると、4月22日の今日は、戦後まもない昭和25年に、日本戦没学生記念会、別名「わだつみ会」が結成された日、となっているのが目に留まりました。

わだつみ会は、「きけ わだつみのこえ」という、第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集が刊行されたのを契機に立ちあげられたもので、刊行元である東大協同組合を中心に造られた「反戦運動団体」です。

「戦争体験の継承」「戦争体験の思想化」を提唱し結成されたものであり、学生層が中心となり、最初は現在立命館大学に設置されている、戦没学生を記念する彫像、「わだつみ像」の建設などが設立目的だったようですが、次第に会派の結成目的が、「きけ わだつみのこえ」の刊行などによる平和運動などへとシフトしていきました。

しかし、次第にその運動は政治化・先鋭化し、平和運動がやがて反戦運動になり、これによる内部対立が激化したため、結成から8年後の昭和33年にはいったん解散。しかし、翌年には再結成され、これは「第2次わだつみ会」と呼ばれました。

再結成された、わだつみ会では、それまでの活動の反省を踏まえて反戦運動・政治運動からは距離を置き、会の運営も学生ではなく、やや年上の戦中派世代の知識人・著名文化人が中心となって行われました。しかし、今度は戦争経験を持たない若い世代との対立が激しくなり、10年後の昭和44年に若い会員が大量に脱退します。

こうして、その翌年の昭和45年には役員が改選されて、第3次わだつみ会が発足し、今度は戦中派世代だけによる運営が行われるようになりました。

しかし、この会派は次第に昭和天皇の戦争責任を問うという姿勢から「反天皇」を掲げた政治団体化していったことから、内外から批判が高まり、「きけ わだつみのこえ」の編集主任であり、当初から会の活動をささえてきた医師の中村克郎氏が理事長の座を追われるという事態にまで発展します。

これによって、中村克郎を慕っていた古い会員の多くが会を離れたため、平成6年(1994年)の総会では、副理事長の高橋武智氏が理事長に就任し、第4次わだつみ会が発足。

そして、その翌年に新規一転、「新版“きけ わだつみのこえ”」が出版されましたが、その内容をみた遺族や関係者から、「誤りが多い」、「遺族所有の原本を確認していない」、「遺稿が歪められている」、「遺稿に無い文が付け加えられている」、「訂正を申し入れたのに増刷でも反映されなかった」といった批判を浴びることとなります。

この問題は、さらにエスカレートし、裁判沙汰にまで発展します。

平成10年(1988年)、学徒兵の遺族たちは、わだつみ会を脱退した中村克郎氏らが発起人となって、「わだつみ遺族の会」を結成すると、新版を刊行した岩波書店に対して「勝手に原文を改変し、著作権を侵害した」として新版の出版差し止めと精神的苦痛に対する慰謝料を求める訴訟を起こしました。

これを受けた岩波書店側は、原告が指摘した批判内容を踏まえた「新版“きけ わだつみのこえ”」の改定版を3年後の平成11年に出版し、これが裁判所にも提出された結果、原告の「わだつみ遺族の会」も「要求のほとんどが認められた」としてこの訴えを取り下げました。

「わだつみ遺族の会」は、この裁判だけのために結成された会派であったためか、その後自然消滅したようです。しかし、「第4次わだつみ会」は現在でも存続しており、「靖国神社法案」の「廃絶」や、「自衛隊海外派兵に抗議」などといった、どちらかといえばかなり左寄りの活動を続けています。

靖国神社法案というのは、靖国神社を国家管理とすることを求めた法律案であり、靖国神社を日本政府の管理下に移し、政府が戦没者の霊を慰める儀式・行事を行うこととし、その役員の人事は国が関与し、経費の一部を国が負担及び補助する事を規定するというものです。

1969年に自民党が初めて法案を国会に提出して否決されますが、その後何度も提出され、そのたびに審議未了のまま廃案になってきた経緯があります。

当初この法案が国会に提出されたとき、これを支持する全国戦友会連合会や日本遺族会などは、「靖国神社国家護持」を嘆願する署名を2000万筆も集めました。

しかし、わだつみ会のような左派からは、戦前復古であるとして反対論が展開されるようになり、別の団体、とくに宗教団体なども国が靖国神社を特別視するものだとして反対論を展開するようになりました。

先日、靖国神社が、明治時代以前の「国学」を奉じる人達によって設立された経緯について書きましたが、その当事者である「宗教法人」靖国神社自身も、この法案は宗教色が薄くなることからと、その成立には反対しているといいます。

靖国神社は、明治時代に、東京招魂社として創祀され、後に現社名の靖國神社と改称されたものです。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括するという、「国家機関」の一つでした。

幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年(嘉永6年)のペリー来航以降の日本のあらゆる国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、これを柱(はしら)、すなわち「神」と考える数は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及びます。

当初これらの戦没者は、「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に「英霊」と称されるようになりました。

この「英霊」ということばは、幕末の「水戸学」の大家、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来します。

水戸学というのは、常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成されたため、こう呼ばれていますが、先日書いた、「国学」のひとつの分野です。その基本精神は「愛民」、「敬天愛人」であり、この思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、その攘夷思想は明治維新の原動力となりました。

こうした学問を標榜する人物がつくった句にある言葉を、神社に祀った人々の呼び名として適用していることなどをみても、靖国神社が「国学」を支持する人々によって作られたことがわかり、かつその政治的な本質が理解できます。

しかし、日本が敗戦すると、靖国神社は1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となります。「単立神社」であるため、伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人である、「神社本庁」には属していません。

日本中見渡してもこういう神社は他にはなく、非常に特異な存在といえます。また、伊勢神宮のような歴史のある神社にもカテゴライズされておらず、歴史の浅い神社であることがわかります。もしかしたら、「神社」と呼んでいるのも違うのではないかと思ってしまいます。

そのタテマエは、「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」ということなのですが、極東軍事裁判によってA級戦犯とされて亡くなった方々も合祀されていることから、日本による戦争被害を受けた中国、韓国、北朝鮮の3カ国などが、その存続に反発しているのは周知のとおりです。

こうした近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見があり、終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなります。

このため、近年では、8月15日を避けて参拝をする閣僚が増えており、昨日も麻生太郎副総理と古屋圭司拉致問題相が靖国神社に参拝し、その前日にも新藤義孝総務相が参拝しています。靖国神社は21日から春季例大祭であったため、安倍晋三首相も同日、神前に捧げる供え物「真榊(まさかき)」を奉納したそうです。

このように、自民党は昔から靖国神社大好き人間の集合体であり、靖国神社法案もまた、自民党によって何度も国会に提出されますが、1974年に衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了となり廃案となりました。以降、再提出はされていませんが、自民党が元気になってきた昨今では、再び再提出の動きもあるといいます。

私的には、平成の世にもなって、いまだにこんな法案にこだわる国学信奉者が自民党内にはいるのかと思うと、少々嫌気がさしてくるのですが、片や靖国神社の政治的な意味合いはともかく、国を思って死んでいった多くの戦没者の霊を弔う場、といわれると、これを敬いたいその気持ちもわからないではありません。

しかし、政治と宗教はやはり分離して考えるべきであり、そもそもがエセ国学信奉者たちが立案して作った歴史の浅い神社を、国のトップであるべき方々以下が信奉しているというのが、どうにも理解できません。みなさんはいかがでしょうか。

この問題は、更に書き続けると政治論議になってしまいそうですし、当初の話題からかなり話題が飛んでしまいましたので、元に戻しましょう。

「きけ わだつみのこえ」のはなしでした。東大の協同組合が刊行した、と書きましたが、正確には、「東京大学協同組合出版部」であり、そもそもは、昭和22年(1947年)にここから出版された東京大学戦没学徒兵の手記集「はるかなる山河に」がベースになっています。

昭和24年に初版が出された出版された「きけ わだつみのこえ」では、BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されているそうで、若い学生戦没者たちが、学業を心ならずも頓挫させられ、異常な状況に置かれたことを深く見つめたその内容に、戦時下にあっては「戦陣訓世代」と呼ばれていた多くの人々に大きな衝撃を与えました。

若い戦没者に人間としての光を当てただけでなく、本来であれば平和に生きていたはずの若者が、免れようのない死と直に向き合ったとき、どのように感じるのか、ということがひしひしと伝わってくるため、戦後、多くの人に読まれ、現在でも各出版社から文庫本で発刊されています。

ところで、また脱線しそうですが、BC級戦犯とは、B級戦犯とC級戦犯のことであり、極東国際軍事裁判における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪を犯した人ということになっています。A級と同様に、B、Cは戦争犯罪の「分類」であり、罪の重さではありません。

A級戦犯というのは、「侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行……のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与」した人ということで、要は国の中枢において戦争遂行の計画を練った人達がこれにあたり、その多くは軍部のトップや政治家たちです。これはわかりやすい。

一方、B級戦犯は、「戦争の法規または慣例の違反」ということで、戦闘員や司令官、ときには非戦闘員が「個人的」に犯罪行為を行い、交戦規則を逸脱するような行為を行った場合に適用されます。

例えば上部の命令もなく、占領地内などで、一般人を殺害したり、虐待、奴隷労働をさせた場合や、公私の財産の略奪や都市町村の建物などの破壊などがこれに含まれ、要は軍令に従わずに他国の人民に危害を加えた人達ということになります。

これに対し、C級戦犯は、「人道に対する罪」ということで、その定義は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」とされています。

しかし、この定義ではC級戦犯もB級戦犯も何が違うのか、よくわかりません。一見するとどちらも同じ罪のようにみえます。

この法概念に対しては、実は、極東軍事裁判が開かれていた当時から賛否の意見が分かれていたようです。

ただ、極東軍事裁判を担当したアメリカの国際法学者たちは、過去の軍事裁判の適用例などをみた上で、B級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者で、主に下士官、兵士、軍属であると考えていたようで、ようはB級はややエライ兵隊さん、C級はその下の平の兵隊さんが受ける罪ということだったようです。

とはいえ、そんな定義もあいまいな罪をなすりつけられて死んでいった方々にとってはとんでもないことです。極東軍事裁判とは、所詮は裁判とは名ばかりの儀式のようなものであり、戦争を主導した人を無理やり特定し、戦勝国アメリカの正義を世界に喧伝するための茶番劇であったことは、このことからもよくわかります。

この極東軍事裁判は、GHQによって、横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、これによってBC級戦犯となった人は、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされています。

また、A級戦犯としての訴追事由では無罪になったものの、B級、C級の訴追理由で有罪になった人も少なからずいたそうで、とはいえ、B級戦犯で裁かれたものの方が多く、C級戦犯はかなり少なかったといいます。

このことから、BC級戦犯となった若い学生戦没者(裁判で処刑された人も含む)の中で、「き わだつみのこえ」に遺書を残したのは、学徒出陣によって士官になったエリートさんが多いようです。その表現力も当然優れたものであり、これが多くの人の心を打ったのもうなずけます。

しかし、「きけ わだつみのこえ」は、こうしたごく少数の高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、インテリとは違って教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、一般民衆の戦争観の視点に編集側が欠けているのではないかとの批判もあるようです。

つまり、こうした書簡ばかり集めた文集は、人間本来の死を見つめたものではなく、インテリの死だけを美化したのではないかとの意見であり、こうした偏った内容だからこそ反戦平和運動のスローガンとして利用しやすかったのではないかというわけです。

また、それだけではなく、その内容が改ざんされて出版されたのではないかという疑惑があり、刊行にあたって遺族から集められた遺書が、元の持ち主に返還されなかったという事実もあるようで、これは、その改ざんが暴露されるのを防ぐためではなかったかとする説もあります。

前述した「きけわだつみのこえ」改変事件裁判も、遺族や関係者から、内容の改ざんがあったのではないかという多くの批判を浴びたのを受けての訴訟でした。

このほかにも、戦争の被害者としての若い世代ということを強調しようとしたためか、その初版本においては、編集側の方針で、軍国主義的内容に共感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、削除されていたそうです。

これについても、こうした文章を削除することで、当時の若者の軍国主義的内容への共感度や「国家への忠誠」をどのような経緯で誓うようになったのかといった背景を知る手がかりがわからなくなるという批判があり、すべてを客観的事実として掲載するべきであるという意見が相次いだようです。

改ざんした出版物によって、若い戦没者の心理に光を当てようとした本来のその出版目的が失われ、自分たちの都合の良いようにこれを利用しようとしたわけであり、このあたり、経歴詐称学者の平田篤胤が主唱したエセ国学の流れを汲む者たちが、自分たちの権益の拡大のために、神道の国教化を推進しようとした史実とどこか似ています。

いつの世になっても、日本人の本質はあまりかわらないなぁとついつい思ってしまうのは私だけでしょうか。

ところで、「わだつみ」とはそもそも何であるか、ということを書いていませんでしたので、最後にこれについて触れておきましょう。

わだつみとは、「ワタツミ」が正確な表現のようであり、日本神話に登場する海の神様のことです。

「綿津見」とも書き、日本神話でのワタツミの神の筆頭はオオワタツミ(大綿津見神・大海神)といいます(後述しますが、ワタツミは一人ではありません)。また、日本書紀には海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)という名前で出てきます。

このほか、少童神、志賀神(しかのかみ)とも呼ばれるようで、海神(わたのかみ)という表現もあるようです。

「ワタ」は「海」の古語であり、「ツ」は「の」の意味、また、「ミ」は「神霊」のことです。つまり、「海の神霊」という意味になりますが、古来、これが変じて「海」そのものの別名としても使われるようになりました。

オオワタツミは、イザナギノミコト(伊邪那岐命:♂)とイザナミノミコト(伊邪那美命:♀)二神の間に生まれた神様であり、大八洲国、すなわち日本列島を産んだイザナギ・イザナミ夫婦が次に産んだほかの木の神や、野の神と一緒に生まれた自然にまつわる神様です。

ところが、海の神様はこれ一人ではなく、イザナギが地の国に落ちた、イザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴いたあと、黄泉から帰ってきて禊(みそぎ)をした時に、三人の別の「ワタツミ」が生まれました。

これが、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神であり、この三神を総称したのが、「綿津見神」です。「大綿津見神」と一文字しか違わず、紛らわしいのですが、「綿津見神」というと通常は、この三神のどれかおひとりになります。

この三人の綿津見神が生まれたとき、同時に、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の三人の神様も生まれており、こちらは、「住吉三神」と呼ばれています。

住吉神社といえば大阪や福岡のものが有名ですが、このほか日本中のいたるところにあっていずれも「海の神様」として祀られており、その祭り神はこの三神のどれか、あるいは全員です

ちなみに、「住吉」はその昔、「スミノエ」と読み、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになりましたが、スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書き、このことからも海の神様であることがわかります。

従って、海に関連する神様は、日本神話では全部で7人もいることになります。

このほかにも、「日本むかしばなし」でよく出てくる、「山幸彦と海幸彦」兄弟の「海幸彦」も本当は、「火照命(ほでり)」という海にちなんだ神様であり、「海佐知毘古」というのが本来の呼び名です。

「海佐知毘古」はお兄さんであり、弟の山幸彦のほうは、「火遠理命(ほおり)」といい、こちらは「山佐知毘古」と書きます。

実は、この二人の兄弟は、富士山の神様のコノハナサクヤヒメと伊勢神宮のご祭神のニニギノミコトとの間に生まれた兄弟であり、火照命のほうは海で暮らすようになったことから、海幸彦と呼ばれるようになり、火遠理命のほうは山で育ったので、山幸彦と呼ばれるようになりました。

このお話では、ある日、海幸彦と山幸彦がそれぞれ持っていた釣り針と弓矢を交換してみようということになりますが、山幸彦は、海幸彦から借りた釣針をなくしてしまいます。

困っていた山幸彦(火遠理命)は、住んでいた地元の老翁の助言を求めますが、このとき老翁が、行って相談するようにと山幸彦にアドバイスしたのが、大綿津見神ということになっていて、ここのところで、この二人の海の神様が交錯しています(大綿津見神のところへ行ったのは山幸彦のほうですが)。

この話はその後延々と続き、最後には、海幸彦の許しを得た山幸彦が、大綿津見神の娘である豊玉姫とめでたく結婚して子供を産みますが、実はこの豊玉姫は、八尋和邇(やひろわに)という大蛇であって……と続くのですが、こうした日本神話の話をしていると、どんどんと深みに入り込んでいきそうなので、今日はもうこの辺でやめにしておきましょう。

ともかく、こうしたワタツミを祀る神社は、日本中至るところにあり、とくに「綿津見神社」という呼称の神社はほとんどの県にあるのではないでしょうか。

静岡にも伊東市の東松原というところに「綿津見神社」があるようです。綿津見神社の祭神は大綿津見神であったり、綿津見三神であったりでいろいろですが、大綿津見神の娘である豊玉姫やもう一人の娘、玉依姫である場合、また、豊玉姫と山幸彦の子の阿曇磯良を祀る神社もあるようです。

このように「わたつみ」は海によって囲まれた日本という国に住んでいる日本人の生活に深く根付いた神様であり、それゆえに、太平洋戦争を初めとする戦争で海に沈んだ「英霊」たちの遺言集の表題としても使われるようになったわけです。

さて、今日は山口から来ていた母が帰る日です。富士山が大好きなバーさんにもう一度富士を良く見せてあげたいと思っていたら、その願いが通じたのか、今日の富士はまた一段と綺麗です。帰りの新幹線の中でもまたきっと、その雄姿を彼女に見せてくれるに違いありません。

ただ、「わたつみ」の上にそびえる富士は、伊豆からしか見ることができません。これをバーさんに見せてやれなかったことが少々残念ですが、また機会はいずれ訪れるでしょう。

それまで元気でいてくれることを祈りつつ、今日の項は終わりにしいと思います。