いざ生きめやも


関東甲信越は一昨日から梅雨に入りました。ブログの履歴を見ると、去年は6月8日に梅雨入りしたようなので、10日以上早いことになります。

梅雨入りが早ければ、梅雨明けもおそらく早いだろうということで、今年の夏はまた長く暑くなるのではと懸念されているようですが、果たしてどうでしょう。

伊豆での夏は既に去年経験しています。しかも猛暑といわれるほど暑かったようですから、それを難なく過ごせたのならば、今年の夏は楽勝さ、と思っているのですが、そうした目論見どおりになるかどうか。

さて、その一昨日、ちょうど60年前の5月28日といえば、堀辰雄の命日だったようです。1904年(明治37年)明治の東京生まれで、昭和初期に活躍した日本の作家です。

お父さんの堀浜之助は、広島藩の士族で裁判所勤め。母・西村志気は、東京の町家の娘でしたが、関東大震災の際に亡くなっており、このことはその後の彼の作品に大きな影響を与えたといいます。

府立三中から第一高等学校へ入学。ここでの同窓生には室生犀星や芥川龍之介がおり、彼らとはこのころから親友ともいえる関係を築くようになります。

その後、東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎など、これもまた後年有名となる文芸家達と知り合っており、小林秀雄や永井龍男らの同人誌「山繭」にも関係。このころの前衛文学であり、昭和文学を代表するプロレタリア文学派と芸術派という、二者の流れとのつながりをもちました。

堀辰雄の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっているようです。

1927年、23歳のとき、芥川龍之介が自殺。その報に接し、大きなショックを受けます。この頃の自身の周辺を書いた「聖家族」で1930年文壇デビュー。 しかし、肺結核を病み、軽井沢に療養することも多くなり、これが後年、ここを舞台にした作品を多く残すことにつながっていきました。

また、病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立ったようです。後年の作品「幼年時代」(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響が強くみられるといいます。

マルセル・プルーストというのは、フランスの作家で、パリで医者の息子として裕福な家に生まれました。パリ大学で法律、哲学を学びましたが、このあとはほとんど職に就かず遊んで暮らしていたといいます。このためあまり作品を残していませんが、30代から死の直前までに完成させた大作「失われた時を求めて」は名作といわれています。

プルースト自身の分身である「語り手」を作品に登場させ、そのの精神史に重ね合わせながらこの時代のフランスの世相「ベル・エポック」を描いた大作であり、複雑かつ重層な叙述と物語構成はその後のフランス文学の流れに決定的な影響を与えたといいます。

「ベル・エポック」というのは、19世紀中頃にフランスで栄えた「消費文化」です。プロイセン(ドイツ)との戦争に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、不安定な政治体制下にありました。

が、19世紀末までには産業革命も進み、プルーストが生きた時代には、ボン・マルシェ百貨店(世界最初の百貨店と言われている)などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになっていきました。

1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であり、いわばバブル期のような豪奢な時代です。単にフランス国内の現象としてではなく、この時代のヨーロッパ文化の総体とされることも多いようです。

19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリは、その歴史において最も華やかなりしころといえ、「ベル・エポック」とはその当時の文化を懐かしんで回顧して用いられる言葉でもあります。日本でいえば、大正時代の「大正ロマン(大正モダン)」に近い感覚でしょう。

そしてこのフランスの「良き時代」を描いた「失われた時を求めて」は、プルーストの代表作となり、ジョイス、カフカとともに20世紀を代表する作家として位置づけられているようになっています。

昭和初期に活躍した堀辰雄もまた、プルーストが憧れたベル・エポックと大正ロマンを重ね合わせていたかもしれず、自らをまた日本のプルーストになぞらえていたのかもしれません。

1933年(昭和8年)、軽井沢で療養していた辰雄は、この頃の軽井沢での体験を書いた「美しい村」を発表。ちょうどそのころ矢野綾子という女性と知り合います。その翌年、矢野綾子と婚約しますが、彼女も肺を病んでいたために、1934年(昭和10年)、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院することになります。

しかし、綾子のほうはすぐに結核が悪化し、その冬には亡くなっています。そしてごく短い間にこの婚約者と軽井沢で過ごした美しい体験が、のちの堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となりました。

辰雄はこのころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受けるようになります。折口は、民俗学者、国文学者、国語学者として知られ、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた人でもあり、彼が完成させた研究は「折口学」とまで呼ばれています。

この折口から古典を習得した辰雄は、このころから王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」のような作品や、「大和路・信濃路」(1943年(昭和18年))のような随想的文章を書き始めます。また、現代的な女性の姿を描くことにも挑戦し、「菜穂子」(1941年(昭和16年))のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも挑戦しています。

ちなみに私は、高校時代に「風立ちぬ」を読んでから堀辰雄のファンになり、その後、こうした一連の作品にほとんど目を通しました。が、風立ちぬがみずみずしい風景描写や男女の心理描写に主点を置いていたのに対し、「大和路・信濃路」などは妙にジジくさい作品だな、という印象しか残っていません。

古典文学を学び、これを自らの作品に生かそうとしたことにより、それほどまでに作風がガラリと変わったということだと思います。

これら一連の「古典」を書くようになる少し前の1937年(昭和13年)、辰雄は加藤多恵(1913~2010、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌でこの人と結婚しています。

加藤多恵と出逢ったのは、その前年の昭和12年(1937)の夏のこと。その出逢いは軽井沢の西方にある「追分」でした。辰雄はこの頃、軽井沢にもほど近く、江戸時代の宿場町の面影を残すこの追分の地を深く愛するようになっており、頻繁にこの地を訪れていました。

そして定宿の「油屋旅館」に滞在中、堀は避暑に来ていた多恵とめぐり合ったのです。辰雄は1904年生まれですから、11歳も離れており、かなりの歳の差婚です。しかし、彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといい、二人は病弱ながらも情の深い辰雄に好意を持ったのでしょう。

こうして、ようやく多恵との落ち着いた生活に入った辰雄でしたが、相変わらず体は弱く、いまだ肺結核は治りきっていませんでした。

しかし、戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は徐々に世間にも認められるようになり、同じ文学を目指す多くの後輩の支持をも得るようになってきました。

堀自身もこうした後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られています。とくに、辰雄は、詩人で建築家でもあった「立原道造」を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い、慕っていたといいます。

しかし、その立原は、1939年(昭和15年)、辰雄が結婚して2年目の春に24歳で急逝しています。友人の芥川、数年前には婚約者の綾子を亡くし、また弟のように接していた立原を失うなど身近な人を次々と亡くした辰雄はかなり落ち込んでいたようです。

しかし、そんな辰雄に尽し続けたのが多恵夫人であり、自身も肺結核と闘病する辰雄を励まし、その残る短い人生での執筆作業を見守り続けました。

「菜穂子」は、そんな中、1941年(昭和17年)に書かれました。この小説の登場人物「都築明」のモデルは立原道造であるともいわれており、この登場人物も建築学科出身で建築事務所に勤めているという設定であるなど、いくつか共通点が見受けられます。作品としての「菜穂子」こそが、亡くなった立原へのレクイエムと考えたのかもしれません。

その後も辰雄の症状はあまりかんばしいものではありませんでしたが、なんとか戦争中を生き延びました。しかし、戦争末期のころからは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送りました。

しかし、多恵夫人の看病もむなしく1953年5月28日、夫人にみとられながら没しました。享年48歳。

その後、多恵夫人は「堀多恵子」の名で堀辰雄に関する随筆を多く書き遺しています。死後もこうして辰雄に尽くし続けた多恵夫人でしたが、こちらも2010年4月16日、96歳で没しています。かなり長生きといえ、辰雄のほぼ倍の人生を生きたといえます。

その後、堀辰雄の作品群はしばらく戦後の混乱の中にあって埋もれていましたが、昭和30年代ぐらいからまた脚光を浴びるようになり、「堀辰雄全集」の刊行が目指されるようになりました。そして、書簡資料を発掘し厳密な校訂を加えた稿が出され、1980年に完結。1997年にはその新版も刊行されています。

しかし、中でも堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」だと言われ、不朽の名作という評価を得ています。

そもそも風立ちぬは、1936年(昭和11年)、雑誌「改造」の12月号に、まずその「序曲」が掲載されました。翌年には、雑誌「文藝春秋」に「冬」の章、雑誌「新女苑に「婚約」(のち「春」の章)が掲載。

1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」に終章の「死のかげの谷」を掲載ののち、同年4月、以上を纏めた単行本「風立ちぬ」が野田書房より刊行され、ようやく一冊の本としてまとめられました。

その後も戦中戦後を問わず新潮、岩波文庫などから重版され続けており、現在でも「昭和文学作品フェアー」なるものが書店の主宰などで開かれているときには、たいがい他の有名作家の作品とともに書店の軒先に並んでいます。

その内容をここで詳しく書くよりも、ぜひ読んで欲しいと思いますが、簡単にいうと、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病(結核)に冒されている婚約者に付き添う「私」が彼女の死の影におびえながらも、2人で残された時間を支え合いながら共に生きる、といった物語です。

ある書評によれば、

「時間を超越した生の意味と幸福感が確立してゆく過程が描かれ、風のように去ってゆく時の流れの裡に人間の実体を捉え、生きることよりは死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味をも問うた作品である」

だそうですが、私はそこまで重い作品だとは思いません。メルヘンチックなメロドラマと受け取る人もいるかもしれませんが、そこまで軽くもない。じゃぁどんなの?ということになりますが、これはやはり実際に読んで味わっていただくしかないでしょう。

作中には「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句が出てきます。これは、ポール・ヴァレリーという詩人の詩「海辺の墓地」の一節であり、原作では“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”だそうですが、これを、堀辰雄自身が訳したものです。

ポール・ヴァレリーはフランスの作家、詩人、小説家、評論家です。先述した「ベル・エポック」などの華やかな文化を生み出したフランス第三共和政(1940年のナチス侵攻まで存続したフランスの共和政体)の時代において、多岐に渡る旺盛な著作活動を行い、フランスを代表する「知性」と称される人です。

日本の終戦の年、1945年に亡くなっていますが、その死はこの当時の大統領ドゴールの命によりフランス第一号の国葬をもって遇せられたといいます。1930年から、亡くなった1945年までの間、ほぼ断続的に毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたと言いますが、結局受賞はかないませんでした。

この「風立ちぬ」の「ぬ」は言うまでもなく過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意です。

「いざ生きめやも」の「生きめやも」「は、ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的な表現を堀辰雄が意訳したものです。生きなければならない、しかし……と、その後に襲ってくる不安な状況の予見と一体となった表現であり、なかなか絶妙な言い回しです。

またこれを、「過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている」とまで言う人もおり、うーむそこまで言うか~というかんじですが、何かと意味深なことばではあります。

この「風立ちぬ」の主人公の一人、作中の「私」の婚約者である「節子」のモデルは、無論、堀辰雄と死別した実在の婚約者矢野綾子です。

愛する人との離別を書き、文学として昇華させたものとしては、ほかにも高村光太郎の「智恵子抄」があります。私も先妻を亡くしており、先日も「智恵子抄」を読み返す機会があったのですが、こうした作品を読むと当事者のその悲しみがよくわかります。

なので、「風立ちぬ」も読みかえせばまた学生時代とは違った解釈が今はできると思うのですが、また暗い気分になりかねないので、当面はやめておこうかと思います。

「風立ちぬ」のあらすじは、だいたい諳んじてはいるのですが、ここで書いてしまうと元も子もないのでやめておきましょう。が、少しだけ触れておくと、その最後のほうでは、ある日の夕暮れに療養所で二人が、その最後ともとれる会話を交わすシーンが出てきます。

主人公は、病室の窓から見えるその素晴らしい景色を見ながら、「風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。」

というようなセリフを吐くのですが、これだけでもう泣けてしまいそうです。

この作品の最終章の「死のかげの谷」では、3年ぶりの冬、亡くなった婚約者(節子)と出会ったK村(軽井沢町)にやってきたは主人公が、雪が降る山小屋で亡きフィアンセのことを追想するシーンがあります。

ここの描写もまた美しくかつもの悲しいものがあり、まだ10代で恋愛経験も少なかった私もいたく感動したのを覚えています。

ここのところ、戦前に奥さんの智恵子を亡くし、戦後まもなく、岩手の花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住んで晩年を送った高村光太郎とどこか似ています。彼はここで7年間独居自炊の生活を送っていますが、この間に亡くした妻を述懐する詩をいくつか残しています。

もしかしたら、光太郎も堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、これを意識していたかもしれません。風立ちぬは昭和初期に書かれていますから、戦後に智恵子抄を出している光太郎が目を通していたとしても不思議はないでしょう。

さて、智恵子抄との類似点はともかく、この死別した男女の悲しい物語は、高村作品と同様に多くの人の共感を得るようになり、本としての出版はもとより、映画やテレビでも数多く作品化されていきました。

最初の映画化は、1954年の東宝作品で、監督は島耕二、主演は久我美子、石浜朗だったそうです。我々の世代では、同じ東宝から1976年に出されたもののほうが馴染み深く、このときの主演は、誰あろう、山口百恵と三浦友和でした。

このほか、 1954年(昭和29年)~1962年(昭和37年)までに4度もテレビドラマ化され、一番新しいところでは、短編の青春アニが日本テレビによって作られ、 1986年(昭和61年)に放映されています。

しかしこれ以後、映画やテレビで「風立ちぬ」は制作されていません。

ところが、今年、アニメ映画の大家、宮崎駿がリリースする同名の映画が放映される予定だといいます。彼がかつて「モデルグラフィックス」というアニメ専門誌上で発表した連載漫画であり、その直後からスタジオジブリによりアニメーション映画化されることが決まっていたようです。

今年の夏に劇場公開される予定だそうです。宮崎駿さんが長編アニメーション映画の監督を務めるのは、2008年の「崖の上のポニョ」以来となるということで、話題を集めており、また、宮崎監督が「モデルグラフィックス」で発表した漫画がアニメ化されるのは、1992年の「紅の豚」以来2作目となるということです。

ところが、話の中身は、堀辰雄の風立ちぬとは少し違ったものになるようです。主人公は、実在の人物である「堀越二郎」という航空機の技術者をモデルにしたもので、その半生を描いた作品であり、舞台となるのも軽井沢ではないらしい(原作の「モデルグラフィックス」編を読んでいないのでなんともいえません)。

堀越二郎は1903年(M36)生まれの航空技術者であり、戦後は東京大学をはじめとする大学機関での教授などを歴任した学者です。

群馬県藤岡市に生まれ、東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。三菱九六式といわれる艦上戦闘機の設計において革新的な設計を行ったことで有名ですが、零式艦上戦闘機、つまりゼロ戦の設計主任としてのほうがより知られています。

ゼロ戦のほかにも七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、雷電、烈風といった、後世に語り伝えられる数々の名機の設計を手掛けたことで知られ、戦後は三菱重工業の技術者としてYS-11の設計にも参加しています。

三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関でも活躍し、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めたほか、防衛大学校の教授、日本大学の生産工学部の教授も務めました。1982年死去。享年78。

宮崎監督は、その作品のほとんどにかならず何等かの飛行物体を登場させるほどの飛行機好きであり、このゼロ戦の設計者としても著名な堀越二郎についてもいつかアニメ化したいと考えていたようです。

このため、これから用意されるであろう映画のポスターにも、堀越二郎の名と堀辰雄の二名の名をあげ、「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」と記されているといいます。

しかし、これまで得た情報では、堀越二郎のほうの実際のエピソードを下敷きにしつつも全く別の宮崎監督オリジナルのストーリーが展開されるといい、このことについて堀越二郎の遺族に対しては事前に相談し了解を得ているようです。

が、堀辰雄のほうには言及されていないため、おそらくはオリジナルの「風立ちぬ」のストーリーとはかなり違った展開が予想されます。

配役(声優)などもまだ完全に決まり切っていないようですが、主人公の堀越二郎だけは既に決まっています。

庵野 秀明(あんのひであき)という人で、1960年(昭和35年)生まれといいますから、我々と同世代。どういう人なのかなと思って調べてみたら、なんと私と同郷の山口県の人で、宇部市出身です。

映画監督、アニメーターであり、自ら設立したアニメスタジオ「株式会社カラー」の代表取締役を務めています。代表作に「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」などがありますが、なんといっても「新世紀エヴァンゲリオン」は一番有名です。この「新世紀エヴァンゲリオン」では、第18回日本SF大賞を受賞しています。

その作品では戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊しているほどの軍事オタクといわれます。この風立ちぬの企画が持ち上がった時にも、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(兼社長)に対して、「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしいと申し入れていたそうです。

ジブリとは、「風の谷のナウシカ」の時代からの付き合いだそうで、「風の谷のナウシカ」における作画スタッフの募集告知を見て初めて上京し、その作品が原画として採用されたとか。

ジブリ作品での採用の決め手は、持参した大量の原画を宮崎監督に高く評価されたからで、「風の谷のナウシカ」では最も難しいといわれたクライマックスの巨神兵登場のシーンを任されています。

なんでそんな元アニメーターさんを声優に?という疑問なのですが、宮崎監督は、この庵野さんの声が本作の主人公としてぴったりだと思い、ひそかにその出演を希望していたそうです。

しかし、表だっては、主な声優さんをオーディションで募集することになっていたため、宮崎監督は庵野にもこれを受けることを依頼し、彼もこれには困惑しつつもオーディションを受け、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたといいます。

無論、庵野も出演を受諾。しかし、今のところ、配役が決まっているのは彼だけのようであり、このあとどんな人が配されるのかは、これからのお楽しみといったところです。

気になるあらすじのほうは、東京、名古屋、ドイツを舞台に、航空技術者として活躍した堀越二郎の10代から30代までを中心とした物語が展開されるということです。航空技術者としての活動とともに、「風立ちぬ」のようなヒロインとの恋愛シーンも盛り込まれているとのことですが、詳細はまだわかりません。

ちなみに、このヒロインの名前だけは決まっており、「菜穂子」だそうです。無論、由来は堀辰雄の小説「菜穂子」にちなんでいるのでしょう。

小説のほうの「菜穂子」では、ある小説家との恋を通じて「ロマネスク」を満喫しつつも、その後の結婚においてはその生まれ持った情熱的な性格を封じ込め、つつましく生きようとした一人の女性が描かれています。菜穂子はこの女性の娘であり、彼女を主人公として、その成長の過程で次第に母に反発していく姿が描かれていきます。

母の生き方に疑問を持ちつつも、その母と同じ素質を持っていることにある日気付いた少女が、自分の将来に破滅的な傾向を予感し、結局は心の平和を求め愛のない結婚へ逃避しつつ自己を見つめ直してゆく、という話で、私も確か高校時代に読んでいます。

女性の複雑な心理描写が書かれていて面白い、と思ったかどうかまでは良く覚えていませんが、ふーん、女性ってこんなふうに思考するのか~と、異性を知るという意味ではなかなか興味深い内容、というふうに捉えたような記憶があります。

物語の最後のほうは、不幸な結婚生活に陥ったヒロインと幼馴染の青年との再会が描かれており、彼女を想う青年の孤独な喪失感と、夫を持つ身であるヒロインの不倫感覚との対比が信州の自然を背景に美しく描かれていく……というのですが、無論細かいことは私もよく覚えていません。

ところで、この「菜穂子」の母である女性のモデルになったのは、片山広子という実在の女性作家さんです(筆名:松村みね子)。また、菜穂子の恋人の青年のモデルは、かつての堀辰雄の学友であった芥川龍之介であると言われています。

片山広子は、1878年(明治11年)生まれの歌人、翻訳家であり、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」にも登場しています。「才力の上にも格闘できる女性」という力強く生きる女性としてして描かれ、このほかにも芥川の「相聞」という作品にも出てきます。

芥川龍之介の愛人であった?というわけですが、堀辰雄もこの友人の恋人を良く知っていたと思われ、このためその作品の「菜穂子」にも登場したわけであり、このほかの堀作品である「聖家族」に出てくる「細木夫人」というのもこの片山広子といわれています。

写真をみるとなるほどな、と思わせるような別嬪さんであり、何か知性を感じさせます。晩年の自身の随筆集「燈火節」は、1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しており、文学者としての実力もかなりのものだったようです。

しかし、この「菜緒子」の主人公のヒロインの心は、実は堀自身であるとも言われています。また、菜穂子の結婚後の不倫相手、幼馴染の青年・都築明にもまた、作者自身が投影されているといいます。

一方では前述のとおり、都築明は堀の愛弟子であった立原道造もモデルではなかったかといわれており、立原の急死によってストーリーが書き換えられた可能性もあるということです。

このように、堀辰雄の作品には、亡くなった多くの人の魂が込められているようです。いつの世も、人の死は新たな芸術作品を生んでいく礎となりき……かくいう自らもまたこれなんかな……

おいおい、ところでアニメのほうの「風立ちぬ」の話はどうなったんじゃい、ということなのですが、まだ話題作として登場したばかりなので、私もこれ以上書きようがありません。

ただ、主題歌は、「ひこうき雲」というのだそうで、作詞・作曲・歌とも、あのニューミュージックの女王、荒井由実さんに決定しているとのこと。プロデューサーの鈴木敏夫が主題歌として使用したい意向を打診し、本人から了承を得たとのことですが、どんな歌なのでしょう。こちらも楽しみです。

7月20日封切りの「風立ちぬ」をよろしく。私も見たいと思いますが、みなさんもぜひ見に行きましょう。

ケイリン ~旧中伊豆町(伊豆市)


先週末の土曜日のこと、修善寺から10kmほど北東に行った山奥にある、「サイクルスポーツセンター」へ行ってきました。

私はかつてここへ二回行ったことがあります。一度目は、日本橋で勤めていた会社の社員旅行でのことであり、20年ほど前のこと。二度目はそれから数年後のことで、このときは先妻と一人息子との家族旅行でのことでした。

昔のことを思い出して少しセンチになるのも嫌だな、とは思ったものの、その後ここがどんなふうに変わっているかを知りたく、またタエさんは一度も行ったことがないわけだし、まぁ行ってみるか、ということになりました。

あまり気乗りのしない再訪問だったわけですが、後を押したのは、この日がこのサイクルスポーツセンターで一年に一回、入場料がタダになる日だったということ。

もともと高い入場料ではないのですが(800円)、それでもラーメン一杯食えるじゃないか(しかもチャーシューメンクラスが)、という意地汚さも手伝い、重い腰を上げることにしたのです。

サイクルスポーツセンターは、伊豆市の旧中伊豆町に位置する施設で、開設は1965年6月といいますから、開園からもうかれこれ半世紀にもなります。競技用自転車に関する調査研究等を通じ、サイクルスポーツの普及を促進する、ということをお題目にした競輪関連の財団が建設したらしい。

現在も、入園料や施設の利用料などの収入のほか、JKA(旧日本自転車振興会)などの競輪運営団体の寄付金や補助などで維持補修費や運営費がまかなわれています。

もともとは、自転車競技を行うことを目的にした施設だったため、場内にはロード競技用5kmサーキット・トラックレース用400mピスト(走路)・MTB(マウンテンバイク)コースなどがあり、有料で一般開放しています。東京から近いこともあり、現在でもここでレース気分を味わうマニアも多いようです。

ただしピストなどの競走路を一般利用者が利用する際には基礎脚力検査が行われるそうで、基準を満たさない未熟者は落車などの危険が生じるため、利用が認められないこともあるとか。

日本の競輪界では、ここに隣接している日本競輪学校の卒業生も多いとのことで、こうした素人さんに使わせる場合でも審査基準があるとは、さすが名だたる日本競輪界のメッカだなぁと感心至極。

現在でも、現役の競輪選手などが走行訓練を行うこともあるそうですが、我々が行ったこの日も現役選手をゲストに招いたアマチュアの大会が行われていたようです。訪問時間が遅く、それらのレースは終了したあとであり、見ることはできませんでしたが……

また、ロード用コースは自転車による一般的なレースだけでなく、自動車・オートバイなどの試乗会会場として使われることもあり、「カーグラフィックTV」というBS朝日のテレビ番組などでは、撮影にも使われるということです。

もっとも、こうしたマニア向けの施設ばかりでなく、ファミリー向けの施設もあり、3~4m上の軌道上を走るサイクルアトラクション、変わり種自転車、水上自転車などなどの各種の遊具施設もあって、これらのはこの施設の方針として、基本的には「人力で動かす」ものばかりです。

しかし、サイクルコースターという子供向けのジェットコースターやメリーゴーランド、迷路といった遊園地施設も併設してあって、小さな子供でも楽しめるようになっており、我々が行ったこの日も、利用者のほぼ9割は家族連れでした。

施設内にはこのほかにも、レストハウス、体育館、多目的ホール、 流水プール、キャンプ場、パターゴルフ場、宿泊施設などがあり、さらには温泉入浴施設(露天風呂あり)まであって、「一日中楽しめる」が謳い文句になっています。

しかし、いかんせん古い! 遊具施設は20年前に私が来たときのものとほぼ変わっておらず、また建物群もかなり老朽化しています。

入場してすぐのところにあるメインエリアには、5kmサーキットを見下ろす、これはなんと呼ぶのでしょうか、展望デッキ?観戦デッキのような鉄骨で作られたかなり大規模な構造物があるのですが、これがもうボロボロに錆びていて、あちこちに鉄骨から剥離した錆びた部材が落ちています。

さすがに施設管理者も危ないと思っているのか、一応立ち入り禁止のロープが張られているのですが、全く近づけないわけでもなく、近寄ったところへ上から錆びた鉄骨が……なんて事故が起きなければいいが……と余計な心配までしてしまいました。

このサイクルスポーツセンター、実は当初、サーキットとして計画されていたそうで、その後紆余曲折を経て、日本競輪学校と同所の敷地となったという経緯があるそうです。同じ県内では、駿東郡小山町に「富士スピードウェイ」が1966年に開設しており、もしこちらが先行していなければ、伊豆にサーキットができていた可能性もあるわけです。

結局のところ、サーキット計画は見送られ、そのかわりに「競輪のメッカ」とすることで決着したようで、このため競輪の競技コースに加え、競輪選手を養成する「日本競輪学校」が建設されました。

ちなみに、私の広島の高校時代の同級生の一人(タエさんの同級生でもある)が、母校を卒業後にこの競輪学校に入ってその後プロデビューしており、一時は1000万円プレーヤーとして活躍しています。

その彼が卒業した学校のすぐ近くに居を構えるようになるとは想像だにしませんでしたが、何かとご縁を感じてしまいます。

自転車関係者の間で「修善寺」といえば、この日本サイクルスポーツセンターか日本競輪学校のどちらかを指す代名詞となっているほど有名な場所なのだそうで、また別の意味で誇らしく思えたりするから不思議です……

しかし、施設全体は半世紀も経っているせいもあり老朽化は否めず、遊園地としての利用者もあまり多くないようです。また最近では日本のあちこちで競輪場の閉鎖が続いており、競馬や競艇といったギャンブルに押され、近年の競輪そのものも衰退傾向にあるようです。

しかし、最近はダイエットや健康志向がもてはやされる中、サイクリング・ブームなのだそうです。サイクリングロードとの連携を企業活動や観光に利用する場合も増えており、日本中のあちこちに立派なサイクリングロードが作られるようになりました。

「サイクリング」の名を冠して行われるイベントも増えており、初心者からベテランの愛好家まで多様な参加者が集まるレースも頻繁に行われるようになっています。

そのほとんどが総走行距離50キロメートルを下回り、ヨーロッパで行われているもののような長距離レースではありませんが、初心者でも参加しやすいため、こうしたレースは都市部でも行われています。

例えば首都圏最大の大会である「東京シティサイクリング」はエクステンションを含めて35キロメートルのコースであり、手軽さも受けていつも参加希望者が募集数を大幅に上回ると聞いています。

こうしたサイクリングブームの背景には、「ケイリン」がオリンピック競技として正式採用されたことも無関係ではないでしょう。

「ケイリン」とは、言うまでもなく日本発祥の公営競技である「競輪」を元に作られた競技です。が、それと区別するため「ケイリン」と表記されるようになりました。

現在では国際自転車競技連合(UCI) によって”KEIRIN”の名で正式種目と認定されており、オリンピックだけでなく、このほかの世界選手権や国際大会でも競技が行われています。

2000年に行われたシドニーオリンピックから正式採用されました。

1996年のアトランタオリンピックにおいて、自転車競技もプロ・アマオープン化されることに伴い、日本車連はオリンピックにおいても、ケイリンの採用を打診。しかし、既にアトランタでの実施種目は決まっていたため、この大会では採用されませんでした。

が、既に1980年より世界自転車選手権のほうでは採用されていたため、その後も世界各国へ技術指導等を含め、ケイリンの普及活動を行ったことなどを日本オリンピック委員会(JOC)を通じ、国際オリンピック委員会(IOC)にPR。

その結果、1996年のIOC総会において、ケイリンは正式種目として、4年後のシドニーオリンピックでの採用が決まり、ケイリンは日本生まれの五輪種目としては柔道(1964年の東京オリンピックより正式採用)に続いて史上2例目となりました。

シドニーでの初代優勝者はフランスのフロリアン・ルソーであり、日本からはメダリストは出ませんでしたが、2008年の北京オリンピックでは永井清史が日本人初となる銅メダルを獲得しています。

さらに、2009年12月に行われたIOC理事会においては、オリンピック男女平等種目数の方針が確認され、これに基づき、UCI(国際自転車競技連合)が「ケイリン女子」を提案して了承を受けたことから、2012年のロンドンオリンピックでも正式種目として採用することが承認されました。

残念ながら、ロンドンオリンピックには、日本の女子ケイリン選手の養成は間に合わず、日本はエントリーさえしませんでしたが、このオリンピックでの正式種目への採用をきっかけに、日本でも「ガールズケイリン」が復活することになりました。

「復活」と書いたのは、1949年から1964年まで女性の競輪選手による競走として「女子競輪」が存在したためです。人気面の低落から廃止となりましたが、その後幾度となく復活の話が持ち上がるたびに議論されていました。

しかし、2008年からで各地の競輪場に日本の女性自転車競技選手を集結させてケイリンのエキシビションとして実施させていたところに、オリンピックでの正式種目になったとの発表があり、このことが追い風となって、女性自転車競技選手の育成を目的する「ガールズケイリン」として正式に復活させることになったのです。

2010年5月には女子第1回生となる日本競輪学校入学者(定員35名)を募集し、2012年3月に卒業。同年7月に平塚競輪場で48年ぶりの女性競輪が開催されました。

以後も毎年の募集が行われて、選手の養成が行われ、以来、日本各地の競輪場で女子競輪選手が活躍するようになりました。復活する女子競輪の愛称は公募されたものの、結局はエキシビジョンで行われたレースと同称の「GIRL’S KEIRIN(ガールズケイリン)」とすることも発表され、ファンからはこの名で親しまれつつあります。

日本のケイリン技術は世界に冠たるものであり、おそらくは、2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、このガールズケイリン選手の中から、ケイリン種目としては日本初の女性メダリストが出るに違いありません。期待しましょう。

このように純粋なスポーツ競技としてのケイリンは、ギャンブル競技としての競輪そのものは衰退傾向にあるものの、最近のサイクリングブームとも相まって、むしろその裾野を広げようとしています。

老朽化しつつある、修善寺のサイクルスポーツセンターのもその新しい流れがやってきており、我々がここを訪れたときにも、目新しい大きな自転車競技場ができていました。

「伊豆ベロドローム」は、この日本サイクルスポーツセンター内に、日本初の木製走路競技場として建設されたケイリン競技場です。

現在日本の各地にある自転車競技場(競輪場)の走路はほとんどがアスファルト仕様ですが、2000年のシドニーオリンピック以降、トラックレースの国際大会は概ね、室内競技場、1周 250メートル、木製仕様の走路、で行われることが常となっています。

この観点を踏まえ、当場の開設が検討されることになったわけであり、昭和46年の発足以来、日本の自転車の中心ともいえ、自転車競技の発展に寄与してきたサイクルスポーツセンターに、今後のわが国の自転車競技の振興に資することを期待して建設が行われることになりました。

この日本初となる屋内型板張り250mトラック「伊豆ベロドローム」は、財団法人JKAの後押しを受け、公営競輪競技からの利益金を用いた競輪補助事業として2009年から建設が始まり、3年を経て2011年10月に完成しました。

ベロドローム(Velodrome)はラテン語で自転車競技場を意味します。走路が木製仕様の自転車競技場は、日本では西宮競輪場(1949年〜1965年)以来となりますが、常設および室内の木製走路の自転車競技場としては、無論、日本初です。

走路にはシベリア松を使用。北京オリンピックでトラックレースの会場となった老山自転車館を設計したドイツ人のラルフ・シューマンが設計を担当したそうです。

周長250m 木製走路は前述のとおり、最大カントはなんと45度もあるそうです。観客席数 常設1800席、仮設1200席。長軸方向119m、短軸方向93m、高さ27mという規模は、室内競技場としては国内で最大規模です。

日本自転車競技連盟はかねて、トラックレースのみならず、ロードレース、マウンテンバイクレース、BMXについても1箇所で強化できる拠点作りに着手しており、ここサイクルスポーツセンターには長年のその下地があり、ここに建設すれば相乗効果が狙える、と考えたようです。

22011年9月には、かつて世界選手権の「スプリント」で10連覇(1977~1986年)を達成した中野浩一らを招いての竣工式が行われ、同年10月1日に開場。同年同月14日〜16日まで開催された全日本自転車競技選手権大会のトラックレースが杮(こけら)落しの開催となりました。

以後、かつての競輪ブームの再来を思わせるような数々の熱血レースがここで行われてきており、我々が訪れたこの日も大きな大会があったようです。やがてここで活躍した選手の中から、オリンピックで活躍する選手が出てくるに違いありません。

また、2020年にもし東京オリンピックが実現するようであれば、ここがその競技場のひとつとして採用されるのはほぼ間違いないのではないでしょうか。東京からの距離は多少あるとはいえ、これだけの競技場は関東地方にはおそらくないでしょうから。

ところで、ケイリンの競技というのはどんなふうに行われるのか興味があったので調べてみました。

オリンピック競技種目としての「ケイリン」は、主に6名以上の選手で争われますが、基本的なルールは競輪の「先頭固定競走」とほぼ同じだそうです。選手とは別に先頭誘導員が1人いて、電動アシスト自転車、またはデルニー(モペッド)を使い、決められた周回を先頭で空気抵抗を減らしながら走ります。

モペッドというのは、ペダル付きのオートバイで、エンジンや電気モーターなどの原動機だけで走行することも、ペダルをこいで人力だけで走行することも可能な車両です。その昔、大正や昭和の初めには原動機付きの足こぎ自転車があったようですから、あれと同じようなものと考えればよいでしょう。

先頭誘導員がいるのは、一番前にいる選手が風の抵抗を受けて不利になるのを避けるためです。ギャンブル営競技としての競輪では、誘導員は自力で自転車を動かしますが、国際競技のケイリンではこれを動力としたのは、この誘導員の力量によって競技結果が左右されることを憂慮したためでしょう。

そしてレースが始まってしばらくすると、誘導員が審判の合図により先頭を外れ、圏内線の中へ退避します。このあたりから本格的に競走が始まり、各々1着でゴールできると思った位置からダッシュをかけ、しのぎあいが始まります。

各組2人から4人が先着トーナメント方式で勝ち上がる形式であり、また敗者復活戦もあります。その勝者は準々決勝あたりで合流することから、大逆転もあり、このあたりの勝敗の行方は混とんとすることも多く、非常に面白いといいます。

選手同士の連携はギャンブル競技の競輪とは異なりそれほど重視されません。このため、競輪とは異なる戦術・技術を必要とする場合も多く、日本のトップ競輪選手といえども国際大会のケイリンにおいて強さを発揮できるとは限りません。

事実、先般の北京オリンピックで日本は「ケイリン」競技で銅メダル、またその前のアテネオリンピックでは「チームスプリント」で銀メダルと、4年に1度のオリンピックでは2大会連続でメダルは獲得したものの、世界との差は広がったままであるのが実態です。

これについては、いろんなことがいわれているようですが、1996年以降、オリンピック及び世界選手権が行われる競技場が、屋内型板張り250mトラックが主流となってきたことがそのひとつの理由と考えられています。

1993年に吉岡稔真選手がケイリン種目で獲得した銅メダルを最後に世界選手権においては表彰台に上がる日本人選手が出ておらず、このことはほぼ年代的にも符合しています。

日本における自転車競技場は、その大半が従来の競輪場で行われており、これらの競技場の周長は400mを中心に、333.3m、500mの3種類、表面はアスファルト製の走路であり、いわゆる現在の世界標準である屋内型板張り250mトラックはありません。

従って、海外遠征を行わない限り、本番と同じ環境、つまりは屋内型板張り250mトラックでの練習・訓練が出来ない中で戦っているわけです。

これは、他国と比べて明らかなハンディ・キャップであり、この状況が続く限りはこれ以上の競技力の向上を望むのは困難であることは明らかです。

伊豆ベロドロームは、こうした背景から作られた、いわば明日の日本の「ケイリン」界をしょって立つホープ選手養成のための重要な練習場というわけです。

ところでオリンピックといえば、その開催と同時に行われるのがパラリンピックです。実は、我々がここを訪れたとき、その日のレースは終わっていたのですが、時期リオデジャネイロパラリンピックへ出場予定の選手の「壮行会」と称するイベントが行われていました。

我々が場内を見学していたところ、ちょうどその出場選手の一人らしい方が、デモンストレーション走行を始められました。みると、なんとその方は左の足がなく、義足もされておらず、全くの片足(右足だけ)で、自転車を漕いでおられたのです!

この方とは別にもう一人ハンディキャップの方がいたのですが、こちらは左足に義足をはめておられました。その方が先導する形で、このベロドドーム内の周回コースを一周されたのですが、さすがに片足だけに、最後のほうはかなり失速し、しんどそうでした。

しかし、ゴールするやいなや、会場にいた十数人の観客からは暖かい拍手が贈られ、これに対して先導者の方からは大きな声で「ありがとうございました」の声が返ってきました。

思いがけなく出くわしたワンシーンだったのですが、思いがけない感動に、あとで家に帰ったあとも妙にこのシーンが脳裏に焼き付いて離れません。

伊豆ベロドロームは、健常者のメダリスト養成場としてだけではなく、こうしたハンディキャップを持った人達の修練の場でもあるわけです……

さて、今日も今日とて長くなりそうなので、この辺にしましょう。本当はギャンブル競技としての「競輪」のほうについても書きたかったのですが、これはまた後日にしましょう。

日本列島は、昨日中四国・九州地方が梅雨入りしたということで、早晩この伊豆の梅雨入りも免れません。少しでも陽があるうちに、と今日はコタツ布団と下敷きカーペットの洗濯をしました。

皆さんも冬物の洗濯を急ぎましょう。じめじめむしむしの日々はもうすぐそこにまで来ています。

バガテル公園アゲイン ~河津町

先週のこと、そろそろ河津のバガテル公園のバラが見ごろだということで、二人して行ってきました。

去年に次いで二回目のことであり、何時ごろいったかな、と昨年のブログを見てみると、6月の上旬になってから出かけています(6/8ブログアップ)。

なので、温暖な河津のような場所では、バラの時期としては少し最盛期を過ぎている、というかんじであり、たしかに終わってしまっていたバラも多かったように思います。

で、今年はどうなのよ、ということなのですが、さすがに「旬」ということで、ほとんどのバラが満開状態であり、いやはや堪能しました。お天気も昨年はぱっとしないものでしたがこの日は晴天であり、青い空と色鮮やかなバラとのコントラストが楽しめました。

園の入口付近に入っただけで、ウッというほどにバラの甘い香りがたちこめており、この匂いが大好きな私はそれだけで酔ってしまいそうです。

一本一本のバラの香りを嗅いで回れるほど、「かぶりつき」でバラが植えられているのもこの公園の良いところ。あぁこれは好きな匂いだ、これは少し甘すぎる、これは上品な匂い……と自分なりに評定を加えながら園内をじっくりと歩くのも楽しく、無論、香りだけではなく、その色鮮やかな花々も本当に素晴らしいものです。

たしか、開園以来10数年経っているはずですが、バラの苗も若いためか勢いがあるかんじがします。本当に今、若い盛りのプリプリといったかんじで、生きのいいここのバラはできるだけたくさんの人に見て欲しいと思います。



この河津バガテル公園は、伊豆急河津駅から車で10分ほどの高台にあります。山間の緩傾斜面の土地をうまく整地して作ってあり、その広さは約5ヘクタール。うちの2haあまりがバラ園(甲子園球場が、1.3ヘクタールのおよそ2倍)であり、ここに1100品種6000株のバラが植栽されています。

左右対称の幾何学模様が特徴のフランス庭園式であり、これはパリのブローニュの森にあるバガテル公園を模して作ったものです。本家の1100種9500本には及びませんが、このパリのほうからも「姉妹園」として認められているそうで、その植樹のノウハウなどもパリ市やバガテル公園協会から直接指導を受けているそうです。

バガテルとはフランス語で「小さくて愛らしいもの」という意味。去年のブログでも書きましたが、初期のパリ・バガテル公園は、18世紀にルイ16世の弟のアルトワ伯爵という人が命令して、建築家のブランジェとその助手に作らせたものです。

それまでのクラッシックなフランス風の庭園ではなく、フランスの田舎の風景を模したものを作りたかったようであり、とはいいながら最初のものの原型は残っておらず、1905年にパリ市が公園を買収したあとは、このころ人気のモネなどの印象派の画家達の影響を受け、初期のものよりもかなり華やかになっているようです。

河津町がなぜこんな山奥に公園を作ったのかはよくわかりませんが、もともと河津町にはたいした産業などもなく、町内を流れる川べりの河津桜に代表される観光産業などに注力してきたという経緯があります。

ほかにも、天城山に近い山奥に河津七滝(ななだる)とよばれる七つの滝があるほか、天城トンネル、河津温泉郷(湯ヶ野温泉、河津七滝温泉)といった温泉施設もあり、街中にはこのほか、間欠泉がある峰温泉という温泉があります。間欠泉のある場所は「大噴湯公園」として整備されており、人気があるようです。

最近では花卉栽培にも力を入れていて、「かわづカーネーション見本園」なるものが河津川沿いで開かれているほか、バガテル公園と同じく花を売りにした公園としては「かわづ花菖蒲園」も整備されていて、バガテル公園の観覧券とこの菖蒲園の観覧券を合わせて格安にセット販売していたりしています。

山だけでなく、今井浜海水浴場という海洋リゾートまであって、ここにも今井浜温泉という温泉施設があり、海あり山あり、川あり、花あり温泉ありで、ありありだらけです。なので、どちらかといえば地味な印象の河津なのですが、もう少し脚光を浴びてもいいのかな、という気がします。

ただ、さすがに花のないオフシーズンには人は少ないだろうなーと。ところが、このあたりは町の人達も考えているようで、バガテル公園の入口付近には最近大きな温室が作られていました。おそらくここで、花の少ない季節に地場産業として定着している花卉栽培技術を使ってカーネーションなどを見せようというのでしょう。

このほか、冬場だからこそ強みの出る温泉施設の充実も図ろうとしているみたいであり、この辺、いつも思うことですが、花と温泉で町の活性化を図ろうとしている修善寺とどこか似ています。もっとも、修善寺には海はなく、その代りにたくさんの歴史施設があるという違いはありますが……

それにしても、バガテル公園の園内各所は、いつもきれいに清掃されていて気持ちがよいことこの上ありません。もともとがフランスの庭園を意識して作られ、バラの栽培技術もあちらから導入しているだけあって、こういうのがフランス式の公園整備なんだろうな~と思わせるようなものがあります。

あちこちに、花を寄せ植えにしたワゴン車が置いてあって、これがまた公園の景観を形作る良いアクセントになっており、レストランやカフェやショップなどの合間あいまに植えてあるプラタナスやポプラの木の佇まいもまた魅力的です。

が、食事施設をもう少し充実させてほしい気がします。喫茶施設は十分だと思うのですが、ここのレストランのランチは2300円、入園料と合わせて2800円というのは、バラが一杯咲いている季節はともかくとして、花の季節が終わったらどうなのかな、という気がします。

もっとも他にもパスタやピザ、サンドといった単品もあるようですが、全体的にやや高め。メニュー自体も女性向を意識されているようにも思いますが、男性陣としてはもう少しボリュームのあるものが欲しいところ。まぁもっとも、こういうところですから、そばやラーメン、かつ丼といったメニューが並ぶのも考え物ですが……

これらカフェやレストランなどのお食事どころの横には、バラの苗を直売しているガーデニングショップもあります。一般のホームセンターや園芸店では置いていないような品種のバラも置いていて、買うとしたらどれかな~と見歩くのも結構楽しいもの。

新苗が1000円、大苗が3000円というのも、やはりホームセンターよりもやや高めですが、それでもこれだけの品種がそろうホームセンターはあまりないでしょう。

昨年は、この中から二株の新苗を買って持ち帰り、一年間鉢植えで養生し、つい先日庭に下したばかりです。そのうちの一つが、ついこの間大輪の花を咲かせ、フルーティな匂を周囲に振り撒いておりましたが、いやはやバラはやはり手間暇がかかります。

水やりや肥料、病虫害対策が結構大変であり、放っておいても花が咲くサツキやあじさいとは大違いです。それだけ手間暇かけたあとに咲いたものを見ると本当にうれしくなりますが、古今東西、そのバラづくりだけに生きがいを見出している人も多いようで、日本でも多くのコンテスト(品評会)があったりします。

この薔薇、ヨーロッパが原産かと思ったら、日本はバラの自生地として世界的にも知られているそうで、品種改良して近年流通するようになったバラの原種は、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシなどだそうで、いずれも日本を原産とするバラです。

古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、「万葉集」にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があります。

ヨーロッパから入ってきたものは、江戸時代初期に、仙台藩の支倉常長が慶長遣欧使節として渡欧したときに持ち帰ったバラが最初のものとされています。このときのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある厨子にも描かれているそうで、このためこのお寺さんは現代でも「薔薇寺」と呼ばれて親しまれているとか。

その後、江戸時代には身分を問わずに流行しましたが、現代のようなも大輪のものではなく、「コウシンバラ」「モッコウバラ」などのツルバラが多かったようです。

明治期以降、第二次世界大戦前までは、バラはまだ「高嶺の花」であって、庶民が栽培するようなものではありませんでしたが、戦後すぐの1948年には銀座でバラの展示会が開かれ、さらには1949年には横浜でバラの展示会が開かれるようになります。

こうしたことから鳩山一郎や吉田茂といった有名人でバラの愛好する人も増え、戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していくようになりました。

また、鉄道会社が沿線開発の一環として、バラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園されるようになりました。これを一番最初に始めたのが京阪電鉄であり、同社は「東洋一のバラ園」の造園計画をぶち上げ、「ひらかたばら園」という大きなバラ園を実際に開園しています。

ちなみに、この京阪電鉄が行ったバラ事業はその後、「京阪園芸株式会社」として発展し、現在でも多くのバラの苗を栽培して、各地のホームセンターに卸しています。お近くのお店などで、この会社の名前が入っているタグがついたバラ苗を見たことがある人が多いのではないでしょうか。

「ひらかたばら園」のほうも同社の運営により、現在は「ひらかたパーク」という遊園地として発展し、現在もバラの季節には多くの観光客で賑わっているそうです。

……とこの後もバラの話題を続けようかとも思ったのですが、バラについては昨年の7月に「バラ・薔薇」の題で結構書いているので(7/25)、もうこのくらいにしておきましょう。いろいろな有名人の名前にちなんだバラ品種が開発されている、との話題などでした。ご興味のある方はそちらもどうぞ。

さて、この上天気も明日一杯くらいのようです。来週からは梅雨の前哨戦なのか少し天気の悪い日が続いていくようなので、お出かけはできるだけ今日明日にしましょう。できれば、前回見損なった中伊豆の「大見城」を見に行こうかと思いますが、もしかしたら萬城の滝まで足を延ばすかもしれません。

そういえば、伊豆へ来てまだ「滝シリーズ」を制覇していないので、今年はぜひチャレンジしたいと思います。暑くなるこれからはぴったりのテーマです。乞うご期待。

関東管領 ~旧中伊豆町(伊豆市)

最勝院裏手、龍若丸墓地へと続く道

新緑の色が一段と濃く成ってきました。日中の気温は連日25度を超えるようになり、梅雨にも入っていないのに、もう夏といってもよいくらいの陽気です。

そんな中、お天気も良いし、花が散ってしまってからは遅い、ということで、河津のバカテル公園へ行ってきました。先日も松崎の岩科学校へ行ってきたばかりであり、最近は南伊豆方面へ出かけることが多くなっています。夏が本格化すると、伊豆は観光客でごったがえすので、今のうちに……という気持ちもあるからですが……

今日は、そのバカテル公園のバラの様子を書こうかとも思ったのですが、先日最勝院のことを書き、その中で、「関東管領」のことを書きかけてやめてしまったので、引き続きこのテーマに本格的に取り組もうと思います。

関東執事・関東管領の誕生

さて、そもそも関東管領とは何なのでしょうか。

鎌倉幕府を倒して、室町幕府の初代将軍の座についた足利尊氏は、当初嫡男の義詮(後の二代将軍)を鎌倉の主に据えましたが、その後彼を手元に置いて自分の後継として育てようと考え直し、京都へ呼び戻しました。

しかし、足利家の不在によって関東地方が荒れるのを恐れ、嫡男の代わりに次男の亀若丸(足利基氏)を関東統治のために鎌倉へ派遣しました(1349年、正平4年/貞和5年)。これが、「鎌倉公方」のはじまりです。

ただ、基氏はまだ幼かったため、これを補佐するために「執事」と呼ばれる補佐を置きました。これが後年の「関東管領」になっていきます。

しかしこのころ、京都にも将軍を補佐する役割の武士がおり、これも執事と呼ばれていたため、これと区別するために、鎌倉のほうの執事は「関東執事」と呼ぶことにしました。

当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清といった複数の関東の有力武将が任じられましたが、次第にこのうちの上杉氏が一番力を持つようになり、最終的には一人枠の執事職(関東管領)を、上杉氏が世襲していくことになります。

上杉氏というのは、元々は天皇家に仕える公家でしたが、鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となった一族です。

上杉家には諸家があり、このうちの山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が一番力を持っていました。山内上杉家は、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家です。

名前の上に「山内」が付くのは、鎌倉の山内(鎌倉市山之内、現在でも「管領屋敷」の地名がある)に居館を置いたことにちなみます。

当初、山内上杉氏は上野国(こうづけのくに、現栃木県を中心とした地域)を中心とした地域だけに勢力を持っていましたが、関東管領に任じられるようになってからは次第に勢力を拡大し、のちに伊豆半島の守護も任されるようになります。これが、関東管領と伊豆のつながりの始まりです。

「上杉憲顕(のりあき)」は、この上杉家として一番最初に関東執事になった人です。しかし他の関東勢と執事任命を巡っての権力争いに一度は破れて失脚し、越後に隠遁して過ごしていました。が、鎌倉公方の足利基氏に請われて、1362年(正平17年/貞治元年)に復職します。

関東執事としては四代目になりますが、このときから、関東執事は「関東管領」と呼ばれるようになります。

関東管領と鎌倉府の対立

このころに関東管領の守備範囲は、上杉家の勢力範囲でもある上野国(主に現栃木県)を中心とした北関東一円でした。ところが、その後、鎌倉公方の足利基氏が急死。このため、鎌倉公方が主に治めていた南関東の武蔵の国一帯にたびたび反乱がおきるようになります。

このため、室町幕府から関東管領の上杉家にこれらの反乱の鎮圧の要請があり、これを見事に遂行した上杉管領家は、その後、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めるようになっていきます。そして、代々関東管領の職を独占するようになり、以後関東管領が消滅するまで、上杉家の世襲制になりました。

無論、鎌倉公方は廃止されたわけではなく、3代鎌倉公方には足利満兼という人物がおり、鎌倉に鎮座しています。しかし、実質権力は関東管領が握っており、鎌倉公方は有名無実の公方となりさがっていました。

このころ、室町幕府の将軍は三代目の足利義満になっていましたが、将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強するとともに、有力守護大名の弱体化を画策していました。

とくに、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね、貿易により財力を有する強大な勢力であり、周防・長門(現山口県)を拠点として勢力を伸ばしていた山内義弘を当主とする、「山内家」の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘っていました。

そして、義満が金閣寺の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めとき、山内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わなかったことなどを理由に、義満は山内義弘から和泉、紀伊などの守護職を剥奪しようとするなどの動きを見せます。

また、義満は度々義弘へ上洛を催促するようになりましたが、「上洛したところを誅殺される」などの噂が流れたことから、追い込まれた義弘はついに、室町幕府に反旗を翻すことを決め、美濃の土岐詮直や近江の京極秀満、比叡山・興福寺衆徒などと連絡をとり共に挙兵することをうながしました。

そして、あろうことか、このころ三代目鎌倉公方となっていた足利満兼がこの山内義弘の誘いに乗り、いざ事あらば呼応するとの密約を結んでしまいます。

もっとも、鎌倉公方は、初代の足利基氏、二代目の氏満代、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになってきており、三代目の満兼の代でも京都との緊張関係が続くという背景がありました。

こうして、1399年(応永6年)、大内義弘は軍勢を率いて和泉に着き、ここで挙兵・篭城しましたが、この動きに、義満は自ら指揮をとって、3万の軍勢で出陣。河内国(大阪府)堺に籠城する大内勢と激戦となりましたが、数では圧倒的に劣る大内勢は最初から苦戦してしまい、また、幕府側に寝返るものも出てきて次第に義弘は孤立。

そして、およそ1ヵ月半の激闘を繰り広げた後、義弘はついに打って出て戦死してしまいます。

このころ、上杉家では、上杉憲顕から数えて既に7人の関東管領を出しており、「上杉憲定」(在任1405~1411年)の代になっていました。そして、この大内義弘が挙兵した応永の乱において、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を厳しく諫言しました。

これに反発しつつも足利満兼は結局挙兵を思いとどまりましたが、やがて上杉憲定をも疎んじるようになり、以後関東管領と鎌倉公方の関係も急速に冷え込んでいきました。

山内上杉家の台頭

しかし、満兼が1409年(応永16年)に死去するとその子供の、「足利持氏」が四代目の新公方になります。

このとき、足利持氏の信任を得たのは、山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の「上杉氏憲」であり、このため上杉憲定は失脚するところとなり、その代わりに関東管領に就任したのは氏憲でした。

そして氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆や満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとしはじめます。

ところが、1415年(応永22年)の評定で、氏憲はまだ子供だと思っていた足利持氏から手厳しい反論に合い、その後この二人の仲は険悪になっていきます。

やがて氏憲は関東管領を更迭され、その後任には、敵対する山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が就任します。

このため、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、犬懸上杉家と姻戚関係にある一族や地方の国人衆なども加え、翌1416年(応永23年)に、鎌倉公方、足利持氏と上杉憲基への反乱を起こしました。

これが、「上杉禅秀の乱」と呼ばれる内乱であり、禅秀とは、このころ出家していた上杉氏憲の法名になります。

上杉禅秀一派の足利満隆は、鎌倉の御所近くの宝寿院に入り、氏憲と共に持氏と上杉憲基を拘束しようとしましたが、両者はともに家臣に連れられて既に脱出していたため、事なきを得ました。

この反乱の報に接した京都幕府は、駿府の今川範政らや、宇都宮氏らに満隆・氏憲の討伐を命じました。そして翌1417年(応永24年)の戦いで氏憲や満隆らは善戦しましたが、配下の武将達が次々と離反するに及んで遂に力尽き、応永23年(1417年)1月10日、満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害して果てました。

この乱で敗北した事により、犬懸上杉家は事実上滅亡しました。ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けています。

これにより、以後、関東管領は、上杉家の中でも、山内上杉家が代々世襲していくことになります。そして、「上杉憲実」が1419年(応永26年)、父である上杉憲基に変わって関東管領に就任しました。関東管領としては、実に19代目になります。

以後、山内上杉家は、主に関東地方一帯の守護及び地頭の管理に当たるようになり、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになります。しかしこうして権力の頂点に至ったことにより、さらに鎌倉公方との対立が深まっていくことにもなりました。

鎌倉府の閉鎖と復活

一方、京都の足利幕府の6代将軍に就任した足利義教と、鎌倉公方の足利持氏は上杉禅秀の乱が終わったあと、再び対立し始めます。

実質関東地方一円を治める実力者となった山内上杉家でしたが、京都の室町幕府から関東の管理を任されているにすぎず、所詮は鎌倉公方の補佐です。このため、京都の幕府からの指令には抗えない立場であり、このためことあばら京都幕府ともめごとを起こそうとする持氏を上杉憲実はたびたびいさめています。

ところが、反対に持氏に逆ギレされ、持氏が自分を暗殺しようとしているという風説まで流れるようになったため、いったんは管領職を辞して上野国に逃れます。そして、実際に持氏が憲実追討のために持氏が兵を起こそうとする動きを見せたため、武蔵府中に陣を構えました。

そして、京の将軍足利義教とも呼応して、鎌倉を攻め、持氏を自害させることに成功します。こうして、およそ90年間にわたって続いてきた鎌倉府(鎌倉公方)はここにきていったん閉鎖されることになりました。1438年(永享10年)のことであり、この乱は「永享の乱」と呼ばれています(ただし、鎌倉府は後年復活)。

ところで、この鎌倉府を閉鎖に追いやった人物、上杉憲実こそが、先日我々が訪れた最勝寺を創建した人物です。祖父の上杉憲栄(管領職は拝領せず)の追善供養のためこの寺を開いたといわれています。

この上杉憲栄(うえすぎのりよし)は、1422年(応永29年)に没した人で、初期のころの上杉関東管領として活躍したあの上杉憲顕(前述の山内上杉家の始祖)の実子になります。

父が没した跡を受けて越後守護となり、在京して幕府のために長い間働きましたが、28歳という若さで出家して遁世し、但馬(現兵庫県北部)で坊さんの修業を積んだあと、山内家の所領であった伊豆にやってきました。そして、「八幡(はつま)」という場所に隠棲し如意輪寺というお寺を創建します。

調べてみたところ、この八幡というのは、修善寺から伊東へ行く県道12号の途中にある字で、現在の伊豆市役所の中伊豆支所のある地域一帯をさすようです。如意輪寺がどんなお寺だったのかといった細かいことはわかりませんが、今はもう本堂などは残されておらず、ただ寺跡らしい後だけは残っているようです。

上杉憲栄はこの寺で父の上杉憲顕の菩提などを弔っていたようですが、この如意輪寺で72歳で亡くなっています。

上杉憲実がなぜ、この祖父の憲栄の菩提寺を同じこの八幡の近くの大見に建設したのかはよくわかりません。最勝寺の寺伝によると創建は、1433年(天文元年)ということであり、これが事実だとすると、上述の永享の乱の5年ほど前ということになります。

このころはまだ鎌倉公方と幕府の対立は始まっていないころであり、上杉家が関東管領を務める関東地方の情勢も比較的安定し、財も相当蓄えていた時代であると考えられることから、この機会に戦乱の影響が及びにくい山里に先祖の菩提寺を建立しようとしたのかもしれません。

上杉憲実は、上野・武蔵・伊豆守護を司る関東管領として務めるかたわら、室町幕府将軍義教と持氏の融和にも努力した篤実な人物であったようです。またそれだけでなく、足利学校や金沢文庫を再興した文化人としても知られています。

足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関です。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であったといいます。

また、金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉中期の歴代の執権北条氏を影で支えた「北条実時」が建設した武家の文庫です。日本の初期における私設図書館とも位置付けられており、その創建は1275年(建治元年)ごろではないかといわれていますが、上杉憲実のころにはかなり荒れ果てていたらしく、彼がこれを再建したと伝えられています。

さて、少し寄り道しましたが、本題に戻りましょう。

鎌倉府と足利幕府との争いに巻き込まれ、そのため一時関東管領を辞していた上杉憲実ですが、1440年(永享12年)に下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて再び幕府に反抗する反乱を起こすと、その鎮定に協力するために復職します。

その後しばらくして再び管領職を辞するなどの出入りを繰り返していますが、その後1447年(文安4年)に、幕府の命により鎌倉府が再興されるまでは、この憲実率いる上杉家がしっかりと東国支配を行っていました(約9年間)。

古河公方と堀越公方の誕生

しかし、幕府は関東管領の権力が大きくなりすぎるのを警戒したのでしょう。その命により、鎌倉府を復活させます。すると再び、関東管領である上杉家と鎌倉府の対立が起こるようになり、持氏の別の遺児、足利成氏が鎌倉公方となると、1454年(享徳3年)に成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の長男)を暗殺しています。

自らが鎌倉公方を復活させておきながら、この争いをゆゆしき事態だと考えた室町幕府は、駿河守護であった今川範忠によって、足利成氏を攻めさせます。これによって鎌倉府を追われた成氏は、古河(現茨城県の西端)を本拠とするようになり、以後自らを「古河公方」と名乗るようになります。この一連の乱は世に「享徳の乱」と呼ばれています。

いったん、鎌倉から古河へ追い込まれたような形になった成氏ですが、その後は盛り返し、鎌倉周辺の相模国内だけでなく、下河辺荘(しもこうべのしょう・現茨城、千葉、埼玉県の一部)などを経済的基盤として、関東一円に大きな影響力を持つようになります。

一方、京都の足利将軍家はこうして不安定になる一方の関東地方の情勢をなんとかしようと、その一族である「足利政知」を新たな鎌倉公方とし、新しい風を吹き込むために彼を鎌倉に派遣します。

しかし、享徳の乱を起こして幕府と敵対状態にあった古河公方、足利成氏の勢力は強大であったため、足利政知は関東管領の上杉家の力を借りても鎌倉に入ることができず、とうとう仕方なく、伊豆の長岡に逗留することにします。そして、この地が「堀越」という名前であることから、古河公方と区別するため、「堀越公方」と呼ばれるようになったのでした。

なお、この際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡という人物が補佐として任命されましたが、既にあった鎌倉公方補佐の関東管領と区別するため、旧称である「関東執事」を一時的に復活させています。

こうして、関東地方は、ほぼ全域を古河公方が実質支配し、幕府の鎌倉府は存在はしていたものの実質機能しておらず、伊豆の長岡に封じ込められた状態となってしまいました。

一方、幕府の手先として旧来からの関東管領を務めていた山内上杉家は、堀越公方の権力を復活させるべく鎌倉方面にもしばしば出向き、古河を拠点とするようになった古河公方、足利成氏と何度も戦いますが、その都度負け、次第に勢力を落としていきました。

その結果、上杉家傍流の「扇谷上杉家」が山内上杉家に迫る勢力を得るようになり、両家の間でも内紛が勃発。18年続いたこの戦いは結局、山内上杉家の勝利に終わりましたが、享徳の乱で古河公方が登場して以降、通算して50年にわたる戦乱が続き、この結果関東地方はすっかり荒廃してしまっていました。

後北条家の登場と関東管領の滅亡

この情勢につけいり、関東地方に乱入してきたのが、北条早雲です。この当時、まだ伊勢宗瑞と名乗っていた早雲は、初代の堀越公方の足利政知が1491年(明応元年)に病没すると、その後継に選ばれていた次男の潤童子を母もろとも殺し、二代目の堀越公方に就任していた異母兄の茶々丸を攻めます。

1495年(明応4年)、早雲は苦労の末、堀越公方の居城であった伊豆長岡の堀越御所を攻め落として茶々丸を追放すると、山内上杉家との戦いで疲弊していた扇谷上杉家に近づきます。そしてこれが、その後の関東地方における早雲を初代とする「後北条氏」の台頭のきっかけになりました。

こうして早雲亡きあとも、後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくようになります。一方の山内上杉家は、扇谷上杉家との争い以降も内紛が続き、2度にわたる家督争いによって自らの勢力をさらに後退させていきます。

その後も後北条氏の勢いは止まらず、どんどんと関東地方の諸豪族は後北条氏になびいていきます。こうなるともう、古河公方としても関東管領の上杉家や堀越公方と争っている場合ではない、ということになります。

北条早雲を関東地方に導いてしまった、扇谷上杉家もようやくその脅威に気付くようになったのです。

そして、共通の敵を打つべく、古河公方足利晴氏、関東管領の上杉憲政(上杉憲実の孫にあたる)、扇谷上杉家当主の上杉朝定の三者で連合軍を結成。

1546年(天文15年)、武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で後北条軍と激突しますが、戦上手の後北条、北条氏康に敗北。古河公方、山内上杉家とも大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死し、滅亡してしまいます。

その後、上杉憲政は上野国などを拠点として北条氏へ抵抗しようとしますがうまくいかず、現群馬県藤岡市にあった居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後の長尾氏を頼りました。

これが、1551年(天文20年)のころのことだったようです。その10年後の永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を、この長尾家の当主長尾景虎に譲りましたが、これが誰あろう、かの有名な「上杉謙信」になります。

ここで伊豆と越後がつながることになります。その後も江戸時代に至るまで続いていくことになる上杉家は、その家督を伊豆の守護職、山内上杉家から譲られて成立した家だったのです。

景虎はこの時その名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改め、関東管領に就任しますが、しかし既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎えることになります。

つまり、最後の関東管領は上杉謙信だったということになります。

上杉謙信を最後の関東管領とするならば、最初に関東執事が誕生してから229年、また上杉憲政がその職を謙信に譲ったのが最後とするならば、212年、いずれにせよ200年以上続いた関東管領は、ここについに消滅することになりました。

山内上杉一族の滅亡

一方、越後に亡命した上杉憲政は、1578年(天正6年)に謙信が死去すると、謙信の2人の養子景虎と景勝との家督をめぐる争いに巻き込まれます。旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持しましたが、山内杉山家の旧臣の大部分は景勝方につきました。

当初は拮抗していたこの家督争いでしたが、やがて越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝のほうが有利になり、景虎は憲政の居館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされるようになります。

1579年(天正7年)、憲政は景虎の嫡男道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かいましたが、このとき2人は景勝方の武士によって不意打ちに遭い、陣所で討たれました。享年57だったといいます。一説には包囲され、自刃したともいわれますが、詳細は記録されていません。

憲政の居館を退いた景虎はその後、鮫ヶ尾城という城に篭りますが衆寡によって敵を退けることができずやはり自刃。これら憲政や景虎と景勝との内乱は後年、「御館の乱」と呼ばれるようになりました。

その後、越後上杉家は、上杉景勝によって運営されるようになります。ちなみに、その家臣にはかの有名な直江兼続(なおえかねつぐ)がいます。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で、妻夫木聡さんがその主役を演じたのをご記憶の方も多いでしょう。

なお、憲政のお墓は、越後領内の寺にあったといいますが、のちに景勝が転封されたため、この寺も移動し、現在は、米沢市の照陽寺というお寺に移されているといいます。

ところで、この憲政は、越後に亡命前、3人の子をもうけていたといわれています。憲藤、憲重、龍若丸という名前だったそうで、このうちの憲藤と憲重の二人は父憲政の越後入りに従い、上述の御館の乱で討死したようです。

そして、父憲政につき従って憲藤、憲重は越後に入る一方で、その一番下の子であった龍若丸は、どうやら、そのとき逃げ遅れたようです。

一説によると、部下の裏切りにあい、後北条に捕縛されたといい、このとき裏切った家臣もまた処刑されたといいます。拘束されたのちには、小田原へ運ばれる予定だったようですが、監視の目を盗んで逃亡し、伊豆の湯ヶ島方面に向かったようです。おそらくは堀越公方の館があった伊豆長岡から、天城山の方面を目指していたのではないでしょうか。

しかし、とうとう捕捉され、切られてしまいます。あるいは、自刃したという話もあるようですが、状況からみてどちらであっても不思議ではありません。そのとき、龍若丸の亡きがらを葬ったのが最勝院といわれており、そこへ運ぶ途中に峠があり、これが先日のブログでも紹介した「国士峠」になります。

この道沿いにはこの史実を記した説明看板が立てられているそうで、峠名の由来として「1551年(天文20年)、上杉憲政の子、龍若丸が自刃し、そのこうべを湯ヶ島から大見村最勝院まで輿に提げ運んだことから、輿提げ峠=国士峠となった」と書いてあるそうです。このことは先日書いたばかりです。

現在も最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられている、ということも先日も書いた通りです。

上杉憲政やその二人子は御館の乱の際に上杉景勝方の兵士により討たれて亡くなり、また、龍若丸も亡くなったため、山内上杉家の一族はこれで断絶したかと思われました。

ところが、この亡くなった三兄弟のほかに、憲景という人物がいたという記録があり、御館の乱でも討死したようですが、一子があり「家房」という名前だったといわれています。実際、憲政の孫・曾孫達としてその存在が江戸時代に確認されているそうで、そうすると、歴代の関東管領の子孫たちは今のこの世にも実在している可能性があります。

その子孫が今日まで生き残っているかどうかはよくわかりませんが、もしかしたらひっそりと、関東管領の子孫だと自覚しつつ、今も静かに世をおくっていらっしゃるのかもしれません。

もしかなうことなら、お会いしたものです。フィギアスケートの織田信成選手のように、かつての戦国武将の面影を残した人物であるかもしれないのです。

さて、今日も長くなりました。が、関東管領って何?古河公方と堀越公方、はたまた鎌倉公方との関係は??とよくわかっていなかった人には、少しはわかっていただけるよう、整理できたのではないでしょうか。

整理した私もしかりです。すっきりしました。また改めて、こうした難しい課題にチャレンジしてみたいと思います。が、疲れたので、今日のところはこれまでにて。

最勝院のはなし 旧中伊豆町(伊豆市)

先週のこと、伊東へ買い物へ出かけるため、県道12号を通って、冷川峠方面へ向かっていました。いつも通る道なのですが、その途中の白岩と呼ばれる一帯はのどかな田園地帯であり、昔ながらの里山風景が望まれ、何度通っても気持ちの良いところです。

この白岩から冷川峠に行く途中、「国士峠」方面を指す標識に出くわします。これを右折すると県道59号に入り、その先は湯ヶ島に至ります。かつて川端康成も逗留して伊豆の踊り子を書いたといわれるあの有名温泉です。

この59号線沿いに、「伊豆大見の郷 季多楽」という道の駅のような施設がある、と前から聞いていたので、ちょっと気になり、伊東へ行く途中に立ち寄ってみることにしました。

この道の駅?は、12号を右折して数百メートルも行かないうちにすぐに見つかりました。すぐそばに「大見城」という中世の城跡があり、静岡県がここを整備するとき、観光の目玉とするためか、そのすぐそばを走る県道12号沿いに作ったのが、「季多楽」のようです。

この「伊豆大見郷」は天城山の北麓に位置し、伊豆半島の中央を流れる狩野川の支流・大見川沿いにあるひなびた里です。良質の源泉を湧出し、古くから湯治場として、また近年は大手の病院が進出して温泉を利用した治療などが行われています。

しかし、伊豆半島の中でも、観光開発がほとんど行われてこなかったところで、またあまり目立った観光スポットもありません。ところが、最近この大見城の城跡が整備されて以降、少しずつ脚光を浴びているようで、この「季多楽」の駐車場にも平日にもかかわらず、県外ナンバーの車が何台か止まっていました。

「季多楽」には小さな売店が併設されています。通常の道の駅ほどの規模はありませんが、この大見の里の地場産の農産物や、天城わさび、天城椎茸、その他の野菜、あるいはこれらの加工品である漬物、つくだ煮類を販売していました。

なかなかリーズナブルなお値段だし、ほかにも花卉類も販売していて、「ちょっと伊豆へ行ってきました」的なお土産を買うにはなかなか良い場所かもしれません。

駐車場にはすぐそばの大見城の見取り図と散策コースを表示した看板が掲げられていました。もう夕方の4時近く、城跡は小高い山を上らなければならないようでもあったため、この日はここを散策するのはやめましたが、富士山も見えるようなので、今度晴れた日を選び、時間を作ってじっくり見学したいと思います。

この「季多楽」をチェックするという当初の目的を達したので、そのまま伊東へ向かおうとも思ったのですが、これまで来たことのない、大見郷、という場所がどんな場所なのかもう少し見てみようと思い、そのまま12号を東進してみることに。

すると、山間を流れる大見川を中心として開けた山里であることがわかりました。谷を流れる大見川を中心として、ひなびた集落が点在し、県道の両脇には棚田、またあちこちにはワサビ田らしいものも散見されて、ここにもまた美しい伊豆の原風景が見られ、良い目の保養になりました。想像以上です。

1kmほど走り、もうそろそろ伊東へ行かなくちゃ、と思っていたところ、道路脇の看板に「最勝院」と書かれている文字が目に入りました。ちょっとだけのぞいてみようか、ということになり、側道にクルマを乗り入れ、数百メートルも走ったところ、何やら山門が見えます。

すぐ脇にある駐車場に車を止めて、道路脇にある案内看板をみると、そこには、この最勝院は曹洞宗のお寺である説明書きなどが書いてありました。

山門のほうを見やると、逆光越しに境内の緑が鮮やかなシルエットになって見え、ここもなんとも美しい風情です。

かなり大きなお寺のようであり、山門も相当立派なもので、これをくぐると古式ゆかしい境内が見えてきました。山門を入ってすぐのところには、両脇に池がしつらえてあり、その水も澄んでいて、鯉も数匹泳いでいます。

本堂はここから百メートルほど奥にあります。それほど古いものではなく、どうも昭和になって建て替えられたもののようですが、境内の敷石やあちこちにある地蔵や五輪塔といった寺物はほとんどすべてが苔むしていて、いかにも古そうです。

さきほど見た看板によれば、さらに奥のほうに墓地や別のお堂などもあるようですが、この日は時間が押していたので、とりあえず、境内の写真をパチパチと撮っただけで伊東へ向かいました。

しかし、ナントも気持ちの良い空間であり、大見城もさることながら、今度またじっくり時間を作って境内奥のほうなども散策してみたいと思いました。

この最勝院について、家に帰って調べたところ、その寺史によると、鎌倉管領で伊豆の国守護職であった上杉憲忠が、祖父憲実の菩提を弔うために室町時代の1443年(永享5)に草創したとなっているそうです。

が、歴史に詳しい方が書いていらっしゃるホームページがあり、これをみたところ、その創設は、同じ関東管領でも上杉憲実という人の手によるということで、その祖父の憲栄のために建てた寺というのが本当だということです。

本尊は体内釈迦牟尼仏、脇立は文殊菩薩・普賢菩薩。もともとこの地にあった真言宗のお寺の跡に堂宇を建て、寺領として七百貫匁が寄付され、現在の前身の本堂を建てました。

戦前までは三町歩(約3ヘクタール)の農地を所有した大寺だったといいますが、現在の敷地はかなり縮小されています。しかし、それでもかなり奥行の広い広大な敷地を持つお寺さんです。

知る人ぞ知る桜の名所でもあるようで、そういえば境内と山門の入口付近に大きな桜の樹がありました。今年はもう終わってしまいましたが、来年のサクラの季節にはぜひまた来てみたいと思います。

このお寺、古いだけに色々な伝説が残されているようで、そのひとつは天狗伝説です。初代の住職で、吾宝禅師という人の説法を聞きにきた天狗が、水源の乏しいこの地に水をもたらしたといいます。

それはこんな話のようです。

ある朝、禅師が村の人々を集めてお説法をしていたといいます。すると、数ある村人の中でも、とくに禅師の説教を熱心に聴いている老夫婦が目に留まりました。あまりにも熱心に聴いているので、説法が終わったあと、禅師は何かこの夫婦に声がかけたくなり、返ろうとしていた二人を呼び止めます。

そして、何か所望することはないか、と尋ねたところ、我々二人はもうかなりの高齢なので、この先もういつ死んでもおかしくない、もし死んでしまったとしても周囲の人に迷惑をかけたくないので、できれば生きているうちに血脈(戒名)を受けたいと答えたといいます。

それでは、戒名を与えてやる代わりに、しばらく私の説法を聞くためにここに通いなさいと禅師は二人に言いました。実は師は二人の信心ぶりを試すつもりだったようですが、その期待に答え、その後老夫婦は老師の話を聞きに毎日やってくるようになりました。

そして、ある日のこと、師はその日の説法が終わったあと、この熱心な老夫婦を呼び止め、戒名を与えることにしました。「周伯(しゅうはく)」「傳中(でんちゅう)」というのがそれでしたが、その折に禅師が二人に本当の名はなんというか、と聞きました。

すると、二人は顔を見合わせ、おそるおそる禅師に自分たちのことを語り始めました。その話を聞いた禅師は驚きました。なんとこの二人は、人ではなく、この寺の裏山に住む天狗だというのです。驚く禅師に対して、二人の天狗は戒名を与えてくれたお礼に、逆に何か願い事があればお返ししたいと禅師に言いました。

実はこの当時、最勝寺では、水が乏しく困っていました。このため、師が水がほしいと所望すると、天狗はたやすいことですといって帰っていきました。

……その夜のこと、寺の衆たちが寝静まり、禅師が静かに書物に目を通していました。……と、静かな寺の山側の墓地から、ちょろちょろ、ちょろちょろ、という水のような音が聞こえてくるではありませんか。

音はだんだんと大きくなり、ついには、さわさわと流れる沢水の音に変わっていきました。驚いた禅師が裏庭に出ると、その地面からは澄水がこんこんと湧きだしており、その水が枯れた沢に沿って、お寺の門のほうへ流れていたのでした。

こうして、最勝寺では、その後水に困ることはなくなり、この水は今も尽きることがなく、こんこんと湧き出している……とか。

現在でも最勝寺では、この時の天狗が指の爪で彫ったという「般若の宝札」と呼ばれるものが寺宝となっているそうです。どんなものかよくわかりませんが、お札の形をしたレリーフのようなものなのでしょう。

例大祭が年二度ほどあり、これは、火防尊大祭(4/24)、大施餓鬼(8/19)だそうです。火防尊大祭のほうは既に終わってしまっていますが、大施餓鬼のほうはどんなお祭りなのか、これもまた見てみたいものです。

この最勝寺、当初は西勝寺と称し真言宗の寺院だったようですが、いったんは廃れ、これを再興して開山したときに、最勝院と寺号を改称し曹洞宗に改宗しています。

この天狗のおかげなのか、その後寺運が隆盛し、江戸時代には伊豆国の曹洞宗僧録所にもなり最盛期には宝五派1400余ヶ寺を傘下に従える大寺となります。往時は七堂伽藍をもつ豪壮な寺であり、雲水真参弁道の道場として多くの修行僧を世に送りだしました。

1827年(文政10年)、1940年(昭和15年)と火災により多くの堂宇が焼失しましたがその都度再建されています。さきほどの、火防尊大祭は、そのためのお祭りなのでしょう。

昭和15年の消失後はしばらく放置されていましたが、昭和29年に本堂が再建され、その後祖堂、総門などの他の建物の再建も行われて今日に至っています。

本堂裏手には、室町時代の伊豆の守護職であり、最後の関東管領でもあった山内上杉氏の「上杉憲政」の嫡子「龍若丸」の墓所があり、人質として小田原北条氏に送られる途中に逃げ出し、追手により追い込まれて殺され、この地に葬られたと伝えられています。

この最勝寺の東10kmほどのところには「国士峠」という峠がありまますが、これは、龍若丸の亡きがらを湯ヶ島から最勝院まで輿に提げ運んだことから、「輿提げ峠=国士峠」と呼ばれるようになったということです。

最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられています。

古いお寺であるだけに、このほかにも、この大見の里に伝わる不思議な話が伝わっています。

最勝院からさらに東へ進み、国士峠に向って大見川の支流・地蔵堂川に沿いに遡ると貴僧坊という字があります。この地の伝承に拠れば、永享の頃(1429~1440)に天城湯ヶ島から国士峠を越え、ひとりの旅の修行僧が訪れ、ここにあったお堂に一泊しました。

ところが、その夜半に村人がこのお堂に女の死人を担ぎ込みます。このため、この僧が棺の前で大般若経を読んだところ、なんとこの女は突然生き返ったといいます。驚いた村人たちはその後この僧を崇め貴ぶようになり、僧は村人からの喜捨(進んで金品を寄付・施捨すること)を得てこの地に大久寺という寺を開きましいた。

今はもうこのお寺は廃されているようですが、このエピソードから、この字の名前「貴僧坊」がつけられたと伝わっているそうです。

そしてこの僧こそが、その後に最勝院を開いた名僧「吾宝禅師」ということです。名前を検索すると、結構出てくるので有名なお坊さんのようです。が、今日はこの方の話はやめておきましょう。

この最勝院にはさらに別のバージョンの「黄泉がえり」の伝承があります。

ある年の大晦日に、この大見にあった茶屋の老母が急死しました。しかし、年末であったために、葬儀ができず、このため三日ほどの間、大久寺に安置されたそうです。ところが、年が明けた正月に、近隣の村人が参賀のために詣ったところ、驚くなかれ、この死んだはずの老母がたすき掛けで茶の接待をしていたといいます。

ところが、正月の三が日が過ぎた夜になると、この老婆は棺に戻っていたといい、その葬儀は四日目に営まれたとか。

古いお寺ともなると、ちょっとした里の噂話に尾ひれがついて、長い間にこうした伝承になって伝えられることが多いようですが、室町時代以降、ほとんど変わっていないと思われる風景が残るこの大見の里には、ほかにも面白い話が残っているかもしれません。

また、調べて面白いことがあったら、アップしてみましょう。

前述した、大見城のことや、関東管領大内上杉家のこと、龍若丸のこと、などなどもまた書いてみたいと思います。とりあえず、今日のところはここまで。