神か仏か…… ~富士山

おとといのこと、この日は朝から富士山が良く見えました。いま、山口から来て滞在中の母は、富士山が大好きで、我が家からも良く見えるその姿をみて大興奮。

こりゃー、もっとよく見せてやらんといかん、ということで、この日は、伊豆南部の松崎のほうへ連れて行こうかとも考えていたのですが、急きょ、進行方向を180°変え、芦ノ湖方面へ行ってみることにしました。

いつものように、三島から国道1号に乗って、箱根峠まで上がり、ここから西進して御殿場まで行くのですが、途中の芦ノ湖スカイラインからは、どアップの富士山がよくみえ、バーさんの興奮もさらにエスカレート。

この日は麓の三島などでは気温は20度を超えていたのですが、スカイライン上の気温は、16°前後と低く、下界では既に散ってしまっている桜やモクレンがまだまだ満開の状態でした。桜と富士を同時に写真に収める機会というのはなかなかないもので、私としても初の経験であり、親孝行をしたことによる思わぬ余得となりました。

このあと、御殿場に下り、ここで食事をして、さらに、富士山の北側に回るべく、山中湖へ。これで、自宅からみえる南からの富士山に加え、芦ノ湖スカイラインからの東側の富士山、そして山中湖からの北側の富士山の「3方面作戦」が完遂。

あとは西側だけ、ということで、このあと本栖湖近くの公園で今開かれている「富士芝桜まつり」会場をめざしたのですが、このころから天候が悪くなり、会場に着いたころには、富士山は全く見えなくなっていました。

これにより、一日で富士山の4方面のすべてを見るという野望も潰えてしまいましたが、3方面だけとはいえ、これだけ大きな富士山を目の前で見ることができた母親の喜びようは尋常ではなく、あー、連れて来てやってよかった、と思ったものでした。

それにしても、こうしたいろいろな角度からみた富士山のかたちは、当然のことながらその表情をいろいろ変えるものだなと、改めて感心してしまいました。

いつも自宅からみている富士山は、右下部分に大きな宝永山火口がありますが、東側の芦ノ湖からのこの火口は、左下に見えます。この「アクセント」の場所によってかなり、印象が変わります。

また、雪面と地肌の境界線がある場所も、いつも我々が南から見ている富士山は左右一直線にまんべんなく、左右同じ高さにあるのに対し、東側から見た富士山では、左から右下へ向かってこの境界線が下がっており、いつも同じレベルの雪原線に見慣れている私には、「何かヘン」にみえてしまいます。

また、北側の山中湖側からみると、この雪原線の場所は、ぐっと下のほうに下がります。山体全体がより白く見え、「真冬の富士山」そのものです。

これは、南側のほうが日中、太陽の日差しを浴びる時間が長いため、その部分の雪が融けやすいためにほかなりませんが、そんな当たり前のことも、同じ日に違う角度から富士山をみると、確認できてしまったりします。

さらに北側からみる富士山は、東側や南側からみる富士山に比べて、山頂部分がやたらにとんがって見えます。これは富士山頂の「お鉢」の北側部分の峰々が南側よりも凸凹しているためです。

また、北側から見た富士は、左右のシンメトリーもややいびつになり、「左肩上がり」のように見えますが、これは富士山東北側へ流れた溶岩流のほうが、西側よりも多かったためでしょう。

これら各角度からの富士山の見え方は微妙なものなので、普段富士山を見慣れていない人にとってはどうってこともない程度の違いなのかもしれませんが、これだけ毎日富士山を見て暮らしていると、ちょっと違う角度の富士山を見ただけで違和感を感じてしまうというのは不思議なものです。

もっとも、いずれの角度からの富士山も、それぞれの美しさがあり、優劣がつけられるようなものではないのですが、私としては、やはり右下に宝永山火口の“あばた”があり、雪原線が水平な、静岡県側からの富士山が一番好きです。「ウチの子一番」といったところでしょうか。

しかし、私のこうした好みだけではなく、昔から富士山の山体そのものは「駿河国」の所有物であるという考え方が普遍的だったようです。

万葉集には、「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」と万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が書いており、また平安時代の役人で学者の都良香(みやこのよしか)も「富士山記」という伝承を記した書物に、「富士山は、駿河国に在り」「富士山は駿河の国の山で(中略)まっ白な砂の山である」などと書いています。

日本最古の物語といわれる「竹取物語」にも、富士山のことを「駿河の国にあるなる山なむ」と書かれており、古くから富士山は駿河の国、つまりは静岡県にあるものということが一般認識だったようです。

とはいえ、これは主要な交通網が東海地方に集中しており、富士山の眺めを見る機会は南側からのほうが圧倒的に多かったためでしょう。もしも古代に東海道のような主要幹線が山梨県側にあったら、その帰属は甲斐の国と目されていたかもしれません。

現在においては、富士山は、静岡県側では、富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町などに所属し、また山梨県側では、富士吉田市、南都留郡鳴沢村などにまたがっていて、たくさんの市町村がその山体を共有しています。

とはいえ、これらの市町村に登録された自動車のナンバーは「富士山」ナンバーのいわゆるご当地ナンバーで統一されており、ゆるくまとまったひとつの地域である、という印象はあります。

また、前にもこのブログで書いたような気がしますが、その昔から「富士信仰」という富士山をご神体として考える宗教があり、この信仰では、富士山の山塊全体を「神体山」と考え、信仰の対象としているため、そこには境界など存在しません。

現在も、古くからの取り決めをもとに、富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き、ほとんどの部分が、富士山信仰の御本家、「浅間大社」の境内となっており、この部分の税金は浅間神社が払うことになっているようです。

ただし、山頂のこの部分の山梨、静岡両県の境界線をどこにするかという問題は、長年争われているにもかかわらずまだ決着していないと聞いています。ということは、どちらへどれだけの固定資産税を払うのかも決まっていないということになります。国税の収入が滞っているといわれる昨今、そこのところはいったいどうなっているのでしょうか。

この富士山頂を「所有する」浅間神社は、富士山をコノハナノサクヤビメを祭神と考え、これを信奉者たちが神霊として祀っている神社であり、その総本宮は麓の富士宮市にあり、こちらは富士山本宮浅間大社と呼ばれています。

そして富士宮市街にあるこの神社が「本宮」であるのに対し、富士山頂に据えられている浅間神社は「奥宮」と呼ばれています。

富士山の山頂がこのように一法人の所有物になったのは、徳川家康による庇護の結果です。

富士信仰を奉ずる人々が、家康から本殿などの造営や、富士山に上る人に入山料として徴収した「内院散銭」を得る権利を得たことから、その後成立した江戸幕府から、正式に八合目以上の土地が、この信仰者たち、すなわち法人としての浅間神社に寄進されました。

その後、明治維新以後は、この土地が浅間神社に帰属するか否かという問題は放置されたままになっていましたが、こうした歴史的経緯を踏まえ、30年ほどまえに、その土地の所有権は富士山本宮浅間大社にあるとした最高裁の判決が下りました。

そして、2004年には富士山の山頂8合目以上の登山道、トイレ、測候所などを除く385万平方メートルの土地の所有権は、財務省東海財務局から無償で同神社に譲渡されたわけです。

ところで、江戸時代よりも前には、富士山の山頂部は「仏」の世界と考えられている時代があったのをご存知でしょうか。

現在は富士山は神の山とされており、山頂に8つある峰々は「八神峰」あるいは、「富士八峰」と呼ばれ、それぞれに神様が宿っているとされていますが、その昔はこれらは神様ではなく、仏様として奉られており、その名も「八葉」と呼ばれていました。

8つの峰々とは、最高峰3776mの高さの剣ヶ峰を筆頭に、白山岳(釈迦ヶ岳:3756m)、久須志岳(薬師ヶ岳:3725m)、大日岳(朝日岳:3735m)、伊豆岳(観音岳・阿弥陀岳:3749m)、成就岳(勢至ヶ岳・経ヶ岳:3733m)、駒ケ岳(浅間ヶ岳:3722m)、三島岳(文殊ヶ岳:3734m)などです。

カッコ内の旧名称を見ても、そのいくつかは、釈迦や薬師、観音などといった仏様の名前になっているのがわかるでしょう。そもそも、これら各峰は仏教関連の名称より由来していたものでしたが、その多くが、明治元年の神仏分離令によりその名称が変更されたものです。

ちなみに、これらの峰々は、剣ヶ峰を除いてすべて富士山頂の北側に位置しており、山梨県側の山中湖などからみた富士山の山頂が凸凹しているように見えるのはこのためです。

古い時代の日本では、神々への信仰が特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的でしたが、ここへ仏教が伝来してきたことから、伝統的な「神」観念に大きな影響を与えるようになりました。

仏教が社会に浸透する過程では、伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、奈良時代以降にはさらに神仏関係は次第に緊密化し、平安時代にはついには、神仏混淆(しんぶつこんこう)、あるいは、神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれる、空前の神仏合体時代が訪れました。

これにより、もともとは富士山も神様の山だったものが、いつの間にか仏様の山になっていきます。鎌倉時代の書物である「吾妻鏡」では、富士山の山体を「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という風に呼んでいたと記録されています。

また、鎌倉時代中期の文永年間に書かれた「万葉集註釈」にも「いただきに八葉の嶺あり」と書かれており、その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できるといいます。

富士山頂の8つの峰々が、仏教的に「八葉」と呼ばれるようになったのも、このころからのことです。日本各地では、仏教の普及とともに、神様と仏様が同時に祀られるようになり、急速に神仏習合が進んでいきます。

やがて神仏習合は、駿河の国においても浸透するようになり、江戸時代までには、富士山周辺では、富士山をご神体とするたくさんの富士菩薩、または浅間菩薩を祀るお寺さんがたくさんできるようになりました。

ところが、明治元年(=慶応4年、1868年)になって、神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることになりました。

この法律による寺社分離は、その後明治の半ばころまでには、ほぼ全国に広がり、このころまでには従来のように神社かお寺かよくわからん、といった形態の寺社はほとんどなくなりました。

多くの場合、お寺の中にあった神社は別の場所に移され、新たな神社を作るか、もしくは寺を廃して、それを神社とする、あるいはその逆などの改変が加えられましたが、大規模なものでは、それが無理だったため、お寺の中に神社が残されたまま、といったものも残りました。

その典型が、高尾山にある、「高尾山薬王院」と、その“境内”にある「飯縄権現(いずなごんげん)」です。薬王院のほうはお寺さんなので、手を合わせるだけですが、飯縄権現さんのほうは神様であるため、柏手を打ってお詣りをします。

薬王院は、744年(天平16年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、本尊に薬師如来を安置して創建されたという由緒あるものですが、飯縄権現のほうは、その後、永和年間(1375~79年)に京都から移遷した飯縄権現をも守護神として奉るようになったものです。

薬王院には、その後、江戸時代初期の寛永年間(1624~44年)に不動明王を本尊とする奥の院も造られるなどさらに発展し、飯縄信仰のほうも高尾山全体を修験道者の道場として繁栄するようにことになったことから、典型的な神仏習合社となりました。

しかし、両者とも由緒正しいものであり、またあまりにも大きな組織となっていたため、明治になってからの神仏分離令においても、完全分離できず、現在のような形態のまま残りました。このため、高尾山に出かけた多くの人がお詣りに来ても、果たしてお寺に参ったのか、神社だったのか、すっきりしないかんじで帰って行かれるようです。

この神仏分離令ですが、これが発令されたそもそもの目的は、この高尾山の例にもあるように、従来はお寺なのか神社なのかよくわからない組織を分離し、神社とお寺、それぞれから税金を取りやすくするということでした。

そもそも神社分離の考え方は、江戸時代からあり、それを敢行した藩もありましたが、江戸幕府としては、寺社の多くが抱えている既得権益の領域に踏み込むことができず、その全国基準をとうとう作ることができませんでした。

ところが、江戸末期に急速に発展した「国学」という学問がその牙城を崩す要因となっていきました。

国学とは、本来は日本の古典文学を研究する学問です。江戸中期に急速に普及し、その研究者としては、本居宣長(もとおりのりなが)などが有名です。

それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を古事記や万葉集といった古典や古代史のなかに見出していこうとする学問であり、いわば、古代日本人のそもそもの心象風景を明らかにしようとした、「国粋主義」的な学問です。

伏見稲荷の神官であった荷田春満という人が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱え、これを体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵であり、その弟子としてこれを更に深く追求したのが本居宣長でした。

本居宣長の時代には、国学の源流はほぼ完成されていましたが、さらにこれに夢中になったのが、本居宣長の弟子と「自称」していた平田篤胤(あつたね)でした。

平田篤胤は、1776年(安永5年)8月24日に出羽久保田藩(現在の秋田市)の大番組頭であった下級武士の大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下に生まれました。

現存する史料からは、不幸な幼年期を送ったようであり、父親からは、頭が悪く落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたといいます。

そんな境遇から逃れるためか、20歳の時に故郷を捨て江戸に出奔していますが、無一文同然で頼る処ところもなかったため、生活の苦難と戦いながら勉学に励みます。苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊きなどもしていたそうです。

1800年(寛政12年)、25才になったころ、勤め先の旅籠で、備中松山藩の藩士で、代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまって養子となり平田姓を名乗るようになります。

平田篤胤が本居宣長の弟子を「自称」していたというのは、そのことを詐称していたのではないかと考える人が多いためです。

その根拠としては、平田篤胤はそもそも生前の宣長とは面識がなかったらしく、宣長が没した後2年ほど経った1803年(享和3年)になって、本居宣長のことを初めて知ったようです。

知人に送った手紙には、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと書かれているそうで、没後の門人として加わるために涙ぐましいウソをついています。

また、のちの書いた自伝によれば、本居宣長が死ぬ直前に宣長のことを知り、門下に加わろうとしたと書かれており、その後すぐに宣長は没してしまったため、没後の門人としてその名を宣長が主唱していた塾に置かせてもらったとも書いているとのことです。

ところが、色々な歴史研究によれば、篤胤は、宣長が生きているころにその存在を知ったというのさえウソだったことがわかっており、自分の学派をかつて宣長が研究していた国学の正統として位置付けるため、史実を改竄したのではないかというのがもっぱらの見方のようです。

とはいえ、平田篤胤という人は努力の人でもあったようで、そのためかなり学識豊かでもありました。しかし、夢の話を知人に平気で送るような人でもあり、どちらかといえばオカルト的なことが好きな人物だったようで、こうした「不思議」が吸引力となり、多くの門人を持つ結果につながっていったようです。

一種の呪術者のような存在といってもよく、彼の周囲には弟子といいながらも「信者」というかんじの門人が多く集まっていたといいます。

いずれにせよ、本居宣長は真面目な古代史研究者でしたが、平田篤胤は宣長の弟子であると偽りを言い、国学の正統的な継承者としての自己の能力を周囲に喧伝したかったというのが事実のようです。篤胤がその後完成させた国学の中身はともかく、学問成立に至る動機はかなり不純なものでした。

こうして、国学の「権威」になりすました篤胤は、やがて日本のオリジナルなものはすべて仏教伝来によって破壊されたと考えるようになりました。

そして、日本人の霊性も、仏教という異国の宗教によって穢され、歪められたとして、古来行われてきた神仏習合も仏教によって神道が穢された状態であるとし、神道を仏教伝来以前の姿に戻すべしとして「復古神道」を唱えるようになっていきます。

それまでは、本居宣長が研究していたような国学は、「古典文学研究」にすぎませんでしたが、この思想が加わることによって国学はやがてある種の「宗教」のようなものに変わっていきました。

ちょうどこのころ、日本の近海には外国船がしばしば出没するようになり、日本人は外国にたいする脅威を感じ始めていました。そんな背景もあり、平田の唱えた排他的・排外的な国学は、かなりの信奉者を生みました。

とくに寺に既得権利を脅かされることの多かった神社の神主には熱烈に支持されるようになりましたが、同時にこの考え方に傾倒していったのが、幕末に「尊皇攘夷」をとなえるようになった「志士」たちでした。

比較的新しい幕府はよりも、古来から君臨する天皇をより尊重すべきだと考える人たちの中には、この国は純粋な日本人によってのみ統治されていくべきだという、国粋主義的な考え方を肯定する人が多く、このことから、平田国学の熱烈な信奉者になる者も多かったようです。

そして、その考え方の影響下にあっては自然と、外国はけがらわしい、獣のような異国人に神国日本を蹂躙されてはたまらないと考えるようになり、やがて開国に反対し、攘夷の実行を幕府に迫っていきます。

かなり、偏った考え方であることは誰が考えても明らかですが、結果としてはこの平田国学の浸透が、尊皇攘夷運動のエネルギー源となり、のちには討幕運動に発展し、新しい時代が生まれる要因になっていったことは皮肉なかんじがします。

ところが、この平田国学は、明治になってからも、国を築いていく人々の間に根強く残っていました。

かつて外国など穢らわしいと考えていた勤王の志士たちも、じっさいに自分たちが政権を担うようになってからは、外国人を疎外するというのはどだい無理だとわかり、このため諸外国の力を得ながら近代化を図る、西洋化政策をとっていきます。

ところが、収まりがつかないのは、かつて志士たちを思想的に「指導」した平田国学者たちでした。

こうした国学者たちも維新の功労者にはちがいはなく、今や明治政府を主導する立場となったかつての志士たちも、自分たちもその昔は外国人を毛嫌いしていたくせに、その考え方を「指導」してくれた国学者たちをむげに切り捨てることはできませんでした。

このため、これらの古い考え方をもった国学者たちにも何等かの役職を与える必要があり、とはいえ、できるだけ実際の政治には口を出させないようにすべく、「神祇官」という役職を考え出しました。

神祇官とは、宗教政策を担当する職種であり、実際には政治にかかわることができませんが、その名の通り、かつての神社やお寺を管轄し、ここから税金を取るなどの役目を一手に握ることができます。

こうして、神祇官となり、一定の権力を得たかつての国学者たちは、平田篤胤が唱えていた「復古神道」、つまり神道を仏教伝来以前の姿にもどす、ということを実践するため、政府に働きかけて実現させたのが「神仏分離令」です。

これにより、神社なのかお寺なのかよくわからん、といった寺社は高尾山のような特殊な例は別として次々とその姿を消していき、明治政府としては、これらの寺社の管理を国家制度に取り込むことによって、彼らが信徒から徴収していた貢金の一部を税金として確実に徴収できるようになりました。

しかし、その一方では、非常に重大な問題が生じました。寺社分離令を施行し、お寺と神社を別々に分離して建て直す過程において、無数の文化財が破壊されることになったのです。

この政策は、日本史上最悪の文化破壊ともいわれ、これによって多くの寺や神社で仏像や神像が破壊されただけでなく、それまで神仏折衷のまま存在していた建築様式の多くが破壊され、姿を消していきました。

また、一方では、靖国神社などの国学に基づく、「純粋な神社」も新たに建てられるようになり、これを建設したのも平田国学を信奉する、江戸時代から生き残った国学者たちでした。

別の見方をすれば、神仏分離というこの政策によって新たな文化が生み出されたという考え方もできるかもしれません。その後に生まれ変わった文化をすべて悪いという評価はできないと思います。

しかし、明治の初期、権力を得た国学者たちが、自分たちの権益の拡大のために、神道の国教化を推進しようとしたのはまぎれもない事実であり、これがその後はびこるようになった軍国主義につながっていったことは確かです。

さて、富士山周辺の神仏分離の話をしようとして、熱が入り、話がずいぶんと飛んでしまいました。

ともかく、こうして神仏分離令が発せられたため、富士山周辺においても、あちらこちらにある神社やお寺で、仏像の取り壊しなどが進んでくようになります。

現在、富士宮市の村山というところにある村山浅間神社は、かつては、同じ境内にあって、大日如来を祀る大日堂や僧坊などがあり、これらを一体として「富士山興法寺」と呼ばれていました。

しかし、神仏分離令によりそれぞれが分離され、大日堂は人穴浅間神社となり、富士山興法寺としての「仏教部門」の機能は事実上消滅してしまっています。なお、興法寺の境内にもともとあった、大棟梁権現社というお社は廃止され、場所を移して「富士大神社」として祀られています。

さらには、山梨県の富士吉田市上吉田にある「北口本宮冨士浅間神社」でも仁王門や護摩堂などが取り壊されています。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名が「八神峰」に変更されたのもちょうどこのころのことです。

こうして、かつては「仏の山」でもあった富士山は現在ではすっかり、「神山」となってしまい、今や富士山に向かって、ナムアミダブツと唱えるような人は皆無となっています。

それというのも、一人の経歴詐称歴のある学者のため、というふうに考えると、一体日本の文化って何ナノ?という気にもなってきます。

もっとも、平田篤胤が没してからは今年でもう170年にもなります。この間、明治・大正・昭和・平成と時代は移り進んでおり、明治のころ大きな変革が起き、その後定着していった現在の文化も、現代の我々が慣れ親しんでいるという意味では純然たる日本の文化であることには間違いありません。

靖国神社の可否や天皇を男性に限定してしまった現状の天皇制の問題など、この時代に遡った課題が現在も解決されずに引き継がれてきているのもまた事実ではありますが……

さて、夕べあたりからかなり気温が低くなり、かつこの週末は天候も悪くなるようで、今朝も富士山は見えません。私が富士山は神の山ではなく、もともとは仏の山だと書いたために、コノハナサクヤヒメが怒ったのかもしれません。

なので、今日はこれくらいにして、神の怒りが静まるのを待つことにしましょう。来週明けにはまた天気も回復しそうです。そしたら今度はぜひ、今回見ることのできなかった富士山の西側を確認しに出かけようかと思います。

富士山の西側には、朝霧高原という広々とした高原地帯があるのですが、今回は天候悪化のために満喫できませんでした。新緑が深まるころ、ぜひ再訪したいものです。

日帰り富士山一周の旅、みなさんもやってみませんか?