シャボン玉飛んだ…… ~旧修善寺町(伊豆市)


爆弾低気圧が来る直前の先週末、土日は天気が悪くなりそうだから今のうちにと、タエさんと二人でいつもの修善寺虹の郷へ行ってきました。

平日ということもあるでしょうが、低気圧の接近間近の情報が行きわたっているのか、お客さんは非常に少なく、広い園内のことですから、他の人を全く見ることのない場所もあって、まるで貸切りのようなぜいたくさ。

ここ修善寺虹の郷は、とくに桜の名所ということでもないため、桜の本数もそれほど多くはなかったのですが、それでも日本庭園のすぐ脇にある立派なサクラの木数本が、ほぼ満開状態で、なかなかきれいでした。

ここの「シャクヤクの森」がきれいなことは、前にも書きましたが、この日もその咲き具合をチェックしてきました。すると、早咲きの芍薬がすでに何本も満開状態で、まだまだ見ごろ、というまではいきませんが、もともとが花弁の豊かな花のため、数本が固まって満開状態になっているだけでも、十分な見応えがありました。

あと一週間もすれば、もっとゴージャスな眺めになると思われるので、また日を改めて鑑賞にこようと思います。みなさんもいかがでしょうか。ゴールデンウィークに突入すると、結構人出も多くなるので、もしお時間があるなら、今週末もしくは、来週ぐらいがチャンスだと思いますよ。

ところで、修善寺虹の郷の入口付近は、「イギリス村」ということでイギリスの古い町並みを真似た一角があるのですが、ここにはお土産物屋さんや飲食店なども集中していて、その中央にあるイベント広場では、時折コンサートなども開かれていたりします。

いわばこの施設の「顔」のような場所でもあるため、いつもきれいに花が飾られていて、お掃除も行き届いています。

このほか、子供が遊べるようにと、フラフープやケン玉、ジャグジーといった遊具も置いてあります。子供だけでなく、大人もこれを使って遊んでいるのを時々見ることもありますが、みなさん童心に還って本当に楽しそうで、見ていてもほほえましいものです。

その遊具が置いてある建物の付近には、いつもシャボン玉が「舞って」いるので、どこから来ているのだろう、とその出所を探してみたところ、どうやら「テディベア博物館」と称する建物の二階の窓から出てきているようでした。

自動で、シャボン玉を放出する機械が置いてあるらしく、一定間隔毎に、ここから面白いようにシャボン玉が噴き出されてきます。これがまた風に乗って、イギリス村のあちこちに飛んでいき、これを小さな子供さんが追いかけたりしていて、こうした光景もまたのどか。お天気の良かったこの日は、本当におとぎ話の世界のようでした。

このシャボン玉遊び、やったことがないという人はおそらくいないでしょう。石鹸水にストローなどの細管の一端を浸け、ストローから勢い良く息を吹きだすと、たくさんの小さなシャボン玉が吹きだします。

またゆっくり吹き出すと、大きなシャボン玉ができるので、どれくらい大きくできるか、とやっていると、パンッといきなりはじけてしまって、がっかり、などという経験は誰でもあると思います。

大人になってからも楽しいもので、私も一人息子君が小さいころには、一緒に遊んでやるという名目のもと、結構、自分でも楽しんで遊んだような記憶があります。

日本ではいつごろからあるのかな、と思って調べてみると、1837年(天保8年)に発行された「守貞謾稿(もりさだまんこう)と呼ばれる、江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典のような書物には既に、「シャボン玉売り」の話が出ているそうです。

しかし、広辞苑には、これよりも160年も前の江戸初期にはもうシャボン玉屋があったと書いてあり、これが1677年(延宝5年)といいますから、鎖国令により、1639年(寛永16年)にポルトガル船の入港が禁止されるようになる以前に既に輸入され、江戸などで広まるようになっていたのでしょう。

「シャボン(sabão)」とはポルトガル語で「石鹸」を意味する単語です。その語源のとおり、ポルトガルかあるいはスペインから入ってきたようですが、ではいったい、これがいつごろ日本に入ってきたのかを調べてみました。

すると、戦国時代末期か安土桃山時代に入ってきたと推測されているようで、1596年(慶長元年)、石田三成が博多の豪商神屋宗湛に宛てて「シャボン」を貰った礼状を出しているのが、記録として残っている一番古い文献みたいです。

ただし、このときには、その製法までは伝わらなかったようで、その後長い間、輸入されたものだけが流通していました。

その後、製法を書いた文献が入ってきたことから、これが翻訳され日本でも製造されるようになりましたが、一番最初に石鹸を製造したのは、江戸時代の蘭学者の宇田川榛斎と宇田川榕菴で、これが1824年(文政7年)のことだそうです。

ただしこれは医薬品としてであったそうで、上述の守貞謾稿におけるシャボン玉売りの記述がこれより13年ほどあとであることから、おそらくこの間に、医薬品として製造されたものが「泡立つ」ことを誰かが発見し、遊び道具として広めるようになり、その製造方法も広く普及していったのでしょう。

シャボン玉売りが商売として成り立つくらいですから、シャボンの原料そのものはかなり高価なものであったに違いなく、石鹸の卸元の薬問屋などが、希釈した原液を製造して売り子たちに卸していたのでしょう。中には固形の原料を入手して、より大きなシャボン玉ができるように自分たちなりに調合して使っていたシャボン玉売りもいたようです。

いずれにせよ、遊び道具とはいえ希少なものですから、江戸時代には当然、庶民が手を洗ったりするのに使われるほど普及はしていません。

最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の商人であった、堤磯右衛門という人のようです。

もともとは、江戸時代に、品川台場の建設資材輸送に携わっていた土方でした。磯子村で切り出した材木や石材を品川まで運んで儲け、1866年(慶応2年)には後の横須賀海軍工廠となる横須賀製鉄所の建設にも従事するなどして事業を拡大。

明治に入ってからは、公共事業の建設請負から物資の製造に転身し、最初は煉瓦と、灯台の灯り用の菜種油の製造を行っていましたが、のちに灯台用油が植物油から鉱物油に変更されたため、この事業からは撤退し、このころから実験を繰り返し、試行錯誤の末に石鹸の製造に成功します。

こうして1874年(明治5年)に、横浜市南区万世町に、日本で初めての石鹸工場である、「堤石鹸製造所」を開設しました。

当初は経営的に苦戦していたようですが、明治10年代ころまでには、国による「衛生」の徹底指導もあいまって石鹸の使用が国民の間にも広まっていき、このためようやく経営は安定。1881年の売上は2万4千円を超えていたといいますから、現在の貨幣価値に換算すると数億円規模となります。

1877年(明治10年)には、香港・上海へも輸出されるようになり、磯右衛門が作った石鹸が第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞するなどしたことからさらに評判があがり、その後明治10年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎え、磯右衛門は一躍大金持ちになりました。

しかし、単に儲けるだけでなく、さらに石鹸を普及させるべく、日本各地からやってくる研修生に技術指導を行うなどのボランティア活動も行っており、石鹸の普及にあたっては、大きな役割を果たした人物でした。

しかし、明治10年代後半には同業者の増加やデフレーションなどにより経営が悪化。1890年(明治23年)、ついに堤石鹸製造所は操業を停止し、翌年、磯右衛門自身も病に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。

58才だったそうですから、現在なら若死にといわれそうですが、平均寿命がまだ短かかったこの当時としては普通であり、功なり遂げたあとの死、ということで無念さはさほどではなかったかもしれません。

彼の門下生の中にはその後、花王を創立した長瀬富郎や、資生堂の創立者、福原有信などがおり、ご存知のとおりその後日本を代表する化学薬品メーカー、化粧品会社となりましたが、これらの会社では現在も石鹸を製造しています。なので、その創業者を育てた堤磯右衛門は、さしずめ日本における「石鹸の父」といっても良いかもしれません。

この石鹸の起源はヨーロッパにあるようです。では、石鹸は日本に入ってくる前、ここでどうやって誕生したのでしょう。

そもそも石鹸は、水だけで落ちにくい汚れに対し、古代から粘土や灰汁、植物の油やサポニンなどがその代りとして利用されていました。

サポニンというのは、水に溶けて石鹸様の発泡作用を示す物質の総称であり、ステロイド、ステロイドアルカロイド、あるいはトリテルペンといったものが多くの植物から抽出されます。

サポニンが含まれる植物として、我々の馴染の深いものには、サイカチ、ダイズ、アズキ、トチノキ、オリーブ、朝鮮人参、ブドウ(果皮)、ハスイモなどであり、このほかにもたくさんの植物に含まれます。またヒトデやナマコといった棘皮動物の体内にも含まれます。

こうした植物由来の石鹸は、紀元前2800年ごろには、アムル人の王都バビロンで利用され、紀元前2200年ごろのシュメール粘土板には、シナニッケイという植物の油を原料とした石鹸の製造方法が示されているということです。

ところが、その後こうした植物由来のものとは別に、動物由来のものが人類により発見されます。

古代の人々は、火を使えるようになると、捕えた動物の肉を焼いて食べるようになりました。このとき焼いた肉をからは、脂肪が滴り落ちます。これが薪の灰の上に落ち、この混合物に雨が降ると、アルカリによる油脂の鹸化が自然発生します。そしてこれが人類が最初に発見した動物由来の石鹸であると考えられています。

その後紀元前700~500年くらいまでには、古代ローマ人が神への供物として羊を焼いて作るようになり、その供物を捧げるための場所が、「サポーの丘(Mount Sapo)」という場所であったため、このSapoが、soap の語源になったのではないかといわれています。

前述のサポニン(saponin)もまた、これが語源です。

その後、この動物由来の石鹸は、ヨーロッパでは主にゲルマン人やガリア人が使うようになり、その後いったん廃れます。しかしその製法はアラビア人に伝わり、アラブ世界で生石灰を使う製造法が広まると、8世紀にはスペイン経由で「逆輸入」され、ヨーロッパ各地で家内工業として定着していくようになります。

しかし12世紀以降、それまでの動物油脂を使って作ったアルカリ石鹸に替わって、オリーブ油を原料とする固形のソーダ石鹸が地中海沿岸を中心に広まるようになり、特にフランスのマルセイユが生産の中心地となりました。

そして18世紀から19世紀にかけての産業革命下のロンドンでよりその製造がさかんになり、以後大量生産されるようになり輸出もさかんに行われるようになります。日本にも入ってくるようになったのもこのころのことのようです。

この石鹸、その原料は天然油脂とアルカリのみのため、造るのは至って簡単みたいです。

石鹸の製造は、油脂の構造、アルカリによる鹸化、界面活性などなどの化学的知見を比較的容易な操作で学ぶことが出来るため、かつて理科や化学の実験教育に利用されていたぐらいです。

確か私も高校のときの化学の授業の一環で石鹸を作ったような記憶があります。しかし、もともと理系とはいえ化学は苦手なほうだったので、あまりその製造過程は良く覚えていません。従って、ここでみなさんに説明するほどの知識もありませんし、いろんな方がその説明を別のHPで書いていらっしゃるので、ご興味のある方はそちらのほうをどうぞ。

日本では、1990年代、家庭で使用済み天ぷら油を下水道に流す問題が取り上げられ、廃油を使った石鹸作りが広まるきっかけとなり、その後、環境教育やリサイクル、環境保全の一環としてこうした石鹸作りが学校などで行われるようになったようです。

また、近年、こうした身近な薬剤の「自然志向」が進んでおり、アレルギー対策や添加物による悪影響を回避するスキンケアを目的として、オリーブ・オイルなどを原料として安全な石鹸作りを行う人もいるようです。

オリーブオイルで造った石鹸には副生物のグリセリンが多少残留するものの、おおむね無害であるため、人気が高いようです。

ただし、製造時に水酸化ナトリウム、水酸化カリウムといった高濃度の劇物を使用する必要があるということで、このためこうした薬品を使うことのリスクを覚悟する必要があり、また、出来た石鹸の品質が100パーセント保証されているわけでもないため、原料の残留による肌荒れ等の恐れもないとはいえないようです。

なので、自分で安全な石鹸を作ってみたいという人は、十分な知識を持った人に教わった上で不純物質の除去の方法などを会得したほうが無難でしょう。また、アレルギー体質の人は、できた石鹸を少しづつ使いながらその経過をみるほうが良いと思います。

一方では、工場で大量生産された石鹸は、その後、化粧石鹸、薬用石鹸、洗濯用石鹸、台所用石鹸などなど様々な石鹸が誕生するようになり、いまや我々の生活にはなくてはならないものになっています。

ペット用石鹸などというものもあって、人間さまが使うのとどこがどう成分が違うのかよくわかりませんが、しかも犬用とネコ用と別々にあるのがこれまた不思議。ちなみにウチのテンちゃんは、普通の石鹸で洗っています。もっとも本ニャンが嫌がるのでニャンプーするのも年に一度か二度ですが……

もともと動物や植物などの自然にある素材を使って作ったものなので、口にしても害はないみたいですが、食べるとおなかが痛くなる、と昔学校で教わりましたが本当でしょうか。

ちなみに、昔、学校では石鹸を網袋に入れて蛇口に吊すことが広く行われていましたが、最近これをほとんど見なくなったため、なぜかなと思っていましたが、これは、カラスが食べてしまうため、吊るすのを止める学校が増えたためだそうです。

石鹸を食ってのた打ち回っているカラスというのはみたことがないので、やはり人畜無害なのでしょう。石油や油脂を原料として化学的に合成された合成洗剤とは違うので、基本的には無害のはずです。

とはいえ、最近の石鹸は本来は入っていない香料が加えられており、また泡立ちを良くしたり、汚れを落としやすくするために人体には良くない余計な添加物を練り込んでいるものも多いので、無害だからといって、カラスのごとく、むやみやたらに石鹸をぱりぱり食べるのはやめましょう(そんな人はいないでしょうが)。

ところで、従来の石鹸に変わって登場したこの合成洗剤ですが、石鹸より水溶性に優れ、洗浄力が強く、石けんカスが発生しないため、戦後、洗濯機の普及とともに爆発的に広まりました。

第二次世界大戦以降の1952年、この当時「花王石鹸」と呼ばれていた花王から日本初の弱アルカリ性合成洗剤「花王・粉せんたく」が発売され、これが後の「ワンダフル」になります。

登場以降石鹸に代わって広く普及したため、1987年には、従来の洗剤から助剤を削減し、より少ない容積で同等の洗浄力を得るようにしたコンパクト洗剤、花王の「アタック」が発売されました。確認していませんが、スーパーなどではいまだにこの商品名は健在なのではないでしょうか。

2000年代に入った現在では、従来の粉末洗剤に代わって液体洗剤が登場し、粉末合成洗剤以上に家庭に浸透してきていますが、旧来の石鹸に比べて自然環境での生分解性が悪く、水質汚濁の原因物質になりやすいことが指摘されています。

しかし、最近の合成洗剤は、80年代、90年代に問題になった公害問題を反省して、さらに技術開発が進み、現在では水質汚濁原因の要素もかなり取り除かれ、また従来の石鹸と同様、誤使用・誤摂取においても問題を生じることは少なくなっているそうです。

それにもかかわらず依然として、合成洗剤は毒であるとか、環境を著しく汚すと考えている人は多いようで、市民団体や労働組合などの中には、合成洗剤には毒性があり人体に危険として合成洗剤不買運動をまだやっているところもあるようです。

過去に問題提起された点を根拠としているようですが、そのあたりの根拠づけをしっかりした上で運動したほうが良いのでは……と個人的には思います。

しかし、合成洗剤の使用が、肌荒れや脱毛、アトピー性皮膚炎を引き起こしており、その原因物質を含んでいるとする説も多く、かくいう我が家も、タエさんのご指導により、洗濯石鹸は、できるだけ「無添加」を使っています。

わざわざ「無添加」を選ばなくても、低刺激性の合成洗剤を使用すれば問題ないという人もおり、またアルカリ性である石鹸よりも合成洗剤のほうが肌荒れしにくいという人までいるようですが、私的には、幸い、面の皮が人よりも厚いのか、無添加であろうがなかろうが、また自然石鹸でも肌荒れやアトピーなどになったことはありません。

が、こうした問題を抱える人達にとってはたかが洗剤とはいえ、重大な問題に違いありません。

とはいえ、昨今やたらに耳にするこうしたアレルギーらしき症状の原因が、本当に洗剤だけなのかといえばそうであるはずもなく、おそらくは現代人が多く抱えるストレスなども原因になっているのでしょう。

洗剤だけでなく、やれ水道水の中のカルキだの、壁紙に含まれるホルムアルデヒドだの、排気ガス、はたまた中国からのPM2.5だの、現代社会はまるで化学物質の檻の中のようです。

そんな世の中だからこそ、できるだけ空気の良いところに住みたいもの。そう考えると、ここ伊豆は東京に比べてはるかに安全な国のような気がしてきました。

そんな伊豆に住み始めて早一年あまりがたちました。正確には今日で一年と一か月。去年と比べてより健康になったか?と聞かれると、YES!と胸を張って言えそうです。

ということは、来年はもっと元気になり、その次はさらに若返って、だんだんと若くなるのでは……という気さえしてきました。

来年の今頃、このブログをまだ続けていたら、また更に若くなっちゃいました~!とご報告ができることを夢見て、今日の項は終わりにしたいと思います。

あ、そうそう、ここ2~3日は、外出先から帰ったら必ず手や顔を洗いましょう。中国から大量の黄砂とともにPM2.5が到来しているようですから、これを洗い流すためです。

そのとき、使うべきもの。それは、やはり「石鹸」でしょう!