伊豆高原にて ~伊東市

今年の修善寺での桜のさかりは、4月を迎える前に足早に過ぎ去ったようで、昨日通りがかったふもとの狩野川沿いのサクラも既に散り始めていました。

今年は、伊豆での生活もようやく落ち着いてきたこともあり、満開の桜を見ようと、先日も松崎まで足を延ばして那賀川沿いのサクラ並木を見てきましたが、一昨日も伊東のさくらの里と伊豆高原に行ってきました。

が、結論からいうと、さくらの里の桜は少々期待はずれでした。

ここの桜の売りは、たくさんの品種があることであり、広い敷地内に所狭しと色々な種類の桜の木が植えてあるのですが、満開のものもあれば、既に終わったものもあり、そうではなく、まだまだ蕾のままのものなど、さまざまです。

たくさんの種類を植えることによって、3月から5月までの長期間にわたって桜が咲き続けるようにしたかった、ということなのでしょうが、全体としてまとまりがなく、一度にワッと咲いた桜を期待していた私にとっては何やら物足りないかんじ……

また、植えられている種類も、花よりも葉っぱが先に出るタイプの大島桜が多く、このため花だけが優先して咲くソメイヨシノのような華やかさもあまりありません。

桜と桜の間にウメや花桃も植えてあって、色鮮やかなので、むしろ、こちらのほうが目立ってしまって、せっかくの桜の花が引き立たないといった面もあり、全体を通してみて、うーん、とちょっと残念なかんじがしました。

とはいえ、時期を先か前かにずらせば、もしかしたらもっと多くの花が見れる時期があるのかもしれません。所詮はこれだけ違う種類があれば、公園全体で一斉開花を望むのはお門違いといったところ。

ただ、会場内の桜の多くはまだ蕾のままのものが多かったので、これから4月に入ったらもっと華やかになるのかも。幸い、桜の里は修善寺からも近いので、来週にでもまた来てみようかと思います。

このようにさくらの里はまだまだ花の盛りではないといったかんじでしたが、それでも会場には平日にもかかわらず大勢の人が花見に訪れており、写真を撮ったりお弁当を食べたりで、会場にはゆったりとした空気が流れているようでした。

それにしても上野公園のように桜の下にシートを拡げて宴会という光景が見られないのは、そういう飲食が禁止されているためでしょうか、それともここ静岡では花見しながら飲み食いするという風習があまり一般化していないのでしょうか、よくわかりません。

が、先日の那賀川でもそういう光景は見られなかったことから、静岡では案外と桜の下でおおっぴらに宴会をするという習慣がないのかもしれません。

そういえば、先日、「ローカル・ルール」の項を書くときに色々調べていたら、静岡県では、主として中部地域などで新聞の購読や他紙への契約変更を促す戸別訪問によるセールス活動がないということが書かれた記事をみつけました。

地域の秩序や商慣習などを守るための、一種の「紳士協定」のひとつだと思われますが、この花見の習慣についても、こうした自然や景観を守るための、ルールみたいなものがもしかしたらあるのかな、と思ったりもします。

が、真偽のほどはよくわからないので、今度同じ別荘地内の人に聞いてみて、本当にそういう事実があるのならまたご報告しましょう。

さて、このようにさくらの里は少々不発気味だったので、それでは、ということで、次の目的地の伊豆高原に向かいました。さくらの里は大室山の北側に位置するのですが、伊豆高原はこの南から東にかけての一体に広がる別荘地で、さくらの里からはクルマで15分ほどで行くことができます。

もともとは、「八幡野(やわたの)」という地区を中心として伊豆急行が開発した別荘地であり、城ヶ崎海岸に代表されるきれいな海と、その背後に広がる美しい天城山をはじめとする山々などの自然を売りにする形で土地が分譲されました。

新幹線で熱海まで来ればそこからはもう伊豆急一本でここまで来れるということで、都心からのアクセスが比較的容易であるうえ、近年では東京からJRの特急踊り子号が伊豆急行線に直接乗り入れており、下車駅の伊豆高原駅までは乗り換えなしに来ることができます。

自動車でも、熱海から国道135号か伊豆スカイライン経由で一時間ほどのアクセスであり、この伊豆スカイラインからの眺めも素晴らしいこともあり、ここを訪れる大部分の人が車利用のようです。

ただし、連休の時やシーズンの週末などはかなり渋滞がひどいため、伊豆高原まで電車で移動して現地でレンタカーを借りて観光するという人も多いと聞いています。

それにしても、いつもこの地を訪れて驚くのは、この伊豆半島の東側の道路の複雑さです。一応、東側の海岸線沿いに南北に国道が走ってはいるのですが、これを一度はずれて脇道に入るやいなや、道路はまるで網の目状になり、しかも、アップダウンの激しい坂道ばかりの道が多く、しかもそれぞれの道路の狭いこと狭いこと。

ナビゲーションがあれば道に迷うということはあまりないのでしょうが、そのナビ様もまたこれだけ複雑な道路では計算がしにくいらしく、一本道を間違えて再計算するたびに、それまで示していたルートとは全く別のルートを指示するなど、混乱しっぱなし。

以前、同じような経験を横浜でしたことがあります。横浜もその名のとおり、浜沿いに造られた町であるため、海岸から少し山側に入ったとたん、急斜面で複雑な地形が待っており、しばしばナビが誤作動をおこします。

しかし、伊豆高原の道路の複雑さはもしかしたらそれ以上かもしれません。地図を持たないでこの地域に入った人は、一生ここから出て来れないのではなかろうかと思えるほどです。

この複雑な道路網がなぜできたのか。伊豆急がその開発のときに手を抜いたのでしょうか。

いや違います。この伊豆高原は、伊豆東部火山群の活動によって形成された丘陵地帯だからです。町の基盤はすべて大室山からの溶岩流でできており、行ってみればわかると思いますが、町のいたるところに大室山から噴出された溶岩の塊がゴロゴロしています。

従って、この溶岩でできた大地を切り開くにはそれなりに労力と手間がかかるため、できるだけ溶岩の少ないところに別荘地と道路を切り開いていたらこうなったというわけ。

大室山の麓から相模灘に面する海岸線までを含めてこの地帯一帯を「伊豆高原」と呼んではいますが、実は高原地帯でもなんでもなく、本当は「溶岩地帯」なわけです。その証拠に、「高原」と呼ばれてはいるものの、日本中で「高原」と呼ばれている場所の中ではここの標高が最も標高が低いと言われています。

それだけに、「高原」というと涼しい場所というイメージがありますが、夏場もけっしていつも涼しいというわけにはいきません。ただし、伊豆高原でも大室山にかなり近い北側方面は結構涼しいらしく、また西南側に続く天城山一帯の高地も夏場でもかなり気温が低いようです。

天城山まで行ってしまうとここはもう伊豆高原ではなく、「天城高原別荘地」になってしまいますが、ここの気温は夏場でも麓より3~4度も涼しく、ただそれだけに冬場の気温も低くて、一冬に何度も雪に見舞われます。

もっとも、一番標高の低いところに造られた伊豆急の伊豆高原駅あたりになると、もうこのあたりの気候は熱海あたりとあまり変わらないみたいです。ここからはもう、その東側に広がる城ヶ崎海岸も近く、山の気候というよりは海の気候です。

この城ヶ崎海岸もまた、大室山の噴火によって流れ出した溶岩が海に流れ込み、急激に冷やされてできた海岸であり、非常に複雑な地形をしています。城ヶ崎自然研究路および、城ヶ崎ピクニカルコースが整備され、断崖絶壁の海岸の上を歩くことができ、以前このブログでもその様子をご紹介しました。

一方、伊豆高原駅から北西方向には、この地域のメインストリートがあり、これが伊豆高原の「桜並木」として知られる通りであり、伊豆高原駅から約3kmにわたって続いています。

実は私はここに来るのは、3度目くらいです。そのうち一度はこの桜の季節にやってきており、ここからすぐ近くのペンションに滞在しました。そのころはまだ先妻も元気で、幼稚園へ入ったばかりの息子を連れ、桜並木の下を三人で仲良く手をつないで歩いたことが懐かしく思い出されます。

もうかれこれ15年ほど前のことですから、ここの桜もそのときから同じ年齢を重ねているはずです。

そのためなのかどうかはよくわからないのですが、以前はここの桜はもっと勢いがあったなと感じたと思うのですが、この日の伊豆高原の並木は少し華やかさが足りないなと思いました。

この日は花曇りの天気であり、そのせいなのかなとも思ったのですが、通りに並んだ桜の木一本一本を見ていくと、やはりかなりの「お年」を召しているかんじがし、この点、先日見たばかりの那賀川の桜の木と比べると、明らかに老齢化しています。

そこで伊豆高原の別荘地を伊豆急が開発した年を調べてみたところ、分譲地としての販売が開始されたのが昭和38年だそうです。ということは、このころに樹齢10年ほどの若木を並木として植えたとしても、それから50年経っているわけですから、多くの木が樹齢60年以上は経っているということになります。

「ソメイヨシノ60年寿命説」というのがあるそうで、それから考えるとそろそろこの並木も……ということになるのですが、果たしてどうなのでしょうか。

もっとも、すべての桜が60年経ったらバタバタと倒れるというものでもないと思いますし、東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに80年近くが経過していますがいまだ健在です。

近年ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用することで樹勢回復できる技術も進んでいるということなので、こういう新技術を駆使すればまだまだ元気なままでこの景観を保っていけるかもしれません。

老齢化しているとはいえ、大室山に向かって北側に向かう道路の両脇に延々と連なるサクラ並木はいまだ健在です。評判通りの「桜のトンネル」を形成していて、このトンネルを目当てに来た多くの観光客がシャッターをパシリパシリと切っていました。

並木の一番北側のはずれに、できたばかりと思われる喫茶店があり、タエさんとここでお茶をして休憩することに。こちらの喫茶店、「ドックラン」を併設しているということで、犬連れのお客さんでも入れるという趣向。

このときも3~4組のお客さんがワンコ連れで来られていましたが、飼い主も犬たちも楽しそうで、それを見ながらお茶をしている我々も穏やかな気分に浸ることができました。

ちなみに、この伊豆高原の桜並木を見るためにクルマで来られる方は、この山の手のほうにはほとんど駐車場がないことにご注意を、です。

この地域全体がそもそもが別荘地なので、大きな駐車場は設けてありません。従って、クルマで来た場合には、ふもとの伊豆高原駅のすぐそばに大きな駐車場が2~3カ所あるのでここに止めてから歩いて行くことになります。かなり大きな駐車場なので、平日は満杯になることはまずないでしょうが、休日にはそれでもかなり混雑するかも。

ちなみに、伊豆急直営の駐車場は15分無料で、終日利用でも500円というなかなか良心的な値段でした。ただし、この駐車場から並木へと続く「山道」への歩行は結構な重労働です。「登山」といったほうがよいかもしれません。

とはいいながら、それなりの観光客を集めているのは、この桜並木以外にも私設の小規模な美術館や博物館が散在しており、それなりの楽しみがあるからです。「ねこの博物館」や、最近できた「伊豆高原ドッグフォレスト」などといった施設もあって、最近のペットブームにあやかった施設も多いようで、ペット同伴で宿泊できるペンションもあるようです。

伊豆高原では、この別荘地の風土にあこがれて移住してきたアーティストさんたちも多く、陶芸や絵画、木工や編み物といった様々な工芸文化が育まれています。

また、もともとは素人だったものが、こうした人達に教えを受け、そのうち上達してプロ並みの技術を身につける人も多いようで、こうして培った技術を使ってできた作品をさまざまな形で販売もしていたりします。

この桜並木の季節にも、「伊豆高原桜まつり」と称して、その実は「クラフトフェスティバル」である催し物が開催されており、伊豆高原駅前の広場とともに、桜並木の途上の各所にもそうした芸術家さんたちのお店が開かれています。

我々が訪れたのは平日でもあり、また夕方近かったため、あまり多くの出店はオープンしていませんでしたが、この週末にはさぞかし賑やかだったことでしょう。今年は、3月23日~4月5日までの二週間続くということです。地元の方だけなのかと思ったら、全国からこういう作家さんを招致しているみたいで、その総数は100軒にも及ぶとか。

春だけでなく、秋にも同様のフェスタを開いているらしく、こちらは10月に同様に駅前広場などでクラフト作家さんの作品の展示販売があるようです。

伊豆高原ではこのほかにも1993年から毎年、「伊豆高原アートフェスティバル」という催しがあるそうです。毎年5月1日から31日までの一か月間、広い別荘地のあちこちにある、自宅のリビングや客間、別荘の部屋、喫茶店やレストラン、ショップ、ペンションなどがギャラリーになります。

参加者は前述のような本職のアーティストさんたちだけでなく、素人さんも参加できる自由な作品展示会だそうで、これが町ぐるみで行われるというところがなかなか面白い試みだと思います。毎年この時期になると、それぞれの別荘敷地内で、作品を作る人と訪れる人たちとのにぎやかな会話がはずむそうで、これもまた楽しそうです。

去年で20回目を迎えたといいますから、結構長いこと続いているイベントのようです。去年、新聞で読んで私もこのことを知ってはいたのですが、まだまだ引越し騒動の余韻の冷めやらぬころのことで、伊豆高原まで出かける余裕はありませんでした。が、今年はぜひ足を運んでみたいと思っています。

さて、今日もまたお花見……といきたいところですが、ここのところずーっと、花曇りの天気ばかりで、今日もまた曇り時々雨といった天気のようで、ぱっとしません。これから桜はどんどん北上していくでしょうから、この先見ごろになるのは、おそらく御殿場とか山中湖でしょう。来週、御殿場あたりにでも行ってみることにしましょう。

昨年は引っ越してきてすぐのことでもあり、桜見物なんてする余裕すらありませんでしたが、今年はその恨み?を晴らすべく、もっともっと桜を見たいと思います。桜が終われば次はシャクナゲ、シャクナゲが終わるころにはそろそろバラが咲きだし、その先にはアジサイも待っています。

今日で3月も終わり。暦的にはひとつの節目ですが、我々二人のお花見見物にはまだまだ節目は訪れそうもありません。次はいったいどんなきれいな景色がみれるでしょうか…… 楽しみです。

頼母のこと ~松崎町


昨日話題として取り上げた、西郷頼母については、少々書き足りないことがあったので、今日それについて少し補足したいと思います。

多くの人が、この「西郷」という苗字が、あの薩摩藩の西郷隆盛と何等かの関係があるのではないか、と思うでしょうが、その推察は「当たり」です。

武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前(現熊本県)の伊佐早(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られています。この肥前西郷氏は、同じく肥前での有力武将、菊池氏の一族であり、江戸時代以降には、その一族を称する家の中から多数の著名な人物を輩出しました。

例えば、三河の国人領主から徳川家康に仕えて大名にもなった三河西郷氏がそれであり、会津における西郷頼母の西郷家は、この分家になります。頼母ら幕府軍と敵対する官軍の総大将になった西郷隆盛は、元は薩摩藩の下級藩士であり、この隆盛の西郷家もまた、肥前西郷氏から古い時代に分かれてできたものです。

従って幕末の世にあって奇しくも西郷頼母と西郷隆盛は、官軍と幕府軍という敵対関係にはあったものの、そのルーツをたどれば、同じ一族であるということになります。

実はこの二人、幕末の慶応の時代にすでに知り合いだったという記録があり、実際、隆盛と頼母がやりとりした手紙が残っているということです。

どの程度親しかったのかについては不明ですが、頼母が明治8年(1875年)に、福島県の東白河郡にある都都古別神社(つつこわけじんじゃ)の宮司となったころ、西南戦争が勃発し、この際、頼母は西郷隆盛と交遊があったとして、謀反の罪を着せられかけています。

結局は、はっきりとした証拠もなく罪は免れましたが、このことがきっかけで宮司を解任されています。その後、頼母は今度は日光東照宮の宮司の職に就きますが、明治13年(1880年)にはこれを辞して自由民権運動に加わり、政治活動に身を投じています。

政治活動に加わったという事実から、隆盛と共同での謀反論はあながち根拠がないともいえませんが、逆に考えればこうしたあらぬ疑いをかける新政府への反感から、民権運動へ身を投じるようになっていったのかもしれません。

……と、書きだしてはみたものの、話が前後して、わけがわからなくなりそうなので、ここでもう一度、西郷頼母という人物の経歴をみていきたいと思います。

その生まれは、1830年(文政13年)であり、明治36年(1903年)に73才で亡くなっています。前述のとおり、その生家は菊池氏族の流れを持つ西郷氏であり、三河西郷家の分家が会津に定着してできた家系になります。

三河西郷家は、もともとは室町時代に仁木氏の守護代を務めた名家でしたが、やがて勢力を拡大させる松平家に臣従し、その後、徳川政権下で御三家や有力譜代の家臣として存続し続けます。徳川家康に仕えて大名も輩出しており、会津藩の藩祖である保科家同様、徳川家譜代の名家ともいえます。

このため、家紋も会津藩の祖である保科家と並んで、九曜紋を許されており、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄となり、西郷頼母の代では9代目となっていました。

明治維新後、頼母は苗字を西郷から保科へと変えていますが、これも西郷家が旧藩主であった保科家と同等の格式を持っていたという証拠です。

なぜ保科を名乗るようになったのかはよくわかりませんが、おそらく旧藩主の松平容保から、保科の名を名乗るようにと許されたのではないかと思われます。

もともとは西郷家は保科家と縁戚関係もあり、保科家の「分家」の扱いになっていたようです。しかし、幕末までは保科家のほうがランクは同格とはいえ、藩主の血筋の名前を名乗るのははばかられたのでしょう。

しかし、明治になってからはそうした遠慮も必要なくなり、頼母に更に一ランク上の藩祖の名を与えることで、幕末からの動乱の中で会津藩を支え続けた頼母をねぎらい、恩賞としたのではないかと考えられます。

さて、会津藩の家老職になって以降、明治までのその足跡は昨日書いたとおりですが、少しだけ振り返りましょう。

1860年(万延元年)、30才で家督と家老職を継いで以降、藩主・松平容保に仕えますが、容保が幕府ら京都守護職就任を要請された際に、これを辞退するよう進言したために、容保の怒りを買い、蟄居を命じられます。

その後、明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許され、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変。

一転、白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃しましたが、新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥。若松城に帰参した頼母は、容保に再び恭順を勧めますが、会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。

意見の折り合わぬ頼母は、他の藩主から命を狙われるまでになり、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになりますが、この際、母や妻子など一族21人が自邸で自刃しています。

会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなります。この間、明治3年(1870年)、40才で頼母は保科に改姓し、保科頼母となっています。

そして明治5年(1872年)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となったというのが、昨日まで書いたストーリーでした。

その後、謹申学舎塾で塾長を二年ほど勤めた頼母は、明治8年(1875年)、45才で前述の都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となりますが、西郷隆盛との交遊を疑われ、宮司を解任されてしまいます。

このためやむなく頼母は、同じ福島県内の、伊達郡霊山町にある霊山神社に再び宮司として奉職し、ようやく生活は落ち着きを見せます。

ところが、明治12年(1879年)には、会津を共に脱出して長年苦楽を共にしていた長男の吉十郎が22歳で病没してしまいます。

先妻や一族のほとんどを会津戦争で失っていた頼母にとって、最愛の息子の死による悲嘆がどれほどのものだったでしょう。想像するだけで心が痛みます。

しかし、同年、会津藩士で妹の夫、つまり義理の甥の志田貞二郎の三男として若松に生まれ、3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移り住んでいた志田四郎を養子とします。

実は頼母は、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門という、「御式内」と呼ばれる柔術と陰陽道を学んでおり、その達人だったとも言われています。

後年、明治31年(1898年)に霊山神社を訪ねた武田惣角という会津出身の武術家に、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と指導し、これに薫陶された武田惣角は、その後、達人とまでいわれたその剣術の修行をやめ、大東流合気柔術の修行に専念するようになったといいます。

この大東流合気柔術というのは、柔道と合気道の合いの子のような武術のようで、現在も武田惣角の大東流合気柔術を継承する会派や武術教室が全国に多数あるそうですが、柔道における講道館、合気道における合気会のような広く認められる中心的な組織はないそうです。

その大東流合気柔術の祖ともいえる人物に伝授したほどですから、頼母の柔術の腕前はかなりすごかったのでしょう。養子とした16才の志田四郎、改め西郷四郎にも丹念にその義技術を伝え、その結果、四郎は成人した後、柔道家として大成することになります。

1882年(明治15年)といいますから、頼母の養子となってすぐのこのころにはもう頼母によって柔術の基礎を学び終えていたのでしょう、四郎は単身上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学。

ここに通いながら、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍します。そして1883年(明治16年)には初段を取得。

1886年(明治19年)に行われた警視庁武術大会では、講道館柔道は柔術諸派に圧勝しますが、このとき四朗は有力候補といわれた戸塚派揚心流の好地圓太郎に勝ち、大いに講道館の名を高めました。

この試合は両流派のホープと目されていた二人の試合であったことから、一般からも高い注目を集めており、この試合に勝ったことで、四朗の名は一躍日本中にとどろくようになります。そして、これがあの小説や映画で名高い「姿三四郎」の誕生の瞬間でした。

講道館柔道は、この戦いで勝利したことにより、その後警察の正課科目として採用されるようになり、これが現在の柔道大国日本の発展の起点となりました。

四郎は、1889年(明治22年)、23才のとき、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となりましたが、この洋行にかねてより反対する意見を持っており、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、「支那渡航意見書」を残し講道館を出奔。

その後、東アジア共同体を主唱する、いわゆる「大陸運動」に身を投じるなどの共産活動をめざすようになり、1902年(明治35年)からは、長崎で「東洋日の出新聞」の編集長を務めています。その傍ら、この地で柔道、弓道を指導し、また「長崎游泳協会」の創設にも関わり、同協会の監督として日本泳法の確立に尽力しました。

しかし、1922年(大正11年)、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。56才でした。没後、講道館からは六段を追贈されたといいます。

さて、頼母のほうの話に戻りましょう。四郎を養子に迎えた翌年の明治13年(1880年)には、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となり、このとき頼母は容保に請われて同神社の禰宜となります。

しかし、7年ほど務めあげたあと、明治20年(1887年)、57才でその職を辞し、突然、大同団結運動に加わるようになります。

大同団結運動というのは、帝国議会開設(第1回衆議院議員総選挙)に備えた自由民権運動各派による統一運動のことであり、このころ、自由民権運動は政府の弾圧によって衰微しており、その運動の中心であった自由党は解党、立憲改進党も休止状態にありました。

この前年の1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用などの大幅な譲歩が含まれていました。

これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされるようになります。こうした中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、言論の自由や地租軽減、対等な立場による条約改正などを訴える「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出しました。

これがいわゆる「三大事件建白運動」であり、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、旧自由党・立憲改進党の主だった人々に一致団結を呼びかけはじめたのが「大同団結運動」です。

それまで日光の禰宜として神事を奉職していた頼母が、それまでの静かな生活を捨てて政治活動に身を投じようと決心したその理由はよくわかりません。

しかし、1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる自由民権運動は、それ以降に徐々に混迷を深めていく薩長藩閥政府による政治に対する不信の表れであり、頼母のように新政府によって虐げられてきた旧会津藩などの幕臣にとっては、その憤懣をぶつけるためには、格好の起爆剤であったはずです。

憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの数々の要求を掲げた大同団結運動の始まりとともに頼母もまた、会津と東京を拠点としてこうした政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていました。

しかし、結局大同団結運動は対立する諸派の意見が折り合わずに瓦解。頼母もまたこれを機会に政治運動から身を引き、郷里の会津若松に戻りました。

その後は、かつて宮司を務めた福島県伊達郡の霊山神社に戻って再び神職を務めるようになり、ここで明治22年(1889年)から明治32年(1899年)の10年間を過ごします。

その後再び若松に戻り、明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で死去。享年74歳でした。墓所は最初の妻、千重子の墓とともに、会津若松市内にある善龍寺というお寺にあるといいます。

伊豆へ一緒に伴ったという「きみ」という女性のその後について調べてみたのですが、よくわかりません。記録にもあまり出てこない人物なので、後妻というよりは側女のような存在だったのかもしれません。また、格式を重んじる会津に帰った頼母にはあまり表に出てきてほしくない存在だったのかもしれません。

主君の松平容保は、幕府瓦解後、鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居しますが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられ、自らもれから間もなく蟄居を許され、前述のとおり、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となりました。

頼母同様、晩年こうした神社での神職に自らを奉じたのは、会津戦争で亡くなった多くの死者を弔うためでもあったといわれています。

容保は、その後正三位まで叙任し、明治26年(1893年)に東京・目黒の自宅にて肺炎のために死去。享年59才。死の前日には明治天皇から牛乳を賜ったといい、八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められ際に賜った、宸翰と御製を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったといいます。

そして、会津戦争については周囲に何も語ることはなかったといいます。

これより更に10年長生きした頼母もまた、晩年にはあまり多くを語らなかったようですが、「栖雲記(せいうんき)」という自叙伝を残しており、この中には会津戦争で自決した子女たちの死に際の様子なども記載されています。

また、一人息子の吉十郎が22才で亡くなったときの心情も述べており、「ただ一人残った子を失った心中は、じつに切ないものであった」と書いています。

また、かつて箱館戦争においては、頼母は「山田家」という会津の家を継いだ弟の山田直節とともに政府軍に捕縛されますが、弟の直節は古河藩に幽閉された後に国家転覆の反逆を企てたとの疑いによって牢獄に繋がれ、そこで獄死しています。

頼母自身も弟に連座して逮捕されるところだったようですが、救う人があったために助かったと記されています。栖雲記にはこれが誰であったかは記されていませんが、この頼母を救った人物こそが、西郷隆盛だったともいわれています。

そして、この栖雲記には、長かった人生を述懐するような言葉が最後に記されています。

昔わが栖にし雲と尋れば涙の名残なりけり

昔住んでいた場所はどこだろうと探してみたが、涙の名残のごとく消えてしまっている、というような意味でしょうか。

会津、伊豆、日光と、各地を渡り歩いたあとの自分の足跡を探してみたけれども、結局は何も残っていない、といっているようで、何やら人生の空しさを感じさせるようなことばです。

会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価が多い中、そうした他人のための人生はやはり自分のものではなかったと、最後に悟ったのかもしれません。

しかし、そうした悟りのようなものを最後の一瞬に感じることができたとすれば、その一生はけっして無駄ではなかったでしょう。

現在、会津若松市の東山町というところに、かつての会津の武家屋敷群が約7000坪もの広大な敷地の上に復元されているということです。家老だった西郷頼母のおよそ280坪の邸宅を中心として、旧陣屋など会津の歴史的建造物が軒を連ねているそうで、かつての会津の生活を再現した歴史館もあるそうです。

いつの日か、我々もここを訪れ、頼母の墓参もして、その一生をもう一度彼の地で振り返ってみたいと思います。ではいつ行くか。

……今日というわけにはいきそうもありませんが、年内中には行ってみたいものです。

松崎にて ~松崎町


昨日のこと、終日お天気がよさそうだということで、西伊豆の松崎町に行ってきました。

松崎を訪れるのはこれが3回目ぐらいになるのですが、訪れた、といっても、いつも通過しただけのことであり、そのうちの一回だけは町内の喫茶店でお茶をしたものの、既に夕方近かったため町内見物はせずに終わってしまいました。

松崎は、伊豆の中でも下田と並んで歴史的なスポットが多いことは知ってはいるのですが、どちらかといえば地味なものが多く、名所もあちこちに分散しているため、気にはなってはいたものの、なかなか訪れるきっかけもありませんでした。

ところが、急にここを訪れる気になったのは、伊豆各地の桜の開花状況を調べていたところ、この町を流れる「那賀川」という川堤のサクラがきれいだ、という有力情報を得たからでした。

それによれば、この那賀川沿いには、河口から上流5~6kmくらいのところまで延々と桜並木が続いており、いまちょうどこれが満開を迎えているとのこと。以前から、下田方面から松崎を通る際、この桜並木があるのには気が付いていたのですが、改めてそういう情報サイトをみてそのことを思い出したのです。

それにしても、那賀川、というのは河津桜に比べるとほとんど知られていないのではないでしょうか。だいたい、「なか川」といえば、字は違いますが、那須を源流とし、主に茨城県内を流れ那珂川のほうが有名なので、伊豆の那賀川?といわれてもピンとこない人も多いと思います。

しかし、色々調べてみると、伊豆の中でも伊豆高原の桜と沼津香貫山の桜と並び称されるほどここの桜は有名なようで、ただ、場所が西伊豆の最南端ということでアクセスが非常に悪く、あまり知られていないがために、関東方面からも行く人が少ないためだとわかりました。

これはきっと穴場に違いない、と伊豆のあちこちでサクラが満開の便りが届くようになった昨日、今日はどうやら一日天気がよさそうだ、ということで出かけることを決めたのでした。

お昼少し前から出て現地に到着したのは一時過ぎでした。実は松崎にはタエさんがお目当てにしていたイタリア料理店があり、このお店の食事も楽しみにしていたのですが、ここを訪れたところたまたま満席で入れませんでした。仕方なく、松崎町内の別のパスタ屋さんで軽く食事を済ませて、いざ目的地の那賀川へ。

国道136号から那珂川河口手前を左折して上流へ遡っていくと、もうその入口付近から既に川沿いに見事の桜が咲いています。

さらに上流へ進むにつれ、この桜並木はだんだんと密度を増していき、3kmほど行ったところに、桜祭りの臨時の駐車場が作られていたので、ここにクルマを止めました。うれしいことに終日無料です。

平日ということもあり、駐車場も一杯というほどではなく、難なく止めることができましたが、辺鄙なところにあるとはいえ、土日などの週末にはきっとそれなりの車であふれかえっていることでしょう。

早速クルマから下りて川沿い、川の右岸側に整備されている桜1200本の「花道」を散策し始めましたが、人や出店とその熱気でごった返していた河津町のサクラ祭りとはうって違って、観光客もまばらで、タエさんと二人でかなり離れて歩いていても、はぐれる、などということは考えられないほどでした。

なんでこんなに見事なのに人が少ないだろう、と拍子抜けするほどであり、改めて思うにそれはやはりここ松崎町が辺境の町ということにほかなりません(松崎の方、ゴメンナサイ)。

しかし、結論からいうと、ここのサクラは河津桜に匹敵するほどスゴイ!といえます。何よりも川沿いにびっしりと植えられた桜の木々が比較的若い、といっても背丈が小さいという意味ではなく、老齢化していないという意味で、おそらくは樹齢30~40年のいわば成熟した桜並木であるためでしょう。木々に勢いがあります。

これでもかこれでもか、というほど枝々にたわわに花がついていて、背後の薄い消し炭で描いたようななだらかな山々にポツポツと芽生えた薄緑にこのピンクの桜の花が生えて、これまた美しいといったらありません。

桜の木の下には、菜の花もあちこちに咲いており、この甘やかな臭いもあたりに充満しており、さらに、さらさらと流れる那珂川の水の流れも清らかで、視覚と嗅覚、そして聴覚の三つでここ松崎の春をしっかりと堪能できました。

ただ、惜しむらくは好天という天気予報だったのにもかかわらず、この日は少し花曇り気味であり、このため晴れ上がった青い空のスカイブルーとうすピンク色のサクラの取り合わせというのが写真に収められなかったのが少々残念。

しかし、これを補ってあまりある別のものもありました。それは、この那珂川の右岸側に広がる休耕田を利用した、お花畑です。およそ5万㎡と、とてつもなく広い田んぼが、那珂川の右岸側には広がっており、ここに町内のボランティアの方々が植えた花々が、色とりどりに咲き誇っています。

3月中旬から咲き始めるということでしたが、我々が訪れたときには、アフリカキンセンカ、姫金魚草、マシロヒナギクなどがほぼ満開状態で、このあと4月に入り、ゴールデンウイークにかけても、矢車草やひなげし(ポピー)などが次々と咲き続けていくのだとか。

こうした栽培種外にも普通のレンゲ畑なども広がっていて、遠目にみると本当に色とりどりの絨毯を敷き詰めたようであり、さらにこれらの花々のはるか向こうに連なる淡いピンク色のサクラ並木との組み合わせもまた、素晴らしいものでした。

これら花の競演に酔いしれていたのは、だいたい2時間くらいでしょうか。さすがに少々疲れたので、クルマに戻り、お茶など飲んで一服したあと、それでもまだ4時前だったので、今度はこの更に上流にあるという大沢温泉に行ってみることに。

この大沢温泉沿いに流れる那珂川の支川、「池代川」沿いにも樹齢50年余の桜並木があり、ここのサクラも美しいらしいということをタエさんがネットで調べていたのです。そのすぐそばにある道の駅、「花の三聖苑伊豆松崎」にクルマを止めて、早速散策に。

この池代川は、那珂川に比べれば上流にあるため小ぶりで、川幅も10mあるかないかでしょうか。しかし、逆に川幅が狭い分、その両側に枝を広げる桜同士がより近く、折りしも天候も急によくなって陽射しも出てきたため、逆光の中に生えるこれら山あいの生い茂った桜の枝々に咲き誇る花のこれまた美しいこと美しいこと……

思わず酔いしれてしまった……というと言い過ぎかもしれませんが、久々に日本の原風景らしい美しい桜を見た、というかんじで、本当に感動しました。その素晴らしさは私の下手な文章ではこれ以上どうにも表現がしようがないので、これはもう、みなさんもぜひ行っていただくしかありません。「池代川の桜」、覚えておいていつか行ってみてください。

ところで、この川沿いのすぐ右岸側には、なにやら古式ゆかしい大きな建物があるので、何かなと思って看板をみると、「大沢温泉ホテル」と書いてあります。

そういえば、先ほど車を止めた「道の駅 花の三聖苑」敷地内には、「大沢学舎」という古い建物があり、これはその昔、松崎の「三聖人」の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校を移築したものだということでした。

明治6年に建築され、その後別の場所に移築されて使用されていたものを、平成5年にできたこの道の駅に移され、開校当初の姿に復元されたとのこと。中に入ると、この依田佐二平が自宅の敷地内に興したという大きな製糸工場の写真が掲げられていたのですが、先ほどの大沢温泉ホテルは、どうやらこの工場の名残のようです。

今朝になってそのことを調べてみると、依田家の先祖は、もともと信州・小県郡依田の庄にあって武田信玄とその子、勝頼に仕えていた重臣で、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのびたといいます。

そして、その後商家として栄えるようになります。依田家の生業は幕府への年貢米の上納や、背後にひかえた天城山の山林開発・薪炭生産であり、ここで伐採した木材は屋敷の前を流れる那賀川を利用し、松崎湊まで運び更に江戸や上方にまで回漕したといいます。

回漕には自らの持ち船である八百石の「金比羅丸」を使用したという記録も残っており、江戸時代末期までには松崎、いや伊豆でも一二を争うほどの豪商となりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになりました。

現在の当主は14代目に当たり、宿の母屋と土蔵は330年前、元禄時代の建物で国の登録有形文化財に指定されているとのことで、そういう文化財でありながら、ホテルとしても使われているようで、知る人ぞ知るホテルのようです。

ネットで調べてみると、なかなか「いい商売」をされているようで、部屋は全部で25室、その内の3室は江戸時代の建築だとのこと。かつての当主が住んでいた棟を離れとしたり、赤漆・黒漆が塗られた贅を尽くし部屋などで、これらが登録有形文化財に指定されているみたいです。

宿泊料金は2人1室1人18000円~35000円の範囲、離れは別としてだいたい2万円前後といいますから、まあちょっと贅沢をしたいときに泊まるホテルといったところでしょう。

しかし、300年の歴史ものあるこの重厚な雰囲気にはなかなか惹かれるものがあり、今回は桜見物のみの目的できましたが、今度余裕があれば、夏場のホタル狩りついでにでもぜひ宿泊してみたいものです。

ところで、前述の松崎の「三聖人」ですが、次の三人のことで、いずれも幕末から明治期にかけて活躍した人々です。

幕末松崎の漢学者 土屋三余(つちやさんよ)

1815年(文化12年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の名門土屋家に生まれる。江戸で漢学を学び帰郷、「三余塾」を開く。「三余」とは、「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことによる。門下生に逸材も多く、依田佐二平、依田勉三などの数多くの郷土の偉人を育てた。

郷土発展の功労者 依田佐二平(よださじへい)

1846年(弘化3年)松崎町大沢の「依田家」の長男として生まれる。三余塾で学んだのち、江戸に出て西洋の学問を学ぶ。1964年(元治元年)に帰郷して「大沢塾」を設立、教育事業に乗り出す。養蚕業の近代化における功績は大きく、産業振興、海運振興、さらには弟の依田勉三ら弟たちを北海道開拓に送り出し、困難な開拓事業に取り組んだ。

北海道開拓の先駆者 依田勉三(よだべんぞう)

1853年(嘉永6年)依田家の三男として生まれる。兄佐二平とともに三余塾で学び、幼少から開拓精神に目覚め、その後十勝開拓のため「晩成社」を設立。明治16年開拓団27名とともに北海道へ渡るが、開拓は干ばつ、長雨、害虫などの天災に見舞われ、難渋をきわめた。苦節四十余年、事業は地元に根付くも、企業家としては実りのないままに、大正14年72才で没。

この三聖人のうちの依田佐二平という人は、下田にペリーの黒船が来航し幕府に開国をせまるという歴史的大事件によって、大きな衝撃を受けたといいます。松崎でもその激動の余波は大きく、そのころ依田家十一代の当主となっていた佐二平は、地元のリーダーの一人として松崎も変わらなければ時代に取り残されるという危機感を持ったようです。

そして、地方のリーダーとして目覚めた彼は、殖産復興に励むようになり、当時、欧米諸国への輸出品として注目された生糸を地域の産業基盤にすることを思いつきます。このため、官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣し、彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷すると、明治8年、松崎に製糸工場を建設しました。

静岡県下初めての製糸工場であり、その翌年の明治9年には工場を大沢の自邸内に移し、3階建ての大蚕室を設けます。私たちが、三聖園に移築された大沢学舎でみた、大沢温泉ホテルの前身の建物の写真がこれになります。

この製糸事業への情熱は海外各地で評価され、やがて「松崎シルク」の名を世界にひろめるまでになり、明治末期には米国アラスカ太平洋万国博覧会では金牌を受賞、イギリス・ロンドン日英博覧会でも金牌、イタリア万国博覧会で名誉賞状を授与されるなど、数々の栄誉を受けるほどになりました。

国内においても、富岡(群馬県)、室山(三重県)と共に、「日本の三大製糸」とうたわれるまでになり、さらには沼津~松崎~下田~横浜間を運航する海運会社を設立し、銀行経営まで行うなど、当時の中央財閥の地方版ともいえるほどの権力を手中にしていきます。

一方政界においても、静岡県賀茂・那賀郡長を務め、その後、県議会の副議長に選任されると、明治23年には、第一回帝国議会の衆議院議員に立候補し、見事当選。文字通り、伊豆地方の政経のトップに上り詰めました。

しかし、この依田佐二平さんの偉いところは、そうした伊豆政財界の重要人物となっていく過程において、自分が受けた恩恵を地元の人々と共有しようとしたところです。伊豆の新時代を切り開くためには、自分ひとりの力ではこれを成し遂げることは困難と考え、このため新しい教育を地元の人達にも与えるべく、多くの教育事業を起こしています。

そもそも依田佐二平は、成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、大沢にあった自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめます。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」こと、「大沢塾」です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていたようですが、やがてそして維新が起こり、文明開化の波が着実に伊豆にも押し寄せてくるようになった、明治5年(1872年)、佐二平は、かつての大沢塾をさらにグレードアップした学校、「謹申学舎」を設立します。

この謹申学舎は、現在の松崎町の中心部のやや北側にある「江奈」という地にある「船寄神社」に隣接する高台にあったようです。もともとこの場所には掛川藩の江奈陣屋がありましたが、地元の有力者であった佐二平らによって買い取られたようです。

そして、この謹申学舎に塾長として招かれたのが、以前、このブログでも紹介したことのある、旧会津藩家老の「西郷頼母」でした。

今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で藩主松平容保の近臣を務める重鎮として描かれ、役者の西田敏行さんが演じており、この番組を見ている人は、あああの人か、と分かると思います。

西郷家は、会津藩においては藩主の家系に列するほどの名家であり、歴代の当主は会津藩の要職を務めてきましたが、この頼母もまた幕末にあって、数ある家老をとりまとめる筆頭家老職を務めていました。

藩主の松平容保が幕府によって京都守護職に任ぜられようとしたとき、会津藩が政局に巻き込まれることを恐れた頼母は、その辞退を進言。これが容保の怒りを買い、その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さなかったため、ついには家老職まで解任された上に、蟄居させられます。

明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母ですが、その後の会津戦争でも、藩主容保に官軍への恭順を勧め、これが新政府への徹底抗戦を主張していた多くの会津藩士の怒りを買います。

やむなく頼母も白河口の総督として、新政府軍を迎撃しますが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて敗退。やがて新政府軍に城下への侵入を許すようになった会津藩では、恭順と徹底抗戦の意見が藩を二分しますが、頼母はやはり恭順を主張。

結局徹底抗戦派が大勢となり、強硬派と意見の折り合わぬ頼母は好戦派から命すら狙われるようになったため、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになります。このとき、会津に残った母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃しており、白虎隊の全滅と合わせて会津戦争における悲劇として今も語り継がれることになりました。

このとき、頼母の妻、千重子(享年34)の詠んだ「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」の歌は有名です。

この頼母親子の脱出は、頼母に好意的な同僚の手引きによって実現したと言われており、脱出の道中では藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で暗殺者が送られたという話もあるようです。

しかし、頼母の人望を知る刺客たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいわれており、こうしたことからも、忠に篤く仁徳のあった人物像がうかがわれます。

そして会津から落ち延びた頼母ですが、以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦いぬきます。しかし、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩(現群馬県館林市)に預け置きとなります。

その後、維新後解放された後、頼母は自由になります。そして西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗りはじめます。このころにどういう生活をしていたのか色々調べてみたのですが、そのあたりの詳細は「敗軍の将」であるがゆえか、あまり詳しい情報が得られませんでした。

その後、依田佐二平に誘われて、謹申学舎の塾長になるわけですが、この佐二平との関係についてもいろいろ調べてみてもよくわかりません。佐二平は17才の時江戸に出て、三年間儒学などを学んでいるようですので、この時の知己を通じて西郷頼母のことを知ったのかもしれません。

依田家は、滅亡した武田家の末裔が伊豆に流れ着き、戦国の世を経て江戸時代あたりから地元の有力な名家となっていった経緯を持っています。

この点、新政府軍との戦いに敗れてのち流浪を強いられた頼母ら会津人と似ており、拠るべき旧家や妻子までをも失いつつも、旧会津藩士としての威厳を失わない西郷の噂をどこからか佐二平が聞きこんだのかもしれません。

そしてその境遇に共感を持つとともに、実際に会って話をしてみたところ、その人物の大きさに驚き、この人なら伊豆のわが新学舎の塾長にふさわしいとすっかり惚れ込み、スカウトすることになった、というところではないでしょうか。

頼母は会津藩の藩主容保の実家、保科家の名跡をも継ぐ身分でもあり、筆頭家老までも勤めあげた人物ですから、若いころから名家の子息として幅広い教育を受け、深い教養を持っていたことはまちがいないでしょう。

更には幕末の動乱の時期においても藩主を正すことができるほどの時勢を見る目を持ち、その後の函館戦争を生き抜いた胆力をも考えると、敗軍の将とはいえ、およそこの時代においては最高の知識人であり先導者でもあって、その能力を教育の世界において発揮させようとした佐二平の目にも狂いはなかったといえます。

江奈へ来たとき頼母は、子息の吉十郎と後妻とみられる「きみ」という女性を伴っていたと伝えられており、頼母自身もここで新しい人生を歩みだし、松崎の暖かな気候の中でこれからの時代を担う子供たちを教えつつ、ようやく自分の才能を生かす場に恵まれ、落ち着いた生活を送れるようになっていたことでしょう。

頼母は、塾長でありながら、謹申学舎では自ら漢学を教えていたようです。およそ二年間その任にあたり、この間、松崎の多くの青年たちに漢字のみならず、外国語、算学などを学ばせたといいます。

言ってはなんですが、松崎のような奥伊豆の辺境の地に、維新の後いち早く各地より有能な人材を集め教育復興をなしたことはたいへん注目しなければならないことだと思います。

その意味では、頼母自身も非常に才に恵まれた人であり、これに貢献したことはもちろんですが、この依田佐二平という人も、商売や政治、そして教育の世界におけるその才覚の神髄は、人を見る目がある、ということだったかもしれません。

松崎町には、このほかにも、すぐ近くの「岩科(いわしな)」という場所に岩科学校という学校が、明治13年に作られており、その創設にあたっては佐二平や頼母らを初めとする地域の人々の教育への情熱と理想が強く反映されたといいます。

総工費の4割余りを住民の寄付でまかなわれたといいますから、これだけでも佐二平らの地元の熱がうかがわれ、なまこ壁をいかした社寺風建築様式とバルコニーなど洋風を取り入れたこのモダンな建物は、伊豆地区最古の小学校でもあり、1975年(昭和50年)には国の重要文化財にも指定されています。

正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣、三条実美の書だそうで、日本では甲府の睦沢学校(明治8年)、松本の開智学校(明治9年)に次ぐ古いものとして知られています。

実は私たちもまだ訪れたことがないのですが、内部は博物館として整備されているということなので今度ぜひ訪問し、その結果をまたこのブログでも書いてみたいと思います。

頼母のその後のことや、会津藩における前半生のことなどもまた今度話題にしてみたいと思います。今日は書けなかった松崎の三聖人のことも。

さて、外をみると、今朝まで降っていた小雨が止んでいます。明日の予定はまだはっきりと決めていないのですが、少し陽射しにも恵まれるようなら、桜がすべて散ってしまう前にどこかへ出かけてみようかな、とも思ったりしています。

みなさんの町の桜はどうでしょう。もう散ってしまったところもあるかもしれませんが、この週末まではなんとかなるのではないでしょうか。仕事や勉強もさることながら、この時期の桜は見逃せません。家を出て、桜吹雪を浴びましょう。

公園百景


昨日の日曜日の天気予報は「曇り」だったにも関わらず、一日を通して淡い日差しに恵まれました。

お花見に出かけようかなとも思ったのですが、昨年の秋以降、大した手も加えず荒れ気味になっていた庭を少しきれいにしようと、朝から草むしりを始めました。

最初は草むしりだけで終わらそうと思っていたのですが、始めたら始めたでスイッチが入ったみたいで、かねてより枝が張りすぎて少々邪魔になっていた木々の移植や、傷んだ芝生箇所の手入れ、バラの苗の植え替えなども初めてしまい、気が付いたらお昼になっていました。

さらに、お昼からは、この別荘地で年一回開かれるという自治会総会もあるということで、別荘地内のことももっと良く知りたいし、初めてのことでもあるので、とこれにも参加することにし、その後、夕方になって買い物へ出かけて帰ってきたら、もう日が暮れていました。

やれやれ、一日が過ぎるのが早かったわい、と思ったものですが、買い物から帰ってきて改めて自宅の庭をみると、さすがに綺麗になっており、ちょっと誇らしい気分にも。これで当分はあまり手を加えなくて済むだろう、と考えると足早に過ぎた今日一日も無駄ではなかったという気になりました。

我が家の庭は、20~30坪ほどであり、伊豆のこのあたりではそれほど広いというわけでもないのですが、それでも東京に一軒家を買ったらこの広さの庭はなかなか付いてきません。

ある程度自分の気に入った樹木を余裕をもって植えるくらいの広さはあり、手入れのことも考えると、これくらいがちょうどいい広さかなとも思います。これ以上広くなると、草取りだけでも大変になってしまいますから。

ここへの移住にあたっては、これよりも大きな敷地を持つ家も候補にあがったものですが、改めてあまり大きすぎないものを買って正解だと思う次第です。

それにしても、我が家の庭の手入れだけでも大変なのに、もっと大きな庭を持っていらっしゃるお宅では、どのように管理されているのだろう、人に任せているとするとどれくらいかかるのだろう、とか気になります。また、日本全国あちこちにある公園施設は、もっと大きいし、その維持費だけでも膨大なものになるだろうな、と思ったりもします。

そこで、ちょっと気にもなってので、調べてみると、日本の場合、都市にある公園については「都市公園法」という昭和31年に定められた法律があって、国や都道府県、市区町村の都市計画関連の部署がこの法律に基づき、所管の公園の維持管理をしているようです。

なので、この維持管理費は当然のことながら我々が国や各自治体経納めている税金から出ているわけであり、公園を汚したり、公園にある器物を壊したりしてその修復にかかるお金は結局のところ我々の懐から、ということになります。

言ってみれば、他の人達と供用で手に入れた庭をの手入れを行政にやってもらっているようなものであり、そう考えると、こういう場所は綺麗に使わないともったいないな、という気分になってきますし、これを汚したりする人が許せなくなってきたりします。

日本には、江戸時代の昔から諸藩の大名が造った庭園が各所にありましたが、これは身分の高い人達のものであり、一般人の目に触れることはそれほど多くありませんでした。

現在の公園のように庶民に開放されていたものとしては、1695年(元禄8年)に造られた桜の馬場(現在の榴岡公園)などのような「馬場」が多く、これらは社寺境内と同様に鑑賞樹木を植栽し見世物小屋や射的、茶屋などが出店しにぎわいをみせていたそうです。

幕末から明治にかけてからは、横浜や神戸の居留地に暮らす外国人から、遊歩道や公園の設置を求める要求がでるようになり、これに応じる形で整備がすすめられ、神戸の外国人居留遊園(1868年(明治元年))や北海道開拓史偕楽園(1871年(明治4年))、横浜の山手公園(1870年(明治3年))などが作られました。

しかし、これらも居留地に住む外国人専用の公園であり、日本国民にとって解放された公共物ではありませんでした。

一般庶民のための公園の設置が法律的に宣言されたのは、明治6年(1873)になってからであり、1月15日付で出された太政官布告で、各府県で公園にふさわしい場所を選ぶようにとのお達しが出ます。

そして、この布告を受けて、各府県で検討を進めた結果、日本で一番最初の公園として、東京の上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の5つの公園が決定されました。

無論、これらの公園を一から新しく作るということではなく、もともとあった、お寺の境内を公園として指定しただけです。上野公園は、寛永寺、浅草公園は、浅草寺(せんそうじ)、深川公園は、富岡八幡宮、芝公園は増上寺、といった具合です。

飛鳥山公園だけは、大きなお寺がなく、ここはもともと享保年間(1716~36)に幕府などの大名のための花見の名所として整備された場所でした。

こうした、明治期になっての新たな公園の設置の時期は、ちょうど「地券」の発行がすすめられていた時期でした。

地券とは、明治政府が発行した証券のことで、明治4年(1872年2月5日)に東京府下の市街地の土地に対して発行され、発行にあたって従来無税であった都市の市街地に対しても地価100分の1の新税(沽券税)が課せられることになりました。

ようするに証券とは名ばかりであり、現在でいう不動産取得税にあたるものであり、明治政府はこの発布により地税を新たに徴収して国造りに使おうと考えたわけで、当初は東京だけでしたが、徐々に東京以外の都市部でも発行されるようになりました。

近代的な土地制度が整えていく過程で明治政府としては必要不可欠な政策でしたが、こうした個人所有の零細な土地とは別に、大きな境内を持つ社寺の処分も大きな課題でした。

明治維新以降、こうした社寺では大物寄進者である大名などが廃止になったため、その維持管理ができず、補修すべき社寺の境内地が荒れ放題になっており、これをどのように維持させるか、あるいは廃止させると決まったものは、その広大な敷地をどのように利用するか、などの課題が山積みでした。

こうした背景から、これらを欧化政策の一環として有効活用させようという意見が政府内部で出され、地券の導入によって得られた税金をもって、これらの寺社公園を一般向けの公園として誕生させようということになったのです。

初期の公園には、上述の5公園のように、花見の名所や風光明媚で有名な場所、大きな社寺の境内地などが多く含まれました。しかし、明治時代半ばになると、本格的な西洋風の公園がいよいよ計画されるようになります。こうして、一番最初に近代的な公園として開園されたのが、明治36(1903年)に開設した東京の日比谷公園です。

しかし、これらの公園については、洋化政策を進める中で便宜上生まれたものであり、これらの公園そのものを維持管理するための法律、つまり都市公園法はまだ整備されていませんでした。

明治6年の太政官布告の後は、日本各地で発展する各都市の都市計画の一環としての一施設として検討が重ねられ続けていたにすぎず、これら増え続ける公園施設を「都市公園」としてきちんと定め、包括的に維持管理することを定めた「都市公園法」が正式に公布されたのは、なんと50年以上も経った1956年(昭和31年)になってからのことです。

実は、1951年(昭和26年)に、当時の建設省から既に各都道府県知事に公園施設基準が通達されてり、この都市公園法の発布は、これを追従承認する形のものでした。

が、いずれにせよ、この法律の施行以降、それまで「運動場」や「運動公園」とごっちゃになっていたそれ以外の公園を明確に区分されるようになり、以後、現在のような地方自治体が管理する、街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園・運動公園・広域公園等々の数多くの公園が生まれることになりました。

ところが、この都市公園法の公布施行によっても、明治6年の太政官布達は廃止されておらず、依然この法律は生きているのだそうで、都市公園法では、法令制定前に国有地として成立していた公園について、これを管理する地方公共団体には無償で「貸付」する、という形になっているということです。

なので、明治期に造られた上述の5公園などは「国営公園」とは呼ばれていないものの、法律上は国有財産ということになります。実質の管理は東京都などが行っており、私も東京都のものだと思っていました。利用する側にとってはどうでもいいような話ではあるのですが、明治時代の法律がそのまままだ残っているなんて少々驚きです。

この都市公園法が交付された翌年の昭和32年には、昭和6年(1931年)に既に制定されていた国立公園法にかわって自然公園法も公布され、国立公園、国定公園、都道府県立自然公園などの公園整備も進められていきます。

さらに、森林公園や県民の森、市民の森といった環境に親しむための公園の整備なども進み、河川や海岸、港湾などの水辺における整備事業などの公共事業の一環としての公園整備も行われるようになり、今や日本中どこの町へ行ってもきれいに整備された公園を見られるようになってきました。

しかし、世界的な水準に比べると、まだまだ日本の都市公園の整備は低い水準にあるといえます。平成16年度の統計では、全国平均の一人当たりの公園面積の全国平均は、8.9平方メートルだそうで、東京23区は2.9平方メートルです。

全国的にみても公園の整備率が高いとされる仙台市においては、12.55平方メートルですが、以下のような諸外国の公園整備率に比べるとまだまだ低いことがわかります。

ニューヨーク 29.3(以下一人あたり平方メートル)
ロンドン26.9
パリ11.8
ベルリン27.4
キャンベラ(オーストラリア)77.9

東京だけでなく、名古屋や大阪、福岡といった大都市圏では立錐の余地もないほどビルや住宅が立ち並んでおり、これを諸外国並みに引き上げていくのはどだい無理な話です。が、
都市郊外にはまだまだ手つかずの公園候補地もあろうかと思いますので、今後の整備に期待していきたいところです。

ところで、こうした各地にある公園の中には、都市公園法によって整備された公園ではなく、特別な法律で制定された公園があります。

そのひとつが、広島にある、広島平和記念公園です。市制60周年、開府360周年を記念した1949年(昭和24年)の8月6日、特別法である「広島平和記念都市建設法」が国会で可決され、住民投票を経て公布された後、この法律で建設が定められている施設として建設されました。

1945年8月6日、アメリカ軍が投下した原子爆弾は、広島市を一瞬にして壊滅させましたが、この公園は、世界に向けて人類の平和を願い訴えることをその目的のひとつとして建設されたものです。

広島と同じく、原爆の被害を受けた長崎においても、1949年(昭和24年)、こちらも住民投票を経た地方自治特別法として、「長崎国際文化都市建設法」が公布・施行され、同法により公園が建設されています。

両公園とも、国の補助によって整備が進み、広島平和記念公園は1954年4月1日に完成、長崎のほうも、1950年(昭和25年)8月1日に「国際平和公園」として発足しました。

どちらも平和を祈念する施設として建設されたものであり、どちらが良いときれいかとかの問題は何をかいわんやですが、やはり世界で初めて原爆が落とされた広島のほうが国内でも世界的にも知名度が高いのは確かです。

公園外苑内に保存されている「原爆ドーム」が1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において登録審議をパスし、同年「ユネスコ世界遺産」として認証されたのも比較的記憶に新しいことであり、以後、平和記念公園は世界平和のメッカとしてそれまで以上に世界各国からの観光客を集めるようになりました。

この原爆ドームのことや、原爆が投下された場所である直下の町である旧中島町のことなどについてもう少し書こうかと思いましたが、既にかなりの分量になっているので、今日はやめておこうと思います。

少しだけ書いておくと、この原爆ドームは、戦前は、「物産陳列館」とよばれる商業物産館のような施設であり、1919年(大正8年)に行われた展覧会では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたりしています。1933年には広島県産業奨励館に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献しました

また、平和記念公園のある場所に昔あった中島町は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、藩政期には市内を流れる太田川上流の芸北地域と広島湾とを水運で結ぶ重要な物産集散地となり、明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場でした。

原爆ドームを含めたこの近辺の地区は県政・市政の中心部であるだけでなく、中国地方全体の中でも重要な地位を占めており、これらが爆弾一発で灰塵に帰したことはその後のこの地域の戦後復旧における大きな痛手となりました。

今日のところはこれくらいにしたいと思いますが、私が育った場所のことでもあり、これから少しずつこの話題についても書いていきたいと思います。

さて、ガーデニングで終わってしまった昨日一日。今日はぜひ、お花見に、と思ったのですが、現在までのところ、外は小雨が降るよう天気です。午後から晴れることを期待しましょう。

それにしても、今年の桜の早いこと…… 週が明けてしまいましたが、みなさんはお花見ざんまいの良き週末を過ごされましたでしょうか。花見酒が残っていなければ良いのですが……

ローカル・ルール

昨日、ここのところ忙しくて見合わせていた運転免許証の書き換えに行ってきました。

ところが、新しい免許を貰うにあたっては、昨年末に違反をしてしまったため、「講習」を受けねばならず、この講習も大仁警察署では「予約制」とのことで今週は一杯で予約がとれず、新免許証の交付は予約のとれた来週になってしまいました。

前回の書き換えが平成20年で、5年ぶりのことなのですが、今回頂戴することになる新しい免許証も、この違反のために次回の書き換えは3年後のことになるようです。

違反違反というのですが、私自身は少々不本意なレッテルであり、昨年末のその日、直進しかできない交差点で右折禁止の標識を見落として右に曲がろうとしたところ、たまたま居合わせたパトカーに「御用」になったというものです。

右折する直前、運悪く向こうからやってきたパトカーに出くわし、そのパトカーから、「あっ、そこは右折できませんよ!」とスピーカーでの警告がありました。このため、曲がるのをやめようとその場に立ち止まっていたら、続いて今度は「そのままそこにいると危ないですから、右折して止まってください。」とのアナウンス。

そのガイドに正直に従い、右折してすぐのところの路肩で止まったところ、ハイ!めでたく法を破りましたね~、と「既成事実」ができあがったということらしく、ありがたくも切符を切られる羽目になったのです。

右折しろと言ったのはおまえじゃないか!と反論しようとしましたが後の祭り…… 法とやらに厳格なこいつらのことだからどうせ言い返したとしても「違反」は覆らないだろうと、腹には据えかねたのですが、結局は反論せず、おとなしく切符を切られました。

うっかり標識を見落とした私が悪いといえば悪いのですが、無理やり違反をさせられた、という気分があとあとまで残り、そのあとしばらく静岡県警のパトカーを見るのもいやで、たまたま出くわすと石を投げてやろうかというほど憎々しく思えたものです。

しかし、弁解にはなりますが、私はこれまでも何度か交通違反をしたことがあるとはいえ、重大な過失というものはなく、たいていが、駐停車違反か信号の見おとし、もしくは軽度のスピード違反です。

この「軽度のスピード違反」ですが、法定速度を著しく超過したというものではなく、3回ほど頂戴した切符の中身はというと、高速道路で80kmの法定速度のところを105kmで走行した、あるいは一般道で50kmのところを65kmで通過した、などであり、普通に考えれば違反とはいえないようなもの。

だいたい法定速度そのままの速度で一般道や、高速道を走っていれば、交通の流れを妨げ、他の車の迷惑になるのは目に見えていて、教習所でも「他の車の流れに乗って走るように」と教えられているくらいで、ある程度の速度超過は暗黙の了解のもとに皆がやっていることです。

つまり、違反といわれればそれまでなのですが、ようするに私が犯したスピード違反とやらは、いわゆる「ネズミ取り」にたまたま引っかかったというものです。

以前、一般道でスピード違反をとられたときなどは、相手の警察官曰く、「あんまりスピード出ていないんですけどね……」と言われる始末。

その警察官が中座したとき、そこに置かれていたノートをチラ見すると、その日の違反者たちの超過速度が記されており、そのほとんどが75kmとか80kmでしたが、私の違反速度はそのうちの一番低いものでした。

このときも、スピード出ていないなら捕まえるなよ!と喉元までセリフが出てきましたが、これまでも、こうしたときには何を言っても翻ることはありません。もし、反論したとしても、法定速度を違反していることには違いないというわけで、そこを突かれるとそれ以上の反論のしようもなく、結局はいつもあきらめる、ということの繰り返しでした。

それでは、免許を取った人の一体どのくらいの人が違反切符を切られた経験があるのだろう、と調べてみたのですが、よくわかりません。が、私が知る限りでは、私と同様の運転歴がある人で違反をしたことがない人は一人もおらず、運転歴が長くなればなるほどその回数も多くなるようです。

最近では、切符を切られるたびに、あぁ今日は運が悪かったのだ、しょうがない、と思うようになり、しかしそれだけでは腹がおさまらなくなる場合もあるので、そういう時には、いつもタダでクルマを運転させてもらっているのだから、そのお礼にたまには「お布施」を警察にあげておくのだ、と思うようにしています。

神社へ行くときにも千円札以上のお賽銭はしたことがないくせに……

官製ローカルルール

このように、「ネズミ取り」といわれる交通違反取締りは、いろんな形でやられています。スピード違反だけでなく、ある街角の交差点の影にひっそりとパトカーが隠れていて、その交差点には一時停止の標識があるのにもかかわらず、そこできちっと停止しなければ、お縄、というのもあり、ほかによくあるのが、踏切での一時停止違反などです。

誰でもちょっとした油断で起こしそうな違反であり、その規制対象が幅広く一般人に及ぶため、これまでもしばしば、これこそ「行政犯」ではないか、という指摘もされてきました。

行政犯とは、実質的な法益、つまりは税金稼ぎのために、危険性の判断とは無関係に機械的に違反処置を行使するというものであり、こうした強制的な取締りを巡ってはトラブルも数多く生じていると聞きます。

必ずしも危険の発生が成立するとは考えられない要件、例えば、運転免許の有資格者が運転免許証を携帯せずに自動車を運転したとしても、そのこと自体で交通事故の危険が増加するわけではありません。

しかし、道路交通法では、自動車を運転する場合には必ず運転免許を携帯するという行為を義務付けており、こうした規制を課すことによって、運転免許制度そのものの「実効性の確保」することを目的のひとつとしています。

別の言い方をすれば、免許証不携帯だけでなく、数ある交通違反行為全体の規制を強化するため、形式的な違反であったとしても、これを「犯罪」とみなすことによって、この法律全体の実行性を確保したい、という考え方に基づくものであるためです。

従って犯罪は犯罪に違いないのですが、行政の側もそれが極めて社会的な問題を引き起こすような犯罪とは考えておらず、行政が定めた法を守るための便宜上の「タガ」といったようなものです。

まあ、言い方はいろいろありますが、ようするに行政における「必要悪」のようなものでしょう。建設業界における「談合」も同じようなものであり、談合そのものは法律違反ではありますが、なくてはならないとものと考えている人たちもおり、こうしたルールを社会活動を円滑にするための潤滑剤と見る向きも多いと思います。

外国にも違反切符や談合はあるでしょうが、これらのローカルルールはまた日本とは違った形の基準で実施されているようであり、世界各国それぞれです。無論、日本の道路交通法のように法律で規定されているものもありますが、国によってはその法律そのものがあいまいで、警察官の独自の判断で違反内容が決められるという国すらあるようです。

「ローカルルール」の定義とは、ある特定の地方、場所、組織、団体、状況などでのみ適用されるルールということのようです。従って、定義上、その国の法体系上、必ずしも合法であるとは限りません。

たとえば、「校長になるには教育委員会幹部に贈賄が必要」「落札業者や入札価格は入札参加業者の談合で決める」というのも、その地域の関係者全員がそれに従って動いているからにはローカルルールと言えます。日本国の法律上は当然違法です。

しかし一方では、かつてのアメリカ南部や南アフリカなどでの、「バスなどで白人が立っている時は黒人が席を譲る」というような慣習のように、ローカルルールではありますが、違法ではないものもあります。

とはいいながら、人道上、良識の上からみれば問題のあるルールであるには違いなく、つまり合法なローカルルールがいつの場合も正しいとは限らないわけです。

こう考えてくると、日本独自のローカルルールである、「ネズミ取り」も人道上、良識の面からも大いに問題のある悪習慣という気にもなってくるのですがどうなのでしょうか。

しかし良識のない政治家や官僚たちが作った悪ルールとはいえ、これによって国全体の交通安全が守られているのだと言われれば、法律を遵守する真面目な日本人である私としては、これ以上文句を言う糸口がみつかりません。

とはいえ、こうした官製のローカルルールの中身はもう少し議論の対象になってほしいなと思う次第です。官の誤りを正すのは政治の役目。かつて民主党にはそういったところも期待したのですが、あてがはずれました。自民党さんにもがんばってほしいのですが、いったいどこまで期待に答えてくれるでしょうか……

民間ローカルルール

ところで、こうした官製の悪ローカルルールも問題ではありますが、一方では民間における交通ルールにも問題のあるものがたくさんあります。

日本国内において、当然全国どこでも道路交通のルールは同じのはずなのですが、地方によっては、特定のルール違反やマナー違反が、ごく当然のように行われています。法的な交通違反とばかりも言えないものもありますが、中には明らかに交通違反として検挙されるべきものもあるほどです。

例えば、「名古屋走り」というのがあります。愛知県の名古屋市やその近辺では、この地方特有の行儀の悪い運転マナーがみられるそうで、たとえば、交通信号の切り替わり前後に交差点へ進入する、いわゆる信号無視があります。

ところが、名古屋の場合、黄信号は、普通に「Go」のサインであって、ためらいなく進入し、赤信号に変わっても、これは赤信号が点滅している状態と同じ、というわけで、自己の状況判断によっては進入することも「可」とされるそうで、これが名古屋走りの典型例だということです。

一般には、「黄色まだまだ、赤勝負」といわれているそうで、当然信号無視ギリギリの違反行為です。一方、大阪府近郊ではこれとは逆に、信号が青になる前に発信する、いわゆる「見切り発進」が多く、こちらはクルマばかりではなく、歩行者にも危害が加わる可能性が高いため、より悪質です。

この大阪と名古屋の中間に位置する岐阜県や三重県においては、「出会い頭の事故」が多いのだそうで、これはこの地域が、赤信号での侵入を得意とする名古屋と、青信号での見切り発進を得意とする大阪の中間にあるためではないか、と交通工学者などが真面目に議論しているといわれています。

名古屋ではこのほか、道が広いことで速度を上げる車が多い「速度超過」が多いのだそうで、愛知県警では、トラック・バス・タクシーといった職業運転手に対しては、一般の車の流れをつくるペースカーとなるよう要請したことがある、という話まであります。

また、ウィンカーを出さずに車線変更、またはウィンカーを車線変更の直前に出すとか、車線の多い道路では2車線以上を連続で車線変更をしたり、交差点内において車線変更をするとかも多いそうで、私自身はあまり名古屋圏には行ったことがないのでよく知らないのですが、名古屋近辺にご在住の方、そうなのでしょうか?

この「名古屋走り」以外でも、長野県には「松本走り」または「松本ルール」というのがあるそうです。こちらは、例えば、対向の直進車が交差点に接近しているにもかかわらず右折を行う、対向車が左折するスキを見計らって右折を行う、信号が青になる直前のまだ赤の時に急発進して右折を行う、などです。

また、脇道から右折する際、右折しようとしている道路で左側車線を走ってくる走行車の流れをせきとめるようにして、割り込み、無理やり右折待ちをする、ウインカーを出さず、後続車を確認しないまま右左折や車線変更をする、なども松本走りの特徴だそうで、こうしてみると、名古屋や長野などの中部圏一帯は運転マナーが悪い地域、と一般には目されているようです。

JAF(日本自動車連盟)が毎月出している機関紙JAFMateによると、城下町であった松本市は細い道の交差点が多く、そのため右折車で渋滞することも多かったため、これを回避するため右折優先ルールが生まれたとされており、名古屋のほうはどうだか良く知りませんが、こちらも城下町から発展した町なので同じような状況があるのかもしれません。

また、長野のお隣の山梨も運転マナーが良くない人が多いらしく、こちらは「山梨ルール」といわれ、山梨では対向車の有無にかかわらず、減速なしで右折をする自動車が多いといいます。

このように、愛知、長野、山梨の三県は運転マナーが悪い県と目されているようですが、静岡はどうなのでしょう。私自身、学生のころ沼津で免許をとり、大学を卒業するまで静岡で運転していましたが、あまりマナーが悪いと思ったことはありません。ここ伊豆へ来てからもそうなので、そのマナーの良さはあまり変わっていないのではないでしょうか。

それでは、中部以外はどうなのか、ということになるのですが、私が知る限りでは、山口県民はあまりマナーがよくありません。ローカルルールというほどのものはないようなのですが、とくに女性ドライバーのマナーが悪く、上述の名古屋走りや松本ルールほどはひどくないとはいえ、街中で往々にして違反行為を見かけるのはたいていは女性です。

道を譲ってあげても、挨拶や会釈もせずに、当然のごとく走り去る、という人も多く、私だけかな、と思って広島在住の私の従弟に聞いてみましたが、同じような意見でした。

その従弟曰く、山口の教習所では、田舎の農家出身の教官が多く、そうした都会慣れしていない教官の悪いマナーが、教え子たちに伝染するのだろうということでしたが、案外と間違っていないかもしれません。

このほか、関西では愛媛県のドライバーのマナーもあまり評判がよくないようです。

松本ルールでも、対向の直進車が交差点に接近しているにもかかわらず右折を行う、というのがありましたが、これと似たような行為が横行しているのが愛媛県であり、これは「伊予の早曲がり」と呼ばれていて、交差点を右折する際に急発進を行い対向車よりも早く内回り右折するのだそうです。

これらはいずれも危険行為とみなされていて、明らかに違反行為であるため、県警も取締を強化しており、愛媛県内で生じる右直事故の典型的原因にもなっているそうです。

また、関西といえば、阪神地方ですが、神戸近辺には「播磨道交法」というのがあるのだとか。

これは、兵庫県播州地方における道路交通マナーの悪さおよび道路交通ローカルルールを、神戸新聞社が自紙読者投稿欄の連載上で分析したうえで法律的文体でまとめ、自社の新聞「神戸新聞」に発表掲載したものだそうです。

2003年ころに、読者参加型のある連載記事の掲載を開始したところ、一般読者からの反響がとくに多かったのが、兵庫県播州地方における道路交通マナーの悪さ、特に道路交通法を軽視してローカルルールを優先させる傾向があることだったそうです。

やがてこの話題がだんだんとエスカレートしていき、このためにこの連載も大いに盛り上がり、やがてこの連載に掲載されることを目的とするだけでなく、一般からもマナー違反に関する多数の投稿が同新聞社に多数寄せられるようになったのだとか。

そして、神戸新聞社の編集部がこれを「道路交通法」をもじったような法律的文体にまとめ、これを2003年7月8日に「播磨道交法」と題して同紙朝刊へ掲載しました。これは附則を含めて全3章10条からなる、まるで本物の法律とも思えるような文章で綴られているそうです。

例えばその第一章は交差点の通行に関するローカルルールであり、本物の道路交通法では、右折車は直進車・左折車の通行を妨げてはならないことになっているのに対し、この播磨道交法では、これが無視されていることが“条文”として示されているそうで、このほかにも右折車や自転車・歩行者の信号無視などが条文として書かれているとか。

同様に、第二章では、横断歩道の渡り方や車の車線変更に関するローカルルールであり、信号機のない横断歩道は歩行者に優先権があるが、播磨ではこれがまったく守られていない、また、車線変更における割り込みの頻発や、方向指示器を直前まで作動させない、などなどです。

さらに、第三章は「附則」だそうで、これには、路線バスの発進妨害や警音器の濫用の状況などが書かれているそうで、本文を読んでいないので細かいところはよくわかりませんが、こうした断片の情報を総合すると、どうやら播磨というのはよほど交通マナーの悪い場所なのでしょう。

さらにこの神戸新聞の連載記事には、とくに「姫路ナンバー」の交通マナーが、「和泉ナンバー」を上回るという投稿が多く寄せられる一方で、事故統計上では姫路ナンバーと神戸ナンバーに差はないとする議論提起もなされるなど、自元どうしのローカルマナーを比較しあう論議までなされたとか。

「播磨道交法」が神戸新聞に掲載されたあとは、播州地方ローカルルールに詳しい交通関係者として、国土交通省の姫路河川国道事務所の工務課課長の見解まで掲載されて話題になりました。

この課長さんは、播州地区は国道2号姫路バイパスに代表されるように交通量が多く、一方で公共交通機関が未発達であることや各道路の交通容量が限られており、このため地域の利用者が車間距離を詰めたまま高速走行するようになり、これが「播磨道交法」を生み出したとの見解を示したとのことです。

まあ、道路の整備不足はとくに兵庫県だけの問題ではないでしょうから、ほかでも同じような悪しき交通マナーが横行している地域も多いと思うのですが、それにしても地元紙を巻き込んでまでこうしたルールの悪さが声高に叫ばれるということは、それだけ交通事故なども多く、これがこの地域の大きな社会問題になっているということなのでしょう。

しかし、こうした社会問題を官まかせにせずに、自分たちで問題提起して解決していこうという意欲の表れとみることもでき、これが関西人における普通一般の気質だとすれば、他の地域の人達も大いに見習うべき慣習なのかもしれません。

ところで、ローカルルールには、こうした地方ならではのルール以外にも、日本中ほぼ全国で見られるルールもあります。

例えば、「パッシング」がそれです。自動車免許を持っていない人にはわかりにくいかもしれませんが、これは自動車の運転中に、ライトを瞬間的に上向き(ハイビーム)で点灯させることです。

一般的な車では、方向指示器用の操作レバーを手前に引くことで前照灯は一時的に上向きになって、ハイビームとなり、操作レバーを離すと消灯します。

これを1回もしくは複数回操作することで「パッシング」の合図となり、上向きに何度も点灯させたりすると、より強い意思表示となる場合もあります。

どういう使われ方をするかというと、例えば、自車が先行車に追い付いた際に「先に行きたいので進路を譲って欲しい」という場合にその意思表示として使用します。「パッシング」すなわちPassingは「追い越し」の意味であり、そもそもはその行為を容認して欲しい、という意味合いを持ちます。

ところが、この強い光の点滅をあまりにも何度も繰り返すと、「邪魔だ、そこをどけ」という意味にもなり、クラクションと同様にこの過剰なパッシングが傷害事件などに発展したというケースもあります。

このため、パッシングは一回だけに限るか、追い越し車線側にいるときに右のウィンカーを意図的に点滅させることで、追い越ししたいんだよ、という意思を伝える場合があります。無論、こうしたウィンカーの使い方は、本来の法令で定められている方向指示器の用法ではなく、パッシングも同様です。

パッシングは、これ以外にも、道を譲ってあげるとき、例えば右折したい対向車がいるときに、それを許可するよ、という意味でパッシングをしたり、また隣の車線からの合流車がある場合に、入っても大丈夫だよ、という意思表明のためのパッシングもあります。

ところが、この逆に対向右折車の無理な右折をさせたくないときや、合流時に無理な割り込みを制するときにも、パッシングを行うことがあります。ケースバイケースなのですが、これを逆に相手の許可を得たと勘違いして右折や合流をしてしまうケースがないとはいえず、そこはドライバー同士の「阿吽の呼吸」ということになります。

このほかにも、パッシングの使い方として、前照灯が眩しいことや、前照灯の消し忘れを対向車に警告するときや、無理な割り込みや停車などに対して抗議するとき、発見した異変(何らかの危険や交通取り締まりなど)を対向車に知らせるときもありますが、これらの意思表示は往々にして無視されるというか、気づかれないことが多いものです。

よくある話としては、例えば私などは、夕暮れ時や大雨で視界が悪いときなどには早めに前照灯をつけて危険回避の一環とすることが多く、このほかにも地域の自主的な取り組みで昼間でもランプを点灯させることを推奨している地域があります。

これに対して、対向車線からは、「ランプが点いているよ」のパッシングを往々にして受けることがあるのですが、これは私にとっては、「大きなお世話」であり、そっちこそ、暗くなっているのにランプも点けずにあぶないじゃないか、とパッシングをしたい気持ちになってしまいます。

中には、すれ違う前のかなりの遠距離からしきりにパッシングしてくる人もいて、これは取りようによっては大きな迷惑です。

このように、パッシングにはいろんな意味が含まれるため、気を付けて使わないと、意思が誤解された場合、事故や揉め事に繋がりやすく注意が必要です。全てのドライバーが同じ基準のもとで行う合図ではないため、周囲の状況などから注意深く判断する必要があるといえます。

先述の静岡県警察では、横断歩道を渡ろうとしている歩行者を発見した場合、対向車に対してパッシングをして停車を促す運動が実施されているそうです。これもまた他県ではなかなか通じにくいジェスチャーでしょうから、いらざるトラブルを起こしたりしないのかな、と私などは思ってしまいます。

この他にも「サンキューハザード」というのがあり、これは、駐停車のとき左右両方のウィンカーが同時に点滅する「ハザードランプ」を点滅させるというもの。

ご存知の方も多いと思いますが、運転者同士がコミュニケーションを交わすための合図としては最近では最も良く使われるものではないでしょうか。

日本の場合、その意味の多くは、対向車に進路を譲ってもらった場合などの感謝の意を表明するためのものですが、本来のハザードランプは、その名前のとおり、ハザード、つまり緊急事態が発生した場合に使うための装置であり、バスなどの旅客運送車両であれば、バスジャックなどの車内で発生している喫緊の事件を知らせるものです。

なので、海外旅行に行った場合、日本と同じつもりで、ハザードランプをつけて道を譲ってもらったお礼を言ったつもりでいたら、逆にクラクションを鳴らされた、などというケースも多いといいます。お礼の意味でハザードランプをつけるのは日本だけの風習だということを覚えておきましょう。

このほか、「サンキュー事故」というのもあります。最も代表的な例としては、渋滞時の交差点などで直進する自動車が、対向する右折車を先に行かせてあげようといったん停止します。このとき、対向する自動車が右折しようとしたところ、直進車のすぐ脇をすり抜けてきたオートバイや自転車と出会い頭に衝突をする、というもの。

直進車は好意で右折車に道を譲ったわけですが、結果としては事故を招く原因になったわけであり、後味の悪いものになります。

右折車側からすれば、せっかく道を譲ってもらったのだから早く右折しなくちゃ、と思う心理が働き、このための焦りによって直進してくる二輪車に気付くのが遅くなり、直進車の陰になって直進してくる二輪車が見えにくいケースも多いため、事故になる可能性が非常に高いといいます。

この場合、事故の過失割合は、前方不注意ということで、通常右折車のほうが大きくなるようですが、二輪車のほうも違法なすり抜け運転をしている場合が多く、その過失もゼロでは済ませられないことのほうが多いようです。

同様に、直進中、前方の左側の歩道から、横断歩道を渡ろうとしている子供がいたとします。この子供を通してあげるために歩道の手前で止まったところ、その子供が自分の車の前を歩いて通りすぎようとしたとき、向こうからの対向車が歩道で停止もせずに直進して行き過ぎ、ヒヤリとした、ということなどもあります。

歩行者の通行を優先しようとしたつもりが、逆に自分がこれを危険にさらしたということで、こういう時はいやーな気分になります。ただ、仮にこれで事故が起きた場合は、歩行者保護違反ということで、歩道前で止まらなかった対向車は一義的に罰せられることになるはずですが……

さてさて、運転免許の更新の話を書いていたら、長々とここまで来てしまいました。本当はまだまだ書きだしたいところなのですが、この辺でやめておきましょう。

今日は一日天気が良いようなので、お買いものついでに少し麓の桜を見に行ってきましょう。みなさんのお住まいの地域はどうでしょう。桜は満開になったでしょうか。

これからクルマで花見に行かれる方、私もそうですが、くれぐれも悪しきローカルルールで車を運転するのはやめましょう。安全運転でいきましょう。桜が散ったあとも……