公園百景


昨日の日曜日の天気予報は「曇り」だったにも関わらず、一日を通して淡い日差しに恵まれました。

お花見に出かけようかなとも思ったのですが、昨年の秋以降、大した手も加えず荒れ気味になっていた庭を少しきれいにしようと、朝から草むしりを始めました。

最初は草むしりだけで終わらそうと思っていたのですが、始めたら始めたでスイッチが入ったみたいで、かねてより枝が張りすぎて少々邪魔になっていた木々の移植や、傷んだ芝生箇所の手入れ、バラの苗の植え替えなども初めてしまい、気が付いたらお昼になっていました。

さらに、お昼からは、この別荘地で年一回開かれるという自治会総会もあるということで、別荘地内のことももっと良く知りたいし、初めてのことでもあるので、とこれにも参加することにし、その後、夕方になって買い物へ出かけて帰ってきたら、もう日が暮れていました。

やれやれ、一日が過ぎるのが早かったわい、と思ったものですが、買い物から帰ってきて改めて自宅の庭をみると、さすがに綺麗になっており、ちょっと誇らしい気分にも。これで当分はあまり手を加えなくて済むだろう、と考えると足早に過ぎた今日一日も無駄ではなかったという気になりました。

我が家の庭は、20~30坪ほどであり、伊豆のこのあたりではそれほど広いというわけでもないのですが、それでも東京に一軒家を買ったらこの広さの庭はなかなか付いてきません。

ある程度自分の気に入った樹木を余裕をもって植えるくらいの広さはあり、手入れのことも考えると、これくらいがちょうどいい広さかなとも思います。これ以上広くなると、草取りだけでも大変になってしまいますから。

ここへの移住にあたっては、これよりも大きな敷地を持つ家も候補にあがったものですが、改めてあまり大きすぎないものを買って正解だと思う次第です。

それにしても、我が家の庭の手入れだけでも大変なのに、もっと大きな庭を持っていらっしゃるお宅では、どのように管理されているのだろう、人に任せているとするとどれくらいかかるのだろう、とか気になります。また、日本全国あちこちにある公園施設は、もっと大きいし、その維持費だけでも膨大なものになるだろうな、と思ったりもします。

そこで、ちょっと気にもなってので、調べてみると、日本の場合、都市にある公園については「都市公園法」という昭和31年に定められた法律があって、国や都道府県、市区町村の都市計画関連の部署がこの法律に基づき、所管の公園の維持管理をしているようです。

なので、この維持管理費は当然のことながら我々が国や各自治体経納めている税金から出ているわけであり、公園を汚したり、公園にある器物を壊したりしてその修復にかかるお金は結局のところ我々の懐から、ということになります。

言ってみれば、他の人達と供用で手に入れた庭をの手入れを行政にやってもらっているようなものであり、そう考えると、こういう場所は綺麗に使わないともったいないな、という気分になってきますし、これを汚したりする人が許せなくなってきたりします。

日本には、江戸時代の昔から諸藩の大名が造った庭園が各所にありましたが、これは身分の高い人達のものであり、一般人の目に触れることはそれほど多くありませんでした。

現在の公園のように庶民に開放されていたものとしては、1695年(元禄8年)に造られた桜の馬場(現在の榴岡公園)などのような「馬場」が多く、これらは社寺境内と同様に鑑賞樹木を植栽し見世物小屋や射的、茶屋などが出店しにぎわいをみせていたそうです。

幕末から明治にかけてからは、横浜や神戸の居留地に暮らす外国人から、遊歩道や公園の設置を求める要求がでるようになり、これに応じる形で整備がすすめられ、神戸の外国人居留遊園(1868年(明治元年))や北海道開拓史偕楽園(1871年(明治4年))、横浜の山手公園(1870年(明治3年))などが作られました。

しかし、これらも居留地に住む外国人専用の公園であり、日本国民にとって解放された公共物ではありませんでした。

一般庶民のための公園の設置が法律的に宣言されたのは、明治6年(1873)になってからであり、1月15日付で出された太政官布告で、各府県で公園にふさわしい場所を選ぶようにとのお達しが出ます。

そして、この布告を受けて、各府県で検討を進めた結果、日本で一番最初の公園として、東京の上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の5つの公園が決定されました。

無論、これらの公園を一から新しく作るということではなく、もともとあった、お寺の境内を公園として指定しただけです。上野公園は、寛永寺、浅草公園は、浅草寺(せんそうじ)、深川公園は、富岡八幡宮、芝公園は増上寺、といった具合です。

飛鳥山公園だけは、大きなお寺がなく、ここはもともと享保年間(1716~36)に幕府などの大名のための花見の名所として整備された場所でした。

こうした、明治期になっての新たな公園の設置の時期は、ちょうど「地券」の発行がすすめられていた時期でした。

地券とは、明治政府が発行した証券のことで、明治4年(1872年2月5日)に東京府下の市街地の土地に対して発行され、発行にあたって従来無税であった都市の市街地に対しても地価100分の1の新税(沽券税)が課せられることになりました。

ようするに証券とは名ばかりであり、現在でいう不動産取得税にあたるものであり、明治政府はこの発布により地税を新たに徴収して国造りに使おうと考えたわけで、当初は東京だけでしたが、徐々に東京以外の都市部でも発行されるようになりました。

近代的な土地制度が整えていく過程で明治政府としては必要不可欠な政策でしたが、こうした個人所有の零細な土地とは別に、大きな境内を持つ社寺の処分も大きな課題でした。

明治維新以降、こうした社寺では大物寄進者である大名などが廃止になったため、その維持管理ができず、補修すべき社寺の境内地が荒れ放題になっており、これをどのように維持させるか、あるいは廃止させると決まったものは、その広大な敷地をどのように利用するか、などの課題が山積みでした。

こうした背景から、これらを欧化政策の一環として有効活用させようという意見が政府内部で出され、地券の導入によって得られた税金をもって、これらの寺社公園を一般向けの公園として誕生させようということになったのです。

初期の公園には、上述の5公園のように、花見の名所や風光明媚で有名な場所、大きな社寺の境内地などが多く含まれました。しかし、明治時代半ばになると、本格的な西洋風の公園がいよいよ計画されるようになります。こうして、一番最初に近代的な公園として開園されたのが、明治36(1903年)に開設した東京の日比谷公園です。

しかし、これらの公園については、洋化政策を進める中で便宜上生まれたものであり、これらの公園そのものを維持管理するための法律、つまり都市公園法はまだ整備されていませんでした。

明治6年の太政官布告の後は、日本各地で発展する各都市の都市計画の一環としての一施設として検討が重ねられ続けていたにすぎず、これら増え続ける公園施設を「都市公園」としてきちんと定め、包括的に維持管理することを定めた「都市公園法」が正式に公布されたのは、なんと50年以上も経った1956年(昭和31年)になってからのことです。

実は、1951年(昭和26年)に、当時の建設省から既に各都道府県知事に公園施設基準が通達されてり、この都市公園法の発布は、これを追従承認する形のものでした。

が、いずれにせよ、この法律の施行以降、それまで「運動場」や「運動公園」とごっちゃになっていたそれ以外の公園を明確に区分されるようになり、以後、現在のような地方自治体が管理する、街区公園・近隣公園・地区公園・総合公園・運動公園・広域公園等々の数多くの公園が生まれることになりました。

ところが、この都市公園法の公布施行によっても、明治6年の太政官布達は廃止されておらず、依然この法律は生きているのだそうで、都市公園法では、法令制定前に国有地として成立していた公園について、これを管理する地方公共団体には無償で「貸付」する、という形になっているということです。

なので、明治期に造られた上述の5公園などは「国営公園」とは呼ばれていないものの、法律上は国有財産ということになります。実質の管理は東京都などが行っており、私も東京都のものだと思っていました。利用する側にとってはどうでもいいような話ではあるのですが、明治時代の法律がそのまままだ残っているなんて少々驚きです。

この都市公園法が交付された翌年の昭和32年には、昭和6年(1931年)に既に制定されていた国立公園法にかわって自然公園法も公布され、国立公園、国定公園、都道府県立自然公園などの公園整備も進められていきます。

さらに、森林公園や県民の森、市民の森といった環境に親しむための公園の整備なども進み、河川や海岸、港湾などの水辺における整備事業などの公共事業の一環としての公園整備も行われるようになり、今や日本中どこの町へ行ってもきれいに整備された公園を見られるようになってきました。

しかし、世界的な水準に比べると、まだまだ日本の都市公園の整備は低い水準にあるといえます。平成16年度の統計では、全国平均の一人当たりの公園面積の全国平均は、8.9平方メートルだそうで、東京23区は2.9平方メートルです。

全国的にみても公園の整備率が高いとされる仙台市においては、12.55平方メートルですが、以下のような諸外国の公園整備率に比べるとまだまだ低いことがわかります。

ニューヨーク 29.3(以下一人あたり平方メートル)
ロンドン26.9
パリ11.8
ベルリン27.4
キャンベラ(オーストラリア)77.9

東京だけでなく、名古屋や大阪、福岡といった大都市圏では立錐の余地もないほどビルや住宅が立ち並んでおり、これを諸外国並みに引き上げていくのはどだい無理な話です。が、
都市郊外にはまだまだ手つかずの公園候補地もあろうかと思いますので、今後の整備に期待していきたいところです。

ところで、こうした各地にある公園の中には、都市公園法によって整備された公園ではなく、特別な法律で制定された公園があります。

そのひとつが、広島にある、広島平和記念公園です。市制60周年、開府360周年を記念した1949年(昭和24年)の8月6日、特別法である「広島平和記念都市建設法」が国会で可決され、住民投票を経て公布された後、この法律で建設が定められている施設として建設されました。

1945年8月6日、アメリカ軍が投下した原子爆弾は、広島市を一瞬にして壊滅させましたが、この公園は、世界に向けて人類の平和を願い訴えることをその目的のひとつとして建設されたものです。

広島と同じく、原爆の被害を受けた長崎においても、1949年(昭和24年)、こちらも住民投票を経た地方自治特別法として、「長崎国際文化都市建設法」が公布・施行され、同法により公園が建設されています。

両公園とも、国の補助によって整備が進み、広島平和記念公園は1954年4月1日に完成、長崎のほうも、1950年(昭和25年)8月1日に「国際平和公園」として発足しました。

どちらも平和を祈念する施設として建設されたものであり、どちらが良いときれいかとかの問題は何をかいわんやですが、やはり世界で初めて原爆が落とされた広島のほうが国内でも世界的にも知名度が高いのは確かです。

公園外苑内に保存されている「原爆ドーム」が1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において登録審議をパスし、同年「ユネスコ世界遺産」として認証されたのも比較的記憶に新しいことであり、以後、平和記念公園は世界平和のメッカとしてそれまで以上に世界各国からの観光客を集めるようになりました。

この原爆ドームのことや、原爆が投下された場所である直下の町である旧中島町のことなどについてもう少し書こうかと思いましたが、既にかなりの分量になっているので、今日はやめておこうと思います。

少しだけ書いておくと、この原爆ドームは、戦前は、「物産陳列館」とよばれる商業物産館のような施設であり、1919年(大正8年)に行われた展覧会では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたりしています。1933年には広島県産業奨励館に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献しました

また、平和記念公園のある場所に昔あった中島町は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、藩政期には市内を流れる太田川上流の芸北地域と広島湾とを水運で結ぶ重要な物産集散地となり、明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場でした。

原爆ドームを含めたこの近辺の地区は県政・市政の中心部であるだけでなく、中国地方全体の中でも重要な地位を占めており、これらが爆弾一発で灰塵に帰したことはその後のこの地域の戦後復旧における大きな痛手となりました。

今日のところはこれくらいにしたいと思いますが、私が育った場所のことでもあり、これから少しずつこの話題についても書いていきたいと思います。

さて、ガーデニングで終わってしまった昨日一日。今日はぜひ、お花見に、と思ったのですが、現在までのところ、外は小雨が降るよう天気です。午後から晴れることを期待しましょう。

それにしても、今年の桜の早いこと…… 週が明けてしまいましたが、みなさんはお花見ざんまいの良き週末を過ごされましたでしょうか。花見酒が残っていなければ良いのですが……