頼母のこと ~松崎町


昨日話題として取り上げた、西郷頼母については、少々書き足りないことがあったので、今日それについて少し補足したいと思います。

多くの人が、この「西郷」という苗字が、あの薩摩藩の西郷隆盛と何等かの関係があるのではないか、と思うでしょうが、その推察は「当たり」です。

武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前(現熊本県)の伊佐早(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られています。この肥前西郷氏は、同じく肥前での有力武将、菊池氏の一族であり、江戸時代以降には、その一族を称する家の中から多数の著名な人物を輩出しました。

例えば、三河の国人領主から徳川家康に仕えて大名にもなった三河西郷氏がそれであり、会津における西郷頼母の西郷家は、この分家になります。頼母ら幕府軍と敵対する官軍の総大将になった西郷隆盛は、元は薩摩藩の下級藩士であり、この隆盛の西郷家もまた、肥前西郷氏から古い時代に分かれてできたものです。

従って幕末の世にあって奇しくも西郷頼母と西郷隆盛は、官軍と幕府軍という敵対関係にはあったものの、そのルーツをたどれば、同じ一族であるということになります。

実はこの二人、幕末の慶応の時代にすでに知り合いだったという記録があり、実際、隆盛と頼母がやりとりした手紙が残っているということです。

どの程度親しかったのかについては不明ですが、頼母が明治8年(1875年)に、福島県の東白河郡にある都都古別神社(つつこわけじんじゃ)の宮司となったころ、西南戦争が勃発し、この際、頼母は西郷隆盛と交遊があったとして、謀反の罪を着せられかけています。

結局は、はっきりとした証拠もなく罪は免れましたが、このことがきっかけで宮司を解任されています。その後、頼母は今度は日光東照宮の宮司の職に就きますが、明治13年(1880年)にはこれを辞して自由民権運動に加わり、政治活動に身を投じています。

政治活動に加わったという事実から、隆盛と共同での謀反論はあながち根拠がないともいえませんが、逆に考えればこうしたあらぬ疑いをかける新政府への反感から、民権運動へ身を投じるようになっていったのかもしれません。

……と、書きだしてはみたものの、話が前後して、わけがわからなくなりそうなので、ここでもう一度、西郷頼母という人物の経歴をみていきたいと思います。

その生まれは、1830年(文政13年)であり、明治36年(1903年)に73才で亡くなっています。前述のとおり、その生家は菊池氏族の流れを持つ西郷氏であり、三河西郷家の分家が会津に定着してできた家系になります。

三河西郷家は、もともとは室町時代に仁木氏の守護代を務めた名家でしたが、やがて勢力を拡大させる松平家に臣従し、その後、徳川政権下で御三家や有力譜代の家臣として存続し続けます。徳川家康に仕えて大名も輩出しており、会津藩の藩祖である保科家同様、徳川家譜代の名家ともいえます。

このため、家紋も会津藩の祖である保科家と並んで、九曜紋を許されており、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄となり、西郷頼母の代では9代目となっていました。

明治維新後、頼母は苗字を西郷から保科へと変えていますが、これも西郷家が旧藩主であった保科家と同等の格式を持っていたという証拠です。

なぜ保科を名乗るようになったのかはよくわかりませんが、おそらく旧藩主の松平容保から、保科の名を名乗るようにと許されたのではないかと思われます。

もともとは西郷家は保科家と縁戚関係もあり、保科家の「分家」の扱いになっていたようです。しかし、幕末までは保科家のほうがランクは同格とはいえ、藩主の血筋の名前を名乗るのははばかられたのでしょう。

しかし、明治になってからはそうした遠慮も必要なくなり、頼母に更に一ランク上の藩祖の名を与えることで、幕末からの動乱の中で会津藩を支え続けた頼母をねぎらい、恩賞としたのではないかと考えられます。

さて、会津藩の家老職になって以降、明治までのその足跡は昨日書いたとおりですが、少しだけ振り返りましょう。

1860年(万延元年)、30才で家督と家老職を継いで以降、藩主・松平容保に仕えますが、容保が幕府ら京都守護職就任を要請された際に、これを辞退するよう進言したために、容保の怒りを買い、蟄居を命じられます。

その後、明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許され、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変。

一転、白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃しましたが、新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥。若松城に帰参した頼母は、容保に再び恭順を勧めますが、会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。

意見の折り合わぬ頼母は、他の藩主から命を狙われるまでになり、やむなく長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することになりますが、この際、母や妻子など一族21人が自邸で自刃しています。

会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなります。この間、明治3年(1870年)、40才で頼母は保科に改姓し、保科頼母となっています。

そして明治5年(1872年)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となったというのが、昨日まで書いたストーリーでした。

その後、謹申学舎塾で塾長を二年ほど勤めた頼母は、明治8年(1875年)、45才で前述の都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となりますが、西郷隆盛との交遊を疑われ、宮司を解任されてしまいます。

このためやむなく頼母は、同じ福島県内の、伊達郡霊山町にある霊山神社に再び宮司として奉職し、ようやく生活は落ち着きを見せます。

ところが、明治12年(1879年)には、会津を共に脱出して長年苦楽を共にしていた長男の吉十郎が22歳で病没してしまいます。

先妻や一族のほとんどを会津戦争で失っていた頼母にとって、最愛の息子の死による悲嘆がどれほどのものだったでしょう。想像するだけで心が痛みます。

しかし、同年、会津藩士で妹の夫、つまり義理の甥の志田貞二郎の三男として若松に生まれ、3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移り住んでいた志田四郎を養子とします。

実は頼母は、西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門という、「御式内」と呼ばれる柔術と陰陽道を学んでおり、その達人だったとも言われています。

後年、明治31年(1898年)に霊山神社を訪ねた武田惣角という会津出身の武術家に、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と指導し、これに薫陶された武田惣角は、その後、達人とまでいわれたその剣術の修行をやめ、大東流合気柔術の修行に専念するようになったといいます。

この大東流合気柔術というのは、柔道と合気道の合いの子のような武術のようで、現在も武田惣角の大東流合気柔術を継承する会派や武術教室が全国に多数あるそうですが、柔道における講道館、合気道における合気会のような広く認められる中心的な組織はないそうです。

その大東流合気柔術の祖ともいえる人物に伝授したほどですから、頼母の柔術の腕前はかなりすごかったのでしょう。養子とした16才の志田四郎、改め西郷四郎にも丹念にその義技術を伝え、その結果、四郎は成人した後、柔道家として大成することになります。

1882年(明治15年)といいますから、頼母の養子となってすぐのこのころにはもう頼母によって柔術の基礎を学び終えていたのでしょう、四郎は単身上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学。

ここに通いながら、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍します。そして1883年(明治16年)には初段を取得。

1886年(明治19年)に行われた警視庁武術大会では、講道館柔道は柔術諸派に圧勝しますが、このとき四朗は有力候補といわれた戸塚派揚心流の好地圓太郎に勝ち、大いに講道館の名を高めました。

この試合は両流派のホープと目されていた二人の試合であったことから、一般からも高い注目を集めており、この試合に勝ったことで、四朗の名は一躍日本中にとどろくようになります。そして、これがあの小説や映画で名高い「姿三四郎」の誕生の瞬間でした。

講道館柔道は、この戦いで勝利したことにより、その後警察の正課科目として採用されるようになり、これが現在の柔道大国日本の発展の起点となりました。

四郎は、1889年(明治22年)、23才のとき、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となりましたが、この洋行にかねてより反対する意見を持っており、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、「支那渡航意見書」を残し講道館を出奔。

その後、東アジア共同体を主唱する、いわゆる「大陸運動」に身を投じるなどの共産活動をめざすようになり、1902年(明治35年)からは、長崎で「東洋日の出新聞」の編集長を務めています。その傍ら、この地で柔道、弓道を指導し、また「長崎游泳協会」の創設にも関わり、同協会の監督として日本泳法の確立に尽力しました。

しかし、1922年(大正11年)、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。56才でした。没後、講道館からは六段を追贈されたといいます。

さて、頼母のほうの話に戻りましょう。四郎を養子に迎えた翌年の明治13年(1880年)には、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となり、このとき頼母は容保に請われて同神社の禰宜となります。

しかし、7年ほど務めあげたあと、明治20年(1887年)、57才でその職を辞し、突然、大同団結運動に加わるようになります。

大同団結運動というのは、帝国議会開設(第1回衆議院議員総選挙)に備えた自由民権運動各派による統一運動のことであり、このころ、自由民権運動は政府の弾圧によって衰微しており、その運動の中心であった自由党は解党、立憲改進党も休止状態にありました。

この前年の1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用などの大幅な譲歩が含まれていました。

これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされるようになります。こうした中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、言論の自由や地租軽減、対等な立場による条約改正などを訴える「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出しました。

これがいわゆる「三大事件建白運動」であり、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、旧自由党・立憲改進党の主だった人々に一致団結を呼びかけはじめたのが「大同団結運動」です。

それまで日光の禰宜として神事を奉職していた頼母が、それまでの静かな生活を捨てて政治活動に身を投じようと決心したその理由はよくわかりません。

しかし、1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる自由民権運動は、それ以降に徐々に混迷を深めていく薩長藩閥政府による政治に対する不信の表れであり、頼母のように新政府によって虐げられてきた旧会津藩などの幕臣にとっては、その憤懣をぶつけるためには、格好の起爆剤であったはずです。

憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの数々の要求を掲げた大同団結運動の始まりとともに頼母もまた、会津と東京を拠点としてこうした政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていました。

しかし、結局大同団結運動は対立する諸派の意見が折り合わずに瓦解。頼母もまたこれを機会に政治運動から身を引き、郷里の会津若松に戻りました。

その後は、かつて宮司を務めた福島県伊達郡の霊山神社に戻って再び神職を務めるようになり、ここで明治22年(1889年)から明治32年(1899年)の10年間を過ごします。

その後再び若松に戻り、明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で死去。享年74歳でした。墓所は最初の妻、千重子の墓とともに、会津若松市内にある善龍寺というお寺にあるといいます。

伊豆へ一緒に伴ったという「きみ」という女性のその後について調べてみたのですが、よくわかりません。記録にもあまり出てこない人物なので、後妻というよりは側女のような存在だったのかもしれません。また、格式を重んじる会津に帰った頼母にはあまり表に出てきてほしくない存在だったのかもしれません。

主君の松平容保は、幕府瓦解後、鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居しますが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられ、自らもれから間もなく蟄居を許され、前述のとおり、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となりました。

頼母同様、晩年こうした神社での神職に自らを奉じたのは、会津戦争で亡くなった多くの死者を弔うためでもあったといわれています。

容保は、その後正三位まで叙任し、明治26年(1893年)に東京・目黒の自宅にて肺炎のために死去。享年59才。死の前日には明治天皇から牛乳を賜ったといい、八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められ際に賜った、宸翰と御製を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったといいます。

そして、会津戦争については周囲に何も語ることはなかったといいます。

これより更に10年長生きした頼母もまた、晩年にはあまり多くを語らなかったようですが、「栖雲記(せいうんき)」という自叙伝を残しており、この中には会津戦争で自決した子女たちの死に際の様子なども記載されています。

また、一人息子の吉十郎が22才で亡くなったときの心情も述べており、「ただ一人残った子を失った心中は、じつに切ないものであった」と書いています。

また、かつて箱館戦争においては、頼母は「山田家」という会津の家を継いだ弟の山田直節とともに政府軍に捕縛されますが、弟の直節は古河藩に幽閉された後に国家転覆の反逆を企てたとの疑いによって牢獄に繋がれ、そこで獄死しています。

頼母自身も弟に連座して逮捕されるところだったようですが、救う人があったために助かったと記されています。栖雲記にはこれが誰であったかは記されていませんが、この頼母を救った人物こそが、西郷隆盛だったともいわれています。

そして、この栖雲記には、長かった人生を述懐するような言葉が最後に記されています。

昔わが栖にし雲と尋れば涙の名残なりけり

昔住んでいた場所はどこだろうと探してみたが、涙の名残のごとく消えてしまっている、というような意味でしょうか。

会津、伊豆、日光と、各地を渡り歩いたあとの自分の足跡を探してみたけれども、結局は何も残っていない、といっているようで、何やら人生の空しさを感じさせるようなことばです。

会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるとの好意的評価が多い中、そうした他人のための人生はやはり自分のものではなかったと、最後に悟ったのかもしれません。

しかし、そうした悟りのようなものを最後の一瞬に感じることができたとすれば、その一生はけっして無駄ではなかったでしょう。

現在、会津若松市の東山町というところに、かつての会津の武家屋敷群が約7000坪もの広大な敷地の上に復元されているということです。家老だった西郷頼母のおよそ280坪の邸宅を中心として、旧陣屋など会津の歴史的建造物が軒を連ねているそうで、かつての会津の生活を再現した歴史館もあるそうです。

いつの日か、我々もここを訪れ、頼母の墓参もして、その一生をもう一度彼の地で振り返ってみたいと思います。ではいつ行くか。

……今日というわけにはいきそうもありませんが、年内中には行ってみたいものです。