デラウェア川を渡って……


ここのところ、ハリケーン・サンディの調査がらみでニューヨーク付近のアメリカ東海岸の地図をみる機会が多くなっています。

このあたりの地形は非常に複雑で、ニューヨークあたりを中心として北へ南へと非常に入り組んだ海岸線が広がり、ただぱっと見た目にはどこがニューヨークで、どこがフィラデルフィアなのかさっぱりわかりません。

このあたり、外国人が日本の地図をみてもどこが東京でどこが横浜なのか良くわからないという人が多いのと同じです。我々には見慣れた地形でも外国人からみれば非常に入り組んだ島々の集合体にしかみえず、我々もアメリカ東海岸の地図をみてもどこがどこだかピンときません。

が、最近ようやく目が慣れてきて、ニューヨークの中心にはハドソン川という川が流れていてその西側にニュージャージー州が南北に広がり、このニュージャージ州の西端にはデラウェア川が流れていて、そのさらに西側にペンシルバニア州が続く……という位置関係が理解できるようになりました。

このデラウェア川の河口付近の右岸側(西側)にはデラウェア州もあるのですが、実はこの場所に私はちょっとしたご縁があります。

もう既に30年近い昔の話になりますが、そのころ、アメリカへの留学をするにあたって、アメリカ本土にあるいくつかの大学に願書を提出しており、その中には西海岸のワシントン大学や南部のテキサス工科大学なども含まれていました。

結局のところ、これらの大学は英語力不足だということで入学が却下されてしまったのですが、このとき入学前にもう少し英語を勉強してスキルアップするならば、という条件付きで入学許可を得たのが、ハワイ大学とデラウェア大学でした。

いずれも海洋工学では有名な大学だったため、どちらに進学するか悩みましたが、結局、ハワイ→きれいな海→海べの散策→きれいなハワイアン→ラブロマンス……という妄想に負けてしまい、せっかくのデラウェア大学からのお申し出はお断りすることになりました。

今でも時々思うのですが、もしこのときハワイ大学を選ばず、デラウェアに行っていたらその後の人生はどう変わっていたことでしょう。ハワイと違ってあまり日本人も多くない土地のことですから、もしかしたら今以上に英語に慣れ親しみ、もしかしたら本当に今頃はアメリカ人とでも結婚していたのでは……などと妄想の暴走は続いていきます……

デラウェア川

ということで、結局デラウェアにはご縁がなかったのですが、今こうして仕事でこの地域のことを調べていると、ついついこの当時のことを思い出し、デラウェアっていったいどんなところだったのだろう、と思い返すのです。

州の名の由来にもなっている、このデラウェア川ですが、オランダ人によるニューネーデルラント植民地の一部として17世紀初めにエイドリアン・ブロックという人物によって探検され、植民地の最南端ということでオランダ語で、当初は「南の川」という意味の「ズイド川」と名付けられたそうです。

大西洋に注ぐ先は、デラウェア湾であり、ここから200kmほど遡った街が、人口150万人で全米第5位の大都市フィラデルフィアです。ここから、最上流までの河川長は、400マイル以上あるということで、キロ換算すると600km以上にもなり、これはだいたい青森から中国地方あたりまでの長さと等しい距離になります。

前述のとおり、デラウェア川は、ペンシルベニア州とニュージャージー州の間にあり、さらにニューヨーク州とデラウェア州との州界にもなっていますが、このあたりの位置関係はやはり地図をみないとわかりにくいかもしれませんね。後学のために一度ご覧になってみてください。

このデラウェア川ですが、過去には雪解けや暴風雨の雨水によって何度も洪水を起こしてきた川で、記録にある中で最大のものは1955年におこっていて、これは1週間も経たない間に2つのハリケーンがこの地域を通過したことによるものでした。

ふたつのハリケーンともアメリカ合衆国北東部を襲ったハリケーンの中でも最も湿り気を帯びたものであったため、デラウェア川流域に激しい豪雨をもたらし、このときペンシルベニア州リーゲルスビルという場所で計測された河川水位の上昇量はなんと、12mにも達したということです。

デラウェア川はその下流付近でデラウェア盆地とよばれる低地を通っており、このデラウェア盆地の中央部は大きな溢水を何度も経験し、洪水は家や土地に大きな被害を与えてきました。加えてデラウェア盆地の南部、フィラデルフィアからデラウェア湾に至る地域は海に近くて標高が低いため、潮汐の影響も大きく受けてきたという土地柄です。

地元では「デラウェア川流域委員会」という有識者会議が持たれ、地方政府とともに川の洪水問題の解決策を見いだそうと努めているようですが、温暖化のためかここ数年間に大きな洪水が連続しており、流域の住人は非常に危機感を感じているということです。

デラウェアに限らず、2001年のハリケーンカトリーナで水没したニューオリンズの例も含めて最近アメリカ東部では何かと水害が多くなっていますが、アメリカも日本と同様、不景気下にあるため連邦予算も限られて、その対策が遅れているというのが現状のようです。

デラウェア川渡河

ところで、このデラウェア川はニュージャージー州とペンシルベニア州の境界に位置するため、このふたつの州の行き来をするためには現在も大きな障害となっています。大きな橋もいくつかあるようですが、その維持のためにお金もかかるため、その大半は有料となっているそうです。

フィラデルフィアから50キロほどさらに上流にトレントンという街がありますが、ここを通るリンカーンハイウェイもまたこのデラウェアを渡河する部分が有料になっています。

このリンカーンハイウェイは、アメリカでの道路開発でも最も初期の1910年代ころに造られた道路で、デラウェア川をまたいで東西を結ぶかなり重要な道路のようですが、これよりさらに十数キロ上流に行ったところに「ワシントン・クロッシング・ヒストリックパーク」という公園があります。

名前からしてわかるように、アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンがアメリカ独立戦争のときにこの付近を渡ったことにちなんで造成された公園で、この独立戦争においては「デラウェア川渡河」と呼ばれて最も重要なミッションのひとつであったと位置づけられています。

「トレントンの戦い」というのが、このすぐ近くのデラウェア川東側のトレントンの街で1776年12月26日に勃発しています。

その前日のクリスマスの夜にジョージ・ワシントンが独立軍を引き連れてこの川をボートで一か八かの渡河しており、この結果、ワシントンらの独立軍は街を占領していたドイツ人傭兵部隊で構成されるイギリス軍を撃破するのに成功しました。

トレントンでの戦闘そのものは短時間で終わり、独立軍はほとんど損失を受けず、また攻撃された側のドイツ人傭兵部隊のほぼ全軍が「捕獲」されただけで、それほど多くの血が流れたわけでもないのですが、この戦闘はその後この独立戦争の趨勢を大きく変える重要な役割を果たすようになります。

この戦闘の結果、萎縮していた独立軍の士気があがり、アメリカを植民地化していたイギリスに戦いを挑む合衆国兵士の勢いが大いに増したためです。

この戦闘の前まで、独立軍の士気は極めて低かったといいます。

東海岸の各地での宗主国イギリスとの戦闘では、あちこちで敗れ、独立軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合軍隊によってコテンパンに叩きのめされてニューヨークから追い出され、ニュージャージーからデラウェア川を越え、さらに西のペンシルバニアまで撤退を余儀なくされていました。

東海岸での緒戦闘の中でも最大級といわれたニューヨークの「ロングアイランドの戦い」では、独立軍が敗れたときその兵士のおよそ9割が軍を見捨てたといいます。

このとき独立軍は、イギリス軍に対してかなり善戦をしていたのですが、戦闘終盤でジョージ・ワシントン他の指導者たちが弱腰になり、撤退すると言いだしたため、独立の大義が失われたと感じた多くの者が脱走したためだったのではないかといわれています。

ワシントン自身はそのころバージニアに住んでいた従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」というような内容の手紙を書き送っており、やる気満々だったようです。

しかし、ロングアイランドで敗れ、その後も独立軍の中枢であったワシントン砦も失い、ニューヨーク湾の支配権を完全にイギリス軍に譲り渡すようになるまで戦況が悪化すると、さすがに強気のワシントンも支えきれなくなり、その軍隊はニュージャージーを越えてペンシルベニアまで撤退することになったのです。

この撤退では、独立軍は緒戦で破れたとはいうものの多くの兵力を温存しており、まだまだ戦えるはずだったのですが、本拠とするニューヨークで敗れ、しかも敵前から逃げ出したという事実は兵士たちの士気を大いに下げました。

もともとは一地方政治家にすぎなかったワシントンの戦争当事者としての能力の欠陥と、とはいえ政治の面では優れた才能を持つ彼の特質を見抜くことのできなかった配下の将軍達が原因だったといわれています。

が、ニューヨークでの最初の戦闘などでは、敵による一発の銃声で多くの兵士が秩序を乱して逃げ出したともいわれており、こうした鍛えられていない兵士達を集めた独立軍は、洗練された軍隊とはいえない有象無象の集合体であったこともニューヨークでの敗北の原因だったようです。

こうしてニューヨークで幾度も敗北を味わい、ペンシルベニアまでの撤退を余儀なくされていた独立軍は、大きく兵力を減らした上、軍隊の士気は著しく低く、総司令官のワシントンはこの状況を変えるためには年が暮れるまでに何等かの積極的な行動をする必要性を感じていました。

そして思いついたのが、敵が油断しているであろうクリスマスの夜にデラウェア川を渡り、ドイツ人傭兵部隊で組織されたイギリス軍を包囲する作戦でした。

この当時、ニュージャージー西部のほんの小さな町だったトレントンは、ヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊1400名、3個連隊が守っていました。ワシントン軍は6000名以上の兵士を擁して多勢でしたが、前述のように士気は大幅に下がっていました。

また時期は真冬であったため、川は氷のような冷たさであり、渡河は危険なものと考えられたため、実施にあたっては軍を3つ分け行うことにし、ワシントン自らはこのうちのひとつの部隊を率いることにしました。

こうしてデラウェア川の向こうに撤退していたジョージ・ワシントン将軍の率いる独立軍は、トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊にその主力をぶつける時がきました。

前述のように軍は分割されたため、ワシントンには2400名の兵士しかいませんでしたが、ワシントン直属の部隊ということで他の部隊よりは比較的士気も高く、また付き従っていたナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将などのワシントンの取り巻きは優秀でした。

とくにグリーン少将は、この戦争中最も才能ある、また頼りになる士官という評判を得ており、その後完成されたアメリカ合衆国という国のあちこにちこの「グリーン」の名にちなんだ地名がつけられているほどです。

また、ヘンリー・ノックス准将はのちに初代アメリカ合衆国陸軍長官を務めており、ジョン・サリバン少将もまたその後、ニューハンプシャー州の知事を務めることのできるほどの逸材でした。

さらにワシントンの配下にはこのときはまだ若く中尉にすぎませんでしたが、ジェームズ・モンローがおり、この人はのちに第五代のアメリカ大統領になっています。

ワシントンとその軍隊が出発する前、こうした取巻きの将軍のうちの一人が、ワシントンの部屋にやってきて彼を景気づけようとしたそうです。

が、そのときワシントンは部屋におらず、彼は机の上にワシントンが書いたメモを見つけました。そこには「勝利もしくは死」と書かれていたそうで、これはその後のトレントンの戦いのとき、急襲の際の合い言葉として使われたということです。

こうして、部隊は駐留地を出発、一路デラウェア川に向かいました。

ところが、トレントン攻撃に向かった部隊のうち2つは渡河地点の悪条件が重なって河を渡ることができず、結局渡河に成功しトレントンを攻撃できたのはこのワシントン率いる部隊だけでした。

とはいえ、ワシントンの軍隊の先行きも暗そうでした。デラウェア川岸に到着したとき、頭上では雲が集まり始め、にわかに雨も降ってきました。やがてそれは霰(あられ)に変わり、最後には雪になりました。しかし、そんな状況下でもワシントンの部隊はヘンリー・ノックス准将の全体指揮で川を渡り始めました。

たった60発の弾薬と3日分の食料だけを持った兵士達はボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡しました。真冬のデラウェア川の水温は低く、また冬場の降雨降雪によって流量が増しており、予想されたとおり、この渡河は危険に満ちたものとなり、兵士の何人かが船から落ちました。

しかし、すぐに水中から引き上げられたため、渡河中の死者は出ず、なんとか大砲などの銃器もすべて良好な状態で渡すことができました。

「デラウェア川を渡るワシントン」

この時代、まだ写真などは発明されておらず、この渡河の様子が具体的にはどんなふうな状態だったのかについては詳細に知ることはできません。

ところが、この渡河の様子をのちに絵画にした人物がいました。ドイツ系アメリカ人で、画家の「エマヌエル・ロイツェ」という人で、彼が描いた絵画は、のちに「デラウェア川を渡るワシントン」として全米に知られるようになり、現在ではアメリカの独立を象徴する絵として全米で知らない人はいないといわれるほど有名な絵になりました。

ドイツ生まれのエマヌエル・ロイツェ(1816年–1868年)はアメリカで成長し、大人になってからドイツに戻った人物ですが、1848年ころ、アメリカの独立を題材にしてヨーロッパでの民主主義革命運動家を勇気付けることを思い立ち、1850年にこの絵の最初のバージョンを完成させました。

ところが、これが完成した直後にアトリエが火災にあったため、絵は損傷し、その後修復されて、ドイツのクンスターレ・ブレーメン美術館に買い上げられました。しかし、第二次世界大戦中の1942年、イギリス空軍による空襲でこの絵はあっけなく焼失してしまいます。

この植民地アメリカの独立戦争での勝利を象徴する絵画が、かつての宗主国、イギリスの空襲によって失われたことを揶揄し、このころイギリスでは、この攻撃はアメリカ独立に対するイギリスの最後の復讐だったというジョークが広がったということです。

しかし、ロイツェは最初の作品のスケッチを残しており、これをもとに最初の作品の原寸大の写しである2作目を1850年ころから制作しはじめ、こうして完成されたものが1851年にニューヨークで展示されました。

このとき、5万人以上のアメリカ人がこの観賞に訪れたといい、その後この絵は資産家によって当時としては破格値の1万ドルで購入されました。さらにそののち、所有者は何度か変わりましたが、最終的には1897年にニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈され、同美術館の永久収蔵品となり、今日でもそこで展示されています。

以来、アメリカでは一番人気のある絵画のひとつとなり、多くの模写品がつくられ、そのうちの一つはホワイトハウスのウエストウイングの受付場所にも飾られているそうです。

メトロポリタン美術館にある本物のほうですが、その後もご難が絶えず、2003年1月には元メトロポリタン美術館の守衛だった男がこの絵にアメリカ同時多発テロ事件の写真を貼り付けるという事件がおこりました。

何を考えてのことだったのかよくわかりませんが、このとき絵の表面が若干損なわれただけで、幸い恒久的な傷にはならなかったということです。

この絵がアメリカで人気があるのは、人種のるつぼといわれる現在のアメリカを象徴するかのように、この絵に描かれている船に乗る人々が様々な様体をしているためでしょう。

スコットランド風帽子を被った男がいるかと思えば、舳先のうしろのほうには黒人らしい人物が乗船しているのが見て取れ、船尾にはライフル銃を持った射手、その右側でミンク帽を被ってオールを握る人物はインディアンか農夫のように見えます。

射手の右手にいる人物はよくみると頭に包帯を巻いていて、これは戦闘でけがをしたためでしょうか。このほか男性のようではありますが女性のようにも見える赤いシャツを着た漕ぎ手などが描かれており、船の中央に座っている人物だけがどうやら正規の兵士のようです。

無論、舳先の少し後ろに立って前方を睨んでいるのがワシントンですが、その後ろに立って旗を持っているのが、のちの大統領のジェームズ・モンローです。

この絵は、「デラウェア川の渡河」という歴史的な出来事を正確に描くために制作されたというよりも、アメリカの独立という出来事を象徴的に描こうとした作品だといわれており、このためかなり誇張した表現が多く、歴史考証上も間違いだらけだということです。

まず、この時の川水は氷のようであり、渡河自体が危険極まりないものであるのにワシントン達が立っていられるはずもなく、またモンローが持っている旗は戦いの6ヶ月後に作られたものだそうです。さらに渡河は夜明け前の暗がりの中に行われたようですが、この絵はまるで昼間または夕方のように見えます。

にも関わらずこの絵が合衆国の歴史の象徴になってきた理由はやはり、このデラウェア川の渡河という出来事が、その後アメリカ合衆国という国が誕生していくきっかけになったという見方をアメリカ人のおおかたの人がしているためでしょう。

生粋のアメリカ人が描いたというわけでもなく、というよりも生粋のアメリカ人なんてものはそもそもいない、ということを象徴するような絵でもあるわけで、我々日本人にとっては少々不可解な「祭りあげ」かたであり、少々納得できない部分が残るのは仕方のないところでしょう。

トレントンの戦い

さて、こうして無事に川を渡ったワシントンの部隊は、渡河地点から9マイル、約14 km下流にあるトレントンまで行軍していきました。ドイツ人傭兵部隊は冷たい水が流れるデラウェア川を独立軍が渡ってくるはずもないと考えていたため、その守りを緩め、夜明けの歩哨すら置いていなかったそうです。

さらにこの日はクリスマスの翌日でもあったため、前夜の大騒ぎの後で眠りに就いたままの兵士も多く、ワシントン達はこれらの油断しているドイツ人傭兵部隊にやすやすと迫り、本格的な抵抗がなされる前に彼らを捕捉しました。

1500名ほどいた傭兵部隊のほぼ3分の2が捕まり、残りはニューヨークに向かって逃げ出していきました。戦闘そのものも小規模に終わり、ドイツ人傭兵部隊は戦死22名、重傷83名にとどまりました。896名が捕虜になったそうです。対するワシントンの部隊では戦死が2名だけであり、負傷も5名でした。

しかし、冬場の戦いであったため、戦いの数日後に疲労、低体温および病気で死んだ者がかなりいたといい、これらを含めると全体としては独立軍の総損失の方が多かったかもしれないと言われています。

ただ、イギリス軍の司令官、ヨハン・ラールは致命傷を負い、その日遅くに自分の策戦本部で亡くなったそうで、この戦闘に参加したドイツ人の大佐4人全員が戦死するなど、イギリス軍(ドイツ傭兵部隊)の指導者たちだけは果敢に戦って果てたことがわかります。

ワシントンらは、彼らに勝利しただけでなく、大砲や大量の物資の捕獲にも成功し、敵から奪った約1000挺の武器と弾薬は、武器の欠乏に悩んでいた独立軍のその後の戦闘に大いに役立ちました。

この戦闘の規模は小さなものでしたが、負け続けていた独立軍がイギリス軍をようやく破ったという噂はその日中に植民地中に広がり、この戦争の行方に大きな影響を与えていきました。

この日の正午までにワシントンの部隊は捕虜と奪った武器や物資を携えてデラウェア川を再度渡り、いったんペンシルベニアに戻って体制を整えることにしました。

この戦いは、それまでは有象無象の集合体と思われていた独立軍が、よく訓練されたイギリスの正規軍を破ることができたという点において、独立軍全体に新たな自信をもたらしたものでもありました。

この戦闘のほんの1週間ほど前までは、士気の低下によって革命そのものが疑われ、軍隊は崩壊の瀬戸際にあるように見えたものでしたが、この戦いでの勝利により、独立軍に所属していた兵士達は軍隊に留まることに合意し、さらには新たな志願兵も増え、独立軍の勢いは日増しに強くなっていったのです。

独立戦争の終焉

そして、翌年の1776年7月4日、ジョージ・ワシントン率いる独立軍はついに「アメリカ独立宣言」を行い、「アメリカ合衆国」が誕生します。

しかし、宗主国イギリスはこれを認めず、彼らが「植民地」とする合衆国と戦闘をその後も続けていきます。しかし、独立したアメリカ合衆国はその後、世界各地で植民地の利権をめぐってイギリスと敵対していたフランス、スペインと相次いで同盟を結び、両国はその後アメリカ本土に自国の軍隊を送り込んでこの戦争に参戦し始めます。

また、自らは中立の立場をとっていたオランダの植民地にイギリスが攻撃を加えたことから、この戦争は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダを巻き込んだ国際戦争になっていきました。

戦闘はその後も5年間も続きましたが、1781年にフランス海軍がチェサピーク湾(デラウェア湾の西方に位置する湾。ワシントンD.C.のすぐ東側に位置する)の海戦でイギリス艦隊を打ち破りました。

これを受け、ワシントンはそれまでイギリス軍が根拠地としていたニューヨークへの攻撃を一旦停止し、急遽自軍とフランス軍を南部に移動させ17000名の大部隊で、イギリス軍の大部隊のいるバージニア南東部まで南下。ここにあるヨークタウン(現ヨークタウン郡)を包囲して、イギリス軍を攻めたてます。

イギリス軍は善戦しましたが、1781年10月、ついに約7000名の軍隊全員が降伏しました。

そして、チェサピーク海戦での敗戦とヨークタウン降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は急速に議会への支配力を失うようになります。議会の提案する休戦の方向に進み始めることとなり、この後アメリカ本土でのは陸上での大きな戦闘が無くなりました。

この時点でイギリス軍はまだニューヨークなどに合わせてまだ3万名もの戦力を保有しており、独立軍(合衆国)の艦船さえ退けることができれば、イギリス本土から更に増援を送ることも可能でした。

しかし、ロンドンではヨークタウンでの敗戦以降、戦争を維持しようとうする一派の力が急速にすぼまり、好戦派の首相フレデリック・ノースが1782年3月に辞任。

翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通し、1782年11月に休戦の予備協定がパリで結ばれます。ついには、1784年1月14日にパリ条約が批准され、1775年以降、あしかけ9年にも及んだアメリカ独立戦争はここに終結しました。

実際の戦闘は、これに先立ちパリ条約が提言された1783年9月3日から約二か月後の11月25日に終結しており、このとき最後までニューヨークに残っていたイギリス軍のすべてが撤退しました。

推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25000名とされており、このうち8000名が戦死で、残りの17000名が戦病死でした。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8500名から25000名と推計されており、トータルではアメリカ側の人的損傷は50000名にものぼったことになります。

イギリス側では、この戦争に約171000名が従軍しましたが、戦死者は約1240名であり、病死が18500でした。戦死者の数が圧倒的にイギリス側で少なかったのは、約42000名もの兵士が脱走したからだともいわれています。

また、イギリスに雇われたドイツ人傭兵のうち、およそ1200名が戦死し、6354名は病死しました。ドイツ人傭兵の残り16000名は本国のドイツに戻りましたが、約5500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となりました。

現在もアメリカ各地で多くドイツ系移民がアメリカ人として暮らしているのは、その多くがこのときの残留者の子孫であるといわれています。

エピローグ

デラウェアの渡河やトレントンの戦いは、この長い戦争のごく初期に起こった小さな戦闘でしたが、その後アメリカがイギリスから広大な大地を勝ち取ったことを考えると、アメリカ史上、最も重要な出来事であったと評価する向きも多いようです。

ロイチェの「デラウェア川を渡るワシントン」がそれほどまでにアメリカ人に愛されるのは、この出来事がアメリカ合衆国誕生に重大な役割を果たしたと多くのアメリカ人が考えているためです。

振り返って日本のことを考えると、こうした日本の歴史の象徴ともいえるような美術品は何かな~と思うのですが、逆にあまりにもたくさんありすぎて、思いつきません。

ロイチェの絵に匹敵するのは、国宝の風神雷神図のようなものかもしれませんが、奈良や鎌倉の大仏とか法隆寺などに保存されている仏像の数々などのほうがより日本人の魂に直結しているようにも思います。

が、いずれにせよ、こうした戦争に由来するような美術品を象徴とするような向きは日本ではあまりないのではないでしょうか。

たかが絵画、しかもドイツ移民のアメリカ人が描いた絵が珍重されるアメリカは文化度が低い、などというつもりはことさらありません。がしかし、日本と比べた場合、やはりその歴史の浅さを感じざるを得ません。

……とそんなアメリカで勉強させてもらい、いわば現在の自分を育ててくれたアメリカの悪口を言うのはやめましょう。アメリカという国は、なんというかやはり懐が深いところがあり、そのためにあれほど多くの人種が集まるのだと思います。そんなアメリカの精神に私は今も大変感謝しています。

考えて見れば、これまでは、それほどお世話になったアメリカの歴史を真剣に調べたことはありません。他国を知るということは、歴史が浅いとか云々言う前にやはり実際にどんな出来事がそこであったのかを正確に勉強することでしょう。

この次、渡米できるのがいつの日になるかわかりませんが、それまでにアメリカの歴史についてはアメリカ人以上に詳しくなっていて、逆にアメリカ人にそれを教えてあげる、そんな将来の自分を見つめるのもまた楽しくなります。

みなさんはいかがですか?アメリカについて何を知っていますか?

ニューヨーク・ニューヨーク!


超多忙で、ブログをアップする時間もなく一週間ほど過ぎていってしまいました。いつもご覧いただいている方は、どうしてしまったんだろう、フグ毒にでもあたってついに行ったか、と多少なりともご心配いただいたのではないか、と勝手に思ったりもしていますが……そんなこともないか……

この忙しさは先日アップした通り、急に舞い込んだハリケーン・サンディにまつわる仕事のためなのですが、先日もそのブログを書いたあと、その打ち合わせのために都内へ出ました。

が、夕方からの会合だったため、急ぐ必要もないさということで、東名高速は使わず、国道1号を通って久々に箱根峠越えをしました。

ところが、箱根へ上ろうとするその手前の三島東部で何やら事故があったらしく、国道の一部区間が閉鎖されており、その迂回に時間がかかり、行程が一時間あまり遅れました。

この日は午後から都内も雪模様という天気予報だったのは知っていたのですが、この大幅な遅れのためか雪雲につかまったらしく、この渋滞を抜けて箱根峠にさしかかる前から早くも吹雪模様になり、箱根峠に達するころには外は真っ白の銀世界!

自宅を出発するときには雪なんて……と思っていたものが、思いがけない冬景色との遭遇で、伊豆ではあまりお目にかかることのできないシーンに出くわして、これはこれで少しうれしくなったりもしました。

すべてのことには意味がある……とすれば、三島での渋滞で足止めを食ったのは、この雪景色をみることができるようにするためだったのかもしれない、とあとで思ったものです。

都内での打ち合わせは、それほど時間もかからずすぐに終わったのですが、その後もこの仕事をまとめるために、ずっとこのハリケーンに対する資料をネットで探しては読んでいます。

しかしやはりなんといっても記事が多いのはニューヨークで、それもそのはず、この界隈だけで100人以上の人が亡くなっているわけですから無理もありません。おそらく昨年アメリカでおこった色々の事件のなかでもオバマ大統領の再選以外では最大級の話題ではなかったでしょうか。

さて、このニューヨークですが、実は私は一度も行ったことがありません。

アメリカにはハワイ時代も含めて通算4年以上も住んでいたことがあり、アメリカ本土へも4~5回ほども渡ったことがあり、ワシントンD.C.やシカゴ、ボストン、アトランタ、マイアミといった主要な東部の町にはほとんど行っているのにニューヨークだけは未踏破というのは何か不思議な気がします。

そもそも私が訪れる町は海か川があって、仕事がらみのことがあるためそうした町を訪れるわけですが、ニューヨークというと摩天楼と人種のるつぼということで、人と建物ばかりであまり水辺の印象はありません。魚座である私とは所詮縁がない土地ということなのでしょう。

しかし、昨年10月にニューヨークを襲ったハリケーン・サンディでは高潮により大きな被害が出たというのは先日書いたブログの通りです。

こんなにも水災害に弱い街だったのかな、と報告書を書く関係から必要性もあり、この町の地勢などについてもいろいろ調べているのですが、それらを読むとこの町の歴史もなかなか奥深くて面白そうです。ここで少しそのことを書いてみましょう。

ニューヨーク市は、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州の南東部に位置し、南にあるワシントンD.C.と北側のボストンのおよそ中間にある街です。

町の中心には、2009年にUSエアウェイズの旅客機の不時着で有名になったハドソン川があり、ニューヨークはこの河口に造られた町です。

ハドソン川の流はその河口に天然の港を形成し、その先には大西洋が広がっているため、船の出入りが容易で、また港に陸揚げした交易品をハドソン川を通じて内陸に運ぶためにも便利な土地であり、このため交易都市としてのニューヨークの発展に大いに貢献してきました。

ニューヨークの大部分は、マンハッタン、スタテンアイランド、ロングアイランドという三つの島によって構成されていますが、これらはハドソン川の流れによって河口に堆積した砂州によって造られた島々です。

ただ、いずれも陸地面積が狭く、長年の発展で多くの人がここに居住するようになったため、現在では世界でも1~2をあらそうほどの人口密度となっています。

現在のニューヨークは、これらの三つの島の周辺をさらに埋めたてて作られており、この大規模な埋め立て事業を最初に行ったのは、自国も海に面していて古くから埋め立てによって国土を広げてきたオランダ人です。

現在のニューヨークを切り開いたのはこのオランダ人といってもよく、彼らは最初、ハドソン川の岸に沿って大規模な埋立てを行い、ここに植民地の建設を始めました。

その後の開発で埋立てが最も進んだのはマンハッタン島の南側端部にあるロウアー・マンハッタンです。ここにあるウォール・ストリートは誰でも知っている世界の金融の中心であり、世界最大の証券取引所であるニューヨーク証券取引所もここにあります。

ニューヨーク市役所は、この金融街の北に位置し、島の南端には、バッテリー・パークと呼ばれる1970~80年代に埋め立てによって造られた比較的新しい街があり、のちに9.11のテロ事件で崩壊するワールド・トレード・センターもここに隣接していました。

ロウアー・マンハッタンは、オランダ人がマンハッタン島で、最初に居住地とした場所です。オランダ人たちは入植のため、現在のバッテリー・パークがある場所に1614年ごろから「ニュー・ネーデルランド」という町を造り、原住民であるインディアンたちから身を守るためにここに砦を築き、これを中心に街づくりを進めていきました。

かつては世界中の金融の中心であったワールド・トレード・センターの跡地には、現在は新しいワールド・トレード・センターが建設されており、テロ事件があったために今ニューヨークでも最も有名な観光地です。現在も9/11記念碑を見るだけのために観光客が年間600万人も訪れるといいます。

将来的に出来上がる新しいトレードセンターは、「1 ワールドトレードセンター」という名称になるそうで、これを含む新しいオフィス・タワーも建設されていて、これらの完成によりこの地域は、マンハッタン・ミッドタウン、シカゴ・ループに次ぎ、アメリカで3番目の大きな商業地区となると予想されています。

マンハッタンが現在のようになる前は、丘の多い地形だったそうですが、その後のオランダ人の入植によって平坦にならされ現在のような平地が広がる街になりました。このあたり、もともと水面下にあり、これを埋め立ててできた東京とは対極的です。

かつての丘があったその下には非常にしっかりとした岩盤が地下にあるため、超高層ビルの建設に適した地形であり、この辺も下がズブズブの底なし沼のような東京とは違うところです。

このマンハッタンを中心とするニューヨーク市の総面積は水域を除いた陸地部分の総面積は約28km四方(789平方キロ)とうことで、622平方キロの東京23区よりもやや大きい街ということになります。

市域の一部であるステンアイランドには標高124.9mのトッド・ヒルという小高い山(丘?)があり、その頂上付近はスタテンアイランド緑地帯の一部をなし、ほとんど森林に覆われており、このほかにも随所に緑があるということですから、まとまった大きな緑地のない東京都内とはこの辺もまた少し違います。

ニューヨーク市の気候は「温暖湿潤気候」と呼ばれるものだそうで、晴れ又は一時曇りの一般的には「晴れ」とされる日は年平均234日もあり、比較的湿潤な亜熱帯気候に含まれる都市です。このため夏はかなり高温・湿潤で、平均最高気温は26~29℃もあり、32℃を超える日も年平均19日程度あるようです。

一方では冬は寒く、最も冷え込む1月の平均気温は約0℃であり、零下になる日も年平均75日もあります。マイナス15℃ (5°F)日も例年平均1日あります。

年平均降水量は118cmで、1800mmも以上も降る東京に比べれば格段に少ない一方で、冬場の雪は多く、年平均積雪量は71cmもあり、年によってはノーイースターと呼ばれる爆弾低気圧によって数日で積雪50㎝を超えるような大雪となることもあります。

さて、そんなニューヨークの歴史をもう少し詳しくみてみましょう。

1524年(大永4年)といいますから、日本では北条早雲を始祖とする後北条氏によって関東地方の統一が始まるころで、戦国時代の夜明けといった時代のころのことです。

フランス国王の命を受けたイタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノという人物が、今のニューヨークに達し、ここをヌーヴェル・アングレームと呼びました。ヌーヴェルというのは新しいという意味のようですから、そのころにイタリアにあったアングレームという街にこの地をなぞらえたのでしょう。

この当時、ここには、約5000人の原住民のインディアンが住んでいたそうですが、こののち、この地は前述したとおりオランダ人の入植地になり、1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために小さな街が作られました。

これが後に「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになりましたが、この地はこれに先立つ5年ほど前の1609年、オランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが発見した土地で、現在のハドソン川をさかのぼった流域一帯がこれになります。ちなみに、ハドソン川の名はこのヘンリー・ハドソンの名にちなむものです。

このハドソン川沿いに横たわる細長い砂州があり、これをオランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットは、1626年、原住民であるレナペ族からわずか60ギルダー(2006年現在の換算で1000ドル程度)分の物品と交換して手に入れたといわれているのが「マンハッタン島」です。

この話がほんとうかどうかを疑問視する歴史学者も多いようですが、その代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もあるようで、いずれにせよ、物の価値にうといインディアンから二束三文で手に入れたことには間違いがなさそうです。

インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったといい、この取引を彼らが理解していたかどうかさえも疑わしいそうなのですが、これを皮切りにオランダ人たちは次から次へとその領土を拡大していきます。

しかしようやく自分たちの土地が横取りされている「らしい」と気が付いた原住民のレナペ族や周辺部族は、次第にオランダ人たちヨーロッパの入植者たちと敵対するようになっていきます。

しかし、近代兵器を手にした入植者たちの前に弓矢が主力の武器であるインディアンがかなうわけもなく、半世紀もたたないうちに、アメリカの東海岸の多くの土地からはインディアンが締め出され、この地はヨーロッパ人たちのコロニーだらけになります。

そして1664年、日本では江戸中期で5代将軍綱吉の統治の時代、ついにこの町の統治権をイギリス人が握り、イングランド王ジェームズ2世の本名、「ヨーク・アルバニー公」の名を取ってここを「ニューヨーク」と名付けました。

かつてこの地を席巻したオランダ人はというと、第二次英蘭戦争の末に敗れ、イギリスによるニューアムステルダム(ニューヨーク)の支配を認めざるを得なくなりましたが、その代わりに、インドネシアのバンダ諸島のラン島という島の支配を得ました。

オランダ人はこうしてニューヨークから体よく追い出されたわけですが、このラン島という場所はこの当時は香辛料貿易の中心地であり、毛皮貿易が中心だったニューヨークよりもかなり価値のある土地と考えられていたので、彼らなりの計算はあったわけです。

しかしその代りにオランダ人たちはアメリカ北米大陸という広大な土地の利権をこの時点で失ってしまうことになりました。

その後、ニューヨークは、イギリス帝国の支配の下、貿易港としての重要性を増していき、1735年にはジョン・ピーター・ゼンガー事件(イギリス支配下のNYで印刷業をしていたドイツ系アメリカ人が、植民地総督を批判する新聞を発行して逮捕・訴追されたが、陪審では無罪評決を受けた事件)を境に、アメリカでは新聞報道などによる自由の確立に向けた動きが活発化し、現在の「自由の国」アメリカの形が次第に形成されていきました。

文化的にも1754年、イギリスの国王ジョージ2世の勅許によって、ロウアー・マンハッタンに王立大学としてコロンビア大学が設立されるなど、その後の大国家を支える俊英を育てる教育機関も充実されていきましたが、一方では、1765年には「印紙法」が議会で議決されました。

これは、イギリスがアメリカ植民地に対して課した印紙税を定めた法であり、新聞・パンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる証書、許可証、トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付けるものでした。

オーストリア、ロシア、フランスなどとの七年戦争などをへて財政難に陥っていたイギリスは、アメリカという新しい植民地への課税によってこれを乗り切ろうとしたのでしたが、これがニューヨークを中心とする植民地人の反発をまねき、その流れはやがてアメリカ独立戦争へとつながっていきました。

この戦争はアメリカ東海岸の各所に飛び火していき、とくにニューヨークでは、このアメリカ独立戦争の間、大きな戦闘が繰り返し行われました。とくに1776年にアッパー・マンハッタンでは大規模な戦闘が行われ、これは後年「ワシントン砦の戦い」と呼ばれるようになりました。

この戦いでは結局独立運動をしていたアメリカ軍が大敗し、このためニューヨークの市街はイギリス軍の北アメリカにおける軍事的・政治的拠点となり、戦争が終わる1783年までイギリス軍の占領地となりました。

しかし、結局移民の集合体であるアメリカ軍がイギリス軍を圧倒して勝利。終戦後間もなく、ここニューヨークで両者の連合会議が行われ、ニューヨーク市はこのときから、アメリカ合衆国の首都となりました。

合衆国憲法が批准され、初代大統領ジョージ・ワシントンが1789年就任式を迎えました。この時日本は寛政元年、11代将軍家斉の時代で、その後の幕府の屋台骨を腐らせる水野忠邦らが台頭し始めていたころのことです。

この年には、第1回の連邦議会の初めての会期が開かれ、権利章典が起草されましたが、この舞台となったのが、現在のウォール街にあるフェデラル・ホールです。現在もウォール街26番地にどしんと腰を据えて立つ風格のある建物で、アメリカ合衆国議会の旧議事堂ということになります。

1790年には、ニューヨークはフィラデルフィアを抜いてアメリカ合衆国最大の都市へと成長。19世紀には多数の移民がヨーロッパやその他の国から流入し、街は開発によって大きく変貌していきます。1811年には、マンハッタン全域が格子状の通りで覆われ、1819年にエリー運河が開通。

この運河は、大西洋のニューヨーク港と北アメリカ内陸部の広大な農業市場とを結ぶ重要な交通経路となりました。商人階級が幅を利かせるようになり、彼らの陳情によって、1857年にセントラル・パークの建設が始まり、これはアメリカの都市の中で最初に近代的な景観設計が施された公園となりました。

1827年ころまでは奴隷制がごく当然のように維持されており、マンハッタンやブルックリンにはアフリカから連れてこられた大勢の黒人がいましたが、その後1830年代になってからはニューヨークは北部における奴隷制廃止運動の中心地となっていきます。

1840年の時点で、ニューヨークの黒人人口は1万6000人を超えていたそうですが、まだまだマイノリティでした。1860年までにニューヨークの街を席巻していたのはアイルランド系移民であり、その人口は20万人を超え、市の人口の4分の1を占めていたといいます。

その後、奴隷制の可否をめぐってこれを支持するアメリカ南部と反対する北部が対立、南北僕戦争が勃発します(1861年~1865年)。

この内戦は北軍の勝利で終わり、以来黒人の解放運動が進んでいきますが、そんな中、1898年、当時独立都市であったブルックリンと、ブロンクスの一部を含むニューヨーク郡、リッチモンド郡、そしてクイーンズ郡西部が合併して、現在のニューヨーク市の形がほぼ形成されます。

1904年にはニューヨーク市地下鉄が開通し、新しい市の統合に大いに貢献しますが、以来、20世紀後半に向けてニューヨーク市は世界の産業、商業、情報の中心地となっていきました。

1920年代、ニューヨーク市はアフリカ系アメリカ人の大移動で南部から来たアフリカ系アメリカ人にとっての主要な行き先となり、それまではマイノリティであった黒人がニューヨークにあふれかえるようになり、1916年までに、ニューヨーク市に住むアフリカ系都市移住者は北アメリカで最多となりました。

現在でもニューヨークを訪れると他の都市に比べて格段に黒人がこの町に多いように感じるのはこのためです。とはいえ、いわばそういう底辺の人種がこの街を支えていった結果、禁酒法時代には黒人文化である、いわゆる「ハーレム・ルネサンス」が栄えます。

ニューヨーク下町のハーレムにおいてはアフリカ系アメリカ人のアート、文学、音楽、文化、芸術が花開き、全盛期を迎えます。これと同時並行で急激な経済成長に伴い超高層ビルが競うように建てられ、街の風景は大きく変わっていきます。

1920年代初頭、ニューヨーク市はロンドンを抜いて、ついに世界で最大の人口を擁する都市となりました。またニューヨーク都市圏の人口は、1930年初頭、1000万人を超え、人類史上最初のメガシティとなったのです。

その後、世界恐慌の時代となり、第二次世界大戦に突入するとさすがのニューヨークも元気がありませんでしたが、やがて大戦が終わり、多くの兵士が復員してくると、戦後経済の勃興が始まり、クイーンズ東部などでは広大な住宅地域の開発が進むようになります。

ヨーロッパや日本の大都市のように大戦によって空襲などの被害を受けなかったニューヨークはやがて世界の中でも最高といわれる文化をはぐくむようになり、ウォール街などを中心とする金融の世界はアメリカを世界経済の覇者へと押し上げます。

1950年には、国際連合の本部の誘致に成功。国際連合ビルがこの地に完成し、この設置はニューヨークの政治的影響力を世界中に知らしめました。ニューヨークで生まれた抽象表現主義は、この街をパリに代わる世界の芸術の中心地へと変え、文化の面でも世界の中心といわれるようになってきます。

しかしその後、1960年代、ニューヨークは経済的停滞、犯罪率の上昇、人種間対立の高まりに苦しみ、1970年代にそのピークを迎えます。おそらく世界恐慌以外ではニューヨークが最も暗く沈んでいた時代はこの時代だったでしょう。

私もなんとなく覚えていますが、この当時のニューヨークは世界中の人達から犯罪の巣窟のように思われていて、とくに外国人旅行者には敬遠されていた町でした。

ところが1980年代になり、金融業の盛り返しによって市の財政は改善を見せるようになります。1990年代までに、人種間対立も緩和し、犯罪率は劇的に下落し、治安もよくなったことからアジアとラテンアメリカからの新しい移民が流入するようになり、2000年にはニューヨークの人口は史上最高に達しました。

その後のニューヨークは我々もよく知るニューヨークです。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではワールド・トレードセンターの倒壊で、3000人近くの人が命を落とし、アメリカはこの事件をきっかけとしてイラク、アフガニスタンなどの軍事紛争地帯への介入を始めます。

そして現在。オバマ大統領の就任によってアメリカはこれらの泥沼から足を引き上げようとしています。

が、その先はどこへ行くのでしょう。そしてその中心地ニューヨークの将来は……?

ハリケーンサンディがニューヨークを襲った昨年10月末から遡ることほぼひと月前の2012年9月27日、マイケル・ブルームバーグ市長は、市の南西部にあるスタテン・アイランド北岸に、世界一高い観覧車を建設すると発表したそうです。

現在、世界一の観覧車はシンガポールにある「シンガポール・フライヤー」だそうですが、この高さが165mであるのに対し、3年後の2015年内にニューヨークにお目見えする予定の観覧車の高さはこれを抜いて190mになるそうです。

「ニューヨーク・ホイール」と名付けられる予定とのことで、アウトレットモールやホテルと一緒に開発するとか。おそらくここからはその北側に自由の女神像やニューヨーク港が手に取るように見え、ロウアー・マンハッタンの地平線を一望できるはずであり、従来対岸のマンハッタンやブルックリンに集中していた観光客もここへ足を延ばしてくるようになるに違いありません。

数限りない魅力のつまった世界一の大都市NYCにまた新しい魅力が加わると聞いて、今からもうワクワクしている人も多いのではないでしょうか。ニューヨークの未来は案外とこれまでの歴史にはない、「観光都市」なのかもしれません。

……さて、長々と書いてきて、振り返ってみれば、私はまだまだそのスタテン島で亡くなった方々の原因を調べる調査中…… このあとまだまだ3月一杯はこの仕事に振り回されそうです。が、こうして色々調べものもして多くを学んだこの町を、なんだか無性に訪れてみたくなりました。

2015年といえばあと2年。そのころまでにもしニューヨークを訪れる機会があり、まだこのブログを続けていたらぜひまた、この観覧車の話題を書いてみたいと思います。

そんな私も来週にはもう5×才。さて、お誕生日には何をご馳走してもらいましょう。ニューヨークステーキなんてのもいいかもしれませんね。

サンディ


雨が降ったりやんだり、その合間に晴れ間も出て昨日はよく富士山が見えるな、と思っていたら今朝はまた雨です。

この繰り返しによってだんだんと暖かくなるといいますが、たしかに最近朝晩の冷え込みは少しやわらいできました。

昨日、二人で三島へ出かけた帰り道、日没直後で温度が下がりはじめる時間帯ではあったのでしょうが、三島にいたときには10度前後だった気温が、山の上の我が家に帰ってくると3度になっていました。

なので、暖かくなってきたとはいえ、ここ伊豆でもこの地はかなり寒い場所と考えてよいでしょう。おそらく伊豆で一番寒いのは天城山のあたりで、ここと三島を結ぶ直線の四分の一ほど天城山よりの我が家のある修禅寺あたりは、天城山に次ぐ寒さということになるのではないかと思います。

さて、ここ数日チョー忙しくてブログの更新がなかなかできていません。忙しい理由は、急な仕事の依頼があり、その中間締切が迫っているためでもあります。

この仕事の内容というのが、昨年10月にアメリカを襲ったハリケーン・サンディの被害状況とこれに対する政府自治体等の対応をまとめる、というものです。

ニューヨーク界隈だけで70人以上の死者を出し、2005年にニューオリンズを襲ったカトリーナに次いで米国史上二番目の被害を及ぼしたといわれるハリケーンですが、日本人居住者には被害がなかったことから、日本のニュースでもあまり取り上げられることはありませんでした。

今その全貌を調査している真っ最中なのですが、この嵐はアメリカに上陸する直前に熱帯低気圧になったため、雨や風による直接的な被害は比較的少なく済んだものの、台風の通過に伴って著しい海面上昇があり、これと高波が重なりあって高潮となり、これがニューヨーク一帯を襲ったことによる被害が甚大でした。

台風やハリケーンというのは、いわば低気圧が巨大になったものです。「低気圧」というのは読んで字のごとく、低い気圧の空気の塊であり、気圧が低いためにこれが海面にあると、海水面がその部分だけ盛り上がります。

天気図をみると、台風の目を中心とした渦巻き状の巨大低気圧があるのを誰しもがみたことがあると思いますが、これを立体的に少し誇張してみてみると、この周辺の海面は台風の目を中心として山のように盛り上がっていることになります。

1hPa下がる毎に海面は約1cm上昇するといわれており、例えば気圧が980hPaの台風の場合、1気圧(1013hPa)よりも33hPa低いので約30から33cm程度の上昇が見られるということになります。

ハリケーンサンディの場合にはこの最低気圧が946hPaといいますから、最大で60~70cmほど海水面が盛り上がったということになり、腰ぐらいの高さですが、この数字を見る限りではたいしたことないじゃん、と思われるかもしれません。

しかしこれはあくまで沖合の洋上の数字であり、ここで発生した波はより浅いところにくると更に大きさを増し、海岸線を襲います。海岸に近づいた波は浅くなればなるほどその波高を増し、遠浅の海岸ならば、ある一定の水深まで来たときに砕け(これを砕波といいます)、ここからは更に波高を増幅させます。

地図をみると良くわかると思うのですが、ニューヨークは東京と同じく海に面した町です。
ニューヨーク湾の入口から北に向かってはハドソン川があり、この川を中心として町の中心街が広がっていますが、湾口から入った高波は高潮とあいまって更に高さを増しながら市内に侵入。とくにハドソン川の右岸のジャージーシティーなどで深刻な被害をもたらしました。

また、ニューヨーク湾の入り口から東に向かってはロングアイランドという細長い半島状の地域があり、背後には住宅街などが立ち並んでいますが、ここにも高潮が押し寄せ大きな被害を出しました。

さらにヨーク中心街から10kmほど西南に位置するスタテン島という島があり、ここはニュージャージー州と狭い海峡を隔てた島なのですが、人的な被害はここに集中し、ここで40人以上の人が亡くなりました。

ニューヨーク港では最大約10mもの潮位が観測されたといい、これは津波にも匹敵するほどの高さの大波です。しかも当日は大潮と重なっていたといい、これが市内へ海水が流入するのをさらに助長しました。

ニューヨークは地下鉄の発達した町です。市内を走る地下鉄はMTAという交通局が管理運営しており、ハリケーンの到来を予測して予め電車は安全なところに避難させ、海水が浸入してきそうなところは土嚢などを置いて予防措置をとっていました。が、それでも高潮はこれを乗り越えて侵入。この浸水によって7本の地下鉄トンネルが水没し、ほかにも市内では二カ所で道路トンネルが水没しました。

地下鉄の車両基地や駅も浸水し、さらに信号機などの運行システムにも著しい被害出ました。ニューヨークの地下鉄の設備は非常に古いものが多く、もっとも古いものでは100年以上も前のものもあるということで、今回の海水の浸水によって清掃しても使えない場合、新規に調達が難しく、復旧までに更に時間を要する可能性があります。

トンネルなどの排水作業には陸軍の工兵隊が出動し、50mプールを15分で排水できるポンプをはじめ、数百台のポンプによってが排水作業が行われたといいます。

さらにはニューヨークを中心とした地域では広範囲にわたって停電となり、ひどいところでは1週間近く電気がつかえなかったといい、またこの真っ暗闇の中、火災がおき、ニューヨーク市のクイーンズというところでは住宅111戸以上を含む大規模火災が発生しました。

ニュース報道によると、最大風速79マイル/h、つまり時速126kmという想像もつかないような突風が観測されたといい、これが火災規模を拡大したようです。高潮により道が5フィート程度(約1.5m)浸水しており、消防隊が迅速に現場に駆けつけることができなかったというのも被害拡大を招いた要因のようです。

さらには空の便も被害を受けました。ハリケーンがニューヨークを襲った10月28、29日だけで6800便のフライトがキャンセルされ、ニューヨークのJFK空港、LaGuardia空港、ニュージャージーのNewark空港が閉鎖しました。各空港とも滑走路が浸水したため飛行機を飛ばせなくなり、ニューヨークの主な空港は全て閉鎖され、キャンセルされたフライトは合計19000便以上に達したそうです。

ニューヨークだけでなくなった方は70人以上となり、高齢の方が多いのかと思いきや、若い人も結構多く、その死因は強風によって倒れてきた倒木の下敷きになったという人も案外と多く、その他は侵入してきた高潮によって逃げ場を失いおぼれ死んだ溺死でした。前述の火災によって亡くなった方もかなりの数にのぼるようです。

……というようなことをいままとめているところなのですが、この調査のそもそもの目的は、こうした被害に至るまでい政府や自治体の関係者がどういう行動をとったか、どういう情報をいつの時点で得て、適切な行動をとれたかどうか、というところです。

日本も東京湾は海に面しており、ここにサンディのような大型の台風がやってきたら、単に都市機能がマヒするだけでなく、多くの犠牲者が出る可能性があります。

この調査はそうしたときに行政がそのそしりを受けないように、あらかじめできるだけ調査して準備するための基礎資料というわけです。

……というわけでこうした調査モノとしては最新の情報をみなさんにお届けできるだろう、ということで、みなさんにも有用な情報になろうかと思います。

守秘義務あるので、調査で知り得たことをあまり大っぴらなことは書けませんが、また面白いと言っては何ですが、調査を進めていく中でみなさんの防災のお役に立ちそうな情報があったら、役所に報告する前にこのブログでも書きましょう。

今日はこれから都内で打ち合わせです。忙しくなりそうです。

祝!5周年


今日は、2月14日ということでバレンタインデーなのですが、我々夫婦二人にとっても特別の日です。そう、5年前の今日、入籍をした結婚記念日でもあるのです。

実際の結婚式はその4か月後に厳島神社で挙げているので、今日が結婚記念日本番というかんじでもないのですが、やはり節目ということで、それなりのお祝いはしようと思っており、今日は腕をふるってご馳走でも作ろうかな、と考えているところです。

今日を入籍記念日に選んだのは無論、この日がバレンタインデーだからであり、たまたま時期的にもちょうどそのころ籍を入れようかなと思っていたためなのですが、実際のところはその詳しい意味も知らずになんとなくこの日にした、というのが本音です。

他のブログなどでもそのエピソードはいろいろ紹介されているでしょうから、あえてここでその起源について詳しくは書きませんが、「バレンタイン」という言葉の語源となったローマのキリスト教司祭、「ウァレンティヌス」はローマ帝国の皇帝が禁止していた結婚禁止令に反して、兵士を結婚させたかどで処刑されたとされています。

ローマ帝国皇帝は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由でこの禁止令を出したそうですが、この法を犯したウァレンティヌスは、古代ローマの結婚を司るか女神の「ユノ」を祀る「ルペルカリア祭」の前日である2月14日をあえて選んで処刑されました。祭りに捧げる生贄として処刑されたという説もあるようです。

このウァレンティヌスという人物が本当にいたのかどうか、というところもいろいろ取沙汰されているようですが、ともかくもキリスト教の聖人がローマ帝国から迫害された日ということで、キリスト教徒にとってはこの日を祭日とするようになり、その後長い時間を経て恋人たちの日となったというのが一般論です。

現在でもヨーロッパを中心として恋人たちの愛の誓いの日とされていて、世界各地でこの風習を受け入れている国がありますが、そもそもヨーロッパなどではこの日は、男性も女性も、花やケーキ、カードなど様々な贈り物を、恋人や親しい人に贈ることがある日である、ということはご存知の方も多いでしょう。

贈り物の種類はさまざまですが、その中にチョコレートも贈る習慣ができたのは、19世紀後半のイギリスの菓子会社、キャドバリー社が1868年に美しい絵のついた贈答用のチョコレートボックスを発売し、これと前後してハート型のバレンタインキャンディボックスも発売したのがはじまりです。

このキャンディボックスは結構人気を呼び、やがてバレンタインデーの恋人などへの贈り物に多く使われるようになり、後に他の地域にこの風習が伝わっていったということですが、英語圏では固形チョコレートの一種のことを「キャンディ」として扱うこともあることから、この製品のことを「キャンディボックス」と表記したようです。

日本でバレンタインデーにチョコレートを贈る風習は、1958年ころから流行しはじめ、最初は戦前に来日した外国人によって一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられましたがあまり定着しませんでした。

現在のようにこの時期の「風物詩」として日本社会に定着しはじめたのは、1970年代後半のことであり、もともとのヨーロッパでは男性も女性もお互いに贈るという風習であったものが、日本では主として女性が男性に贈呈するという様式が成立したのもこのころのことのようです。

以後、毎年のようにデパートや百貨店、最近では普通のスーパーマーケットでも繰り返される販売合戦をみると、ああ今年もそういう季節か……と思うのですが、菓子メーカーの戦略に毎年踊らされているような気分にさせるこの風習に対し、何やら諦念のようなものを覚えるのは私だけでしょうか……

とはいえ、ここであえてこの風習に異論を唱える元気がないのは、私自身もチョコレートが大好きな口のためでしょう。

会社勤めをしていたころは、その日が来るまでには別に欲しいとも思わなかったものが、当日になると女性の同僚たちから大量の「義理チョコ」をいただき、これを持ち帰って酒のつまみにしているとき、まんざらでもないような気になったものです。

別に女性に囲まれハーレム状態になっているわけでもなく、そうした気持ちになるのはやはりこの「贈答品」がそもそもは女性が男性に愛情の告白としての象徴であることを知っているからにほかなりません。悲しい男性の性、妄想にすぎないのですが……

まあそのよしあしはともかく、自分で買って食べる「自己チョコ」よりも人にもらって食べるチョコのほうがおいしいのには間違いなく、その後会社勤めを辞め毎年貰えるチョコの数が減ったというよりも、タエさんだけになったのは少々寂しい気分なのは確か。

が、今年もそのありがたい贈答品をいただけるのでしょう。神様仏様タエコさまと唱えながらありがたくいただくことにしましょう(あとが怖いけれども……)。

さてこのチョコレートですが、その歴史は古く、紀元前2000年ごろから主に中央アメリカにおいて栽培されていたカカオがその起源のようです。アメリカ先住民族の間で嗜好品や薬用として珍重され、貨幣として使用する地方もあったそうですが、食べ方というよりもこの当時は飲み物だったようです。

その飲み方というのも当初はコーンミールやトウガラシを入れるのが普通だったということで、雑穀米で造ったおじやみたいなものでした。

その後、カカオ豆がヨーロッパに伝えられると、このおじやは次第に現在のチョコレートに近づいていきます。

カカオは1492年にクリストファー・コロンブスによってヨーロッパへと紹介されます。1492年というと日本では室町時代のことで、このころからその後の戦国時代の有力武将たちが次々と生まれている時期です。

ヨーロッパでは、アステカ帝国などの中央アメリカ諸王国を滅ぼしてこの地方を支配したスペイン人が大躍進していた時代で、ココアはこのスペイン人の間でその形を変え、人気のある食べ物になっていきます。そして彼らを通じ、次第にヨーロッパ大陸全土にも浸透していきました。

この過程で、スペイン人はチョコレートの苦味を打ち消すためにトウガラシの代わりに砂糖を入れるようになり、この調法が他のヨーロッパの国々に伝わる際も引き継がれました。当初、チョコレートは薬として扱われていたようですが、砂糖を入れることによってかなり風味が変わるため、その後徐々に嗜好品へと姿を変えていきました。

17世紀中ごろにはイギリスに到達し、そのころ隆盛したコーヒー・ハウスにおいてもさかんに供され、このころまでにもまだチョコレートは飲み物でしたが、18世紀までにはヨーロッパの王侯貴族や富裕層にとって贅沢な飲み物として受け入れられるようになります。

19世紀の初頭にもまだチョコレートは飲み物でしたが、その後次々と技術革新が起こります。

まず、1828年(文政11年)にはオランダでココアパウダーとココアバターを分離する製法が確立され、さらにカカオにアルカリ処理を行うことで苦味を和らげる方法も考案されます。現在でも「ホットココア」として飲まれているココアがこれにあたります。

続いて1847年(弘化3年)にイギリスではじめて、固形チョコレートが発明され、続いて1875年(明治8年)にはスイスでミルクチョコレートが開発されました。日本では幕末から明治にかけての時代であり、こうしてみると現代のチョコレートの原型が発明されたのはそう古くない時代であることがわかります。

さらに1879年(明治12年)には同じスイスで「コンチェ」と呼ばれる機械が発明され、これによりそれまでのチョコレートの舌触りがざらざらしていのに対し、より滑らかな口当たりのものへと劇的に変化するようになりました。

これは、このコンチェによってチョコレートの製造の際にココアバターを撹拌士して均一に行き渡らせることができるようになったためであり、これによりチョコレートの粒子を滑らかにしたり、摩擦熱およびその放出によりチョコレート独特の風味を出したりすることができるようになりました。

これらの一連の発明は「チョコレートの4大技術革命」とも呼ばれ、これらの新技術によってカカオ豆の利用法は、飲み物のココアから、固形チョコレートが主流になっていきました。

19世紀後半までには、ヨーロッパでのチョコレート製造は、家族的な小企業や職人による生産から大企業による工場での大量生産へと発展していきます。このころ生まれたチョコレート製造会社には、スイスのネスレ社、リンツ社、カイエ社やイギリスのキャドバリー社、ロウントリー社、アメリカのハーシー社などの大チョコレート企業があります。

やがて安定して大量生産された規格品チョコレートの供給によりチョコレートの価格は下がり、一般市民が気軽に楽しめる菓子となっていき、一方ではベルギーやフランスなどを中心に「ショコラティエ」なるチョコレート専門の職人も現れるようになり、高級チョコレートが流通するようになりました。

一説によれば、日本人で初めてチョコレートを口にしたのは、伊達政宗の命により慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた支倉常長だそうです。

1617年(元和3年)、当時はヌエバ・エスパーニャと呼ばれていたメキシコにヨーロッパからの帰路に立ち寄った支倉常長はその際、ビスケット・パン・コーヒー・金平糖・キャラメルなどの菓子とともに、薬用としてのチョコレートを味わったといわれています。

その後、江戸時代にも18世紀の長崎の遊女がオランダ人からチョコレートを貰ったという記録があるそうで、オランダ人から貰った品目リストの中に「しょくらとを」の記述がみられるということです。固形チョコレートがヨーロッパで発明されたのが1847年(弘化3年)のことですから、時代的にも辻褄があいます。

さらに明治に入ってからは、1873年(明治6年)に岩倉使節団がフランス訪問中にチョコレート工場を見学し記録を残し、次のように書き残しているそうです。

「銀紙に包み、表に石版の彩画などを張りて其(それ)美を為す。極上品の菓子なり。此の菓子は人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり」

こうして日本にも輸入もののチョコレートが流通するようになりましたが、日本初の国産チョコレートは、今も老舗の菓子屋として残る「風月堂」の総本店の主、5代目大住喜右衛門が、当時の番頭である米津松蔵に横浜で技術を学ばせ、1878年(明治11年)に両国で発売したものだそうです。

新聞に掲載した日本初のチョコレートの広告には「貯古齢糖」の字が当てられていたといい、このころ既に現在の読みの「チョコレート」に近い発音をしていたことがわかります。

ところで、この風月堂ですが、この菓子屋は初代の小倉喜右衛門(後に改姓して大住喜右衛門)が大阪より江戸に下り、1751年(寛延4年)に江戸・京橋鈴木町に開いた「大坂屋」が起源です。

初代には子供がなく姪を養女に迎えましたが、どういういきさがあったのかわかりませんが、その後この養女の「恂(じゅん)」は、その後唐津藩主の「水野忠光」の側室となり、この二人の間に生まれたのが、なんと後の老中の「水野忠邦」だそうです。

しかしやがて忠光が亡くなり、出戻りとなった恂が夫として迎えたのが2代目喜右衛門だそうで、水野忠邦にとってはこの2代目が義理の息子に当たるというわけで、大坂屋はその後忠邦をはじめとする諸大名に気に入られ、時の老中の松平定信から「風月堂清白」という5文字の屋号を賜ることとなり、これが現在の「風月堂」となりました。

このとき「大坂屋」の名前を継承するために「大」の字だけを残して「小倉」という姓も「大住」へと改名し、現在まで継承されているということです。

風月堂は現在、上野に本社がありますが、この2代目大住喜右衛門が「風月堂総本店」を開業したのは京橋南伝馬町だったということです。

その後、カカオ豆から製品までのすべての行程を一社で担う「一貫生産」を初めて行ったのが、現代でも日本の最大の菓子メーカーのひとつである「森永製菓」です。1918年(大正7年)からのことだそうで、こうしてチョコレートは高級品から庶民の菓子となっていき、1920年代から30年代にかけて日本人の間に急速に普及していきました。

この当時のチョコレート菓子はまだ、いわゆる「チョコボール」と呼ばれる丸玉チョコであり、ほかにも「棒チョコ」といった形状が一般的だったそうです。

ところで、この森永製菓の創業者の森永太一郎という人は、なんと現総理大臣の安倍晋三さんのご婦人、昭恵さんの曽祖父にあたるそうです。

1865年(慶応元年)に佐賀県伊万里市で生まれで、生家は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋であり、伊万里湾の漁業権を握る網元でしたが、父の代には家勢も衰え、父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。

親類の家を転々とする幼少時代を過ごしますが、やがて商人だった伯父の山崎文左衛門に引き取られ、商人の心構えを教え込まれます。横浜の陶器問屋で数年を過ごしたのちなんとアメリカでの焼き物の販売を目論み、一念発起で渡米!

しかしその販売は失敗に終わり、一度は日本に帰国することになりましたが、その後夢をあきらめきれずに再び渡米し、この時学んで帰ったのが菓子作りの技術だったそうで、このときすでに35歳でした。

帰国後1899年(明治32年)に現在の森永製菓の前身となる「森永西洋菓子製造所」を東京赤坂に設立し、当初は主にマシュマロを製造していたようですが、後にキャラメルを主力製品とするようになります。チョコレートを販売するようになったのは森永太一郎氏が53歳のときのことで、この商品のヒットにより、現在の「大森永」の礎が築かれました。

成功後の晩年はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごしたそうですが、その背景には二度目の渡米の際の苦労があるようです。

再度の渡米でも商売は思うようにはいかず、やけになっていた太一郎氏が酒をあおって、公園のベンチに寝ころがっていたとき、目に飛び込んできたのがキャラメルの包み紙だったそうです。これを見てはっと気が付いた彼は、雇ってくれる菓子工場を探してかけずり回ったといいます。

しかし、日本人をやとってくれるところはなかなかみつからず、生きていくためしかたなく農園やホテル、邸宅などを転々として力仕事をするなか、めぐりあったのがひとつのキリスト教会でした。

そしてその教会に通いながら熱心なキリスト教信者になっていった太一郎氏の願いが神に通じたのか、ついにキャンディー工場に働くことができるようになりました。パンやケーキの作り方を身につけたい一心から、昼も夜も働き続けましたが、白人の職人からはひどい差別を受けたといいます。

そしてその苦労が結実したのが現在の森永製菓というわけです。

その後の日本には、明治製菓などのライバル会社もでき、戦後は進駐軍が大量のチョコレートを日本に持ち込んだこともあって、今やチョコレートは日本人にとってはなくてはならないと言ってもよいほどの嗜好品になりました。

嗜好品とはいえ、質量あたりの熱量が大きく携行が容易であることから、固形チョコレートは軍隊のレーションに同封されたりしました。進駐軍が日本に駐留していたころに、「ギブミー・チョコレート」の子供たちの要請に応じて、アメリカ軍の兵士たちが配っていたのがこうしたチョコレートです。

カロリーや栄養価が高いわりには軽量でコンパクトなため、現在でも登山などの際の非常食として携帯されたりします。カロリーの面だけでなく、非常の際に甘味や含まれている「テオブロミン」という生分が心身の安らぎをもたらすという意味合いも大きいといいます。

テオブロミンの含有量はカカオ分99%のチョコレート100gあたり1100mgも含まれているそうなので、イライラしているときにはチョコレートを食べるといいのかもしれません。

一方では、チョコレートを食べるとニキビができるというお話もあるようですが、これは迷信ではないかといわれており、科学的根拠はないそうです。ただ、脂肪分を40%と多く含むことやカフェインのほかに「チラミン」と呼ばれる物質が含まれていて、このチラミンは、血管性浮腫を引き起こす刺激物だそうです。

血管性浮腫とは、じんま疹や赤みやかゆみみのことで、チラミンにより血管の収縮が起こるためにこうした症状が出ることがあります。

一方ではその効果が切れると急激に血管が拡張するため、食べ過ぎると鼻の粘膜が腫れて鼻血が出るという話もあることはあるようです。同様のメカニズムで収縮のあとの急激な脳血管の拡張により片頭痛が起こることがあるそうなので、チョコレートが好きな方の中には案外と頭痛持ちが多いのかもしれません。

また、「チョコレートアレルギー」というのもあります。これもチラミンが原因の「カカオアレルギー」であり、チョコレートがたくさん入っている食品には「食物アレルギー」の可能性があることを示す表示を行う義務があるそうです。

もっともミルクやピーナッツもアレルギー食品なので、これらが入った「ピーナッツ入りミルクチョコレート」を食べてアレルギーになった人が本当にチョコレートが原因でその症状を引き起こしているかどうかはわからないみたいですが。

なお、チョコレートの原料のカカオにはニッケルも含まれているため、これに対してアレルギー体質を持つ人も症状が出るようです。その症状は、下痢、嘔吐、鼻血、腹痛、痙攣など様々であり、アナフィラキシーショックを起こして死亡した例も日本では報告されているそうです。

ただし、カカオアレルギーとニッケルアレルギーは別のものであり、チョコレートを食べてアレルギーを起こす人が必ずしもニッケルアレルギーを有するというわけではないそうです。

ちなみに、イヌやネコ、鳥類などヒト以外のほとんどの動物はチョコレートを食べると中毒を起こします。これは、チョコレートやココアなどに含まれるテオブロミンを代謝できないことが原因で、死に至ることもあるそうです。人間にとっては気分を和らげてくれる薬用成分も、イヌネコでは劇薬になるわけです。注意しましょう。

とはいえバレンタインデーの今日、愛する愛猫のテンちゃんにまでチョコレートをあげる必要はありません。ネコにはネコにふさわしく鰹節をあげることにしましょう。

まだまだ寒い中、日があたらないときにはコタツの中に潜り込んでいることの多い彼女ですが、これから春の日差しが照らすようになるとそれはネコの季節です。今年もあちこち春先にネコがなくことでしょう。

ときにうるさくて眠れないほどのときもあります。そんなときは、愛情をこめて、チョコレートをあげてみましょうか !??

菜の花の忌


最近、少し日が長くなってきたようです。一日の活動時間も少しずつ長くなっていくようで、寒さも和らいできたこともあり、これからは少し外出する機会も増えそうです。

人も日を浴びると活動的になると同じく、植物もそうで、庭の木々を見ていると、新芽をたっぷりとたたえたものも多くなり、もうすぐ春だなと感じさせてくれます。

伊豆のあちこちで梅や河津桜が咲いたという便りが届くようになり、こうした中高木ばかりでなく、水仙の花や菜の花が咲くのもあちこちで見られるようになってきました。先日も近くの大仁梅林に出かけてきましたが、梅はまだまだだったものの、梅の木の下にはたくさんの水仙の花が咲き誇っていました。

ところで、忙しくて書けなかったのですが、昨日は「菜の花忌」だったようです。作家の司馬遼太郎さんが亡くなった日です。

1996年(平成8年)1月12日といいますから、もう17年前のことになります。この日司馬さんは、ちょうど「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終えたころだったそうで、2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなられました。

72歳という年齢は、ファンとしてはまだまだこれからなのに……といったお齢であり、かえすがえすも残念なのですが、もし生きておられたらどんな小説を書いておられたかな、と思い、最晩年の作品群をちょっと調べてみました。

すると、長編小説としては、「韃靼疾風録」(1987)が一番最後の作品であり、この二年前には、「菜の花の沖」を執筆されています。韃靼疾風録は、清の初代皇帝「ヌルハチ」などの生涯を描いたもので、この作品で司馬さんは第15回大佛次郎賞を受賞されています。

その4年前にも三国志の世界を描いた「項羽と劉邦」を書かれており、さらに少し前には中国に渡った空海のことを描いた「空海の風景」なども書かれていますから、その晩年の興味は中国のほうへ移っておられたのかもしれません。

しかし、その一方で、1982年には、「菜の花の沖」を書かれており、これは江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛を描いたもの、また1984年には、北条早雲の生涯を描いた「箱根の坂」なども書かれており、日本人として歴史上活躍した人物を描くことも忘れてはいなかったようです。

ちなみに命日の「菜の花忌」は、司馬さんがとりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったことからつけられたようで、またこの晩年の作品の「菜の花の沖」にもちなんでいるそうです。

これら一連の長編小説を書いたあと、「韃靼疾風録」を最後に司馬さんは小説を書くことをほとんどやめており、このあとは「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ「風塵抄」、「この国のかたち」といった随筆作品に絞り、日本とは何か、日本人とは何かをテーマにした文明批評を中心とした執筆活動ばかりをされるようになりました。

実は司馬さんには大変失礼なのですが、私自身はこの一連の晩年の作品はあまり好きではありません。「菜の花の沖」や「箱根の坂」はそれなりに楽しんで読ませてもらったのですが、もっと若いころに書かれていた作品にみられたような強烈なインパクトがなく、登場人物の描写も凡庸であまりのめり込むことができないというかんじを持ちました。

無論、北条早雲や高田屋嘉兵衛といった、いわば歴史に埋もれていたような人物のお話であったためにいまひとつその生涯に興味が持てないというのもあります。

しかし、司馬さんの若いころの作品によくみられたような、司馬さんの登場人物への興味というか愛情がストレートに我々に伝わってきて、そのストーリーにぐいぐいと引き込まれていくというかんじがなんとなくみられない作品のように思いました。

司馬さんの作品には、司馬さん自身が解釈された歴史を大局的に見た見解が書かれることが多く、こうした「史実」を集めてきた膨大な資料の中から抽出してきて、これを面白おかしいゴシップとして披露する、というのが司馬さんのスタイルでした。

そうすることで登場人物を鮮やかに描きだす点が特徴的であり、しかもそういった工夫をしながらも、自分自身はいかにも「興味がない」といった読者を突き放したような書きぶりが魅力的で、そうした記述には類まれなるユーモアがありました。

「余談だが……」とか「閑話休題」といったかいった切り口で、時々物語から大いにお話が脱線しはじめると、本論とはまったく関係ないエピソードが延々とはじまり、その中には司馬さん自身の個人的な経験談も含まれていて、これがまた物語とは全然関係ない話であるだけに新鮮で面白い!とよく感じたものです。

しかし、司馬さんの晩年の作品をみると、登場人物の描写よりもむしろこの余談的随筆のほうが主題になっているような傾向があり、その余談もまたかなり「くどい」ことが多く、若いころに書かれていたような物語性の強い作品とはまた別の作品群ができあがっていったように思われます。

一介の読者にすぎない私が司馬さんのような大作家を批評するなどというのはとんでもないことなのですが、これら晩年に書かれた小説群以降の随筆のいくつかは読んだものの、どうしても興味を覚えることができません。

このため司馬さんが晩年に書かれたものは「街道をゆく」「アメリカ素描」」などのごく一部で、「街道をゆく」も全部を読んだわけではなく、自分に興味のあった「長州編」とあといくつかしか読んだ記憶がありません。

晩年の司馬さんは、1981年(昭和56年)には日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)には文化勲章を受章するなど、文学の世界を登りつめたような感があり、そうしたきらびやかな境遇がむしろその作風をゆがめてしまったのかな、と個人的には思ったりもしています。

ちょうどこのころから、腰に痛みを覚えるようになってきたといい、当初、坐骨神経痛と本人は思われていたようですが、実はその後の直接の死因となる腹部大動脈瘤であったそうです。

それでも「街道を行く」などの取材のために、台湾にまで出かけ、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談を行ったり、同じ「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続け、最晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたそうですが、とうとうこれに手をつけることなく、突然のようにその死は訪れました。

亡くなられた国立大阪病院は、奇しくも若かりし頃に執筆された「花神」の主人公、大村益次郎が暴漢に襲われ、その治療中に最後を遂げた場所であったそうです。

親族・関係者による密葬を経て大阪市内のホテルで行われた「司馬遼太郎さんを送る会」では約3000人もの人が詰めかけたそうなので、その数からみると当然知人ばかりではなく、熱烈なファンが多数含まれていたことでしょう。

政府からは、「従三位」が追賜されたということで、自身が「官位」を得たということを、しばしば歴史上の権力者を痛烈に皮肉っていたりしていた司馬さんはどう思われたでしょうか。

翌年に司馬遼太郎記念財団が発足し、司馬遼太郎賞が創設され、2001年(平成13年)に、はご自宅のあった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館。

6万冊に及ぶご本人の蔵書、資料、執筆に使用した書斎が晩年に使用した時のまま残されているそうで、直筆原稿、自筆の絵、色紙、加えて、眼鏡、万年筆、バンダナなどの身の回り品も展示されています。書斎は庭からも見学することができるといい、この庭は司馬さんが好んだという雑木林をイメージしたものだそうです。

記念館の展示室は、建築家の安藤忠雄さんが設計されたそうで、蔵書のうち約2万冊、及び多数の自著が高さ11mの書架に納められているということなのですが、展示室の建物奥のコンクリートの天井には、司馬さんが若いころに書かれた作品「竜馬がゆく」の主人公、坂本龍馬の肖像写真に似た「シミ」が浮き出ているということで話題になっているとか。

あまり大阪に足を運ぶ機会もないのですが、行くことがあったら私もぜひこのシミとやらを見てみたいと思っています。もしかしたら何等かのスピリチュアル的な意味があるのかしらん。

ところで、司馬さんの作品のなかからNHK大河ドラマ原作となった作品も多く、三年がかりで放映された「坂の上の雲」を含めると司馬さんの原作作品は7作品もあるそうです。

時代別にみていくと、

「竜馬がゆく」1968年 主演:北大路欣也)
「国盗り物語」1973年 主演:平幹二朗)
「花神」1977年 中村梅之助)
「翔ぶが如く」1990年 主演:西田敏行)
「菜の花の沖」2000年 主演:竹中直人)
「功名が辻」2006年 仲間由紀恵)
「坂の上の雲」2009〜2011年 主演:本木雅弘、阿部寛、香川照之

ですが、惜しいかな私は、この最初の「竜馬がゆく」だけを見ていません。それもそのはず、この当時まだ小学生であり興味がわかなかったのは当然。

しかし、その後の国盗り物語からはすべての作品を見ており、とくにこの国盗り物語が放映されていたころまだ中学生だった私はこれに夢中になり、日曜日に放映されている正規版とは別にその翌週の土曜日の午後の再放送も欠かさず食い入るように見るほどのファンでした。

ちなみに亡くなった昭和天皇もこの作品の大ファンだったそうで、スタジオ収録の訪問を希望し、桶狭間出陣前夜のシーンを直接観覧しています。

高橋英樹、松坂慶子、林隆三などに「見てるよ、見てるよ」と親しく声をかけて歓談したということで、スタジオセットの木々を見て「よく育つね」「ここで馬も走らすの」と実に楽しそうであったという逸話が残っています。

昭和天皇は、後日原作者の司馬遼太郎にも会っており、「あそこはテレビと原作では違うの?」などと質問するなど、この作品への愛着は相当のものだったようです。

私が夢中になったこの作品は、司馬遼太郎の長編小説の中でもとくに構成に破綻がなく秀作であると評されることが多いそうで、1960年代から80年代にかけてテレビでの解説でも知られた経済学者の伊東光晴氏らが1994年に選んだ「近代日本の百冊」(講談社)の中にもこの作品が入っています。

ところで、この大河ドラマとしては一番最後に放映された「坂の上の雲」に関しては、司馬さんは生前これを映像化することを嫌がっていたという逸話があります。

連載中から「本作を映像化させてほしい」とのオファーがテレビ会社各社から殺到していたというほどの人気作品だったのですが、司馬さんとしては「戦争賛美と誤解される。しかも映像ではこの作品のスケールを描ききれない」といって、頑としてこの映像化を許可しなかったそうで、NHKもそのオファーを行っていた一社でした。

NHKからの申し出を受け、司馬さんは2週間考えたそうですが、その末の結論は「やっぱり無理やで」だったといい、以後、司馬さんが亡くなるまでは映像化されることはありませんでした。

ところがその死後、NHKは「総力を挙げて取り組みたい」との希望を、この作品の著作権を相続した福田みどり夫人に申し出ます。そして映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったことなどを熱意をもって夫人に話したところ、夫人側も折れ、1999年には司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾する形でOKがでます。

その後、2002年には志願したスタッフを中心に製作チームが結成され、2003年1月、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました

ところが、2004年6月にこの作品の脚本作成を担当していた野沢尚氏が突然死去。

自殺でした。

この人はテレビドラマの脚本で高い評価を受け、北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られており、1998年には第17回向田邦子賞受賞しています。

自殺の2か月前に放送されたテレビドラマ「砦なき者」では、自身の思いを表現したかったのか、登場人物によるテレビへの絶望が描かれているということで、自殺した際に知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されたということでした。

加えて、この作品の映像化を推進した海老沢勝二会長がこのころちょうど問題になっていたNHKの不祥事問題などを理由に辞任。と同時にこれが引き金となってNHKへの受信料不払いが相次いつぐなどの社会現象がおこります。

さらに野沢尚氏は脚本の初稿をほぼ書き上げていましたが、司馬さんをもってして「映像化は不可能」といわしめた難しい作品を仕上げるためには最新技術のCGなどの多用が予想され、制作費が高額となることが必至であったころから、NHKとしては当初のままの放映は難しいと考えるようになり、その制作体制が再検討されました。

その結果として、脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに再度見直して完成させ、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することに決定。

また、栄えある司馬作品ということで「冠」にする予定であった「スペシャル大河ドラマ」という呼称も改め、「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という名称変更されました。

2007年暮れに茨城県つくばみらい市でクランクイン。以後、日本各地のみならず日露戦争の舞台となった中国やロシア、アメリカ、イギリス等で3年にわたるロケが行われ、2010年に愛媛県今治沖にてクランクアップしました

司馬ファンの私としても当然この作品を見ましたが、通してみた感想としては、NHKが力を入れていたこともあり、かなり出来は良かったと思います。

しかし、「大河ドラマ」としての歴史性を重視しすぎたためか、歴史的な事実の説明がくどく、その割には私的にはかなり重要と考える歴史的事実がかなりカットされていたり、しかも司馬さんが描いていた数々の「面白エピソード」のほとんどは採用されていませんでした。

とくに秋山好古率いる日本陸軍騎馬隊が、世界最強といわれたロシアのコサック騎兵団を破る、という歴史的な事実の背景と現実がかなりの部分で割愛されていたのはまったくいただけません。

また女性の視聴者を意識した結果でしょうが、司馬作品ではあまり描かれなかった主人公たちの妻や姉妹、愛人といった女性の描写がやたらに多く、そうしたシーンは安っぽいドラマによくありがちな、妙に「鼻につく」かんじでした。

さらに、通年を通して放映すべきものを3年もかけて放映されたため、当初の興味を持ち続けるのが難しい、という人も多かったに違いなく、視聴率は初年度こそ平均17.5%とと比較的高かったものの、二年目は13.5%、三年目は11.5%と低迷しました。

脚本家の突然の死や、放映直前のNHKへの社会的な不信など、その制作にあたっては絶対に実写化させないと言っていた司馬さんの怨念?だったのかと思わせるような事件も相次いでおり、放映が終わったあとも、あの段階で果たしてそこまで無理して制作する必要があったのか、という疑問も改めてわいてきます。

私としては、こんな中途半端な仕上がりになるくらいだったなら、もう一度やり直して、通常の大河ドラマ枠で、一年を通して再度作品を練り直してもらいたい、と思うのですが、過去の大河ドラマの放映状況をみる限りは、同じ原作者の同じ作品を二回繰り返すことはしていません。

なので、これっきりか、と思うと原作が司馬さんの代表作だっただけに、返す返すも残念、という思いがあります。

とはいえ、三か年目・第三部のクライマックスの日本海海戦のシーンだけは秀逸で、何度みてもそのスケール感には圧倒されます。最近のCG技術はすごい!とうなるような出来であり、さすがにこうした描写は筆致力に富んだ司馬さんの文章をもってしても表現することはできません。

司馬作品でなくてもよいから、もういちどこうした日露戦争を題材にしたスケールの大きい大河ドラマにチャレンジし、こうした最新技術を使ってぜひもう一度あの感動を再度実写化してほしいものですが、NHKさん、どうなのでしょう?

さて、菜の花忌が終わった今日このごろ、伊豆のあちこちでも菜の花が咲き始めていることでしょう。西伊豆では菜の花ばかりを植えたお花畑もあるようですから、この週末、時間がとれれば行ってみたいと思います。

菜の花の「沖」にはきっと青い駿河湾が見えていることでしょう。できればその背後に雄々とそびえる富士山が写った写真なども撮ってみたいものです。そんな場所もみつけたらまたこのブログでも紹介しましょう。

みなさんはもう菜の花を見ましたか?