南極より愛をこめて


今から56年ほど前のちょうどいまごろ、日本で初めての南極観測隊が、南極の東北沿岸に到着、のちに「昭和基地」となる場所に設営を始めました。

正確には、1957年1月29日、東京大学の教授で地球科学が専門の永田武を隊長とする53名の第一次南極隊が、観測船「宗谷」で南極の東北沿岸、大陸から約4キロメートル離れた「東オングル島」付近に上陸。ここを、「昭和基地」と命名し、この年の冬からの越冬に備え、基地の建設を開始しました。

この「昭和基地」という名称は、29日のその日に宗谷から無線によって日本に打診され、1月31日には政府でこれを正式名称とすることが決定され、その翌日の2月1日から本格的に建設が始まりました。

現在に至るまでこの基地は拡張を続けながら存続しつづけており、昨年の11月には、第54次南極観測隊が日本を出発し、12月20日に南極大陸の昭和基地に到着しました。

第54次南極観測隊は、今年3月下旬に帰国するまで約3ヶ月にわたって南極に滞在し、従来からの観測を踏襲し、昭和基地とその周辺の大陸沿岸部での気象観測や電離層観測のほか、海洋物理・化学観測、測地観測など多くの研究観測を行なう予定です。

白瀬中尉による南極探検

この昭和基地の歴史は、ほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもあります。

が、これに先立つほぼ半世紀ほど前の1910年にも、日本の陸軍軍人で南極探検家の白瀬矗が開南丸で東京から出航し南極探検をおこなっています。

白瀬隊は、日本が明治時代として近代国家になって初めて南極に派遣された「探検隊」で、白瀬自身は、「陸軍中尉」の肩書を持つ軍人ではありましたが、隊員28名は、朝日新聞上で「身体強健にして係累なきもの」を資格として募集された者たちであり、300人もの応募者の中から決定された民間人でした。

この探検は、1910年(明治43年)に、白瀬らの有志が「南極探検に関する請願書を帝国議会へ提出して派遣を請願したものですが、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出しませんでした。

このように政府の対応は冷淡でしたが、白瀬隊の雄図に国民は熱狂し、渡航に必要とされた費用14万円(色々な価値換算基準があるが、一説では現在の3800倍として約5億円)は国民の義援金によってまかなうことができました。

しかし、船の調達も難航し、そのための予算も2万5千円程度(同約1億円)にすぎなかったため、積載量が僅かに204トンという木造の帆走サケ漁船にわずか18馬力の蒸気機関を取り付けるなどの改造したものが探検船として使われることになり、この船は、東郷平八郎によって「開南丸」と命名されました。

極地での輸送力は、雪上車のようなものがある時代であるわけではなく、29頭の犬だけであり、探検隊の装備も、極寒に耐えるために毛皮中心であるなど、現在のものとは比較にならいないほど貧相なものだったということです。

1910年7月には、大隈重信伯爵を会長とする南極探検後援会が発足。こうして、日本初の南極探検船は、翌年の2月26日に南極大陸西南部(注:南極大陸の「北」は南アメリカ大陸南部方向。南はオーストラリア方向)にある、ロス海へと到達し船を進めましたが、すでに南極では夏が終わろうとしていたため途中から引き返し、越冬のためオーストラリアのシドニーへ寄港します。

11月中旬にシドニーを出航し、翌年の1911年1月16日、ついに大陸最南部付近のエドワード7世半島を経由して南極到達に成功します。このとき、「開南丸」はクジラ湾のロス棚氷でロアール・アムンセンを中心とする南極探検隊の南極点到達からの帰還を待つ「フラム号」と遭遇しています。

開南丸から7名から成る「突進隊」をロス棚氷へと上陸させましたが、貧弱な装備のために探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、南極点まで行くことは断念。そして、南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱したといいます。

同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言しました。その後、第二次世界大戦の敗戦時に、日本はこの地の領有主張を放棄してしまっていますが、この地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています。

この突進隊の探検が続いている間、開南丸はエドワード7世半島付近を探索しており、この結果新たに発見された湾に、「大隈湾」や「開南湾」という名前を命名しています。

白瀬隊が名付けたこの「開南湾」や「大隈湾」などの地名は、現在でも南極条約のもとに公式なものとして採用されており、「大和雪原」も公式に認められているようですが、なぜか各国が出版している地図からはこの名称は消えているそうです。

これは、白瀬隊の探検の後、アメリカなどの探検隊がこれらの場所に別の英語名を名付けたとき、日本政府が何の抗議もしなかったためのようです。結局のところ、アメリカの譲歩により元の日本名が正式名として認められたようですが、国際的な舞台ではいつも強い主張ができない日本の悪い面が出た一例といえるでしょう。

白瀬隊はその後、アレクサンドラ王妃山脈付近を探索した後、開南丸に乗って日本へ向けて出航しようとしましたが、いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなりました。

無論、その多くはかわいそうに死んでしまいましたが、このうちの6頭は「生還」という記録があるようです。これは別の国の探検隊がその後の探検の際に救出したのだと思われますが、この項を書くにあたっては、これに関する詳しい記事は見つけることができなかったのでよくわかりません。

が、いずれにせよ大多数の犬を失ったことで、隊員たちの落胆は相当なものだったようで、しかも参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名は、犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に北海道で民族裁判にかけられ、有罪を宣告されたと伝えられています。

一行を乗せた開南丸は、ウェリントン経由で、無事日本に帰国していますが、そもそもこの遠征隊には内紛が絶えませんでした。シドニーに滞在して、南極を目指す準備をしていたころから、仲間同士でのいさかいがたびたび起こっており、隊員による白瀬中尉の毒殺未遂事件が起きたとさえいわれているようです。

帰国に際し、ウェリントンに戻るころには、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの数人は、開南丸ではなく汽船で日本に帰ってきたといいます。とはいえ、その他の白瀬隊の多くは、開南丸に乗って、1912年6月20日に無事に芝浦に帰還しました。

昭和基地の建設

その後、日本人による南極探検、もしくは南極観測は40年以上も行われませんでしたが、前述のとおり、第二次世界大戦後の1956年、長い空白を破って第1次南極地域観測隊が南極観測船の宗谷で南極へ向かい、昭和基地を開設しました。

日本が、南極観測を行うようになったきっかけは、1950年代、アメリカの地球物理学者で南極の電離層の研究をしていたロイド・バークナー(Lloyd Berkner)によって提案された、南半球の高緯度地域の高層気象データの蓄積を勧めるための「国際極年」でした。

国際学術連合(ICSU)は、これを極地以外の総合的な地球全体の物理学観測の計画にまで拡張し、これに答えるかたちで70を超える国立またはそれに相当する機関が協力し、「国際地球観測年委員会」が組織され、実行に移されました。

この「国際地球観測年」が提案された1951年(昭和26年)、日本はまだGHQの統制下にあり、独立を回復していなかったため、日本はこれに参加することで国際的地位を認めてもらおうと考え、参加を表明します。

当初、日本独自の技術で赤道観測を行う予定でしたが、日本が観測をしようとしていた土地(これがどこだったのか何を調べてもよくわかりませんが)の予定地の領有権を持っていたアメリカは、ここで自国で観測を行うという理由で、日本側に丁重とはいえこれを拒否する回答を送ってきました。

どこだかわかりませんが、おそらくは軍事的な要衝地か何かだったのでしょう。

このため、やむなく日本は、国際地球観測年で国威を発揚する場所を「南極」に変更することに決め、ちょうど1955年2月に組織された12か国による共同南極観測に参加させてもらうことにし、これに加わった結果として計画されたのが、この第1次南極地域観測でした。

本来は二ヶ年、2次の観測隊を送るだけで終了する予定でしたが、準備期間が短かすぎ、1955年に開始する予定だった観測は、観測船に予定されていた「宗谷」も旧船を急ぎ改造したものであり、このため十分な装備を整えることができずに断念しました。

さらにこの観測では当初、観測隊出発まで基地の場所さえは決まっておらず、その決定は隊長に一任される予定であったといい、今で考えると考えられないようなずさんな計画でした。

こうして、ともかくも一年をかけて準備をし直し、翌1956年末に出発した南極観測船「宗谷」に乗船した、前述の永田武隊長が率いる第1次南極観測隊53名は、翌年の1957年1月29日に東オングル島に到着。ここを「昭和基地」と命名します。

2月1日から建設が始まり、隊長の永田以下の大部分の隊員が宗谷に乗って離岸する15日までには、「観測棟」が4つ完成しました(うち1つは発電棟)。

南極に残ることになったのは、西堀栄三郎副隊長兼越冬隊長以下であり、この11名が日本人としては初めて南極で6月以降の「越冬」をすることになりました。

樺太犬

ちなみに、日本の夏は、あちら南極では対極の真冬となり、最も寒い8月では、平均気温が-19.4度、最高平均気温でも-15.8度であり、最低平均気温にいたっては-23.3度、過去における最低気温の記録は-42.2度という極寒の世界です。

日照時間は、6月にはゼロとなりますが、7月には4.8時間、8月でも64.1時間であり、このような寒いよ~、暗いよ~、怖いよ~?という場所は、世界でも最も過酷な生活環境といえます。

案の定、この1次隊は、観測器具が凍りつくなどの極度の困難が続いて観測どころではなかったといい、このときに輸送などで活躍し、隊員の大きな励ましにもなったのが犬橇などの荷益のために一緒に連れて行った樺太犬だったといいます。

このとき、11名を残して離岸し、無事日本へ向けて帰港したはずだった「宗谷」も、その後分厚い氷に完全に閉じ込められ、当時の最新鋭艦だった旧ソ連の「オビ」号に救出されています。

第一次隊が南極で越冬後、その翌年の1958年には、1次隊でも隊長であった永田武が再び第2次観測隊を率い、第一次越冬隊員の帰還と、第二次越冬隊員の派遣を実現すべく、前回と同じく「宗谷」によって昭和基地をめざしました。

しかし、このときは、深い岩氷に挟まれたため、宗谷は昭和基地近くの沿岸への接岸を一旦断念。遠く離れた場所に接岸し、ここから第二次越冬予定隊員たちが陸路(氷上)で昭和基地をめざしました。

しかし、宗谷の接岸がなければ一冬を越せるだけの十分な物資の補給もままならないため、天候の悪化もあいまって、第一次越冬隊と第二次越冬隊の全隊員が、いったん、飛行機とヘリコプターで昭和基地から脱出しました。

このとき、第一次越冬隊員と一緒に昭和基地入りした犬のうち15頭はその後の越冬活動のためとして残されてしまいます。越冬隊員らは犬たちの救出のため、昭和基地への帰還を希望しましたが、天候はその後も回復せず、永田は越冬不成立を宣言。結局犬たちは、置き去りにされることに決まりました。

このあたりの逸話を映画化したのが、1983年(昭和58年)夏に公開された「南極物語」であり、南極大陸に残された兄弟犬タロとジロと越冬隊員が1年後に再会する実話を元にドラマチックに描いたフィクションとして描かれ、大ヒットしました。

この映画は、フジテレビが企画製作、学習研究社が半分の製作費を出資して共同製作したもので、日本ヘラルド映画と東宝が配給。北極ロケを中心に少人数での南極ロケも実施し、撮影期間3年余をかけ描いた大作映画でした。

フジサンケイグループの大々的な宣伝が効を奏し、少年、青年、成人、家庭向けの計4部門の文部省特選作品となり、映画館のない地域でもPTAや教育委員会がホール上映を行い、当時の日本映画の興行成績新記録となる空前の大ヒット作品となりました。

その後何度もテレビ放送され、一昨年にもキムタクこと、木村拓哉さんが主演で「南極大陸」としてリメイクされたのを見た方も多いでしょう。

ちなみに、この1958年公開の南極物語のキャッチコピーは、「どうして見捨てたのですか なぜ犬たちを連れて帰ってくれなかったのですか」だそうで、物語の哀感を訴えたいという気持ちはわかるものの、キャッチコピーとしてはちょっと……というかんじですね。時代を感じさせます。

さて、このように1次、2次と多くのトラブルを伴った日本の南極観測隊ですが、当初2次で終了する予定であったものが、2次観測がこうして悪天候により不成立になってしまったため、3次まで延長され、1年後に第3次越冬隊がふたたび昭和基地に到着します。

このときタロジロが発見されて話題になったわけですが、このときに派遣された宗谷には、第三次観測隊のための大幅な改装が施され、大型ヘリコプターによる航空輸送力の強化に力が注がれており、気象状況の悪化により宗谷が基地に接近できない場合でも人や物資の充分な輸送が可能となりました。

3次観測隊が派遣された1959年1月から3月までの間には、観測隊を運んだ宗谷内には、はじめて「宗谷船内郵便局昭和基地分室」も置かれたそうです。

当初、二次だけで終わる予定であった南極観測は、3次観測隊が送られた結果、結局その後も観測は続けられることが決まり、1960年には、第4次観測も実現、越冬が実施されました。

福島ケルン

ところが、この年の10月、この第4次越冬隊員の一人の福島紳氏(当時30才)が遭難し、日本の観測隊における初めての死亡者となりました。その経緯は次のとおりです。

第4次越冬隊の犬係の吉田栄夫は、オーロラ観測係の福島の協力を得て、ロープで係留していた樺太犬にエサを与え、その後二人は、海岸にある橇を固定するため、昭和基地を離れました。

このとき、天候が悪化し、ブリザードが正面から吹き付けるような状態となり、視界はゼロに等しく、結局二人は橇に到着することができず、方向を誤ったと判断した福島は、橇の点検をあきらめて、昭和基地へ戻ろうとしますが、方向を見失ってしまいます。

吉田は、なんとか昭和基地近くの岩まで到達しますが、このとき福島とはぐれたことに気付き、必死で昭和基地にたどり着くと、すぐに仲間とともに福島の捜索に向かおうとしました。

ところがこのとき、不運にももうひとつの遭難が起きており、その遭難救出のために他の隊員が出払っていたため、昭和基地には村石幸彦という隊員一人しかいませんでした。

福島が遭難する3日前、ベルギー隊の6名がセスナ機で昭和基地近くまでやってきたのち、天候が悪化し、ブリザードのためにセスナ機を飛ばせず、ベルギー隊は昭和基地からやや離れた場所にテントを張って宿営していました。

このベルギー隊のうち二名は、激しいブリザードが吹き荒れる中、昭和基地へ助けを求めるためにテントを出ますが、途中で遭難してしまいます。テントに残ったベルギー隊から無線による救援要請を受けた第4次越冬隊は、捜索隊3班を編成し、行方不明になった二人の捜索へ出ました。

ベルギー隊の遭難は福島らの遭難とほぼ同時に起きており、吉田が昭和基地になんとか辿り着いたとき、村石隊員以外全員の隊員がベルギー隊の捜索のために出払っていたのです。

ベルギー隊を捜索中の越冬隊員たちは、福島が遭難したことを知ると、ベルギー隊を支援しつつも福島の捜索も開始。一方、福島の捜索に出た吉田と村石の二人は、再び激しいブリザードのため再び方向を失い、ふたりは二次遭難を避けるために雪原に穴を掘ってビバークして夜をすごしました。

ところが、遭難していたベルギー隊の二人は、その夜自力で昭和基地へ到着していました。翌日、午後三時にはブリザードがおさまったため、吉田と村石も基地へ帰還。第四次越冬隊は、ベルギー隊のセスナ機で、上空から福島を探しましたが、発見できず、日本の南極地域観測統合推進本部は、1960年10月17日に福島新の死亡を決定しました。

福島隊員の遺体は、この8年後の1968年に、基地より約4 km離れた西オングル島で発見されています。

遭難地点には、このときの越冬隊によってケルンが建てられ、このケルンは「福島ケルン」と呼ばれ、1972年に締結された、「環境保護に関する南極条約議定書」では、「南極の史跡遺産」に指定されたそうで、日本としても、「南極史跡記念物」に指定され、今も大事に守られているそうです。

日本の南極観測の長い歴史において、死亡したのはこの福島隊員ひとりであり、その死は悼まれましたが、以後、死亡事故が起こっていないのは、このときのことを教訓として万全の安全体制がとられているからであり、このほかにも連れて行った犬たちが不慮の事故で死ぬといった痛ましい事故は起こっていないようです。

その後、当初2次で終了するはずだった南極観測隊は、結局5次まで延長され、さらに再延長を求める声が高まりました、「宗谷」の老朽化により、1961年出発、1962年帰還の第6次観測隊からは日本の南極観測は中断。この第6次観測では越冬も行われず、その後昭和基地は再び閉鎖されてしまいました。

しかし、その4年後、1965年に最新鋭の南極観測船「ふじ」が竣工し、同時に第7次観測隊が編成され、この年から越冬が再開。その後、1983年(昭和58年)の第25次観測隊および越冬隊の編成時に、観測船はさらに初代の「しらせ」に変わりました

この「しらせ」のネーミングは、言うまでもなく、日本人として初めて南極大陸の探検を行った白瀬中尉にちなんでいます。

1973年(昭和48年)9月日には、昭和基地は国立極地研究所の観測施設となり、以後、国立極地研究所が独立行政法人となった現在まで毎年観測隊が編成され、観測が続けられています。

その後、砕氷艦「しらせ」の老朽化により、観測活動の継続に支障が懸念されましたが、2006年に舞鶴で後継艦の二代目「しらせ」が建造され(2009年(平成21年)5月完成)、同年の第51次南極観測隊および越冬隊からその運用が開始されています。

現在の昭和基地

昭和基地は現在、天体・気象・地球科学・生物学などの天文学、地球物理を総合的に観測するための施設として、大小60以上の棟から成る一大基地になっています。

この中には3階建ての管理棟が含まれるほか、居住棟、発電棟、汚水処理棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、焼却炉棟、電離層棟、地学棟などなどの最新鋭の患側装置を備えた観測棟が連なり、このほかにも、ラジオゾンデを打ち上げる放球棟があります。

荒天時は使用しない特殊な棟を除き、各棟は渡り廊下で接続されており、れは、他国の南極基地で3 m離れた別棟のトイレに向かった隊員が悪天候で遭難死する事故があり、このような事故を防ぐためだといいます。

多くの建物は木造プレハブ構造で、大手住宅メーカーのミサワホームが製造したものが使用されているということで、およそ生活する上においては日本で居住しているのと変わらないほどの設備がそろっており、大型受信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、太陽電池パネルが装備されているほか、貯水用(貯氷用)のダムまであるそうです。

医務室、管理棟、厨房、食堂、通信室、公衆電話室、図書室、娯楽室などの中枢施設は、このうちの管理棟内にあり、医務室には手術が行える設備がありますが、実際は非常時用で手術例はほとんどないといい、重要な手術は「しらせ」などの観測船の船内で行われるようです。

南極観測隊の発足の当時に資材の運搬用に導入された樺太犬など犬ぞり用の犬は、その後環境保護に関する南極条約議定書により生きた動物や植物等の南極への持ち込みが禁止されたため、現在はいないそうです。

かわりに、全天候型の雪上車が導入され、現在南極観測隊で使用されている「SM100S」シリーズは、車両重量は11トン、稼動時マイナス60℃、未稼動時マイナス90℃の耐寒性能を持ち、3800mの高地で使用可能といい、最大牽引は約21トンと世界的にも特筆される性能を持っているそうです。

現在、南極地域観測隊員は約60名で、そのうち約40名が越冬します。翌年度の隊が来た観測船で前年の越冬隊が帰国するため、基地には常に人がいることになり、越冬交代式は近年通常2月1日に行われるそうです。隊員の多くは国家公務員の男性ですが、専門技能を持った民間企業の社員や、「みなし隊員」として民間企業出向の女性も派遣されています。

ちなみに、昭和基地を含め、南極大陸には現在永住している人はいないそうです。しかし多くの国が恒常的な基地を大陸上に設置しており、多くの研究者が科学的研究関連の業務に従事しています。

その数は、周辺諸島を加えると冬には約1000人、夏には約5000人程が常駐しているとのことで、多くの基地には1年を通じて滞在し越冬する研究者もいるということです。ロシアのベリングスハウゼン基地には、2004年に正教会系の至聖三者聖堂が置かれ、年度交替で1-2人の聖職者が常駐しているといいます。

これらの多くの「南極の住人」は、「南極光」とも呼ばれるオーロラを常に目にしていることでしょう。太陽風のプラズマが地球の大気を通過することで発生する光学現象であり、このほかにも、太陽光の異常屈折がもたらすグリーンフラッシュといわれる現象や、細氷(ダイヤモンドダスト)といった、極寒の地ならではの現象もみることができるといいます。

ダイヤモンドダストは、晴天か晴天に近い時に発生するため、「天気雨」の一種と考えられているそうで、これに伴って「サンピラー(sun pillar)」という現象がおこることもあるとか。

これは大気光学現象の一種であり、日出または日没時に太陽から地平線に対して垂直方向へ炎のような形の光芒が見られる現象だそうで、実物はもっとすごいのでしょうが、写真で見ただけでもすごい現象のようです。

最近は、こうした研究者のみならず、一般人も南極に行くことのできるツアーもあるようで、それなりの旅行料金は取られるのでしょうが、こうした誰でもみることができるわけではない現象を見ることができるのなら、ちょっと行ってみたい気はします。

とはいえ、おそらく一生、南極など行く機会はないでしょうが、それでも生きているうちに月や火星に行くことができる確率よりははるかに高い確率でそのチャンスはめぐってくる可能性は残されています。私が大金持ちになる確率のほうが高いでしょうが……

さて、今日は、まだまだ、寒い中、何を思ったかこれより寒い南極についての話題を書いてきましたが、いかがだったでしょうか。

暑いときには逆に暑いものを食べるとバテないといいますが、寒いときには寒いなりに温かいものを食べたほうがよさそうです。

先日から私の風邪をもらってしまい、寝込んでしまったタエさんのため、今日は(も)鍋にすることにしましょう。鍋ときどきカレー、ところによりおでん……です。ちなみに昨夜の我が家はカレーでした。みなさんの今夜の御献立はなんでしょうか。

ボーイング 929 ~伊東市

先日、伊豆にも雪が降りましたが、それ以降は安定した天気が続き、ここのところほとんど毎日、富士山がよく見えます。

まだまだ1月なので、雪が降るとしてもまだまだこれからだな、と思ってカレンダーを見ると、なんともうすぐ1月も終わり、2月です。

冬季の降雪量は、関東甲信越、東海地方とも、1月よりも2月のほうが多いのが通例のようですから、これから2月に入ってもまだまだ雪が降るかもしれません。

雪の多い地方の人や東京の人たちにとっては、あまりありがたくないかもしれませんが、ここ伊豆では雪が降ることのほうが珍しいので、私としてはむしろ望むところです。

先日伊豆にもたらされた雪でも、かなり綺麗な雪景色が見られ、このときには達磨山に登ってきたのですが、絶景でした。まだ、そうした写真は整理していませんが、また良い写真ができたら、またこのブログでもアップしましょう。

さて、先日、ボーイング787についての記事を書きましたが、その後、事故原因の究明についてはさっぱり報道されなくなりました。787が乗り入れている路線を利用している人たちにとってはやきもきするばかりの状況が続いていると思いますので、一日も早い解決を期待したいところです。

ところで、こうした航空機の製造で世界最大のメーカーであるボーイング社ですが、飛行機ばかりではなく、船舶の製造開発もしているというのをご存知だったでしょうか。

「ボーイング929」というのがそれで、まるで航空機の名前のようですが、これは水上を高速で走るいわゆる「水中翼船」と呼ばれる船です。

旅客用はジェットフォイル (Jetfoil) という愛称で呼ばれることが多いようですが、軍用のものもあり、こちらも同じくジェットフォイル、またはその用途のためにミサイル艇などと呼ばれています。

水中翼船全体の総称は、ハイドロフォイル(Hydrofoil) といい、これは推進時に発生する水の抵抗を減らす目的のため、船腹より下に「水中翼」(すいちゅうよく)と呼ばれる構造物を持った船のことをさします。

それではここで、ざっと水中翼船についてざっと述べておきましょう。

全没翼型と半没翼型

いわゆる「排水型」と呼ばれる、喫水線以下の船体が水中に沈み込む一般の船では、速度に関係なく浮力を得ることができますがが、水による大きな抗力から逃れることはできません。

船が進むときに水から受ける「抗力」は速度の二乗倍で増加するため、スクリューで船を推進させる場合には、機関の出力を大きくしても40ノット(時速約74km)あたりで頭打ちとなります。また、全長に対し全幅を極端に狭くする必要もあり、船の最大の利点でもある積載性をも殺ぐ結果となります。

そこで、従来の船よりもさらなる高速な船ができないかと研究が始められた結果、水との接触面を極端に少なくでき、抵抗を揚力に結びつける効果の高い水中翼船が開発されました。

この水中翼船は、低速で水上を航行する際には船体を水面下に浸けて航行しますが、高速航行をする際には、水中に設けられた「水中翼」の角度を上向きにすることで、この水中翼から「揚力」を得、これによって船体を海面上に持ち上げ、水中翼のみが水中に浸っている状態にします。そしてこれにより、水による抗力を大幅に小さくできます。

水中翼船には構造や推進方式が様々あり、構造上の分類では、高速航行時に水中翼の一部が水面上に出る「半没翼型水中翼船」と、水中翼の全てが水面下にある「全没翼型水中翼船」とに大まかに分けられます。そして、前述のボーイング929はこの「全没翼型水中翼船」になります。

さらに全没翼型水中翼船には、単胴型と双胴型がありますが、単胴型の全没翼型水中翼船がこのボーイング929であり、日本では川崎重工業の子会社・川重ジェイ・ピイ・エスがボーイング社のライセンスを取得して製造をしており、また、双胴型の全没翼型水中翼船には、三菱重工が開発した「スーパーシャトル400」などがあります。

全没翼型は半没翼型と比較して安定性に劣るとされており、これは、半没翼型の場合は、多少震動が多いものの、特に水上に出た水中翼の制御をしなくても安定した浮上がなされるのに対し、全没翼型では、翼が水中に没する翼部分が多くて水の抵抗が強いため、そのような自律性があまり期待できないためです。

また、半没翼型の水中翼には大きく上横に反り上がるような補助翼を設けることができ、これによって荒天時などには横揺れに対する復元力が確保できるのに対し、全没翼型は翼が水中に没しているのでこうした小細工ができません。

さらに、半没翼型は水の抵抗が少ないため、低燃費での高速航行が可能であり、こうした全没翼型よりも数々の優れた面が評価され、水中翼船の開発当初は、半没翼型のほうが主流でした。

しかし一方では、波の影響を受けやすい半没翼型は、乗り心地という点に関しては全没翼型に劣ります。また、少々複雑な水中翼であることからそのメンテナンスなどのための維持コストが高いのが難点です。

主流となった全没翼型929

このように欠点はあるものの、特に水中翼に関しては特別な制御をしなくても安定した浮上がなされ、燃費も比較的良いなどの長所多いことから、水中翼船が我が国に導入された当時は、半没翼型が主流でした。

しかし、その後、全没翼型では、コンピュータによる水中翼の細かな制御技術が確立され、とくにボーイング社の全没翼型水中翼船では抜群の安定性が確保できるようになり、他の船でも次第にこの技術が流用されていきました。

全没翼型の安定性が確保されると、逆に上述のような半没翼型のデメリットが浮き彫りになってきました。とくに、その乗り心地を考えると、上下に大きく揺れる半没翼型水中翼船では船酔いをする人があいつぎ、また燃費は良いとはいえません。

船の状態を常に良好なコンディションに保っておくためには水中翼のメンテナンスが欠かせず、この費用が思ったより嵩むことなどが浮き彫りになってきました。

さらに、半没翼型は、水中翼が船底から横にはみ出すように取り付けられているものが多く、こうした水中翼の接触を防ぐ専用の接岸施設のない港には、入港することができない等の欠点もあります。

こうしたことから、半没翼型を選択するユーザーはだんだんと姿を消していき、結果として、現在では全没翼型のほうが主流となりました。

日本では1960年代に商業用半没型水中翼船が相次いで登場し、新明和工業の15人乗りの小型船や、三菱造船下関の小型・中型船(80人乗)、日立造船神奈川の小型~大型船(130人乗)などが相次いで世に出ました。

その後、日立造船神奈川は、ドイツのシュプラマル社の半没翼型水中翼船のライセンス契約を取得して水中翼船を建造しはじめ、型式PT20(70人乗)やPT50(130人乗)を中心に50隻ほどの水中翼船を生産し、これらが瀬戸内海を中心に運航されはじめました。

代表的な運航会社として、瀬戸内海汽船、石崎汽船、阪急汽船、名鉄海上観光船等があり、
また東海汽船が東京湾横断航路でこのシュプラマル社の半没翼型水中翼船を使っていました。

しかし、前述のように半没翼型水中翼船の欠点が目立つようになっていった結果、次第に他の高速船やジェットフォイル(929)にシェアを奪われていき、1999年の石崎汽船の松山~尾道航路の最終運航を以って、半没型水中翼船は国内定期航路から姿を完全に消してしまいました。

こうして、1990年代に入ってから半没型水中翼船よりも全没型水中翼式のほうが主流となりましたが、その高速安定性に軍部が目をつけました。

海上自衛隊は1993年から95年にかけて、全没型水中翼式の1号型ミサイル艇(PG)3隻を建造していますが、これもジェットフォイル(929)をベースとしたイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇をタイプシップとしたものです。

これはボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が1983年に収益させたものであり、これが、ちょうどこのころ中国や韓国からの領海侵犯に悩まされ、沿岸を高速で運行できるミサイル艇を探していた海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造しました。

そもそも、929のような水中翼船は、航空機メーカーであるボーイング社が当初は軍事目的で開発を始めたものです。その技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、1967年にパトロール用の小型艇が実用化されました。

これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇が開発され、このときに「929」の型番が与えられました。

従って、929は旅客用から軍用へ転用されたのではなく、もともとは軍用だったものが、民間で使われるようになったものです。

現在でもその抜群の安定性能と高速性のために各国で軍用に採用されているようですが、船体がすべてアルミニウム合金で作られているため高価であり、また高速が出る分、それなりに「燃料食い」であり、あまり軍部の拡張に余裕のない国では敬遠されているようです。

もともとが地中海を活躍の場とするイタリア海軍向けの設計であり、日本においては、日本海などの荒波で運用するには船型が小型過ぎたようです。当初は18隻を建造する計画であったようですが、冷戦終結という状況の変化もあって結局3隻で建造は打ち切られ、この3隻も、1995年までに順次廃役になりました。

現在では、より大型でステルス性にも優れる「はやぶさ型」というに移行しており、2004年までに6隻が就航し、こちらが現在の自衛隊の主力ミサイル艇になっています。

929の構造・性能

さて、この929の構造ですが、前述までのとおり、水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にあります。

ガスタービンを動力としたウォータージェット推進であり、停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれます。速度が上がると翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し離水、最終的には翼だけで航行する、「翼走」という状態になります。

船体の安定は Automatic Control System(ACS、自動姿勢制御装置)により制御された翼のフラップにより行われ、進行方向を変える場合もフラップを使うため航空機さながらに船体を傾けながら旋回できます。翼走状態では、水面の波の影響を受けにくく高速でも半没翼式水中翼船に比べ乗り心地がよいようです。

翼は跳ね上げ式になっており、停止・低速時の吃水を抑えることができます。また半没翼型と異なり翼の左右への張り出しもないため港に特別の設備なしに着岸できます。さらに翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の障害物への衝突に耐えることができます。

姿勢制御はACSと油圧のアクチュエータ(駆動装置)に依存するので、推進用のタービンの整備ともあわせ、航空機なみのメンテナンスが必要な点が難点です。

主要な諸元・性能は以下のとおりです

諸元(旅客用・ジェットフォイル)
速度: 約45ノット(時速約83km)
航続距離: 約450km
船体材料: アルミニウム合金
全長: 27.4m
水線長: 23.93m
全幅: 8.53m
吃水: 5.40m(艇走状態でストラットを完全に下げた時)
吃水: 1.83m(艇走状態でストラットを完全に上げた時)
型深さ: 2.59m
総トン数: 267トン
純トン数: 97-98トン
旅客定員: 約260名
機関: アリソン501-KF ガスタービン×2基(2767kW×2)
推進器: ロックウェルR10-0002-501 ウォータージェット×2基

ライセンス製造メーカー

前述のとおり、ボーイング社がNATOの依頼によりミサイル艇として開発したのが「929」であり、これを基に旅客用が開発されたのは1974年でしたが、その型番は929に続き番号を加えるというもので、これは929-100型となり、「ジェットフォイル」の愛称もこのとき付けられたものです。

ボーイング社としては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻をアメリカで製造した後、そのライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航しました。

現在、そのライセンスは川崎重工(神戸工場)に全面的に移管されており、現在運航されているものの多くは、川崎ジェットフォイル929-117として製造されたものです。

川崎重工では1989年から1995年までに15隻を製造しており、日本国内において、この川崎重工で作られたものと、元祖のボーイング社で建造された旅客型ジェットフォイルは29隻にのぼります(ただし、軍用-320型からの改造1隻含む)。

なお、この929が日本国内の定期航路に本格的に投入されたのは佐渡汽船の新潟港~両津港間航路で、1977年のことです。当時国内ではメンテナンスが困難だったことから、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだといいます。

その後川崎重工がジェットフォイルのライセンスを得た際、その実績が豊富な佐渡汽船から運行のための多くのノウハウの提供を受け、その後の製造や販売に生かしているということです。

事故対策

929の新潟港での運航開始当初、この港が河口部にあるという構造上、水と共にゴミなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発しました。このことから、ボーイング社では急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリルを設置する対策を講じています。

これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映されたといいます。

929の水中翼は最新鋭の技術を投入されており、流力性能だけでなく、その強度もかなり頑丈に造られてはいますが、2002年1月に神戸港-関西国際空港間航路(神戸マリンルート)での復路出発後に船底に穴が開き、沈没寸前に至る事故が発生しています。

その事故原因は公表されていませんが、当時は空港連絡橋が閉鎖される程の悪天候であったといい、この事故ばかりが直接の原因ではないようですが、その後同航路は慢性的な乗客低迷に伴い同年休止・廃業されました。

ただ、2006年には、神戸-関空ベイ・シャトルとしてこの航路は復活しましたが、用いられているのは929ではなく、別の高速双胴船です。

このほかにも衝突事故が数回起きています。その運用においては、厳重な海上浮遊物への対策が採られているものの、1992年と1995年には新潟-佐渡間航路で、2004年末ごろからは、福岡-釜山間航路(対馬海峡)においてクジラと見られる生物にたびたび衝突し、前部水中翼が破損して高速航行が不能になるなどの事故が数回発生しています。

2006年4月9日には、屋久島-鹿児島間航路の佐多岬沖合で流木に衝突、100名以上の重軽傷者を出す事故が起きています。このような事故後は運航会社ではシートベルトを着用するよう乗客に促しており、特に佐多岬沖の事故後は、国土交通省から事業者に対して見張りの強化やシートベルトの着用を徹底するよう指導されているといいます。

現況航路

とはいえ、高速で多くの乗客を移送できる929は、とくに短距離航路において人気があり、現在、日本国内を結ぶ航路に投入されている929は以下のとおりであり、こんなにもあるのかと驚かされてしまいます。

●国内航路

○新潟~両津、船名:ぎんが、つばさ、すいせい、佐渡汽船
○東京(竹芝旅客ターミナル)~久里浜/館山~伊豆大島~利島~新島~式根島~神津島、
船名:セブンアイランド、 東海汽船
○熱海~伊豆大島、船名:セブンアイランド、東海汽船
○博多(博多ふ頭)~壱岐(郷ノ浦/芦辺)~対馬(厳原)~対馬(比田勝)、船名:ヴィーナス、ヴィーナス2、 九州郵船
○長崎~中通島(奈良尾)~福江島(福江)、船名:ぺがさす、ぺがさす2、九州商船
○鹿児島(本港区南埠頭)~指宿~種子島(西之表)・屋久島(宮之浦/安房)、船名:トッピー、ロケット、種子屋久高速船

●国内外および日本に近い外国航路
○博多(中央ふ頭)~釜山(国際旅客ターミナル)、船名:ビートル(JR九州高速船)、コビー(未来高速)、 JR九州高速船、未来高速
○香港~マカオ、船名 : 水星、木星、土星、金星、銀星、鐵星、東星、錫星 、天皇星、帝皇星、海皇星、幸運星、帝后星(これら高速旅客船網は総称「TurboJET」(噴射飛航)と呼ばれている)、信徳中旅船務管理

どうでしょうか。お住まいの地域に近いところにも929があるのではないでしょうか。

飛行機の旅も良いですが、お天気の良い日には、ちょっと水中翼船を使って近くの島々を巡るショートトリップに出るのも良いかもしれません。

ここ伊豆でも、熱海から伊豆大島への便があるようです。その高速性を生かして、熱海からわずか45分で着くようです。また、熱海から伊東港経由で行く便も土日限定であるようで、伊東からだとわずか25分!です。

料金は、熱海~大島が大人片道¥4600、伊東~大島が同¥3780です。ちょっといい値段ですが、これはぜひ、行ってみるしかないでしょう!

長州閥はいま……

旧山口県庁議事堂

修善寺は、一昨日あたりからすごい風です。空はピーカンに晴れているのですが、その吹きすさびようはすさまじく、とても洗濯物を干してなどいられません。

昔、学生だったころに沼津に住んでいたころから、伊豆は風の強いところだなと思っていましたが、あれから35年以上経ってもこの気候は変わりません。あたりまえですが……

安倍総理のこと

さて、最近、景気対策やアルジェリアのテロ事件のこともあり、その対応をめぐって、安倍総理のお顔を頻繁にテレビで見ることが多くなったように思います。

前回総理大臣をおやりになったときは、体調不良もあり、何か顔色が悪いな~と思っていましたが、現職ではかなりお元気そうにみえ、溌剌とした感があります。

前のご病気は、「潰瘍性大腸炎」というものだそうで、慢性の下痢と血便をずっと繰り返す結構大変な病気だったようですが、現在ではこれも完治されたたようで、体調も万全のようです。

58才という年齢での総理就任は、歴代をみてもかなり若く、全96代の総理大臣就任の年齢でみると、18番目ということで、この年齢で総理大臣になったのは、ほかに廣田弘毅、海部俊樹、羽田孜、橋本龍太郎などの各氏がいます。

この安倍総理のご実家は、山口県北部の長門市のやや西側にある「日置(へき)」というところで、ここを知っている、行ったことがある、という方は結構な「山口通」だと思います。

ここに、油谷湾という内湾がありますが、その北側の油谷半島と南側の本土との間に囲まれたこの湾は、通年を通して穏やかな海域であり、油谷半島のなだらかな丘の斜面沿いには田んぼや畑が広がるのどかな田園地帯となっていて、海山の取り合わせからなるその風情は、まごうことなく他地域ではほとんど失われてしまった「古く良き日本」の景観です。

油谷半島の最上部付近には「千畳敷」とよばれる高原があり、ここから北側にみる日本海、南側になだらかに連なる中国山地、東側にみる長門海岸、そして西側の油谷湾の眺めは素晴らしく、とくに、油谷湾越しに西側に沈む夕日は絶景です。

この油谷半島の北側の日本海に面した斜面には一面の「棚田」が連なっていて、ここは、東後畑地区(ひがしうしろばたちく)と呼ばれ、日本の「棚田百選」にも選ばれており、こちらも必見の景色です。

かつての山口県大津郡日置村は、この棚田のある油谷半島の根元付近、油谷湾のすぐ東側に広がっており、平成の大合併後に現在では、「長門市」に編入されています。

安倍家はこの地において、江戸時代に大庄屋を務め、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった商家であり、祖父の「安倍寛」が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選したのち、多くの政治家を生む「政治一家」となりました。

安倍総理ご自身は、ご自分のルーツは岩手県、かつての奥州にあった「安倍宗任」という武将の末裔だと言っているようで、この安倍宗任という人物は、1051年( 永承6年)の東北の武将同士の戦いである「前九年の役」において、敵方の「清原氏」の武将であった、源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流されています。

その後、この宗任の流れをくむ者たちが油谷町に流れてきて住み着いたということであり、青森県の五所川原にある、石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社というお社にこの安倍家の始祖である宗任が眠っているということです。

これを知った安倍晋三さんのお父さんで、外務大臣を務めた安倍晋太郎さんは、昭和62年(1987年)にこの神社を奥さんと一緒にお参りし、先祖供養を果たしたそうです。

このとき、「芸術は爆発だ~」で有名な、あの画家の岡本太郎も同行したということです。

岡本太郎自身は、神奈川県の川崎市出身の関東人であって、とくに東北人というわけではないようですが、彼もまた安倍一族の流れをくむ一人として自らのルーツに関心を持って調べていたという経緯があるようです。

そして、安倍氏のルーツも同じ人物であるということをどこからか聞きつけたのでしょう、この参拝に同行し、その際は道案内役まで果たしたということで、芸術家と政治家というあまり接点のなさそうな二人のルーツが同じというのもまた不思議なご縁ではあります。

平成元年(1989年)に発刊された「安倍一族」という盛岡の地方新聞社が編纂した本に、安倍晋太郎氏は「わが祖は宗任」と題する序文を寄せており、これには「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら、華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」と書かれているそうです。

ただし、この安倍宗任は、安倍晋三さんにとっては、女系の祖先にあたり、父系は平氏であったようで、それなのになぜ「安倍」姓なのかというと、平家滅亡の際に子孫を源氏の迫害から守るため、母方のほうのルーツである安倍姓を称した、ということだったようです。



戦前の長州閥

この安倍晋三さんの母方の祖父は、先輩総理大臣である、「岸信介」であることは有名です。

この岸信介氏の弟もまた総理大臣を務めた「佐藤栄作」であることは周知のとおりであり、岸信介は養子に入ったため岸姓を名乗りましたが、元の名は「佐藤信介」であり、この佐藤家の先祖は、源義経の郎党であった「佐藤忠信」という人物だそうです。

岸家の先祖のほうの出自ははっきりわかっていないようです。真偽のほどはわかりませんが一説では満州にいた海賊だったという話もあり、岸信介の曽祖父の代には、長州藩の代官をやっていたようです。

が、いずれにせよ、この岸家、佐藤家、安倍家のいずれをとっても、もともとは長州に芽生えた一族ということではないようで、その三家が山口県という地に集まり、ここを基盤として三人の総理大臣を輩出したというのは、何か不思議なかんじがします。

スピリチュアル的な観点からみると、この三家にまつわる霊たちは、それぞれ「ソウルメイト」ということなのかもしれません。

戦後、このうちの岸家を継いだ岸信介氏が総理大臣に就任したことで、その前の田中義一で途切れるはずであった、いわゆる「長州閥」による総理輩出の伝統は継承されることになったわけですが、その理由などについて検証していく前に、この「閥(ばつ)」という用語がそもそもどういう意味なのか調べてみました。

すると、「世界大百科」の第二版によると、次のように定義されているようです。

「なんらかの既得の属性によって結合し、相互に保護・援助しあう集団。閥は公的な主義・主張、あるいは目的をもって結合した集団ではなく、私的な利益を優先させるために結ばれた集団である。

したがって、閥は外部に対しては閉鎖的・排他的であり、内部的には強固な結合を求められ、親分子分関係的な位階秩序を形成しがちである。また閥は、私的集団にもかかわらず、公的な場においてその利益を優先的に拡張しようとして、社会的には弊害を引き起こす。」

「社会的には弊害を引き起こす」というのは穏やかではありませんが、弊害を起こしたかどうかは別として、少なくとも戦前までに山口県から排出された5人は、いわゆる「長州閥」のおかげで総理大臣になれた、とはよく言われることです。

明治時代以降のこれらの総理大臣は、長州藩による「藩閥」の「もちまわり」によって決めてこられた、とまでいうのは少々言い過ぎのような気もしますが、初代の伊藤博文以降、3代目の総理に主任した山縣有朋、11代桂太郎、18代寺内正毅、26代田中義一までの明治・大正時代の5人が、それほど間をあけずに次々と総理になったのは確かです。

山縣有朋から桂太郎までの間がかなり開いているようにみえますが、この間、伊藤博文が5代目と7代目の総理大臣に再任されており、また山縣有朋も9代目の総理として二回目の当選を果たしています。

桂太郎も、15代総理に再任されていますから、明治時代にはほとんど途切れることなく、これら長州出身者によって総理のポストが占められていたという印象です。

同じく藩閥政治を敷いたとされる薩摩藩でも、黒田清隆、松方正義(2回歴任)などの総理を輩出していますが、この薩摩藩の藩閥による総理大臣の系譜は、大正12年(1922年)に第二次内閣を築いた「山本権兵衛」で途絶え、その後鹿児島県からは総理大臣はひとりも輩出されていません。

これら両藩から多くの総理大臣が出た理由は、県民性うんぬんというよりも、明治維新で勝者側になり、明治政府を主導する絶大なる権力を握ったことが要因であり、これが藩閥政治であるといわれても仕方がないことでしょう。

当然、その配下も同じ藩の出身者で占められており、そうした同郷の人材が多ければ多いほど、その中から総理大臣が出てくる確率が高くなるのは当たり前です。

ただ、長州の田中義一に関しては、寺内正毅が退任してから8年もたったあとに総理大臣になっており、この間がやや空白気味ではあります。

しかし、田中義一は、伊藤博文が自らの「与党」として組織した、「立憲政友会」に所属しており、長州人が数多く含まれていたこの党から代議士に出馬して総理大臣になったというのは、やはり「長州閥」の恩恵を受けたためと考えて良いでしょう。

元陸軍大将などを務め軍人であった田中義一は、日露戦争では満州軍参謀として、同じ長州出身の総参謀長の児玉源太郎のスタッフを務めており、また日本陸軍の父ともいわれる山縣有朋にもかわいがられていたという経緯もあり、これらの経歴が総理大臣への昇格につながったことは間違いないと思われます。

岸・佐藤・安倍ファミリー

しかし、以後、田中義一と同じく立憲政友会に所属していた、濱口雄幸(高知県出身)や犬養毅(岡山縣出身)らが首相となり、彼らが退任して以後は、こうした藩閥政治による総理大臣就任はみられなくなり、以後太平洋戦争が終結するまでは、いわゆる薩長土肥と呼ばれた幕末の雄藩からは総理大臣は一人も出ていません。

土佐の高知県出身の濱口雄幸首相が1931年(昭和6年)に退任してから、1957年(昭和32年)に山口県出身の岸信介が総理大臣になるまで、実に26年間ものあいだ、長州や薩摩、土佐、肥後出身で総理大臣になった者はなく、この間に藩閥政治はすっかりなりをひそめたと思われていました。

ところが、そこへ来ての戦後の岸総理の就任です。またぞや藩閥政治の再来か、と当時の人たちは思ったでしょう。

他藩の閥は消滅してしまったけれども、この間に長州閥が廃れてしまったわけではなく、この間も長州人の政治家は脈々と地下活動を続け、戦後再びその猛威をふるうようになったのではないか、という印象を与えたのは確かです。

だがしかし、本当に「閥」といわれるような「閉鎖的かつ排他的な集団」が残っていたのか、というと私は、これはちょっと違うように思います。

戦前の5人の長州出身の総理は、いずれも同じ県内でも出身地が異なります。

ましてや親戚や縁戚関係はないにも関わらず彼らが「閥」と呼ばれ、ひとくくりにされたのは、彼らとその取り巻きが、幕末に勤皇の志士として幕府軍と命をかけて戦い、親兄弟以上に「血」の濃い師弟関係や主従関係がこの過程において結ばれ、これが明治時代にまで持ち越されたためです。

ところが、戦後に出てきた3人の総理は、無論こうした幕末の動乱を経験しておらず、そうした動乱にちなんだ同盟関係はありません。岸信介、佐藤栄作の二人が兄弟であり、また安倍氏は岸信介の孫にあたるなど、彼らの関係は、閥とは明らかに異なる縁戚関係をベースとしたものです。

なお、岸・佐藤家は山陽側の田布施町が地元であるのに対し、安倍家は県北の日置に家がありますが、こうした地理的違いが、この三家が親戚関係であるということの絆をなんら疎外するものではありません、

佐藤兄弟はとびきりの秀才兄弟として有名でしたから、この二人が総理大臣になれたのは、藩閥とは関係なく、安倍晋三もまたこの佐藤家の流れを汲む優秀な血の一族の生まれであり、彼らそれぞれが政治という世界において秀れた才能を持っていたということだと思います。

いわば、アメリカのケネディ家の一家のような関係であり、著名な政治家や実業家を輩出しているこの名門一族と日本のこの「岸・佐藤・安倍ファミリー」はどこか似ています。

第一世代のパトリック・J・ケネディは、実業家として成功し、マサチューセッツ州上院・下院議員に当選、その息子のジョセフ・P・ケネディも、ケネディ家の第二世代として実業家として名を馳せ、証券取引委員会委員長、駐英アメリカ大使を務めました。

そして、第三世代のジョン・F・ケネディは、ジョセフの次男として生まれ、第35代アメリカ合衆国大統領にまで上り詰めます。ケネディ家にとっては絶頂期だったでしょう。

ところが、ジョン・F・ケネディは暗殺されてしまいます。しかし、ジョセフの三男でジョンの弟のロバート・ケネディが第64代アメリカ合衆国司法長官に就任し、四男のエドワード・ケネディもアメリカ合衆国上院議員に就任するなど、ジョンの死によって凋落していくかと思われたケネディ家は、その後も脈々と政界に根を張り続けました。

その後の第四世代としても、ロバートの長男のジョセフ・パトリック・ケネディ二世がマサチューセッツ州選出の元下院議員となり、このほかにもエドワードの長男のエドワード・ケネディ・ジュニアも政治家となっており、この弟のパトリック・ケネディは連邦下院議員となるなど、現在でもケネディ家からは次々と政治家が創出されています。

佐藤家もその後、次男の佐藤信二氏が政治家となり、衆議院議員を8期、参議院議員を1期務める政治家となっています。このほか、安倍晋三の実兄の「岸信夫」氏は、岸信介の息子の岸信和が子供に恵まれなかったため、安倍家から養子として岸家に入った人であり、この人も衆議院議員を1期、参議院議員を2期務めています。

このように、戦前の田中義一総理の退任でいったん途切れたはずの長州出身の総理就任という「伝統」が復活したのは、岸信介氏の総理就任を皮切りに、岸家と縁戚関係のある佐藤家、安倍家を合わせた三家が、さながらケネディ家のように「ファミリー」として絡み合い、その中から多くの実業家や政治家を次々と輩出し続けているからだと思われます。

そして、この親戚縁戚による「共闘」こそが、戦後その先陣を切って総理大臣となった岸信介氏以降、三人かつ四代の総理大臣が出ている最大の理由のひとつと思われます。

木戸幸一と岸信介

がしかし、戦前に長州閥による総理輩出の流がいったん切れたのにもかかわらずこれが復活した背景には何があったのかを更に深く読み取っていこうとしたとき、そこにはこれらファミリーとは親戚でもなんでもなさそうな、にもかかわらず彼らと密接な関係にあった、二人の長州人の姿が浮かび上がってきます。

その一人は、木戸幸一氏です。

木戸幸一は、第二次世界大戦期の日本の政治家、そして最後の内大臣(戦前に存在した宮中で天皇を補佐する役職)であり、幸一の父・木戸孝正は明治の元勲「木戸孝允」の妹の治子と長州藩士「来原良蔵」の長男であり、生粋の長州人です。

木戸孝允と妻の松子の間には子がなく、孝允も早死したため、木戸家の家督を継いだのは、孝允の妹の治子と孝允の盟友で親友の来原良蔵との間に生まれた次男の木戸正二郎でした。

しかしこの正二郎もすぐに没したため、木戸家継承者がいなくなり、その兄である孝正が急きょ養子となって木戸家と侯爵を継承しました(1884年(明治17年)。

木戸孝正は、これに先立つ10年前の1874年(明治7年)にはアメリカに留学しており、帰国後、アメリカで知ったベースボールを持ち込み、日本最初のクラブチーム「新橋アスレチッククラブ」を作ったことなどで知られており、侯爵継承後、東宮侍従長となり、宮内顧問官などを歴任しました。

そして、その息子が木戸幸一ですが、実は孝正と妻の妙子の間の子ではなく、妙子が早逝したため、孝正の後妻に迎えたのが、同僚の宮内顧問官であった「山尾庸三」の長女、寿栄子であり、幸一は孝正と彼女との間に生まれた子供になります。

この山尾庸三は、いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に密航でロンドン・グラスゴーに留学し、さまざまな工学を学んで帰国した人物です。帰国は伊藤らよりも大幅に遅れ、維新が実現した明治元年(1868年)であり、帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任されました。

新たに創設された法制局の初代長官も務めており、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立した人物としても知られています。

つまり、木戸幸一は、こうした明治維新における重要人物の孫であり、またそれだけではなく、幸一の夫人は、陸軍大将の「児玉源太郎」の娘です。

しかも血はつながっていないとはいえ、明治の元勲木戸孝允の木戸家を継承しており、これらのことから、木戸幸一氏は、戦後の日本の政界においては、田中義一以降失われたと思われていた「長州閥」のサラブレットともいえる人物であることがわかります。

木戸幸一は、長じてからは、学習院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し同校卒業後は農商務省へ入省。工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任後、友人であった近衛文麿の抜擢により、内大臣府秘書官長に就任。

さらに1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣と初代厚生大臣をやり、1939(昭和14年)年の平沼内閣では内務大臣になるなど、次々と要職に就任しています。

1940年(昭和15年)から終戦の1945年(昭和20年)まで内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードしました。

1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となったおり、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がっていました。

このとき、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、戦争推進派の東條内閣の倒閣工作が密かに進められましたが、東條は難局打開のため内閣改造の意向を示し、木戸らのグループに抵抗しようという動きを見せました。

こうした中、岡田元海軍大将と気脈を通じていたのが、東條内閣に商工大臣として入閣しながら、このころ東條によって軍需次官に降格されていた岸信介であり、岸は東條総理の継続を阻止するため、彼の内閣改造を妨害し、内閣総辞職を要求しました。

これに対して、東條側近の四方諒二(しかたりょうじ)東京憲兵隊長が岸信介の自宅に押しかけ、恫喝したという話が残っており、このとき岸は、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返したそうです。

この動きと並行し、東條に内閣改造後の入閣を要請されていた他の重臣たちも木戸と申し合わせて内閣改造を拒否。東條はついに内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となり、これが戦争終結への大きな一手となりました。

こうした一連の終戦工作のなかで、同じ長州人である木戸幸一内大臣と岸信介の間に会談が行われたかどうか、どのような会話が行われたか、といった詳しい史料はほとんど何も残っていないようです。

しかし、同じく東條を打倒し戦争を終結させたいという思いは同じであり、その上で気脈・人脈を通じた同じ長州人ということで、二人にはかなりの接点があったのではないかと考えられます。

岸信介の曽祖父の佐藤信寛(さとうのぶひろ)は吉田松陰の松下村塾の出身であり、その同門であった伊藤博文も同塾で松陰から直接教えを受けており、伊藤の出身地である旧山口県熊毛郡の束荷村(現光市)と佐藤家の本籍の熊毛郡田布施町はほど近く、このことから佐藤家と伊藤家とは昔から深い親交があったようです。

従って、岸家に養子に入り、政界入りした岸信介に対して、元総理を生み出した伊藤家の人々はにくからぬ思いを持っていたはずです。

実際、岸が東京帝大法学部を卒業後に農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩の、「伊藤文吉」の元へまっ先に配属されていますが、この伊藤文吉は、伊藤博文元首相の養子として伊藤家に入った人物です。

また木戸も岸も同じ東京帝国大学法学部出身の先輩後輩どうしであり(木戸が5年先輩)、優等生であった岸が内務省ではなく、この当時二流官庁と思われていた農商務省に入省したのは、先輩の木戸が同じ農商務省に入省していたのと無関係ではないと考えられます。

さらに、木戸の実父の来原良蔵は、吉田松陰や桂小五郎らと深い交流を持っていた人物で、浦賀沖にペリー提督が黒船で来航した際には、藩命で江戸に上り、浦賀周辺の形勢を視察しており、このとき同行していた伊藤博文の才を見出して直々の部下としています。

博文が松下村塾に入塾したのも良蔵の薦めであったといい、その後良蔵が長崎の海軍伝習所に入ったときにもこれに付き従っています。博文は良蔵の死後、その遺志を継いで活動したとされており、彼を終生師匠として仰いでいたといいます。

このように、あまり知られていないことですが、岸信介と木戸幸一は、同じ政界にあってただ単に気脈を通じる同学の先輩、後輩という間柄だったというだけではなく、同郷の人脈という線でも、その共通の知人である「伊藤家」の人々を介してかなり太いパイプで結ばれていた可能性があることがうかがわれます。

その後、木戸は東京裁判で有罪とされ、終身禁固刑の判決を受け服役していましたが、
1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退します。

岸信介が、総理大臣に就任するのは、この二年後の1957年(昭和32年)であり、「長州出身」の総理大臣の復活の裏では、この木戸元内大臣がその背後での何らかの「操作」をしていたと考えるのが自然でしょう。

こうして、岸信介が首相になったあとの佐藤氏の総理就任、そして近年の安倍氏と次々と続く長州出身の総理誕生の裏には、やはり木戸幸一に連なるかつての長州閥の「なごり」があり、「岸後」も、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に擁護された「安倍一族」が存続し続けることによって現在の安倍総理が誕生したのではないかと考えられます。

これを「長州閥」と呼ぶべきかどうかですが、前述のとおり、「閥」とは徒党を組んで政治を推し進めようとする輩の集団を意味すると考えれば、木戸幸一ひとりを「閥」と呼ぶのは言い過ぎでしょう。

木戸幸一を黒幕とした「岸・佐藤・安倍ファミリー」を閥と考える人もいるかもしれませんが、調べた限りではそういう構図も希薄であり、私自身は、このグループは閥というよりも、上述のケネディ家のような「ファミリー」であると考えています。

また、この当時の政界にはほかにも長州出身の政治家はたくさんいましたが、明治や大正のころのような実力者ばかりではなく、このころには長州人ばかりでグループを組んでその力を行使しようというようなめだった動きはありませんでした。

逆にそうしたグループができていたら、他の政治家や軍部から徹底的に敵対視され、排除されていたのではないでしょうか。

岸信介と松岡洋右

このように、木戸幸一は、戦後初の長州出身総理である岸信介首相の誕生においてかなり重要な関わりをもったのではないかと思われますが、このほかにももう一人の重要人物がおり、それは同じ長州人で、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に外務大臣として関与した「松岡洋右」です。

岸信介は、戦前の1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長などを歴任し、この間、満州国の計画経済・統制経済に積極的にとりくみ、満州経営に辣腕を振るいました。

このころ、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二などなどの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の実力者「弐キ参スケ」の1人に数えられました。

この「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられたもので、その5人とは、

東條英機 関東軍参謀長
星野直樹 国務院総務長官
鮎川義介 満業(満州重工業開発株式会社)社長
岸信介 総務庁次長
松岡洋右 満鉄総裁

です。このうちの、松岡洋右と鮎川義介は、同じ長州出身の同郷人であり、この三人の長州人はのちに協力して満州経営にあたり、「満州三角同盟」とも呼ばれました。

岸信介は1896年(明治29年)生まれ、かたや松岡洋右は1880年(明治13年)生まれで、その年の差は16歳もありますが、岸の叔父の「佐藤松介」という人が、松岡洋右の妹の旦那さんであり、血はつながってはいませんが、親戚関係にあります。

しかも、この佐藤松介は松岡の姉である松岡藤枝と結婚しており、この二人の間に生まれた寛子が、後年佐藤栄作の妻になります。従って、血縁関係は薄いものの、松岡家もまた、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に連なる一族ということになります。

ちなみに、この佐藤松介には、「さわ」という妹がおり、この人は岸信介のお母さんの「茂世」の妹でもあるわけですが、この人は吉田祥朔という人物と結婚しており、このためこの吉田祥朔は岸信介の義理の叔父ということになります。

そしてこの二人の子の吉田寛という人が、後年、吉田茂の長女の桜子と結婚しており(この二つの吉田家は別の家系らしい)、これらの話は松岡洋右が生きていたころよりは、ずっと後年の話ではありますが、吉田茂の吉田家もまた後年、岸・佐藤・安倍ファミリーに連なる系譜に取り込まれたということになります。

この松岡洋右は、戦前の長州出身総理のうちでもとくに閥意識が強かったといわれる山縣有朋の最後の門下生ともいわれる人物であり、松岡が結婚した際の仲人は山縣の懐刀でもあった田中義一元首相です。

松岡洋右は、戦前の日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などに関与し、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面における代表的な外交官でしたが、このため敗戦後は米軍ににらまれ、極東国際軍事裁判の公判中に病死しています(1946年(昭和21年)6月)。

山縣有朋との密接な関係をうかがわせる発言として、「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っている中で、「例外は山本権兵衛と山縣有朋ぐらいであった」とも述べており、山縣にはそれなりの敬意を払っていたことがうかがわれます。

このほか、松岡は伊藤博文にも大きな影響を受けていたようであり、伊藤博文が親ロシア派であったことから、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていたといいます。

ところが、岸や木戸が終戦工作を積極的であったのに対し、松岡は何を思ったのか、自分が主導して締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で強く主張。南部仏印進駐(フランス領インドシナ侵攻)に反対し、終戦間際になって、いわゆる北進論を主張するなどのどちらかといえば好戦派に転じました。

松岡は、その後の日本と同盟関係にあったドイツとソビエトの開戦が間近なことを認識していたようで、それなのになぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説があるようですが、このようにコロコロと主張を変え、政府内でも独断専行が強かったことから、昭和天皇は徹底的に松岡を嫌っていたといわれます。

このように同じ長州出身でありながら、木戸や岸とは一線を画していたような印象のある人物ですが、満州運営において岸と共同してその任にあたっていた経緯などもあり、総理経験者である山縣有朋や伊藤博文といった大物(言い換えれば長州閥のドン)と深い関わりのあったこの松岡洋右と親交があったということも、その後岸信介が総理大臣になるにあたってはプラスに働いたと考えられます。

さらに松岡洋右は、満鉄総裁から代議士に転向する際には、前述の「立憲政友会」をベースとして立候補しており、当然のことながら他の長州の政治家とも親密でした。

その最たる人物としては、前述の満州重工社長で戦前には内閣顧問なども務めた鮎川義介(山口市大内村出身)や、立憲政友会の中心的存在であり、総裁も勤めた萩市出身の久原房之介などがいます。

鮎川も久原も戦後は戦犯として逮捕されていますが、とくに久原は右翼に資金を提供したり、2.26事件などに深く関与したなどとして、松岡と同じく、終戦後にA級戦犯になりました。

松岡が代議士になるころには山縣有朋は既に没していましたが、長州人としてこうした明治の宰相の薫陶を直に受けた経験を持つ大物政治家は、当時としては木戸幸一をのぞけばこの松岡ぐらいです。

松岡は、戦後、岸信介に先んじて総理大臣になった吉田茂とも親しい友人関係にあったといい、のちの「自由民主党」の基礎を造った吉田に対して、「君の跡を継ぐのは岸のような若くて優秀なやつだよ」、と勧めていたような気がするのです。

木戸幸一をのぞけば、戦後初の長州人総理となった岸信介を後押しできるキングメーカーはこの人しかおらず、生前に岸氏の総理就任を目の当たりにすることこそできませんでしたが、その実現を切に願っていたのではないでしょうか。

以上、戦後も四代にわたって山口県から総理大臣が出たのは、岸信介という優れた長州出身のリーダーが「岸・佐藤・安倍ファミリー」を形成し、その最初の総理就任をこの木戸幸一と松岡洋右の二人が支えたからこそではないか、と私は思うのです。

さて、長々と書いてきてしまいましたが、山口県出身の総理大臣が多いというその理由はざっとこんなところでしょうか。

他のブログもいろいろ拝見させていただいた上でこの項を書きはじめたのですが、一律に明治以降延々と続いている「長州閥」によるものだ、と一行で切り捨てておられる方も多いので、そのあたりの事情は少々複雑で違う、ということを書きたくてここまで引っ張ってしまいました。

かつて司馬遼太郎さんは、「革命というものは三世代に渡ってなされる。まず第一に思想家が出てくるが、多くは非業の死を遂げる。第二にその後を受け、革命家が出てくる。そして、これも多くは、事半ばにして死ぬ。そして最後に出てくるのが政治家である。」と書かれています。

かくして、伊藤、山縣、桂らの明治に君臨した「長州の政治家」の流れは、いまもまだその流れを維持したまま、存在しているように思えます。

が、それはけっして「閥」と呼ばれるような閉鎖的な形のまま継続しているのではなく、時代が変わり、その時代に適応した形で続いているように思われ、その意味では長州人こと、山口県民こそがそうした時代の変化に適応できる優れた県民性を持っている証拠だというふうにも思われます。

とかく「二世議員」が批判されがちな昨今ですが、私にはそれが悪いという感覚はなく、先代の優れたDNAを受け継いでいるのならば、血がつながっていようがいまいが関係はなく、そのDNAを大事にしていくことのほうが、この国の永続をはかる上においては大事なような気さえします。

極論すれば長州人でなくてもいい、優れた資質をもってDNAが受け継がれるなら、それは会津であっても遠州であっても構わないように思います。

いつか医学がもっと発達したら、そうしたDNAを保存する政府機関なんてものもできるかもしれません。そのDNAを使って作られた「ロボット宰相」なるものが案外とこの国を導いていくのかもしれません。期待しましょう。

静岡 vs 山口 

旧長州藩庁門

最近、税制の地方化の議論が活発になっているのと関係があるのか、「県民性」を話題にしたバラエティー番組を良くテレビでみるようになりました。

新聞や雑誌でも「県民性」を扱った記事をよくみかけるようになったような気もします。本屋さんなどへ行くと、その地方の「県民性読本」的なものが山積みになっていることもよくあるようです。

静岡もそうで、先日本屋に行くと、静岡県の歴史本の特集コーナーの中に、そうした類の本がいろいろ積まれていました。

その一冊にざっと目を通してみたのですが、これらやネットの情報などを総括すると、静岡県民の県民性というのは、だいたい次のように言われているようです。

○男性

静岡市以東の県東部の人はおっとりしているというか、マイペース。協調性があり、誰からも好感が持たれるが、逆に言えば優柔不断なところも。浜松など県西部は明るく、行動力もあるし、根性もある人が多い。ギャンブル好きだが、のめり込むことはない。

○女性

男性がのんびりしているだけに活動的。性格もさっぱりしていて、どちらかというと男性的。じっと耐えるタイプではないし、腹にためるタイプでもない。好き嫌いもはっきりしている

また、静岡県民は、西部では「遠州泥棒(強盗)」、中部は「駿河乞食」、東部は「伊豆餓死」といわれるような性格を持っているともいわれます。

静岡市など中部の人はおっとりしていて人が良いので、「やめまいか」と面倒なことを嫌がるので、どうしても食えなくなったら「物乞い」をするのだそうで、これに対して浜松など西部は行動力もあるし根性もあるので、困ったら泥棒に走るのだそうです。

この静岡中部人の評価はともかく、西部の人の「泥棒」はあまりにもひどい言われようですが、これは、江戸時代の「遠州商人」が、「やらまいか」というチャレンジ精神を発揮して成功したことを、他国民がやっかみ、嫉んだために生まれた言葉のようです。

我らが伊豆の、「伊豆餓死」は、「伊豆詐欺」とも言われるそうで、困ったときやお金に窮した時には、餓死するか、あるいは詐欺をしてなんとかその場をしのぐ人が多いと評されたためのようです。浜松などの西部の「泥棒」まではひどくないにせよ、あんまりよい評価ではないですね。

餓死と詐欺の二通りの評価があるということは、伊豆ではまた二タイプの住民特性を持った地域があるのでしょう。「餓死」のほうのそれは、想像するに、伊豆中部以南の地方ではその昔流人が多く、貧乏であったがゆえに窮すると餓死するしかなかったことに由来するのかもしれません。

また、「詐欺」のほうは、鎌倉や駿府などの中央により近く、権謀術数をはかってのしあがった北条氏一族やその後の時代を担った北条早雲の後北条氏に代表される性格なのでしょう。

それでは、私の故郷の山口はどうなのかな、と調べてみると、だいたい次のように言われているようです。

○男性
一言で言えば、保守的。「年上に従う」「男尊女卑」といったものがいまだに残っている。お金におおまかで、体裁を気にするが、目立ちたがり屋の一面もある。総理を多数出しているだけに、政治好き。郷土意識も強い。

○女性
情に厚く、心優しい。明るく社交的で行動力もある。お金には鷹揚で流行にも関心が強いため、ミーハーに見られやすいが、考え方はとても堅実。

山口県全体でみると、ここは、「米」、「塩」、「紙」のいわゆる「三白」で豊かな地であったこともあり、やはり「保守的」というのがその代表的な性格のようです。

「クルマは4ドアセダン」で「政治は自民党」、そして昔ほどではないにせよ、「男尊女卑」や「目上の人には従う」といった古い時代の風習が根強く残っている、とよくいわれるようですが、あたっているかもしれません。

このほか、金にはおおまかで体裁を気にする人が多いともいわれますが、確かに、山口県民は「おしゃれ」とまではいいませんが、多くの人が集まるところへ行くときには、わりときちんとした格好で行く人が多いように思います。

いまや過疎県になりつつあるので、お年寄りも多いのもたしかなのですが、お年寄りだからといって汚い恰好をしている人も少なく、おっダンディだな、このおっさん、というかんじの人がわりと多いようです。

「気が合えば、人間関係を大事にするだけに、終生の友にもなる」という評価もあるようですが、これもあたっているように思います。幕末には長州藩の藩士の多くが藩外へ出て活動していきましたが、その時に諸国の藩に多くの友人を作ることのできたことが、この藩を維新の成功に導いた要因のように思います。

一方では、プライドも高く頑固で負けず嫌いで、好き嫌いがはっきりしているといい、目立ちたがり屋であるということもよくいわれます。

昔読んだ司馬遼太郎さんの本に、長州藩と薩摩藩の軍勢が江戸入りした際、それが夜であったがゆえに、それぞれが提灯を手にもって行進してやってきたという話が書いてありました。

そのとき、薩摩藩の軍勢は、それぞれの兵士が様々な色形の提灯をぶらさげており、提灯を持っている兵士も持っていない兵士もいたりのバラバラで、「どやどや」とやってきたという印象であったのに対し、長州藩は、ひとりひとりが同じ提灯を持ち、「一列縦隊」で整然と江戸入りをしてきたそうです。

兵士全員に同じ提灯を持たせるなどの周到な準備をし、軍の統制もとれていたということなのでしょうが、司馬さんはこれはそうではなく、一人一人に同じ提灯を持たせて行進させないと、「俺が俺が」といってそれぞれが勝手に行動をしはじめ、たちまち統制がとれなくなってしまうからだ、と書かれていました。

なるほどな~、さすがに司馬さんだな~よく見ているわ、とこれを読んだ私も思ったものです。確かに長州人は我が強い人が多く、全体で行動するというよりも個々で行動したがる人が多いのは確かです。

別の言い方をすれば「個性的」な人が多いわけですが、そういう個人主義のやからをうまくまとめることのできるリーダーが幕末にはたくさん輩出され、そうした個々の力を結集させることができたらこそ、この藩が幕末に力を発揮できたのでしょう。

そのリーダーとしては、吉田松陰や高杉晋作などが代表的ですが、このほかにも久坂玄瑞や山県有朋、木戸孝允などなど枚挙のいとまがありません。

山口県民は、このように幕末に結集して歴史の変革にあたった経験から、明治以降の時代になっても郷土意識が非常に強く、「政治好き」で有名です。

その郷土意識の強烈さは、維新の動乱後は、何が何でも「わがお国」のリーダーを中央に送り込むのだ、という意識に転化されていき、その結果として数多くの代議士や政治家が生まれ、その中から総理大臣が8人も出たというのは多くの人が知るところでしょう。

そのトップバッターは、あの伊藤博文ですが、これ以下の山口県出身の総理8人について、ざっと、まとめてみましょう。このうち5人は戦前の総理です。

伊藤博文(1841~1909) 光市出身

吉田松陰の松下村塾の門下生であり、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らと尊王攘夷・倒幕運動に参加。明治維新後は初代内閣総理大臣を務め、第5代・7代・10代と通算4度も総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の草起・制定の中心的役割を果たしました。

1863年に長州ファイブとして英国留学をした際に英語を覚えており、あまり上手だったという話は聞きませんが、この「英語力」が総理大臣就任への決定的な要因でした。

なお、初代総理大臣就任時は44才という若さであり、これまでの歴代総理大臣の中で最も若くして就任した人物です。在職通算日数は2720日でした。

山県有朋(1838~1922) 萩市出身

伊藤博文と同じく松下村塾門下生の一人で、文久3年(1863年)に高杉晋作が創設した奇兵隊に参加。その後頭角を現し、奇兵隊の軍監となります。明治新政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて軍国の父とも称されるようになりました。第3・9代の二回、内閣総理大臣に就任しています。在職通算日数は1210日でした。

桂太郎(1847~1914) 萩市出身

2013年現在の歴代総理大臣の中で、通算在職日数が最も長いのが桂太郎です。しかも、第11・13・15代と三回も総理大臣を務めました。在任中には日英同盟を締結し、日露戦争にも勝利したことで、長州人の中では最も大きな実績を残した総理という評価もあります。

たえず惜しみなく笑顔を作りながら相手の肩を叩いて好感度を演出することから、「ニコポン首相」のニックネームもつけられました。在職通算日数は2886日でした。

寺内正毅(1852~1919) 山口市出身

第3代韓国統監を務めた後に初代朝鮮総督に就任し、総督としての功績が認められ、第18代内閣総理大臣に就任。頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、独自の立場を貫く主義を掲げていたため、「超然内閣」と呼ばれました。

また「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれました(注:「立憲」とは、権力者が憲法の枠内で政治を行い、権力は憲法に制限される。「非立憲」では、権力者のやりたい放題で、権力者を抑えることができない。)

時は第一次世界大戦の最中であり、シベリア出兵などを宣言しましたが、大きな業績を上げることもなく辞職。在籍通算日数は721日でした。

田中義一(1863~1929) 萩市出身

昭和2年に第26代内閣総理大臣に就任。翌年2月に普通選挙による初めての総選挙を実施しました。在任中に、当時の軍部が主導したとされる「張作霖爆殺事件」、「尼港事件」、「済南事件」、「満洲事件」などなどの数々の中国がらみの事件が起こり、その収拾をめぐって昭和天皇から叱責されたことから、在任わずか2年少しで総辞職しました。在職通算日数805日。

岸信介(1896~1987)  田布施町出身山口市

戦後はじめての長州出身の総理大臣として就任し、第57・58代の二期の首相を勤めました。太平洋戦争開戦時には商工大臣を務め、革新官僚の代表格といわれました。戦後A級戦犯容疑を受け、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に拘留されており、総理就任はその釈放後のことになります。

在任中26ヶ国を訪問するなど積極的に首脳外交を行い、1960年日米安全保障条約(安保条約)改正も実現しましたが、これが逆に国内の騒乱を呼び、その責任をとって辞任。

その後、弟の佐藤栄作、甥の佐藤信二、娘婿の安倍晋太郎、孫の安倍晋三・岸信夫兄弟が政界入りしています。在職通算日数は1241日でした。

佐藤栄作(1901~1975) 田布施町出身

岸信介の弟で、第61・62・63代の三期、内閣総理大臣に就任。岸信介が実兄であり、日本で唯一の兄弟首相の誕生となりました。在任中にアメリカに占領されていた沖縄返還の実現や、非核三原則の制定など多くの実績を残しました。昭和49年には、日本人初となるノーベル平和賞を受賞。

通算在職日数は桂太郎に譲るものの、連続在職日数は佐藤栄作が歴代1位です。通算在職日数は2793日でした。

安倍晋三(1954~) 長門市

戦後最年少で戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣(第90代)に就任したのが安倍晋三です。在任中は「美しい国づくり」プロジェクトに力を注ぎました。父は政治家の安倍晋太郎であり、祖父には岸信介、大叔父には佐藤栄作がいる政治家一族としても知られています。出生地は東京ですが、本籍・選挙区は長門市です。通算在職日数は、366日でした。

菅直人(1946~) 宇部市出身

菅氏は長州出身の総理かどうか、ということでよく取りざたされますが、一応、出生地は山口県宇部市であり、高校2年生まで宇部で過ごしました。しかし、本籍は岡山市であり、選挙区は東京であり、民主党政権時代の評判もかんばしくなかったことなどから、地元山口では、「長州出身の総理大臣」としてカウントすることを否定する人も多いのは確かです。

第94代内閣総理大臣として就任。在任中は東日本大震災の陣頭指揮に当たりました。通算在職日数は499日でした。

これらの8人の総理大臣(菅氏も入れれば9人)のうち、5人は戦前の総理、残るは戦後の総理です。

そこで、よく話題になるのが、なぜ、山口県はこれほど多くの総理大臣を輩出することができたのかということです。

山口県民の県民性が政治に反映された結果であるという、いわゆる「長州閥」のおかげであるというのは、これまでもよく取沙汰されてきていることですが、その真偽のほどを検証してみたいと思います。

が、最近多忙につき、ブログにあまり時間を割くことができません。力尽きたので今日はこれまでにさせていただきます。

787

先日修善寺に降った雪は、ふもとの温泉街ではその日のうちに消えてしまいましたが、山の上にあり、北側斜面に建つ我が家では、寝雪になって残っていました。

その雪も、昨夜から降り始めた比較的暖かい雨で融け出し、家の前の公園に植えてある桜の木々がその雨に濡れています。ほんのりとピンク色に見えるのは、早くもつぼみを蓄えているからでしょう。伊豆に春がやってくるのもそう遠くなさそうです。

さて、最近テレビ等で、ボーイング社の最新型旅客機が頻繁に事故を起こしたことに関するニュースが頻繁に流れていますが、このボーイング787という飛行機については薄々は知っていたものの、実際にはどんな飛行機なのか詳しく知りたくなり、調べてみました。

まず、従来機との比較ですが、従来型の中型機のボーイング757や767比べると、その機体幅をかなり広げたワイドボディ機で、特に改良の第一目標となった767より、航続距離や巡航速度は大幅に上回るとともに、燃費も向上しています。

ちなみに、787のひとつ前に開発されたボーイング777は、翼幅、胴体長ともジャンボジェットと呼ばれた747よりも大きく、双発機としては世界最大であり、787はこれよりも一回り小さくなります。

しかし、787では、航続距離や巡航速度の大幅な改善をめざして開発が進められ、中型機としては従来のものよりもはるかに長い航続距離を得ることとなり、今までは747や777などの大型機でないと飛行できなかった距離もこの機を使うことにより直行が可能になりました。

より具体的には、従来の中型機ではアメリカ西海岸あたりまでしか行けなかったものが、この飛行機では東海岸のボストンあたりまで飛んで行けるようになります。

中型機ながら乗客数も大型機並みになり、飛行距離も伸びたことから、従来では飛行距離の大きい大型機しか飛ばせなかった場所へより小さい容量の飛行機を飛ばせることができるようになったことは画期的です。

なぜなら、従来は高い乗客率がのぞめない遠くの場所には、燃料がたくさん積める大型機しか飛ばせなかったものが、今後は思うように客を集められない場合でも、より燃料消費量の少ない中型機ならこうした遠地へ飛ばすことができるようになります。

これにより乗客が多いときには大型機を、少ないときには中型機をと言った具合に、手持ちの飛行機の効率的な運用ができるようになるためです。

これにより、これまでは需要があまり多くなく大型機では採算ベースに乗りにくかった長距離航空路線の開設も容易となりました。

燃料の消費率も少ないというメリットも含めると、この機は従来型よりもはるかにコストパフォーマンスが高く、日本ではANAやJALが新たな国際線への参入を予定しているほか、他国でもこの機の購入を予定している航空会社が多く、これらによる新たなる国際線の開発に向けて大きな期待が寄せられています。

この787は従来型に比べて大きく軽量化を図ることに成功しており、これは炭素繊維を使用した強化プラスチックカーボンなどの複合材料を多用しているためです。

その使用比率は全体の約50%にもおよび、残り半分は、複合材料にすることのできないエンジン等の金属部品なので、実質、機体のほぼ100パーセントは複合材料化されているといえるようです。

ワイドボディとしたため、客室の座席配列は、767やまたヨーロッパ製のエアバスA300クラスよりも広くなり、従来型ではエコノミークラスで2-4-2の8座席が多いのに対し、3-3-3の9座席も可能となり、ジャンボジェットの747のエコノミークラスとほぼ同等の座席幅を確保できるようです。

また、この太い胴体のため、床下貨物大き目のコンテナを2個並列に搭載可能であるといい、客室も従来より天井が20cm高くなりました。従来比1.6倍の大型の窓が採用され、窓側でなくとも外の景色を見ることができるそうです。

窓にはシェードがなく、代わりにエレクトロクロミズムを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節することができる!とか、従来機のボーイング777ではコックピットのみへのオプション装備だった加湿器が、初めてキャビンに標準搭載されており、最新技術を使った空気清浄器も搭載されています。

またトイレには、TOTOと共同開発した、世界初の航空機用の温水洗浄便座がオプション採用されており、ANAでは国際線に導入されているということです。

確かに、高い航空運賃を払わされているのに、トイレだけは旧来のままだよなーと私もかねがね思っていましたので、これを機会に他の航空機における機内環境においても、大いなる変革をはかっていってほしいものです。

ちなみに、新幹線も2014年開業予定の北陸新幹線からは温水洗浄便座が入れられる予定ということで、空のみならず、地上の交通手段におけるアメニティーの向上にも期待したいところです。

このほか、我々が見る機会はまずないといってよいでしょうが、コックピットにも最新技術が導入されていて、777でも採用されていたLCDを多用したグラスコックピットをさらに進化させ、ヘッドアップディスプレイ(HUD)もついているほか、エレクトロニック・フライトバッグ(EFB)と呼ばれる装備も標準装備となりました。

これは、従来操縦士が持ち込んでいた紙に書かれたマニュアル類やチャートなどを電子化し、画面上に表示するものであり、離着陸性能の計算をしたり、地上では空港の地図と自機の位置を表示することもできる最新鋭の装備だそうです。

この787の機体性能ですが、巡航速度はマッハ0.85となり、767のマッハ0.80、やA330、A340のマッハ0.83を上回り、長距離路線では、より所要時間の短縮が可能になりました。

航続距離は最大で8500海里(15,700km)であり、これは前述のように、アメリカ東部のボストンやニューヨークからの東京路線をカバーするのに十分であり、このほかロサンゼルスからロンドン、あるいは、東京からヨハネスブルグへノンストップで飛ぶことも可能だといいます。

炭素性素材を多用するなどして軽量化を図った結果、ボーイング767と比較すると燃費は20%も向上したそうで、これは空力性能の改善にも寄るところが大きいようで、またエンジンも最新の技術が導入されて燃費効率も高まっており、これらの相乗効果によるものです。さらには、軽量化できることによって最大旅客数も若干増加したといいます。

このエンジンは、ロールス・ロイス社製のものとゼネラル・エレクトリックのものの二種類が用意されているそうで、電気接続のインターフェースを標準化したため、これら2種類のエンジンの交換が可能とされており、将来の技術進歩によりさらに高性能エンジンが開発されたときには、異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能になりました。

残念ながらこのエンジンの開発に日本は加わることができなかったようですが、実際のエンジンの製造では、ロールスロイス製のほうに三菱重工と川崎重工が、ゼネラル・エレクトリック製の製造にはIHI(石川島播磨重工)が参加しています。

一方、機体のほうも、その70%近くを日本を含めた海外メーカー、約70社で国際共同開発され、これによって開発費を分散して負担できるとともに、世界中の最高技術を結集した機体にすることが可能となりました。

参加企業は下請けを含めると世界で900社に及ぶそうで、イタリア、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、韓国、中国といった国々が分担生産に参加しており、日本からも前述の三菱重工業などの重工各社をはじめとして数十社が参加しています。

日本企業の担当比率は合計で35%と過去最大であり、これは767のときの15%、777のときの20%を上回っており、この35%という数字はボーイング社自身の担当割合と同じということです。日本の航空機産業への参入もついにここまできたかというかんじです。

ただ、先日のあるニュース番組で、コメンテーターのひとりが指摘されていましたが、これら参加企業が持ち寄った技術は各国の最先端技術であり、それらの部品の中にはある部分がブラックボックスになっているものもあるということで、これらを統合した787を「システム」として運用する場合には、そのブラックボックス部分が大いに問題になります。

システムを統合する側のボーイング社自身がシステムの個々の部分のすべて把握できなくなる可能性があるからです。

787はANAを初めとする導入に手をあげた航空会社への導入が、3年以上も遅れました。このため、ボーイング社としては納入を焦っていたようであり、こうしたシステムとしての統合性の確認をどこか怠っていたのではないかと、このコメンテーターさんは指摘されていました。

また、飛行機のフラップなどを動かす動力系統を、従来機では「油圧」などを用いた機械制御にしていたものを、787からはこれらの動力をすべて「電気」にしたということであり、このため蓄電容量の大きく性能の高いことで定評のあった日本製のユアサのバッテリーを使ったということですが、そのあたりに今回の事故の原因はあるのかもしれません。

このほかにも国産の部品が多数使われているということもあり、国内メーカーはそれぞれ気が気ではないでしょう。

このようにボーイング社外の各国メーカーに部品の提供を依頼している関係から、アメリカ以外の国で製造された部品やエンジン等を最終組立工場に搬送するためには、ボーイング社の専用の輸送機が用いられているということです。

日本で787の製造に参加したメーカーの部品は、その多くの生産工場が名古屋近郊にある関係から、中部国際空港を拠点としてこの輸送機が定期的に飛来しているそうです。

787の製造に参画している重工各社のうち、三菱重工業はジャンボジェットの747が計画された2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、他社よりも機体製造における優位性を持っているようで、この787の開発においてもすでに1994年には重要部分を三菱が担当することが決定しており、海外企業としてボーイングの主翼を担当するのはこの三菱が初めてでした。

ちなみに、三菱が開発した炭素繊維複合材料は、国産の支援戦闘機である、F-2戦闘機の開発をアメリカと一緒におこなっていたときに開発されたもので、これが炭素繊維複合材料が航空機に初めて採用されたケースだということです。

炭素繊維複合材料の研究開発は、アメリカ側でも従来から行って来ていましたが、F-2の開発の最終段階では、三菱側が開発した複合材の方が優秀であるとアメリカ側が評価し、結果的に三菱が主翼の製造の権利を勝ち取りました。

従って、787の主翼の開発においても、この三菱の世界最先端の戦闘機開発で培われた技術が使われており、いまやこうした国産の最先端技術が、世界を飛ぶ航空機にまで応用される時代になったといえます。

一方、胴体の製造では、川崎重工業が前方胴体・主翼固定後縁・主脚格納庫を担当し、富士重工業が中央翼・主脚格納庫の組立てと中央翼との結合を担当しており、三菱が担当する主翼も含めると、機体重量比の半分以上にこれら各社が得意分野とする炭素繊維複合材料が使用されています。

1機あたり炭素繊維複合材料で35t以上、炭素繊維で23t以上も採用されているそうで、世界最大の炭素繊維材の製造メーカーである東レは、ボーイングと一次構造材料向けに2006年から2021年までの16年間の長期供給契約に調印し、使用される炭素繊維材料の全量を供給する予定ということです。

長く経済の不況にあえぐ日本ですが、日本を代表する重工業各社やエレクトロニクス関連企業がこうしたボーイング社の世界最先端の航空機製造技術を持つメーカーの生産に携わるようになっただけではなく、今年はMRJのような我が国独自の技術を投入した「純国産機」も空を飛ぶ予定であり、JAXAの宇宙ロケットのほうも、今後本格的に民用移管が進むようです。

2010年代は、日本では航空・宇宙産業の花開く時代になることはまちがいなく、他の産業のけん引役となっていってほしいものですが、その矢先に起こった今回の事故だけに、一日も早い原因究明が待たれます。