えっーと干支は?


さて、今年も残るところわずか3日になりました。来年の干支(えと)は巳ということで、ヘビの年なので、これにちなんで、お金持ちになれるよう期待したいところです。

このヘビ年だのウマ年だのというのは、誰もが知っている十二支にちなんでおり、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12匹の動物は、誰もが子供のころから慣れ親しんできたものでしょう。

それぞれ音訓2通りの読み方があり、このうちの訓読みのほうの「ね、うし、とら……」のほうは誰もが諳んじて言えると思いますが、音読みのほうはどうでしょうか。

これは、子年から順番に、「し(子)、ちゅう(丑)、いん(寅)、ぼう(卯)、しん(辰)、し(巳)、ご(午)、び(羊)、しん(猿)、ゆう(酉)、じゅつ(戌)、がい(亥)」だそうで、こちらはさすがに全部読める人はあまりいないのではないでしょうか。無論、私もそうでした。

この十二支のことを「地支」というのに対して、「天支」というのがあり、これを「十干(じっかん)といいますが、こちらは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列です。

天干(てんかん)とも言うそうで、十二支も十干も古代中国で考えられ、日本に伝えられました。現在の日本では、干支(えと)というと十二支だけを指すように思われていますが、本来中国では、この十干と十二支を合わせた暦のことを、「干支」と呼んでいました。

この十干については、再度後述します。

そもそも十二支も十干も古代中国で考案された日付を記録するためのしくみです。「殷(いん・紀元前17世紀頃~紀元前1046年)」の時代にはまだ紙が発明されておらず、亀の甲を紙代わりに使い、ここに文書記録を残したものを「甲骨文」といいますが、この殷の時代の甲骨文の中に、既に十二支や十干の用語が出てくるそうです。

日本にこれが伝わった時期については不明ですが、7~10世紀の律令制の時代には既に陰陽師などがこの暦を使っており、その後の戦国時代ころまでには、日付だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになりました。

中国からは天文学も日本にもたらされ、この中では、「十二辰」という概念ももたらされましたが、これは天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したものをさしており、その呼称として「十二支」が当てられました。

中国の天文学ではまた、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、天球を「十二次」と呼ばれる分割方法によって分割し、周期運動する木星の位置を記録していました。

しかし、これは十二辰で定めた天球分割の順番に対しては逆方向であったため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは逆回りに天球を巡る「太歳(たいさい)」という架空の星を考え出しました。

そしてこの毎年の「太歳」の天球における位置が、どの十二辰にあるかを示す紀年法が使われるようになり、その年の十二辰に該当する十二支の名で、その年を「○○年」呼ぶようになりました。これが現在まで使われている「干支(えと)」との起源です。

また、太陽の周りを一年かけて回る地球の1年をこの十二辰の数「12」で割り、これを「月建」と呼んだことから、これが現在の○月という呼び方に発展しました。さらに、時刻も十二辰で割り、「十二時辰」とされ、さらに十二辰は方位の表示にも用いられるようになりました。

「正午」とは、昼の12時を指しますが、この「午」から数えて六つめの「子」を使って「正子」と書き、これは夜の12時のことをさします。

また、赤道に直角に南北を結ぶ「経線」のことを「子午線(しごせん)」と呼びますが、これもこの十二辰の用法の発展です。現在使われることはありませんが、「卯酉線」というのもあり、これは「緯度線」と同じものです。ただし、中国天文学の「卯酉線」は、局所的には一致するものの、現在の緯線と厳密には異なるそうです。

さて、この中国天文学における十二辰の呼称である「十二支」の各文字として、何故動物名が使われることになったかですが、そもそもこれは動物ではなく草木の成長における各相を象徴したものではないかといわれており、中国の漢の時代の歴史書「漢書」にそのことが書かれているそうです。

草木の成長のそれぞれの過程に名前が割り当てられていたわけで、中国ではこれを古くは「十二生肖(せいしょう)」と呼んでいたそうです。

その後「十二生肖」にはそれぞれに動物を割り当てるようになりましたが、もともとの古代中国における十二生肖は、植物の生長過程を現したものですから、動物とは関係なく、単に順序を表す記号であったようです。

これがなぜ動物と組み合わせられたかについては、諸説あるようですが、どちらも十二であることから、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説が有力です。

ただ、現代のイラク付近にあった「バビロニア」の天文学が中国に伝来し、この中の「十二宮」に割り当てられていた動物が中国でも馴染の動物に化けたのではないか、といった説もあるようです。

その後、日本に伝来した十二支ですが、日本ではこの中国天文学を多少アレンジし、同様に伝わった先ほどの「十干」と組み合わせ、「甲子」「丙午」のようにして暦で使うようになりました。

木(もく、き)・火(か、ひ)・土(と、つち)・金(こん、か)・水(すい、みず)の五つの要素のことを「五行」といいますが、これそれぞれに「陰」と「陽」が割り当てられており、5×2=10 となったものが十干(天干)を構成します。

古代殷の時代には、10個の太陽が存在してそれが毎日交代で上り、10日で一巡りすると考えられており、十干はそれぞれの太陽につけられた名前と言われています。この太陽が10日で一巡りすることを「旬」と呼び、現在我々が使っている上旬、中旬、下旬と言う呼び名もこれに由来します。

日本に伝来してからは、陽を兄、陰を弟と呼ぶようになり、この「兄弟」は日本でのもともとの読みが「えと」であったため、いつのまにやら中国から伝わった十二支と十干を組み合わせた暦であった「干支」という用語も日本では「えと」と読むようになったといわれています。

現在の日本人にはあまりなじみのない十干ですが、それぞれ意味があって、それは以下のようになります。

甲(こう・きのえ):木の兄。草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙(おつ・きのと):木の弟。陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙(へい・ひのえ):火の兄。陽気の発揚
丁(てい・ひのと):火の弟。陽気の充溢
戊(ぼ・つちのえ):土の兄。“茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己(き・つちの):土の弟。紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚(こう・かのえ):金の兄。結実、形成、陰化の段階
辛(しん・かのと):金の弟。陰による統制の強化
壬(じん・みずのえ):水の兄。“妊”に通じ、陽気を下に姙む(はらむ)の意
癸(き・みずのと):水の弟。“揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態

この十干「干」と十二支の「支」を組み合わせたものが「干支(かんし)」ですが、10通りの要素と12通りの要素を掛け合わせるといろんな形の暦ができます。

「還暦」という言葉がありますが、これは、12年サイクルである「十二支」が「十干」の半分である5回分回って一巡した年、つまり、12×5=60ということで、60才のことを還暦というのです。

また、十干を表す甲・乙・丙……という順列を頭にし、十二支を表す子・丑・寅……という順列と組み合わせると、60通りの組み合わせをつくることができます。本来は120の組み合わせができるはずですが、120周年サイクルは長すぎると考えたためか、60どまりになっています。この60の中に同じ組み合わせはありません。

そして、例えば甲と子を組み合わせた年を「甲子(きのえね)」の年と呼ぶ慣わすようになり、これがすなわち「干支(えと)」です。60通りあることから、六十干支とも呼ばれますが、一般的には「干支」で通っています。

60通りしかありませんから、60年経つと、また最初の「甲子」に戻りますが、昔の人の寿命はだいたいそれぐらいだったことと、また寛政や天保といった年号がありますから、「天保○○年庚申」などと書くと、ああこの年か、とその年を特定できるわけです。

ちなみに、今年2012年は、「壬辰(みずのえたつ)」で六十干支の順番でいくと29番目になります。また、来年2013年は、「癸巳(みずのとみ)」です。

なお、話がさらにややこしくなるので、適当にやめますが、十干には、「五行」である木・火・土・金・水、毎の兄弟(陰陽)の十通りの組み合わせにはそれぞれ意味(性質)が割り当てられていて、なおかつ、十二支のそれぞれにも五行に基づいた意味(性質)が割り当てられています。

例えば来年の十干である「癸」は「陰の水」であり、十二支である「巳」は、「陰の火」となりますが、この年年に異なる組み合わせで、その年がどんな年かが定められています。

それによると、今年の「壬辰」は、「土剋水」といい、これは「土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。」という意味です。

また、来年の「癸巳(みずのとみ)」は、「水剋水」であり、これは「水は火を消し止める。」という意味を持ちます。

これをどう解釈するかは、みなさんのご想像におまかせしますが、私はこの「土で水が汚れるけれどもその土が逆に水を堰き止めてくれる」というのを、「いろいろと問題の多い年ではあったが、なんとか踏みとどまることができた」と解釈してみました。

ちなみに、東日本大震災や原発事故のあった昨年の干支は、辛卯(かのとう)であり、その性質は「金剋木」であり、この意味は「金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。」でした。まさに天災や人災が我が国の資産や人々を傷つけ、「切り倒した」年であったわけです。

だとすると、来年の干支である「癸巳」の「水は火を消し止める。」は、長かった我が国の災いもようやく「消し止められる」という意味になるかもしれません。期待しましょう。

さて、このように、十干と十二支を組み合わせた暦のことを、古くは「えと」と呼んでいましたが、今日では十干のほうはすっかり廃れてしまい、こうした古い暦は使われなくなり、「干支(えと)」と言えば十二支だけの代名詞になってしまいました。

「十干」は忘れられつつあり、せいぜい酒類の品質表示として「甲乙丙丁」などのグレードを表す言葉として使われているぐらいで、他のグレードもほとんどが「ABC」になってしまっています。

そして、動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っています。

近年ブームとなっている風水は、この十二支だけを用いたもので、東西南北の四方位が十二支の子・卯・午・酉に配当されるのに加えて、北東・南東・南西・北西はそれぞれ「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬい」などと呼ばれ、これに該当する八卦には、また別途、「艮」「巽」「坤」「乾」などの新しい仕組みの文字があてられ、それぞれに意味を持たせています。

ちなみに、北東は「艮(ごん)」と呼び、これは「鬼門」とされ、同じく「坤(こん)」と呼ばれ、「裏鬼門」される南西方向とともに忌み嫌われています。

これは、北東方向が「うしとら」であるため、ウシのような角をはやし、トラの皮のふんどしをしめた「鬼(オニ)」がいるというイメージが定着したものといわれます。が、南西方向は未申(ひつじさる)ですが、猿の形をした羊なのか、羊の形をした猿なのかよくわかりませんが、あまり迫力はありませんね。

この十二支は、城郭建築における建物のネーミングにも使われており、曲輪(くるわ)の四隅に置かれた「櫓(ろ)」は防御の拠点ですが、「辰巳櫓(たつみろ)」などのように、方角の名称をあてて櫓の名称とする習わしがあります。

また江戸には、「辰巳芸者(たつみげいしゃ)」と呼ばれる芸者さんたちがいましたが、この芸者さん達は、江戸城の南方にあたる、深川仲町に住んでおり、この方向が辰巳の方向であったことから、この界隈にあった遊郭を「辰巳の里」と呼んだことにちなんでいます。

この遊郭は幕府公認の遊里ではなかったために、辰巳芸者は男性名を名乗り、男が着る羽織を身につけたため、「羽織芸者」とも呼ばれましたが、「鉄火で伝法」、「気風(きっぷ)がよくて粋」ということで、江戸っ子の間では人気の芸者衆だったようです。

さらに、十二支は、航海用語にも取り入れられており、船舶航行時に使われた「おもかじ」「とりかじ」という言葉は、「卯面梶」「酉梶」から来ているとする説もあります。

このように、十二支は日本の文化にすっかり溶け込んでいますが、その「輸入元」である中国で使われている十二支とは少し違っています。

中国では十二支のことを依然「十二生肖」と呼んでいるようですが、このほか「十二属相(じゅうにぞくしょう)」とも呼ばれています。日本の十二支に相当するのが、「鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊・猿・鶏・犬・豚」であり、その内訳を見ると「豚」だけが日本のイノシシと違っています。

このように豚に変わって猪を十二支に加えているのは、近隣諸国の中では日本だけだそうです。これはおそらく日本ではあまり動物の肉を食べるという習慣がなく、もし動物を必要とするとしてもその都度狩猟によって捕獲していた「狩猟文化」の国であったため、豚や牛などの家畜を飼うという風習がなかったためと考えられます。

「猪」は、本来はブタを意味する漢字だそうで、本来は豚を意味していたものが、日本人にとっては狩猟をおこなうことで目にしやすいイノシシの意味になり、十二支にもこちらが加えられるようになったようです。

中国以外の国では、ベトナムやタイ王国にも十二支にあたるものがあるそうですが、これらの国でも割り当てられる動物に若干の違いがあり、ベトナムでは丑は水牛、卯は猫、未は山羊だそうで、亥はやはり中国と同じ豚です。

タイでは未が山羊、亥は豚ですが、その他は日本と同にということです。さらにモンゴルでは寅の代わりに豹(ひょう)を用いるそうで、インドでは酉は「ガルーダ」と呼ばれる神話に出てくる神鳥であり、アラビアでは辰がワニに、ブルガリアでは寅が猫にそれぞれ置き換わるということです。

意外にもロシアでも十二支は親しまれているそうですが、日本や中国のように暦として定着するほどのものではなさそうです。が、大きな町などへ行くと、露店などで十二支の置物などを普通に売っているとのことで、おそらくは中国からの輸入文化として定着したものでしょう。

さて、日本でこうしたおなじみの十二支ですが、ほかにも多々いる動物の中からこの12種類が選ばれた経緯については、いろいろ語り継がれてきた伝説があります。

そのひとつは、次のようなものです。

あるとき、お釈迦様は動物たちから新年の挨拶を受けることになりました。ちょうど、十二支の干支を決めようと思っていたお釈迦様は、これは良い機会だと思い、新年の挨拶に来た順番に十二支の動物を割り当てることにしました。

お釈迦様の招集により、その指定された会場へ指定日にぞくぞくと動物が集まってきました。

牛は足が遅いので早めに行ったのですが、一番乗りしたのは牛の背中に乗っていて、到着する直前にここから飛び降りて会場へ駆けつけた鼠でした。このため、牛は二番目になってしまいました。

鶏も会場へ向かおうとしましたが、行こうとしたら猿と犬が喧嘩をしていたので、この仲の悪い二人を「仲」をとりもつことにしたために、猿と犬の間に入って会場に到着することにしました。

一番乗りした鼠ですが、会場へ行く途中、猫に挨拶に行く日を尋ねられ、このとき嘘をつき、実際よりも一日遅い日を教えました。このため猫は十二支に入ることができず、これを根に持った猫は、それ以後、鼠を追いかけまわすようになりました。

鼠の嘘を信じて一日遅れて挨拶に行った猫は、お釈迦様から「今まで寝ていたのか。顔を洗って出直して来い。」と言われ、それからよく顔を洗うようになりました。

こうして、十二番目に猪が会場に入り、めでたく十二支が決まりましたが、13番目に会場に入ったのは鼬(イタチ)でした。十二支に入れず、くやしがるやら悲しむやらのイタチをかわいそうに思ったお釈迦様は、それから毎月の最初の日を「ついたち」と呼ぶように、と他の動物たちに言い渡しました……

こうしたお話は代表的なものであり、地方によってはまたいろいろ違ったバリエーションがあるようです。13番目の動物はカエルやシカであったという話もあるそうで、自分なりにまたストーリーを考えてみるのもまた面白いかもしれません。

さて、昨日は一日雨模様でしたが、今日は朝から陽射しに恵まれるようになりました。年末年始のお買いものにもいかなければなりませんが、お釈迦様に叱られた「猫」が破った障子も張り替えなくてはなりません。

それが終われば残すところはあと二日。確かに「いろいろと問題の多い年ではあったが、なんとか踏みとどまることができた」年だったようにも思います。来年は干支どおり、「水で火を消し止める」ことができるような一年になるでしょうか。期待したいところです。

もり蕎麦 vs かけ蕎麦


今日は御用納めです。多くの人は明日からお休みに入り、大掃除を済ませ、お節料理の準備をしたら大みそかに突入というパターンでしょう。家族で地方などにある実家に帰り、ご両親たちとお正月を過ごされる方も多いことと思います。

先日の笹子トンネル事故後、中央高速の不通が気になっていましたが、29日にはなんとか開通がかなうようで幸いでした。車で地方へ移動される方、道中お気をつけていってらっしゃい。

我々は、今年はここ伊豆で、年越しそばを食べることになりそうです。無論、生まれて初めての体験です。修善寺温泉には蕎麦屋さんもたくさんあるので、あるいはそうしたお店で食べてみるのも一興かも。検討してみましょう。

蕎麦がき

さて、この蕎麦ですが、いわずと知れた代表的国民食であり、主食としても惣菜としても、またまた酒のつまみにもなる、とても重宝な食べ物です。

歴史は古く、うどんや寿司、天麩羅と並ぶ代表的な日本料理ですが、今日、単に「蕎麦」と呼ぶ場合、通常は麺状に細長く切った、「蕎麦切り(そばきり)」を指します。

案外と知らない人も多いようですが、その昔そばは、粒のまま粥にして食べたり、あるいは蕎麦粉を「蕎麦掻き(そばがき)」といって、通常の蕎麦のように麺状にせず、塊状として食べるのが普通な時期がありました。

「蕎麦掻き」という言葉は、5世紀の文献に既に現れているそうで、縄文土器にもこの蕎麦掻きらしい蕎麦料理を食べていた形跡が発見されているそうです。これは、蕎麦粉に熱湯を加えるか、水を加えて加熱し、箸などですぐかき混ぜることで粘りを出して塊状にしたものです。

子供でも簡単に作れるので、蕎麦の産地では昔からおやつとして定番だったようで、現在でも蕎麦屋さんで酒のつまみとして出す店もあるようです。実は私も食べたことがないのですが、食べ方としては、麺の蕎麦とは違い、箸で少しずつちぎりながら、そばつゆや醤油をつけて食べるようです。

蕎麦粉に熱湯をかけて混ぜ、粘りがでた状態からお団子を作るのが「椀がき」で、小鍋に蕎麦粉と水を合せコンロなどで加熱しながら練って作るのが「鍋がき」というそうで、この違いは何かなと思ったら何のことはない、コンロの上に乗せて火を通すか通さないかだけの違いのようです。

おそらく、「椀がき」のほうは、火にかけない分、より「生」っぽい柔らかなものができ、「鍋がき」のほうは、「つみれ」のようなしっかりとした食感が出るのでしょう。

こうしてできたものを、より柔らかくしてご飯を混ぜ込んだり、手でちぎってすいとんのように出汁に落として煮たりと、いろいろなアレンジができるため、最近は手軽な家庭料理として静かなブームになりつつあるみたいです。

これに似たものは、イタリアにもあり、「ポレンタ」というそうですが、これはトウモロコシの粉を練って作るそうで、同じようなものが東アフリカにもあり、こちらは「ウガリ」と呼ばれていてこの地方の人の主食だそうです。

このように、水を加えて加熱することで、蕎麦粉のでんぷんを糊化(アルファ化)させることにより、消化吸収がよく蕎麦の栄養を効率よくとることができるため、健康食としても見直されているといいます。

このほか、「蕎麦焼き」というのもあるようで、これは蕎麦粉を水で溶いた「椀がき」を火であぶったもので、一種のクレープです。クレープの中には蕎麦粉を使う者もあると聞いたことがありますので同じものでしょう。ただし、クレープの場合は甘い味付けをするのでしょうが。

蕎麦切り

水で練った蕎麦粉を、現在のように麺の形態に加工する「蕎麦きり(そばぎり)」は、16世紀末あるいは17世紀のはじめころにこういう形になったようです。うどんなど小麦粉を原料とする麺類はそば粉から作るものよりも高価だったので、最初はコストを下げる目的で蕎麦粉を混ぜ込んだようですが、やがて蕎麦粉のみを使った麺も作られるようになりました。

しかし、蕎麦粉8:小麦粉2で打った「二八蕎麦」などは現在でも健在で、蕎麦粉100%の蕎麦よりもなめらかな味わいが出るということで人気があります。この「二八」は、蕎麦粉の割合ではなく、江戸時代後期にこうした蕎麦の値段が16文であったことから九九の二×八からつけられたネーミングであるという説もあるようです。

なお、二八蕎麦には、蕎麦粉10:小麦粉2で打った外二八蕎麦というものもあり、これは計算すると、16.7%そばです。他にも七割蕎麦とか、五割蕎麦とか、蕎麦の割合に応じて勝手な名前をつけているものも時々みかけるので、蕎麦粉に小麦粉をどの程度加えるかについては、どうしても二割でないとダメ、といかいうルールはないようです。

蕎麦粉100%の十割蕎麦は、工場生産の場合、通常はお湯を加えて糊化を促進して作りますが、粘度の高いどろどろ状にした「つなぎ」を蕎麦粉にまぜて成形していく方法や、通常よりもさらに蕎麦粉を細かく挽いて練る方法、押し出し麺により製造する方法などなどがあり、風味のよい蕎麦切りを作るために各メーカーともいろんな工夫をしているようです。

が、やはりなんといっても、粗挽きの蕎麦粉を人が水練りによって形にしていく「手打ち」蕎麦の風味は抜群です。蕎麦の練りには天候や気温が大きく影響するため、素手でその練り具合を確認しながら、徐々に成形していくのは、熟練の職人さんでも難しいといいます。

もともと蕎麦粉は小麦粉のように練っても高い粘度が出ないので、十割蕎麦は小麦粉をつなぎに使った二八蕎麦よりも切れやすく、このため、江戸時代には今のように茹でる蕎麦ではなく、蒸籠に乗せて蒸し、そのまま客に供する形主流でした。これを「せいろそば」といい、今もその形で蕎麦を提供しているお店をときどきみかけます。

江戸時代以降、現代までに蕎麦の食べ方として最も普及したのは、「もり蕎麦」または「ざる蕎麦」でしょう。茹でた麺を水でしっかり洗ってぬめりを取り、竹製の蒸篭(せいろ)や笊(ざる)に盛り付けていただく様はおなじみです。

またもり蕎麦には、大根おろしやとろろを加えることも多く、これを特に「おろし蕎麦」「とろろ蕎麦」といい、関西ではこれに鶉(うずら)の生卵(関西に多い)を入れることも多いようです。

このほかカモ肉や鶏肉などを煮込んだ「タネ」を入れた温かいつゆをもり蕎麦とは別に出し、「つけ麺」にして食しますが、このタネを入れただし汁を「ぬき」というのだそうで、「蕎麦ぬき」の意味のようです。こちらは、「鴨つけ」とか「肉つけ」あるいは「鴨せいろ」「肉せいろ」などとして蕎麦屋のメニューに並んでいますね。

もりとざる

ところで、この「もり蕎麦」と「ざる蕎麦」はいったい何が違うんだろう、といつも思うのですが、その違いは元来、蕎麦が盛ってある器の違いだったそうで、もともとは「ざる蕎麦」は「竹ざる」に乗せてあるものを指します。

ざる蕎麦の発祥は、深川の州崎弁財天前にあった「伊勢屋」というお店だったそうで、蕎麦を竹ざるに載せ、またつゆにもこだわって通常よりはコクのあるつゆを使って出したこところ評判がよく、大いに繁盛したといいます。このため、ほかの蕎麦屋もこれを真似たため、「ざる蕎麦」ということばが広まったということです。

それまでは、冷たいつゆや熱いつゆを直接蕎麦にかけて食する「ぶっかけ」と呼び、これに対して、そばを盛ってつけ汁とは別に出す蕎麦のことを「盛り蕎麦」といっていました。

そもそも「ぶっかけそば」と区別するために汁につけて食べるそばのことを「もり」と呼んでいたわけですが、この伊勢屋の「ざる蕎麦」が出回るようになってから、両者の呼称が混在するようになっていったようです。

ところが、明治に入ってから、これらの蕎麦に刻んだ海苔を散らす風習が加わり、これがいつのまにか海苔のかかったもののほうを「ざる蕎麦」と呼ぶようになり、かかっていないものを「もり蕎麦」と呼んで区別するようになりました。こういう区別を始めたのがどこの店だったのか、関東なのか関西なのかはその発祥はわかっていないようです。

しかし、今ではせいろ(ざる)に乗った蕎麦でも海苔がかかっていれば「ざる蕎麦」となり、同様にざるに乗っていても海苔がかかっていなければ「盛り蕎麦」と呼んで区別するようになりました。

お店によっては、この二つのメニューが並列する場合、海苔の材料代を確保するためか、ざる蕎麦のほうがやや高い値段がつけられていることが多いようで、これからするとざる蕎麦のほうが、やや高級な食べものというかんじもします。

が、いわゆる「そば通」と呼ばれる人の中には、蕎麦とは香りと歯触りを賞味すべきものであるとして、海苔が載っているざる蕎麦は風味が損なわれると言って嫌う人も多いようです。

歴史小説作家、直木賞作家として有名な池波正太郎の書生をつとめ、自らも蕎麦好きというルポライターの佐藤隆介さんは、よく池波さんと蕎麦を食べに行ったそうですが、「めんつゆに卵を入れようとしたところ、卵など入れてはいけないと」池波正太郎にたしなめられたそうです。

また池波さんは、海苔の載せてあるざる蕎麦なんて蕎麦ではない、と言っていたようで、蕎麦切り本来の滋味を味わうにはもりが一番であると常々言っていたそうです。

もり蕎麦(ざる蕎麦)食する場合、つゆの薬味としては、摺り下ろしたわさびと刻んだネギが定番です。つゆとは別にされ、好みに応じた量がとれるようになっており、わさびはつゆに溶いたり、風味を損なわないように蕎麦に乗せたりするなど微妙な調整が必要です。このあたりの微妙な味わいもツウの人にはたまらない魅力なのでしょう。

江戸っ子は蕎麦好きで有名ですが、古い時代の江戸では、うどんのほうが盛んに食べられていました。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたそうです。

江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、白米やうどんなどのでんぷん質を多用していたために蔓延していた「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できることを食に敏感な江戸の庶民が知るようになっためではないかという説もあるようです。

しかし、このことが科学的に証明されるのは明治時代以降のことです。おそらくは、徳川幕府によって質素倹約が強く奨励された江戸にあって、庶民の間でもうどんよりも原料代が安い蕎麦のほうが受け入れやすかったのではないかと考えられます。

また、蕎麦はうどんと違って、これを食しながら酒を飲むということが江戸時代に流行ったようで、これも蕎麦が普及した原因でしょう。江戸では蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称し、現在の東京でも蕎麦屋とうどん屋を比べると、酒を出すのは蕎麦屋のほうが多いのが普通であり、当初から酒をのみながら蕎麦を食うことが「通」とされる傾向があったようです。

こうした蕎麦に対するこだわりは江戸時代を通じてつちかわれていき、その「粋」を重んじる様は江戸を代表する文化のひとつだと称されるほどです。

蕎麦に対する「意地」や「見栄」のようなものがあり、蕎麦の食べ方ひとつにしてもこだわりがあって、よく、もり蕎麦を食べるときには、蕎麦の先だけをつゆに浸して食べるのがツウだということがいわれます。

多くの蕎麦好きは、新蕎麦の季節ともなれば蕎麦の味よりもむしろ香りを重要視するといい、そうした香りを存分に味わうには、空気と一緒に啜り込み、鼻孔から抜くようにしてしかもズルズルと音をたてて食べることによって存分に賞味できると主張しています。

関東のそばつゆは濃いめなことが多く、ちょっと浸すことで十分だからでもありますが、こうすることによって、蕎麦の風味を十分味わえるといい、さらに口に入れたらあまり噛まずに飲みこみ、喉越しと鼻に通る香りを楽しむのが良いのだとか。

蕎麦つゆに蕎麦をたっぷりと浸すのは田舎者で、江戸っ子はさっとつけて啜り込むのを粋とする風潮があり、落語家の10代目金原亭馬生の落語に「そば清」というのがありますが、この中で江戸っ子が「一度でいいから蕎麦をつゆにたっぷりつけて食ってみたかった」と言い残して事切れる、という有名な話があるくらいです。

大きな入れ物にたっぷりと蕎麦が入って出てくるのも野暮とされ、蕎麦の量は少ないほどよく、もし足りなければ2~3枚食べるのはあたりまえ。箸は割り箸に限り、塗箸は蕎麦が滑るのでタブー、酒を飲むのでなければ、さっさと食って引きあげるのが粋、などなど蕎麦に対するこだわりは徹底しています。

江戸時代には蕎麦を食べることを特別に「手繰る(たぐる)」とまで呼んだそうで、このような気取った言葉を使うこと自体がもう一つの文化といえます。

もり蕎麦やざる蕎麦といえば、そのもうひとつの魅力が、「蕎麦湯」でしょう。ご存知のとおり、蕎麦を茹でるのに用いたゆで湯のことですが、蕎麦に添えて湯桶で飲用に出す店が多いようです。蕎麦を食べた後に残った蕎麦つゆにこの蕎麦湯を足して、「最後の締め」として飲むわけですが、蕎麦つゆで割らずに蕎麦湯のみを飲む人もいるようです。

また、残った蕎麦つゆを一旦捨てて、新しい蕎麦つゆを頼んで蕎麦湯を割って飲む人もいるようですが、通常のお店ではそこまでサービスしてくれません。「たかが蕎麦湯」なのですが、結構奥が深く、良水を多量に使用する店では蕎麦湯はサラッと薄く、ゆで湯が少なめで使いまわしている店ほど濃くなる傾向にあるといいます。

しかし、このドロッと白濁した濃い蕎麦湯を好む客も多く、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客もいるため、わざわざゆで湯を煮詰めたり、そば粉や小麦粉を溶かし込んで濃い蕎麦湯を作る店もあるそうです。が、蕎麦湯に残った蕎麦の風味を楽しむという意味では、良水をゆでたあとのストレートな蕎麦湯を味わうのがツウというわけです。

このほか、お酒を出す蕎麦屋さんの一部では、焼酎を蕎麦湯で割った「蕎麦湯割り」なるメニューがあるところもあるようで、これはこれでおいしそうです。

かけそば

さて、以上が冷たい方の雄であるもり蕎麦、あるいはざる蕎麦のお話でしたが、これに対して、茹であがった蕎麦の上に、熱いつゆをかけて食べるのが「かけ蕎麦」です。が、この食べ方は、もり蕎麦やざる蕎麦より新しい食べ方だそうです。

かけそばは、江戸初期の元禄時代(1698~1704)に、荷運び人夫たちが「つゆを付けてから食べる蕎麦切りを面倒」と思い、蕎麦につゆを掛けて食べるようになったのが始まりだそうで、とくに寒い時期を中心に暖かいつゆで食べられるようになりました。

元禄後の1751年(寛延4年)には「蕎麦全書」なるものが江戸で刊行されており、こうしたものが出版されるほどこのころには蕎麦はポピュラーかつバラエティーに富む食べものであったことがわかりますが、この本には新材木町にあった「信濃屋」で「ぶっかけ」が始まったと記述されているそうです。

この「ぶっかけ」は最初は冷たいつゆをかけるものだったそうですが、上記のように人足達の間で暖かいつゆをかけることが流行したため、寛政年間(1789~1801)のころからはこれを「かけそば」と呼ぶようになっていったともこの「蕎麦全書」に書いてあるそうです。

このほか、「かけそば」を「下品な食べ方」としており、「もりそば」のほうが風流な食べ方とされていたようですが、ひとつの器で食べる簡便さが重宝がられ、江戸だけでなく日本各地へ広がっていっきました。

ただ、蕎麦を食すること自体は、下賎の風習として上流階層には敬遠されていたようで、武家や公家などの間では人前で蕎麦を食するものではなかったと書かれた史料も残っており、生活が苦しい小身の旗本でも蕎麦をおおっぴらに食べることは控えることが原則だったようです。

しかし、これは幕府直参の見栄であって、実際には外様藩の下級武士を中心として多くの武士も蕎麦をこっそり食べていたに違いありません。

こうしたあたたかい「かけそば」の薬味としては、小口切りにした長ネギと七味唐辛子がよく用いられます。私自身は七味やら何やらをいろいろ入れるのはあまり好きではないのですが、細かく刻んだ柑橘類の皮を入れると、風味が立ちというので、これを好む人も多いようです。

現代でも、温かいつゆに入った蕎麦は「かけそば」といわれることが多いようですが、「冷たいつゆを使用したかけ蕎麦は「ぶっかけそば」と呼んで区別する場合もあり、「冷かけ」と呼ぶ地方もあるみたいです。

冷たいぶっかけそばは、茹でた後にしっかり洗ってぬめりを取り、食べる際には別の器に入ったつゆをかけて麺を浸した状態で食べます。器は丼型か、より広口の器が用いられ、深皿のような浅い器も用いられることが多いようですが、出水そば(鹿児島県)や出雲そば(島根県)のように小型の皿に分けられていることもあります。

具は地方によっていろいろのようですが、一般的にはキュウリ、錦糸玉子、カマボコ、ワカメなどが入っており、これらが蕎麦の上に綺麗に盛り付けられた状態で客に出す蕎麦屋もあるようで、これは「冷やし中華」の影響と思われます。

その他のそば

以上のように、蕎麦といえば冷たいもり蕎麦か、あたかいかけそばか、といわれますが、このほかに、「トッピング」に何を選ぶかによって、その名称が様々に変わるのが蕎麦の特徴でもあります。

天かす(揚げ玉)を具とするのが、「たぬきそば」であり、これは天ぷらがなかったので天かすをのせたのがそもそもの始まりだったといわれ、「タネ」がない、つまり「タネ抜きそば」がなまったのだともいわれます。

また、客に出そうとしたら、天ぷらが品切れだったので客を「騙す」ためにて天かすを添えて出したため、「客を化かした」ということで狸そばだと呼ぶようになったのだという説もあります。

天ぷら蕎麦は、江戸中期に貝柱のかき揚げなどを載せたのがはじまりだそうで、エビ天が載ったのが最上級品とされますが、東京などの関東ではこのほか野菜などのかき揚げを載せることが多いのに対し、関西では小海老をたっぷり使ったかき揚げが普通だそうで、文化の違いを感じさせます。

なお、関西では、天ぷらそばといえば天かすやえび天の載った蕎麦ではなく、味付けした薄揚げが載っているものを指すそうです。このほか関東では竹輪の天ぷらを載せることが多く、九州ではさつま揚げが載っている場合が多いなど、「天ぷらそば」の文化は各地で違うようです。

このほかにも生卵などを「月」に見立てた「月見そば」、先にも書きましたが「とろろ」を入れたとろろ蕎麦や大根のおろしを入れた「おろし蕎麦」、カモ肉を入れた「鴨南蛮」、これにカレーを入れた「カレー南蛮」、わらびやなめこなどの山菜を入れた「山菜蕎麦」「なめこ蕎麦」などがポピュラーなところでしょう。

「コロッケそば」というのもありますが、これは立ち食い蕎麦屋などでよくみかけるジャガイモを入れたいわゆる「コロッケ」を載せたものが元祖ではないそうです。

これは、浅草にあった「吉田」というお蕎麦屋さんが、鶏肉のつくねをのせたものをこう呼んだのが始まりだそうで、現在では「吉田」の後を継いだ銀座の「よし田」というお店でコロッケ蕎麦を提供しているということです。

関東vs関西

さて、この蕎麦の味付けとされる「つゆ(蕎麦汁)」は、関東と関西とでは色・濃さ・味になどに明らかな違いがあり、好みが分かれるようです。

江戸時代を通じて蕎麦好きだった関東人は、現在でもうどんより蕎麦の方が支持されているようで、蕎麦を食べる前提で作られた濃厚なつゆをうどんに用いるのも、これに起因すると見られています。

一方、大阪ではそばよりもうどんの方が一般的に好まれるようで、どちらかといえば、うどん屋が利用者のニーズに応えて、「ついで」に蕎麦も出しているという感覚だそうで、この逆に蕎麦屋であってもうどんを提供する店も多いようです。

また、かけそばでは、元来うどんに用いる前提で作られた淡口醤油を基調とした透き通った汁であることが多く、そばもうどんも濃い物を用いる関東とは真逆です。また、そば自体も産地の関係か一般に黒そば、田舎そばなどと呼ばれる殻ごとひいたものが好まれる傾向にあるそうで、関東の人はこうしたものはあまり好みません。

ところが、同じ関西でも京都は古くからの蕎麦屋が多く蕎麦好きな人が多いことで知られています。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためのようで、京都といえば「ニシンそば」が有名ですが、これは幕末に古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」が流行したことに発想を得て出てきたもののようです。

とはいえ、全体的に見れば、京都も大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるそうです。ただし、大阪のようにそば屋がうどんを提供するというのは稀だそうで、蕎麦屋でうどんを、うどん屋で蕎麦を出す大阪だけが他地域とはちょっと違っています。

このほか、関東でも関西でもない日本の農山部においては、蕎麦はどちらかといえば貴重品でもあったことから、伝統的に蕎麦切りはもてなしの料理であり、このほか祭礼や正月にしか食されてこなかったようです。

しかし、江戸や大坂への重要な「輸出産物」であったことから、例えば長野県などでは、どこの家でも素人ながらに蕎麦打ちの技術を持っているといわれ、来客があると、家の主人もしくは主婦が蕎麦を打ち、食事として供したといいます。

長野だけでなく多くの農村部での蕎麦の食べ方は、江戸や大坂と異なり、にんじんや椎茸などの山菜を細切りにして煮込んだ澄まし汁やみそ汁をつけ汁椀を用意し、「もり蕎麦」形式で食べる地方が多いようです。また、蕎麦掻きは、作るのが簡単であることもあり、農作業の合間に口にすることも多かったようです。

このほかその他の雑穀類と同様に団子にしたり、野菜を煮立てた中に蕎麦粉を入れてかき混ぜるような食べ方もあったようですが、豊かな時代になって食糧自給する必要がなくなり、東京や大阪などの都会風の蕎麦の食べ方も普及したため、こうした地域ごとに特色のあった蕎麦の食べ方は廃れつつあるようです。

蕎麦の栄養

さて、この項も長くなってきましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。

健康ブームが隆盛を極める現在にあって、ヘルシーな「粗食」とみなされることの多い蕎麦ですが、古い中国の薬学書「本草綱目(ほんぞうこうもく)」には、「腸胃を実(み)たし、気力を益し、精神を続(つ)なぎ、能く五臓の滓穢を煉る」と書かれているそうです。

また前述のように蕎麦は、ビタミンB1を豊富に含み、脚気などのビタミンB1欠乏症の予防に効果もあり、このように高い栄養価をもつ蕎麦には滋養強壮効果が期待できそうです。

蕎麦粉のタンパク質含有量は、大豆などに比較すればそれほど多くはないものの、その蛋白質は、人の体内で十分な量を合成できず、栄養分として摂取しなければならない高品質の「必須アミノ酸」を多量に含んでいるということで、穀物としては非常にバランスの良いものだそうです。

また、蕎麦粉には「ルチン」という機能性成分が大量に含まれていて、これは俗に「健康によい」物質だといわれており、抗炎症効果や血流改善効果などの様々な効果が論文などで報告されているということです。

ネパールでの1992年の血圧調査では、蕎麦粉を主食としている地域は、小麦粉を主食としている地域よりも血圧が低かったといい、高血圧の人には効きそうです。

ただし、蕎麦粉に小麦粉を混ぜて麺を作ると、小麦粉のアミノ酸組成の影響を受けて蕎麦麺のアミノ酸性能が低下するそうなので、蕎麦を食べるならば二八蕎麦よりも十割蕎麦のほうがよさそうです。

なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むと良いという俗説があるようですがは、生蕎麦の茹で時間はせいぜい1分未満と極めて短いため、溶け出す量は限られ、またルチンは不溶性であるため、あまり意味はないということです。

一方、蕎麦には、「そばアレルギー」物質が含まれているとして、食品衛生法施行規則でもこうしたアレルギー物質を含む「特定原材料」として指定されており、アレルギーのある人には注意が必要です。

アレルギー反応の症状としては、軽い頭痛から嘔吐など様々であり、症状は食後すぐから現れるそうなので、そばアレルギーの人はそれを知っていると思われますが、万一、蕎麦を食べたことがないという人は注意が必要です。

過去に、給食でそば粉を使用した蕎麦を食べた事が原因で発作をおこし、吐瀉物が気管に入って小学生が窒息死した事故があったそうで、蕎麦は食べていないつもりでも、そば・うどん店では同じ釜でそば・うどんを茹でる場合も多いため、そのプロセスでアレルギー物質が混入する可能性があるということで注意が必要です。

また、そばアレルギーを持っていないと思われる人でも、そば畑や蕎麦の実を収穫し扱っている際に、アレルギーの症状が顕在化する場合もあるそうなので、ご心配な人は皮膚科や内科に行って、アレルゲン検査をしてもらったほうが良いかもしれません。

最後に

さて、蕎麦のように長々と……というよりもだらだらと書いてきてしまいましたが、本当に最後に、なぜ、年越し蕎麦を食べるのか、についてだけ。

この年越し蕎麦ですが、江戸時代中期には既に、商家などで月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)という習慣が定着していました。これが転じて大晦日だけに行われる年越し蕎麦になったと考えられています。

年越し蕎麦に関する伝承としては、年を越してから食べることは縁起がよくないとするものが多いようですが、なぜ縁起がよくないかというと、年内に蕎麦を残してしまうと、新年は金運に恵まれず、小遣い銭にも事欠くことになるためといわれています。

じゃあなぜ、年内に食べてしまわないと金欠になるのか、と問われるとこれには適当な答えがありませんが、蕎麦は切れやすいことから、一年間の苦労や借金を「切り捨て」翌年に持ち越さないよう願ったため、という説があります。

また、蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願うために、これを年末に食べるのだとも、家族の縁が長く続くようにともいわれており、「金の切れ目が縁の切れ目」変じて、蕎麦の切れ目が縁の切れ目とならないように祈るものでもあるようです。

さて、この年末、あなたはかけ蕎麦で年を越しますか、それとももり蕎麦ですか?

空母のある風景

鳳翔

1922年(大正11年)の今日、横須賀の海軍工廠で、一隻の軍艦が竣工しました。その名は「鳳翔(ほうしょう)」といい、日本海軍初の航空母艦でした。

鳳翔は、設計と開発段階から「純粋空母」としての運行を目的として建造された船であり、「正規の空母」としては世界で最初に完成し、第二次世界大戦に実戦投入された艦です。

1903年(明治36年)にライト兄弟が世界に先駆けて動力飛行機を飛ばし、その直後に航空機が実用化されるようになったころから、もう既に各国の海軍は航行中の艦船から航空機を発着させる努力を初めていました。

アメリカは1910年(明治43年)には早くも軽巡洋艦「バーミンガム」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功しており、翌1911年(明治44年)には装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功しています。

また、1912年(大正元年)にはイギリスでも仮設甲板からの離艦に成功しています。がしかし、これらの成功はいずれも既存の艦船上の仮設甲板を使用しただけでなく港内に停泊中の艦からのものであり、実用性は乏しかったようです。

その後の第一次世界大戦では、世界で初めて航空機による索敵・爆撃・雷撃・空中戦が行われるようになり、1914年(大正3年)には、日本海軍も水上機母艦「若宮」(5180トン)をドイツ軍基地のあった中国の青島沖に派遣し、搭載機(ファルマン水上機)が攻撃を行っています。

ただし、この「若宮」は、水上機の「母艦」にすぎず、このため飛行機を搭載していたとはいえ、その発着は海面を用い、機体はクレーンで揚収する形式でした。

英国も比較的高速な2000〜10000トンの商船を水上機母艦に改造し、1914年12月に数機編隊でドイツ本土を攻撃していますが、これもやはり日本と同じ水上機の母艦にすぎず、自艦からの飛行機の発着はできませんでした。

当然、この程度の攻撃力では不十分であると感じたイギリスは、巨砲を有する超大型巡洋艦として建造中の「フューリアス」(19000t)の砲を降ろし、前甲板を完全に飛行甲板に改造します。

この「フューリアス」は1917年(大正6年)竣工しましたが、前甲板のみでは多くの航空機を発着させるのには不十分であることがわかり、その後直ちに再改装に入り1918年(大正7年)には後部甲板も飛行甲板とできるようになりました。

この「フューリアス」が、世界最初の本格的な航空母艦となりましたが、もともとは巡洋艦であったことから、艦の真中には背の高い艦橋と煙突がそびえていました。

このため、イギリスは更に完成度の高い空母の完成をめざし、このころ建造中だった高速商船を改設計し、航空母艦「アーガス」(14450トン)を「フューリアス」と同じ1917年に竣工させました。この艦は世界初の艦首から艦尾までの飛行甲板上に全く邪魔物のない全通甲板で、その後の空母の模範となりました。

一方、アメリカは給炭艦「ジュピター」を改造した空母「ラングレー」を建造し、1920年(大正9年)に進水させました。このようにイギリスやアメリカは相次いで建造中だった軍艦や商船を航空母艦に改造して浸水させましたが、いずれもその基礎設計は航空母艦のものではなく、その意味ではまだまだその機能は不十分でした。

一方の日本海軍も、第一次世界大戦での実績から、イギリス海軍と同様に海上航空能力の必要性を痛感するところとなり、既存艦船の改装によらない本格的航空母艦の建造に着手することになりました。

こうして、「世界初」の航空母艦の建造をめざし、日米英の建造合戦が始まりましたが、このように初めから航空母艦として設計された艦で、最初に起工された艦はイギリスの「ハーミーズ」でした。

ところが、「ハーミーズ」はその完成が遅れ、結果的には最も早く竣工したのが、日本の「鳳翔」でした。「ハーミーズ」の完成はその翌々年の1924年(大正13年)となりました。

イギリスでは「ハーミーズ」とほぼ同時に空母「イーグル」も完成させましたが、これはアルゼンチンが発注し、英国で建造されていた戦艦を接収し、空母に再設計したものだったそうです。

あまり知られていないことですが、こうして奇しくも「世界初」の航空母艦を完成させた栄誉は日本が得ることになったわけです。が、そもそも日本海軍には独自で航空母艦を完成させるほどの実力はまだなく、このため同盟国である英国の空母運用に当初より多大な関心を寄せており、その技術をなんとか導入できないかと考えていました。

明治以降、富国強兵に励み、日露戦争を経て軍艦の建造技術は欧米並みに進化していたものの、航空母艦のような新しい艦船の自国建造の試みには多くの技術的困難を抱えていたのです。

第一次世界大戦当時は英国とまだ同盟関係にあった日本は、このため英国に技術援助を要請し、英国はこれを受け、1921年(大正10年)にセンピル卿を長とする軍事技術団 (Sempill Mission) を日本に派遣し、日本空母建造の中核となる空母デッキの建造技術を指導することになりました。

同時に海軍は三菱を通じてイギリス空軍の退役将校フレデリック・ラトランドを航空機設計技師の名目で雇用し、空母着艦技術を日本側パイロットに伝授させることになりました。
このように、「世界初」の航空母艦となった鳳翔を生み出すことになった日本ですが、その竣工・運用までにはイギリス人の大きな助力があったのです。

鳳翔は、着工した時点ではまだ「航空母艦」というジャンルが確立していなかったことから「特務艦」として類別され、艦名は「竜飛」を予定していましたが、途中で「鳳翔」に改名されました。

同型艦はなく、イギリスのように航空母艦を中心とした航空兵力の増強を図ろうとしていたのとは対照的にこのころの日本ではまだ航空戦力の実力を過小評価するきらいがありました。

その結果として、こうした航空母艦の建造と戦闘機開発については英米に遅れをとり、これに勝る国費を投入して完成させた「巨砲大鑑」の数々は、後年の第二次世界大戦において大きな足枷になっていきます。

とはいえ、当時の最高技術を持って建造された鳳翔は、起倒式の3本煙突を持ち、安定性強化のため当時の新技術であったジャイロ・スタビライザー(悪天候でも船体を安定させる装置)を採用していました。

全通形式の飛行甲板のために、自艦を守る8cm高角砲2門は甲板内に引き込み式とされたほか、現在も多くの航空母艦に設置されているアイランド構造(甲板上に島のように独立した艦橋がある)の戦闘指揮所が採用されました。

右舷に艦橋と煙突を集中させるという形式も近代空母そのものであり、大きさはともかく、その形状は現代の航空母艦と比べても何ら遜色はありません。

ただ、艦体が小さかったことから、アイランド式艦橋も煙突も、どちらも運用上の障害となり、1924年(大正13年)には煙突は倒した状態で固定される形式に改装されました。またアイランドも撤去され、フラットデッキ化が徹底されるようになります。

その後、船体各部の補強を行い、航空機着艦時に使用する制動装置も、制動力が低く甲板上での作業もし辛かったイギリス式の縦策式からフランス式の横策式に変更されました。このほかにも、復元性の維持の為に引き込み式の8cm高角砲を完全に撤去したほか、機関方式の変更など、細かな改修がなされました。

しかし元来の艦型が小型であり、その後の太平洋戦争開戦後に投入された最新機を運用することは不可能でした。

鳳翔が完成するころには既に航空技術が大きく進歩を遂げ、それまでの複葉布張りの軽量な航空機から、全金属製単葉の大型で重量のある航空機へと進化を遂げており、こうした最新型の航空機の母艦となるためには、鳳翔の格納庫はあまりにも小さかったのです。

また、重量のある航空機を運用するには、より大きな飛行甲板が必要であり、1936年(昭和11年)に鳳翔の艦長を務めた海軍中将「草鹿龍之介」の述懐によれば、当時の「鳳翔」は航空用ガソリンタンクがなく、航空用ガソリンを石油缶に詰めて艦内に保管していたといいます。

このため、艦上では煙草どころかライターの持ち込みも厳禁だったといい、燃料の補給という実際の運用において最も重視すべき問題がクリアーになっていない航空母艦は、当然のことながら、第二次世界大戦では主力とはなりえませんでした。

とはいえ、1932年(昭和7年)2月に勃発した、第一次上海事変では出撃し、その搭載機が日本機として初の撃墜を記録しているほか、1937年(昭和12年)には日中戦争にも参加しており、実戦経験がないままに廃役になるという憂き目にはあいませんでした。

その後も1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦では九六式艦上攻撃機6機を搭載し、直衛、警戒艦として戦艦を基幹とするミッドウェー島攻略部隊主力に編入されましたが、結局この戦闘では交戦はありませんでした。

周知のとおり、このミッドウェー海戦では、日本は大敗北を喫しています。昭和17年(1942年)6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の帰趨をかけて戦われたこの海戦では、同島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生しました。

双方の空母機動部隊同士の航空戦という、世界でも初となる海戦の結果、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を完全に失いました。

このとき、米軍の航空機攻撃を受け、炎上し大破して漂流する「飛龍」の写真は後年有名になりましたが、この写真は、鳳翔の搭載機が撮影したものだそうです。

ミッドウェー海戦では役にたつこともできず、好むと好まざるとに関わらず「温存」された形の鳳翔でしたが、その後も新型機に対応するため飛行甲板やエレベーターを拡大するなどの改装が行われました。

しかし、もともと小さな母体に施された無理な改装であったため、外洋航海に支障を生じるようになり、この結果現役を退き、訓練用空母として内海で運用されることになってしまいます。

こうして、開戦後に建造され、戦闘により小破または中破のみで終戦まで生き残った艦船は他にも存在しましたたが、開戦時に日本海軍に在籍していた艦艇の中で完全な無傷で終戦を迎えたのは鳳翔のみとなりました。

実際の戦闘では役立たずのまま終わった鳳翔ですが、しかし、戦後は思いもかけず大きな役にたつことになります。

もともと戦艦や巡洋艦のような余分な甲板構造物がない構造であったため、その飛行甲板を撤去さえすれば復員輸送艦として使うことが容易であったことから、そのための改装が行われ、その結果1946年(昭和21年)8月まで内地と南方間を9往復もして、およそ4万人の将兵と民間人を無事に日本に送り届ける役割を果たしました。

しかし、さすがに元航空母艦であるだけにその後の民間使用へのめどもたたず、1946年8月からは大阪の日立造船桜島工場で解体が始まり、1947年(昭和22年)5月1日、その28年の生涯を閉じました。

葛城

この鳳翔の最後については、もうひとつの逸話があります。それは同じ航空母艦の「葛城」もまた同時期に同じ日立造船桜島工場で解体されることになっていたことです。

この葛城は、最初から航空母艦として起工され完成したものとしては、日本海軍最後の艦であり、奇しくも最初の艦と最後の艦が同じ工場で解体されていたことになります。

葛城のほうは、真珠湾攻撃が行われた1941年の翌年の1942年(昭和17年)の12月に呉海軍工廠で起工し、1944年(昭和19年)1月進水、同年10月に竣工しました。

しかし、このころにはもう日本海軍は太平洋のいたることころで敗戦を続けており、葛城も進水はしたものの、搭載する航空機と搭乗員、さらに燃料の不足により既に作戦活動には従事できない状態にありました。

このため、沖縄へ出撃してあえなく沈没した大和同様に、海軍が最終決戦として計画していた「決号作戦」に向けて温存され、終戦時には呉市の三ツ子島近海に擬装の上係留されていました。

飛行甲板には緑黒系の縞状迷彩、側面には商船誤認を期待する青系のシルエットの迷彩が施されていましたが、戦争末期の1945年(昭和20年)7月には二度に渡って呉軍港内で爆撃を受け、被弾、中破しました。

しかし、機関部などの船体下部や艦橋などには大きな損傷はなく、航行可能な状態で8月15日の終戦を迎えます。

そして、終戦後の10月には、除籍され、連合国軍による武装解除の後、鳳翔と同様に特別輸送艦(復員輸送船)として用いられることとなりました。

葛城の排水量は、2万トンもあり、7千数百トンの排水量しかなかった鳳翔の二倍以上の大きさであったことから、飛行甲板への通風孔の設置、格納庫への仕切りなどの設置による居住区への改装が行われた結果、輸送可能人員は約3000名から5000名余にもなりました。

米軍による爆撃の際の被弾のために、膨れ上がった飛行甲板はそのままの状態とされましたが、塗装も変更され、この当時の特別輸送艦としては最大の大きさを持っていました。

葛城による復員輸送は旧海軍省が担当し、1945年(昭和20年)12月から開始されましたが、大型・高速の艦であったために、遠方の南方方面を担当し、南大東島やラバウル、オーストラリア、仏印などに取り残された日本兵の回収にあたりました。

港湾施設が貧弱な地区においては、縄梯子を利用し、復員兵の乗り組みを続け、ボイラーの予備水の不足から外洋で立ち往生したこともあるといいますが、約1年の間に8航海を行い、鳳翔以上の計49390名の復員兵の日本への搬送に成功しました。

その復員兵の中には、歌手として有名な藤山一郎もいたそうです。藤山は太平洋戦争が始まるころにはもうすでに声楽家として高い名声を得ていましたが、開戦後すぐに海軍から戦地での慰問活動をするように要請され、これに答えて慰問団を結成し、インドネシアのボルネオ島などを初めとする太平洋の戦地の数々へ赴いていました。

終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日に藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知りました。が、脱出するすべもなく、その直後藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送されました。

1946年(昭和21年)にはさらにマラン州プジョンの山村に移動し、そこにあった三菱財閥が運営していた農園で旧海軍の兵士とともに収容所生活を続けました。

やがて太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになり、藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送されます。そして、この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、今度はイギリス軍兵士の慰問をして過ごしたといいます。

そして終戦からおよそ一年を経た1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についたのでした。

このように多くの日本人を無事日本に送り届けた葛城もまた、復員任務終了後、日立造船桜島工場で1946年(昭和21年)12月22日に解体開始され、翌年11月30日に解体完了しました。鳳翔の歴史は28年と長いものでしたが、葛城の一生はわずか4年足らずでした。

ひゅうが

こうして、日本海軍が保有していた航空母艦はすべて姿を消し、その後の自衛隊の時代を通じても、日本には航空母艦が造られることはありませんでした。

しかし、戦後60年以上を経て、現在の海上自衛隊は「ひゅうが型護衛艦」という「ヘリコプター搭載護衛艦」を2隻保有するようになりました。

海上自衛隊が過去に保有した護衛艦の中で全長、排水量共に最大規模の艦型であり、1番艦「ひゅうが」は平成16年(2004年)度予算で、2番艦「いせ」は平成18年(2006年)度予算で建造されました。

ひゅうが型護衛艦は、排水量19500トンもあり、かつて帝国海軍が保有していた葛城とほぼ同じ排水量を持ちます。多数の哨戒ヘリコプターを同時に運用できる広大な全通甲板を有するヘリコプター搭載型護衛艦であり、大きな船体容積と搭載ヘリコプターにより強力な人員・物資の輸送能力も有しています。

公表されている常時搭載機は哨戒ヘリ×3、掃海・輸送ヘリ×1、最大11機と、1万トンを超える船体には過小な数字と思えますが、格納庫内は1個護衛隊群の定数である8機程度の収納及び整備する空間があると言われています。

こうした艦の導入にあたっては、専守防衛を逸脱する再軍備ではないかという批判も出ましたが、軍備としてだけではなく、災害派遣や強襲揚陸などの任務にも従前の戦闘艦より柔軟に運用できるといいます。

この船は従来の軽空母や強襲揚陸艦の一部をも上回るほど巨大な船体を持つことから、事実上の「ヘリ空母」ではないかと内外から指摘されています。

しかし、海上自衛隊は第一義的に対潜戦を重視しており、これまでの「はるな型護衛艦」というやはり対潜性能を重視した護衛艦の性能を踏襲した本艦を「ヘリコプター搭載護衛艦」と称することにしています。

しかし、実際のところ、ハリアーのような垂直離発着型の戦闘機の運用も可能な軽空母としても使えることから、事実上、我が国もようやく航空母艦を持つようになったと考える向きも多いようです。

自衛隊ではさらに2010年代中期より、ヘリコプター運用能力をより発展させた19500トン型の建造を計画しています。これはひゅうが型より一回り巨大で、常時搭載機も哨戒ヘリ×7、掃海・輸送ヘリ×2、最大14機の搭載を予定し、陸上車輛の輸送・他艦艇への洋上給油等の多様性も強化されているといいます。

奇しくも政権がタカ派と呼ばれる阿部政権に移行し、今後我が国の軍備はさらに増強されていくのではないかと見る向きも多いようです。

今後の日本の行く末を見ていくとき、これを是とするか非とするかについては賛否両論あるところですが、私自身は近隣諸国の情勢をかんがみたとき、やはり必要な装備だと考えます。

かつての鳳翔や葛城もまた「軍備」ではありましたが、戦後多くの復員軍人の日本への復命に貢献したという意味では、兵器である以上の平和利用への役割を果たしています。この自衛隊の新型艦船も単に有事の備えとして考えるだけでなく、同じ有事であっても災害などの非常時の備えとしての機能が期待できるのではないでしょうか。

みなさんはどうお考えでしょう。

風呂のはなし


クリスマスも終わりました。今年ももうあと一週間にも満たないという現実が何やら妙に不思議な気がしています。それだけ今年は良い年だった……というのではなく、前半を中心に激しい動きのあった一年だっただけに、それに対する揺り返しというか、今頃になってどっと疲れが出てきたような感があります。

昨日の修善寺は、その今年の前半を思わせるような強い風が吹いていて、まるで台風並みでした。外に干していた洗濯物数枚が吹きとばされました。我が家は山の上に位置するのでさらに風のふきっさらしは強く、家が揺れるほどでした。

気温も低く、コタツから離れられない気分でしたが、所要があって麓の大仁まで出かけるとそこはすっかりクリスマスムードでした。しかし、それにしてもみなさん寒そうです。温かいといわれる伊豆ですらこれですから、ここより北の地方のみなさんの寒さはいかほどであろうかと思います。

こうした寒い日には、温かいものを食べたあと、お風呂に入るというのが一番です。幸い温泉が出るので、こうした寒い日にはじっくり時間をかけてお湯につかれます。温泉というのは不思議なもので、出たあとの体のぬくもりが本当に長続きします。昨夜もそのおかげでそのあと入った冷たい布団も気にならず、ぐっすり眠れました。

風呂の歴史

さて、毎月26日は、ごろ合わせで「風呂の日」と決められているようで、今日がその日です。別に12月だけではないようで、毎月この日がそうなっています。おそらく銭湯がまだたくさんあったその昔のお風呂屋さんの組合か何かが、お客さんをたくさん呼び込もうとしてこういう日を設定したのでしょう。

この「風呂」という用語を調べてみたところ、もともとは人が温まるための、温浴施設だけをさすのではなく、漆器に塗った漆を乾燥させるための専用の部屋なども風呂と呼ぶようです。またサウナなどの室(むろ)を蒸気などで満たした設備も含めた総称が風呂と呼ばれるみたいです。

しかし一般的に風呂といえば、やはり温泉や水を沸かした湯を満たして浸かる入浴施設のことでしょう。ただ、大昔にはお湯につかるという風習ではなかったようで、古くは衛生上の必要性や、宗教的観念から水のある場所で行う「水浴」が普通だったようです。

ただ、日本などの火山地帯に属する国では温泉が湧き出すところも多く、こうした地域ではお湯につかるという風習も古来からあったようです。しかし、そうした場所は限られており、なんとか温泉のような温かい環境を人工的に造りだせないかということが考えられるようになりました。

温泉の効用は、単に寒体を温めるということだけではなく、新陳代謝や老廃物の除去や排出、はたまた傷や痛みにも役立ちます。そういうことが長い間に確認されるようになり、やがて人が自由に火を操れるようになってからは、水からお湯を温めてできた温水や蒸気を造りだす技術が発達し、温泉のない場所でも温浴が行われるようになりました。

「風呂」の起源として現在確認されるものは、紀元前4000年のころメソポタミアのものだそうで、これは温浴ではなく、やはり水を使った清めの沐浴だったようです。それからさらに年月を経た紀元前2000年頃になって、ようやく薪を使用した温水の浴室が神殿に作られるようになり、こうした温浴はとくにギリシア文明において発達していったようです。

ギリシア文明では、現在のオリンピック精神の元となった「健全な精神は健全な肉体に宿られかし」との考えから、スポーツ施設に付帯して沐浴のための大規模な公衆浴場としての水風呂が作られていたそうで、この発展形として紀元前四世紀ころまでには温浴の施設が完成したようです。

ただ、温水を作るための技術はまだまだ未発達であり、燃料となる木材などを大量に消費したため、こうした施設は一般には広まらず、神殿などのごく限定的な場所だけで造られていました。

中央アジアにおいても紀元前1世紀ごろには既に風呂があったようですが、これはその後の温浴施設ではなく、蒸し風呂だったようで、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させるものでした。とくに寒い地方では冷水に入るのは酷ということで、燃料などが少なくて済み手軽に使用できるこの蒸し風呂が急速に発達したようです。

中東では、この蒸し風呂が「ハンマーム」と呼ばれる公衆浴場として広まり、この形態は北方のロシアや北欧にまで伝わり、こちらではこれが「サウナ」の原型になりました。

また、北アフリカの地中海沿岸地方やシリア地方はイスラム教徒が支配するようになり、イスラム圏となったため、ここでも広まるようになり、ハンマームは、モスク・市場と並んでイスラム都市の基本構成要素とまでいわれるようになりました。

こうしたサウナ風呂の原型は、ヨーロッパでは古代ローマ帝国に受け継がれ広まっていきました。もともと限られた人だけが使っていた温浴施設も、「造湯技術」の発達によりようやく一般に普及するようになり、紀元前100年ころには豪華な公衆浴場が登場するようになります。

湯を沸かす際の熱を利用した「ハイポコースト」という床暖房設備も発達するようになり、ローマ帝国が地中海世界にまで及ぶころには、社交場としての男女混浴の公衆浴場が楽しまれるようになりました。

しかし、その後キリスト教がヨーロッパ全土に浸透するようになると、その教義から男女が裸で同一の場所に集うことが忌避されるようになり、混浴の公衆浴場といった施設だけでなく、大勢で風呂に入るという習慣そのものがタブー視されるようになっていきました。

このため、13世紀頃まではヨーロッパの各地での入浴習慣は大きく衰退し、教会に行くための清めとして、大きめの木桶に温水を入れて身を簡単にすすぐ行水程度のようなものになりました。ただ、街中に公衆浴場が設けられるところもあり、こうした場所では週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しむことができました。

しかし、依然公衆浴場というと男女混浴という風習は消えておらず、このため、みだらな行為や売春が横行するようになっていくと、これにキリスト教の観念が加わり、さらに公衆浴場は廃れていきました。

14世紀にはペストが頻繁に流行するようになり、このことが拍車をかけ、公衆浴場はもちろんのこと入浴自体も「ペスト菌を積極的に体に取り込んでしまう」といった間違った解釈がなされるようになります。風呂に入るという習慣自体が人々に忌避されるようになり、地中海やヨーロッパからは急速に入浴文化が縮小していきました。

ところが、かつてのローマ帝国の東部に位置する中近東では、蒸し風呂を中心とした入浴文化があいかわらず受け継がれており、ハンマームも健在で、依然住民の重要な社交場としての役割を担っていました。

このため、風呂を沸かすための技術はこの中近東で温存され、のちにヨーロッパで入浴文化が復活するときにはこれが「逆輸入」されることになります。

やがて、18世紀になり、ヨーロッパでは医学の進歩に伴い、「入浴によって病原菌が体に取り込まれる」といった間違った解釈が科学的根拠によって否定されるようになると、入浴はむしろ健康の上で好ましいと見なされるようになっていきました。

長い間に封印されていた造湯技術も中東からの逆輸入で復活されるようになり、これに伴って、長い間行われてこなかった入浴の習慣が一般家庭でも積極的に取り入れられるようになりました。

しかし、ヨーロッパの各国は、日本のように豊富な水源をもたない国が多く、またあまりにも長い間入浴を忌避する習慣が続いてきたため、豊富にお湯を造って温水に浸かるという風呂はなかなか広まらず、できるだけ温水を節約できる「シャワー」のほうがより普及していきました。

中東やアジア諸国と違い、長い間入浴をタブー視する時代が続いたため、現在の欧米の多くの国で家庭で浴槽を造るという習慣はあまり浸透しておらず、このため浴槽のないシャワー室だけの家庭も多いといいます。

さらに、温水の風呂に浸かるのは月に1・2度程度が一般的という国もあり、365日ほぼ毎日入浴を行う我々日本人からみると、なんて不潔なんだろう、ということになってしまいます。

が、この辺は、文化の違いというか、歴史的な出来事の積み重ねの結果であり、また日本のように豊富な水量や温泉量を誇る国はヨーロッパからみればむしろ特殊な国であり、そう考えると入浴習慣の違いを一概に非難するわけにもいきません。むしろ、こうした「水」を育む豊かな自然の地に生まれた自分たちをラッキーだったと思うことにしましょう。




日本の風呂の歴史

さて、そんな日本の風呂についての歴史もみていきましょう。

日本語の「風呂」の語源は、2つあるといわれています。もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説と、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説です。

一方、英語でいう “bath” は、イギリスにある温泉場の街の名前、バース(Bath)が語源ではないかという俗説があります。温泉の発祥がギリシャともローマともいわれる中、ちょっと意外なのですが、考えてみればローマ帝国時代にはイギリスもその属国です。

紀元前55年にはローマのユリウス・カエサルがグレートブリテン島に侵入し、西暦43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服しており、ローマ帝国時代に「ブリタニア」と呼ばれたイギリスの大部分は、ここに住むケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨していました。

このため、バースの温泉街もローマ人たちによって開発されたと考えられ、これが風呂の語源になったという説もそれならばうなずけます。もともとは地名であった “Bath” はやがて温泉施設の代名詞として使われるようになり、これがローマ帝国全体に広まっていったようです。

ちなみに、英語のbathに相当する「温浴」または「温めること」を意味する名詞がゲルマン古語にもあるそうで、紀元前にこの地を席巻していたゲルマン民族がもしローマ帝国に負けていれば、このゲルマン古語が今のbathに変わる風呂の代名詞になっていたかもしれません。

さて、日本の風呂の話をするつもりが、道をはずれてしまいました。元に戻りましょう。

風呂という言葉の語源は、「窟」や「岩室」であったと書きましたが、もともと日本では神道の風習のもと、こうした場所の多い川や滝で「沐浴」の一種と思われる禊(みそぎ)を行う習慣を古くから持っていました。

このため、仏教が伝来した際にも建立された寺院には「湯堂」とか「浴堂」とよばれる沐浴のための施設が作られました。「湯」という字が既に使われていますが、無論このころの「湯堂」は水風呂です。

「湯」という言葉は、現在は温かいお湯のことを指しますが、その語源は「湧(ゆう)」ではなかったという説もあり、その後温かい湯に入ると体がリラックスできるので「ゆるむ(緩)」という字に代わり、それが現代の「湯」に変わったというのが有力な説だということです。

なので、このころの「湯堂」「浴堂も」もともとは僧尼のための水風呂で、仏教においては病を退けて福を招来するものとしてこれが奨励されました。

8世紀半ばの奈良時代に書かれた経典に「仏説温室洗浴衆僧経」と呼ばれるものがありますが、このお経ではもともとは僧侶だけが使っていた風呂を一般の人に奨励し、僧侶が一般人のために入浴を施す「施浴」を勧めており、このころから風呂の一般民衆への開放が進むようになっていったようです。

奈良の法華寺にあったといわれる「浴堂」は、光明皇后(701~760)が建設を指示したものだそうで、これは入浴治療を目的として造られたものだといわれています。この浴堂では薬草などを入れた湯を沸かし、その蒸気を堂内に取り込んだ蒸し風呂形式だったそうで、これを使って貧困層へ施し、病気を癒す「施浴」が行われました。

このころ既に温かいお湯につかる形式の風呂はあったようですが、この時代の「風呂」といえばまだこのような蒸し風呂さしており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物はあるにはあったもののまだ一般化していませんでした。また「風呂」とは呼ばずに「湯屋」「湯殿」などと称して「風呂」とは区別されていたということです。

その後平安時代になると、こうした寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設は、上級の公家の屋敷内に取り込まれるようになっていきます。

「枕草子」などにも、蒸し風呂の様子が記述されているそうで、このころには次第に宗教的意味が薄れ、「衛生」のための利用が進み、またお公家さんの「遊興」のための施設としての色彩が強くなっていったと考えられています。

現在のように、浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるという風呂がこうした蒸し風呂を駆逐するようになったのがいつ頃なのかはよくわかっていないようです。しかし、もともと古くから桶に水を入れて体を洗う「行水」というスタイルはあり、その後蒸し風呂が発達するにつれ、蒸し風呂に入った仕上げに行水が行われるようになったと考えるのが自然でしょう。

冬場の行水は寒すぎますから、やがて行水を温めるようになり、やがて行水と蒸し風呂を別々に行うよりも、一度に入浴で済ませるほうが合理的、というふうに両者が融合していったのではないでしょうか。

このブログでも前に取り上げたように、源頼朝の子で鎌倉幕府第二代将軍の頼家は北条氏の陰謀によって修禅寺に幽閉されましたが、その最後は風呂に入っているところを北条氏の刺客によって殺害されており、この風呂は修善寺が豊富な温泉場であったこともあり、浴槽にお湯を張るタイプだったようです。

このことから、少なくとも平安時代から鎌倉時代には風呂に浸かるという風習は定着していたようで、少なくとも江戸時代には既に蒸し風呂は一般的なものではなく、入浴といえばお湯を張った桶などに浸かることを指すようになっていました。

江戸初期には「戸棚風呂」と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせ、上半身だけ蒸気にあたるという「ハイブリッドタイプ」の風呂が登場しているそうで、また二代将軍の秀忠の治世の終わりごろには、「すえ風呂」と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場していました。

すえ風呂の「すえ」は「水風呂」の「水」であるという説がある一方で、「据え」とも書くという説も根強く、これは桶の下部が釜になった、水から沸かす形式の風呂であったといわれています。

後年の木桶風呂の元祖ともいえるものであり、湯を別途沸かして桶に汲み入れる形式の風呂に比べれば格段に効率的な風呂であり、この風呂の普及に伴い、戸棚風呂や蒸し風呂は急速に姿を消していきました。

このすえ風呂の発展形が、木桶風呂や五右衛門風呂で、江戸時代を通してとその後の明治時代以降も使われ続けました。

五右衛門風呂は、鋳鉄製の風呂桶に直火で暖めた湯に入浴する形式です。風呂桶の底部に薪をくべる釜があり、ここで火をおこして底部を熱することで釜の中のお湯をわかします。風呂に入るときには、釜の底は高温になっており、直接触れると火傷するため、木製の底板の踏み板や下駄を湯桶に沈めて湯浴みします。

厳密には、全部鉄でできているものは「長州風呂」と呼び、五右衛門風呂はふちが木桶で底のみ鉄のものを指すそうなのですが、私が小学生のころに自宅にあったお風呂はこの原始的な「長州風呂」のほうでした。母方の実家は山口だったので「長州風呂」の発祥地である山口に近い広島でもより普及していたのかもしれません。

原始的ではあるのですが、風呂釜自体が厚い鋳鉄製のため、比較的高い保温力が期待でき、またすぐにお湯が温まるのでなかなか便利なものでした。学校から帰ってきて宿題を終えると、このお風呂にくべる薪を斧で割って小口にし、火をおこして風呂を沸かすのが私の日課でしたが、今はもうなかなかこういう光景は見ることができなくなりました。

五右衛門風呂のほうの名前の由来は、安土桃山時代の盗賊、「石川五右衛門」によることは多くの人に知られています。豊臣秀吉の配下によって捕えられ、京都の三条河原で釜茹での刑に処せられたときに使われたのと同じ形式だと言われています。従って、江戸時代に入る前からもう庶民の間では使われていたのではないかと考えられています。

一方の木桶風呂木桶風呂は、ヒノキで造った大型の小判型木桶の横に、火を焚く為鋳物製の釜が付いており、窯にはさらに煙突がとりつけられています。煙突の付いた釜の形状が鉄砲に似ている為、「鉄砲風呂」と呼ばれる事もあります。

おそらくは江戸時代の後期あたりには既にあったものと考えられますが、一般に普及したのは明治時代から大正時代にかけてと言われています。現在ではこの鋳物製の釜がガス湯沸し器に代わり、また湯船そのものも木桶ではなくホーローやFRP製が普及した為、五右衛門風呂と同様にあまり見られなくなってきています。

しかし、私が大学時代に借りていた下宿の風呂はまぎれもなくこの木桶風呂でした。もっともさすがに釜そのものはガス湯沸かし器でしたが、木桶の風呂はなかなかさめにくいため、冬などにこの風呂に熱燗を持ち込んで長風呂しながら風流を決め込んだことなどが思い出されます。

銭湯の歴史

現代でも木桶風呂や五右衛門風呂を依然使っているところは、農村部などではあるようです。木桶風呂もなかなか断熱性能が高く冷めにくいのですが、さらに薪で沸かしたお湯は冷めにくいとよく言われます。

その根拠は定かではありませんが、今も残る銭湯の中には、いまだもって薪でお湯を沸かすところがあって、こういう銭湯の常用者に聞くと、口を揃えたようにやはり薪で沸かしたお風呂は湯冷めがしにくい、とおっしゃるようです。なので何か科学的な根拠があるに違いありません。

今はもう、街中でほとんど見ることの少なくなったこの銭湯ですが、日本の法律では「公衆浴場法」に定められている「公衆浴場」のことで、その定義は「温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設」だそうです。

この公衆浴場法の適用を受ける公衆浴場は各都道府県の条例ではさらに、「普通公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類されるそうで、「普通公衆浴場」のほうが、いわゆる「銭湯」です。一方の「その他の公衆浴場」とは、自治体によっては「特殊公衆浴場」とも呼ばれ、サウナ風呂や健康ランド、スーパー銭湯等がこれにあたります。

なぜこういう違いを設けたのかはよくわかりませんが、健康ランドやスーパー銭湯は大規模な企業が経営するなど、個人または小規模の企業が経営する銭湯とは規模が違います。大規模な施設ほどレジオネラ菌などのばい菌が万一発生したときの影響が大きいので、衛生面でのより厳しい規制が課されているのだと思われます。

江戸時代の銭湯は「風呂屋」あるいは「湯屋」と呼ばれており、銭湯が経営されるようになった初期のころは、水蒸気に満ちた部屋に入って蒸気を浴びて汗を流す、いわゆる「蒸し風呂タイプ」の入浴法で営業している業者が多くあり、これを「風呂屋」と呼んでいました。

一方、沸かした湯を浴槽に入れ湯を身体に掛けたり、浸かったりするタイプの入浴法で営業している業者もありましたが、江戸初期にはまだ少なく、このためこれは風呂屋ではなく、「湯屋」と呼んで風呂屋と区別していたようです。

しかし、江戸時代中頃にはこの区別はなくなっていき、むしろ入浴タイプのほうの風呂のほうが蒸し風呂を席巻するようになり、京都や大阪などの畿内ではこの風呂のほうを「風呂屋」と呼ぶようになりました。

一方の江戸ではこのタイプの風呂はもともと「湯屋」と言っていたため、同じものであっても関西では「風呂屋」、関東では「湯屋」が定着し、このほかの地域でも、風呂屋と呼んだり湯屋と呼んだりする地域が混在するようになりました。

お金を徴収して風呂に入らせる現在の銭湯の形式は、これに先立つ鎌倉時代には既にあったようであり、日蓮商人が書き記した「日蓮御書録(1266年(文永3年))」にも入浴料を支払う形の銭湯が存在していたことが書かれています。

このころの銭湯もまた蒸し風呂タイプの入浴法が主流であり、その後の室町時代、安土桃山、戦国時代にもこの形式の銭湯が継続されていました。

とはいえ、銭湯はまだまだ庶民のものではなく、このころの銭湯は庶民には高嶺の花でしたが、やがて時代が下って江戸時代になり、国勢が安定してくると、庶民の間で銭湯は急速に普及するようになっていきました。

その最初のものといわれるのは、1591年(天正19年)に江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くで「伊勢与一」と呼ばれる商人が開業した蒸気浴風呂でした。

その後、江戸時代初期には銭湯でも前述の戸棚風呂が流行るようになり、これは浴室のなかに小さめの湯船があって、膝より下を湯船に浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという形式のものでした。

このころの銭湯は、小規模なものだったため、一度客が使ったお湯は捨てていましたが、その後は客が一度使った湯を、温め直して再び浴槽に入れるということも行われるようになり、薬草などを炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと本格的に変化していきました。

しかし、燃料となる木材はまだ高価であり、お湯を沸かすということ自体に莫大な金がかかる時代であったため、男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女の混浴は普通でした。ただし、田舎はともかく、江戸などの都会では、公序良俗のため湯浴み着を着て入浴するという最低限のモラルはあったようです。

1791年(寛政3年)になると、天保の改革によって「男女入込禁止令」が発せられ、混浴が禁止されましたが、全国的にみればこの禁令は必ずしも守られませんでした。ただ、江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われたといいます。

このころになると、銭湯は「石榴口(ざくろぐち)風呂」という形式に変化し、せっかく沸かした貴重なお湯の温度を下げないための工夫として、蒸気を逃がさないようにするために柘榴口と呼ばれる狭い入り口を持つようになっていました。

このため浴槽内には湯気がもうもうと立ちこめて暗く、湯の清濁さえ分かりませんでした。窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も頻繁に発生したそうです。

とはいえ、このころは内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、また火事の多かった江戸では防災の点から内風呂は基本的に禁止されていたため、庶民はこうした劣悪な環境の銭湯でも利用せざるを得ませんでした。

その後、明治の時代になり、1877年(明治10年)頃に東京神田区連雀町の「鶴沢紋左衛門」という人が考案した「改良風呂」と呼ばれる風呂が発明されると、これが大人気になります。この風呂は天井が高く、湯気抜きの窓を設けた、広く開放的な風呂であり、これが現代的な銭湯の元祖といわれるものです。

政府は1879年(明治12年)に石榴口風呂形式の浴場を禁止したため、こうした旧来型の銭湯は姿を消していき、また外国人への配慮もあって混浴は禁止となりました。

そして、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めるようになり、大正時代を経て昭和時代になると、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、陶器のタイル敷きの浴室が好まれるようになり、さらに近代的な水道式の蛇口も取り付けられるようになっていきました。

戦後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築され、1965年(昭和40年)頃には銭湯は全国で約2万2000軒を数えるようになりました。

ところが、その後の高度成長時代の中にあって住宅事情の改善やユニットバスなどの普及により内湯を設ける家庭が急増。銭湯は徐々に姿を消していきます。1964年(昭和39年)の調査では、銭湯を利用している世帯は全世帯の39.6%でしたが、1967年(昭和42年)には30.3%にまで減少。

大阪府での統計では1969年(昭和44年)に2531軒あったものが、2008年(平成20年)3月末には半分以下の1103軒まで激減しました。

平成期に入って「スーパー銭湯」と呼ばれる前述の「その他の公衆浴場」が続々と開業するようになり、こうして正規の「普通公衆浴場」である銭湯は急速に利用客、軒数ともに減らしていきました。

2005年(平成17年)3月末日における全国浴場組合(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会)加盟の銭湯の数は最盛期の四分の一以下の5267軒となっています。

文化財化する銭湯

銭湯と聞くと富士山の壁絵のある大浴場を思い浮かべる人も少なくないと思われますが、これは大正元年(1912年)に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり全国に広まったものです。

しかし、相次ぐ銭湯の閉鎖により、こうした銭湯のペンキ絵を描く職人も激減、というよりも「絶滅」状態といい、2012年10月の時点でペンキ絵の絵師は関東でわずか2名ほどといい、後継者の存続が危ぶまれています。

銭湯の建築様式もまた、その存続が危ぶまれています。特に関東では寺社建築のような外観の共同浴場が多く、これは関東大震災後に東京で流行った「宮型造り銭湯」の様式の名残です。この建築様式の名残は関東近郊に集中しており、地方の銭湯では見られずきわめて数が少ないといいます。

その発祥は東京墨田区東向島の「カブキ湯」だといわれ、建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく建築様式が「宮型」といわれています。

当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えて非日常を感じることのできる娯楽でもありました。

このため、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことは、こうした「お参り」にも似た魅力的な「装置」として機能したものと思われます。

こうした宮型造りの銭湯は昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられましたが、ビルなどに改築する際に取り壊されることも多くなり、現在その数は非常に少ないといわれます。

そのうちのひとつで、大阪市生野区にある源ヶ橋温泉は外観・内装とも昭和モダニズムの面影を残す貴重な建物のため、風呂屋の建造物では数少ない国の登録有形文化財に登録されているということです。

我が家にも近い、伊豆の伊東にもこのように文化財として保存が決まった銭湯があります。

「東海館」といい、伊東市指定文化財に指定されている建物で、伊東温泉を流れる松川河畔に大正末期に建築されました。大正・昭和の情緒をいまだに残す木造三階建ての風情のある建物であり、昭和の代に三回にわたって望楼の増築などが行われましたが、ほぼ原形をとどめているといいます。

しかし、経営難から1997年(平成9年)に閉館。その後、伊東温泉情緒を残す街並みとしての保存要望もあり、所有者から建物が伊東市に寄贈されることになりました。

1999年(平成11年)には、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち、戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し、後世に残す必要があるという理由から市の文化財に指定されました。

平成11年から3年ほどかけて保存改修工事が行われ、2001年(平成13年)の7月から、伊東温泉の文化・観光施設「東海館」として一般公開されています。現在、伊東市の運営による「日帰り温泉」として運営されているほか(入湯料500円)、入館料200円を払えば艦内を自由に見学できます。

我々もその前まで行ったことがあるのですが、このときは時間に余裕がなく、館内見学までできませんでした。古きよき銭湯が味わえるということで、もし伊東に行く機会のある方は立ち寄ってみてください。

さて、今日も長くなりました。明日からはそろそろ大掃除を始めようかと思います。みなさんのお宅はもう大掃除を終えましたか?

雪のはなし ~修善寺温泉(伊豆市)


今年もクリスマスを迎えました。昨年のいまごろは、何をしていたかねーとは、タエさんと買い物へ行く車の中での会話。確か、伊豆への移住も決まり、あわただしく引越しの準備をする中、山口へも帰省せねばならず、落ち着かない雰囲気だったかた思います。

あれから一年経ったかと思うと感慨深いものがあります。引越しはてんやわんやでしたが、その後生活は徐々に落ち着きを取り戻し、今年は帰省も見送ったため、今はとくにあわただしい雰囲気もありません。こうして雪にけぶる富士山を眺めながらキーボードを叩いているのが何やら夢めいているような気さえします。

雪とは

それにしても寒いですねー。列島全体をクリスマス寒波が覆っているとのことで、北の地方や日本海側にお住まいの方は雪の世界に閉ざされていることでしょう。

この「雪」ですが、大気中の水蒸気が凍った氷の結晶が空から落ちてくるのだということは、小学生でも知っています。

しかし、単に雪といっても、の氷の結晶の単体は「雪片」というそうで、英語ではsnowflakeといいます。また、雪片が降り積もった状態のものは「積雪」ですが、これはsnowpackというのだそうで、雪片が降っている最中の状態は「降雪」、これはsnowfallと呼び分けます。

また、「雪」を「降水現象」の一つと考えると、固体になった「氷」としての降水の状況は、「雪」と呼ばれるもののほか、霰(あられ)、雹(ひょう)、凍雨(とうう)、細氷(=ダイヤモンドダスト)などがあり、これらの総称を「雪」と呼ぶのだそうです。このほか、霙(みぞれ)というのがあり、これは雨と雪が混在して降る降水現象です。

これらの違いですが、物理的にみると、雪は「氷の結晶」であるのに対し、霰・雹・凍雨は「氷の粒」です。霰・雹・凍雨は、いずれも雪片である氷の結晶が空から地上に落下するまでの間に、いったん溶けたり(融解)、逆に固まったり(凝固または凍結)という過程を経ることで生成されるものです。

雪、すなわち雪片の状態というのは、規則性のある結晶の形をした氷の状態であり、これらが無数にくっついた状態で降ってきますが、空気をたくさん含んでいて密度が比較的低い状態にありその接合はゆるやかです。なので、これを顕微鏡で見ると、あの美しい幾何学模様を見ることができるわけです。

これに対して、霰・雹・凍雨の粒を顕微鏡でみると、既に結晶のような規則性は見られず、その間隙に空気もほとんどない密度が高い状態のただの「氷」です。

一方、ダイヤモンドダスト(細氷)というのは、晴れた天気が良い日でも空から降ってきます。これは、ダイヤモンドダストが、空の上から降ってくるのではなく、地表付近で水蒸気がいきなり氷になって(昇華)落下してくるものであるためです。

雪と同じく結晶構造を持ちますが、その大きさはふつう直径30~200 μm(マイクロメートルは1/1000mm)程度であり、雪に比べて非常に小さいのが特徴です。

一方の雪も凍りはじめたころには非常に小さく、直径0.01mm以下なのですが、雪片と雪片がくっついて成長した雪は直径0.5~10mm(1cm)くらいにもなり、大きな雪片になると3cm前後にもなります。いわゆる「ぼた雪」や「わた雪」というやつです。

雪は、空気をたくさん含んでいるので、空中に「浮遊」した状況で降ってきますが、霰・雹・凍雨などそれぞれが独立した「粒氷」ではなく、空気をたくさん含んだ「濃密な雪片の集合体」であるため、雪のようにふわふわというわけにはいかず、「パラパラ」と降ってくるのです。

天気予報における「雪」

実際の天気予報では、このような霰・雹・凍雨といった雪の物理的な特徴名だけをそのまま発表するわけではありません。必要に応じて、物理名以外の雪の状態を一般の人にも受け取りやすいように発表します。たとえば、「ふぶき」とか「風雪」といったのがそれです。

「予報用語」と「解説用語」というのがあって、前者はテレビやラジオなどで「気象庁が発表する各種の予報、注意報、警報、気象情報などに用いる用語」、後者は「気象庁が発表する報道発表資料、予報解説資料などに用いる用語」として区別しています。

このうち、我々がテレビなどのメディアの天気予報で実際に見聞きする予報用語に含まれる「雪に関する予報用語」は、通常の「雪」のほか、以下があります。

・ひょう →積乱雲から降る直径5mm以上の氷塊
・みぞれ →雨まじりに降る雪。または、解けかかって降る雪。
・あられ →雲から落下する白色不透明・半透明または透明な氷の粒で、直径が5mm未満のもの。直径5mm以上は「ひょう」とする。
・ふぶき →「やや強い風」程度以上の風が雪を伴って吹く状態。降雪がある場合と、降雪はないが積もった雪が風に舞上げられる場合(地ふぶき)とがある。
・地ふぶき →積もった雪が風のために空中に吹き上げられる現象。猛ふぶき強い風以上の風を伴うふぶき。
・風雪 →雪を伴った風
・しぐれ →大陸からの寒気が日本海や東シナ海の海面で暖められて発生した対流雲が次々に通るために晴れや曇りが繰り返し、断続的に雨や雪の降る状態。「通り雨」として用いられる場合もある。
・着氷(船体着氷) →水滴が地物に付いて凍結する現象。海上で低温と風により波しぶき、雨や霧が船体に付着し、凍結する現象を特に「船体着氷」という。
・着雪 →湿った雪が電線や樹木などに付着する現象。
・落雪 →屋根等に積もった雪が落下すること。
・融雪 →積雪が大雨や気温の上昇により解ける現象。
・なだれ →山などの斜面に積もった雪が、重力により崩れ落ちる現象。表層なだれと全層なだれとがある。

どうでしょう。「着雪」とか「落雪」とかあまり聞き慣れないものがあるのには驚かされます。また、「しぐれ」というのは、私は雨だと思っていたのですが、雪状になるものもしぐれというのですね。

なお、あられはその物理的な状況によって、さらに「雪あられ」と「氷あられ」に分類されます。「雪あられ」はその名のとおり、雪が凝集してあられになったもので、「氷あられ」は雲の中の水蒸気が比較的気温の高い状況で凍ったもので、「雪あられ」のように不透明ではなく、半透明であったり、透明であったりします。

予報文では、「雪あられ」は雪とされ、「氷あられ」は雨に含めることになっていて、これが雨と雪の境というわけです。

一方「解説用語」に分類されていて、一般的な天気予報では使われないものは以下の通りです。

・凍雨 →雨滴が凍って落下する透明の氷の粒。透明な氷粒なので「氷あられ」と違って、予報文では「雪」として扱う
・細氷(ダイヤモンドダスト) → 大気中の水蒸気が昇華し、ゆっくりと降下する微細な氷の結晶。
・氷霧 →微細な氷の結晶が大気中に浮遊して視程が1km未満となっている状態。予報では「霧」とする
・山雪 →山地に比較的多く降る雪。
・里雪 →山地に加えて平野部でも多く降る雪。「山雪」、「里雪」は北陸を中心に使われており、季節風による雪の降り方を表す。
・湿り雪 →含水率の大きい雪。大きな雪片となりやすく、着雪の被害を起こしやすい。予報用語としては、「湿った(重い)雪」などの平易な用語を用いる。ただし、北日本など「湿り雪」という用語が一般に浸透している所では用いられることがある。

「山雪」や「里雪」は温かい地方に住んでいるわれわれにとっては、聞き慣れない用語です。「氷霧」もめずらしい現象でしょう。私も見たことがありません。その昔、「霧氷」という曲を橋幸夫さんが歌って大ヒットしましたが、ご存知ですか? 知っている人は私同様、すでにおじさんかおばさんでしょう。違いますか?

さて、あたりまえのことですが、実際の天気予報と観測結果は必ずしも一致するとは限りません。

このため、予報では「雪」と発表していても、実際の観測で「凍雨」やダイヤモンドダストが観測された場合には、正確にそう記録され、「雪」とは記録されません。予報は予報として報道されっぱなしとしても、実際に記録される現象は正確に記録しておく、というのがお天気のエキスパートとしての気象庁のスタンスです。

また、単に「雪」とか「あられ」とかの発表があったとしても、それだけでは予報を聞いた側は実際の雪の量が多いのか少ないのかわかりません。このため、気象庁の天気予報では、その強さなどをあらかじめ定義で決めて置いて、これを一緒に発表しています。

降ったり止んだりで強度変化の激しいものを「にわか雪(驟雪)」、1時間あたりの降水量が3mm以上の場合は「強い雪」といったあんばいで、1時間あたりの降水量が3mm未満だと、通常の「雪」とされます。

このほかにも強いほうでは、「暴風雪」「大雪」「豪雪」というのがあり、「暴風雨」は暴風に雪の伴うもの、「大雪」は注意報基準以上の雪です。

「豪雪」は予報ではあまり耳にしませんが、著しい災害が発生した過去の顕著な大雪現象をさすときに、「56豪雪」、「平成18年豪雪」などといい、「平成18年豪雪のような大雪になる恐れがあります」といった使い方をされるのを聞いたことがある人もいるでしょう。

弱いほうでは、その名も「弱い雪」というのがあり、これは時間降雪量がおよそ1cmに達しない雪で、もうひとつ、「小雪」というのがあり、これは数時間降り続いても、降水量として1mmにも達しない雪です。

気象庁ではこのほかにも、各地の気候の変化を表現するために、「初雪」や「初冠雪」などを予報の中で使っています。お天気おねえさんが、「気象庁は今年初めての「初雪」を発表しました」とかいう発表は聞いたことがある人も多いかと思います。

このほかにその冬最後の雪として「終雪」というのもあるようですが、これは気象記録をするときに使われることが多い用語のようです。が、もしかしたら、「この雪が「終雪」になるでしょう」などと言った使い方をしているかもしれません。

雪の呼び方

こうした気象庁が使っている専門用語以外にも我々は雪をさまざまな呼び方で呼んでいます。

空から降る雪の形や大きさはさまざまですが、まるで粉を吹いたように細かいものは「粉雪」、綿状に集まったものを花のボタンになぞらえて「牡丹雪、ぼたん雪」などと呼んでいます。このほかにも雪の状態変化に応じて、淡雪、薄雪、細雪、どか雪、べた雪、綿雪などの表現があります。

これについては、とくに定義のようなものはなさそうですが、だいたい慣習的に以下の7つくらいに分類されるようです。

・たま雪(玉雪) →球形をした雪。雪のシーズンの初めや終わりの時期、また雪雲のでき始めている先端部分などで見られる。
・こなゆき(粉雪) →さらさらとした粉末状で、乾燥した雪。寒冷な地域に多い。
・はい雪(灰雪) →空中をすらっと降りてくるのではなく、灰のようにひらひらと舞いながら降りてくる雪。やや厚みがあり、日光に当たると陰影ができて灰色の影ができる。
一般的な降雪としてはこれが最も多い。
・わた雪(綿雪) →手でちぎった綿の様に大きな雪片からなる雪。水分を含み、重みのある雪。降雪地帯の中でも温暖・多湿な地域に多い。
・もち雪(餅雪)→融解が始まっており、水分を多く含む雪。雪の塊は餅のように柔らかく自由に形状を変えられるので、雪玉や雪だるまなどがつくりやすい。
・べた雪 →もち雪よりも水分が多く、べちゃっとした雪。団子状に固まっていることもある。ぼた雪、ぼたん雪。
・みず雪(水雪) →べた雪よりもさらに融解が進み、水気の多い雪。みぞれと同じ。

私自身は、玉雪とか灰雪とかいうはあまり聞いたことがありませんが、こうした呼び方にはおそらく地方性が出てくるので、私の郷里の広島や山口ではあまり使わないからだけかもしれません。太宰治の小説「津軽」の冒頭では、津軽の雪として7種類の雪の名称が紹介されているそうです。

このほか、専門的には、「雪質」というのがあり、これは、スキーや雪山登山をやる人には必須の分類です。日本雪氷学会では、雪質によって積雪を9つに分類しているそうで、以下がそれです。

・こしまり雪 →樹枝形などの結晶が若干残る程度で、ほとんど丸みを帯びた氷の粒。小締まり雪。
・しまり雪 →圧縮や焼結により丸みを帯びた氷の粒。粒子同士が網目状の組織で緩やかにつながっている。締まり雪。
・ざらめ雪 →水の作用により粗大化した氷の粒。内部・表面に水を含むものと再凍結したものがある。粗目雪。
・こしもざらめ雪 →雪が融解・霜の付着などによって、平らな形状となった小さな氷の粒。小霜粗目雪。
・しもざらめ雪 →新雪を核として成長した霜が肥大化し、骸晶状の氷の粒と化したもの。霜粗目雪。
・氷板 →板状・層状の氷。
・表面霜 →積雪層の表面に発達する霜。
・クラスト →積雪層表面にできる再凍結によってできた固い層。

大きなスキー場などで冬になって降り積もった雪は、気象庁の有人気象観測点や雨雪判別機能付き自動気象観測装置設置点で記録されていることも多いようです。

雪の量

ある場所における積雪量を雪専用のものさし「雪尺」で計った結果は「積雪深」といわれ、ニュースや天気予報で流れる「積雪〜cm」というのは、積雪計設置地点における瞬間的な積雪記録です。ある一定期間内における積雪の最大値を最深積雪といい、これは気象庁などが日単位、または月単位で発表する「降雪量」とは異なります。

「降雪量」は気象庁などが「観測点」として場所を決めて一定時間に積もった雪の量です。こうした場所の降雪量を記録に残す上では、計測した場所の降雪を液体に換算することも行われており、これは「降水量」として別途記録されます。なお、降雪量・降水量にはみぞれも含めて記録されるそうです。

しかし、積雪深や降雪量を計測する上において、寒い地方での積雪は雪がとけるまで減りませんが、温暖な地方では一シーズンの雪がそのまま残ることはなく、一週間、一か月単位の降雪量を計測することは不可能です。風が強い地域では雪が吹き飛ばされて減っている場合もあります。

また、あくまでも積雪計設置地点での値であるため、同じ地域でも気象条件によっては吹き溜まりになったりその逆もあります。発表されている積雪量以上に積もっていたり、それなりの積雪量があると期待して行ったスキー場での積雪がたいしたことがなくてがっかりする、というケースもおこりえます。

このため、気象庁やスキー場の積雪情報をそのままうのみにすることはできません。とくに険しい山への冬山登山などを敢行する人にとっては、気象庁やスキー場などの発表した積雪情報だけで入山の是非をジャッジするのは危険です。なので、積雪量によって現場の状況を推定するためには、複数の箇所の積雪量を参考にする必要があります。

なお、気象庁の定義によると、「積雪0cm」と「積雪なし」では状態が異なるそうです。「積雪0cm」は観測点周囲の地面の半分以上を雪やあられが覆った状態のことをさし、「積雪なし」は雪も霰が全くないか、観測点周囲の地面の半分までがこれらに覆われていない状態のことをいうそうです。

このほか、単位面積当たりの積雪深の重量は「積雪荷重」と呼ばれ、「kg/m2」や「kN/m2」で表され、積雪重量計というそれ専用のはかりで計測されます。こういう単位が何故必要かというと、雪による重量によって、建物が破壊される場合があるからです。

建築基準法には積雪荷重に関するきちんとした定めがあり、雪の多い地方では、関東や南西部のようなあまり雪が降らない場所よりも、建築物の構造がより雪に耐えられるように安全基準を引き上げています。古い時代には、こうした基準がなく、豪雪によって多数の家屋が倒壊して死者が出るという悲劇もおこりました。

気象庁の記録によれば、平野部の最深積雪の記録は、750cmで、これは1945年2月26日に富山県上新川郡大山町(現 富山市)に積もった雪によるものです。しかし、旧国鉄による記録では、長野県の栄村森宮野原というところで1945年2月14日に観測された785cmというのがあり、さらには山岳地帯では、滋賀県伊吹山で1927年2月14日に観測された1182cmというのがあります。

その他、参考記録として新潟県寺野村(現上越市板倉区)で1927年2月13日に818cm(2丈7尺)の積雪があったそうで、ちなみに平野部での世界記録は、アメリカ カリフォルニア州のタマラックというところで、1911年3月19日に記録されたもので1153cm。日本の750cmよりもかなり多い量ですが、日本の積雪量もばかにはできません。

その他の雪のお話

このように、人にとっては大敵の積雪ですが、生物や植物によってはその存続をこの雪に依存しているものもあります。たとえば、積雪によってある程度以上温度が下がる地域においては、寒冷期の最低気温がその生物存続を維持している場合があります。

また、積雪は多くの空気を含むため、雪の中は外気ほどは温度が下がりません。このため日本海側などでは冬季の積雪が多いため、低木以下の高さにおいては、より温暖な地域でも育たないような植物が意外にも丈夫に育つといいます。

ユキツバキはその例によく挙げられます。このほかにも雪国にしか生息しない生物や、意外なほどに北まで分布している生物がみられるということです。

さて、ここまで雪の分類や特徴などを中心にいろいろ書いてきましたが、このほかにも雪というといろいろ話題に事欠きません。人工雪の話や雪を利用した発電などの利用、逆に雪害の話とかもいろいろあるのですが、ずいぶん長くなりそうなのでやめておくとして、最後に「雪」の国による呼び方の違いについて若干ふれておきましょう。

日本語以外の言語、特に北米や北欧などの雪の多い地域では、雪に関してさらに多様な表現をするところがあるほか、雪を表す言葉の体系が根本的に異なる言語もあります。これについては、キリがないのでそれを紹介するのはやめておきます。

ただ、エスキモーの中のある言語では雪の形態ごとに呼称が存在し、「雪」を表す総称が存在しないケースもあるといいます。

日本の場合、雪の形態ごとにまではいかないまでも、雪の異称としては以下のようなものがあります。

・六花 / 六辺香 / 六出(りっか、ろっか)→六角形の雪の結晶の形から。
・天花(てんか)→雪の形容。「天華」とも書き、「てんげ、てんけ」で、天上界に咲く花を指す仏教用語。
・風花(かざはな、かざばな)→晴天時に風に乗って舞う雪の形容。
・青女(せいじょ)→古代中国における、霜や雪を降らすとされている女神のこと。そこから転じて、雪の形容。
・白魔(はくま)→主に、災害に相当する大雪を悪魔に見立てるときなどに用いられる言葉。

また、日本語の「雪」は名詞だけでなく動詞があり、「雪ぐ(すすぐ)」は祓い清めるという意味で使われ、「雪辱」(せつじょく)という熟語はここからきています。「雪辱をすすぐ」との用法は、同じ意味の動詞を2度繰り返しているので誤用です。「雪辱を果たす」「汚辱をすすぐ」が正しい使い方です。

呼び方に関してはこんなもんでしょう。

最後になりますが、では雪はなぜ白く見えるのでしょうか。

これは雪は、入ってきた光(太陽光)をほとんど吸収することなく散乱光として送り出すためです。太陽光には幅広い波長の光が含まれますが、雪を太陽光が反射するとき、波長は違ってもその散乱強度には大きな差が生まれず、「まんべんなく散乱する」ために、真っ白い色に見えるのです。

絵の具のいろんな色をまぜると真っ黒になってしまいますが、これはその逆と考えるとわかりやすいかと思います。これはパレットの上で混ざり合った絵の具がすべての波長の光を逆に吸収してしまっているから黒く見えるのです。

しかし、大量に積もった積雪は青みを呈することがあります。晴れた空の下で雪洞などの雪を下から見たとき、青く見えたという経験を持つ方もいると思います。これは雪というよりも降り積もって「氷」となった雪のもつ光の吸収特性によるもので、青色にあたる波長0.45 μm付近の光が最も吸収が少なく透過しやすいためです。

雪が大気中の浮遊物を取り込み、変色した例も数多く報告されており、例えば、朝鮮半島では古くから、黄砂が混じった黄色あるいは赤みがかかった雪が降ることがあったそうです。これは日本でも報告されており、江戸時代の書物に「紅雪」「黄雪」などの記述が残っているといいます。

また、2007年2月2日には、ロシアのオムスク州で、およそ1500km²にわたる広い範囲でオレンジ色の雪が降ったそうです。この雪は悪臭を伴っており、通常の雪の4倍の鉄分を含んでいたといいますが、結局その原因は詳しく分かっていないということです。

さて、今日はクリスマスです。ホワイトクリスマスを迎えることのできる地方の方も多いと思いますが、ここ伊豆では富士山の雪ぐらいしかみれません。が、クリスマスに白い雪が拝めるということだけでも何やらありがたい気がします。

みなさんの地方はいかがでしょうか。ホワイトクリスマスになりそうでしょうか。運が良い方は「紅雪」「黄雪」が見れた方もいるかもしれませんね。もし見れたとしたら、案外と吉兆なのかもしれません。

私自身は、青い雪が見れるような雪深いところへ行ってみたい気がしています。が、それは当面難しそうです。なので、せめて明日は良いお天気で、真っ青な空に白く浮き上がる富士山を見ることができるのを期待することにしましょう。