もり蕎麦 vs かけ蕎麦


今日は御用納めです。多くの人は明日からお休みに入り、大掃除を済ませ、お節料理の準備をしたら大みそかに突入というパターンでしょう。家族で地方などにある実家に帰り、ご両親たちとお正月を過ごされる方も多いことと思います。

先日の笹子トンネル事故後、中央高速の不通が気になっていましたが、29日にはなんとか開通がかなうようで幸いでした。車で地方へ移動される方、道中お気をつけていってらっしゃい。

我々は、今年はここ伊豆で、年越しそばを食べることになりそうです。無論、生まれて初めての体験です。修善寺温泉には蕎麦屋さんもたくさんあるので、あるいはそうしたお店で食べてみるのも一興かも。検討してみましょう。

蕎麦がき

さて、この蕎麦ですが、いわずと知れた代表的国民食であり、主食としても惣菜としても、またまた酒のつまみにもなる、とても重宝な食べ物です。

歴史は古く、うどんや寿司、天麩羅と並ぶ代表的な日本料理ですが、今日、単に「蕎麦」と呼ぶ場合、通常は麺状に細長く切った、「蕎麦切り(そばきり)」を指します。

案外と知らない人も多いようですが、その昔そばは、粒のまま粥にして食べたり、あるいは蕎麦粉を「蕎麦掻き(そばがき)」といって、通常の蕎麦のように麺状にせず、塊状として食べるのが普通な時期がありました。

「蕎麦掻き」という言葉は、5世紀の文献に既に現れているそうで、縄文土器にもこの蕎麦掻きらしい蕎麦料理を食べていた形跡が発見されているそうです。これは、蕎麦粉に熱湯を加えるか、水を加えて加熱し、箸などですぐかき混ぜることで粘りを出して塊状にしたものです。

子供でも簡単に作れるので、蕎麦の産地では昔からおやつとして定番だったようで、現在でも蕎麦屋さんで酒のつまみとして出す店もあるようです。実は私も食べたことがないのですが、食べ方としては、麺の蕎麦とは違い、箸で少しずつちぎりながら、そばつゆや醤油をつけて食べるようです。

蕎麦粉に熱湯をかけて混ぜ、粘りがでた状態からお団子を作るのが「椀がき」で、小鍋に蕎麦粉と水を合せコンロなどで加熱しながら練って作るのが「鍋がき」というそうで、この違いは何かなと思ったら何のことはない、コンロの上に乗せて火を通すか通さないかだけの違いのようです。

おそらく、「椀がき」のほうは、火にかけない分、より「生」っぽい柔らかなものができ、「鍋がき」のほうは、「つみれ」のようなしっかりとした食感が出るのでしょう。

こうしてできたものを、より柔らかくしてご飯を混ぜ込んだり、手でちぎってすいとんのように出汁に落として煮たりと、いろいろなアレンジができるため、最近は手軽な家庭料理として静かなブームになりつつあるみたいです。

これに似たものは、イタリアにもあり、「ポレンタ」というそうですが、これはトウモロコシの粉を練って作るそうで、同じようなものが東アフリカにもあり、こちらは「ウガリ」と呼ばれていてこの地方の人の主食だそうです。

このように、水を加えて加熱することで、蕎麦粉のでんぷんを糊化(アルファ化)させることにより、消化吸収がよく蕎麦の栄養を効率よくとることができるため、健康食としても見直されているといいます。

このほか、「蕎麦焼き」というのもあるようで、これは蕎麦粉を水で溶いた「椀がき」を火であぶったもので、一種のクレープです。クレープの中には蕎麦粉を使う者もあると聞いたことがありますので同じものでしょう。ただし、クレープの場合は甘い味付けをするのでしょうが。

蕎麦切り

水で練った蕎麦粉を、現在のように麺の形態に加工する「蕎麦きり(そばぎり)」は、16世紀末あるいは17世紀のはじめころにこういう形になったようです。うどんなど小麦粉を原料とする麺類はそば粉から作るものよりも高価だったので、最初はコストを下げる目的で蕎麦粉を混ぜ込んだようですが、やがて蕎麦粉のみを使った麺も作られるようになりました。

しかし、蕎麦粉8:小麦粉2で打った「二八蕎麦」などは現在でも健在で、蕎麦粉100%の蕎麦よりもなめらかな味わいが出るということで人気があります。この「二八」は、蕎麦粉の割合ではなく、江戸時代後期にこうした蕎麦の値段が16文であったことから九九の二×八からつけられたネーミングであるという説もあるようです。

なお、二八蕎麦には、蕎麦粉10:小麦粉2で打った外二八蕎麦というものもあり、これは計算すると、16.7%そばです。他にも七割蕎麦とか、五割蕎麦とか、蕎麦の割合に応じて勝手な名前をつけているものも時々みかけるので、蕎麦粉に小麦粉をどの程度加えるかについては、どうしても二割でないとダメ、といかいうルールはないようです。

蕎麦粉100%の十割蕎麦は、工場生産の場合、通常はお湯を加えて糊化を促進して作りますが、粘度の高いどろどろ状にした「つなぎ」を蕎麦粉にまぜて成形していく方法や、通常よりもさらに蕎麦粉を細かく挽いて練る方法、押し出し麺により製造する方法などなどがあり、風味のよい蕎麦切りを作るために各メーカーともいろんな工夫をしているようです。

が、やはりなんといっても、粗挽きの蕎麦粉を人が水練りによって形にしていく「手打ち」蕎麦の風味は抜群です。蕎麦の練りには天候や気温が大きく影響するため、素手でその練り具合を確認しながら、徐々に成形していくのは、熟練の職人さんでも難しいといいます。

もともと蕎麦粉は小麦粉のように練っても高い粘度が出ないので、十割蕎麦は小麦粉をつなぎに使った二八蕎麦よりも切れやすく、このため、江戸時代には今のように茹でる蕎麦ではなく、蒸籠に乗せて蒸し、そのまま客に供する形主流でした。これを「せいろそば」といい、今もその形で蕎麦を提供しているお店をときどきみかけます。

江戸時代以降、現代までに蕎麦の食べ方として最も普及したのは、「もり蕎麦」または「ざる蕎麦」でしょう。茹でた麺を水でしっかり洗ってぬめりを取り、竹製の蒸篭(せいろ)や笊(ざる)に盛り付けていただく様はおなじみです。

またもり蕎麦には、大根おろしやとろろを加えることも多く、これを特に「おろし蕎麦」「とろろ蕎麦」といい、関西ではこれに鶉(うずら)の生卵(関西に多い)を入れることも多いようです。

このほかカモ肉や鶏肉などを煮込んだ「タネ」を入れた温かいつゆをもり蕎麦とは別に出し、「つけ麺」にして食しますが、このタネを入れただし汁を「ぬき」というのだそうで、「蕎麦ぬき」の意味のようです。こちらは、「鴨つけ」とか「肉つけ」あるいは「鴨せいろ」「肉せいろ」などとして蕎麦屋のメニューに並んでいますね。

もりとざる

ところで、この「もり蕎麦」と「ざる蕎麦」はいったい何が違うんだろう、といつも思うのですが、その違いは元来、蕎麦が盛ってある器の違いだったそうで、もともとは「ざる蕎麦」は「竹ざる」に乗せてあるものを指します。

ざる蕎麦の発祥は、深川の州崎弁財天前にあった「伊勢屋」というお店だったそうで、蕎麦を竹ざるに載せ、またつゆにもこだわって通常よりはコクのあるつゆを使って出したこところ評判がよく、大いに繁盛したといいます。このため、ほかの蕎麦屋もこれを真似たため、「ざる蕎麦」ということばが広まったということです。

それまでは、冷たいつゆや熱いつゆを直接蕎麦にかけて食する「ぶっかけ」と呼び、これに対して、そばを盛ってつけ汁とは別に出す蕎麦のことを「盛り蕎麦」といっていました。

そもそも「ぶっかけそば」と区別するために汁につけて食べるそばのことを「もり」と呼んでいたわけですが、この伊勢屋の「ざる蕎麦」が出回るようになってから、両者の呼称が混在するようになっていったようです。

ところが、明治に入ってから、これらの蕎麦に刻んだ海苔を散らす風習が加わり、これがいつのまにか海苔のかかったもののほうを「ざる蕎麦」と呼ぶようになり、かかっていないものを「もり蕎麦」と呼んで区別するようになりました。こういう区別を始めたのがどこの店だったのか、関東なのか関西なのかはその発祥はわかっていないようです。

しかし、今ではせいろ(ざる)に乗った蕎麦でも海苔がかかっていれば「ざる蕎麦」となり、同様にざるに乗っていても海苔がかかっていなければ「盛り蕎麦」と呼んで区別するようになりました。

お店によっては、この二つのメニューが並列する場合、海苔の材料代を確保するためか、ざる蕎麦のほうがやや高い値段がつけられていることが多いようで、これからするとざる蕎麦のほうが、やや高級な食べものというかんじもします。

が、いわゆる「そば通」と呼ばれる人の中には、蕎麦とは香りと歯触りを賞味すべきものであるとして、海苔が載っているざる蕎麦は風味が損なわれると言って嫌う人も多いようです。

歴史小説作家、直木賞作家として有名な池波正太郎の書生をつとめ、自らも蕎麦好きというルポライターの佐藤隆介さんは、よく池波さんと蕎麦を食べに行ったそうですが、「めんつゆに卵を入れようとしたところ、卵など入れてはいけないと」池波正太郎にたしなめられたそうです。

また池波さんは、海苔の載せてあるざる蕎麦なんて蕎麦ではない、と言っていたようで、蕎麦切り本来の滋味を味わうにはもりが一番であると常々言っていたそうです。

もり蕎麦(ざる蕎麦)食する場合、つゆの薬味としては、摺り下ろしたわさびと刻んだネギが定番です。つゆとは別にされ、好みに応じた量がとれるようになっており、わさびはつゆに溶いたり、風味を損なわないように蕎麦に乗せたりするなど微妙な調整が必要です。このあたりの微妙な味わいもツウの人にはたまらない魅力なのでしょう。

江戸っ子は蕎麦好きで有名ですが、古い時代の江戸では、うどんのほうが盛んに食べられていました。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたそうです。

江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、白米やうどんなどのでんぷん質を多用していたために蔓延していた「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できることを食に敏感な江戸の庶民が知るようになっためではないかという説もあるようです。

しかし、このことが科学的に証明されるのは明治時代以降のことです。おそらくは、徳川幕府によって質素倹約が強く奨励された江戸にあって、庶民の間でもうどんよりも原料代が安い蕎麦のほうが受け入れやすかったのではないかと考えられます。

また、蕎麦はうどんと違って、これを食しながら酒を飲むということが江戸時代に流行ったようで、これも蕎麦が普及した原因でしょう。江戸では蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称し、現在の東京でも蕎麦屋とうどん屋を比べると、酒を出すのは蕎麦屋のほうが多いのが普通であり、当初から酒をのみながら蕎麦を食うことが「通」とされる傾向があったようです。

こうした蕎麦に対するこだわりは江戸時代を通じてつちかわれていき、その「粋」を重んじる様は江戸を代表する文化のひとつだと称されるほどです。

蕎麦に対する「意地」や「見栄」のようなものがあり、蕎麦の食べ方ひとつにしてもこだわりがあって、よく、もり蕎麦を食べるときには、蕎麦の先だけをつゆに浸して食べるのがツウだということがいわれます。

多くの蕎麦好きは、新蕎麦の季節ともなれば蕎麦の味よりもむしろ香りを重要視するといい、そうした香りを存分に味わうには、空気と一緒に啜り込み、鼻孔から抜くようにしてしかもズルズルと音をたてて食べることによって存分に賞味できると主張しています。

関東のそばつゆは濃いめなことが多く、ちょっと浸すことで十分だからでもありますが、こうすることによって、蕎麦の風味を十分味わえるといい、さらに口に入れたらあまり噛まずに飲みこみ、喉越しと鼻に通る香りを楽しむのが良いのだとか。

蕎麦つゆに蕎麦をたっぷりと浸すのは田舎者で、江戸っ子はさっとつけて啜り込むのを粋とする風潮があり、落語家の10代目金原亭馬生の落語に「そば清」というのがありますが、この中で江戸っ子が「一度でいいから蕎麦をつゆにたっぷりつけて食ってみたかった」と言い残して事切れる、という有名な話があるくらいです。

大きな入れ物にたっぷりと蕎麦が入って出てくるのも野暮とされ、蕎麦の量は少ないほどよく、もし足りなければ2~3枚食べるのはあたりまえ。箸は割り箸に限り、塗箸は蕎麦が滑るのでタブー、酒を飲むのでなければ、さっさと食って引きあげるのが粋、などなど蕎麦に対するこだわりは徹底しています。

江戸時代には蕎麦を食べることを特別に「手繰る(たぐる)」とまで呼んだそうで、このような気取った言葉を使うこと自体がもう一つの文化といえます。

もり蕎麦やざる蕎麦といえば、そのもうひとつの魅力が、「蕎麦湯」でしょう。ご存知のとおり、蕎麦を茹でるのに用いたゆで湯のことですが、蕎麦に添えて湯桶で飲用に出す店が多いようです。蕎麦を食べた後に残った蕎麦つゆにこの蕎麦湯を足して、「最後の締め」として飲むわけですが、蕎麦つゆで割らずに蕎麦湯のみを飲む人もいるようです。

また、残った蕎麦つゆを一旦捨てて、新しい蕎麦つゆを頼んで蕎麦湯を割って飲む人もいるようですが、通常のお店ではそこまでサービスしてくれません。「たかが蕎麦湯」なのですが、結構奥が深く、良水を多量に使用する店では蕎麦湯はサラッと薄く、ゆで湯が少なめで使いまわしている店ほど濃くなる傾向にあるといいます。

しかし、このドロッと白濁した濃い蕎麦湯を好む客も多く、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客もいるため、わざわざゆで湯を煮詰めたり、そば粉や小麦粉を溶かし込んで濃い蕎麦湯を作る店もあるそうです。が、蕎麦湯に残った蕎麦の風味を楽しむという意味では、良水をゆでたあとのストレートな蕎麦湯を味わうのがツウというわけです。

このほか、お酒を出す蕎麦屋さんの一部では、焼酎を蕎麦湯で割った「蕎麦湯割り」なるメニューがあるところもあるようで、これはこれでおいしそうです。

かけそば

さて、以上が冷たい方の雄であるもり蕎麦、あるいはざる蕎麦のお話でしたが、これに対して、茹であがった蕎麦の上に、熱いつゆをかけて食べるのが「かけ蕎麦」です。が、この食べ方は、もり蕎麦やざる蕎麦より新しい食べ方だそうです。

かけそばは、江戸初期の元禄時代(1698~1704)に、荷運び人夫たちが「つゆを付けてから食べる蕎麦切りを面倒」と思い、蕎麦につゆを掛けて食べるようになったのが始まりだそうで、とくに寒い時期を中心に暖かいつゆで食べられるようになりました。

元禄後の1751年(寛延4年)には「蕎麦全書」なるものが江戸で刊行されており、こうしたものが出版されるほどこのころには蕎麦はポピュラーかつバラエティーに富む食べものであったことがわかりますが、この本には新材木町にあった「信濃屋」で「ぶっかけ」が始まったと記述されているそうです。

この「ぶっかけ」は最初は冷たいつゆをかけるものだったそうですが、上記のように人足達の間で暖かいつゆをかけることが流行したため、寛政年間(1789~1801)のころからはこれを「かけそば」と呼ぶようになっていったともこの「蕎麦全書」に書いてあるそうです。

このほか、「かけそば」を「下品な食べ方」としており、「もりそば」のほうが風流な食べ方とされていたようですが、ひとつの器で食べる簡便さが重宝がられ、江戸だけでなく日本各地へ広がっていっきました。

ただ、蕎麦を食すること自体は、下賎の風習として上流階層には敬遠されていたようで、武家や公家などの間では人前で蕎麦を食するものではなかったと書かれた史料も残っており、生活が苦しい小身の旗本でも蕎麦をおおっぴらに食べることは控えることが原則だったようです。

しかし、これは幕府直参の見栄であって、実際には外様藩の下級武士を中心として多くの武士も蕎麦をこっそり食べていたに違いありません。

こうしたあたたかい「かけそば」の薬味としては、小口切りにした長ネギと七味唐辛子がよく用いられます。私自身は七味やら何やらをいろいろ入れるのはあまり好きではないのですが、細かく刻んだ柑橘類の皮を入れると、風味が立ちというので、これを好む人も多いようです。

現代でも、温かいつゆに入った蕎麦は「かけそば」といわれることが多いようですが、「冷たいつゆを使用したかけ蕎麦は「ぶっかけそば」と呼んで区別する場合もあり、「冷かけ」と呼ぶ地方もあるみたいです。

冷たいぶっかけそばは、茹でた後にしっかり洗ってぬめりを取り、食べる際には別の器に入ったつゆをかけて麺を浸した状態で食べます。器は丼型か、より広口の器が用いられ、深皿のような浅い器も用いられることが多いようですが、出水そば(鹿児島県)や出雲そば(島根県)のように小型の皿に分けられていることもあります。

具は地方によっていろいろのようですが、一般的にはキュウリ、錦糸玉子、カマボコ、ワカメなどが入っており、これらが蕎麦の上に綺麗に盛り付けられた状態で客に出す蕎麦屋もあるようで、これは「冷やし中華」の影響と思われます。

その他のそば

以上のように、蕎麦といえば冷たいもり蕎麦か、あたかいかけそばか、といわれますが、このほかに、「トッピング」に何を選ぶかによって、その名称が様々に変わるのが蕎麦の特徴でもあります。

天かす(揚げ玉)を具とするのが、「たぬきそば」であり、これは天ぷらがなかったので天かすをのせたのがそもそもの始まりだったといわれ、「タネ」がない、つまり「タネ抜きそば」がなまったのだともいわれます。

また、客に出そうとしたら、天ぷらが品切れだったので客を「騙す」ためにて天かすを添えて出したため、「客を化かした」ということで狸そばだと呼ぶようになったのだという説もあります。

天ぷら蕎麦は、江戸中期に貝柱のかき揚げなどを載せたのがはじまりだそうで、エビ天が載ったのが最上級品とされますが、東京などの関東ではこのほか野菜などのかき揚げを載せることが多いのに対し、関西では小海老をたっぷり使ったかき揚げが普通だそうで、文化の違いを感じさせます。

なお、関西では、天ぷらそばといえば天かすやえび天の載った蕎麦ではなく、味付けした薄揚げが載っているものを指すそうです。このほか関東では竹輪の天ぷらを載せることが多く、九州ではさつま揚げが載っている場合が多いなど、「天ぷらそば」の文化は各地で違うようです。

このほかにも生卵などを「月」に見立てた「月見そば」、先にも書きましたが「とろろ」を入れたとろろ蕎麦や大根のおろしを入れた「おろし蕎麦」、カモ肉を入れた「鴨南蛮」、これにカレーを入れた「カレー南蛮」、わらびやなめこなどの山菜を入れた「山菜蕎麦」「なめこ蕎麦」などがポピュラーなところでしょう。

「コロッケそば」というのもありますが、これは立ち食い蕎麦屋などでよくみかけるジャガイモを入れたいわゆる「コロッケ」を載せたものが元祖ではないそうです。

これは、浅草にあった「吉田」というお蕎麦屋さんが、鶏肉のつくねをのせたものをこう呼んだのが始まりだそうで、現在では「吉田」の後を継いだ銀座の「よし田」というお店でコロッケ蕎麦を提供しているということです。

関東vs関西

さて、この蕎麦の味付けとされる「つゆ(蕎麦汁)」は、関東と関西とでは色・濃さ・味になどに明らかな違いがあり、好みが分かれるようです。

江戸時代を通じて蕎麦好きだった関東人は、現在でもうどんより蕎麦の方が支持されているようで、蕎麦を食べる前提で作られた濃厚なつゆをうどんに用いるのも、これに起因すると見られています。

一方、大阪ではそばよりもうどんの方が一般的に好まれるようで、どちらかといえば、うどん屋が利用者のニーズに応えて、「ついで」に蕎麦も出しているという感覚だそうで、この逆に蕎麦屋であってもうどんを提供する店も多いようです。

また、かけそばでは、元来うどんに用いる前提で作られた淡口醤油を基調とした透き通った汁であることが多く、そばもうどんも濃い物を用いる関東とは真逆です。また、そば自体も産地の関係か一般に黒そば、田舎そばなどと呼ばれる殻ごとひいたものが好まれる傾向にあるそうで、関東の人はこうしたものはあまり好みません。

ところが、同じ関西でも京都は古くからの蕎麦屋が多く蕎麦好きな人が多いことで知られています。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためのようで、京都といえば「ニシンそば」が有名ですが、これは幕末に古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」が流行したことに発想を得て出てきたもののようです。

とはいえ、全体的に見れば、京都も大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるそうです。ただし、大阪のようにそば屋がうどんを提供するというのは稀だそうで、蕎麦屋でうどんを、うどん屋で蕎麦を出す大阪だけが他地域とはちょっと違っています。

このほか、関東でも関西でもない日本の農山部においては、蕎麦はどちらかといえば貴重品でもあったことから、伝統的に蕎麦切りはもてなしの料理であり、このほか祭礼や正月にしか食されてこなかったようです。

しかし、江戸や大坂への重要な「輸出産物」であったことから、例えば長野県などでは、どこの家でも素人ながらに蕎麦打ちの技術を持っているといわれ、来客があると、家の主人もしくは主婦が蕎麦を打ち、食事として供したといいます。

長野だけでなく多くの農村部での蕎麦の食べ方は、江戸や大坂と異なり、にんじんや椎茸などの山菜を細切りにして煮込んだ澄まし汁やみそ汁をつけ汁椀を用意し、「もり蕎麦」形式で食べる地方が多いようです。また、蕎麦掻きは、作るのが簡単であることもあり、農作業の合間に口にすることも多かったようです。

このほかその他の雑穀類と同様に団子にしたり、野菜を煮立てた中に蕎麦粉を入れてかき混ぜるような食べ方もあったようですが、豊かな時代になって食糧自給する必要がなくなり、東京や大阪などの都会風の蕎麦の食べ方も普及したため、こうした地域ごとに特色のあった蕎麦の食べ方は廃れつつあるようです。

蕎麦の栄養

さて、この項も長くなってきましたので、そろそろ終わりにしたいと思います。

健康ブームが隆盛を極める現在にあって、ヘルシーな「粗食」とみなされることの多い蕎麦ですが、古い中国の薬学書「本草綱目(ほんぞうこうもく)」には、「腸胃を実(み)たし、気力を益し、精神を続(つ)なぎ、能く五臓の滓穢を煉る」と書かれているそうです。

また前述のように蕎麦は、ビタミンB1を豊富に含み、脚気などのビタミンB1欠乏症の予防に効果もあり、このように高い栄養価をもつ蕎麦には滋養強壮効果が期待できそうです。

蕎麦粉のタンパク質含有量は、大豆などに比較すればそれほど多くはないものの、その蛋白質は、人の体内で十分な量を合成できず、栄養分として摂取しなければならない高品質の「必須アミノ酸」を多量に含んでいるということで、穀物としては非常にバランスの良いものだそうです。

また、蕎麦粉には「ルチン」という機能性成分が大量に含まれていて、これは俗に「健康によい」物質だといわれており、抗炎症効果や血流改善効果などの様々な効果が論文などで報告されているということです。

ネパールでの1992年の血圧調査では、蕎麦粉を主食としている地域は、小麦粉を主食としている地域よりも血圧が低かったといい、高血圧の人には効きそうです。

ただし、蕎麦粉に小麦粉を混ぜて麺を作ると、小麦粉のアミノ酸組成の影響を受けて蕎麦麺のアミノ酸性能が低下するそうなので、蕎麦を食べるならば二八蕎麦よりも十割蕎麦のほうがよさそうです。

なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むと良いという俗説があるようですがは、生蕎麦の茹で時間はせいぜい1分未満と極めて短いため、溶け出す量は限られ、またルチンは不溶性であるため、あまり意味はないということです。

一方、蕎麦には、「そばアレルギー」物質が含まれているとして、食品衛生法施行規則でもこうしたアレルギー物質を含む「特定原材料」として指定されており、アレルギーのある人には注意が必要です。

アレルギー反応の症状としては、軽い頭痛から嘔吐など様々であり、症状は食後すぐから現れるそうなので、そばアレルギーの人はそれを知っていると思われますが、万一、蕎麦を食べたことがないという人は注意が必要です。

過去に、給食でそば粉を使用した蕎麦を食べた事が原因で発作をおこし、吐瀉物が気管に入って小学生が窒息死した事故があったそうで、蕎麦は食べていないつもりでも、そば・うどん店では同じ釜でそば・うどんを茹でる場合も多いため、そのプロセスでアレルギー物質が混入する可能性があるということで注意が必要です。

また、そばアレルギーを持っていないと思われる人でも、そば畑や蕎麦の実を収穫し扱っている際に、アレルギーの症状が顕在化する場合もあるそうなので、ご心配な人は皮膚科や内科に行って、アレルゲン検査をしてもらったほうが良いかもしれません。

最後に

さて、蕎麦のように長々と……というよりもだらだらと書いてきてしまいましたが、本当に最後に、なぜ、年越し蕎麦を食べるのか、についてだけ。

この年越し蕎麦ですが、江戸時代中期には既に、商家などで月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)という習慣が定着していました。これが転じて大晦日だけに行われる年越し蕎麦になったと考えられています。

年越し蕎麦に関する伝承としては、年を越してから食べることは縁起がよくないとするものが多いようですが、なぜ縁起がよくないかというと、年内に蕎麦を残してしまうと、新年は金運に恵まれず、小遣い銭にも事欠くことになるためといわれています。

じゃあなぜ、年内に食べてしまわないと金欠になるのか、と問われるとこれには適当な答えがありませんが、蕎麦は切れやすいことから、一年間の苦労や借金を「切り捨て」翌年に持ち越さないよう願ったため、という説があります。

また、蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願うために、これを年末に食べるのだとも、家族の縁が長く続くようにともいわれており、「金の切れ目が縁の切れ目」変じて、蕎麦の切れ目が縁の切れ目とならないように祈るものでもあるようです。

さて、この年末、あなたはかけ蕎麦で年を越しますか、それとももり蕎麦ですか?