カメラのこと

突然ですが、カメラを持っていない、という人はおそらく日本人ではいないのではないでしょうか。それくらい日本人はカメラ好きな国民だと思います。

もともとの語源であるラテン語では、camera は「小さな部屋」を意味し、のちに政治や財政を司る「部屋」(官房・国庫)などと意味が拡大したそうですが、さらにこれが英語に訳されたときの camera は「暗室」を意味するようになりました。

このため古くは「写真術」を表す言葉だったと思われますが、時代が下がるつれ、撮影する機材そのものをカメラと呼ぶようになっていったようです。

今日はなぜか「カメラの日」ということになっているようなのでこの話題をとりあげたのですが、なぜカメラの日なのかというと、1977年11月30日に小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、世界初のオートフォーカスカメラである「コニカC35AF」を発売したのを記念してのことだそうです。

ちなみに,フランスのルイ・マンデ・ダゲールが「ダケレオタイプ」という長時間露光の写真機を発明したことで制定された「カメラ発明記念日」はこれが発明された1839年の8月19日で、カメラの日とは別になっています。

このコニカのオートフォーカスカメラのことを覚えているとすると50代以降の年配の方でしょう。私も形はよく覚えていませんが、「ジャスピンコニカ」の愛称でテレビコマーシャルが流れ、このカメラが大きく宣伝されていたのをなんとなく覚えています。

それまでカメラを扱うのに尻込みをしていた女性層にこの「オートフォーカス」という昨日は多いに受け入れられ、爆発的な売れ行きを示したといいます。

コニカはこれに先立つ1963年4月にも世界初の自動露出(AE)カメラ「コニカAutoS」を世に送り出しており、その当時はカメラ業界におけるパイオニアとして広く名前が知れ渡っていました。

しかし、カメラ好きの私の目には、どちらかといえば「トイカメラ」的な存在のように映り、女性が好むというその前衛的なスタイルがあまり好きではなかったような記憶があります。

確かにニコンやキャノンといった高級一眼レフを作っている会社のカメラとは異なり、コストパフォーマンスを追求した結果からか、手にとった質感も何かちゃちなかんじがしました。

とはいえ、それまでのカメラでは、撮影するためにフレームで対象を捉え、シャッター速度、絞り、そして焦点という3つの要素を合わせて撮影しなければならなかったものを、このコニカのカメラは、そういう専門知識のない人でも簡単に使えるようになったという点で高い評価をすることができます。

カメラのほうで自動的に露出を決めてくれ、しかもピントまで合わせてくれるというのは、画期的なシステムであり、それまでは扱いにくい「機械」というイメージであったものが気軽に持ち歩けるアクセサリーのような存在になったのはこのカメラからではないでしょうか。

アメリカではこういう素人でも扱えるカメラというのを「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」というので Vacation Camera と呼ぶようになり、このことばがそのまま日本語に輸入されてローマ字読みされ「バカチョン・カメラ」ということばになったそうで、コニカのオートフォーカスカメラが出たころには、もうすでに市場でこの言葉は定着していました。

ところがこのことばは「馬鹿でもチョンでも扱えるカメラ」という意味だと誤解する人が多かったようで、「チョン」は朝鮮人のことで差別語だと騒ぐ人たちが出てきて、マスコミが使用を控えるようになり、その後、文章に書くのは禁句のような扱われかたをして消えていったという経緯があります。

日常会話ではみんなあまり深く意味を考えないまま、今でもときどき使われるのを聞くこともありますが、どちらかといえばやはり年配の人が使っているのではないでしょうか。

このオートフォーカスカメラですが、現在販売されているカメラはある程度以上の価格のものにはほぼ全部使われていますが、レンズ付きフィルムなどの安いカメラにはピント合わせの必要のない「固定焦点方式(パンフォーカス方式)」が採用されています。

絞りを絞り込んで焦点の合う範囲を広げたもので、比較的感度の高いフィルムで使うと近くの人物から遠くの背景まで全てに焦点が合います。すべてに焦点が合うのは良しあしであり、遠くにあるものと近くのものの遠近感がなくなってしまうなどの難点がありますが、ともかく安いので、いわゆる「トイカメラ」と呼ばれるもののほとんどは、この方式です。

こうした旧来のカメラにとって代わって登場したのが、コニカの世界初のオートフォーカスカメラ「コニカC35AF」ですが、オートフォーカスとはいえ、このころの技術ではまだまだピントを合わせるのは難しく、きちっとしたピントの写真を撮るのはなかなか大変でした。

ピントを自動で合わせるためには、カメラに組み込まれている「距離計」という装置を自動で動かすことになります。話すと長くなるのでやめますが、簡単にいうと、コニカC35AFでは二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動しました。

このカメラは大ヒットとなり、「ジャスピン」の名前とともに「AFカメラ」の名が世に浸透していきました。コニカはその後、ストロボを内蔵させた「ピッカリコニカ」なども発売し、これもヒットします。

他のカメラよりは若干高めの価格設定でしたが、オートフォーカスでストロボがついている、という形式のカメラはその後他者からも次々と発売され、数年でその後の価格はどんどん安くなっていきました。

その後、各社のオートフォーカスの性能は徐々によくなっていきましたが、なかなかスピーディにピントを合わせることができるカメラは登場しませんでした。

ところが、1985年にミノルタが発売した、α-7000は「位相差検出方式」という新方式を使っていたため、ピント合わせがよりスピーディーになり、しかも一眼レフカメラとして発売され、AF用の交換レンズも揃えられたため、爆発的なブームになりました。初めて買ったオートフォーカスカメラがα-7000だったという人は多いのではないでしょうか。

この位相差検出方式とは、対になっているラインセンサーを用いて、像の位相差(ズレ)から、ピントの合う方向を検出するAF方式で、α-7000は中央一点測距方式でしたが、その後ミノルタだけでなく、他社からも発売されるようになったAFの多くは多点測距となりました。

現在のデジタル一眼レフの多くもこの位相差検出方式を使っていますが、コンパクトデジタルカメラでは撮像素子を使う像面AFが主流で、これは画像のコントラストの違いによって距離を測りピントを合わせる方式です。複雑な装置が必要なく、安価なコンパクトデジカメにはもってこいの方式です。

このデジタルカメラは、撮像素子で撮影した画像をデジタルデータとして記録するカメラのことで、コダックが世界で先駆けて開発しました。

通称「デジカメ」とよくいわれますが、「デジカメ」は、日本国内では三洋電機や、他業種各社の登録商標です。三洋は「デジカメ」だけを使うのはかまわないが、「○○のデジカメ」といようにメーカー名を併記した記述は認めない、といっているそうです。

しかし、これだけデジカメという用語が一般化している現代にあって、一社だけがデジカメとはうちのカメラのことだよ、と言ってみたところで、あまり利益に結び付くような話ではないように思いますがどうなのでしょう。

ま、商標はともかく、日本で初めて電子式のカメラとされるものは、ソニーが1981年に試作し後に製品化した「マビカ」のようです。初の販売製品としてはキヤノンが1986年に発売したRC-701というのがあるそうですが、このカメラでは2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として使用したそうです。

これに追随して、カシオは1986年にアナログ方式で画像を保存するVS-101を発売したものの、10万円台という価格はちょっと高すぎたため人気が出ず、大量の不良在庫を出しました。その後も990年代初頭に至るまでいくつかのメーカーから「電子スチルカメラ」と称するカメラが発売されましたが、ビデオカメラほどヒットしませんでした。

1988年に富士写真フイルムが開発した「FUJIX DS-1P」は当時のノートパソコンでも使われたSRAM-ICカードに画像を記録しましたが、これは発売されることはなく、その後富士フィルムは、1993年に電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用した「FUJIX DS-200F」を発売。しかし販売実績はあまり伸びなかったようです。

しかし、1995年にカシオ計算機が発売したデジタルカメラ「QV-10」は、外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円という価格が受け、それなりに売れたようです

今でこそ当たり前になっていますが、このカメラの一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できたことで、また当時はWindows95ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期でもり、パソコンに画像を取り込めるということで、広く認知されるようになりました。

この機種はNHKの番組「プロジェクトX」でも取り上げられ、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介されましたが、上述のとおり、世界発のデジカメというわけではありません。

このカメラの成功を皮切りに多くのメーカーが般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めました。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能があり、その記録方法としてJPEGの連続画像が採用されました。

この頃の製品の画質はまだ数十万画素程度であり、電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的でした。

1995~97年ころというと、私が転職した先で方々へ出張に行き、現場の写真を撮って帰る機会も多かったころですが、デジカメで撮った写真など画質が悪くて使い物にならなかったので、あいかわらずアナログカメラばかり使っていたのを記憶しています。

当時のアサヒカメラや日本カメラといった日本を代表するカメラ雑誌の記事を読んでも、その性能がフィルムカメラを追い越すようになるなんてことはありえない、という論調だったのを覚えています。

ところが、このころから各メーカーとも猛烈な高画素数化競争や小型化競争などを始めます。市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇しつつも、価格も下がり続け、利便性も受けて、2005年頃にはフィルムカメラとデジタルカメラの販売台数がついに逆転。フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わりました。

2000年初頭には日本のデジカメは世界で断トツのシェアを誇っていましたが、このころから海外の電気機器メーカーの参入も始まり、台湾や中国、韓国等のメーカーが開発競争に加わるようになります。

さらにはカメラ付携帯電話が流行したことから、携帯電話に付随するカメラの高機能化も加わり、とくに携帯電話の領域では海外メーカーのデジカメがかなりのシェアを占めるようになってきました。

しかし、日本のメーカー製の高級デジカメの質は現在でも世界のトップクラスであり、報道関係やプロカメラマンの間でもほとんどが日本製のデジタルカメラを使っています。

初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になる一眼レフカメラも多く、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラでしたが、最近ではこうした高級カメラも一般の人が入手できるくらいのかなりの手頃の価格になってきました。

フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、現在ではフィルムカメラを駆逐してしまい、報道カメラの中心的な存在となっていますが、こうしたカメラは専門家だけでなく、一般の人でも普通に所持するようになってきました。

はっきり言って、どうやってそんな高級なカメラを使いこなせるの?というくらい高額なカメラを持ち歩いているおじさんを良く見かけますが、こういう人に限って真っ暗闇の海の風景をストロボを焚いて撮ったりしています。

ま、こういう人たちが日本のカメラメーカーの快進撃を支えているわけであり、文句を言う筋合いはありません。しかし、良いカメラを持てば良い写真が撮れるというわけではありませんので、そうした意味では日本人のカメラに対する高級志向はもう少し改められるべきかな、とも思います。

このデジタルカメラの将来ですが、今よりもさらに高画質化が進むのでしょうか。私はそうは思いません。写真を見るのは人間である以上、ある一定値以上の高品質化は過剰といえます。

L版程度のプリントしか普段見ない人にとって、1000万画素以上のデジカメを使う意味は全くなく、A4版だとしてもこの程度の画素で十分です。こうしたことを一般の人はあまり意識して考えていませんが、いずれこうしたことがわかってくるころには、見た目に分からない品質にお金を出す一般ユーザはいなくなると思います。

なので、デジタル技術の進展に従い、コンパクトデジカメがスマートフォンにその地位を奪われているように、一眼カメラなどもやがてはコンパクトデジカメやあるいはスマートフォンにその地位を奪われるようになり、あまり高画質で高級すぎるものは逆に流行らなくなるのではないかという気がしています。

むしろカメラで撮影したものをどう扱うか、ということころが焦点であり、画像の処理技術であるとかプリントの方法であるとかに人々の興味が移っていくように思います。

さて、今日はカメラが話題ということで、少し熱が入ってしまいましたが、これ以上書くとさらに長くなりそうなのでやめておきましょう。

明日からはもう12月です。しかしまだ紅葉は散りきっていないと思います。週末はみなさんもデジカメを持って撮影に出かけましょう。

宝永山のこと

ここ数日天気が続いて富士山が良く見えます。いつもながらの風景ですが、そのすぐ脇にある宝永火山の噴火口はいつみても大きなあざのようで、朝日などに照らされるとくっきりとした影をそこに落とし、一層この付近の荒々しさを感じさせます。

宝永山は江戸時代の1707年(宝永4年)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山です。標高は2693 mもあるそうで、ここ伊豆からはあまりその山の形はわかりませんが、御殿場あたりまで行くと、円錐状の形の山が富士山の脇に張り付くようにそびえているのがよくわかります。

この宝永山の南東側の富士山の斜面には「宝永火口」があり、山頂側から順に第1火口、第2火口、第3火口と呼ばれていて、第1火口が最も大きく、我が家からは第2・3ははっきりと見えませんが、第1は肉眼でもくっきりとそれが確認できます。

この宝永山、あまりよく知られていないようですが、頂上までは登山道が整備されているそうで、富士山登頂に比べれば登頂は難しくないそうです。それでも2700m近い山であることから、夏山登山が普通で、冬に登る人はかなりの登山マニアでしょう。

とはいえ、御殿場口新五合目駐車場から山頂まで片道約1時間30分だそうで、装備さえしっかりしたものを持ち、天候に気を付けていれば我々でも行けそうです。

宝永山頂まで行かなくても途中までのルートで宝永火口は十分に見えるそうで、行ったことがないので偉そうなことは言えませんが、これを見るだけでも富士山の雄大さを実感することができるのではないでしょうか。

宝永火口が見える地点へは、御殿場口新五合目駐車場の東端から森林帯の登山道(宝永遊歩道)を利用すれば、距離が短く高低差も少ないため約20分で着くそうです。

登山期間は通常、5月上旬ごろから11月中旬ごろまでといいますが、私は冬季にこのルートが閉鎖されているかどうかは確認していません。多くの方が冬季に登ったレポートをブログなどで紹介されていますから、おそらくは警察署への届け出などは必要ないのではないでしょうか。

この宝永山と宝永火口を形成した、宝永大噴火は、有史時代の歴史に残った富士山三大噴火の一つだそうで、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火」と「貞観の大噴火」です。宝永大噴火以後、2012年に至るまで富士山は噴火していませんが、近年富士山周辺で大きな地震が起こっており、一昨年の東日本地震以降、微振動が続いているそうで、少々不気味なかんじです。

宝永大噴火のときの噴煙の高さは上空20kmにまで上がったそうです。「プリニー式噴火」と言うそうで大量の火山灰を伴いました。

プリニー式噴火は、数ある火山の噴火形式の中でも、最も激しいもののひとつで、膨大な噴出物やエネルギーを放出するのが特徴です。地下のマグマ溜まりに蓄えられていたマグマが火道を伝って火口へ押し上げられる際、圧力の減少に伴って発泡し、膨大な量の「テフラ」を噴出します。

テフラとは、火山灰や軽石、「スコリア」と呼ばれる塊状の岩滓(がんさい)などがごっちゃまぜになった混合状の噴出物で、火砕流などの現象を引き起こす大変厄介なものです。

このテフラや噴石は火山ガスとともに、火口から吹き上がり、柱状になって山体から吹き上がりますが、その様子はフィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山が1991年に噴火したときの映像が世界中に流れ、これを見て記憶している人も多いと思います。

火口からの噴煙柱の高さは通常でも1万m、時には5万mを越えて成層圏に達し、1日から場合によれば数日、数ヶ月の長きに渡って周囲を暗闇に包みます。上空に達した噴煙柱はやがてその自らの重みに耐え切れずに崩れ落ち、火砕流となって四方八方に流れ下り、時には周囲100kmの距離を瞬時に埋没させます。

宝永の大噴火の際にも、100 km離れた江戸にも火山灰をもたらしましたが、幸いこのときの噴火では周囲を瞬くに埋没させるほどひどいものではありませんでした。溶岩の流下もなく、地下20km付近に溜まっていたマグマが滞留することなく上昇したため、爆発的な噴出とはなりましたがその量も比較的少なかったことが幸いしました。

噴火が起こったのは富士山の東南斜面であり、前述のとおり、これが後年宝永山と呼ばれるようになり、合計3つの火口が形成されました。

宝永大噴火は1707年の12月16日(宝永4年11月23日)に始まったとされています。噴火の直前に記録的な大地震があり、これは宝永噴火とは別に、「宝永地震」と呼ばれ、噴火による火山災害とは別に大きな被害をもたらしました。

噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6〜8.7と推定される宝永地震が起こり、この地震は遠州沖を震源とする「東海地震」と紀伊半島沖を震源とする「南海地震」が同時に発生したもので、これらの震源域を包括する一つの巨大地震と考えられています。地震の被害は富士山周辺だけでなく、東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋は2万戸に達しました。

宝永地震の翌日の卯刻(朝6時頃)にも、富士山の南側の富士宮付近を震源とする強い地震があり、駿河、甲斐付近でもこの強い地震動が感じられたといいます。いわゆる噴火前の「予兆地震」であり、これに先立つ4年前の1704年(元禄17年)の暮れにもこの地方で山鳴りがあったことが「僧教悦元禄大地震覚書」という記録に記されています。

このように宝永地震の余震と思われる地震が続く中、噴火の前日の12月15日の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード4から5程度の強い地震が数十回起きます。そして翌朝の16日の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていったことが記録に残っています。噴火の始まりです。

富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下しはじめ、家屋を焼き田畑を埋め尽くしはじめ、夕暮れには噴煙の中に火柱が見えるようになり、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃されたといいます。

噴火が起こったのは江戸時代の徳川綱吉の治世の末期で、江戸や上方の大都市ではいわゆる「元禄文化」と呼ばれる町人文化が発展していた時期でした。噴火の前年には、1707年(元禄15年)の赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門作の人形浄瑠璃として初演されています。

この噴火は、江戸の町にも大量の降灰をもたらし、当時江戸に居住していた医学者の新井白石はその著書に、次のように書いています。

「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」

直訳すると、「江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた」という意味のようです。

また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかったといいます。伊藤祐賢という人が書いた「伊藤志摩守日記」には、最初の降灰はねずみ色をしていたそうですが、夕刻から降ってきた灰は黒く変わったと書かれています。

荒井白石によれば、2日後の18日までこの黒い灰は降り続いたようで、ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったのに対し、夕方には黒灰に変わっている点です。

噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠であり、東京大学本郷キャンパス内の発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認されています。この黒い降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされました。

当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれており、例えば、

これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳

などと風流に見えますが、かなり江戸の町の空気が悪くなっていた様子がわかります。

この後、宝永大噴火は延々と続きましたが、その後徐々に規模が小さくなり、12月31日までには完全に終焉しました。噴火後の最初の4日は激しく噴火したそうですが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いたといいます。

12月19日ころまでにはまだ江戸などでは断続的な降灰が続いていましたが、小康状態の期間が多くなり、20日〜30日ころには噴火の頻度や降灰量が減っていきました。

しかし、最後の最後の12月31日の夜になって噴火が激しくなり、遅くに爆発が観測されましたが、その後噴火は治まり二週間にわたる火山噴火はようやく終焉します。

この噴火による被害ですが、現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は噴火の初期に最大3mに達する降下軽石に見舞われ、12月中旬から下旬の後期には降下スコリアに覆われました。これらのスコリアは熱を含んでいたため、家屋や倉庫は倒壊または焼失し、これらの地方では食料の蓄えがまったく無くなったといいます。

田畑もスコリアや火山灰などの「焼け砂」に覆われたため耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥りました。当時のこの地方の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施しましたが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかでした。

このため、藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出、幕府はこれを受けて周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、この当時の関東郡代「伊奈忠順」を災害対策の責任者に任じました。

また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源としました。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用されたといいます。

このあたりのお話は、東日本大震災で用意された復興費用が全く別の事業に流用されていたという事実と何やら似ています。役人というものは江戸時代から変わっていないのかと思ってしまいます。

ともあれ、こうした幕府による救済は徐々に浸透していきましたが、とくに小山町(御厨地方)では田畑が大きなダメージを受けたためにその生産性はなかなか改善せず、その影響はその後数十年も続きました。約80年後の天明3年(1783年)に至っても低い生産性しかもっていなかったことから、これに天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」といわれる大一揆がおこりました。

このほか、噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆いまし。農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄するという対策をとりましたが、砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入し、河川環境を悪化させました。

特に酒匂川流域では流入した大量の火山灰によって河川の川床が上昇し、あちこちに一時的な天然ダムができ水害の起こりやすい状況をひきおこしました。

噴火の翌年の6月に発生した豪雨では大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くしました。その後これらの田畑の復旧にも長い時間がかかり、火山灰の回収・廃棄作業にはさらに何十年という月日が必要になりました。

このように、宝永の大噴火は、人的な被害こそ少なかったものの、その降灰による地域へのダメージが大きかったことが特徴です。このことは今後また富士山が噴火した場合でも同じ被害が繰り返される可能性があることを示しています。

情報の伝達がスムースになった現在では、富士山が噴火した場合の人的な被害は江戸時代に比べれば格段に小さいのではないかと考えられ、むしろ降灰が社会に与える影響のほうが大きいことが予想されます。

国の防災機関や地方自治体は、学識経験者などを集めて「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針を策定しています。この中で火山灰被害の例として「宝永噴火の被害想定」が詳細に検討されており、その調査結果がハザードマップとともに、内閣府の防災部門のホームページや関係市町村のサイトで公開されています。

この検討報告書では、宝永大噴火と同規模の噴火が起こった場合、火山灰が2cm以上降ると予想される地域は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶとされています。

この範囲では一時的に鉄道・空港が使えなくなり、雨天の場合は道路の不通や停電も起こることが予想され、また長期にわたって呼吸器に障害を起す人が出るとされています。

また富士山東部から神奈川県南西部にかけては、噴火後に大規模な土石流や洪水被害が頻発すると考えられています。ただし宝永大噴火は過去における富士山の噴火では最大級の降灰をもたらした噴火と考えられており、次の噴火ではこれほどの降灰はないのではないかという楽観的な見方もあるようです。

しかし、細かい灰はどこにでも侵入するため、電気製品や電子機器の故障の原因となると推定されていて、コンピュータや電子部品が全盛の今の時代には、江戸時代にはみられなかったような新たな災害が起こる可能性もあります。

予想もしなかったような電磁波のようなものも発生するのではないかと危惧する学者もいるようで、こればかりは江戸時代にも記録がないため、どのようなものが出るのかは誰もわかりません。

幸い、宝永の大噴火のときには我々が住んでいる中伊豆にはあまり降灰はなく、被害もそれほどではなかったようです。なので、もし再度富士山が噴火したら、ここら一帯は「避難区域」に指定されるのかもしれません。

今は空き家も多いこの別荘地もいずれは避難住民で一杯になる……そんなこともあるのかもしれません。大災害が起こったときにはお互い助け合うべきですから、そうなったらなったで努力はしたいと思います。が、できればそんなことにならないよう、日々、富士山に向かって祈ることにしましょう。

回転寿司のはなし


最近、遠出をして帰る際、うちで料理するのは面倒なので、ふもとにある大仁の「回転寿司」などで外食をして帰ることも多くなりました。

メニューが豊富で安く、サラダなども一緒に注文すれば栄養価も満点で、何よりもおなかがすいているときなどには、入ってすぐに食べれるところが気に入っています。

伊豆へ来るまではあまりこういうお店へ行くこともなかったのですが、数か月前に久々にこういうお店に入りやみつきになってしまいましたが、また最近はずいぶんとシステムが近代化されているのには少々驚きました。

最近のこういうお店には目の前にメニューが表示されるタッチパネルが取り付けられていて、なかなか回ってこない寿司をここからダイレクトに注文できるのですね。

以前の回転寿司だと、目の前で握ってくれる職人さんがいて、この方に声をかけるか、注文伝票に記入して店員さんに渡すかすると、しばらくして「特注品」が出てくるというシステムのお店が多かったように思いますが、最近はこういうふうに合理化されているのかぁと妙に感心してしまいました。

寿司の皿の下にICチップが組み込まれているお店もあって、あまり長い間「回転」し続けているお皿があると、このICチップがそれを探知して、お店側に教えるのだとか。できるだけ新鮮なモノをお客さんにという発想からなのでしょうが、加えてお店側も今表に出ているネタの新しさを常に把握しておけるというわけで、すごいと思います。

寿司一皿を100円程度で提供しているお店も多く、こういう低価格を実現するためには各店とも人件費を減らすためにはいろんな試みを行っているようです。我々がよく行くようになったお店も、レジ係以外にはダイレクトオーダーの寿司を届けるウェイターさんが数人いるだけで、寿司職人さんの姿は見えません。

寿司を握る人は、店の裏の厨房にいて、この人たちも必ずしも本職の方ではなく、素人を採用してこれに実地教育をしたり、場合によってはアルバイト店員さんが「機械」で握っている場合もあるようです。

ワサビやおしぼり、水などもすべてセルフサービスで、寿司に欠かせないお茶でさえ、粉末状の「抹茶」らしきものがカウンターに置かれていて、これを湯呑に入れて薄めるだけ。このお茶、まずいのかなと思ったら、案外といけるのにはびっくりしました。

この回転寿司を一番最初に発明したのは誰だろう、と調べてみたところ、大阪で「立ち喰い寿司」のお店を経営していた「白石義明」という人のようです。低コストで効率的に立ち食い寿司を客に提供することを模索していたところ、ビール製造のベルトコンベアを応用することを思いつき、多数の客の注文を効率的にこなす「コンベヤ旋廻食事台」を考案しました。

そして、1958年、大阪府布施市(現・東大阪市)の近鉄布施駅北口に日本で最初の回転寿司店である「元禄寿司」を開設しました。この「コンベヤ旋廻食事台」は、1962年12月6日に「コンベヤ附調理食台」として白石義明の名義で実用新案登録(登録第579776号)されましたが、現在ではこの権利は切れ、各社が自由にこれを使うようになりました。

その新案登録が切れる前の1968年、宮城県の企業の「平禄寿司(現・ジー・テイスト)」が東日本ではじめて禄寿司の営業権契約を獲得し、仙台市に元禄寿司のフランチャイズ店を開店していますが、元禄寿司によると、これが「東日本で初めての回転寿司店」だったそうです。

私は全く覚えていないのですが、1970年に開催された日本万国博覧会にも元禄寿司が回転寿司を出展されていて、このときにはその斬新さが表彰されるほど評判だったそうで、これにより元禄寿司の知名度は一気に高まりました。

従来の寿司店の高級化傾向に対して、安くてお手軽、明朗会計というこのシステムは大いに世間に受けるようになり、元禄寿司は北関東を中心にフランチャイズ事業者を募り、郊外への出店を拡大していきました。その後1970年代以降、元禄寿司のフランチャイズは全国的に広まり最盛期には200店を超えたといいます。

しかし、1978年に「コンベヤ附調理食台」の権利が切れたため、現在のような大手の回転寿司屋の新規参入が相次いで競争が激化。また、もともと元禄寿司をネームバリューとしてフランチャイズ展開していた企業も、自前の店名ブランドを掲げて独立していくようになります。

ところが、元禄産業さんはさらに頭がよかった。実用新案の権利が切れるのを見越して、回転寿司のお店の名称として使われそうな「まわる」「廻る」「回転」などを商標登録していたのです。このため、後発の他店はその後しばらく「回転寿司」の名称を利用できないこととなり、この状態は1997年まで続きました。

現在はこの商標権も切れ、「回転寿司」という用語は普通に使われていますが、ひと昔前までは元禄寿司さんの専売特許だったのです。

ところで、この寿司皿を回転させているコンベアなのですが、造っているメーカーのほぼ100%が石川県にあるのだそうです。

金沢市の石野製作所というところがシェア約60%、同じ石川県の白山市の日本クレセントという会社が約40%だそうで、そもそもは、元禄寿司の創業者の白石氏がどちらかの会社に特注したものだったでしょう。そしてその後もその機能はどんどん進化しています。

1974年には石野製作所がコンベアの上に給湯器がつけた「自動給茶機能付きコンベア」を開発しました。グルグル回るコンベアのすぐ横に黒くへこんだゴム製の「ボタン」のようなものがあり、これに湯呑を押し付けるとお湯が給湯されるという、今ではどこの回転寿司屋さんでもみられるアレです。

このほか、注文した品が通常の寿司搬送とは別のコンベアで搬送される「特急(新幹線)レーン・スタッフレスコンベア」やこれと同じく湯呑が搬送される「湯呑搬送コンベア」、なども開発されました。

「鮮度管理システム」も開発され、これは前述のように皿の下にICチップが組み込まれていて、一定の時間を経過した皿が、コンベアから自動的に取り出されるシステムで、こうしたシステムを両社がしのぎをけずって今も開発し続けているそうです。

この両社が開発したのかどうかわかりませんが、使用済みの皿を効率的に回収できるように、カウンター内部に皿回収溝が流れている店もあります。

客席ごとに皿の投入口が設置され、皿を投入すると数が自動計算され価格が表示されるようになっており、とくに子供連れのお客さんなどに進んで投入してもらうために、投入した皿の数で自動的にキャラクター商品などの景品が当たる機能を付加したお店などもあるようです。

回転寿司のお店には、カウンター席が主流の対面型店舗と、これにボックス席を合わせた混合型店舗がありますが、そのどちらも皿を載せたコンベアは「時計回り」に回転するものが多いそうです。これはカウンター席で箸を持った右利きの人が取りやすいようにとの配慮によるものです。

ボックス席ではややとりにくい、ということになりますが、これは一緒に座っている人が他の人のためにとってあげる、ということで解決できます。また前後二列で左右両方から流れてくるコンベアを設置しているお店もあるそうで、こうした回転寿司店では内回り外回りの両方からとることができます。

コンベアのベルト長の日本最長は147mだそうで、日本最短は5mとのこと。最長は分かる気がしますが、最短の5mのシステムを導入するお店ってどんなお店なんでしょうか。必要ないように思いますが……

この回転寿司のシェアですが、日本国内では、埼玉県が本社の「かっぱ寿司」(カッパ・クリエイト)が全国392店を展開していて最大手になるようです(2012年7月現在)。これに次いで「スシロー」(あきんどスシロー・大阪)が334店、「無添くら寿司」(くらコーポレーション・大阪)が303店となっており、いずれも100円均一のお店が上位を競っています。

我々がよく行くのが、はま寿司(東京)で、こちらが168店で、上位三店に次いで4位に入っています。はま寿司も100円均一店ですが、平日は90円を売りにしており、この10%差のためか平日もいつもお客さんでいっぱいで、売上に大きく貢献しているようです。

この他の回転寿司チェーンは、価格設定が高めな店と100円均一店の両業態がしのぎを削っていますが、同じ会社であっても、高級路線と100円均一の店を両方を持っているところもあるみたいです。ちなみに、回転寿司発祥の「元禄寿司」は現在直営11店舗であり、健在ではあるものの、当初の勢いは無くなってしまっています。

いつの世にも企業の盛衰は激しいものです。

近年は高級ネタを売りにした回転寿司屋も出てきており、立地としては漁港や海沿いの都市・県庁所在地の一等地等に店舗を構え、近海で取れる魚や高級魚を売りにしたお店が多いようです。我々が先日行った、沼津港周辺にもこうした高級回転寿司店が軒を連ねていました。

それでは、海外にも回転寿司はあるのでしょうか。ウィキペディアによると、海外での回転寿司は1990年代末に、イギリスのロンドンで回転寿司に人気が集まったのが初めてのようです。

人気に拍車をかけたのは「Yo! Sushi」というチェーン店で、1997年にソーホーで開業し、その後、イギリス国内に次々と開店、1999年にパディントン駅構内のプラットホーム上に回転寿司屋を出店したことで注目を浴びました。

開業後大きな人気を呼び、創業者のサイモン・ウッドロフという人は、この成功によってイギリスの外食産業で大きな地位を獲得したそうです。この「Yo! Sushi」寿司の質についてはイギリスの新聞紙「週刊サンデータイムス」が「ロンドンで最高」と評価したこともあったそうです。

このロンドンのチェーン店では日本と同様に、商品の価格を皿の色で区別するシステムを採用しており、コンベアに並ぶのは寿司だけでなく、刺身、天ぷらや焼きうどん、カツカレー、日本酒まであるそうです。

どら焼きやケーキ、果物などのデザートなどの日本の回転寿司でおなじみの商品のほか、紅茶やパンなどもあり、あげくの果ては「唐辛子入り鶏ラーメン」「鶏の唐揚げ」「餃子」まであるそうで、ここまでくると回転寿司ではなく、まるで「回転居酒屋」です。

このチェーン店、現在、ロンドン市内のハーヴェイ・ニコルズやセルフリッジなどの高級デパート内、さらにヒースロー国際空港内など20ヶ所以上の店舗を展開しているそうで、さらにフランスや中東のドバイにも進出しており、2006年にも新店舗を開くと発表されています。

イギリス以外の国ではオーストラリアで「スシトレイン」という回転寿司屋がチェーン展開しているそうです。

アジアでは、台湾で、現地企業の争鮮(SUSHI EXPRESS)が、台湾および中国本土において回転寿司チェーンを展開しているほか、最近は韓国でも回転寿司店が増えてきているとのこと。

こうした海外の回転寿司チェーンは向こうの資本によるものがほとんどですが、日本のチェーンも、「元気寿司」などが同名でハワイやアジアに数十店舗を展開しているほか、「マリンポリス」という会社がアメリカ本土に「SUSHI LAND」の店名で十店舗以上を出店しているそうです。

寿司はローカロリーで、さっぱりしているため外国人でも受け入れやすいらしく、他の国でもこれからもまだまだ回転寿司の進出は続いていきそうです。

また、外国人だけでなく日本人にも人気の理由はなんといってもその「ネタ」の多さです。回転寿司では、本来寿司として使われない寿司種も多く、巻物では、キュウリなどを使った「かっぱ」のほか、べったら、しば漬、田舎漬、山ごぼう、梅しそ、納豆、穴キュウ(穴子+きゅうり)、カツ、エビフライなどがあります。

牛や豚のカルビ肉、チャーシュ、ローストビーフ、ハンバーグ、ベーコン、チキン照焼、えび天、いか天、ししゃも天などの、およそ寿司ネタとは考えられないようなものもあり、このほか、「太巻」ともなると、その中身には、ありとあらゆるものが詰め込まれています。

その他の副食として、味噌汁類やお吸い物類、あら汁などを提供する店も多く、酒のつまみとして、唐揚げ、フライなどのほか、煮物、お新香が出る店もあります。そば、うどん、ラーメンなどは、その昔は考えられませんでしたが、家族連れで出かける人も多いのでしょう、こうしたメニューがある店も増えています。

ゼリーやプリン、ケーキ、ジュース、果物といったデザートの種類も増えているのは子供だけでなく、女性客を狙ったものでしょう。

元々ファミリーレストランなどの外食産業の原価率は平均して30%程度なのだそうですが、一般的な回転寿司店でのそれは50%程度とかなり高めです。利益が出ないような高級魚が含まれている反面、高利潤を得るため代用魚が用いられることがあり、「えんがわ」「サーモン」などは、「ヒラメ」や「サケ」のことではない場合が多いそうです。

また、「チャネルキャットフィッシュ」というアメリカナマズの一種をマダイ・ヒラメ・スズキ・アイナメなどと称して並べている場合や、観賞魚として有名な「ティラピア」やマンボウを鯛とする場合もありました。

このほか、アフリカのナイル川の汽水域に生息する「ナイルパーチ」をスズキ、ロコガイをアワビとして代用していることなどもあり、これらは2003年にJAS法が改訂されて以来、こうした日本名を使用しないこととすると定められましたが、現在どの程度これが守られているかは定かではありません。

大手の寿司チェーンでは公正取引委員会の抜き打ち検査などもあるようですから、まさかこういうまがい物は使っていないとは思いますが、中小の回転寿司店ではグレーゾーンの商品を出しているところもあるのではないかと疑ってしまいます。

2005年の週刊誌記事によると、公正取引委員会は「回転寿司の場合“こんな安い値段で本物ができるはずがない”という認識を多くの消費者が持っている」として、排除命令などは出せないと回答したそうで、すると我々がいつも回転寿司で食べているものも、もしかしたら……なのかもしれません。

それでもおなか一杯になればいいや、と私などもついつい思ってしまいますが、やはりお寿司は本来の日本産のものを多少お金がかかっても食べたいもの。ましてや伊豆に住んでいるのですから、今度からは少しきちんとした寿司屋で食べるようにあらためようかな、とも思ったりもします。

もっとも懐が許せば……のお話です。不況のさなか、まだまだ100円回転寿司の進撃は続いていくことでしょう。悪いことだとは思いませんが、くれぐれも海外産のニセ寿司の食べ過ぎには注意しましょう。

達磨山 旧修善寺町(伊豆市)

外出しようとすると雨が降り、昨日も結局終日雨でした。しかし、三連休は終わってしまいましたが、秋が深まる中、伊豆の観光もこれからが本番というところではないでしょうか。

さて、そんな伊豆の中でもハイキングコースとして人気の高い達磨山のことについて書いておきましょう。先日「初登頂」して以来、書きそびれていましたから。

達磨山は沼津市と伊豆市との境界にある982mの山です。山頂にかなり近い戸田峠や静岡県道127号線(旧西伊豆スカイライン)の途中まで車で行けることから、日帰りヒッチハイクにはもってこいの山です。

このブログを参考にして登山される方もいるかと思いますので、最初にその登山ルートについて、書いておきましょう。

おそらく多くの方が自家用車で行かれると思いますが、まず気になるのが駐車場の問題でしょう。戸田峠からのルートをとられる場合、ここには大き目の駐車場があり、おそらく20台以上の車が止まれると思います。ゲートなどはなく公共の駐車場なので無論無料で出入り自由です。

この駐車場は、休日はかなり混雑する可能性はありますが、通りがかりにここが満車になっているのを私はみたことがありません。ここからの達磨山までの距離は約2.2kmです。

もうひとつ、達磨山直下にも駐車場があります。ここのスペースはかなり狭く、車2台もしくは詰めて3台ほどです。ただ、これより200mほど下ったところに舗装はされていませんが、車が進入可能な空き地があり、ここなら30台ほどが止まれます。この駐車スペースもゲートなどはなく、常時オープンなはずです。

どちらを起点にされるかは自由です。どちらも登山道は非常によく整備されていて、さすがにハイヒールは止めたほうが良いと思いますが、スニーカーやジョギングシューズ程度でも十分対応できるでしょう。ただ、途中ぬかるんでいるところもありますから、町歩きの革靴はやめておいたほうが良いと思います。

戸田峠からのコースも達磨山直下からのコースも駿河湾と富士山の大パノラマが望めて非常に眺めの良いコースです。お天気の良い日で、少し運動もかねてリフレッシュしたい方は前者、時間がなくて、ほんの少しだけ登山気分を味わいたいという人は後者を選べばよいでしょう。前者の場合、所要時間は登り40分ほど、後者の場合は15分といったところでしょうか。

戸田峠から登る場合、駐車場すぐ脇に案内看板がありますから、これに従い伊豆山稜線歩道を登ってゆきます。ここから達磨山頂まで2.2kmです。登山道は木の階段で整備されているところと、何も整備されていない区間が交互にあらわれ、それをトレッキングしている合間合間に、駿河湾や富士山が望めます。途中、戸田港を一望に望めるところもあるほか、南のほうに目を向けると恋人岬の先端も見えます。

ハイキングコースから西方にみえる戸田港

途中、稜線上の小峰といった感じの場所を通りますが、ここは小達磨峠と呼ばれています。が、山頂は狭く、木々が生い繁っていて展望はありません。ここからは、せっかく登ったのにと思うかもしれませんが、少し下ります。すると、旧西伊豆スカイラインの車道(県道127)がみえてきます。スカイラインの横には前述の舗装のない駐車スペースがあります。

ここから、車道に出たら、ほんの100m程あるけば、達磨山と直登のための登山道入り口があります。ここには舗装された駐車スペース3台分があります。が、休日はもちろん、平日の昼間ならおそらくここは満杯でしょう。私が行ったときにも早朝にも関わらず帰りにはもうスペースが埋まっていました。

ここから達磨山山頂までは、木造りの階段の緩斜面が続き、これを喘ぎ喘ぎ登れば、あっという間に(15~20分程度)で山頂へ辿り着きます。正確な標高は981.8m。一等三角点が設置されています。山頂は大きな岩と小さな岩の間に畳三畳分ほどですが、平坦な場所がある程度です。なので、大勢で行ってお弁当を食べるには不向きです。

頂上から西の沼津方面を望む
頂上から東方の伊豆スカイライン方面をのぞむ

が、ここからさらに南の船原峠へ向かう道があり、頂上から100mも下らないうちの途中途中にも「お店」を広げる場所が随所にありますから、頂上が他のグループに占領されていても大丈夫でしょう。

帰路は戸田峠からの方はもと来た道を戻るだけです。下り部分が多くなるので、往路よりも多少早く帰れるでしょう。帰る途中、晴れていれば真正面には富士山が見えるはずです。
達磨山直下の駐車場付近から直登された方は言わずもがなです。すぐに下れます。でもせっかくですから、広大な駿河湾と富士山に囲まれた伊豆の風景を満喫しましょう。

ところで、この達磨山山頂からはさらに南の船原峠へ続く登山道が続いています。稜線上の一本道であり、ここからの駿河湾と西伊豆の眺めは抜群です。さらに体力や時間のある方はこれにチャレンジしても良いかもしれません。

頂上より南の船原峠方面をのぞむ 遠方にみえるのは天城山塊

私が登ったときにも、戸田峠から来られた若い男性一人が、達磨山山頂から船原峠方向へ駆け足で立ち去って行かれました。おそらく「鉄人レース」などに出場されている猛者なのでしょう。この登山道は本当によく整備されているので、そうしたトレーニングにも最適かもしれません。

さて、その達磨山の頂上からの眺めですが、山頂付近はササで覆われているものの、このササはひざほどまでの高さしかなく、ほかには視界を妨げるような大きな木は一切ありませんので、文字通り360度の視界が開けます。

北の富士山方面を望む 本来ならば中央に富士山がみえる

富士山や駿河湾はもとより、南側に連なる天城山も見え、東に目を向けると伊豆半島を南北に走る山稜を見渡すことができ、修善寺温泉方向の谷も見渡せます。私が行った日は、晴天だったのですが、富士山方面にだけ雲がかかり、富士山の頂上が見えたのはほんの一瞬でした。

しかし、駿河湾のはるかかなたには御前崎を見てとることができ、さらにその向こうには南アルプスの白い山々を望むことができ、ラッキー!というかんじでした。

頂上から駿河湾越しに見える南アルプス

山頂から下の山腹は笹原の間にところどころごつごつした岩が飛び出ていて、改めてここが火山であることがわかります。よくみると山頂にころがっている岩も黒っぽい灰色で、小さな穴が開いているものも多く、その昔火山弾だったもののようです。

達磨山は、80万年前から50万年前の火山活動で形成された火山です。もともとはもっと大きな成層火山だったようですが、長い年月の間に大きく浸食されて今のような峰になったそうです。古代の達磨火山の最高地点には間違いないそうですが、ここに火山の噴火口があったわけではなく、その火口は山頂から下った西側の斜面方向にあったと考えられています。

旧達磨成層火山の浸食が進み、固い部分だけ残ったのが現在の達磨山で、このため近くでみると火山のようには見えませんが、いったん下山して、山体の東にある達磨山高原レストラン付近からみると、大きな火山特有のなだらかな裾野を持っているのがわかります。

その姿がどっしりと座禅をしている達磨のように見えることから地元の人が達磨山と呼ぶようになったのだとか。

また、この山頂部分に天狗が住んでいたといわれ、その南にそびえる天城連山の万次郎、万三郎と兄弟だそうで、「番太郎」と言う別名もあります。「太郎」であることから、万次郎岳、万三郎岳のお兄さんということになります。万三郎岳が1405m、万次郎岳が1299m、達磨山は982mですから、この兄弟はお兄さんほど背が低いということになります。

この達磨山には、戸田峠からさらに東側にある「だるま山高原レストハウス」からも登山道が整備されていて、このだるま山高原レストハウスについては、これまでも何度かレポートしてきました。車が30~40台ほども止まれる大きな駐車スペースとトイレが整備されていて、「レストハウス」内でお食事や喫茶もできます。

駿河湾越しの裾野の広い富士山が展望ができ、沼津市街が一望です。無論天気がよければ御前崎や南アルプスも見通せます。ここからも達磨山の南側にある金冠山や達磨山方面へ行くハイキングルートが出ていて、その途中に戸田峠があります。

なので、時間の更にある人は、ここに車を止めて、半日がかりで達磨山まで登り、頂上あたりでお弁当を食べて帰ってくる、なんてこともできます。家族連れのピクニックには最適なコースです。なによりも道が整備されていて、眺めが最高なのがいいですね。

達磨山からほんの少し垣間見えた富士山

但し、達磨山山頂付近にトイレはありません。戸田峠にもありませんので、とくに女性の方はその対処法を考えてから登られることをお勧めします。

今日のところはこれくらいにしたいと思います。今回私が登山したときは、はっきりと富士山が見えなかったのが残念ですが、近いうちにリベンジしたいと思います。みなさんが達磨山に登られる時は晴れていてきれいな富士山が見えるといいですね。お祈りいたします。

パワーストーン


修善寺の温泉街から駿豆線の修善寺駅方面へ下る途中に、ちょっと変わった名前のバス停があります。その名も「うなり石」。バス停のすぐ隣には大きな石があり、どうやらこれがそのうなり石のようです。どうしてこんなへんな名がついたのだろう、と調べてみたところ、いろいろ諸説があるようです。

ひとつは、裏山から大きな石が転げ落ちてきて、これが転がったときの音が「うなる」程大きかったため、という説です。また、昔はこのあたり一面は原野であり、風の通り道でした。ある日弘法大師が石の傍を通った時にも強い風が吹いており、その風がこの岩に吹きつけ、唸るような音を出したので、大師がこれをうなり石、と名づけられたといいます。

どちらとも物理的な現象に基づいているのでもっともらしい説ですが、弘法大師にまつわる説としては、こんなものもあります。

その昔、このあたり一帯は湿地帯で、うなり石の傍にも沼があったそうです。このため強い風が吹くとこの石がうなりながら揺れ、みずしぶきがあげたため、そこを通りがかる人がたいそう怖がったといいます。その話を聞いた弘法大師が、このうなり石にありがたいお説教をしたところ、石はうなるのをやめ、静かになったとか。

重たい石が水の上で揺れるわけはないので、これはかなり脚色された「民話」だと思いますが、これらのお話からもここ修善寺は昔から風の強いところだったことが想像されます。我々の住む修善寺の裏手の山の上も冬場になると北西からの風が強く吹きつけます。

山の上から落ちてきた石というのも、風の影響で土砂が吹きとばされ、足場の悪くなった石が落ちてきたのかもしれません。

こういう昔話はここだけでなく、伊豆のあちこちにもまた全国各地にもあります。「石」は人間とのかかわりの中では神秘的なものとして扱われてくることが多かった物体です。

最近ではパワーストーンというのが流行っていて、石の中でもとくに宝石にはある種の特殊な力が宿っているに違いないということで、こういうパワーストーンをブレスレッドなどに仕立てて身に着けるのが流行っています。

その火付け役となったのが、2000年代に入ってからのいわゆる「スピリチュアルブーム」であり、このブームの火付け役ともいえる江原啓之さんが著書の中で勧めたことの影響なども大きいようです。

これを受けてスポーツ界や芸能界等の有名人がパワーストーンを身につけるようになり、これをみたそのファンたちもアクセサリーに加工されたいろいろな石を身につけるようになりました。

これらのアクセサリーに使われる石は、研磨前の裸石が販売されることも多く、また、水晶や紫水晶をカットせずにそのまま販売するもの、黄銅鉱のように母岩ごと採集して販売するものなどいろいろな販売形態が生まれ、その昔はただの石にすぎなかったものの多くが付加価値を持った商品に生まれ変わりました。

それぞれの石が持つパワーはそれを持つ人の「波動」と合う者と合わないものがあるといい、その石ごとの「パワー」を風水などの占いによって説明する「専門家」もあらわれ、自分の運気を高めてくれる石を探してこれを身につけることがひとつのブームにまでなりました。

ブームの影響によって価格が高騰している石もあり、そうした石は高値で取引されているようで、ここまでくると、その石の持っているパワーを期待してではなく、単に投機目的のための購入であり、不況とはいえ、ついにこうしたものまでが金儲けの対象か、と嘆かわしくなってしまいます。

そもそも「パワーストーン」という英語はありません。典型的な和製英語です。英語圏では、”Crystal” や ”Gemstone” ということばがよく使われますが、これらはどちらかとおいえば「宝石」という意味合いが強く、日本のようにそれそのものが何等かな不思議な力を持っている石、という意味合いに該当する単語はありません。

しかし、歴史的にみても、古来から様々な民族にのあいだで貴石や宝石には特殊な力があると考えられてきており、「ヒスイ」はマヤ文明やアステカ文明では呪術の道具として用いられており、日本でもヒスイなどの宝石が邪馬台国などの古代文明で何等かの儀式に使われていたことが分かっています。

こうした宝石の力についての考えが1970年代アメリカ合衆国でのヒッピー文化に取り込まれ、石に癒し、つまりヒーリングの力があると解釈されるようになると、いわゆる「ニューエイジ・ムーブメント(ニューエイジ運動)」がおきました。

この運動はアメリカのとくに西海岸を発信源として、1970年代後半から80年代にかけて盛り上がり、その後商業化・ファッション化されることによって一般社会に浸透、現在に至るまで継続しています。

その根源にあるのは、「霊性の復興」であり、物質的な思考のみでなく、超自然的・精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放されることを目的とし、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする運動でした。

具体的には、瞑想法、前世療法・催眠療法等の心理療法やヨーガや呼吸法、さまざまな整体術等の身体技法、アロマテラピーなどの従来の医学とは異なる方法で超自然現象を解明し、人間の精神世界をを見つめ直そうとする手法が研究されるようになりました。

また、医学においても、近代医学による治療以外の方法で、身体的な痛みや心理的、社会的な苦痛をスピリチュアルな方法により軽減することまでも含めた「ホーリスティック医療」や「心霊治療」などが研究されるようになりました。

さらにこの延長としてチャネリングやリーディングといった方法による「あちらの世界」との対話を通じての癒し、輪廻転生、さまざまな波動系グッズなどについても科学的なアプローチをしようとする科学者が増えました。

こうしたアメリカでの運動は当然のことながら日本にも飛び火し、日本における現在のようなスピリチュアルブームの背景には、1970年代から80年代にかけてのニューエージ運動の流行があります。パワーストーンの流行りもまたその一環といえます。

しかし、日本においてはアメリカでおこったこられのいくつかはいわゆる「オカルト」と呼ばれる領域に属するものとされ、必ずしも本来の正しい意味での浸透はまだ途上にあるといえます。

書店などでもこうしたアプローチは、「宗教」や「精神世界」の書棚の中に置かれており、「スピリチュアル」という名のジャンルの確立はいまひとつの段階です。ひどい場合にはホラーや妖怪、怪奇現象といったジャンルに分類されている場合さえあります。

しかし、こうしたアメリカでブームとなった霊性回帰の運動とは全く関係ないかのように、パワーストーンだけはいわばファッションのように日本社会の中に浸透していき、「石による癒しの力」はこうした不況下にあって疲弊している日本人の心にはより一層届きやすいのでしょうか、これを信じている人もかなり多いようです。

石にはたしてそうしたパワーが本当にあるかどうかという真偽はさておき、石の中でも特に癒しの力が大きいと考えられているのが水晶です。

パワーストーンブームの中で「クリスタルパワー」という言葉が作られ、水晶による癒しの効果が説かれるようになりました。とくに江原啓之さんなどがパワーストーンの中には「鉱物霊」なる神霊が宿っており、とくに水晶には大きな力があることなどを主張されたため、多くの人が水晶を求めるようになりました。

この水晶とは、そもそもは石英(quartz、クォーツ)のことであり、二酸化ケイ素 (SiO2) が結晶してできた鉱物のうち、特に無色透明なものをさします。英語では“rock crystal”と表記され、「クリスタル」といえば水晶のことをさします。日本では古くは玻璃(はり)と呼ばれて、山梨県を中心とした地域で良質のものがたくさん産出され、「宝石」として珍重されてきました。

宝石としての水晶は、何の不純物のない無色透明なものも珍重されますが、不純物を含むことによっていろいろな色となるため、紅玉髄、緑玉髄、瑪瑙、碧玉などと呼んで飾り石とすることも多く、紫色に色づいた水晶はアメジストとして人気があります。同様に黄水晶(シトリン)も人気の高い宝石です。

しかし、このほかにも水晶は工業目的でも多用されており、その代表が時計に使われているのが「クォーツ(水晶の英名)」です。水晶は、代表的な「圧電体」であり、これに圧力が加わると電気が発生します。この発生した電気信号が極めて規則正しくくるいが少ないことから、水晶を「発振器」として利用したのがクォーツ時計です。

また、この原理を利用して、水晶微量天秤 (QCM) と呼ばれる微量質量を正確に測定するための装置の研究が行われているほか、古くはレコードプレーヤーのピックアップにもよく使われていたことを50代より古い世代の方はよくご存知でしょう。

こうした装飾品や工業目的以外にも、水晶は古くから人間の文化に深くかかわってきました。古代マヤ文明やその地域の原住部族においては、透明水晶を「ザストゥン」と呼び、まじない石として大切に扱いました。また、オーストラリア先住民の神話の中では、最も一般的な神の思し召しの物質、「マバン」として分類されています。

日本では、水晶を球状に加工した「水晶玉」が古くから作られ、その起源は明らかではないものの2000年前の遺跡といわれる奈具岡遺跡(京都府京丹後市)では水晶をはじめとする貴石を数珠状にする細工工房があったことがわかっています。この当時既に水晶を球形に加工する技術があったのです。

「水晶玉」の珍重は少なくとも弥生時代中期からにさかのぼる時代から始まっていたものと考えられ、こうした時代のその使用目的は呪術的なものではなかったかと推定されています。

装飾品などとして用いられる以外の水晶玉の呪術的な力については何も証明されているわけではありません。が、いわゆる「占い師」といわれる人々の多くは水晶玉をパワーストーンとして扱ったり、スクライング(scrying、幻視を得る占い)に用います。

古くから絵画などに何らかの意図を持って水晶玉が描かれることもあり、物語の世界においても何等かの力を持った石として登場することも多いようです。

私もこの水晶のパワーを否定するものではありません。しかし、技術者(科学者)としての立場からすると科学的に証明できていないものについて、その効用を第三者に勧めるということもまたあまり気のりしません。

しかし、クォーツが電気を加えることで非常に正確な信号を出すなどの、ほかの鉱物にはない独自な性質を持ち、また他の多くの宝石も独自の周波数を持ち、これと共振震動を起こす惑星や恒星があるという話を聞くと、こうした石には宇宙からもたらされた我々の知りえない何等かのパワーがやはり宿っているのではないかと考えてしまいます。

こうした宝石が醸し出す美しい色は、これを構成する元素同士の織り成す結晶系列が太陽光との結合で生まれるものであることなども考えると、宝石の成因と宇宙成り立ちの間にも何等かの因果関係があるのではないかとも思うのです。

宝石だけでなく、あらゆる物質には波動があるという「波動科学」についてもまだその研究の端緒についたばかりといい、従来の波動力学で説明されてきた波動に加えて「生命エネルギー」のようなものも波動で説明できるのではないかという研究も始められているといいます。

最近の素粒子研究によって宇宙は我々もまだ知らない素粒子で満ち満ちているということがわかっており、これらもまた何か波動のようなものを持っているとすれば、これらまだ解明されていないものどうしがいずれはどこかでつながり、いずれはそこから水晶の持つ本当のパワーが解き明かされるということも将来的にはあるのではないでしょうか。

エドガーケイシーは、他者による催眠状態において第三者からの質問により、主としてアカシックレコード(アカシャ記録)から情報を引き出し、個人の疾患に関する質問に対して、体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する、いわゆるリーディングによって何千人もの患者を救った人として有名です(アカシックレコードについては要約不能なので、また別の機会に書いてみたいと思います)。

前述のアメリカで流行したニューエイジ運動はこのケイシーリーディングに影響を強く受けていると言われ、代替医療、ヨガ、瞑想、輪廻転生等のとくに東洋的な思想が西洋において普及するにあたり大きな影響を与えました。

そのエドガーケイシーが、水晶に関するリーディングをある患者に行ったところ、「水晶は体の力を集中し、多くの影響力が流入する経路を開いてくれる」という答えが得られたそうです。そして、「それを神の名のもとに、神の義の下にのみ使うならば、多くのものがそこから得られるだろう」とも。

水晶にどのようなパワーがあるのかはまだ我々も預かり知らないところです。しかし、このことから、そこには何か人類の知らないまだ未知の世界への入口があるような気がします。水晶のパワーを有効に使うことが正しい神の道を定めることならば、そこから宇宙は何故できたか?といった究極の命題も解明されるかもしれません。

水晶に人間に益をもたらすパワーが本当にあるかどうかは科学的にはわかっていません。しかし、私自身はわからないながらも、とりあえずそれを信じてみようかと思っています。