スキャンダル女優
1925年(大正14年)、嘉子は村田実が監督としてメガホンをとる「街の手品師」で主演を務めました。この映画は、「大正14年度朝日新聞最優秀映画」を日本映画で初めて受賞し、新劇出身だった嘉子が一躍映画界におけるスター女優となった記念すべき映画でした。
更にその二年後の1927年(昭和2年)、嘉子は、今度は映画「椿姫」のヒロインに抜擢されます。この映画は大作だっただけに、嘉子もこれまでにない並々ならぬ意欲を持って撮影に挑みましたが、エキストラの群集が群がるロケ現場で、思いがけなく監督の村田実に罵倒に近い叱声を浴びてしまいます。
村田はカットごとに演出を細分化する、いわゆる映画的技法を最初に確立した監督の一人と言われており、この技法は嘉子だけでなく、この当時の他の大女優をいらだたせ、村田監督とは何かとトラブルが多かったといいます。嘉子も自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。
新作の撮影においても、容赦なく自分の型に嘉子をはめ込もうとして演技指導は苛烈を極め、二人の対立の中撮影は進んでいきます。このころ山田隆弥との生活にも行き詰っていた嘉子は、そうした公私の悩みを、「椿姫」での相手役で、美男俳優とうたわれた、「竹内良一」に相談しはじめます。
そしてあろうことか、この竹内と衝動的に駆け落ちし、失踪してしまいます。新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大きな騒ぎになりました。
竹内良一は、嘉子よりもひとつ年下の1903年(明治36年)の東京生まれ。陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつかめたろう)の長男として生まれ、学習院初等科、中等科、高等科と学習院一筋で育ったおぼっちゃまでした。学習院卒業後、築地小劇場の演技研究生となって、演劇を学び、その後村田実の渡欧に同行し、ベルリンで演劇を学びました。
帰国後、村田たちの世話で「日活大将軍撮影所」に入社し、芸名を竹内良一と改めて村田作品に出演していましたが、いわば村田子飼いの秘蔵っ子男優でした。
二人は、この年(昭和2年)の4月、福岡県飯塚市で「発見」され、二人の仲を反対する周囲の手で引き離されますが、良一のほうは嘉子との結婚に強い意志示したため、男爵家から廃嫡され、同年5月には華族の礼遇を停止されました。
その引換として、二人はこの年結婚を許されますが、嘉子は竹内とともに日活を解雇され、事実上映画界から閉め出されます。新聞各紙は、「恋の逃避行」として彼ら二人を大衆のアイドルとして祭り上げましたが、反面、その奔放さに対する反感も強く、映画を干されたあとの活動の中心であった舞台では、立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われたといいます。
そんな中、悪いことはさらに重なります。最愛の母八重が46歳で病死したのです。嘉子が25才のときでした。物心ついたころから女優の道を歩みはじめたため、嘉子と一緒に暮らした時間が少なかった分、娘を深く愛していたようで、嘉子が服部義治との間に設けた一児の養育にあたっても嘉子の代わりとして愛情深く接していたようです。
スキャンダル女優の汚名をかぶり本業の女優業を続けることは苦難の道でしたが、竹内良一とようやく始めた「新婚生活」の中にあっての不幸だけに、残された父武雄と息子の行く末なども思い、スキャンダル女優と名指しで批判されるこの時期は、嘉子にとってかなりつらい一時期だったと思われます。
しかし、嘉子は立ち止まっていませんでした。1928年(昭和3年)、大衆作家、直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げ。この年から1930年(昭和5年)4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回りました。
ちなみに、直木三十五は、脚本家であり映画監督などもこなしましたが、エンターテイメント系の小説を書く第一人者であり、没年の翌年からスタートした「直木賞」は彼にちなんで設けられた賞です。
代表作は、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」を描いた「南国太平記」であり、後年、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の名だたる作家が、この直木の著作を手本にしながら本格的歴史作家として育っていったといわれています。
1931年(昭和6年)、夫の竹内は、日活のライバル松竹に入社し、これがきっかけとなり嘉子も同社の映画女優を務めるようになります。しかし、新しい職場においても嘉子が看板女優として高い評価を得たのに対し、竹内が出演した映画にはなかなか人気が集まりませんでした。
このことが夫婦の間に溝をつくるきっかけとなり、やがて夫婦関係が悪化して竹内は酒に溺れるようになります。そして、ついに5年後の1936年(昭和11年)に二人は別居生活に入ります。
その二年後の1938年(昭和13年)の1月に嘉子がソ連へ亡命したのちの10月、竹内は女優の佐久間妙子と結婚。戦時中は本名(外松良一)で国策映画「秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏」(1943年)に出演し、外人「チャーレス・クーパー」の役などをこなしていますが、その後は目立った作品には出演していません。
戦後、東京都調布市に日本映画俳優学校を設立して教頭に就任。晩年は宗教に心の拠り所を求めていたといい、1959年(昭和34年)に調布市上石原にあった生家の道場において、信者仲間に看取られつつ死去。脳溢血だったそうです。享年55才。
トーキー映画時代
「岡田嘉子一座」の旗揚げ後、二年間の地方巡業についた嘉子でしたが、日本中を巡業した結果、一定の評価を得たため帰京。ちょうどどのころ、日本ではまだ糸口が着いたばかりのトーキー(有声映画)に着目します。
そしてこれに参画すべく、自らのプロダクションを設立し、嘉子が主演、竹内を監督して、舞踏や流行小唄を題材とした映画を製作しはじめ、十数本の映画を完成し、売り込みを図りはじめました。
舞踏を題材にした映画に出演するようになった関係から、このころから嘉子は日本舞踊に本格的に取り組むようになり、日本舞踊家で藤蔭流(とういんりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した藤間静枝(ふじませいし、別名、藤蔭静枝(ふじかげ せいし))の元にも通い始めました。
藤間静枝はこのころ50才を超えていました。30才のころ、この当時慶應義塾大学文学部の教授であった永井荷風と結婚しましたが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、日本舞踊に専念するようになります。
後年、80才で紫綬褒章を授かるなど、日本舞踏家の第一人者でしたが、嘉子はその藤間から名取を許され、日本舞踏家としては「藤蔭嘉子」名乗るほどの腕前になりました。
1932年(昭和7年)、嘉子は30才になりました。この年、日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。しかし栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子といったこの当時の名だたる人気スターのあいだにおいて、嘉子はさすがに若さの盛りを過ぎており、華やかさで彼女らには及ばず、なかなか良い役にも恵まれませんでした。
しかし、高名な小津安二郎監督作品にも出演しており、「また逢う日まで」「東京の女」では主演を務めています。
ただ、こうした作品以外の出演依頼には意欲の湧かないものばかりであり、舞台出身の強みを生かしたいということから、こうしたトーキー映画ばかりを選んで出演をしてみたものの脇役が多くまた、自分とは合わない役柄が続きます。
そんな中1934年(昭和7年)父が病死。服部義治との間に設けた愛児は嘉子の代わりに両親が育ててくれていましたが、母に次いで父も亡くなったことから、おそらくは医家であった九州の父の実家の一族に預けられたものと思われます。
母の死の時もそうでしたが、近親が亡くなるときはいつも嘉子が女優としてその成長に伸び悩んでいるときでした。
父が亡くなったこのときも、衣笠貞之助の股旅物の傑作「一本刀土俵入り」や小津のネオリアリズムの傑作「東京の宿」に出演していますが、「使いにくい女優」と監督から敬遠されていたようで、なかなかその役にのめり込むことができずにいた時期でした。
そして、そんな境遇の自分を打ち払うように、自分が真底打ち込める作品を求め、嘉子は再び舞台の世界へ戻ることを決意します。とはいえ、映画は重要な収入源であったため、全くの出演をやめることもできず、数本の映画出演のかたわら、松竹傘下の新派演劇であった井上正夫一座に参加するようになります。
こうして映画の出演を控え、舞台出演が増えたためもあり、このころから映画人であった夫の竹内との間は次第に冷え切ったものになり、ほとんど別居状態になっていました。
1936年(昭和11年)、34才になった嘉子は、そのころ嘉子の舞台を演出してくれていた、ロシア式演技法の指導者で、演出家の「杉本良吉」と激しい恋におちました。
ところが、この杉本良吉は、1926年に結成された第二次日本共産党のメンバーで、党導部の密命を受け、ソビエト領内のコミンテルンとの連絡のためソ連潜入を試みた経験をもつ、いわゆる共産主義者でした。
コミンテルン
「コミンテルン」の原語はロシア語で「カミンテールン」と発音するようですが、日本語で呼びやすいようにこう呼ばれるようになったものと思われます。英語では、“Communist International”と書きますから、共産主義者の国際組織という意味になります。
コミンテルンは、ロシア帝国が崩壊した、いわゆるロシア革命の2年後の1919年、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワにあった19の共産主義組織またはグループの代表が集まり、創立されたものです。
当初は「世界革命」の実現を目指す組織とされ、新政権であるソ連政府は、資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶ、いわば表向きの「顔」であるのに対し、コミンテルンは世界各国の共産主義による革命運動を支援するための組織であり、いわば共産主義を世界に広げるための「草の根運動」を支援するための国際組織でした。
1919年の第1回大会から1935年の第7回大会まで、ソビエト共産党の指導の下に世界各国から共産主義者を集めた、「コミンテルン世界大会」が開かれ、反ファシズムなどを優先課題として共産主義に賛同する多様な勢力と協調するための会議が開かれました。
しかしレーニンの死後、スターリンが実権を握ると、ソ連邦による「一国社会主義論」、すなわち自分たちの社会主義だけが唯一正しい共産主義であるという主張をはじめたため、コミンテルンは次第にその立場を失っていき、各国の共産主義者も次第に強大な力を持つソ連邦の外交政策を擁護するようになっていきました。
このため、コミンテルンによって結成された中国共産党も、当初はソビエト連邦へ留学して党を結成した勢力が中心でしたが、次第にその勢力を失っていきました。
圧倒的に農民人口が多い中国では、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とする社会主義よりも、農民を対象とした社会主義化の動きのほうが強く、このため農村に拠点を置いて活動していた毛沢東が次第に勢力を拡大していきました。
そしてソ連が一国社会主義論を提唱しはじめたため、中国共産党はこれとは一線を画し、ソ連邦とはまた違った形の農民主体の共産主義が発展していきました。
その後、第二次世界大戦の勃発に伴い、ソ連邦がイギリスやフランスとともに連合国を形成したため、コミンテルンは名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散しましたが、それまでは、中国だけでなく、世界中の国の共産主義者たちが心の拠り所として仰ぎみた組織でした。
日本共産党
日本における共産党も、コミンテルン主導で結成されたもので、1922年に堺利彦、山川均、荒畑寒村らを中心に第一次日本共産党が結成されました。
しかし、日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを国に要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法に反する団体とみなされ、その活動は「非合法」という形を取らざるをえませんでした。
共産党は繰り返し弾圧され、運動が困難となったため、その結果1924年(大正13年)にはいったん解散。しかし二年後の1926年(昭和元年)、かつて解党に反対していたメンバーによって共産党は再結党され、これは第二次日本共産党といわれました。
この第二次共産党の方針も第一次共産党の方針をほぼ継承しており、その活動内容の多くは1925(大正14年)に成立した治安維持法に抵触するものであったため、新生共産党の活動もやはり「非合法」のものがほとんどでした。
しかし、一方では労農党などの合法政党を設立し、これを背景として労働団体など諸団体に入って「合法的」な活動を行っており、これと並行して非合法の地下活動を展開していました。
労働組合などの合法活動に党本部の活動家が顔を出しつつ、裏では違法とされたソ連邦の共産活動家らとの接触を図りながら軍国主義と敵対し、共産主義を流布していくという危なっかしい運営を行っていたのです。
このように表向きでは「合法」の組織とみせかけながら秘密裡に非合法活動を行っていた日本共産党ですが、その後やはりこの裏の活動が暴露され、1928年(昭和3年)の三・一五事件では、治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙されました。
翌年の1929年(昭和4年)でも、四・一六事件と呼ばれる弾圧が起き、この事件でもおよそ1000人が検挙され、共産党は多数の活動家を失います。
相次ぐ弾圧で幹部を失いながらも、指導部は「革命近し」と判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などなどの過激な暴発事件を次々と引きこしていきました。
戦争反対の活動にも力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいては、非合法集会・デモ行進を組織し、同年9月に発生した満州事変に際しては、占領地からの軍隊の即時撤退や帝国主義日本の軍事行動に反対する声明を出すなど、その行動はさらにエスカレートしていきます。
杉本との出会い
杉本良吉が党本部の指導者からソ連邦に侵入し、領内のコミンテルと連絡をとるように言われたのはちょうどこのころのことです。
コミンテルンは1928年に開催された第6回世界コミンテルン大会において、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること」「民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」といった、過激な政治綱領を発表しています。
帝国主義が蔓延する日本などの軍事国家を内戦により崩壊させることを目標に掲げたのです。この結果を受け、コミンテルンではさらに1931年4月、「31年政治テーゼ草案」なるものを出していますが、この草案の中では日本における「社会主義革命」を最優先課題としていました。
杉本は、指導部の密命を受け、ソビエト連邦成立後のソビエト領内のコミンテルンとの連絡をとるために、ソ連潜入を試みたといい、上述のテーゼ草案などを国内に持ち帰り、党本部にコミンテルンの結果などを復命したようです。
この杉本良吉の経歴ですが、1907年(明治40年)東京に生まれ、東京府立第一中学校卒業後、北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退。さらに早稲田大学文学部露文科に入学するもこれも中退して、20才のころから前衛座などのプロレタリア演劇の演出をやっていたようです。
前衛座は、日本プロレタリア文芸連盟が主宰する移動劇団で、「プロレタリア」の名のとおり、個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結びついた「プロレタリア文学」を奉ずる集団です。
日本プロレタリア文芸連盟には中野重治、亀井勝一郎、鹿地亘といったマルクス主義芸術研究会に属する有名人が多数加入しており、いわば共産主義の巣窟のような場所でした。杉本もここに出入りすることによって共産主義に感化されていったものと考えられます。
杉本は嘉子と出会う直前の1935年に、新協劇団という前衛集団に入団し、プロレタリア演劇運動を行っていましたが、この新協劇団も反政府運動を行っているとして5年後の1940年に解散させられています。
杉本もこのころにはプロレタリア演劇運動という表向きの運動よりも、政府打倒を掲げる共産主義運動にどっぷりつかり、劇団そのものも日本共産党分子の隠れ家的存在になっていたものと考えられます。
杉本は、1902年生まれの嘉子よりも5才年下でした。嘉子と知り合ったころには、ロシアから帰国したばかりであり、嘉子から請われて嘉子の舞台の演出家を務め、ロシアで覚えた演出法を試していました。
このころ嘉子が夫の竹内と不仲になっていた一方で、杉本も病身の妻をかかえており、お互い何かと家庭内の問題を打ち明けあううちに、それがやがて激しい恋情へと変わっていったものと考えられます。
嘉子にとってはこの恋もまた不倫でしたが、映画人としての将来を見失い、冷え切った夫との関係が続く生活の中に現れたこの若くて新しい恋人の存在は、彼女にとってなくてはならないオアシスだったのでしょう。
逃避行
1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画や舞台にも表現活動の統制が行われるようになってきました。プロレタリア運動に関わっていた杉本は、過去に軍部からにらまれて逮捕された経歴があり、嘉子と出会ったころは執行猶予中でした。
戦争は激しくなり、健常な男性の多くが中国戦線に投入されるようになっており、杉本にも召集令状が来るのは時間の問題でした。しかし、召集令状を受ければ、戦地へ赴く前の審査で共産主義者であることが暴露される可能性があり、そうなれば刑務所に送られる可能性があると考えた杉本は、ついにソ連への亡命を決意します。
そしてその亡命にあたっては、このころはもう別れることのできない間柄にあった嘉子を連れて行こうと考え、嘉子に打ち明けたところ、嘉子もこれに同意します。
1937年(昭和12年)暮れの12月25日朝、杉本がまず東京を出発しました。追って26日夜、嘉子が東京を出で、2人は宇都宮駅で落ち合い、青森へ行きます。そこから青函連絡船で函館へ行き、湯の川温泉で一泊しました。
その後小樽へ行き、そこから船で稚内、そして樺太へと渡りました。このころ、樺太は日露戦争の戦勝により南半分が日本の領土として割譲されており、二人はこの北半分のソビエト領との間の国境の町、「敷香(しすか)」町にたどりつきます。
ここで彼らは国境警備隊を慰問したいと申し入れます。警備隊は大喜びで二人を迎えました。嘉子と杉本は土産の肉や酒を用意していたといい、これを警備隊に振舞い、ねぎらったと伝えられています。
そして、彼らと親しくなったころを見計らい、杉本が警備隊の隊長に、是非国境を見せて欲しいと願い出ました。土産の食事で気をよくしていた隊長ら警備隊員は、嘉子と杉本を馬橇に乗せ、雪原の国境まで連れて行きます。
途中でスキーに履き替えて国境に立ったときは、夕暮れが迫っていました。国境付近を何気なく散歩していたように見えた二人に、警備隊員が遅くなる前に帰りましょうと、声をかけたとき、振り返った杉本の手には拳銃がありました。
二人は警備隊に馬橇を渡すよう要求し、二人はこれに乗ってソビエト領内に走り出しました。
警備隊員は空に向かって威嚇射撃を行ったといいますが、二人は振り返ることもなく、ソビエト領に向かって逃げていきました。
こうして、1938年(昭和13年)1月3日、二人は樺太国境を超えてソ連に越境入国しました。二人の失踪はほどなくして世間に知られるようになり、有名女優の駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせることになりました。
そしてその後日本は太平洋戦争に突入していき、戦中・戦後の混乱の中で二人の存在は忘れ去られていき、いつしか死んだに違いないと噂されるだけになりました。
その通り杉本はその後ソビエト領内で非業の死を遂げることになりましたが、嘉子はその後も生きながらえ、気の遠くなる年月ののちに再び日本に戻ってくることになります。
しかし、このときの嘉子はそんな日がくることを想像だにしなかったに違いありません。暗いソビエトの灰色の空の下、まだまだ苦痛に満ちた日々が続いていくことになるのです(続く)。