髑髏の舞

岡田嘉子(おかだよしこ)さんという女優さんをご存知でしょうか。ご存知だとしたら、失礼ながらかなりご年配の方か、あるいはその晩年、「男はつらいよ」などの映画や舞台演出のほか、数本のテレビドラマやバラエティ番組に出演したのを覚えている方などではないかと思います。

私自身は直接テレビや映画で現役のころのお姿を拝見した記憶はないのですが、たしか、ソビエトに亡命した有名な女優さんだったな、という程度の認識は持っていました。

この岡田嘉子さんは、大正から昭和初期にかけて流行ったサイレント映画時代のトップ映画女優であり、奔放な恋愛遍歴を持ち、ソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送った人ですが、1972年の今日、11月13日に35年分ぶりに故郷の日本へ帰ってきました。

正直いってそれほど興味のある人物ではなかったのですが、たまたま「今日は何の日?」で亡命先のソビエトから日本に帰ってきたのが今日であると知り、ちょっとだけその略歴でも見てみようかと調べてみて仰天ビックリ。

こんな波乱万丈の人生を送った人がいたのかと驚き、また私が育った広島で生まれたことも知り、このブログでも取り上げてみようと思いました。

この岡田嘉子(以下、敬称略)は、1902年(明治35年)4月21日に、広島県広島市細工町(現在の広島市中区大手町)で生まれました。

細工町の名は、細工職人が多く居住していたことに由来するそうで、江戸の藩政時代の街道筋にあたり、多くの商人が店を構えていました。今の広島の中心部である、デパートそごう前の交差点から南西部あたり一帯の町で、原爆投下の直下にあったとして有名な世界遺産、原爆ドーム、その昔は「島病院」と呼ばれた場所で病院があったあたりになります。

この原爆ドーム前には「元安川」という川があって、原爆ドームの対岸の広大な敷地が「平和記念公園」となっており、原爆資料館や原爆死没者慰霊碑をはじめとする数多くの慰霊碑が設置されています。

資料館や慰霊碑、また資料館を中心とするこの公園の計画は、当時の若手建築家・丹下健三の設計によるもので、また、公園南側の平和大橋・西平和大橋はアメリカ人彫刻家・イサム・ノグチの設計によります。

我々夫婦にとっては懐かしい場所で、二人の母校の高校がすぐ近くにあったことから、「奉仕清掃」などでも出かけましたが、クラスの課外活動などでもよく利用する場所で、私自身は子供のころからよく慣れ親しんだ場所です。……と、これ以上書くと、また大きく逸脱しそうなのでこの辺でやめておきましょう。広島のお話はまたいずれ機会を改めて書くことにします。

岡田家の祖先は、その昔、九州の細川藩の医家だったそうです。嘉子のお父さんの岡田武雄もおそらくは九州の出だったのではないかと思われますが、新聞記者をやっていました。どこの新聞社に勤めていたのかは何を調べても出てきませんが、小さな地方新聞社だったようで、このほかにもいくつかの新聞社とも掛け持ちで仕事をしていたようです。

嘉子の母の八重は福岡の出身で、父の武雄が広島で新聞記者をしていたときに知り合って結婚したのですが、そのお婆さん(嘉子の曾祖母)がポルトガル人だったそうです。

このため、母の八重も洋風の美人で、娘の嘉子もそのエキゾチックな美貌を受け継ぎ、嘉子自身、「母は自分よりずっと美人だった」とその自伝で書いているそうです。

父が物書きだったせいもあり、両親は教育には熱心だったといいます。しかし、この父親の武雄は放浪の癖があり、和歌山から広島、朝鮮の釜山、横須賀と転々としており、その「途中」の広島で結婚して嘉子が生まれることになります。しかし、武雄はここにも落ち着かず、このため一家こぞって上京。東京では湯島に移り住みます。

父はこうした放浪歴があるだけでなく、娘の通う学校で宮城遙拝(皇居の方向に向かって敬礼する行為。天皇への忠誠を誓わせる運動の一つ)の行事があることなどを知ると、これを娘に強要させることを嫌い、学校を休ませてしまうというリベラリストの側面を持っていたようです。

リベラリズムとは、人間は従来の権威から自由であり自己決定権持つという立場であり、自由権や個人主義、国民主権などを主張し、現代資本主義思想の基礎ともなった思想です。

権威主義や全体主義、社会主義の計画経済などに敵対する考え方であり、リベラリストたちの中には、この当時の天皇制を独裁的な権威主義であると決めつけている人たちもいました。

こうした父の放浪癖やリベラリズムを奉ずる考え方は、後年、嘉子の型にはまる事を嫌う奔放な生き方に大きな影響を与えたと考えられます。

東京へ移住した岡田一家ですが、東京でもあちらこちらと転居していたらしく、銀座の泰明小学校という小学校をはじめ、4つの小学校を転々としました。最後に比較的長くいたのが日本女子大付属の豊明小学校で、それも5年生の1学期から6年の2学期までのごく僅かな時間であったといいます。

1915年(大正4年)、東京・女子美術学校西洋画科(現東京女子美術大学)へ入学。わずか13才だったといいますから、父や母から英才教育を受けていたとはいえ、その才能の早熟ぶりが想像されます。

さらには、1917年(大正6年)、父が北海道小樽の「北門日報」の主筆に招かれると、嘉子も女子美術学校を卒業後、翌1918年(大正7年)に小樽に移り、若干15才で父と同じ新聞社の婦人記者として入社しています。

父が会社の中心人物であり、その庇護の元での就職だったと考えられますが、それにしてもわずか15才で新聞記者というのは現在では考えられないことです。これが事実だとすると、さぞや大人びた娘であったことでしょう。

若くして亡くなった「万代恒志」という岡山県の美作市出身の画家がいますが、岡田一家が東京へ移り住んだころ、万代恒志は通っていた教会で嘉子の母の八重をみそめ、是非、挿絵のモデルになって欲しいと頼み込んだそうです。

八重は唐突な申し出ながらも恒志の真面目そうなところに好感をもち、子供の嘉子といっしょならと、しぶしぶモデルになることを同意しました。

この万代恒志が描いた八重と嘉子の母娘の挿絵はいくつかの雑誌に掲載され、評判になったそうで、このあとも万代は嘉子をしばしばモデルとして自宅に招き、嘉子のデッサンを残しています。母の八重だけでなく嘉子もこのころから周囲の耳目を集める美人だったことがわかります。

小樽に移って父の会社に入社した同じ年、社外の慈善演芸会の催しがあり、この中の寸劇に出演してくれないかと嘉子は頼まれ、これにヒロインとして出演。すると、その際立った美貌がたちまち評判となります。

父の武雄は、東京に在住時代、芸術座の「島村抱月」や劇作家の「中村吉蔵」と知り合っています。おそらくは芸能関係の取材によって知己となったと考えられますが、この二人の薦めもあり、嘉子は翌1919年(大正8年)、父に連れられて上京し、中村吉蔵の内弟子となります。

島村抱月は、1871年(明治4年)島根県小国村(現浜田市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学)卒業後に記者となり、読売新聞社会部主任就任後、母校文学部講師となり母校の海外留学生として英独に留学。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、このころから「早稲田文学」を主宰して自然主義運動のため活躍していました。

1906年(明治39年)に坪内逍遥とともにその後の「新劇運動」の母体となる「文芸協会」を設立しますが、1913年(大正2年)にこれを共に立ち上げた女優の「松井須磨子」との恋愛がその組織内で問題視され、文芸協会を脱退。同年、松井とともに新たに「芸術座」を結成しました。

この芸術座では、トルストイの小説を基に抱月が脚色した「復活」(1914年(大正3年))の舞台が大評判になり、各地で興行を行いましたが、松井須磨子が歌う劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット曲になり、歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となりました。この歌や歌詞を聞いたことがある方も多いと思います。

このカチューシャの唄のヒットは、新劇の大衆化に大いに貢献しましたが、その4年後の1918年(大正7年)、抱月はスペイン風邪にかかり急逝。その2ヶ月後の1919年(大正8年)の1月、松井須磨子は芸術座の道具部屋において首つり自殺をしています。

実は、松井須磨子は文芸協会立ち上げのころから島村と不倫関係にあり、島村の死の9年前に離婚、島村とは同棲関係にありました。

須磨子は自分の全存在は抱月あってのものだと信じ込んでいたそうで、抱月の死の二月後の命日、抱月と自分の写真を並べ、花と線香をたむけた前で首を吊ったといいます。涙を誘うエピソードです。

須磨子は島村の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたそうですが、それは叶わず、彼女の墓は郷里の長野市松代市の生家の裏山に埋葬されました。新宿区弁天町の多聞院には分骨墓があるそうです。

嘉子が父に連れられ、東京に出てきたのは、この島村抱月と松井須磨子が亡くなった直後のことであり、このため、嘉子の身柄はとりあえず、抱月の朋友である中村吉蔵に預けられました。

中村は、1877年(明治10年)生まれで島村より6才年下。同じ島根県出身で、大学もその頃早稲田大学と改名していた旧東京専門学校であったことから、島村とは旧知の中でした。

大学卒業後、欧米に留学してノルウェーの劇作家のイプセンなどの影響を受け帰国。春雨と号して新社会劇団を主宰していましたが、島村が芸術座を立ち上げたことから、これに招かれ、一座のための戯曲を書いていました。

新劇女優

芸術座は、島村と松井須磨子の死によって解散となりましたが、中村はこのころはまだ映画を手掛けておらず、文楽や歌劇、演芸などを営んでいた松竹と提携して、「新芸術座」を旗揚げします。

嘉子は、中村から新劇の手ほどきを受けるようになってすぐの1919年(大正8年)の3月、有楽座で「カルメン」という歌劇の端役で初舞台を踏むことになります。

しかし、新芸術座は興業が不調だったせいかやがて解散。中村との縁はここで切れます。そしてこのころ、その昔島村抱月らが立ち上げた「文芸協会」は主宰者が変わって「新文芸協会」という名の一座になっており、嘉子もこれに加わることにします。

そして、その東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生で、服部義治という男性と関係を持ち妊娠してしまいます。嘉子19才のとき(大正10年)のことで、この男性が彼女の「初体験」の相手だったといわれています。が、無論、本当のことは本人同士にしかわかりません。

この服部義治という人物がどういう人物だったかもよくわかりませんが、大学予科ということは、現在の大学の教養学部に相当しますから、相手の年齢も19~20才くらいの同年齢だったでしょう。

早稲田大学ということですが、師匠の中村吉蔵やその朋友の島村抱月も早稲田大学出身であり、その関係からか嘉子の周りには早稲田出身の若手俳優も多く、そうした後輩を先輩の中村吉蔵などが演技指導をするなどして面倒を見ていたのではないでしょうか。

東北で身籠った嘉子ですが、その後ひとり東京に戻り男児を出産。嘉子の「弟」として岡田家の籍に入れることにします。この決断を嘉子自身がしたかどうかはわかりませんが、籍を入れるということは本家の同意がなければできないことであり、19才という年齢を考えると、両親の勧めに従ったのではないかと考えられます。

このとき、相手の服部は結婚を迫ったといいますが、嘉子はこれを拒否したと言われています。が、本人はその気だったかもしれず、家族の反対にあったのかもしれません。

この嘉子が生んだ子供は男性だったようです。嘉子のことをネットで調べていたとき、偶然この男性の娘さんらしい方のブログを発見しました。かつては嘉子同様、女優を目指した方のようで、東宝へ入社後、二本の映画に出られたあと、女優業はおやめになったようです。

このブログの中でも嘉子のことに触れておられ、そこにもお父さんは、戸籍上「岡田嘉子の弟」として育てられたことを書いていらっしゃいます。

蝶ネクタイの小学生時代のお父さんと嘉子の写真が残っているそうで、祖母の嘉子さんの表情は優しい母の顔だったといいます。

嘉子の両親の武雄と八重の二人は、後年嘉子がソビエトへ行く前に亡くなっています。このお子さんを育てたのは親戚筋の誰かだったと思われますが、いろいろ調べてみましたが詳しいことはわかりませんでした。が、誰であるかにせよ、嘉子が母であることは報せなかったようです。

ところが、中学生だったときに父の武雄が亡くなり、そのお葬式のときに、どういうきっかけからか自分が嘉子の子供であることを知ってしまったようです。

この方のお父さん~嘉子の一人息子は、この嘉子のお孫さんによれば、かなり頭の良い人だったそうで、医師のライセンスから料理、映写技師、設計図面、電気技師の資格まで持つなど多彩な才能を持った方だったようです。九州の医家が先祖の家に生まれ、自らも聡明な性格だった嘉子の息子さんもまた優秀な人物になったのでしょう。

両親の助けを得ながら子供を育てる傍ら、多くの劇団の客演をこなしていた嘉子ですが、1921年(大正10年)「舞台協会」主宰の帝劇公演での「出家とその弟子」(倉田百三作)のラブシーンなどが評判となり、一躍新劇のスター女優となりました。

そして、新劇のスターとして各地を巡業するようになりますが、この地方巡業中、嘉子は今度は共演した山田隆弥(やまだたかや)という人物と愛人関係になります。

山田隆弥は1890年(明治23年)埼玉県生まれで、嘉子よりも12才も年上。文芸協会の坪内逍遥に師事し、坪内が自宅に設立した演劇研究所の第1期生であり、松井須磨子の同期に当たります。嘉子らと「舞台協会」を立ち上げ、上述の「出家とその弟子」で嘉子と共演し、その演技が高く評価され、名声を得ていました。

どういう人物であったのか調べてみましたが、あまり詳しい記録がありません。その後日活向島撮影所の映画に5本ほど出演したあと、西宮の東亜キネマ甲陽撮影所製作の映画などにも出演しています。

しかし、40歳代後半以降は全く映画や舞台には登場していません。昭和53年に87才で没していますから、何等かの理由で若かりしころに俳優としての自分に見切りをつけ、その後別の人生を歩んだのでしょう。

映画女優として

1922年(大正11年)「日活向島撮影所」の衣笠貞之助などの女形を中心とする大物俳優らが、女優を優先して採用するという会社の方針に反発し、「国活(国際活映株式会社)」に移籍してしまいます。

このころ、日活向島撮影所は日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作しており、ここで製作された映画作品の配給を日活本社が行っていました。

新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれており、これに対して国活は、日活で元営業部に所属し、日活と袂を切って独立した小林喜三郎氏が率いる新進の映画会社で、日活をライバル視していました。

日活向島はこの引き抜きの穴を埋めるため、このころ「舞台協会」に所属し、そのころめざましい活躍をしていた嘉子やこのころ新進気鋭の女優で14才だった夏川静江などと契約します。

ちなみに夏川静江はその後清純派女優として成功し、戦後は新東宝映画などの各社の映画にも出演しましたが、その後は主に母親役で、1980年代にいたるまで映画やテレビに活躍した人です。1999年に亡くなっていますが、顔写真を見ると、ああこの人か、と思い出す人も多いと思います。

そして、日活における嘉子の第一回作品が、戯曲「出家とその弟子(倉田百三作)」をベースにした1923年(大正12年)の映画、「髑髏の舞」でした。この当時まだ日本映画はサイレント(無声映画)の時代でしたが、愛欲心理描写を売りにしたこの大作で嘉子は町娘を演じ、映画は大ヒット。映画でも一躍スターとなりました。

嘉子は、この後も舞台協会の主宰する舞台への出演の傍ら、日活向島などの映画会社の映画に出演を続けていましたが、この年(大正12年)の9月1日に関東大震災が勃発。これにより、日活向島が閉鎖してしまい、頼みの綱の舞台でも不入りが続いたため、多額の借金を抱えるようになりました。

このころもまだ嘉子は愛人の山田隆弥と関係を続けており、このころ山田は嘉子に結婚を申し込みましたが、その山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が発覚。この妻と分かれてほしいと嘉子は懇願しますが、山田の煮え切らない態度に悩むようになります。

このころ、山田や嘉子が所属する舞台協会は、日活向島と提携して映画を製作していましたが、嘉子は、この山田とそのパトロン妻へのあてつけのつもりで、日活向島からの次回作における出演を拒否し、日活京都撮影所と契約。

さらに、舞台協会の借金を返済するため、日活京都からその出演料を前借りし借金を返済したため、一座を救うため身を売った「大正お軽」と新聞各紙が騒ぎたてました。

「お軽」とは、江戸時代の浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」中に出てくるある判官に仕える腰元の名前で、そのストーリーとしては夫のピンチのために祇園の遊女となるというもの。

このお軽という女性は実在の人物だったらしく、夫の窮地を救ったということで江戸庶民の賞賛を得たということですから、嘉子が新聞に騒がれたのも、夫ならぬ愛人の山田のピンチを身を捨てて救ったと解釈されたためであり、必ずしも悪い評価ではなかったものと思われます。

1925年(大正14年)、嘉子は映画「街の手品師」に主演。この映画では、もともと舞台出身だった嘉子が、自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。しかし、出来上がった作品における嘉子の演技は「完璧に達せる」という高い評価を得ます。

この頃、父の武雄は樺太の「樺太民友新聞」に勤めており、樺太庁大泊町で母の八重、そして嘉子の息子と一緒に住んでいたと思われます。しかし、生活は苦しかったらしく、映画で成功したと聞いた父が嘉子を訪ねて京都までやってきました。

映画「街の手品師」で高い評価を得た嘉子でしたが、一本の映画だけでは十分な収入は得られず、そんな折の両親からの無心に対し、「給料の大半は借金返済に回され、身売りした女郎に変わりが無い」と深刻に悩みつつも、これを用立ててやっています。

続く出演映画、「大地は微笑む」は、溝口健二他の監督によるオムニバス形式で、日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマでした。この当時は大作といわれましたが、嘉子が出演した日活版の評価が最も高い評価を得ました。

このころ、山田隆弥は日活向島と手を切り、東亜キネマの専属になっていました。そしてこの山田の内縁の妻であるというスキャンダルが世間に知られるようになっていたにもかかわらず、「大地は微笑む」での嘉子の演技の評価は高く、この年(大正14年)の映画女優人気投票でトップの座を獲得しました。

この年は結局、計9本の映画に出演することになり、嘉子は文字通り映画界におけるトップ女優としての地位を獲得したのでした。

しかし、そんな中、かつての恋人であり、二人の間に一児を設けた服部義治が突然自らの命を絶つという事件が起こります。山田隆弥と嘉子が愛人関係となったことが公になったことを知ったためといわれ、二人の中を妬んだための自殺といわれています。鉄道自殺でした。

二人の間にできた子供は自分の弟として両親の加護の元にすくすくと成長しており、服部とは完全に縁が切れていると割り切っていたはずの嘉子ですが、その死にはさぞかし心が痛んだことでしょう。

そうした中においても、翌年の1926年(昭和元年)に嘉子は、キネマ旬報ベストテン2位となった「日輪」(村田実監督)他7本の映画に主演。

そして、この年の講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」と発言するなど、スターとしての「人権宣言」をした初の女優としてさらに注目を浴びるようになります。

更に翌年の1927年(昭和2年)の映画「彼をめぐる五人の女」でも主演をこなし、この映画もベストテン2位となります。

それまでの奥ゆかしいイメージの日本の女優と異なり、モダンで新しい時代を予感させる奔放なヒロイン像は、その頃から相次ぐ戦争に突入していく暗い世相の日本の中にあって、新鮮な驚きをもって人々の賞賛を得ていくことになります。

しかし、そんなトップ女優としての絶頂期にありながら、生来の自由奔放な性格はまた新たなスキャンダルを引き起こし、それはまた、やがて来るべきトーキー時代の苦闘と極寒ソビエトへの逃避行へとつながっていくのです(続く)。