ここ数日天気が続いて富士山が良く見えます。いつもながらの風景ですが、そのすぐ脇にある宝永火山の噴火口はいつみても大きなあざのようで、朝日などに照らされるとくっきりとした影をそこに落とし、一層この付近の荒々しさを感じさせます。
宝永山は江戸時代の1707年(宝永4年)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山です。標高は2693 mもあるそうで、ここ伊豆からはあまりその山の形はわかりませんが、御殿場あたりまで行くと、円錐状の形の山が富士山の脇に張り付くようにそびえているのがよくわかります。
この宝永山の南東側の富士山の斜面には「宝永火口」があり、山頂側から順に第1火口、第2火口、第3火口と呼ばれていて、第1火口が最も大きく、我が家からは第2・3ははっきりと見えませんが、第1は肉眼でもくっきりとそれが確認できます。
この宝永山、あまりよく知られていないようですが、頂上までは登山道が整備されているそうで、富士山登頂に比べれば登頂は難しくないそうです。それでも2700m近い山であることから、夏山登山が普通で、冬に登る人はかなりの登山マニアでしょう。
とはいえ、御殿場口新五合目駐車場から山頂まで片道約1時間30分だそうで、装備さえしっかりしたものを持ち、天候に気を付けていれば我々でも行けそうです。
宝永山頂まで行かなくても途中までのルートで宝永火口は十分に見えるそうで、行ったことがないので偉そうなことは言えませんが、これを見るだけでも富士山の雄大さを実感することができるのではないでしょうか。
宝永火口が見える地点へは、御殿場口新五合目駐車場の東端から森林帯の登山道(宝永遊歩道)を利用すれば、距離が短く高低差も少ないため約20分で着くそうです。
登山期間は通常、5月上旬ごろから11月中旬ごろまでといいますが、私は冬季にこのルートが閉鎖されているかどうかは確認していません。多くの方が冬季に登ったレポートをブログなどで紹介されていますから、おそらくは警察署への届け出などは必要ないのではないでしょうか。
この宝永山と宝永火口を形成した、宝永大噴火は、有史時代の歴史に残った富士山三大噴火の一つだそうで、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火」と「貞観の大噴火」です。宝永大噴火以後、2012年に至るまで富士山は噴火していませんが、近年富士山周辺で大きな地震が起こっており、一昨年の東日本地震以降、微振動が続いているそうで、少々不気味なかんじです。
宝永大噴火のときの噴煙の高さは上空20kmにまで上がったそうです。「プリニー式噴火」と言うそうで大量の火山灰を伴いました。
プリニー式噴火は、数ある火山の噴火形式の中でも、最も激しいもののひとつで、膨大な噴出物やエネルギーを放出するのが特徴です。地下のマグマ溜まりに蓄えられていたマグマが火道を伝って火口へ押し上げられる際、圧力の減少に伴って発泡し、膨大な量の「テフラ」を噴出します。
テフラとは、火山灰や軽石、「スコリア」と呼ばれる塊状の岩滓(がんさい)などがごっちゃまぜになった混合状の噴出物で、火砕流などの現象を引き起こす大変厄介なものです。
このテフラや噴石は火山ガスとともに、火口から吹き上がり、柱状になって山体から吹き上がりますが、その様子はフィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山が1991年に噴火したときの映像が世界中に流れ、これを見て記憶している人も多いと思います。
火口からの噴煙柱の高さは通常でも1万m、時には5万mを越えて成層圏に達し、1日から場合によれば数日、数ヶ月の長きに渡って周囲を暗闇に包みます。上空に達した噴煙柱はやがてその自らの重みに耐え切れずに崩れ落ち、火砕流となって四方八方に流れ下り、時には周囲100kmの距離を瞬時に埋没させます。
宝永の大噴火の際にも、100 km離れた江戸にも火山灰をもたらしましたが、幸いこのときの噴火では周囲を瞬くに埋没させるほどひどいものではありませんでした。溶岩の流下もなく、地下20km付近に溜まっていたマグマが滞留することなく上昇したため、爆発的な噴出とはなりましたがその量も比較的少なかったことが幸いしました。
噴火が起こったのは富士山の東南斜面であり、前述のとおり、これが後年宝永山と呼ばれるようになり、合計3つの火口が形成されました。
宝永大噴火は1707年の12月16日(宝永4年11月23日)に始まったとされています。噴火の直前に記録的な大地震があり、これは宝永噴火とは別に、「宝永地震」と呼ばれ、噴火による火山災害とは別に大きな被害をもたらしました。
噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6〜8.7と推定される宝永地震が起こり、この地震は遠州沖を震源とする「東海地震」と紀伊半島沖を震源とする「南海地震」が同時に発生したもので、これらの震源域を包括する一つの巨大地震と考えられています。地震の被害は富士山周辺だけでなく、東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋は2万戸に達しました。
宝永地震の翌日の卯刻(朝6時頃)にも、富士山の南側の富士宮付近を震源とする強い地震があり、駿河、甲斐付近でもこの強い地震動が感じられたといいます。いわゆる噴火前の「予兆地震」であり、これに先立つ4年前の1704年(元禄17年)の暮れにもこの地方で山鳴りがあったことが「僧教悦元禄大地震覚書」という記録に記されています。
このように宝永地震の余震と思われる地震が続く中、噴火の前日の12月15日の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード4から5程度の強い地震が数十回起きます。そして翌朝の16日の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていったことが記録に残っています。噴火の始まりです。
富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下しはじめ、家屋を焼き田畑を埋め尽くしはじめ、夕暮れには噴煙の中に火柱が見えるようになり、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃されたといいます。
噴火が起こったのは江戸時代の徳川綱吉の治世の末期で、江戸や上方の大都市ではいわゆる「元禄文化」と呼ばれる町人文化が発展していた時期でした。噴火の前年には、1707年(元禄15年)の赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門作の人形浄瑠璃として初演されています。
この噴火は、江戸の町にも大量の降灰をもたらし、当時江戸に居住していた医学者の新井白石はその著書に、次のように書いています。
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
直訳すると、「江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた」という意味のようです。
また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかったといいます。伊藤祐賢という人が書いた「伊藤志摩守日記」には、最初の降灰はねずみ色をしていたそうですが、夕刻から降ってきた灰は黒く変わったと書かれています。
荒井白石によれば、2日後の18日までこの黒い灰は降り続いたようで、ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったのに対し、夕方には黒灰に変わっている点です。
噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠であり、東京大学本郷キャンパス内の発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認されています。この黒い降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされました。
当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれており、例えば、
これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
などと風流に見えますが、かなり江戸の町の空気が悪くなっていた様子がわかります。
この後、宝永大噴火は延々と続きましたが、その後徐々に規模が小さくなり、12月31日までには完全に終焉しました。噴火後の最初の4日は激しく噴火したそうですが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いたといいます。
12月19日ころまでにはまだ江戸などでは断続的な降灰が続いていましたが、小康状態の期間が多くなり、20日〜30日ころには噴火の頻度や降灰量が減っていきました。
しかし、最後の最後の12月31日の夜になって噴火が激しくなり、遅くに爆発が観測されましたが、その後噴火は治まり二週間にわたる火山噴火はようやく終焉します。
この噴火による被害ですが、現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は噴火の初期に最大3mに達する降下軽石に見舞われ、12月中旬から下旬の後期には降下スコリアに覆われました。これらのスコリアは熱を含んでいたため、家屋や倉庫は倒壊または焼失し、これらの地方では食料の蓄えがまったく無くなったといいます。
田畑もスコリアや火山灰などの「焼け砂」に覆われたため耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥りました。当時のこの地方の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施しましたが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかでした。
このため、藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出、幕府はこれを受けて周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、この当時の関東郡代「伊奈忠順」を災害対策の責任者に任じました。
また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源としました。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用されたといいます。
このあたりのお話は、東日本大震災で用意された復興費用が全く別の事業に流用されていたという事実と何やら似ています。役人というものは江戸時代から変わっていないのかと思ってしまいます。
ともあれ、こうした幕府による救済は徐々に浸透していきましたが、とくに小山町(御厨地方)では田畑が大きなダメージを受けたためにその生産性はなかなか改善せず、その影響はその後数十年も続きました。約80年後の天明3年(1783年)に至っても低い生産性しかもっていなかったことから、これに天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」といわれる大一揆がおこりました。
このほか、噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆いまし。農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄するという対策をとりましたが、砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入し、河川環境を悪化させました。
特に酒匂川流域では流入した大量の火山灰によって河川の川床が上昇し、あちこちに一時的な天然ダムができ水害の起こりやすい状況をひきおこしました。
噴火の翌年の6月に発生した豪雨では大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くしました。その後これらの田畑の復旧にも長い時間がかかり、火山灰の回収・廃棄作業にはさらに何十年という月日が必要になりました。
このように、宝永の大噴火は、人的な被害こそ少なかったものの、その降灰による地域へのダメージが大きかったことが特徴です。このことは今後また富士山が噴火した場合でも同じ被害が繰り返される可能性があることを示しています。
情報の伝達がスムースになった現在では、富士山が噴火した場合の人的な被害は江戸時代に比べれば格段に小さいのではないかと考えられ、むしろ降灰が社会に与える影響のほうが大きいことが予想されます。
国の防災機関や地方自治体は、学識経験者などを集めて「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針を策定しています。この中で火山灰被害の例として「宝永噴火の被害想定」が詳細に検討されており、その調査結果がハザードマップとともに、内閣府の防災部門のホームページや関係市町村のサイトで公開されています。
この検討報告書では、宝永大噴火と同規模の噴火が起こった場合、火山灰が2cm以上降ると予想される地域は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶとされています。
この範囲では一時的に鉄道・空港が使えなくなり、雨天の場合は道路の不通や停電も起こることが予想され、また長期にわたって呼吸器に障害を起す人が出るとされています。
また富士山東部から神奈川県南西部にかけては、噴火後に大規模な土石流や洪水被害が頻発すると考えられています。ただし宝永大噴火は過去における富士山の噴火では最大級の降灰をもたらした噴火と考えられており、次の噴火ではこれほどの降灰はないのではないかという楽観的な見方もあるようです。
しかし、細かい灰はどこにでも侵入するため、電気製品や電子機器の故障の原因となると推定されていて、コンピュータや電子部品が全盛の今の時代には、江戸時代にはみられなかったような新たな災害が起こる可能性もあります。
予想もしなかったような電磁波のようなものも発生するのではないかと危惧する学者もいるようで、こればかりは江戸時代にも記録がないため、どのようなものが出るのかは誰もわかりません。
幸い、宝永の大噴火のときには我々が住んでいる中伊豆にはあまり降灰はなく、被害もそれほどではなかったようです。なので、もし再度富士山が噴火したら、ここら一帯は「避難区域」に指定されるのかもしれません。
今は空き家も多いこの別荘地もいずれは避難住民で一杯になる……そんなこともあるのかもしれません。大災害が起こったときにはお互い助け合うべきですから、そうなったらなったで努力はしたいと思います。が、できればそんなことにならないよう、日々、富士山に向かって祈ることにしましょう。