たかが100円されど500円 ~旧修善寺町(伊豆市)

ここ一~二週間は厳しい寒さとなり、秋はもうどこへ行ってしまったの?というかんじです。窓の外を眺めると紅葉はちらほら見えるものの、黄色や赤というよりも茶色が目立つようになり、その先に見える富士山では宝永山の火口すべてが真っ白です。さすがにコートなしでは外を出歩けなくなり、夜になると一層寒さが身に沁みます。

これほど寒くなる前の先々週、11月の終わりに、すぐ近くにある修善寺虹の郷の「紅葉ライトアップ」に行ってきました。

この季節限定で11月22日から始まり、12月2日までで、夕方4時から開園で夜八時半まで。この期間の夜間入場料は割引になり、一般の人は600円だったかな? ただし、伊豆市民の我々は入場料はこの間もタダでした。ありがたや。

5時過ぎに虹の郷の駐車場に車を入れましたが、広い駐車場なのでさすがに一杯ということはありませんでしたが、それでも入園口に近いところの駐車スペースはほぼ埋まっていました。ちなみにこの期間中の駐車場料金は一般の人も伊豆市民もタダです。

早速中へ入ると、おォなるほどです。モミジ以外の園内の樹木もさることながら、イギリス風の建物やこの公園のシンボル的な存在の赤い二階建てバスもきれいにライトアップされていました。

この日はまだ11月末だったとはいえ、修善寺虹の郷も標高200mを超える山の上であることもあり、夜はかなり冷えました。10度は切っていたのではないでしょうか。にもかかわらず、園内は結構な人出で、園内のお店も夜遅くまで開いていてなかなかにぎやかです。

入口付近ではちょっと良いスポットがあると、必ず誰かがカメラを構えているので、なかなか良い写真が撮れませんでしたが、園内奥深くに入っていき、今回のライトスポットのメインともいえる「日本庭園」はかなり広く、好きなところへ行ってカメラを据えることが可能でした。

庭園の真ん中にある大きな池の周りには紅葉を中心にかなりの本数の紅葉樹が植えられていて、これがみんな一本づつ丁寧にライトアップされていてきれいです。その姿がまた池に照らし出され、「さかさモミジ」状態になっている景色を随所で見ることができましたが、これがまた美しい!

あちこち園内を歩き回り、たくさん写真を撮りました。小一時間もいたでしょうか、さすがに体が冷えがちがちに。これ以上いると風邪をひきそうなので、退散して何か温かいものでも食べに行こうということでこの日のモミジライトアップ初参加を終えました。

感想は言わずもがなで大満足でしたが、寒いのがちょっと。温かいものが口にできる出店がまったくないわけではないのですが、入場者数を考えるともう少し各所にそうしたお店があるといいな、と思いました。もっとも、公営(伊豆市の第三セクター)の公園としてはライトアップの数といい、よくやっているなという印象です。来年もがんばってください。

と、今日はこれで終わり、というのも寂しいので、今日は何の日?を例によってみたところ、今日は日本で初めて「100円硬貨」ができた日、ということでその記念日になっているようです。

100円というと、手軽で安いワンコインというイメージがあり、そのキリの良い価格設定をうまく使った「100円ショップ」が全国いたるところにあります。よく利用するのですが、実際には税別本体価格のため、支払は消費税込み105円で販売する店も多く、買い物を終えたあとその分少々損をしたような気分になるのは私だけでしょうか。

これが消費税アップになると、110円とか115円とかを支払わなければならないわけで、100円ショップファンにとっては痛い出費です。16日の選挙には我々もぜひ行こうと思っていますが、できれば消費税アップに反対している政党に入れようかな。そういう政党は、100円ショップの前で街頭演説をすればもっと支持が集まるのではないかと思うのですが、どうでしょう。

こうした、百円ショップのモデルになったといわれているのが、戦前に高島屋が全国展開した「十銭ストア」です。1926年(大正15年)に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、1930年(昭和5年)には難波南海店に「高島屋十銭ストア」を開設。

その後1932年(昭和7年)にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開したところ、大好評を博したということです。1941年(昭和16年)までには全国に100店を超えるチェーンを築いたといいますが、その後の太平洋戦争によって経営基盤を奪われ、実質的には廃業してしまいました。

1935年頃を1とした場合の現在の物価指数はおおまかにいって1800前後だそうで、当時の10銭は現在の180円程度に相当します。今の100円のほぼ二倍近い金額ですが、この「十銭ストア」の取り扱い商品は「日常家庭生活に必要なものは殆ど全部」に及んだそうで、内容的には今のものと同じようなものだったようです。

商品調達にあたっては均一店専門の納入業者を開拓し、生産者との直接取引を導入するとともに、生産者への指導・援助も行い、均一店向けの商品開発や商品の標準化にも積極的に関与しましたが、さすがに現在のような価格水準まで下げることはできなかったようです。

現在の100円ショップは、大量の店舗による販売力を生かして国内外のメーカーへ自社専用商品(プライベートブランド)の形で大量に生産を委託することで、仕入れ価格のダウンを図っており、近年は価格だけでなく品質の確保にも力を入れているといいます。

その最大手のダイソーでは、数百万個という単位での「一括製造」を行いコストを下げているそうですが、しかし一方では製造コストは下がるものの、在庫コストは莫大なものとなります。

こうした100円ショップが生き残っていけるかどうかについては、消費税のレートがどの程度で推移していくかによってかなり影響を受けると思います。今は105円で買えるものが120円払わないと買えないとなると、ショップから消費者の足が遠ざかるのは目にみえています。このへんのところ、各社ともどういうふうな戦略を考えているのでしょうか。

日本の100円ショップと似たものは、海外にもあるようです。アメリカでは1ドルショップや99セントショップ、イギリスでも99ペンスショップがあり、韓国には1000ウォンショップ、中国には1元ショップなどがあるといいます。

アメリカの場合、日本の100円ショップ同様に小間物商品を1ドル均一で販売するDollar store(1ドルショップ)という小売業態があるようですが、日本の大手と比べると商品の品質は悪く品揃えの面もあまりよくないそうで、また小規模なものが多いということです。

日本の100円ショップの雑貨は中国で製造されて輸入されているものも多いようですが、現地中国でも均一価格で販売する店が増えてきているといいます。100円を元に換算すると7元程度になりますがが、中国では「一元店」、「三元店」、「五元店」、「十元店」などが見られ、必ずしも一元にこだわっていないようです。

また、店名が「一元ショップ」となっていても、異なる価格で販売する商品のコーナーもあることが多いそうで、これは日本の百円ショップも同じです。100円よりもちょっと品質の高い商品を200円とか300円で販売しているコーナーがあったりします。

ただ、日本の場合はこうした価格は企業化されたルートで一律決められますが、中国の場合、個人経営の店が多く、このため店ごとに品揃えもばらばらで、一元などの定価格で売っていない商品の種類もてんでばらばらということです。

また、ほとんどが日用雑貨類を主に扱っていて食品や衣類まで売っている店はほとんどないそうです。ただ、日本の消費税に相当する付加価値税は全て内税で売られているそうで、一元こっきり出せば品物が手に入ります。

日本では最近、主にインテリアや服飾、家電製品などを扱う500円均一ショップの店が増えてきているようです。まだまだ100円ショップに比べると店舗数はきわめて少ないようですが、このほかにも千円均一の店なども出てきています。上述の消費税の問題が大きくなってくるころにはこうした高価価格商品を扱う店が台頭してくるのかもしれません。

すると、いずれは100円硬貨ならぬ1000円硬貨も製造されるようになるのかもしれません。ただ、今のところその動きはないようで、これまでと同様、発行されるとすれば何等かの国家的な大きな行事があったときの記念硬貨になるようです。

これまでに発行された記念1000円硬貨はすべて「銀貨」のようで、一番古いのは東京オリンピックの記念硬貨(昭和39年)でこれは1500万枚も造られたそうです。

これに次いで「2002FIFAワールドカップ™記念硬貨(平成14年、10万枚)、「第5回アジア冬季競技大会記念硬貨(平成15年、5万枚)、奄美群島復帰50周年記念硬貨(平成15年、5万枚)2005年日本国際博覧会記念硬貨(平成16年、7万枚)、国際連合加盟50周年記念硬貨(平成18年、8万枚)などがあります。

このほかにも、各地方自治体が「地方自治法施行60周年記念貨幣」として1000円銀貨を造っており、平成20年から北海道、島根県、京都府などがそれぞれ10万枚を発行しており、このほかの県もこれに追随しているようです。

こうした硬貨は、すべて造幣局で造られており、この造幣局、硬貨だけを製造しているのかとおもったら、ほかにも勲章や褒章、金属工芸品等も製造しているということで、このほかにも地金・鉱物の分析及び試験や、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などまで行っている機関です。

東京だけにあるのかなと思ったらその本局は大阪市北区天満にあるそうで、その支局が東京の豊島区と広島市の佐伯区の2か所にあるとのこと。

そういえばかつてタエさんが住んでいた広島市佐伯区には「コイン通り」という通りがあって、そこに造幣局があるのだと教えてもらったことがあります。桜の名所で春の桜のシーズンだけ「花のまわりみち」として一般開放されています。

この広島支局の桜は1967年に大阪から移植されたものだそうで、その大阪の造幣局の桜はもっと有名です。この造幣局の本局は、大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにあって、その構内には約120品種、約400本の桜が植えられています。

本局のあった土地はもともと藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれたということで、初代の造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを公開することになったのが始まりだそうです。

大阪大空襲で桜の多くが焼失しましたが、職員らが大阪周辺のあちこちを探し回って多品種の桜の苗木を集め、現在のような並木が復元したということです。いまでは大阪の春の伝統行事とまでいわれ、毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わっています。

公開時には日没後の夜桜も鑑賞できるそうで、ここのところ、修善寺虹の郷のモミジライトアップとも通じるところのある行政サービスでなかなか洒落たはからいです。

この大阪造幣局では創設された1871年から工場内および近隣周辺にずっとガス灯を点灯しており、これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの余剰分を利用したものだそうです。導入されたものは屋外に設置されたものとしては日本で初めてのもので、その当時にはその明るさに大勢の見物人が押し寄せたということです。

この造幣局では、東京オリンピックや長野オリンピックの金・銀・銅の各メダルも製造されたそうで、さらには名古屋城の金鯱なども製作されたということです。こうした話を聞くといつも門の中に閉ざされたお堅い場所、というイメージの造幣局にもなんだか親近感を覚えてきます。

その開設は、1868年(慶応4年)にさかのぼり、明治新政府が旧幕府が所持していた金座および銀座を接収し、この年に「貨幣司」を設けて二分判および一分銀などの鋳造を引き継いだのが始まりです。

翌1869年(明治2年)には貨幣司は廃止され、太政官に造幣局が設けられ、さらに同年8月、造幣局は造幣寮と改称され、大蔵省の所属となりました。

参与会計事務官だった由利公正(三岡八郎)や外国事務局判事の五代才助らは1868年(慶応4年)に、同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する契約を結び、同じ年に英国建築技師のウォートルスを雇用し、局舎の設計および機器の購入などを担当させました。

1870年(明治3年)には旧香港造幣局長のキンドルを造幣寮の首長に任命し、ここでようやく大阪所在の本局が1871年(明治4年)から銀貨の製造を開始し、同年に造幣局の前身である「大蔵省造幣寮」の創業式が敢行されました。

今の「造幣局」の名称になったのは1877年(明治10年)のことで、その二年後の1879年(明治12年)に大蔵省内に東京出張所を開設。この出張所は1929年(昭和4年)に東京府東京市麹町区内幸町に移転後、さらに1939年(昭和14年)に現在の豊島区西巣鴨に移転しました。

しかし1945年(昭和20年)4月に空襲により全焼し東京支局は事業を停止。同年6月には大阪の本局も空襲の被害を受け工場の一部を焼失しました。終戦も間近い1945年(昭和20年)2月には広島県佐伯郡五日市町に造幣局広島支局が開設されましたが、この支局も同年8月6日の原爆により被災。造幣局は各局とも大きな被害を受けました。

しかし、終戦後の1946年(昭和21年)1月にはまず広島支局が貨幣製造を再開し、まもなく大阪本局や東京支局も貨幣製造を再開しました。

その後造幣局の名称は、1949年(昭和24年)6月から1952年(昭和27年)7月までのごく短い時間に「造幣庁」と名称を改めましたが、その後再び造幣局に戻り、2003年(平成15年)の省庁再編の際に、「独立行政法人化造幣局」として新たなスタートを切っています。

現在、造幣局では1円、5円、10円、50円、100円、500円の6種類の日本硬貨を製造しています。この硬貨の製造量は、新硬貨の発行や経済状況等に応じて当然年ごとに変化します。戦後最も製造量が多かったのは1989年(昭和64年+平成元年)だそうで、計51億5316万6千枚の硬貨が製造されました。無論、バブルの影響です。

一番最近の2012年の製造量はわかりませんが、2009年次の製造量は計8億5301万8千枚でバブル期の約6分の1にすぎません。

一番製造数が多いのは何だとお思いでしょうか。一円? ブッブッ~です。正解は500円硬貨の3億4300万3 千枚。一円硬貨は4800万3千枚しか造られておらず、五円硬貨に至ってはわずか400万3千枚にすぎず、五十円硬貨も少なく、500万3千枚です。

10円硬貨の発行数は500円硬貨とほぼ同じの3億3800万3千枚で、私はこれが一番多いのかと思ったのですが、100円硬貨は1億1500万3千枚なのだそうです。

無論少し古いデータなので、今はもう少し変わってきているかもしれませんが、一円玉や五円玉の製造量が少ないのはこれに対応した自動販売機などが少なくなってきているからだと何かのテレビ番組で言っているのを聞いたことがあります。

つい最近、テレビニュースや新聞報道で造幣局がバングラデシュの貨幣の製造を受注したという報道がなされ、大きな反響を呼びました。この11月にバングラデシュのステンレス製の2タカ硬貨の製造を5億2千万円で落札して請け負ったということで、外国の一般流通貨幣を製造するのは戦後初となるようです。

一般流通貨幣ではない外国の通貨・記念硬貨やメダルの製造はこれまでも請け負ったことがあるそうで、これまでにスリランカやニュージーランドなどで記念硬貨を製造した実績があるそうです。

日本では最近、電子マネーの普及などで貨幣流通が減って製造ラインに余裕があるため、外国からの貨幣製造なども積極的に受けることで、財政赤字を埋めていこうということのようですが、同時にラインが止まるとその生産技術を維持・推進していくのが大変になるからともいわれています。

2009年に製造された日本の硬貨の総額は1867億269万8千円分になるそうで、数字としてみればたいした数字ではないように見えますが、単年度に製造する金額と考えるとやはり大きな金額です。

私は500円貯金をするのが趣味で、いまもせっせと貯めこんでいます。わりと大き目のブタさん貯金箱に入れているのですが、全部貯まると10万円以上になります。こうして貯めたお金でときどき大きなものを買ったり、旅行に出かけたりするのですが、500円という金額は無理なく貯められてなかなか手頃な貯金になります。

バブルのころにはちょっと銀行に預ければそれぐらいの利子がすぐについたものですが、今はもうこうした「自衛」方法でへそくりを作るしかありません。

ひところに比べてなんともなさけない世の中になったなーとつくづく思うのですが、そんな暗い気分を払拭してくれるような明るい時代に戻してくれるのははたしてどこの政権党でしょうか。

もうすぐ投票が迫っています。私としては500円貯金をしなくて済む方法を教えてくれる政党にぜひ投票したいと思います。