今日12月8日は、1941年に真珠湾攻撃が行なわれ、太平洋戦争が勃発した日です。真珠湾ことパールハーバーには、確かハワイ大学に入学する前に一度行ったことがあります。撃沈された戦艦アリゾナの上に建造されたアリゾナ記念館には、陸上から船でアクセスするようになっていたと思います。
何が展示されていたかはあまりよく覚えていませんが、奇襲にあって大破したアリゾナの付属品や写真などの展示が主だったように思います。
今もパールハーバーは現役の海軍基地として存在し、そこへの一般人への出入りは厳しく規制されていますが、このアリゾナ記念館周辺だけは観光客へ解放されています。アリゾナ記念館へ向かう途中、真珠湾の全体が見通せるのですが、水平線のかなたまで見通せるほどのかなりオープンな湾であり海側から飛行機が浸入してこようとするとすぐにわかってしまいます。
実際日本軍機の侵入は山側から行われたようであり、アメリカ側はほとんど無警戒に近い状態であったことから、この奇襲は成功し、戦艦アリゾナを初めとして戦艦5隻が沈没、ほか、駆逐艦2隻、標的艦1隻も沈没、停泊中であった他の戦艦や巡洋艦の多くも中破する損害が出ました。このときの軍人の戦死者は2345人にのぼり、民間人も57名が犠牲になりました。
対する日本側も無傷だったわけではなく、攻撃機のうち未帰還だった機が29機、損傷74機のほか、戦死者も55名を数えました。
このほかあまり知られていないようですが、特殊潜航艇による特別攻撃隊も真珠湾に侵入しており、これら5隻の全部が未帰還に終わり、乗船していた9名が戦死、1名が捕虜となりました。
この特殊潜航艇による攻撃については、連合艦隊の司令長官の山本五十六大将は、隊員の帰還の確実性がない、として当初その実施を許可しなかったそうです。
太平洋戦争の末期には、航空機や特殊先攻艇による「神風攻撃」が行われ、多くの若者が亡くなりましたが、本来、日本海軍はこの山本大将のように、将兵を生きて帰還させることを是とする風習があったそうです。開戦当時にはまだこうした精神のもと、将兵が大事にされていたのです。
この特殊潜航艇は、「甲標的」と呼ばれていました。その名のとおり、潜水艇というよりも魚雷を意味するネーミングで、当初の計画の中には乗員ごと敵艦に体当たりさせて爆沈させることも視野に入れられて設計計画が練られたといいます。
しかし、やはり将兵を無事帰還させるべきであるとの意見のほうが強く、基本的には攻撃後に帰還可能な装備や機能を備えた設計に変更されたそうです。
この甲標的がどんな潜水艦だったのか興味があったので調べてみました。その開発は真珠湾攻撃を遡ること10年前の1931年(昭和6年)から既に始まっていたそうで、試行錯誤を重ね多くの試作品が作られたようです。
真珠湾攻撃に合わせるために急造された安直なものかと思ったらそうではなく、かなりまともな潜水艇で、兵装としては魚雷2本を艦首に装備し、最初は電池だけで駆動させたようですが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼルと電気の両方の動力源を持つように改良されました。
当初は洋上襲撃を企図して単独で航行できるよう設計されたようですが、のちに装備を軽くするため、長距離を航行させることを断念し、より大型の伊号潜水艦のような母艦の甲板に搭載し、水中から発進するように設計が改められました。
母艦の甲板から出航後は、敵の港湾・泊地内部に侵入し、敵艦船を攻撃するいわゆる「奇襲」を前提に計画されたものであり、その計画から建造に至るまで厳重な機密保持が求められました。
最終的に「甲標的」の正式名称が与えられたのは1939年(昭和14年)のことですが、この「甲標的」という名前も潜水艦であることを内外にわからないようにネーミングされたもののようです。「甲標的」という名前すら戦前は秘匿され、その秘匿は真珠湾攻撃が終わるまで続きました。
甲標的の全長は約24m、全高3.4m、最大直径1.85mで全没排水量は46tでした。深さ100mまで潜れたといいますから、大きさはともかくかなり本格的な潜水艦です。
船殻は前部・中央部・後部のセクションから構成されており、このセクションごとに分解して内部に納められた魚雷射出筒、蓄電池、発動機などを整備できたそうです。
このうちの中央部セクションは全長10mほどで、内部は中央部分に司令塔と搭乗員の操縦室、前部と後部に蓄電池室がありました。中央部操縦室の前席に補助の船員(艇付)が、後席に艇長が座る二人乗りが基本でした。艇付は操舵と艇の浮上沈降などを担当し、艇長は索敵と運行指揮を担当しました。
直径70cmほどの司令塔内部スペースには昇降可能な潜望鏡が備えられ、艇の最前部に無線用のマストが格納されていて、浮上時に操縦室天井の手動ハンドルで昇降できるようになっていました。
艇内には無線機や電灯などの電装品が備えられ、このほか放電計、界磁調整器、応急タンクなどの安全装備や、船を安定して航行させるための舵輪や深度器、狭い艇内を航行時に点検できるように、小判型の小さな連絡孔まで設けられていました。
動力源には40馬力ディーゼルエンジンが搭載され、これは25kwを出力する発電機を駆動させることができ、これにより2日間の行動時間と、水上速力6ノットで500海里(925km)の行動距離が与えられました。
ハワイ作戦に参加した甲標的には、港湾襲撃という目的のためさらにさまざまな追加装備を施されました。港湾への潜水艦への侵入を防止するための「防潜網」を切断するため艇首には「網切器」が装備され、艇尾にはプロペラに網が絡みつくのを防ぐためのプロペラ・ガードが追加されました。
内部的には母艦と艇との連絡電話(有線)が装備され、長距離の航行が想定されなかったことから蓄電池25個を降ろして操舵用の気蓄器を増設しました。そして、敵に捕獲されそうになったときのための自爆装置が追加されました。
甲標的の武装は、先端部に装備された魚雷を2本だけでした。この魚雷は直径45cmあり九七式酸素魚雷と呼ばれる高性能のものでした。射程距離は5000mもあり、雷速50ノットで炸薬量は350kgであり、この魚雷2本分の火力は攻撃機2機分に相当したといいます。
ただ、魚雷を撃ち出すと1トン近い浮力が発生し、艦首が跳ね上がり、海面へ飛び出しただけでなく、この不安定な挙動のために魚雷も偏った方向へ撃ち出され、狙った方向へ進まないなど、命中精度に関しては大きな課題を抱えたままでした。このため敵艦に対する最適発射距離は800mとされ、かなり敵に接近しないと魚雷を放てないという欠点がありました。
攻撃の前提となる索敵能力も乏しく、電波兵器もソナーも持たないため、外界をさぐる手段としては長さ約3mの特眼鏡が一本のみでした。大型マストをもつ戦艦などを視認するには十分でしたが、その視認距離は30km程度が限界でした。
また、小型艇であったため、波浪にもまれやすく、常に揺れる狭い視界で索敵を行うのは非常に困難で、また敵を発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元を割り出して魚雷発射の方位、タイミングを算定するのは至難の業だったといいます。
その機動力にも問題がありました。その構造上、舵より後にプロペラを配さざるを得ず、このため舵がききにくい構造となり、その旋回範囲400mは大型艦並みでした。水中最大速力は19ノット(時速約35km)が出たものの、持続時間は50分程度であり、現実的な常用速力は6~10ノット(時速11~18km)程度にすぎませんでした。
さらに住環境は極端に悪く、潜航では12時間が搭乗の限界であり、これは二酸化炭素の増加、酸素の欠乏、ガス、艇内の温度上昇、搭乗員の疲労などが原因でした。
小型なぶん反響信号強度が小さいため、レーダーなどにはキャッチされにくい利点はありましたが、逆に小さすぎる艇体は外洋では上下しやすく、しかも一定の深度を保ちにくかったため、攻撃のために特眼鏡を使用する深さまで浮上すると、発見されて攻撃を受けやすいという大きな欠点がありました。
実際、真珠湾攻撃ではこの欠点が露呈し、複数の甲標的が航空機によって発見され、撃沈されています。
真珠湾攻撃における実際の行動ですが、甲標的による攻撃は5隻によって行われることが事前に決定し、これを搭載した伊号潜水艦5隻が11月18~19日にかけて呉沖の倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日にはオアフ島沖10~23km付近まで接近しました。
そしてハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔でこの5隻は順次母船を離れ、真珠湾に向かって出撃していきました。日本側の記録によればその結果、5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行うことができたといいます。
しかし前述のように波によって艦が上下して露呈しやすいという欠点が災いし、敵機に発見され、4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わりました。その後、撃沈されたうちの3隻はすぐに発見されましたが、残る1隻は行方不明でした。
しかし、その後の捜索により発見され、アメリカ軍が内部を改めたところ魚雷は未発射であったということで、このことから魚雷攻撃を行ったのは2隻ではないかといわれています。
その戦果については必ずしも明らかになっていません。最近までまったく成果はなかったのではないかと言われていましたが、近年アメリカ軍の資料の中に、特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われたという記述が見つかっており、雷撃を受けたうちのオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が原因で転覆したのではないかという評価もされているそうです。
この雷撃に成功した「らしい」1隻が座礁したのは、魚雷発射後に自沈したためとみられており、撃沈された4隻では乗組員8名全員が死亡。座礁した艇は一人が捕虜となり、もう一人は水死しました。この戦死した8名と水死した1名を合わせた9名は、その後二階級特進し、「九軍神」として顕彰されました。
座礁した艇から脱出して漂流中に捕虜となったのは、この艇の艇長で「酒巻和男」という海軍少尉でしたが、日本軍は彼が捕虜となったことは公表しませんでした。また、この九軍神を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の800キロ爆弾で撃沈された戦艦アリゾナは特殊潜航艇による撃沈という発表が大本営から行われたそうです。
こうして、真珠湾攻撃では華々しいとはいえない戦果しか挙げなかった甲標的艦ですが、その後も改良が続けられて建造されつづけ、昭和19年までに100隻近い数が進水しました。
実戦投入されたうち、ある程度の戦果を上げたとされているのはマダガスカル島のディエゴ・スアレス港の攻撃などで、この攻撃では戦艦ラミリーズを大破させ、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤリティ(6,993トン)を撃沈しています。
またガダルカナルの作戦では8隻が潜水艦から発進、ルンガ泊地を攻撃し、米輸送艦アルチバとマジャバの2隻を撃沈しています。この攻撃では5隻が生還し、艇はいずれも自沈処分されましたが、搭乗員は無事味方基地へ帰投しました。
さらにフィリピンの別の作戦ではセブに主基地を作り、前進基地を設けて甲標的が進出、米船団部隊を狭い水道で襲撃しており、甲標的8隻をそろえて集中運用した結果、日本側判定としては艦船20隻を撃沈したとしています。
ただし、米側は駆逐艦1隻の喪失を記録しているだけだそうで、戦時中の大本営は過大な戦果を発表する傾向がありましたから、米側の記録のほうが正しいのかもしれません。
このように太平洋戦争を通しての甲標的艦の戦果はいまひとつぱっとしないものでしたが、前述までのように、潜水艦としてはかなり本格的なもので、欠陥は数多くあったものの、もし戦争に日本が負けなかったら、その技術を使ってもっと優れた潜水艦が作られていたかもしれません。
しかし、負け色が濃くなっていく戦時中において、その欠陥を大きく是正することはかなわず、にもかかわらず欠陥のある特殊潜水艇を使っての作戦遂行の難しさは現場の搭乗員たちの間でも大きな不満になっていたそうです。
そして、その不満が人間魚雷「回天」の開発につながっていったのではないかという見方もあるようです。どうせ欠点ばかりの特殊潜航艇ならば、不要な装備は削ぎ落してしまって、単に人が乗る「魚雷」にしてしまったほうが、むしろ命中精度は上がるだろうと……
戦況が悪化していくなか、積極的に旧来の兵器で使えるものは使い、生身の人間をその兵器の一部として犠牲を強いる。当時の軍の上層部が考えたことではありますが、逆に前線で戦う兵士の間では戦況が好転するならばと、むしろそうした考え方を受容する雰囲気があったのかもしれません。
パールハーバーから71年。甲標的のような特殊潜航艇はもう作られていませんが、潜水艦そのものは国産で依然製造され、自衛隊が保有しています。もしこのころの技術が継承され、より欠陥の少ない艇が完成していたら、もしかしたら周囲を海に囲まれている日本のこと、「自家用潜水艇」なんてものもできていたかもしれません。
造船業も頭打ちとはいえ、いまだに世界に冠たる高い技術を持っている日本のことです。そうしたものを考え出すような斬新な発想ができるメーカーがひとつぐらいあってもいいのではないでしょうか。
もしそんな夢の船があったら自分ならどうするか。考えただけでもワクワクします。まだまだ死ぬまでには時間がありそうです。あと、30年は生きられると思うので、それまでには、ちょっと自家用潜水艦で伊豆大島まで行ってきまーす、そんなことが実現される時代が来るのではないでしょうか。