最近、少し日が長くなってきたようです。一日の活動時間も少しずつ長くなっていくようで、寒さも和らいできたこともあり、これからは少し外出する機会も増えそうです。
人も日を浴びると活動的になると同じく、植物もそうで、庭の木々を見ていると、新芽をたっぷりとたたえたものも多くなり、もうすぐ春だなと感じさせてくれます。
伊豆のあちこちで梅や河津桜が咲いたという便りが届くようになり、こうした中高木ばかりでなく、水仙の花や菜の花が咲くのもあちこちで見られるようになってきました。先日も近くの大仁梅林に出かけてきましたが、梅はまだまだだったものの、梅の木の下にはたくさんの水仙の花が咲き誇っていました。
ところで、忙しくて書けなかったのですが、昨日は「菜の花忌」だったようです。作家の司馬遼太郎さんが亡くなった日です。
1996年(平成8年)1月12日といいますから、もう17年前のことになります。この日司馬さんは、ちょうど「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終えたころだったそうで、2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなられました。
72歳という年齢は、ファンとしてはまだまだこれからなのに……といったお齢であり、かえすがえすも残念なのですが、もし生きておられたらどんな小説を書いておられたかな、と思い、最晩年の作品群をちょっと調べてみました。
すると、長編小説としては、「韃靼疾風録」(1987)が一番最後の作品であり、この二年前には、「菜の花の沖」を執筆されています。韃靼疾風録は、清の初代皇帝「ヌルハチ」などの生涯を描いたもので、この作品で司馬さんは第15回大佛次郎賞を受賞されています。
その4年前にも三国志の世界を描いた「項羽と劉邦」を書かれており、さらに少し前には中国に渡った空海のことを描いた「空海の風景」なども書かれていますから、その晩年の興味は中国のほうへ移っておられたのかもしれません。
しかし、その一方で、1982年には、「菜の花の沖」を書かれており、これは江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛を描いたもの、また1984年には、北条早雲の生涯を描いた「箱根の坂」なども書かれており、日本人として歴史上活躍した人物を描くことも忘れてはいなかったようです。
ちなみに命日の「菜の花忌」は、司馬さんがとりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったことからつけられたようで、またこの晩年の作品の「菜の花の沖」にもちなんでいるそうです。
これら一連の長編小説を書いたあと、「韃靼疾風録」を最後に司馬さんは小説を書くことをほとんどやめており、このあとは「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ「風塵抄」、「この国のかたち」といった随筆作品に絞り、日本とは何か、日本人とは何かをテーマにした文明批評を中心とした執筆活動ばかりをされるようになりました。
実は司馬さんには大変失礼なのですが、私自身はこの一連の晩年の作品はあまり好きではありません。「菜の花の沖」や「箱根の坂」はそれなりに楽しんで読ませてもらったのですが、もっと若いころに書かれていた作品にみられたような強烈なインパクトがなく、登場人物の描写も凡庸であまりのめり込むことができないというかんじを持ちました。
無論、北条早雲や高田屋嘉兵衛といった、いわば歴史に埋もれていたような人物のお話であったためにいまひとつその生涯に興味が持てないというのもあります。
しかし、司馬さんの若いころの作品によくみられたような、司馬さんの登場人物への興味というか愛情がストレートに我々に伝わってきて、そのストーリーにぐいぐいと引き込まれていくというかんじがなんとなくみられない作品のように思いました。
司馬さんの作品には、司馬さん自身が解釈された歴史を大局的に見た見解が書かれることが多く、こうした「史実」を集めてきた膨大な資料の中から抽出してきて、これを面白おかしいゴシップとして披露する、というのが司馬さんのスタイルでした。
そうすることで登場人物を鮮やかに描きだす点が特徴的であり、しかもそういった工夫をしながらも、自分自身はいかにも「興味がない」といった読者を突き放したような書きぶりが魅力的で、そうした記述には類まれなるユーモアがありました。
「余談だが……」とか「閑話休題」といったかいった切り口で、時々物語から大いにお話が脱線しはじめると、本論とはまったく関係ないエピソードが延々とはじまり、その中には司馬さん自身の個人的な経験談も含まれていて、これがまた物語とは全然関係ない話であるだけに新鮮で面白い!とよく感じたものです。
しかし、司馬さんの晩年の作品をみると、登場人物の描写よりもむしろこの余談的随筆のほうが主題になっているような傾向があり、その余談もまたかなり「くどい」ことが多く、若いころに書かれていたような物語性の強い作品とはまた別の作品群ができあがっていったように思われます。
一介の読者にすぎない私が司馬さんのような大作家を批評するなどというのはとんでもないことなのですが、これら晩年に書かれた小説群以降の随筆のいくつかは読んだものの、どうしても興味を覚えることができません。
このため司馬さんが晩年に書かれたものは「街道をゆく」「アメリカ素描」」などのごく一部で、「街道をゆく」も全部を読んだわけではなく、自分に興味のあった「長州編」とあといくつかしか読んだ記憶がありません。
晩年の司馬さんは、1981年(昭和56年)には日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)には文化勲章を受章するなど、文学の世界を登りつめたような感があり、そうしたきらびやかな境遇がむしろその作風をゆがめてしまったのかな、と個人的には思ったりもしています。
ちょうどこのころから、腰に痛みを覚えるようになってきたといい、当初、坐骨神経痛と本人は思われていたようですが、実はその後の直接の死因となる腹部大動脈瘤であったそうです。
それでも「街道を行く」などの取材のために、台湾にまで出かけ、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談を行ったり、同じ「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続け、最晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたそうですが、とうとうこれに手をつけることなく、突然のようにその死は訪れました。
亡くなられた国立大阪病院は、奇しくも若かりし頃に執筆された「花神」の主人公、大村益次郎が暴漢に襲われ、その治療中に最後を遂げた場所であったそうです。
親族・関係者による密葬を経て大阪市内のホテルで行われた「司馬遼太郎さんを送る会」では約3000人もの人が詰めかけたそうなので、その数からみると当然知人ばかりではなく、熱烈なファンが多数含まれていたことでしょう。
政府からは、「従三位」が追賜されたということで、自身が「官位」を得たということを、しばしば歴史上の権力者を痛烈に皮肉っていたりしていた司馬さんはどう思われたでしょうか。
翌年に司馬遼太郎記念財団が発足し、司馬遼太郎賞が創設され、2001年(平成13年)に、はご自宅のあった東大阪市に「司馬遼太郎記念館」が開館。
6万冊に及ぶご本人の蔵書、資料、執筆に使用した書斎が晩年に使用した時のまま残されているそうで、直筆原稿、自筆の絵、色紙、加えて、眼鏡、万年筆、バンダナなどの身の回り品も展示されています。書斎は庭からも見学することができるといい、この庭は司馬さんが好んだという雑木林をイメージしたものだそうです。
記念館の展示室は、建築家の安藤忠雄さんが設計されたそうで、蔵書のうち約2万冊、及び多数の自著が高さ11mの書架に納められているということなのですが、展示室の建物奥のコンクリートの天井には、司馬さんが若いころに書かれた作品「竜馬がゆく」の主人公、坂本龍馬の肖像写真に似た「シミ」が浮き出ているということで話題になっているとか。
あまり大阪に足を運ぶ機会もないのですが、行くことがあったら私もぜひこのシミとやらを見てみたいと思っています。もしかしたら何等かのスピリチュアル的な意味があるのかしらん。
ところで、司馬さんの作品のなかからNHK大河ドラマ原作となった作品も多く、三年がかりで放映された「坂の上の雲」を含めると司馬さんの原作作品は7作品もあるそうです。
時代別にみていくと、
「竜馬がゆく」1968年 主演:北大路欣也)
「国盗り物語」1973年 主演:平幹二朗)
「花神」1977年 中村梅之助)
「翔ぶが如く」1990年 主演:西田敏行)
「菜の花の沖」2000年 主演:竹中直人)
「功名が辻」2006年 仲間由紀恵)
「坂の上の雲」2009〜2011年 主演:本木雅弘、阿部寛、香川照之
ですが、惜しいかな私は、この最初の「竜馬がゆく」だけを見ていません。それもそのはず、この当時まだ小学生であり興味がわかなかったのは当然。
しかし、その後の国盗り物語からはすべての作品を見ており、とくにこの国盗り物語が放映されていたころまだ中学生だった私はこれに夢中になり、日曜日に放映されている正規版とは別にその翌週の土曜日の午後の再放送も欠かさず食い入るように見るほどのファンでした。
ちなみに亡くなった昭和天皇もこの作品の大ファンだったそうで、スタジオ収録の訪問を希望し、桶狭間出陣前夜のシーンを直接観覧しています。
高橋英樹、松坂慶子、林隆三などに「見てるよ、見てるよ」と親しく声をかけて歓談したということで、スタジオセットの木々を見て「よく育つね」「ここで馬も走らすの」と実に楽しそうであったという逸話が残っています。
昭和天皇は、後日原作者の司馬遼太郎にも会っており、「あそこはテレビと原作では違うの?」などと質問するなど、この作品への愛着は相当のものだったようです。
私が夢中になったこの作品は、司馬遼太郎の長編小説の中でもとくに構成に破綻がなく秀作であると評されることが多いそうで、1960年代から80年代にかけてテレビでの解説でも知られた経済学者の伊東光晴氏らが1994年に選んだ「近代日本の百冊」(講談社)の中にもこの作品が入っています。
ところで、この大河ドラマとしては一番最後に放映された「坂の上の雲」に関しては、司馬さんは生前これを映像化することを嫌がっていたという逸話があります。
連載中から「本作を映像化させてほしい」とのオファーがテレビ会社各社から殺到していたというほどの人気作品だったのですが、司馬さんとしては「戦争賛美と誤解される。しかも映像ではこの作品のスケールを描ききれない」といって、頑としてこの映像化を許可しなかったそうで、NHKもそのオファーを行っていた一社でした。
NHKからの申し出を受け、司馬さんは2週間考えたそうですが、その末の結論は「やっぱり無理やで」だったといい、以後、司馬さんが亡くなるまでは映像化されることはありませんでした。
ところがその死後、NHKは「総力を挙げて取り組みたい」との希望を、この作品の著作権を相続した福田みどり夫人に申し出ます。そして映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったことなどを熱意をもって夫人に話したところ、夫人側も折れ、1999年には司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾する形でOKがでます。
その後、2002年には志願したスタッフを中心に製作チームが結成され、2003年1月、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました
ところが、2004年6月にこの作品の脚本作成を担当していた野沢尚氏が突然死去。
自殺でした。
この人はテレビドラマの脚本で高い評価を受け、北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られており、1998年には第17回向田邦子賞受賞しています。
自殺の2か月前に放送されたテレビドラマ「砦なき者」では、自身の思いを表現したかったのか、登場人物によるテレビへの絶望が描かれているということで、自殺した際に知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されたということでした。
加えて、この作品の映像化を推進した海老沢勝二会長がこのころちょうど問題になっていたNHKの不祥事問題などを理由に辞任。と同時にこれが引き金となってNHKへの受信料不払いが相次いつぐなどの社会現象がおこります。
さらに野沢尚氏は脚本の初稿をほぼ書き上げていましたが、司馬さんをもってして「映像化は不可能」といわしめた難しい作品を仕上げるためには最新技術のCGなどの多用が予想され、制作費が高額となることが必至であったころから、NHKとしては当初のままの放映は難しいと考えるようになり、その制作体制が再検討されました。
その結果として、脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに再度見直して完成させ、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することに決定。
また、栄えある司馬作品ということで「冠」にする予定であった「スペシャル大河ドラマ」という呼称も改め、「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という名称変更されました。
2007年暮れに茨城県つくばみらい市でクランクイン。以後、日本各地のみならず日露戦争の舞台となった中国やロシア、アメリカ、イギリス等で3年にわたるロケが行われ、2010年に愛媛県今治沖にてクランクアップしました
司馬ファンの私としても当然この作品を見ましたが、通してみた感想としては、NHKが力を入れていたこともあり、かなり出来は良かったと思います。
しかし、「大河ドラマ」としての歴史性を重視しすぎたためか、歴史的な事実の説明がくどく、その割には私的にはかなり重要と考える歴史的事実がかなりカットされていたり、しかも司馬さんが描いていた数々の「面白エピソード」のほとんどは採用されていませんでした。
とくに秋山好古率いる日本陸軍騎馬隊が、世界最強といわれたロシアのコサック騎兵団を破る、という歴史的な事実の背景と現実がかなりの部分で割愛されていたのはまったくいただけません。
また女性の視聴者を意識した結果でしょうが、司馬作品ではあまり描かれなかった主人公たちの妻や姉妹、愛人といった女性の描写がやたらに多く、そうしたシーンは安っぽいドラマによくありがちな、妙に「鼻につく」かんじでした。
さらに、通年を通して放映すべきものを3年もかけて放映されたため、当初の興味を持ち続けるのが難しい、という人も多かったに違いなく、視聴率は初年度こそ平均17.5%とと比較的高かったものの、二年目は13.5%、三年目は11.5%と低迷しました。
脚本家の突然の死や、放映直前のNHKへの社会的な不信など、その制作にあたっては絶対に実写化させないと言っていた司馬さんの怨念?だったのかと思わせるような事件も相次いでおり、放映が終わったあとも、あの段階で果たしてそこまで無理して制作する必要があったのか、という疑問も改めてわいてきます。
私としては、こんな中途半端な仕上がりになるくらいだったなら、もう一度やり直して、通常の大河ドラマ枠で、一年を通して再度作品を練り直してもらいたい、と思うのですが、過去の大河ドラマの放映状況をみる限りは、同じ原作者の同じ作品を二回繰り返すことはしていません。
なので、これっきりか、と思うと原作が司馬さんの代表作だっただけに、返す返すも残念、という思いがあります。
とはいえ、三か年目・第三部のクライマックスの日本海海戦のシーンだけは秀逸で、何度みてもそのスケール感には圧倒されます。最近のCG技術はすごい!とうなるような出来であり、さすがにこうした描写は筆致力に富んだ司馬さんの文章をもってしても表現することはできません。
司馬作品でなくてもよいから、もういちどこうした日露戦争を題材にしたスケールの大きい大河ドラマにチャレンジし、こうした最新技術を使ってぜひもう一度あの感動を再度実写化してほしいものですが、NHKさん、どうなのでしょう?
さて、菜の花忌が終わった今日このごろ、伊豆のあちこちでも菜の花が咲き始めていることでしょう。西伊豆では菜の花ばかりを植えたお花畑もあるようですから、この週末、時間がとれれば行ってみたいと思います。
菜の花の「沖」にはきっと青い駿河湾が見えていることでしょう。できればその背後に雄々とそびえる富士山が写った写真なども撮ってみたいものです。そんな場所もみつけたらまたこのブログでも紹介しましょう。
みなさんはもう菜の花を見ましたか?