ここのところ、ハリケーン・サンディの調査がらみでニューヨーク付近のアメリカ東海岸の地図をみる機会が多くなっています。
このあたりの地形は非常に複雑で、ニューヨークあたりを中心として北へ南へと非常に入り組んだ海岸線が広がり、ただぱっと見た目にはどこがニューヨークで、どこがフィラデルフィアなのかさっぱりわかりません。
このあたり、外国人が日本の地図をみてもどこが東京でどこが横浜なのか良くわからないという人が多いのと同じです。我々には見慣れた地形でも外国人からみれば非常に入り組んだ島々の集合体にしかみえず、我々もアメリカ東海岸の地図をみてもどこがどこだかピンときません。
が、最近ようやく目が慣れてきて、ニューヨークの中心にはハドソン川という川が流れていてその西側にニュージャージー州が南北に広がり、このニュージャージ州の西端にはデラウェア川が流れていて、そのさらに西側にペンシルバニア州が続く……という位置関係が理解できるようになりました。
このデラウェア川の河口付近の右岸側(西側)にはデラウェア州もあるのですが、実はこの場所に私はちょっとしたご縁があります。
もう既に30年近い昔の話になりますが、そのころ、アメリカへの留学をするにあたって、アメリカ本土にあるいくつかの大学に願書を提出しており、その中には西海岸のワシントン大学や南部のテキサス工科大学なども含まれていました。
結局のところ、これらの大学は英語力不足だということで入学が却下されてしまったのですが、このとき入学前にもう少し英語を勉強してスキルアップするならば、という条件付きで入学許可を得たのが、ハワイ大学とデラウェア大学でした。
いずれも海洋工学では有名な大学だったため、どちらに進学するか悩みましたが、結局、ハワイ→きれいな海→海べの散策→きれいなハワイアン→ラブロマンス……という妄想に負けてしまい、せっかくのデラウェア大学からのお申し出はお断りすることになりました。
今でも時々思うのですが、もしこのときハワイ大学を選ばず、デラウェアに行っていたらその後の人生はどう変わっていたことでしょう。ハワイと違ってあまり日本人も多くない土地のことですから、もしかしたら今以上に英語に慣れ親しみ、もしかしたら本当に今頃はアメリカ人とでも結婚していたのでは……などと妄想の暴走は続いていきます……
デラウェア川
ということで、結局デラウェアにはご縁がなかったのですが、今こうして仕事でこの地域のことを調べていると、ついついこの当時のことを思い出し、デラウェアっていったいどんなところだったのだろう、と思い返すのです。
州の名の由来にもなっている、このデラウェア川ですが、オランダ人によるニューネーデルラント植民地の一部として17世紀初めにエイドリアン・ブロックという人物によって探検され、植民地の最南端ということでオランダ語で、当初は「南の川」という意味の「ズイド川」と名付けられたそうです。
大西洋に注ぐ先は、デラウェア湾であり、ここから200kmほど遡った街が、人口150万人で全米第5位の大都市フィラデルフィアです。ここから、最上流までの河川長は、400マイル以上あるということで、キロ換算すると600km以上にもなり、これはだいたい青森から中国地方あたりまでの長さと等しい距離になります。
前述のとおり、デラウェア川は、ペンシルベニア州とニュージャージー州の間にあり、さらにニューヨーク州とデラウェア州との州界にもなっていますが、このあたりの位置関係はやはり地図をみないとわかりにくいかもしれませんね。後学のために一度ご覧になってみてください。
このデラウェア川ですが、過去には雪解けや暴風雨の雨水によって何度も洪水を起こしてきた川で、記録にある中で最大のものは1955年におこっていて、これは1週間も経たない間に2つのハリケーンがこの地域を通過したことによるものでした。
ふたつのハリケーンともアメリカ合衆国北東部を襲ったハリケーンの中でも最も湿り気を帯びたものであったため、デラウェア川流域に激しい豪雨をもたらし、このときペンシルベニア州リーゲルスビルという場所で計測された河川水位の上昇量はなんと、12mにも達したということです。
デラウェア川はその下流付近でデラウェア盆地とよばれる低地を通っており、このデラウェア盆地の中央部は大きな溢水を何度も経験し、洪水は家や土地に大きな被害を与えてきました。加えてデラウェア盆地の南部、フィラデルフィアからデラウェア湾に至る地域は海に近くて標高が低いため、潮汐の影響も大きく受けてきたという土地柄です。
地元では「デラウェア川流域委員会」という有識者会議が持たれ、地方政府とともに川の洪水問題の解決策を見いだそうと努めているようですが、温暖化のためかここ数年間に大きな洪水が連続しており、流域の住人は非常に危機感を感じているということです。
デラウェアに限らず、2001年のハリケーンカトリーナで水没したニューオリンズの例も含めて最近アメリカ東部では何かと水害が多くなっていますが、アメリカも日本と同様、不景気下にあるため連邦予算も限られて、その対策が遅れているというのが現状のようです。
デラウェア川渡河
ところで、このデラウェア川はニュージャージー州とペンシルベニア州の境界に位置するため、このふたつの州の行き来をするためには現在も大きな障害となっています。大きな橋もいくつかあるようですが、その維持のためにお金もかかるため、その大半は有料となっているそうです。
フィラデルフィアから50キロほどさらに上流にトレントンという街がありますが、ここを通るリンカーンハイウェイもまたこのデラウェアを渡河する部分が有料になっています。
このリンカーンハイウェイは、アメリカでの道路開発でも最も初期の1910年代ころに造られた道路で、デラウェア川をまたいで東西を結ぶかなり重要な道路のようですが、これよりさらに十数キロ上流に行ったところに「ワシントン・クロッシング・ヒストリックパーク」という公園があります。
名前からしてわかるように、アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンがアメリカ独立戦争のときにこの付近を渡ったことにちなんで造成された公園で、この独立戦争においては「デラウェア川渡河」と呼ばれて最も重要なミッションのひとつであったと位置づけられています。
「トレントンの戦い」というのが、このすぐ近くのデラウェア川東側のトレントンの街で1776年12月26日に勃発しています。
その前日のクリスマスの夜にジョージ・ワシントンが独立軍を引き連れてこの川をボートで一か八かの渡河しており、この結果、ワシントンらの独立軍は街を占領していたドイツ人傭兵部隊で構成されるイギリス軍を撃破するのに成功しました。
トレントンでの戦闘そのものは短時間で終わり、独立軍はほとんど損失を受けず、また攻撃された側のドイツ人傭兵部隊のほぼ全軍が「捕獲」されただけで、それほど多くの血が流れたわけでもないのですが、この戦闘はその後この独立戦争の趨勢を大きく変える重要な役割を果たすようになります。
この戦闘の結果、萎縮していた独立軍の士気があがり、アメリカを植民地化していたイギリスに戦いを挑む合衆国兵士の勢いが大いに増したためです。
この戦闘の前まで、独立軍の士気は極めて低かったといいます。
東海岸の各地での宗主国イギリスとの戦闘では、あちこちで敗れ、独立軍はイギリス軍とドイツ人傭兵部隊の連合軍隊によってコテンパンに叩きのめされてニューヨークから追い出され、ニュージャージーからデラウェア川を越え、さらに西のペンシルバニアまで撤退を余儀なくされていました。
東海岸での緒戦闘の中でも最大級といわれたニューヨークの「ロングアイランドの戦い」では、独立軍が敗れたときその兵士のおよそ9割が軍を見捨てたといいます。
このとき独立軍は、イギリス軍に対してかなり善戦をしていたのですが、戦闘終盤でジョージ・ワシントン他の指導者たちが弱腰になり、撤退すると言いだしたため、独立の大義が失われたと感じた多くの者が脱走したためだったのではないかといわれています。
ワシントン自身はそのころバージニアに住んでいた従兄弟に宛てて、「獲物は直ぐ近くにいると思う」というような内容の手紙を書き送っており、やる気満々だったようです。
しかし、ロングアイランドで敗れ、その後も独立軍の中枢であったワシントン砦も失い、ニューヨーク湾の支配権を完全にイギリス軍に譲り渡すようになるまで戦況が悪化すると、さすがに強気のワシントンも支えきれなくなり、その軍隊はニュージャージーを越えてペンシルベニアまで撤退することになったのです。
この撤退では、独立軍は緒戦で破れたとはいうものの多くの兵力を温存しており、まだまだ戦えるはずだったのですが、本拠とするニューヨークで敗れ、しかも敵前から逃げ出したという事実は兵士たちの士気を大いに下げました。
もともとは一地方政治家にすぎなかったワシントンの戦争当事者としての能力の欠陥と、とはいえ政治の面では優れた才能を持つ彼の特質を見抜くことのできなかった配下の将軍達が原因だったといわれています。
が、ニューヨークでの最初の戦闘などでは、敵による一発の銃声で多くの兵士が秩序を乱して逃げ出したともいわれており、こうした鍛えられていない兵士達を集めた独立軍は、洗練された軍隊とはいえない有象無象の集合体であったこともニューヨークでの敗北の原因だったようです。
こうしてニューヨークで幾度も敗北を味わい、ペンシルベニアまでの撤退を余儀なくされていた独立軍は、大きく兵力を減らした上、軍隊の士気は著しく低く、総司令官のワシントンはこの状況を変えるためには年が暮れるまでに何等かの積極的な行動をする必要性を感じていました。
そして思いついたのが、敵が油断しているであろうクリスマスの夜にデラウェア川を渡り、ドイツ人傭兵部隊で組織されたイギリス軍を包囲する作戦でした。
この当時、ニュージャージー西部のほんの小さな町だったトレントンは、ヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊1400名、3個連隊が守っていました。ワシントン軍は6000名以上の兵士を擁して多勢でしたが、前述のように士気は大幅に下がっていました。
また時期は真冬であったため、川は氷のような冷たさであり、渡河は危険なものと考えられたため、実施にあたっては軍を3つ分け行うことにし、ワシントン自らはこのうちのひとつの部隊を率いることにしました。
こうしてデラウェア川の向こうに撤退していたジョージ・ワシントン将軍の率いる独立軍は、トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊にその主力をぶつける時がきました。
前述のように軍は分割されたため、ワシントンには2400名の兵士しかいませんでしたが、ワシントン直属の部隊ということで他の部隊よりは比較的士気も高く、また付き従っていたナサニエル・グリーン少将、ヘンリー・ノックス准将およびジョン・サリバン少将などのワシントンの取り巻きは優秀でした。
とくにグリーン少将は、この戦争中最も才能ある、また頼りになる士官という評判を得ており、その後完成されたアメリカ合衆国という国のあちこにちこの「グリーン」の名にちなんだ地名がつけられているほどです。
また、ヘンリー・ノックス准将はのちに初代アメリカ合衆国陸軍長官を務めており、ジョン・サリバン少将もまたその後、ニューハンプシャー州の知事を務めることのできるほどの逸材でした。
さらにワシントンの配下にはこのときはまだ若く中尉にすぎませんでしたが、ジェームズ・モンローがおり、この人はのちに第五代のアメリカ大統領になっています。
ワシントンとその軍隊が出発する前、こうした取巻きの将軍のうちの一人が、ワシントンの部屋にやってきて彼を景気づけようとしたそうです。
が、そのときワシントンは部屋におらず、彼は机の上にワシントンが書いたメモを見つけました。そこには「勝利もしくは死」と書かれていたそうで、これはその後のトレントンの戦いのとき、急襲の際の合い言葉として使われたということです。
こうして、部隊は駐留地を出発、一路デラウェア川に向かいました。
ところが、トレントン攻撃に向かった部隊のうち2つは渡河地点の悪条件が重なって河を渡ることができず、結局渡河に成功しトレントンを攻撃できたのはこのワシントン率いる部隊だけでした。
とはいえ、ワシントンの軍隊の先行きも暗そうでした。デラウェア川岸に到着したとき、頭上では雲が集まり始め、にわかに雨も降ってきました。やがてそれは霰(あられ)に変わり、最後には雪になりました。しかし、そんな状況下でもワシントンの部隊はヘンリー・ノックス准将の全体指揮で川を渡り始めました。
たった60発の弾薬と3日分の食料だけを持った兵士達はボートに乗り、馬や大砲は大きな渡し船に乗せて渡しました。真冬のデラウェア川の水温は低く、また冬場の降雨降雪によって流量が増しており、予想されたとおり、この渡河は危険に満ちたものとなり、兵士の何人かが船から落ちました。
しかし、すぐに水中から引き上げられたため、渡河中の死者は出ず、なんとか大砲などの銃器もすべて良好な状態で渡すことができました。
「デラウェア川を渡るワシントン」
この時代、まだ写真などは発明されておらず、この渡河の様子が具体的にはどんなふうな状態だったのかについては詳細に知ることはできません。
ところが、この渡河の様子をのちに絵画にした人物がいました。ドイツ系アメリカ人で、画家の「エマヌエル・ロイツェ」という人で、彼が描いた絵画は、のちに「デラウェア川を渡るワシントン」として全米に知られるようになり、現在ではアメリカの独立を象徴する絵として全米で知らない人はいないといわれるほど有名な絵になりました。
ドイツ生まれのエマヌエル・ロイツェ(1816年–1868年)はアメリカで成長し、大人になってからドイツに戻った人物ですが、1848年ころ、アメリカの独立を題材にしてヨーロッパでの民主主義革命運動家を勇気付けることを思い立ち、1850年にこの絵の最初のバージョンを完成させました。
ところが、これが完成した直後にアトリエが火災にあったため、絵は損傷し、その後修復されて、ドイツのクンスターレ・ブレーメン美術館に買い上げられました。しかし、第二次世界大戦中の1942年、イギリス空軍による空襲でこの絵はあっけなく焼失してしまいます。
この植民地アメリカの独立戦争での勝利を象徴する絵画が、かつての宗主国、イギリスの空襲によって失われたことを揶揄し、このころイギリスでは、この攻撃はアメリカ独立に対するイギリスの最後の復讐だったというジョークが広がったということです。
しかし、ロイツェは最初の作品のスケッチを残しており、これをもとに最初の作品の原寸大の写しである2作目を1850年ころから制作しはじめ、こうして完成されたものが1851年にニューヨークで展示されました。
このとき、5万人以上のアメリカ人がこの観賞に訪れたといい、その後この絵は資産家によって当時としては破格値の1万ドルで購入されました。さらにそののち、所有者は何度か変わりましたが、最終的には1897年にニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈され、同美術館の永久収蔵品となり、今日でもそこで展示されています。
以来、アメリカでは一番人気のある絵画のひとつとなり、多くの模写品がつくられ、そのうちの一つはホワイトハウスのウエストウイングの受付場所にも飾られているそうです。
メトロポリタン美術館にある本物のほうですが、その後もご難が絶えず、2003年1月には元メトロポリタン美術館の守衛だった男がこの絵にアメリカ同時多発テロ事件の写真を貼り付けるという事件がおこりました。
何を考えてのことだったのかよくわかりませんが、このとき絵の表面が若干損なわれただけで、幸い恒久的な傷にはならなかったということです。
この絵がアメリカで人気があるのは、人種のるつぼといわれる現在のアメリカを象徴するかのように、この絵に描かれている船に乗る人々が様々な様体をしているためでしょう。
スコットランド風帽子を被った男がいるかと思えば、舳先のうしろのほうには黒人らしい人物が乗船しているのが見て取れ、船尾にはライフル銃を持った射手、その右側でミンク帽を被ってオールを握る人物はインディアンか農夫のように見えます。
射手の右手にいる人物はよくみると頭に包帯を巻いていて、これは戦闘でけがをしたためでしょうか。このほか男性のようではありますが女性のようにも見える赤いシャツを着た漕ぎ手などが描かれており、船の中央に座っている人物だけがどうやら正規の兵士のようです。
無論、舳先の少し後ろに立って前方を睨んでいるのがワシントンですが、その後ろに立って旗を持っているのが、のちの大統領のジェームズ・モンローです。
この絵は、「デラウェア川の渡河」という歴史的な出来事を正確に描くために制作されたというよりも、アメリカの独立という出来事を象徴的に描こうとした作品だといわれており、このためかなり誇張した表現が多く、歴史考証上も間違いだらけだということです。
まず、この時の川水は氷のようであり、渡河自体が危険極まりないものであるのにワシントン達が立っていられるはずもなく、またモンローが持っている旗は戦いの6ヶ月後に作られたものだそうです。さらに渡河は夜明け前の暗がりの中に行われたようですが、この絵はまるで昼間または夕方のように見えます。
にも関わらずこの絵が合衆国の歴史の象徴になってきた理由はやはり、このデラウェア川の渡河という出来事が、その後アメリカ合衆国という国が誕生していくきっかけになったという見方をアメリカ人のおおかたの人がしているためでしょう。
生粋のアメリカ人が描いたというわけでもなく、というよりも生粋のアメリカ人なんてものはそもそもいない、ということを象徴するような絵でもあるわけで、我々日本人にとっては少々不可解な「祭りあげ」かたであり、少々納得できない部分が残るのは仕方のないところでしょう。
トレントンの戦い
さて、こうして無事に川を渡ったワシントンの部隊は、渡河地点から9マイル、約14 km下流にあるトレントンまで行軍していきました。ドイツ人傭兵部隊は冷たい水が流れるデラウェア川を独立軍が渡ってくるはずもないと考えていたため、その守りを緩め、夜明けの歩哨すら置いていなかったそうです。
さらにこの日はクリスマスの翌日でもあったため、前夜の大騒ぎの後で眠りに就いたままの兵士も多く、ワシントン達はこれらの油断しているドイツ人傭兵部隊にやすやすと迫り、本格的な抵抗がなされる前に彼らを捕捉しました。
1500名ほどいた傭兵部隊のほぼ3分の2が捕まり、残りはニューヨークに向かって逃げ出していきました。戦闘そのものも小規模に終わり、ドイツ人傭兵部隊は戦死22名、重傷83名にとどまりました。896名が捕虜になったそうです。対するワシントンの部隊では戦死が2名だけであり、負傷も5名でした。
しかし、冬場の戦いであったため、戦いの数日後に疲労、低体温および病気で死んだ者がかなりいたといい、これらを含めると全体としては独立軍の総損失の方が多かったかもしれないと言われています。
ただ、イギリス軍の司令官、ヨハン・ラールは致命傷を負い、その日遅くに自分の策戦本部で亡くなったそうで、この戦闘に参加したドイツ人の大佐4人全員が戦死するなど、イギリス軍(ドイツ傭兵部隊)の指導者たちだけは果敢に戦って果てたことがわかります。
ワシントンらは、彼らに勝利しただけでなく、大砲や大量の物資の捕獲にも成功し、敵から奪った約1000挺の武器と弾薬は、武器の欠乏に悩んでいた独立軍のその後の戦闘に大いに役立ちました。
この戦闘の規模は小さなものでしたが、負け続けていた独立軍がイギリス軍をようやく破ったという噂はその日中に植民地中に広がり、この戦争の行方に大きな影響を与えていきました。
この日の正午までにワシントンの部隊は捕虜と奪った武器や物資を携えてデラウェア川を再度渡り、いったんペンシルベニアに戻って体制を整えることにしました。
この戦いは、それまでは有象無象の集合体と思われていた独立軍が、よく訓練されたイギリスの正規軍を破ることができたという点において、独立軍全体に新たな自信をもたらしたものでもありました。
この戦闘のほんの1週間ほど前までは、士気の低下によって革命そのものが疑われ、軍隊は崩壊の瀬戸際にあるように見えたものでしたが、この戦いでの勝利により、独立軍に所属していた兵士達は軍隊に留まることに合意し、さらには新たな志願兵も増え、独立軍の勢いは日増しに強くなっていったのです。
独立戦争の終焉
そして、翌年の1776年7月4日、ジョージ・ワシントン率いる独立軍はついに「アメリカ独立宣言」を行い、「アメリカ合衆国」が誕生します。
しかし、宗主国イギリスはこれを認めず、彼らが「植民地」とする合衆国と戦闘をその後も続けていきます。しかし、独立したアメリカ合衆国はその後、世界各地で植民地の利権をめぐってイギリスと敵対していたフランス、スペインと相次いで同盟を結び、両国はその後アメリカ本土に自国の軍隊を送り込んでこの戦争に参戦し始めます。
また、自らは中立の立場をとっていたオランダの植民地にイギリスが攻撃を加えたことから、この戦争は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダを巻き込んだ国際戦争になっていきました。
戦闘はその後も5年間も続きましたが、1781年にフランス海軍がチェサピーク湾(デラウェア湾の西方に位置する湾。ワシントンD.C.のすぐ東側に位置する)の海戦でイギリス艦隊を打ち破りました。
これを受け、ワシントンはそれまでイギリス軍が根拠地としていたニューヨークへの攻撃を一旦停止し、急遽自軍とフランス軍を南部に移動させ17000名の大部隊で、イギリス軍の大部隊のいるバージニア南東部まで南下。ここにあるヨークタウン(現ヨークタウン郡)を包囲して、イギリス軍を攻めたてます。
イギリス軍は善戦しましたが、1781年10月、ついに約7000名の軍隊全員が降伏しました。
そして、チェサピーク海戦での敗戦とヨークタウン降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は急速に議会への支配力を失うようになります。議会の提案する休戦の方向に進み始めることとなり、この後アメリカ本土でのは陸上での大きな戦闘が無くなりました。
この時点でイギリス軍はまだニューヨークなどに合わせてまだ3万名もの戦力を保有しており、独立軍(合衆国)の艦船さえ退けることができれば、イギリス本土から更に増援を送ることも可能でした。
しかし、ロンドンではヨークタウンでの敗戦以降、戦争を維持しようとうする一派の力が急速にすぼまり、好戦派の首相フレデリック・ノースが1782年3月に辞任。
翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通し、1782年11月に休戦の予備協定がパリで結ばれます。ついには、1784年1月14日にパリ条約が批准され、1775年以降、あしかけ9年にも及んだアメリカ独立戦争はここに終結しました。
実際の戦闘は、これに先立ちパリ条約が提言された1783年9月3日から約二か月後の11月25日に終結しており、このとき最後までニューヨークに残っていたイギリス軍のすべてが撤退しました。
推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25000名とされており、このうち8000名が戦死で、残りの17000名が戦病死でした。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8500名から25000名と推計されており、トータルではアメリカ側の人的損傷は50000名にものぼったことになります。
イギリス側では、この戦争に約171000名が従軍しましたが、戦死者は約1240名であり、病死が18500でした。戦死者の数が圧倒的にイギリス側で少なかったのは、約42000名もの兵士が脱走したからだともいわれています。
また、イギリスに雇われたドイツ人傭兵のうち、およそ1200名が戦死し、6354名は病死しました。ドイツ人傭兵の残り16000名は本国のドイツに戻りましたが、約5500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となりました。
現在もアメリカ各地で多くドイツ系移民がアメリカ人として暮らしているのは、その多くがこのときの残留者の子孫であるといわれています。
エピローグ
デラウェアの渡河やトレントンの戦いは、この長い戦争のごく初期に起こった小さな戦闘でしたが、その後アメリカがイギリスから広大な大地を勝ち取ったことを考えると、アメリカ史上、最も重要な出来事であったと評価する向きも多いようです。
ロイチェの「デラウェア川を渡るワシントン」がそれほどまでにアメリカ人に愛されるのは、この出来事がアメリカ合衆国誕生に重大な役割を果たしたと多くのアメリカ人が考えているためです。
振り返って日本のことを考えると、こうした日本の歴史の象徴ともいえるような美術品は何かな~と思うのですが、逆にあまりにもたくさんありすぎて、思いつきません。
ロイチェの絵に匹敵するのは、国宝の風神雷神図のようなものかもしれませんが、奈良や鎌倉の大仏とか法隆寺などに保存されている仏像の数々などのほうがより日本人の魂に直結しているようにも思います。
が、いずれにせよ、こうした戦争に由来するような美術品を象徴とするような向きは日本ではあまりないのではないでしょうか。
たかが絵画、しかもドイツ移民のアメリカ人が描いた絵が珍重されるアメリカは文化度が低い、などというつもりはことさらありません。がしかし、日本と比べた場合、やはりその歴史の浅さを感じざるを得ません。
……とそんなアメリカで勉強させてもらい、いわば現在の自分を育ててくれたアメリカの悪口を言うのはやめましょう。アメリカという国は、なんというかやはり懐が深いところがあり、そのためにあれほど多くの人種が集まるのだと思います。そんなアメリカの精神に私は今も大変感謝しています。
考えて見れば、これまでは、それほどお世話になったアメリカの歴史を真剣に調べたことはありません。他国を知るということは、歴史が浅いとか云々言う前にやはり実際にどんな出来事がそこであったのかを正確に勉強することでしょう。
この次、渡米できるのがいつの日になるかわかりませんが、それまでにアメリカの歴史についてはアメリカ人以上に詳しくなっていて、逆にアメリカ人にそれを教えてあげる、そんな将来の自分を見つめるのもまた楽しくなります。
みなさんはいかがですか?アメリカについて何を知っていますか?