超多忙で、ブログをアップする時間もなく一週間ほど過ぎていってしまいました。いつもご覧いただいている方は、どうしてしまったんだろう、フグ毒にでもあたってついに行ったか、と多少なりともご心配いただいたのではないか、と勝手に思ったりもしていますが……そんなこともないか……
この忙しさは先日アップした通り、急に舞い込んだハリケーン・サンディにまつわる仕事のためなのですが、先日もそのブログを書いたあと、その打ち合わせのために都内へ出ました。
が、夕方からの会合だったため、急ぐ必要もないさということで、東名高速は使わず、国道1号を通って久々に箱根峠越えをしました。
ところが、箱根へ上ろうとするその手前の三島東部で何やら事故があったらしく、国道の一部区間が閉鎖されており、その迂回に時間がかかり、行程が一時間あまり遅れました。
この日は午後から都内も雪模様という天気予報だったのは知っていたのですが、この大幅な遅れのためか雪雲につかまったらしく、この渋滞を抜けて箱根峠にさしかかる前から早くも吹雪模様になり、箱根峠に達するころには外は真っ白の銀世界!
自宅を出発するときには雪なんて……と思っていたものが、思いがけない冬景色との遭遇で、伊豆ではあまりお目にかかることのできないシーンに出くわして、これはこれで少しうれしくなったりもしました。
すべてのことには意味がある……とすれば、三島での渋滞で足止めを食ったのは、この雪景色をみることができるようにするためだったのかもしれない、とあとで思ったものです。
都内での打ち合わせは、それほど時間もかからずすぐに終わったのですが、その後もこの仕事をまとめるために、ずっとこのハリケーンに対する資料をネットで探しては読んでいます。
しかしやはりなんといっても記事が多いのはニューヨークで、それもそのはず、この界隈だけで100人以上の人が亡くなっているわけですから無理もありません。おそらく昨年アメリカでおこった色々の事件のなかでもオバマ大統領の再選以外では最大級の話題ではなかったでしょうか。
さて、このニューヨークですが、実は私は一度も行ったことがありません。
アメリカにはハワイ時代も含めて通算4年以上も住んでいたことがあり、アメリカ本土へも4~5回ほども渡ったことがあり、ワシントンD.C.やシカゴ、ボストン、アトランタ、マイアミといった主要な東部の町にはほとんど行っているのにニューヨークだけは未踏破というのは何か不思議な気がします。
そもそも私が訪れる町は海か川があって、仕事がらみのことがあるためそうした町を訪れるわけですが、ニューヨークというと摩天楼と人種のるつぼということで、人と建物ばかりであまり水辺の印象はありません。魚座である私とは所詮縁がない土地ということなのでしょう。
しかし、昨年10月にニューヨークを襲ったハリケーン・サンディでは高潮により大きな被害が出たというのは先日書いたブログの通りです。
こんなにも水災害に弱い街だったのかな、と報告書を書く関係から必要性もあり、この町の地勢などについてもいろいろ調べているのですが、それらを読むとこの町の歴史もなかなか奥深くて面白そうです。ここで少しそのことを書いてみましょう。
ニューヨーク市は、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州の南東部に位置し、南にあるワシントンD.C.と北側のボストンのおよそ中間にある街です。
町の中心には、2009年にUSエアウェイズの旅客機の不時着で有名になったハドソン川があり、ニューヨークはこの河口に造られた町です。
ハドソン川の流はその河口に天然の港を形成し、その先には大西洋が広がっているため、船の出入りが容易で、また港に陸揚げした交易品をハドソン川を通じて内陸に運ぶためにも便利な土地であり、このため交易都市としてのニューヨークの発展に大いに貢献してきました。
ニューヨークの大部分は、マンハッタン、スタテンアイランド、ロングアイランドという三つの島によって構成されていますが、これらはハドソン川の流れによって河口に堆積した砂州によって造られた島々です。
ただ、いずれも陸地面積が狭く、長年の発展で多くの人がここに居住するようになったため、現在では世界でも1~2をあらそうほどの人口密度となっています。
現在のニューヨークは、これらの三つの島の周辺をさらに埋めたてて作られており、この大規模な埋め立て事業を最初に行ったのは、自国も海に面していて古くから埋め立てによって国土を広げてきたオランダ人です。
現在のニューヨークを切り開いたのはこのオランダ人といってもよく、彼らは最初、ハドソン川の岸に沿って大規模な埋立てを行い、ここに植民地の建設を始めました。
その後の開発で埋立てが最も進んだのはマンハッタン島の南側端部にあるロウアー・マンハッタンです。ここにあるウォール・ストリートは誰でも知っている世界の金融の中心であり、世界最大の証券取引所であるニューヨーク証券取引所もここにあります。
ニューヨーク市役所は、この金融街の北に位置し、島の南端には、バッテリー・パークと呼ばれる1970~80年代に埋め立てによって造られた比較的新しい街があり、のちに9.11のテロ事件で崩壊するワールド・トレード・センターもここに隣接していました。
ロウアー・マンハッタンは、オランダ人がマンハッタン島で、最初に居住地とした場所です。オランダ人たちは入植のため、現在のバッテリー・パークがある場所に1614年ごろから「ニュー・ネーデルランド」という町を造り、原住民であるインディアンたちから身を守るためにここに砦を築き、これを中心に街づくりを進めていきました。
かつては世界中の金融の中心であったワールド・トレード・センターの跡地には、現在は新しいワールド・トレード・センターが建設されており、テロ事件があったために今ニューヨークでも最も有名な観光地です。現在も9/11記念碑を見るだけのために観光客が年間600万人も訪れるといいます。
将来的に出来上がる新しいトレードセンターは、「1 ワールドトレードセンター」という名称になるそうで、これを含む新しいオフィス・タワーも建設されていて、これらの完成によりこの地域は、マンハッタン・ミッドタウン、シカゴ・ループに次ぎ、アメリカで3番目の大きな商業地区となると予想されています。
マンハッタンが現在のようになる前は、丘の多い地形だったそうですが、その後のオランダ人の入植によって平坦にならされ現在のような平地が広がる街になりました。このあたり、もともと水面下にあり、これを埋め立ててできた東京とは対極的です。
かつての丘があったその下には非常にしっかりとした岩盤が地下にあるため、超高層ビルの建設に適した地形であり、この辺も下がズブズブの底なし沼のような東京とは違うところです。
このマンハッタンを中心とするニューヨーク市の総面積は水域を除いた陸地部分の総面積は約28km四方(789平方キロ)とうことで、622平方キロの東京23区よりもやや大きい街ということになります。
市域の一部であるステンアイランドには標高124.9mのトッド・ヒルという小高い山(丘?)があり、その頂上付近はスタテンアイランド緑地帯の一部をなし、ほとんど森林に覆われており、このほかにも随所に緑があるということですから、まとまった大きな緑地のない東京都内とはこの辺もまた少し違います。
ニューヨーク市の気候は「温暖湿潤気候」と呼ばれるものだそうで、晴れ又は一時曇りの一般的には「晴れ」とされる日は年平均234日もあり、比較的湿潤な亜熱帯気候に含まれる都市です。このため夏はかなり高温・湿潤で、平均最高気温は26~29℃もあり、32℃を超える日も年平均19日程度あるようです。
一方では冬は寒く、最も冷え込む1月の平均気温は約0℃であり、零下になる日も年平均75日もあります。マイナス15℃ (5°F)日も例年平均1日あります。
年平均降水量は118cmで、1800mmも以上も降る東京に比べれば格段に少ない一方で、冬場の雪は多く、年平均積雪量は71cmもあり、年によってはノーイースターと呼ばれる爆弾低気圧によって数日で積雪50㎝を超えるような大雪となることもあります。
さて、そんなニューヨークの歴史をもう少し詳しくみてみましょう。
1524年(大永4年)といいますから、日本では北条早雲を始祖とする後北条氏によって関東地方の統一が始まるころで、戦国時代の夜明けといった時代のころのことです。
フランス国王の命を受けたイタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノという人物が、今のニューヨークに達し、ここをヌーヴェル・アングレームと呼びました。ヌーヴェルというのは新しいという意味のようですから、そのころにイタリアにあったアングレームという街にこの地をなぞらえたのでしょう。
この当時、ここには、約5000人の原住民のインディアンが住んでいたそうですが、こののち、この地は前述したとおりオランダ人の入植地になり、1614年にマンハッタンの南端に毛皮貿易のために小さな街が作られました。
これが後に「ニューアムステルダム」と呼ばれるようになりましたが、この地はこれに先立つ5年ほど前の1609年、オランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが発見した土地で、現在のハドソン川をさかのぼった流域一帯がこれになります。ちなみに、ハドソン川の名はこのヘンリー・ハドソンの名にちなむものです。
このハドソン川沿いに横たわる細長い砂州があり、これをオランダ植民地の総裁ピーター・ミヌイットは、1626年、原住民であるレナペ族からわずか60ギルダー(2006年現在の換算で1000ドル程度)分の物品と交換して手に入れたといわれているのが「マンハッタン島」です。
この話がほんとうかどうかを疑問視する歴史学者も多いようですが、その代価は24ドル相当のガラスのビーズであったという伝説もあるようで、いずれにせよ、物の価値にうといインディアンから二束三文で手に入れたことには間違いがなさそうです。
インディアンには「土地を売る」という文化がそもそもなかったといい、この取引を彼らが理解していたかどうかさえも疑わしいそうなのですが、これを皮切りにオランダ人たちは次から次へとその領土を拡大していきます。
しかしようやく自分たちの土地が横取りされている「らしい」と気が付いた原住民のレナペ族や周辺部族は、次第にオランダ人たちヨーロッパの入植者たちと敵対するようになっていきます。
しかし、近代兵器を手にした入植者たちの前に弓矢が主力の武器であるインディアンがかなうわけもなく、半世紀もたたないうちに、アメリカの東海岸の多くの土地からはインディアンが締め出され、この地はヨーロッパ人たちのコロニーだらけになります。
そして1664年、日本では江戸中期で5代将軍綱吉の統治の時代、ついにこの町の統治権をイギリス人が握り、イングランド王ジェームズ2世の本名、「ヨーク・アルバニー公」の名を取ってここを「ニューヨーク」と名付けました。
かつてこの地を席巻したオランダ人はというと、第二次英蘭戦争の末に敗れ、イギリスによるニューアムステルダム(ニューヨーク)の支配を認めざるを得なくなりましたが、その代わりに、インドネシアのバンダ諸島のラン島という島の支配を得ました。
オランダ人はこうしてニューヨークから体よく追い出されたわけですが、このラン島という場所はこの当時は香辛料貿易の中心地であり、毛皮貿易が中心だったニューヨークよりもかなり価値のある土地と考えられていたので、彼らなりの計算はあったわけです。
しかしその代りにオランダ人たちはアメリカ北米大陸という広大な土地の利権をこの時点で失ってしまうことになりました。
その後、ニューヨークは、イギリス帝国の支配の下、貿易港としての重要性を増していき、1735年にはジョン・ピーター・ゼンガー事件(イギリス支配下のNYで印刷業をしていたドイツ系アメリカ人が、植民地総督を批判する新聞を発行して逮捕・訴追されたが、陪審では無罪評決を受けた事件)を境に、アメリカでは新聞報道などによる自由の確立に向けた動きが活発化し、現在の「自由の国」アメリカの形が次第に形成されていきました。
文化的にも1754年、イギリスの国王ジョージ2世の勅許によって、ロウアー・マンハッタンに王立大学としてコロンビア大学が設立されるなど、その後の大国家を支える俊英を育てる教育機関も充実されていきましたが、一方では、1765年には「印紙法」が議会で議決されました。
これは、イギリスがアメリカ植民地に対して課した印紙税を定めた法であり、新聞・パンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる証書、許可証、トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付けるものでした。
オーストリア、ロシア、フランスなどとの七年戦争などをへて財政難に陥っていたイギリスは、アメリカという新しい植民地への課税によってこれを乗り切ろうとしたのでしたが、これがニューヨークを中心とする植民地人の反発をまねき、その流れはやがてアメリカ独立戦争へとつながっていきました。
この戦争はアメリカ東海岸の各所に飛び火していき、とくにニューヨークでは、このアメリカ独立戦争の間、大きな戦闘が繰り返し行われました。とくに1776年にアッパー・マンハッタンでは大規模な戦闘が行われ、これは後年「ワシントン砦の戦い」と呼ばれるようになりました。
この戦いでは結局独立運動をしていたアメリカ軍が大敗し、このためニューヨークの市街はイギリス軍の北アメリカにおける軍事的・政治的拠点となり、戦争が終わる1783年までイギリス軍の占領地となりました。
しかし、結局移民の集合体であるアメリカ軍がイギリス軍を圧倒して勝利。終戦後間もなく、ここニューヨークで両者の連合会議が行われ、ニューヨーク市はこのときから、アメリカ合衆国の首都となりました。
合衆国憲法が批准され、初代大統領ジョージ・ワシントンが1789年就任式を迎えました。この時日本は寛政元年、11代将軍家斉の時代で、その後の幕府の屋台骨を腐らせる水野忠邦らが台頭し始めていたころのことです。
この年には、第1回の連邦議会の初めての会期が開かれ、権利章典が起草されましたが、この舞台となったのが、現在のウォール街にあるフェデラル・ホールです。現在もウォール街26番地にどしんと腰を据えて立つ風格のある建物で、アメリカ合衆国議会の旧議事堂ということになります。
1790年には、ニューヨークはフィラデルフィアを抜いてアメリカ合衆国最大の都市へと成長。19世紀には多数の移民がヨーロッパやその他の国から流入し、街は開発によって大きく変貌していきます。1811年には、マンハッタン全域が格子状の通りで覆われ、1819年にエリー運河が開通。
この運河は、大西洋のニューヨーク港と北アメリカ内陸部の広大な農業市場とを結ぶ重要な交通経路となりました。商人階級が幅を利かせるようになり、彼らの陳情によって、1857年にセントラル・パークの建設が始まり、これはアメリカの都市の中で最初に近代的な景観設計が施された公園となりました。
1827年ころまでは奴隷制がごく当然のように維持されており、マンハッタンやブルックリンにはアフリカから連れてこられた大勢の黒人がいましたが、その後1830年代になってからはニューヨークは北部における奴隷制廃止運動の中心地となっていきます。
1840年の時点で、ニューヨークの黒人人口は1万6000人を超えていたそうですが、まだまだマイノリティでした。1860年までにニューヨークの街を席巻していたのはアイルランド系移民であり、その人口は20万人を超え、市の人口の4分の1を占めていたといいます。
その後、奴隷制の可否をめぐってこれを支持するアメリカ南部と反対する北部が対立、南北僕戦争が勃発します(1861年~1865年)。
この内戦は北軍の勝利で終わり、以来黒人の解放運動が進んでいきますが、そんな中、1898年、当時独立都市であったブルックリンと、ブロンクスの一部を含むニューヨーク郡、リッチモンド郡、そしてクイーンズ郡西部が合併して、現在のニューヨーク市の形がほぼ形成されます。
1904年にはニューヨーク市地下鉄が開通し、新しい市の統合に大いに貢献しますが、以来、20世紀後半に向けてニューヨーク市は世界の産業、商業、情報の中心地となっていきました。
1920年代、ニューヨーク市はアフリカ系アメリカ人の大移動で南部から来たアフリカ系アメリカ人にとっての主要な行き先となり、それまではマイノリティであった黒人がニューヨークにあふれかえるようになり、1916年までに、ニューヨーク市に住むアフリカ系都市移住者は北アメリカで最多となりました。
現在でもニューヨークを訪れると他の都市に比べて格段に黒人がこの町に多いように感じるのはこのためです。とはいえ、いわばそういう底辺の人種がこの街を支えていった結果、禁酒法時代には黒人文化である、いわゆる「ハーレム・ルネサンス」が栄えます。
ニューヨーク下町のハーレムにおいてはアフリカ系アメリカ人のアート、文学、音楽、文化、芸術が花開き、全盛期を迎えます。これと同時並行で急激な経済成長に伴い超高層ビルが競うように建てられ、街の風景は大きく変わっていきます。
1920年代初頭、ニューヨーク市はロンドンを抜いて、ついに世界で最大の人口を擁する都市となりました。またニューヨーク都市圏の人口は、1930年初頭、1000万人を超え、人類史上最初のメガシティとなったのです。
その後、世界恐慌の時代となり、第二次世界大戦に突入するとさすがのニューヨークも元気がありませんでしたが、やがて大戦が終わり、多くの兵士が復員してくると、戦後経済の勃興が始まり、クイーンズ東部などでは広大な住宅地域の開発が進むようになります。
ヨーロッパや日本の大都市のように大戦によって空襲などの被害を受けなかったニューヨークはやがて世界の中でも最高といわれる文化をはぐくむようになり、ウォール街などを中心とする金融の世界はアメリカを世界経済の覇者へと押し上げます。
1950年には、国際連合の本部の誘致に成功。国際連合ビルがこの地に完成し、この設置はニューヨークの政治的影響力を世界中に知らしめました。ニューヨークで生まれた抽象表現主義は、この街をパリに代わる世界の芸術の中心地へと変え、文化の面でも世界の中心といわれるようになってきます。
しかしその後、1960年代、ニューヨークは経済的停滞、犯罪率の上昇、人種間対立の高まりに苦しみ、1970年代にそのピークを迎えます。おそらく世界恐慌以外ではニューヨークが最も暗く沈んでいた時代はこの時代だったでしょう。
私もなんとなく覚えていますが、この当時のニューヨークは世界中の人達から犯罪の巣窟のように思われていて、とくに外国人旅行者には敬遠されていた町でした。
ところが1980年代になり、金融業の盛り返しによって市の財政は改善を見せるようになります。1990年代までに、人種間対立も緩和し、犯罪率は劇的に下落し、治安もよくなったことからアジアとラテンアメリカからの新しい移民が流入するようになり、2000年にはニューヨークの人口は史上最高に達しました。
その後のニューヨークは我々もよく知るニューヨークです。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではワールド・トレードセンターの倒壊で、3000人近くの人が命を落とし、アメリカはこの事件をきっかけとしてイラク、アフガニスタンなどの軍事紛争地帯への介入を始めます。
そして現在。オバマ大統領の就任によってアメリカはこれらの泥沼から足を引き上げようとしています。
が、その先はどこへ行くのでしょう。そしてその中心地ニューヨークの将来は……?
ハリケーンサンディがニューヨークを襲った昨年10月末から遡ることほぼひと月前の2012年9月27日、マイケル・ブルームバーグ市長は、市の南西部にあるスタテン・アイランド北岸に、世界一高い観覧車を建設すると発表したそうです。
現在、世界一の観覧車はシンガポールにある「シンガポール・フライヤー」だそうですが、この高さが165mであるのに対し、3年後の2015年内にニューヨークにお目見えする予定の観覧車の高さはこれを抜いて190mになるそうです。
「ニューヨーク・ホイール」と名付けられる予定とのことで、アウトレットモールやホテルと一緒に開発するとか。おそらくここからはその北側に自由の女神像やニューヨーク港が手に取るように見え、ロウアー・マンハッタンの地平線を一望できるはずであり、従来対岸のマンハッタンやブルックリンに集中していた観光客もここへ足を延ばしてくるようになるに違いありません。
数限りない魅力のつまった世界一の大都市NYCにまた新しい魅力が加わると聞いて、今からもうワクワクしている人も多いのではないでしょうか。ニューヨークの未来は案外とこれまでの歴史にはない、「観光都市」なのかもしれません。
……さて、長々と書いてきて、振り返ってみれば、私はまだまだそのスタテン島で亡くなった方々の原因を調べる調査中…… このあとまだまだ3月一杯はこの仕事に振り回されそうです。が、こうして色々調べものもして多くを学んだこの町を、なんだか無性に訪れてみたくなりました。
2015年といえばあと2年。そのころまでにもしニューヨークを訪れる機会があり、まだこのブログを続けていたらぜひまた、この観覧車の話題を書いてみたいと思います。
そんな私も来週にはもう5×才。さて、お誕生日には何をご馳走してもらいましょう。ニューヨークステーキなんてのもいいかもしれませんね。