フライング・プラム


3月になりました。今年になってもう二か月も経ったか……とこの時期になると毎年のように月日の流れる速さを思います。

それでも去年の今頃は引越し直前で、時間の流れをあまり気にしている暇はなかったように記憶しています。仕事も忙しく、とても今のように落ち着いてブログを書いているといった余裕はありませんでした。

そんなわけで、去年はこのころになると咲き誇る梅も見に行ったような覚えがありません。ウチから歩いて10分ほどのところに「修善寺梅林」という名所もあるのですが、その場所さえ知らず、結局そこへ初めて行ったころには既に花の季節は終わってしまっていました。

なので、今年こそは……と思い、先日仕事の合間をぬって、ちょっと気分転換にとここへ行ってみたのですが、ずっと続いている最近の寒さのせいかまだ2~3分咲きといったところで、満開になるのはおそらく今週末から来週くらいにかけてではないでしょうか。

多分ここより暖かい熱海梅園や小田原の曽我梅林などはもうすでに満開だと思います。東京や神奈川在住の方はそろそろ満開の梅をあちこちで鑑賞されていることでしょう。

前に東京ですんでいた家にも、毎年八重のきれいな桃色の花を咲かせる梅の木があったのですが、何年もの間実をつけることもなく、ウメって全部が全部実をつけるものではないんだ~と思っていました。

ところが、3~4年ほど前のこと、この梅に突然実がなっているのを発見! やればできるじゃん!と思ったものですが、その翌年にはまた実はなく、さらにその次の年もで、ふーん、梅もきまぐれで実をつけたりしなかったりするんだーと、とくにたいして気にも留めずにそう思っていました。

ところが、今日この項を書くのに色々調べてみたら、梅というのはどうやらだいたいほとんどの品種が実をつけるようです。梅は大別して果実を食用にする「実梅」と、花が大きく美しく観賞に向く「花梅」に分けられますが、花梅のほうにも実はつくそうで、ただついた実を食べてもあまりおいしくないだけなのだということです。

もっとも、ただ単にボーっと毎年実がつくのを待っていてもダメみたいで、梅に実をならせるためには、「受粉」が必要だということです。「受粉」なんて……そんな言葉は小学生の理科の時間で勉強したぐらいで、大人になってからは意味もわかっているし、とくに気に留めてもいませんでしたが、確かに考えてみたらあたりまえです。

♂と♀は結合しないと子供?ができないのだということをすっかり忘れていました。

つまりこういうことです。梅の木には別に♂♀の別があるわけではないようなのですが、「自家不結実性」という性質があり、これはひとつの木に咲いた花の花粉がその木の別の花のめしべにくっついただけでは、「受粉」は成立しないというものです。つまり、2本以上の梅の木がないと、受粉は成り立たないということになります。

しかもウメの品種の中には、花に花粉の無い品種も多く、さらに受粉をする木と花粉を与える木を2本植える場合でも、花粉の有無はもちろん、開花期の一致など受粉の条件を合わせる必要があるのだそうです。

ただ、梅を2本植えるほどの広い庭がない場合には、他の品種の梅の花粉を貰って来て「人工受粉」してやると、結実が見られる可能性が高くなります。

つまり、前に住んでいた家にあった梅の木につけた実は、何等かの形でよそからやってきた花粉がその年に咲いた花にくっつき、結実したということになります。

じゃあ、その花粉はどこからやってきたの?ということになりますが、おそらくはたまたま風に乗って飛んできたか、あるいはミツバチのような昆虫がよそから運んできたものなのでしょう。

そんなことも知らずに、今年は咲かない咲かないと思っていたわけで、まったくおめでたいはなしです。

梅の大部分の品種は同じ品種の花粉では結実しない自家不結実性を持っているそうで、このため、人工授粉をする場合でも花粉量の多い別の品種で咲いた花から花粉を持ってくるか、この品種の梅の木を隣に植えるわけですが、人間の手で人工授粉をさせない場合には、ミツバチさんやチョウチョさんがやってくるのを気長に待つことになります。

梅を商売として栽培している農家さんは、そういうわけにはいかないので、わざわざミツバチを買って来て、梅の栽培のために自分の農地に放ちます。何年か前にそのミツバチのうち、国産のものが大量に病気で死んでしまって、こうした農家が大打撃を受けたという話があったのを覚えている方も多いでしょう。

しかし、とくに実がならなくてもいいや、花がきれいならば、という人は観賞に向く花梅を植えて放っておけばいいわけです。こうした花梅は園芸上において、さらに野梅性、豊後性、杏性紅梅性とかいう三つくらいの梅に大別されるみたいですが、この野梅というのは「ヤバイ」と読むのでしょうか……?

いずれにせよ、このあたりの園芸栽培の話になるとかなりマニアックな世界になりますし、そういうのに興味を持つのはもっとジジイになってからでもいいか、と思うのでこれ以上突っ込むのはやめましょう。

が、園芸品種として、梅を丈夫に育てる条件としては、やはり日当たりがよく、水はけのよい場所だということです。また、梅が育つ温度条件は、年平均気温が7℃以上だということですから、東北や北海道などの寒い地域には向きません。

なお、実がなるのを期待する実梅は、開花時に-4℃以下になると低温障害をおこすそうです。

なので、こうした寒い場所に住んでいる人で、どうしても自分の家でなった梅で造った梅干しや梅酒が欲しい!という人は、寒さに強い品種を植える必要があります。これらは開花が遅い品種が良いそうで、「白加賀」とか「豊後」とかいう品種が、かなり遅い時期に花を咲かせるそうです。

ただ、梅の木を植えたからといってその年にすぐに実がなるのではなく、だいたい接木(つぎき)で育てる場合には3年、種からだと5~6年はかかるようです。何ごとも「実を結ぶ」までには時間がかかるということですかな。

さて、このウメですが、植物学的な分類では、「バラ科サクラ属」になるそうで、サクラと同じ仲間のようです。とはいえ、アンズのほうがより近い品種だそうで、上で書いたような園芸上の特色は、このほかの近縁種の桃でも同じだということです。

ウメは容易に交雑することなどから、300品種以上も種類があるということですが、別名もいろんなものがあって、好文木(こうぶんぼく)、春告草(はるつげぐさ)、木の花(このはな)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、匂草(においぐさ)などがありますが、樹木なのになぜ「草」と呼ぶのでしょうか。

風待草などは宵待ち草と間違えてしまいそうです。

「ウメ」ということばの語源は諸説あるようですが、そのひとつは中国語の「梅」(マイあるいはメイ)が変化したという説。

現在も東北地方のある場所で「梅」をこのように発音するところがあるそうで、これがやがて「ムメ」のように表記され、これをアルファベットで書くとmumeになりますが、これが長い間にumeへと転訛したのではないかといわれています。

どこだか忘れましたが(東北だったかな?)、現在でも「ンメ」のようにその地方の人が発音しているのを私も聞いたことがあります。

現在、花見といえばもっぱらサクラの花の鑑賞のことをさすのが普通ですが、江戸時代よりも前にはとくに桜に限定されたものではなく、とくに奈良時代以前の花見といえば、むしろ「梅見」のことだったそうです。

ウメよりもサクラがより愛好されはじめるのは、平安時代中頃からということなのですが、ウメがサクラに負けた理由は何ナノでしょうか。これも何かイワレがありそうなのですが、めんどうくさいので今日はそこのところも掘り下げるのはやめておきましょう。

梅というとどうしてもやはり「紀州」というかんじがします。紀州、すなわち和歌山県の梅産地の農家の人達が中心になって「紀州梅の会」というのが作られていて、この会では、天文14年(1545年)4月17日に当時の天皇が、京都の賀茂神社に梅を奉納したという故事から、毎年この日の新暦にあたる6月6日を「梅の日」に定めているとうことです。

ちゃんと「日本記念日協会」に平成18年に登録がされているそうで、この日を中心として、
産地の梅を全国の消費者に向けてPRしているとか。毎年このころになると、「みなべ町」というところにある須賀神社というお社でお祭りをやるようです。お近くの方は行ってみられると良いかも。

私自身は、山口が郷里なので、梅にまつわる神社というとどうしても防府市にある防府天満宮か、九州の大宰府天満宮を思い浮かべるのですが、この両方の神社の祭神は同じ菅原道真です。この道真が大宰府に左遷されるときに詠んだ有名な歌がありますが、ご存知の方も多いでしょう。

「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」

教科書にも良く出てきますよね。道真が京を離れるときに、愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ歌だそうで、この梅は後に道真が大宰府に左遷されたとき、道真を追いかけて、京から大宰府に飛んでいったという伝説を知っている人も多いでしょう。

「飛梅伝説」と呼ばれるのがそれで、そんなもん、根っこが生えた木が飛ぶかいな。物ならばともかくしかも植物が……と遊び心のない方々は疑惑の目を向けこの話はウソだというでしょうが、そういうと実も蓋もないので、あくまで「伝説」ということで冷静に受け入れましょう。

しかし、この飛梅は、太宰府天満宮の一角に植えられている実物があり、神木として知られています。樹齢1000年は超えるとされる白梅で、樹齢だけを考えると菅原道真が左遷されたのが西暦901年ですから、つじつまはあいます。

天満宮の本殿に向かって右側に植えられていて、根本は3株からなる大木で、私も何度か直接みたことがありますが、なかなか立派な梅の木です。太宰府天満宮にはこの梅のほかにも小さな梅園があって、春になるとよい臭いがたちこめますが、この梅の木は、境内に植えられた梅のなかでもいちばん先に咲き始めるそうです。

この飛梅は本来、菅原道真が住んでいた館の跡地に建てられた神社の境内にあったそうですが、太宰府天満宮が造営されたときにその本殿前に移植されたとか。なので、京都出身かどうかはわかりませんが、少なくともオリジナルの飛び梅である可能性は高いと思われます。

菅原道真は、平安京朝廷内で同じ貴族だった藤原時平との政争に敗れ、延喜元年(901年)に大宰府に左遷されてきましたが、このとき、京にあった屋敷内の庭木のうち、梅だけではなく、日頃からとりわけ愛でてきた桜の木・松の木とも別れを惜しんだといわれています。

このときに、とくにこの梅の木について詠んだのがさきほどの歌であり、春になって東風が吹く季節になったら、私を思い出してきれいな花を咲かせておくれ、と呼びかける道真に対し、庭木たちも主人が遠くへ行ってしまうことを悲しんだといいます。

とくに桜は、悲しみに暮れて見る見るうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったといい、梅と松は、道真の後を追いたい気持ちが高まり、ついにはその根っこを自ら地面から引き抜き、空を飛んで道真を追いかけようとしました。

ところが松は少々根性がなく、というよりも力不足だったのか、途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿(現兵庫県神戸市須磨区板宿町)あたりで不時着。このあたりに現在も「飛松岡」という丘があるそうですが、ここに降り立ち、この地に根を下ろしたといいます。

一方、ひとり、というか一本だけ空中浮揚を続けた梅はなかなかしぶとく根性があり、というか持って生まれたすごい飛翔能力があり(!?)、見事その力を発揮して、一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでいくのに成功します。

このとき、空からゴゴゴゴッ~という轟音とともに舞い降りてくるウメの木を見て、道真は驚いて腰を抜かし……たかどうかはわかりませんが、もしかしたらその手にはコントローラーを持っていたかも。

…… こうして究極の武器、「フライング・プラム」を手に入れた道真は、宿敵、藤原時平を倒すため、神戸に降り立ったフライング・パインも引き連れて、一路、京都をめざすのであった……

……と、バカなことを書いてばかりいてはいけません。私がSFを書いてもモノにはなりません。現実に立ち返りましょう。

飛梅伝説が生まれた経緯として考えられるのは、一説に、道真に仕えて大宰府に同行した「味酒保行」という家来がこの梅の株分けの苗木をもって行ったのではないかとも言われています。

また、京在住時代から道真を慕っていた伊勢国度会郡(現三重県度会郡)の白太夫という人物が、その後道真に会いたくて大宰府を訪ねようとしたとき、旧邸からこっそり持ち出した苗木を道真に献上したのではないかともいわれているそうです。

いずれの話でも、このあと道真自身がこの梅を植えたとされているようで、もしこの話が歴史的にも確認されれば、この大宰府の飛梅は、重要文化財級ということになるのでしょうが、いまのところそういう事実は確認されていないようです。

飛梅伝説は、他の地方にも見られ、若狭国大飯郡大島(現・福井県大島半島)の宝楽寺、備中国羽島(現・岡山県倉敷市羽島)、周防国佐波郡内(現・山口県防府市松崎町)があり、この三つめは、前述の山口の防府天満宮に伝わるものです。

このほかにも、この大宰府天満宮の飛び梅から道真を祭神とする神社に株分けされたものが各地に現存するそうで、実は、我々が住んでいるところからすぐ近くの伊豆の国市内にも道真を祭神とする神社があります。なんという名前だったか忘れましたが。

そこにも確か梅の木が植えてあったと思います。今、どれくらい咲いたか、この週末にでも見に行ってみようかと思います。

梅からは、シアンという物質ができるので、これをもとにしてできるのが青酸カリですが、このほか、梅毒とか梅雨とか、いろんなところに梅という文字がでてくるので、話はまだまだ続けられそうなのですが、また長くなりそうなので今日はこれくらいにしておきましょう。

そういえば最近あまり梅酒を飲んでいません。これを焼酎にちょっと入れて氷で割り、クイッやると、実にウマいのですが、あまり飲みすぎるとタエさんの目が釣りあがるので最近はやめています。が、これを書いていたらまた飲みたくなりました。今週末はちょっとしたお祝い事もあるので、それにかこつけてまた買ってくることにしましょう。

皆さんも梅酒、お好きですか? それとも花のほうでしょうか……