わたつみのこえ


4月も下旬になるというのに、昨日までの寒さはいったいなんだったのでしょう。我が家でももう使うことはないさ、とコンセントを抜き、押入れにしまいかけていた石油ファンヒーターが再び大活躍をしています。

しかし、その寒さも今日くらいまでのようで、明日からはまた平常の気温に戻っていくようです。お天気も回復し、今朝はひさかたぶりに富士山も顔を出しています。

ところで、最近はこのブログを書くにあたり、ネタ探しのために、過去、その日に何があったかを調べる習慣がついてしまっています。

面白そうなネタがあれば、そのままその日のテーマにすることもありますが、興味のないものばかりであれば、まったくオリジナルのテーマを探さなければなりません。

この新たに「無」の状態からひとつのテーマを見つけるという作業は、実は結構しんどいものであり、時には1~2時間かかっても書きたい主題がみつからないこともあります。

そんなときは、ともかく何でもいいからテーマも決めずに書きだし始めると、次第に興が乗ってくるためか、次から次へと新しいテーマがみつかったりします。

日常茶飯事の出来事を書いていたら、思いがけなくその話が宇宙の話や太古の話に発展してしまい、自分でもアレアレっと思うのですが、おそらくこれはひとつの「ブレーンストーミング」なのでしょう。脳を活性化させるためには、案外と良いことなのかもしれません。

ということで、今日もなかなか書きたいことが決まらず、とりあえず書きだしたのですが、まだテーマが決まっていません。

が、まてよ、もう一度今日はどんなことがあったのかみてみよう、と考えて改めて調べてみると、4月22日の今日は、戦後まもない昭和25年に、日本戦没学生記念会、別名「わだつみ会」が結成された日、となっているのが目に留まりました。

わだつみ会は、「きけ わだつみのこえ」という、第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集が刊行されたのを契機に立ちあげられたもので、刊行元である東大協同組合を中心に造られた「反戦運動団体」です。

「戦争体験の継承」「戦争体験の思想化」を提唱し結成されたものであり、学生層が中心となり、最初は現在立命館大学に設置されている、戦没学生を記念する彫像、「わだつみ像」の建設などが設立目的だったようですが、次第に会派の結成目的が、「きけ わだつみのこえ」の刊行などによる平和運動などへとシフトしていきました。

しかし、次第にその運動は政治化・先鋭化し、平和運動がやがて反戦運動になり、これによる内部対立が激化したため、結成から8年後の昭和33年にはいったん解散。しかし、翌年には再結成され、これは「第2次わだつみ会」と呼ばれました。

再結成された、わだつみ会では、それまでの活動の反省を踏まえて反戦運動・政治運動からは距離を置き、会の運営も学生ではなく、やや年上の戦中派世代の知識人・著名文化人が中心となって行われました。しかし、今度は戦争経験を持たない若い世代との対立が激しくなり、10年後の昭和44年に若い会員が大量に脱退します。

こうして、その翌年の昭和45年には役員が改選されて、第3次わだつみ会が発足し、今度は戦中派世代だけによる運営が行われるようになりました。

しかし、この会派は次第に昭和天皇の戦争責任を問うという姿勢から「反天皇」を掲げた政治団体化していったことから、内外から批判が高まり、「きけ わだつみのこえ」の編集主任であり、当初から会の活動をささえてきた医師の中村克郎氏が理事長の座を追われるという事態にまで発展します。

これによって、中村克郎を慕っていた古い会員の多くが会を離れたため、平成6年(1994年)の総会では、副理事長の高橋武智氏が理事長に就任し、第4次わだつみ会が発足。

そして、その翌年に新規一転、「新版“きけ わだつみのこえ”」が出版されましたが、その内容をみた遺族や関係者から、「誤りが多い」、「遺族所有の原本を確認していない」、「遺稿が歪められている」、「遺稿に無い文が付け加えられている」、「訂正を申し入れたのに増刷でも反映されなかった」といった批判を浴びることとなります。

この問題は、さらにエスカレートし、裁判沙汰にまで発展します。

平成10年(1988年)、学徒兵の遺族たちは、わだつみ会を脱退した中村克郎氏らが発起人となって、「わだつみ遺族の会」を結成すると、新版を刊行した岩波書店に対して「勝手に原文を改変し、著作権を侵害した」として新版の出版差し止めと精神的苦痛に対する慰謝料を求める訴訟を起こしました。

これを受けた岩波書店側は、原告が指摘した批判内容を踏まえた「新版“きけ わだつみのこえ”」の改定版を3年後の平成11年に出版し、これが裁判所にも提出された結果、原告の「わだつみ遺族の会」も「要求のほとんどが認められた」としてこの訴えを取り下げました。

「わだつみ遺族の会」は、この裁判だけのために結成された会派であったためか、その後自然消滅したようです。しかし、「第4次わだつみ会」は現在でも存続しており、「靖国神社法案」の「廃絶」や、「自衛隊海外派兵に抗議」などといった、どちらかといえばかなり左寄りの活動を続けています。

靖国神社法案というのは、靖国神社を国家管理とすることを求めた法律案であり、靖国神社を日本政府の管理下に移し、政府が戦没者の霊を慰める儀式・行事を行うこととし、その役員の人事は国が関与し、経費の一部を国が負担及び補助する事を規定するというものです。

1969年に自民党が初めて法案を国会に提出して否決されますが、その後何度も提出され、そのたびに審議未了のまま廃案になってきた経緯があります。

当初この法案が国会に提出されたとき、これを支持する全国戦友会連合会や日本遺族会などは、「靖国神社国家護持」を嘆願する署名を2000万筆も集めました。

しかし、わだつみ会のような左派からは、戦前復古であるとして反対論が展開されるようになり、別の団体、とくに宗教団体なども国が靖国神社を特別視するものだとして反対論を展開するようになりました。

先日、靖国神社が、明治時代以前の「国学」を奉じる人達によって設立された経緯について書きましたが、その当事者である「宗教法人」靖国神社自身も、この法案は宗教色が薄くなることからと、その成立には反対しているといいます。

靖国神社は、明治時代に、東京招魂社として創祀され、後に現社名の靖國神社と改称されたものです。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括するという、「国家機関」の一つでした。

幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年(嘉永6年)のペリー来航以降の日本のあらゆる国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、これを柱(はしら)、すなわち「神」と考える数は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及びます。

当初これらの戦没者は、「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に「英霊」と称されるようになりました。

この「英霊」ということばは、幕末の「水戸学」の大家、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来します。

水戸学というのは、常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成されたため、こう呼ばれていますが、先日書いた、「国学」のひとつの分野です。その基本精神は「愛民」、「敬天愛人」であり、この思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、その攘夷思想は明治維新の原動力となりました。

こうした学問を標榜する人物がつくった句にある言葉を、神社に祀った人々の呼び名として適用していることなどをみても、靖国神社が「国学」を支持する人々によって作られたことがわかり、かつその政治的な本質が理解できます。

しかし、日本が敗戦すると、靖国神社は1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となります。「単立神社」であるため、伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人である、「神社本庁」には属していません。

日本中見渡してもこういう神社は他にはなく、非常に特異な存在といえます。また、伊勢神宮のような歴史のある神社にもカテゴライズされておらず、歴史の浅い神社であることがわかります。もしかしたら、「神社」と呼んでいるのも違うのではないかと思ってしまいます。

そのタテマエは、「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」ということなのですが、極東軍事裁判によってA級戦犯とされて亡くなった方々も合祀されていることから、日本による戦争被害を受けた中国、韓国、北朝鮮の3カ国などが、その存続に反発しているのは周知のとおりです。

こうした近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見があり、終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなります。

このため、近年では、8月15日を避けて参拝をする閣僚が増えており、昨日も麻生太郎副総理と古屋圭司拉致問題相が靖国神社に参拝し、その前日にも新藤義孝総務相が参拝しています。靖国神社は21日から春季例大祭であったため、安倍晋三首相も同日、神前に捧げる供え物「真榊(まさかき)」を奉納したそうです。

このように、自民党は昔から靖国神社大好き人間の集合体であり、靖国神社法案もまた、自民党によって何度も国会に提出されますが、1974年に衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了となり廃案となりました。以降、再提出はされていませんが、自民党が元気になってきた昨今では、再び再提出の動きもあるといいます。

私的には、平成の世にもなって、いまだにこんな法案にこだわる国学信奉者が自民党内にはいるのかと思うと、少々嫌気がさしてくるのですが、片や靖国神社の政治的な意味合いはともかく、国を思って死んでいった多くの戦没者の霊を弔う場、といわれると、これを敬いたいその気持ちもわからないではありません。

しかし、政治と宗教はやはり分離して考えるべきであり、そもそもがエセ国学信奉者たちが立案して作った歴史の浅い神社を、国のトップであるべき方々以下が信奉しているというのが、どうにも理解できません。みなさんはいかがでしょうか。

この問題は、更に書き続けると政治論議になってしまいそうですし、当初の話題からかなり話題が飛んでしまいましたので、元に戻しましょう。

「きけ わだつみのこえ」のはなしでした。東大の協同組合が刊行した、と書きましたが、正確には、「東京大学協同組合出版部」であり、そもそもは、昭和22年(1947年)にここから出版された東京大学戦没学徒兵の手記集「はるかなる山河に」がベースになっています。

昭和24年に初版が出された出版された「きけ わだつみのこえ」では、BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されているそうで、若い学生戦没者たちが、学業を心ならずも頓挫させられ、異常な状況に置かれたことを深く見つめたその内容に、戦時下にあっては「戦陣訓世代」と呼ばれていた多くの人々に大きな衝撃を与えました。

若い戦没者に人間としての光を当てただけでなく、本来であれば平和に生きていたはずの若者が、免れようのない死と直に向き合ったとき、どのように感じるのか、ということがひしひしと伝わってくるため、戦後、多くの人に読まれ、現在でも各出版社から文庫本で発刊されています。

ところで、また脱線しそうですが、BC級戦犯とは、B級戦犯とC級戦犯のことであり、極東国際軍事裁判における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪を犯した人ということになっています。A級と同様に、B、Cは戦争犯罪の「分類」であり、罪の重さではありません。

A級戦犯というのは、「侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行……のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与」した人ということで、要は国の中枢において戦争遂行の計画を練った人達がこれにあたり、その多くは軍部のトップや政治家たちです。これはわかりやすい。

一方、B級戦犯は、「戦争の法規または慣例の違反」ということで、戦闘員や司令官、ときには非戦闘員が「個人的」に犯罪行為を行い、交戦規則を逸脱するような行為を行った場合に適用されます。

例えば上部の命令もなく、占領地内などで、一般人を殺害したり、虐待、奴隷労働をさせた場合や、公私の財産の略奪や都市町村の建物などの破壊などがこれに含まれ、要は軍令に従わずに他国の人民に危害を加えた人達ということになります。

これに対し、C級戦犯は、「人道に対する罪」ということで、その定義は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」とされています。

しかし、この定義ではC級戦犯もB級戦犯も何が違うのか、よくわかりません。一見するとどちらも同じ罪のようにみえます。

この法概念に対しては、実は、極東軍事裁判が開かれていた当時から賛否の意見が分かれていたようです。

ただ、極東軍事裁判を担当したアメリカの国際法学者たちは、過去の軍事裁判の適用例などをみた上で、B級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者で、主に下士官、兵士、軍属であると考えていたようで、ようはB級はややエライ兵隊さん、C級はその下の平の兵隊さんが受ける罪ということだったようです。

とはいえ、そんな定義もあいまいな罪をなすりつけられて死んでいった方々にとってはとんでもないことです。極東軍事裁判とは、所詮は裁判とは名ばかりの儀式のようなものであり、戦争を主導した人を無理やり特定し、戦勝国アメリカの正義を世界に喧伝するための茶番劇であったことは、このことからもよくわかります。

この極東軍事裁判は、GHQによって、横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、これによってBC級戦犯となった人は、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされています。

また、A級戦犯としての訴追事由では無罪になったものの、B級、C級の訴追理由で有罪になった人も少なからずいたそうで、とはいえ、B級戦犯で裁かれたものの方が多く、C級戦犯はかなり少なかったといいます。

このことから、BC級戦犯となった若い学生戦没者(裁判で処刑された人も含む)の中で、「き わだつみのこえ」に遺書を残したのは、学徒出陣によって士官になったエリートさんが多いようです。その表現力も当然優れたものであり、これが多くの人の心を打ったのもうなずけます。

しかし、「きけ わだつみのこえ」は、こうしたごく少数の高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、インテリとは違って教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、一般民衆の戦争観の視点に編集側が欠けているのではないかとの批判もあるようです。

つまり、こうした書簡ばかり集めた文集は、人間本来の死を見つめたものではなく、インテリの死だけを美化したのではないかとの意見であり、こうした偏った内容だからこそ反戦平和運動のスローガンとして利用しやすかったのではないかというわけです。

また、それだけではなく、その内容が改ざんされて出版されたのではないかという疑惑があり、刊行にあたって遺族から集められた遺書が、元の持ち主に返還されなかったという事実もあるようで、これは、その改ざんが暴露されるのを防ぐためではなかったかとする説もあります。

前述した「きけわだつみのこえ」改変事件裁判も、遺族や関係者から、内容の改ざんがあったのではないかという多くの批判を浴びたのを受けての訴訟でした。

このほかにも、戦争の被害者としての若い世代ということを強調しようとしたためか、その初版本においては、編集側の方針で、軍国主義的内容に共感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、削除されていたそうです。

これについても、こうした文章を削除することで、当時の若者の軍国主義的内容への共感度や「国家への忠誠」をどのような経緯で誓うようになったのかといった背景を知る手がかりがわからなくなるという批判があり、すべてを客観的事実として掲載するべきであるという意見が相次いだようです。

改ざんした出版物によって、若い戦没者の心理に光を当てようとした本来のその出版目的が失われ、自分たちの都合の良いようにこれを利用しようとしたわけであり、このあたり、経歴詐称学者の平田篤胤が主唱したエセ国学の流れを汲む者たちが、自分たちの権益の拡大のために、神道の国教化を推進しようとした史実とどこか似ています。

いつの世になっても、日本人の本質はあまりかわらないなぁとついつい思ってしまうのは私だけでしょうか。

ところで、「わだつみ」とはそもそも何であるか、ということを書いていませんでしたので、最後にこれについて触れておきましょう。

わだつみとは、「ワタツミ」が正確な表現のようであり、日本神話に登場する海の神様のことです。

「綿津見」とも書き、日本神話でのワタツミの神の筆頭はオオワタツミ(大綿津見神・大海神)といいます(後述しますが、ワタツミは一人ではありません)。また、日本書紀には海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)という名前で出てきます。

このほか、少童神、志賀神(しかのかみ)とも呼ばれるようで、海神(わたのかみ)という表現もあるようです。

「ワタ」は「海」の古語であり、「ツ」は「の」の意味、また、「ミ」は「神霊」のことです。つまり、「海の神霊」という意味になりますが、古来、これが変じて「海」そのものの別名としても使われるようになりました。

オオワタツミは、イザナギノミコト(伊邪那岐命:♂)とイザナミノミコト(伊邪那美命:♀)二神の間に生まれた神様であり、大八洲国、すなわち日本列島を産んだイザナギ・イザナミ夫婦が次に産んだほかの木の神や、野の神と一緒に生まれた自然にまつわる神様です。

ところが、海の神様はこれ一人ではなく、イザナギが地の国に落ちた、イザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴いたあと、黄泉から帰ってきて禊(みそぎ)をした時に、三人の別の「ワタツミ」が生まれました。

これが、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神であり、この三神を総称したのが、「綿津見神」です。「大綿津見神」と一文字しか違わず、紛らわしいのですが、「綿津見神」というと通常は、この三神のどれかおひとりになります。

この三人の綿津見神が生まれたとき、同時に、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の三人の神様も生まれており、こちらは、「住吉三神」と呼ばれています。

住吉神社といえば大阪や福岡のものが有名ですが、このほか日本中のいたるところにあっていずれも「海の神様」として祀られており、その祭り神はこの三神のどれか、あるいは全員です

ちなみに、「住吉」はその昔、「スミノエ」と読み、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになりましたが、スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書き、このことからも海の神様であることがわかります。

従って、海に関連する神様は、日本神話では全部で7人もいることになります。

このほかにも、「日本むかしばなし」でよく出てくる、「山幸彦と海幸彦」兄弟の「海幸彦」も本当は、「火照命(ほでり)」という海にちなんだ神様であり、「海佐知毘古」というのが本来の呼び名です。

「海佐知毘古」はお兄さんであり、弟の山幸彦のほうは、「火遠理命(ほおり)」といい、こちらは「山佐知毘古」と書きます。

実は、この二人の兄弟は、富士山の神様のコノハナサクヤヒメと伊勢神宮のご祭神のニニギノミコトとの間に生まれた兄弟であり、火照命のほうは海で暮らすようになったことから、海幸彦と呼ばれるようになり、火遠理命のほうは山で育ったので、山幸彦と呼ばれるようになりました。

このお話では、ある日、海幸彦と山幸彦がそれぞれ持っていた釣り針と弓矢を交換してみようということになりますが、山幸彦は、海幸彦から借りた釣針をなくしてしまいます。

困っていた山幸彦(火遠理命)は、住んでいた地元の老翁の助言を求めますが、このとき老翁が、行って相談するようにと山幸彦にアドバイスしたのが、大綿津見神ということになっていて、ここのところで、この二人の海の神様が交錯しています(大綿津見神のところへ行ったのは山幸彦のほうですが)。

この話はその後延々と続き、最後には、海幸彦の許しを得た山幸彦が、大綿津見神の娘である豊玉姫とめでたく結婚して子供を産みますが、実はこの豊玉姫は、八尋和邇(やひろわに)という大蛇であって……と続くのですが、こうした日本神話の話をしていると、どんどんと深みに入り込んでいきそうなので、今日はもうこの辺でやめにしておきましょう。

ともかく、こうしたワタツミを祀る神社は、日本中至るところにあり、とくに「綿津見神社」という呼称の神社はほとんどの県にあるのではないでしょうか。

静岡にも伊東市の東松原というところに「綿津見神社」があるようです。綿津見神社の祭神は大綿津見神であったり、綿津見三神であったりでいろいろですが、大綿津見神の娘である豊玉姫やもう一人の娘、玉依姫である場合、また、豊玉姫と山幸彦の子の阿曇磯良を祀る神社もあるようです。

このように「わたつみ」は海によって囲まれた日本という国に住んでいる日本人の生活に深く根付いた神様であり、それゆえに、太平洋戦争を初めとする戦争で海に沈んだ「英霊」たちの遺言集の表題としても使われるようになったわけです。

さて、今日は山口から来ていた母が帰る日です。富士山が大好きなバーさんにもう一度富士を良く見せてあげたいと思っていたら、その願いが通じたのか、今日の富士はまた一段と綺麗です。帰りの新幹線の中でもまたきっと、その雄姿を彼女に見せてくれるに違いありません。

ただ、「わたつみ」の上にそびえる富士は、伊豆からしか見ることができません。これをバーさんに見せてやれなかったことが少々残念ですが、また機会はいずれ訪れるでしょう。

それまで元気でいてくれることを祈りつつ、今日の項は終わりにしいと思います。