7月も終わりに近づいていますが、暑さがハンパではなく、夏が苦手な私は、いっそのこと7月とともにまとめて8月も終わってくれないか、と期待したりもしています。
が、かつて東京に住んでいたころのことを思えば、この程度の暑さは許容範囲です。昼間でもクーラーなしで仕事が十分できますし、夜ともなれば、扇風機のお世話にもならなくても済む時さえあります。
それにしても、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったもので、これは、元々は、熱いものも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまう、という意味です。「暑さ」ではなく「熱さ」なわけですが、間違って「暑さ」だと思っている人も多いでしょう。
これはそもそも、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう、あるいは苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまうという意味で使われることわざです。
そういえば、あのとき色々助けてもらったよな~という人はゴマンといますが、そうした人達へのお礼や恩返しもできずのままにいることを、こうしたときにふと思い出したりもします。
中にはお礼もできないままに亡くなってしまった人達もいて、恩義を返したくても返せないという状況に陥っています。こうした人達へは、もうすぐやってくるお盆のときにでも、お線香の一本もあげて、長年のご無沙汰をわびるとともに、かつての好意に感謝の念を示すのが一番なのでしょう。
お盆といえば、先祖の霊を祀るためのものであって、親戚縁者ではない人のために祈るものではないと思っているひとも多いかもしれませんが、そうではありません。恩義を与えてくれた人達というのは、おそらく何等かの形で前世から自分と関わってきた人達だと思います。
あるいは前世では親戚や縁者だったかもしれず、もしかしたら肉親だった場合もあります。たとえそうでなくても、魂レベルでは同じグループに属している人である可能性が高く、だとすれば、身内同様の人です。なので、お盆にこうした人達の供養を行うことはごく自然のことだと思います。
また、お盆というのは、そもそも「施餓鬼」のための風習として発祥したものです。これは、訓読すれば「餓鬼に施す」と読め、仏教用語であり、死後に餓鬼道、つまり地獄に堕ちた人のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指します。
お釈迦様の十大弟子で神通第一と称され「目連尊者」という人が、神通力によって亡くなった母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていたのを発見しました。
目連は神通力で母を供養しようとしましたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できません。そこで目連尊者はお釈迦様に何とか母を救う手だてがないかたずねたところ、お釈迦様は「お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちたのだ。」といいました。
そして、「多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、餓鬼道に落ちた人々のためにご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。」と言い、目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われました。
これがお盆の起源とされている故事です。さらに、餓鬼道にいる人々に飲食を施せば、その行為を行った人の寿命はのび、またいろいろな苦難も脱することができるとされ、これ以降、多くの寺院においてお盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれます。
従って、お盆のというのは、そもそも自分の先祖や親族のためだけをお祀りするといったエゴイスティックなものではなく、地獄に陥った亡者に代表されるような、あの世で苦しんでいる人を救うための行事です。
このため、当初はお盆といえば、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、先祖だけでなく道ばたに倒れた人などの霊も慰めるための風習だったようです。しかし、こうした風習が常識とされ、そのまま残っている地方もある反面、施餓鬼の風習が全くなくなったり、時代とともに先祖供養だけに変容していった地方もあり、全国的にみると、後者のほうが多いわけです。
棚を作って供養する、という行為自体も様々に変化しており、地方によっては、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物を用意することがあります。
4本の麻幹あるいはマッチ棒、折った割り箸などを足に見立てて差し込み、馬、牛として仏壇まわりや精霊棚に供物とともに配すもので、きゅうりは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるようにするためのものです。
また、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、この世からあの世に帰るのが少しでも遅くなるように、また、供物を牛に乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いがそれぞれ込められています。
このほか、おそらくもっともポピュラーなものは、「盆提灯」であり、お盆の時期になると、仏壇や門前にこの提灯を飾りますが、こちらもまたご先祖が自宅に帰ってきたときに、その場所を見つけやすいように、という配慮から出たもののようです。
お供え物も地方によって違いがあり、甲信越や東海地方では仏前に安倍川餅、北信州ではおやきをお供えする風習があります。長野県や新潟県の一部地域では、送り火、迎え火の時に独特の歌を口ずさむ習慣があるなど、受け継がれた地方独自の風習が見受けられます。
川に灯籠や船を流す、というもの悲しげな風習に変わった地方も多くあります。木組に和紙を貼り付けた灯篭を流す「灯篭流し」を行う地域はかなり多いようです。船のほうはどちらかといえば特殊な部類に入り、盛岡市などのように供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われる場合あります。
灯籠と小船を合体させた「精霊流し」で有名なのが長崎です。長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事で、隣の佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られます。
初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて運ぶというものです。初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包んで流すそうです。
が、最近は環境への配慮から、海までは流さず、「流し場」と呼ばれる終着点までしか流dさないところも多く、海上に浮かべる場合でも必ず回収するようです。
また、私はこれを最初から川に流すのかと思っていたのですが、そうではなく、川に流す前に一度街を練り歩き、それから花火や爆竹を鳴らしまくった後に川に流すところが多いそうです。長崎県の、島原市、西海市、松浦市、五島市などもそのようで、現在でも川面や海上にこうした精霊船浮かべる風習があります。
ただし、長崎市では、江戸時代以前は実際に川から海へと流されていたようですが、1871年(明治4年)からは禁止されました。おそらくは火事予防のためだと思われますが、このため、市民が精霊船を持って行く場所として、「流し場」と呼ばれる場所を設け、ここを終着点として、人々は手でこの船を運ぶようになりました。
従って、この精霊船は水に浮かぶような構造にはなっておらず、大型のものは車輪をつけて「曳いて」運ぶそうです。長崎市民は、この精霊船に相当なお金をかけるそうで、これは東北などで盛んな「山車」を連想させる華美なものです。
この長崎市の精霊船は大きく2つに分けることができ、それは個人で造る精霊船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船です。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことだそうで、昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られていました。
しかし、最近はわりと安価に精霊船を作れるようになったことから個人でも作る人が増えました。昔から個人船、もやい船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人も多く、とくに「もやい船」に関しては、これを保有する自治会の「意地」に基づいて、その豪華さを競う傾向にあるようです。
こうした自治会で流す船のほかに、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もあるそうで、このほか、人だけでなく、ペットのために流す個人船もあるといいます。
この長崎市の精霊流しは毎年8月15日の夕刻から開催されます。午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されています。
船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまであります。
小型な船や一部の船では積まれる提灯にロウソクを用いるようですが、最近は振動により引火する危険があるため、電球を用いることも多いようです。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もあるそうで、材質は木製のものが多いようですが、特に決まりはなく、チガヤや強化段ボールなどが利用される場合もあるようです。
また個人船には舳先に家紋や苗字が書かれ、もやい船の場合は町名が書かれています。「艦橋」に当たる部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされ、仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることもあります。
個人や自治会を象徴するためぶら下げられる「印灯篭」にもそれぞれ工夫が加えられ、もやい船の場合はその町のシンボル的なものがデザインされ、亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いているそうです。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すものが描かれ、将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなどが描かれます。
近年ではこうした印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない「変わり精霊船」も数多く見られるそうで、例えば故人がヨット好きだった場合はヨット型、バスの運転士の場合は、「西方浄土行」と書かれた方向幕を掲げたバス型である、などです。
長崎市の「流し場」は市内各地にあるようですが、代表的な流し場である長崎市の大波止には、大型の精霊船を解体する重機の用意まであるといいます。
流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続きます。しかし「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多いようです。
昔から貿易港として栄え、中国なども多く入り込んでいた長崎らしく、この流し場までの精霊船の運搬は、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われます。この流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国では「魔除け」の意味もあり、かつては精霊船が通る道を清めるための意味もあったようです。
ただ、近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっているようで、数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されているそうです。
時には観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されていますが、お祭りごとの好きな長崎市民のことでもあり、度を過ぎることもあるため、大型の精霊船などでは事前に花火の取り扱い講習を受けさせ、「花火取扱責任者」を置くことなどが警察から指導される場合もあるようです。
長崎市には「長崎くんち」というお祭りがあり、この精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物にも似ています。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われています。
しかし、どこの地方でもこうしたお祭りの派手は行事はあまり好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為を取り巻くように見守っているといい、危険な行為に対しては制止を行うこともあるそうです・
この長崎市の精霊流しは、10月に行われる長崎くんちとともに、市民にとっては一大イベントであり、精霊流しが行なわれる時間帯は、長崎市中心部を始めとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車は経路を変更するまでして開催されます。
流し場に到着した精霊船は、家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体されますが、もやい船などは自治体が精霊船の処分を行います。
その解体の際に出るゴミの量はハンパではないため、長崎市では、精霊流しがの後の一定期間、一般家庭からの粗大ごみの搬入が停止されるそうです。
それほど、長崎市の人にとっては大変重要な行事です。1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際には、多くの人が被爆からわずか6日後に行われるはずであった精霊流しを思い、死んでしまったら誰が自分の精霊船を出してくれるのだろうかと気に懸けながら亡くなっていったといいます。
ところで、精霊流しといえばやはり、長崎出身の歌手「さだまさし」さんが作詞・作曲し、1974年(昭和49年)にリリースして大ヒットした、「精霊流し」を思い浮かべる人多いでしょう。
この曲は、さださん自身が、従兄の死に際して行われた精霊流しを題材にして創ったそうです。また、さださんは、2009年(平成21年)の暮れに父親を89歳で亡くしており、翌2010年(平成22年)に親族で精霊船を出した際には地元の各テレビ局が取材しネットワークを通じて全国に配信され、沿道からも多くの人がこの船を見送ったといいます。
が、実際の精霊流しは上述のようにかなり派手派手しいものです。このため、精霊流しを目的に長崎を訪れた観光客が実際の精霊流しを目の当たりにして、あまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるといいます。
実は私もそうだったのですが、精霊流しといえばかなりしめやかなイメージを持っており、これはさださんの作ったこの歌があまりにも悲しげなメロディーと詩であるためです。
「約束通りにあなたの愛したレコードも一緒に流しましょう。そしてあなたの船のあとをついていきましょう。」という歌詞はいかにも精霊船が静かに川を流れていくあとを家族たちがしめやかについて行く姿を連想しますが、長崎では実際には川には流しません。それどころか、この船のあとを爆竹を鳴らし、歓声をあげながら賑やかについて行くわけです。
ただ、よーく注意してみると、この歌の歌詞の中には確かに、「精霊流しが華やかに」と書かれており、この曲が納められたグレープのファーストアルバム「わすれもの」の中でも。この「精霊流し」のイントロ・アウトロ部分には、かなりの歓声や鉦の音、爆竹の音が入っています。
私もこのアルバムを持っていたのですが、その昔処分してしまいました。が、たしかにそうしたアウトロ部分があったことを覚えています。それにしても、さださんの曲がこれだけヒットしたために、実際の長崎の精霊流しをしめやかなものであると勘違いしている人がどれだけいることでしょうか。
また、全国的には精霊流しよりも灯籠流しをやるところの方が多く、実際の精霊流しを知らない人が精霊流しを灯籠流しと勘違いしたというケースも多いようです。灯籠流しもまた、死者の魂を弔って灯籠やお盆の供え物を海や川に流す行事ですが、そもそもはお盆の行事である「送り火」の一種です。
雛祭りの原型とされる流し雛の行事との類似性が指摘されており、これこそしめやかな「精霊流し」にふさわしいお盆の行事といえるでしょう。新潟県の長岡市の「柿川灯籠流し」や京都嵐山の灯籠流しがよくメディアにもとりあげられるようですが、長崎と同じく原爆の被害を受けた、広島市の原爆被爆者慰霊灯篭流しも有名です。
8月6日の平和記念式典後の夕刻から市内を流れる元安川で行われるこの灯篭流しは、昭和22年(1947)に始まったそうですが、実は広島に十数年住んでいたことのある私も一度も見たことがありません。
灯台もと暗しとはよく言いますが、地元の祭りというものは案外とそういうところがあります。ここ伊豆でも、ふもとの修禅寺温泉街で行われるお盆行事にも行ったことがありません。
一般的にお盆は8月13日から15日ですが、修善寺ではその昔養蚕がさかんで、この時期が蚕が大きく育った絹を生産するための繁忙期にあたっていたそうで、このため、この時期を避け、前倒しで8月1日から3日がお盆になっています。
修禅寺の境内にやぐらが立ち、たくさんの提灯の灯りが灯り、盆踊りの音楽に合わせて太鼓の音が響き渡るとともに、花火大会も催されるということで、地元の人たちはもちろん、観光客で大賑わいだということで、この盆踊りには。修禅寺のお坊さんも参加して一緒に踊るということです。
さすがに、わたしは盆踊りは参加しないと思いますが、夏祭りの雰囲気を味わうためにも今年は一度出かけていってみようかな、などと思いはじめているところです。
みなさんの町の夏祭りもそろそろスタートしていることかと思います。私のように灯台もと暗しとならないよう、ぜひ一度はそうしたお祭りに参加してみてください。