バタフライ

2014-3750今日で6月も終わりです。

今年前半に何を成し遂げられたかなぁ~と考えてみると、何もできていなかったような気がして唖然としてしまうのですが、この調子だと、今年の大みそかにも同じことを言っているに違いないと、戦々恐々とした気分になってきます。

年末になって、結局今年もいい年じゃなかった、などと後悔をする前に、今から体制を立て直したいと思う次第ですが、そのためにはやはり今年前半のことを色々反省してみるのが一番です。それにしても、今年に入ってから世間で何があったのかも記憶が曖昧なため、あらためて調べてみることにしました。

すると、まず1月にはタイで反政府デモが相次ぎ、首都バンコクとその近郊に非常事態宣言が発令され、以後この騒乱はタイ国内のあちこちに蔓延していきましたが、この騒動は、一応先月7日の軍のクーデターの形で終止符が打たれ、インラック首相が失職しています。

2月にはソチオリンピックがあり、日本は7つの種目で、金1、銀4(うち、スノボで男女アベック受賞)、銅3つを得て、まずまずの結果でした。続く、3月のパラリンピックでも、金3、銀1、銅2の6つのメダルを手にしましたが、以前にも書いたように、このパラリンピックでは近年、日本勢の凋落ぶりが目立ちます。

このパラリンピックが開催されている最中の、3月8日、マレーシア航空の旅客機370便(乗客乗員239人)がタイ湾のトーチュー島付近で消息を絶ちました。マレーシアだけでなく各国も手伝って大規模な捜索が行われましたが、370便はいまだみつかっておらず、これは航空機史上最大のミステリーとして歴史に残りそうな事件です。

3月にはまた、ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国の編入を表明して国際的な問題に発展しました。日本では月末に、1966年に発生した袴田事件において進展があり、静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定しました。袴田さんは同日午後に東京拘置所から釈放され1966年8月18日の逮捕以来の自由の身となりました。

4月、1日にチリ沖を震源とする、マグニチュード8.2の地震が発生し、すわ、日本にも津波が押し寄せるか、と思われましたが、結局大きな被害は出ませんでした。

4月にはまた、Windows XPのサポート期間終了が終了し、古いパソコンを使っている企業や個人に少なからぬ影響が出ました。また、16日には、韓国の全羅南道珍島沖で、仁川港から済州島へ向け航行していたクルーズ旅客船「セウォル号」が沈没、多数の死傷者を出す海難事故が発生しました。

この船を運航していた船会社とこの会社を保有するグループ企業のオーナーが責任を問われ、逮捕状が出ましたが、このオーナーはまだ捕まっていいません。

4月23日、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領が来日。銀座で阿部首相と寿司を食うという場面などが放映され、話題になりましたが、この寿司屋は、「すきやばし次郎」という高級店で、おまかせコースは3万円からだそうです。

5月、前述のとおり、7日にタイのインラック首相が失職したのに引き続き、22日にはタイ軍がクーデターを宣言し、憲法を停止。現在もまだ新しい首相は選出されていません。また、13日、トルコの炭鉱で爆発事故が起き、301人が死亡するとい大参事がありました。

この月には、南沙諸島付近の海域を自国の海だと称して勝手に石油採掘を始めた中国とベトナムの喧嘩が始まり、ベトナムの船が沈没したりしたため、ベトナムでは反中国を掲げる人達のデモが発生し、死者も出るなど血なまぐさいことになっています。

このように5月は、何かとアジアから中近東にかけて何やら騒々しい出来事が多く、6月に入ってもこの傾向は続き、アジアでは8日にパキスタン・カラチのジンナー国際空港をターリバーンが襲撃して、戦闘員10人を含む29人が死亡したほか、21日には、朝鮮の南北軍事境界線近で争乱があり、兵士5人が死亡、7人が負傷するという事件が起こっています。

一方中東では、イラク北部においてスンニ派の武装勢力が台頭して国境地帯を不安定化させ、地域戦争の危険性を高めています。

シーア派のマリキ首相は宿敵のイランの手助けまで得てこれを掃討しようとしており、これに加えて近隣諸国のサウジアラビヤやイスラエルなどの思惑もこの紛争に絡まってきており、中東地域は非常にきなくさい状態になってきています。

そして、6月12日に始まったサッカーワールドカップにおいて、日本は、コートジボアールに敗戦し、ギリシャとは引き分けたものの、コロンビアに惨敗して、一次予選敗退。先日には監督のザッケローニ氏が敗戦の引責を取って、辞任を表明したばかりです。

その日本は、安定した安倍政権の下、どうやら集団的自衛権とやらの行使に向けて歩みだそうとしており、これは大きな時代変化につながっていきそうな雰囲気です。特定秘密保護法案が通ってしまったことなども含め、この国の先行きが不安になってきます。

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さて、このように移り変わる国内外の世情と自分の境遇は、一見何のかかわりもなく、私が歴史に何等かの影響を及ぼしているといった大それたことは何もないわけです。

ところが、「バタフライ効果」ということがあり、案外と私がさきほどした、くしゃみによっても、世界が変わるかもしれない、ということも考えられなくはありません。

このバタフライ効果(バタフライ・エフェクト)とは、初期のわずかな変化が思いがけない方向へ発展してゆくことです。

一般に、自然において発生した複数の現象は、同じ時間だけ経過すると、似たような過程を経て似たような結果に落ち着くだろうと考えがちです。例えばある地域では小雨、隣の地域は雨か曇りであっても、やがて高気圧がやってくると、全体的には晴れになることが多いものです。

同じく、自然科学者も、実験などを行う時、普通は「微少な誤差は無視できる」「誤差は小さければ小さいほど影響はより小さい」と考えます。また自然科学者は、微分方程式や差分方程式で記述可能なような、ランダムではない事象は、初期値がほんのちょっと違っていても、一定時間経過後の計算結果は同じであると、しばしば考えがちです。

私はかつて海の波や砂の動きをコンピュータでシミュレーションして予測する、ということをやっていましたが、このシミュレーションモデルで使う数式は、簡単なものではプログラムで書き出せば数行で終わってしまうようなものもあり、多少違った初期値を与えても、結果は同じになるはず、といつも思っていました。

ところが、最近はこうした結果が明らかに見え、有限と思われるような系の中にも、初期値の小さな差が大きな差へと拡大するような系が存在することがわかっています。このような系は、「カオス系」と呼ばれるようになり、このカオス系に関する研究成果は「カオス理論」としてまとめられ、現在では物理学や数学の一分野にまで発展しています。

カオス系においては、誤差が時間と共に有意な差へと拡大することが知られており、長時間経過した後ではこの誤差は無視することができなくなるほど大きくなる場合があります。一般の数値解析では誤差を避けることができず、またこの誤差がどのくらい大きくなるのか小さいままなのかも計算では結果が得られないため、長期の予測は事実上不可能です。

つまり、バタフライ効果とは、「カオスな系」においては、初期条件のわずかな差が、結果に大きな違いをもたらすということであり、その結果は実際上「予測不可能」ということになります。

このバタフライ効果というのは、1961年にはマサチューセッツ工科大学の気象学者であった、エドワード・ローレンツという人が、発見しました。彼は計算機上で数値計算によって天気予測を行うプログラムを実行していた時、最初ある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し予想される天気を得ました。

ところが、もう一度同じ計算結果を得ようとし、小さな差異は無視できる、と信じて「0.506」と入力し、同じプログラムを実行したところ、この2度目の実行結果は、彼が想定していたのとは異なるものとなり、予測される天気の展開は、一回目の計算とまったく異なったものになってしまいました。

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こうして、エドワード・ローレンツは、この結果をもとにまとめた論文において、はじめて「butterfly effect」という表現を使いました。そしてこれを1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演でも使ったところ、その後世界的な反響を呼ぶようになりました。

この講演のタイトルは、「予測可能性~ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」だったそうで、以後、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」や、「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」といった表現が、他の研究者たちの間でも使われるようになりました。

ブラジルでの蝶の羽ばたきというごく小さい要素であっても、テキサスでトルネードが起きるという気候変動に大きく影響を与える可能性があるというわけですが、ただ、こうしたカオス系での予測は不可能ということですから、ブラジルの蝶の羽ばたきを観測すれば、テキサスの天気が必ず予報可能になるというわけにはいきません。

とはいえ、この理論によれば、もしこの世全体がカオス系であるとしたら、自然界にあるどんな小さな要素の変化でも、それは未来に大きな影響を与えるということになり、その未来予測は実際上不可能ではありますが、すべてはつながっている、ということになります。

以後、バタフライ効果が現れる具体的な例として、気温・風・波などの状態・変化や道路における自動車の自然渋滞、株価の値動きなどが確認されるようになり、たとえ小さな変化においても、未来は変わりうる、ということを科学者の多くが信じるようになりました。

この「バタフライ・エフェクト」は、その名前のまま、2004年に映画化され、日本では2005年5月に公開されました。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリカで初登場1位を記録したほか、2006年には続編「バタフライ・エフェクト2」が2009年には「バタフライ・エフェクト3」が公開されました。

一番最初の作のあらすじとしては、時折、記憶を喪失するある少年が、成長してからはその症状も次第になくなっていきますが、ある日、その幼いころの治療の過程で書いていた日記を読みかえしたところ、その「読み返す」という行為によって、過去に戻れる能力がある事を知ります。

彼には幼馴染の女性がおり、彼の幼いころの行動でこの幼馴染の人生を狂わせてしまったという負い目を持っており、彼はこの能力を使って過去に戻り、彼女の運命を変える事を決意します。

しかし、実際に過去に戻り、選択肢を変えることによって新たに始まった人生では、この幼馴染も含めて彼の愛する誰もが幸せではありませんでした。失望した彼は、再び現在に戻り、過去へと戻れる日記などを燃やすことにし、また、二度とこの幼馴染にも会わないと決めます。

8年後、彼は医師となって街中を歩いており、そこにかの幼馴染の姿を見かけますが、彼は既に彼女のことをはっきりと覚えておらず、不思議そうに見覚えのあるその女性をしばらく見ていますが、やがて彼女に背を向けて、再び歩き始めていく……というストーリーです。

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ネタバレになるので細かい部分は省略していますが、結構面白い話なので、見たことがない方はレンタルビデオで借りて見られると良いでしょう。

以後、こうしたバタフライ効果をテーマにした映画や小説がたくさん作られるようになり、日本においても、漫画家の「かわぐちかいじ」さんの描いた、「ジパング」が、講談社の漫画雑誌「モーニング」に連載され、好評を博しました。

こちらのストーリーとしては、西暦200X年の6月のある日、海上自衛隊の自衛艦隊のイージス艦がミッドウェー沖合で突如嵐に巻き込まれ落雷を受け、タイムスリップしてしまいます。

そしてタイムスリップした先は、ミッドウェー海戦直前の1942年6月4日の太平洋上であり、そこには戦艦大和以下大日本帝国海軍連合艦隊がいました。突然の出来事に戸惑う艦長以下の隊員たちは、こうした戦争には関わるまいと戦線を離脱しようと決意しますが、そんな彼等の前に、撃墜され水没しつつある零式水上観測機が現れます。

その沈みゆくゼロ戦の後席には、高級士官らしい人物が気を失って坐乗しており、クルーの多くは彼を救出すれば時代の変化に関わることになるため無視しようとします。

ところが、この船の副艦長で、気骨のある人物としてクルーの多くにも慕われている主人公が、単身船から飛び込み、零戦から彼を救出してしまいます。このことから結局、好むと好まざるにかかわらず、彼等はこの戦争に関わってしまったことになり、やがて日米双方の争いに巻き込まれていく……といった話です。

この話の中では、タイムスリップしてしまった彼等がこの戦争に関わってしまうことで、時代が変わってしまうと自覚し、何とか関わらないようにする、というところがミソであり、バタフライ効果に関する言及も何ヶ所かで出てきます。が、最新鋭の自衛艦が二次大戦の真っただ中に突然現れるというのは、もはやバタフライ効果どころではありません。

こんな荒唐無稽は話は無論現実にあるわけはありませんが、ただ、その影響を与えるものが大きいか小さいかは関係なく、ともかくもどんな些細なことでも、世の中を変えてしまう可能性がある、と考えさせられるのがバタフライ効果であり、これを気にし出すと、おいそれとゴミも捨てられなくなってしまいそうです。

もう二年ほども前になりますが、このブログで、「魂の真実」という本の内容について触れたことがありました。著者は、「木村忠孝」さんという現役のお医者さんで、アメリカでの臨床経験を経て日本で開業され、その後転職をされていなければ現在も、北九州市の春日病院という病院の院長さんをおやりになっているはずです。

「魂の真実」における木村先生の主張のひとつは、我々の肉体などのように目に見える物資は、粗い振動数の低い波動帯でできている世界にあり、一方では素粒子のように目に見えないものは、よりきめの細かい振動数を持ちより高い波動帯の世界にあるということです。

粗い波動帯に住む我々には、振動数の高い波動帯の世界は目に見えませんから、素粒子もみることができないわけですが、こうした振動数の高い波動帯でできている物質で満ち満ちている世界の中には、霊の世界もある、といいます。無論、波動帯はひとつではなく、波動の違う波動帯がたくさんあり、このため霊界も一つ一つ細分化されています。

たとえば、あるひとつの高い振動数を持つ波動帯でできた霊界があるとします。現世にいる我々の目からは当然のことながら、その世界を見ることはできませんが、その世界に住み、同じ振動数でできた体を持った霊たちにとっては、我々の世界で我々の世界の物質をみるのと同じように、その世界の物質を普通にみることができ、触ることもできます。

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この世界の霊たちは、振動数を自由に変更することができ、そのことによりその世界からより高い波動帯の霊界へ行くことも低い世界へ行くこともでき、このことによって、もし我々の世界に現れたなら、その姿は突然消えたり、現れたりしてみえます。つまり、我々がいうところの「幽霊」とは、それができる世界の「人」が、我々の住む世界に波動を変えて現れた姿ということになります。

こうしたあちらの世界の住人の振動数の変化は、時空の変化ともつながっています。つまり、私たちが現れたり、触れたりできるこの世界以外に、数多くの霊界があり、この霊界と我々の住む世界は時に重なりあい、また隣り合わせしており、単に空間的に重なっているだけではく、それぞれの住人の波動が影響しあって時間とともに変化します。

ただ、我々より振動数の高い霊界においては、精神活動を作動させる波動帯と、周囲の環境を形作る波動帯がより近似しているので、意識や思考するだけで、それによって発生するエネルギーによって、周囲の環境や世界を作ることが可能ですが、波動の低い世界に住む我々にはそれはできず、思考だけで世界は変えられません。

より波動の高い霊界、しかもその霊界にも波動帯の違う霊界が数多くあり、それらの世界が重なりあうとともに、我々の世界とももつながっているということは、つまり我々がちょとした行動を起こすことでそこから発せられた波動の変化は、我々の世界のみならず、そうしたより次元の高い世界の波動へも影響を与える、ということになります。

こう考えてくると、バタフライ効果というのは、この世のものだけでなく、あの世にまで影響しうる現象だということになります。現世に住まう我々は、ちょっと考えたり意識したりするだけでモノの形を変えたりすることはできませんが、その思考が良いものであるか悪いものであるかは別として、それはあちらの人達に何等かの影響を与えます。

つまり、悪しき考えはあちら側にも悪影響を与え、逆に良い考え方はあちらの世界をも明るくします。いわんや、口から突いて出る言葉などのように「音」として表現されたものも当然あちらにも伝わります。「言霊(ことだま)」という言葉がありますが、これは口から出た言葉はすべて魂に響き合うもの、といった意味です。

従って、人をののしったり、悪口を言ったりしたことはそのまま、言霊としてあちらの世にも伝わり悪影響を及ぼしますが、良い言葉や美しい音楽はあの世を癒し明るくします。言霊によるバタフライ効果は、あの世にも及ぶわけです。

また言葉だけではありません。ヒトが取る行動もまた、我々の住む世界だけでなく、あの世にも影響を与えます。戦争や殺人といった悪しき行為や、詐欺、窃盗に至るまで、この世に蔓延する悪行はあの世にも波動として伝わり、影響を与えます。

こうして考えてくると、我々の日常における一挙手一投足のひとつひとつは、すべての世界に関わってくるということになり、いかに日頃の行いが大事か、ということが思い知らされます。

いつもいつもいいことばかりをやっている、というのはヒトとして疲れてしまうかもしれませんが、善行はやはりこの世とあの世をよくするための一番の薬です。しかし、たとえ善行ばかりできなくても、普通に生き、悪いことだけはやらないよう戒めて生きていく、というのは平常な世界を保つということでもあり、それだけでも十分意味があります。

ところで、木村先生によると、この世界に住まう私たちの体にある細胞はそれぞれ一定の周波数を持っており、その周波数はある一定の範囲であるからこそ集合体としてまとまることができ、このため肉体というものが存在するのだそうです。

肉体だけでなく、この世にあって、我々が見ることができる物質は、すべて波動がいろいろな形に姿を変えたものにすぎず、ある波動とある波動が干渉、交叉し、いろいろな形ができますが、こうした交わりはまた色の変化としても現れます。

この色というものは、波動の内容や働きを知らせるひとつの表現方法なのだそうで、色の種類や統合、区分、変化の仕方によって、一見してその働き、機能を知ることができるといいます。

一方、この肉体を形成している細胞の持つエネルギーは光となって体外に放射されています。これをバイオフォトン、バイオプラズマと呼び、一般的には、「オーラ」として知られています。

この我々が放射しているオーラは、考えや気分、感情によってその振動数波長が変わるため、当然色も変わります。つまり、オーラの色をみることによって、その人の今の状態がわかるわけです。

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俗に言う霊能者と呼ばれる人達は、このオーラを見ることのできる第三の目の機能がすごく発達していて、相手に触るだけでその相手が思っていることが瞬時にわかったり、目隠ししていても相手の持っている物質が放つ振動数波長でそれが何であるか当てたりすることができ、無論、オーラの色や形も目視することもできます。

それだけ高い波動を見たり感じたりできる人達ということで、より次元の高い霊の世界の住人たちに近いひとたちと考えることができるでしょう。そういう人達が、幽霊ではなくこの世に存在するというのは、やはり霊界と我々の世界の橋渡しの役割を担っているためと考えることができます。

このオーラの色は、現世において肉体を持っている我々の代名詞のようなものです。悪行ばかりをやっている人のオーラはきっとドス黒いに違いなく、他人を愛し、善行を及ぼす人達のオーラは慈愛にあふれた緑色をしているに違いありません。

が、普通の我々にはなかなか見ることができないもので、何とかならんかいな、といつも思います。

しかし、今年初めにお会いした、広島在住の霊能者Sさんによれば、オーラはある程度訓練をするとみることができるようになるそうで、その訓練のひとつとして、24色の色鉛筆のセットを使うといいそうです。

このエンピツを、それを見ずに目をつむって指先で触り、この色は何か、を当てる訓練を繰り返しているうちに、オーラを見る能力が備わってくるといいます。そして折を見て、鏡を見て自分の周辺にもやっとした色が見えてくるようなら、訓練の成果が出てきている証拠だそうです。

自分でもオーラを見ることができるようになり、自分で自分の状態を確認できるようになるということは素晴らしいことです。つまり、オーラの色を見ながら自分の健康状態や心理状態をコントロールできるわけであり、より高い次元に上ったことになります。

オーラが見えるということは、自分の波動がより高まっているということでもあると思われ、そうしたら、もしかしたらあちらの世界の人も見えるようになってくるのかもしれず、今年後半は、こうした自分の霊能力をアップする、ということに取り組んでみるのもいいかもしれません。

さて、みなさんの今年前半はいかがだったでしょうか。もしかしたら、あまりかんばしくないこともいろいろあったかもしれませんが、すべてが世界全体につながっていると考えれば、逆にあちらの世界からは良い波動を受けており、そのために健康でいられるのかもしれず、すべてはけっして無駄ではありません。

すべてのことはつながっている、すべてのことには意味がある、と考えて今年の後半戦も頑張りましょう!

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ストレスとスピリチュアル

2014-3344サッカーワールドカップで、日本代表チームの一次予選敗退が決まりました。

過去最強のチームとも言われ、日本中が熱狂して応援旗を掲げた大会でしたが、終わってみると一勝もできず、試合をしていた選手達もそうでしょうが、応援していた国民の多くも、何やら夢でも見ていたような気が抜けたような、そんな気分の中にいるようです。

思えば、ほんの半年前には、オリンピックで同じような熱狂があったわけですが、ここでは勝利が相次ぎ皆が満足したものの、今回の大会では不完全燃焼の感は否めず、やり場のない気持ちの持っていきようのないこの状態は、大きなフラストレーションを生みそうです。

このフラストレーション (frustration) とは、欲求が何らかの障害によって阻止され、満足されない状態にあることです。

人は、欲求を満たすための行動を起こします。しかし、なんらかの原因によってその欲求を満たすことができないと、不愉快な気分になったり不安や緊張を感じます。この状態をフラストレーションの状態と言い、そして、その状態を解消しようと、暴飲暴食に走ったり、思い切り暴れ回ったりと、さまざまな行動を示します。

これはつまりストレスの発散であり、このストレスの原因はストレッサーと呼ばれ、これはストレスを生物に与える何らかの刺激のことを言います。その範囲は広く、暑さ寒さや痛みといった物質的な刺激の場合もありますが、怒り、苦しみ、など心理手的なものもストレッサーになります。

今、われわれ日本人が感じているストレスは、ワールドカップにおける日本チームの敗戦が引き金となり、日本人としての誇りが傷つけられたことへの憤りがストレッサーになっているのでしょう。

しかし、それを頑張った選手達のせいにすることもできず、かといって自分でどうこうできる問題でもなく、どこへも気持ちの持って行きようのないところがストレスとなり、フラストレーションが溜まるわけです。

そこで、ヤケ酒を煽ったり、くっそぉ~~とやみくもに走り回ったりしてしまう人もいるでしょうが、日本を破ったコロンビアやコートジボアール産のコーヒーなんか一生買わないぞ~、とばかりに自宅にあったそれを焼き捨てたりする人もいるかもしれません。

こうしたストレスによって引き起こされる行動は、ストレス反応といいます。このストレス反応は、医学的に説明すると、「ホメオスタシス(恒常性)によって一定に保たれている生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する際に生じる反応」、だそうです。

だんだんと難しくなってきますが、このホメオスタシス、つまり「恒常性」は生物のもつ重要な性質のひとつで、もう少しやさしく言うと、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質です。

ちっともやさしくないじゃないか、とまたストレスを溜めてしまいそうですが、つまり、生物が生物である要件のひとつであり、人間の健康を定義する重要な要素でもあります。

恒常性の保たれている、というのは、その生体の体温や血圧、体液の浸透圧やpHなどがバランスよく保たれている状態であり、また病原微生物やウイルスといった異物の排除、創傷の修復などがウマくいっている状態であり、つまりは普通に生活している状態です。

ストレスは、この恒常性を崩しますが、この崩れた状態には、必要性があって崩れる場合とそれ以上に過剰に崩れる場合のふたつがあります。

前者は生体的に有益であるため、「快ストレス」といい、後者は不利益であるため「不快ストレス」といいます。快ストレスの場合は、適度な量のストレスであり、これがないと、恒常性が失われてしまうために感じるべくして感じるストレスです。

あまりいい例が思い浮かびませんが、例えば、ぬるい風呂よりもやや熱めの風呂のほうが体は心地よく感じます。やや熱いというのは適度な量のストレスであり、このほうが体は快く感じますが、逆に水風呂では冷たすぎて、体がびっくりしてしまいます。

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行き過ぎた過剰なストレスを感じると、恒常性が崩され、不快になります。これがフラストレーションです。こうしたフラストレーションなどのストレスが貯まりすぎ、ある一定の限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗が生じます。この摩耗の事を医学的には、「アロスタティック負荷」と呼びます。

アロスタティックというのは、「アロスタシス」という言葉から来ています。これは「体が変化しつつ、ストレスに立ち向かう仕組み」であり、ヒトはストレスのなすがままにしていたのでは体がもたないため、体のほうでもストレスに合わせて変化して、それに対抗する必要があり、その仕組みがアロスタシスです。

通常は、ストレスに対応して体がこれに慣れようとしますが、アロスタティック負荷が大きくなって限界を超え、心や体がぼろぼろになるような状態になると、過剰にこのストレスに反応しようとし、これがひどい場合には「ストレス障害」などの病的な症状をおこします。

急性のストレス障害ともなると、急激に高血圧になったり、消化器系に炎症を起こしたりしますが、通常のストレス障害の場合、そのストレスの原因となったトラウマの体験後4週間以内に、そのストレスのフラッシュバックや感情鈍磨などが現れます。

例えば、今回の日本の敗戦の結果、コロンビアの選手が日本側のゴールにボールを入れたシーンがやたらに鮮やかに脳裏に蘇ってくるとか、長友選手が試合後に涙をためて言葉を詰まらせた、といったことが、1ヶ月ほどのあいだ何度もフラッシュバックされたり、といったことです。

もし、こうしたフラッシュバックなどが頻繁におき、仕事も勉強も手に付かずぼーっとしているあなたがいたとしたら、それがつまり感情鈍磨であり、ストレス障害を疑った方がよいかもしれません。

一方では、こうしたショックよりもさらにひどいショック、例えば地震や火事のような災害、または事故、いじめや虐待、強姦、体罰などの大きな事件に遭遇すると、PTSDになる、とよく言わます。このPTSDとは、「外的外傷後ストレス障害」のことであり、これもストレス障害の一種です。

ただ、PTSDの場合、恐怖や無力感を感じ、感情が萎縮して、希望や関心がなくなったり、悪夢を見たりと、より症状がひどく、フラッシュバックは無論のこと、外傷体験以前になかった睡眠障害、怒りの爆発や混乱といったパニック症状が現れ、これらの症状が1か月以上経ってもなお持続することもあります。

症状が3か月未満で収まることもあれば、それ以上続いて慢性になることもあり、通常は重大なショックを受けてから6か月以内に発症するものですが、6か月以上遅れて発症する「遅延型」もあります。

が、一般のストレス障害はこれほどひどい症状は出ません。ましてや、好きなサッカーチームが試合で負けたぐらいでは、普通の人はストレス障害なんかにはなりません。

しかし、中にはサッカーこそが生きがいである人もいると考えられ、これはむしろ選手のほうに多いと思われ、こういう人達は長期的にはうつ病になったり、円形脱毛症になったりと、社会生活を送る上でも支障の出るような重大な病気になっていく可能性があります。

応援する側では、うつ病にまでなる人はそうそう多くはないとは思いますが、熱烈なサッカーファンもいることでもあり、この大会に賭けていた、という人もいるでしょうし、文字通り「賭け」をしてお金を失ったヒトもいたりして、そうした人達がストレス障害にかからないとは言い切れません。

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普通の人はスポーツで負けたぐらいでは落ち込みませんが、とくにネガっち思考の人には可能性がないわけでもないわけで、こうした人たちには適切なストレス対処が必要です。

その対処方としては、まずはストレッサーの解決を目指し、ストレスを溜める要因となった事柄に関して冷静になって改めて情報収集を行い、それをもとに自分がとった行動を再検証し、そこから解決策をみつけたりします。

また、「忘却とは忘れさることなり」、というわけで、起因となったストレッサーや問題を頭の中から追いだす、といったことも有効で、こうした基本対策を含め、ストレス対策をとることを総称して「ストレスコーピング」といいます。

または、「ストレス・マネジメント」ともいい、さらに具体的な方法としてどんなものがあるかといえば、その基本としてはまず、「3R」があります。Rest(休憩)、Relaxation(リラクゼーション)、Recreation(レクリエーション)であり、ようはストレスの対象から外れて、自分を解放して楽しませる、といったことが重要です。

趣味に没頭したり、運動をやったり、温泉に入る、あるいは瞑想する、といったことも効果があり、それでもストレスが解消しない場合は、自律訓練法、心理療法などが適用され、このほかにも認知療法といった医学的なアプローチがあります。

認知療法というのは、あまり聞き慣れない治療法ですが、ヒトは世界のありのままを観ているのではなく、その一部を抽出し、解釈し、自己に帰属させるなどのプロセスを経て「認知」しているのであって、その認知には必ず個人差があり、客観的な世界そのものとは異なっています。

それゆえ、誤解や思い込み、拡大解釈などが含まれた自らに「不都合な認知」をしてしまい、結果として怒り、悲しみ、混乱といった、嫌な気分が生じてきます。

このため、認知療法では不快な気分や不適切な行動の背景として「考え方」つまり「認知」の仕方に着目し、この中で不都合な認知が何であるかをみつけ、これに対して気分がどう変わっていったのかといった、「気分の流れ」などを紙に書いて把握します。

また、それをみながら、別の気分の流れはなかったか、別の流れであれば不快にならなかったのではないか、などの観点を見つけるべく、紙に書いたものに繰り返し修正を試みたりもします。

つまり認知療法とは、「認知の歪み」を治すことであり、このため間違った解釈に対する反証を見つけてあげたり、多面的に解釈ができるように手助けをしてあげることです。

このように自らの認知を修正することによって、身体反応が軽減したり、苦しみの少ない方向に情動が変化したり、より建設的な方向に行動出来るようになったりできるようになります。

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さらに、ストレスの症状や苦痛の程度についてスケール(尺度)で表現したり、イメージの置き換え、自己教示、間違った考えの中断(思考中断)、直接的な議論、などなどの方法により色々な「認知修正」が試されますが、案外とそのプロセスの中に単なる「気晴らし」を加えるのも有効なようです。

うつ病や不安障害に科学的に証明された確実な効果が認められているといい、他の治療法より短い時間で効果が大きいことが証明されており、アメリカの保険会社やイギリス政府は治療効果を承認しているそうで、日本でもこれからより普及していくかもしれません。

治療は一般的に医師や心理カウンセラーのもとで行われますが、最近では、認知療法を対話形式で行うことができる書籍も出版されています。が、日本では書籍やメディアでもてはやされるほどには、治療者がいないのが現状です。

ところで、こうした医学的にも認められているストレス治療法以外に、「前世療法」というものがあります。

催眠療法の一種ともいわれますが、いわゆる「退行催眠」により患者の記憶を本人の出産以前まで誘導し、ストレスなどの心的外傷等を取り除くとされており、アメリカの精神科医であるブライアン・L・ワイス博士によって提唱されたものです。

このブログでも以前何度かご紹介したものですが、催眠療法中に「前世の記憶」が発見され、これを自覚することによってその障害が取り除かれるとされるもので、ワイス博士1986年に記した著著、”Life Between Life” という本で世に知られるようになりました。

退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(前世記憶)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったり、治療に役立つともされ、その後、多くのケースで施行され、その効果が認められてきました。

以後、ワイス博士に賛同する人も増えて博士と同様に前世療法を実践する人も多くなり、例えばカナダ・トロント大学医学部のジョエル・ホイットン博士は、約30人の被験者を集め、退行催眠を用い彼らの記憶を探りました。

その結果、全員に複数の前世と思しき記憶が見られ、原始時代まで遡る事が出来たといい、被験者の全員が「魂には男女の性別がない」と語り、多くの被験者が現在とは違う性に生まれた経験がありました。そして全員が「人生の目的は進化し学んでいくことであり、何度も生まれ変わりを繰り返すことによってその機会が与えられている」と語りました。

この前世の記憶の再生がなぜ「療法」なのかといえば、例えばホイットン博士の実験では、被験者が前世記憶を辿ったところ、心理的・肉体的に深く癒される、という結果が得られたためです。

また、同じアメリカのテネシー州にあるカンバーランド病院内に女性精神科病棟を創設したことで知られるドリーン・バーチュー博士は、セラピストとして患者に接した実例から、過去の事故や戦争により受けた傷が、生まれつき現在の体に備わっていることがあることを示し、前世の記憶をよみがえらせることでこれが治療できる可能性を示しました。

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このほか、同じくアメリカの心理カウンセラー、キャロル・ボーマンは精神的な心的外傷などを治療する事を目的として、子供を対象に多くの前世療法を施しています。ボーマン氏は「子どもたちの前世」という新しい研究分野の第一人者として、広く認知されている人です

このキャロル・ボーマンが示した症例の中には、精神的障害を持つ5歳の白人の子供がかつて黒人の兵士であったという「前世記憶」を持っていたケースがあり、この例の場合、子供が語る戦争についての記憶はかなり詳しく、当時の大砲、武器の特徴まで詳細に描写したといいます。

こうした前世で戦争経験を持ったことのある例では、その前世の体験が現在の肉体に身体的特徴として現れる場合も多いといい、例えば前世の戦争で亡くした片足に現世では大きな腫瘍ができていたり、また大砲のような大きな音を聞くと、恐怖で凍り付いてしまう、といった具合です。

戦争体験のようなPTSDにもかかりそうな精神的にも深刻的なダメージを受けたあとに転生した場合、こうした前世での経験が現世でのストレスの原因にもなりうるといったことなども次第にわかってきており、こうした前世の記憶を精神医学的な治療に役立てる具体的な方法については、多くの科学者たちが研究をはじめています。

例えば、上述のジョエル・ホイットンの実験では、退行催眠により現れた記憶を「前世」のものと仮定することで、子供が生まれながらに持つ言語的なまりや恐怖症、癖や異様な性癖などの特徴が発生した原因を矛盾なく説明できたといいます。

日本においては、こうした研究はまだまだの感があるようですが、元福島大学の教授、飯田史彦さんが「前世の記憶」を語った子供たちの事例を集め、その真偽を詳しく調査した結果、証言内容の人物が実在し、証言通りの死に方をしていることなどを示しています。

また被験者の発言内容の多く歴史的事象と一致していたことなども証明し、前世での死に方や病気が現生に影響している可能性を示しました。こうした話は、飯田さんの著著にたくさん出ていますので、本屋に行って「飯田史彦」さんの名前で探してみてください。

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こうした、前世回帰は、一般に幼児期に見られることが多く、子供によっては鮮明に前世のことを覚えていて、覚醒状態でそれを話すことができる子もいるようです。しかし、大人になってからは、前世の記憶があいまいになるケースが多く、これを引きだすために必要なのが催眠療法のような措置です。

アメリカ合衆国のヴァージニア大学精神科の主任教授イアン・スティーヴンソン博士は、人間の発達は、遺伝要因と環境要因に加えて,「生まれ変わり」という第3の要因の影響を受けるのではないか、と推測し、彼が率いる研究グループは、東南アジアを中心に、前世の記憶を持つとされる子どもたちの事例を2300例ほど集めました。

スティーヴンソン博士は、主として2歳から5歳までの間に「前世の記憶をよみがえらせた」子供とその関係者を研究対象として選びました。その調査方法は主に面接調査であり、これにより子供がもつ記憶の歪み、証言者たちの相互の証言の食い違いがないかを調査し、「前世の家族」を明らかにしました。

この結果、「乳幼児期の恐怖症」「幼児期に見られる変わった興味と遊び」「(酒類やタバコなど)大人の嗜好品への愛好」「早熟な性的行動」「性同一性障害」「一卵性双生児に見られる相違点」「子供が持つ理不尽な攻撃性」「左利き」「母斑」「先天的欠損」などの広範な現象は、生まれ変わり説を採用することで容易に説明できるということがわかりました。

こうしたことから、ストレスについても前世から引き継いだ何らかのカルマであることも考えられ、例えば何につけてもストレスを溜めやすい、といった性癖がある人は、前世においてセクハラやパワハラ、幼児虐待を受けるなど、そうした抑圧された生活が原因で前世では鬱屈した一生を送った、といったことも考えられるわけです。

このケースでは、今生ではそのストレスを発散し、前世で抑圧された魂が解放されることが、現世に転生してきた理由、といいうことになるでしょうか。

しかし、こうした前世があるかないかという議論については、いつの時代にもついていけないという人がいます。

例えば上述のように幼い子供が被験者であることを元にした仮説に対しては、試験した子供が実は嘘をついていたのではないか、といったふうに考える人が必ずおり、また「前世があった」と語る子供は、そのことを自分自身に強く言い聞かせることで、自分自身をだましているのではないか、つまり自己欺瞞に陥っているのではないか、という人もいます。

また、すべてを単なる偶然の一致と片付ける偶然説をとる人、前世の人物に関する情報をテレビや新聞などのマスコミなどから見聞きしたことが表面化したのだという潜在意識説や、記憶錯誤説などを唱える人も少なくありません。

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とくにもっともらしい反論としては、「遺伝記憶説」というものもあります。

これは「前世の人物」が親戚や家族だとされるケースなどでは、その子供が遺伝の影響により故人から何らかの記憶を受け継いだのではないか、という解釈です。しかし、上述の科学者達がこれまでに調べたケースでは、子供が持つ「前世」の記憶は極めて詳細にわたるのに対し、遺伝に基づくと証明される記憶は過小で、この説には説得力がありません。

このほか、通常では知るすべのない出来事を子供が知っているのは「超能力」によるものであり、そうした能力によって得られた情報を「前世の情報」としてまとめあげたのではないか、とする「超能力説」もあります。が、調査された子どもたちのなかで、超能力をもっていたと証明されたような例はこれまでありません。

さらには、憑依説というものもあります。この説では,「肉体を持たない人格」という実体、つまり霊の存在を認めた上で、それが肉体にとり付いて子供たちを支配していると考えます。しかし,もし本当に子供たちに霊が憑依したのならば,その支配に成功した人格が,子供たちが4~8歳になった以降に、急に憑依をやめてしまうのは疑問が残ります。

また、憑依した霊の人格と取りつかれた人格とが闘う、といった人格分裂の傾向はこうした子供たちには見られていません。成長著しい子供たちは、その過程でも特に人格の変化を見せることはなくそうした記憶を話すことから、人格変化や意識変化を伴うことの多い憑依と前世回帰とは違う現象です。

スティーヴンソン博士はこのように前世を否定する「仮説」に対してひとつひとつ反論のための傍証を重ね、いずれもが妥当ではないことを確認し、間違いなく生まれ変わりはありうる、と断言した上で、こうした前世を子供たちに思い出させることは、その子供たちが成長後に患る病気の治療にも役立つことをも示しました。

さらに、子供たちの中には、自殺で生涯を終えた前世を語る者もいます。こうした事例は「自殺しても苦しみは終わらない」ことを自殺願望者に気付かせるきっかけとなるのではないか、と博士は期待しているそうです。

ただ、こうした前世療法で使われる退行催眠において、催眠状態がもたらす「記憶の歪み」はしばしば批判の対象となってきました。つまり、退行催眠によって思い出されたことの史実上での裏付けを取ると、微妙に事実と異なることがあり、これが「歪み」だとされます。この現象について前述のブライアン・ワイス博士は以下の見解を示しています。

「ゆがみについては、例えば、ある人を子供時代まで退行させて、幼稚園のことを思い出すよう指示すれば、当時の先生の名前や自分の服装や壁に貼ってあった地図、友達のこと、教室のみどり色の壁紙などを思い出すかもしれない。」

「そして、そのあとでいろいろ調べてみると、幼稚園の壁紙は本当は黄色だったこと、緑色の壁紙は、実は幼稚園ではなく小学校一年生の時のことだとわかったとしよう。しかし、だからといって、その記憶は間違ったソースから来ている記憶とは言えない。」

ワイス博士はまた、過去世の記憶は一種の歴史小説のような性格をもっており、思い出した過去生はファンタジーや創作的な要素が強いものもあり、ゆがみ等も当然あるかもしれない、しかし、その核心にはしっかりした正確な記憶があり、「それらの記憶はすべて現世で役に立つものである」、と語っています。

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こうした、前世療法などを駆使して病気を治す手法は、スピリチュアルケア(spiritual care)として近年着目を浴びています。「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守る術のことです。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しもが抱えています。

スピリチュアルケアというのは、こういった問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけることです。

人は誰でも、たとえ元気なときでも、どこか潜在意識的にスピリチュアルケアを必要としているといい、ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したとき、あるいは死に直面しているときなどは、なおさら、霊的な助けが欲しいと感じるようになるといいます。

ところが、現代西洋医学というのは、機械医療、つまりハイテクノロジー重視の医療へと変化してしまっており、こうした霊的な観点からの治療を非科学的だとみなし、むしろ廃除しようとする傾向があります。

西洋にその起源を発する、古い伝統的医学はスピリチュアリズムに寛容でしたが、各文化圏の伝統医療は、長い時代の変遷とともに、そうした部分をかなぐり捨て、機械医療に特化してしまいました。このため、現代西洋医学の従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズや、その切実な叫びに耳を貸さなくなってしまっています。

また、現代社会においては、若さ・バイタリティー・美などが高く評価されますが、一方で、苦しむことや病気の状態を生きること、あるいは死ぬことといった、後ろ向きなイメージのあることがらについてはむしろタブー視する傾向があり、これらについて深い考察を行ったり、言及することを避ける人も多いように思われます。

ところが、病いや死は突然やってきます。その段になって初めて、人はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアル的な問いを自分に対して行いますが、それまでの怠慢がたたって、そうした段階ではなかなか素直にその世界へは入っていけません。

スピリチュアル・ケアというのは、こうした人達に死後の世界はどういうものかを教える、真剣に病気や死と向き合い、それがどういう意味を持つかを考えさせる、といった教育的なことも含んでおり、身体的ケア・精神的ケア・心理的ケアに次いで、人間にとっての究極的なケアとまで評価する人もいます。

前述の飯田史彦さんは、スピリチュアル・ケアとメンタル・ケアとの違いは、メンタル・ケアが「とにかく大丈夫ですよ」などと答えをあいまいにしたままであるのに対して、スピリチュアル・ケアにおいては「人生についての根本的疑問」に理路整然と回答し、納得を得る必要があることだとしています。

つまり、現生を生きている意味をしっかりと自分で考えるとともに、前世と照らし合わせた上で、自分がなぜ今生に生まれてきたのか、これまでの人生で何が得られてきたのか、今この世を去るとして、来世に残すべき課題は何なのか、といったことを整理し、納得することこそが、スピリチュアル・ケアにつながります。

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ところで、前世を思い出すには、専門家による催眠療法がないとできない、と思っている人も多いかもしれませんが、前世の記憶は、専門家の助けを得なくても自分だけで取り戻すことができます。

ワイス博士の著書は日本でも翻訳されて発売されており、これらについているCDなどで、自己催眠をかけるのはそのひとつの方法です。が、こうしたツールがなくても、部屋を落ち着けてリラックスできる環境にし、ベッドに寝て深くゆっくり呼吸しながら自分で催眠状態を作り出すこともでき、こうした自律訓練的な方法を試してみるのもひとつの手です。

私も自分でときどきこうした自己催眠を行い、色々な前世の出来事を思い出していますが、こうした中で過去生における亡き先妻とおぼしき人物に出会ったり、悪行の限りをつくした自分の過去を思いだしたりもしています。

が、こうした自己催眠効果は個人差もかなりあるようで、私は色々なものを見るのですが、嫁のタエさんはあまり見れないとよくぼやいています。

しかし、ここではこれ以上詳しくは説明しませんが、うまく過去生を思い出すようにできるための方法が多くの出版物に掲載されており、またWeb上でもその方法を教えてくれるサイトはたくさんありますので、みなさんも色々探してみてください。

ただ、実際にやってみるとわかりますが、これは夢なのだろうか、あるいは幻影にすぎないのではないかという不安に駆られることもあります

が、大事なのは、ワイス博士も言っているように、記憶にはゆがみがあるかもしれませんが、その根本にはしっかりした正確な記憶があるはずであり、ゆがんでいたとしても、それらは「すべて役に立つもの」であるということです。

そうしたものもまた過去生の記憶の断片と考え、場合によってはそれらを繋ぎ合わせてみて、そこから何が見えてくるかをじっくり考えることが大切です。その核心には現世で役に立つ何かが必ずあるはずであり、それを見つけることことが癒しにつながり、それこそが前世療法を行うことの意味です。

さて、今回のサッカー世界大会における日本チームの敗戦は、今生に住まう我々日本人の記憶に残る苦いものとなりましたが、この記憶もけっして悪いものというわけではありません。

この記憶をもとに、なぜ負けたのか、というその根本的問題を明らかにすることができ、これに素直に向き合ってそこから何らかの回答を得ることが重要であり、何よりもこの敗戦にも意味があったということを知り、その結果に納得することが大事だと思います。

それできたら、今後はそれを更なる発展のために役立てればいいわけであり、その際にはこの敗戦での悔しい思いをバネにすることができ、これによって次の成長を目指して今後ともがんばることができるはずです。無論、頑張るのは選手達だけでなく、応援していた我々もです。

次のワールドカップまでには、たとえ負けたとしても、これに動じず、ストレスを溜めこまないような、ケセラセラと笑い飛ばせる、そんな自分を作りましょう。そう考えると、4年後が楽しみではありませんか。

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阿蘭陀

2014-2460若いころ、仕事の関係で日本国中のあちこちの海岸を飛び回っていました。

高度成長時代、日本では建設工事が急増し、このために骨材として川砂利を大量に採取した結果、川から海岸に供給されていた砂が急減し、あちこちの海岸で侵食を起こすようになっており、私の仕事はその防護と修復が主なものでした。

隣り合う海岸はそれぞれ独立しているわけではなく、互いに砂の供給を補い合うという互助関係にあり、このためひとつの海岸だけの侵食を防げばいいということではなく、周辺の海岸の太り具合や痩せ具合も勘案しながら、対策を進める必要があります。

このため、仕事の対象となる海岸だけでなく、関連する海岸もできるだけたくさん見る必要があり、ある日気がついてみると、日本国中の侵食が著しい海岸はほとんど見てしまい、北海道から沖縄まで行ったことのない都道府県はない、といったことになりました。

しまいにはプライベートでも見たことのない海岸に行くのが趣味のようになり、このため旅に出るとその地域の海を必ず見にいくようになりましたが、複雑な海岸線を持つ場所ではとうていそのすべてを見ることはできず、県によっては何ヶ所しか見る機会がなかったところもあります。

長崎県もそのひとつで、海岸線の長さは4,137kmであり、北方領土を除いた場合には、北海道を抜いて断トツ一位です。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためです。

この地形的特徴により、長崎県には重要港湾と地方港湾を合わせ全部で200以上もの港湾が点在しており、その数は国内の7.4%にも及び、無論これも断トツ一位です。また、長崎県内には海岸線からの距離が15km以上の地点はなく、県のほとんどの地域が海岸沿いといっても過言ではありません。

従って私が訪れたのもこのうちの数カ所だけであり、とくに長崎県北部の北松浦半島の北西端の地域は、最果ての地というかんじで、仕事でもプライベートでも行ったことがありません。

北松浦半島一帯の地域は、島しょ部も多く、北浦半島と平戸瀬戸を挟んで西向かいにある平戸島、そして平戸島の北西にある生月島(いきつきしま)、平戸島の真北にある度島(たくしま)、度島のさらに真北にある的山大島(あづちおおしま)などが、合わせて「平戸市」という行政区域になっています。

旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていましたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併して新たに平戸市となり、これにより本土にも市域が拡大しました。

旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港でした。徳川幕府が開かれる以前の1550年(天文19年)、この地を治めていた松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港を開いて、ここにポルトガルの貿易船が初めて入港しました。

1600年(慶長5年)、松浦鎮信が徳川家康より6万3千石の領地を安堵され、平戸藩が確立。松浦鎮信は1609年(慶長14年)「オランダが商館」を設置することを許されましたが、その後タイオワン事件の勃発によって、閉鎖に追い込まれました。

タイオワン事件というのは、この当時の長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツに代表されるオランダとの間で起きた紛争です。

日本は、鎖国前にはまだ平戸から船を出して台湾や中国とさかんに貿易を行っていましたが、この当時極東には、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が入り込んでおり、日本においても貿易の主導権争いが過熱している時代でもありました。

こうしたことから、元和8年(1622年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地をオランダが攻撃。しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えました。

さらに2年後の寛永元年(1624年)には、オランダは台湾島を占領、城を築いて台南の「安平」をタイオワンと呼び始めます。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとし、中国商人はこれを受け入れました。が、末次平蔵の配下の浜田弥兵衛ら日本の商人達はこれを拒否。

これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせました。このノイツの動きを知った末次平蔵も台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国し、彼らは台湾全土を代表する「使節団」だと言って、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めました。

が、使節団の人員の多くが疱瘡を患い、このため幕府側が接見を拒否したため、平蔵らの目論見は失敗に終わります。しかし家光はノイツらの謁見も拒否しており、彼等もまた何の成果もなく台湾に戻りました。

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以後、ノイツは平蔵の動きに危機感を強め、平蔵が江戸に連れて行った先住民達が帰国すると、全員捕らえて監禁、台湾に渡っていた浜田弥兵衛の船も拘束して武器を取り上げるとともに、以後の渡航禁止を通達しました。

この措置に弥兵衛は激しく抗議し、渡航禁止措置の解除を求めましたが、これを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、ノイツらの隙をついてこれを組み伏せ、人質にとる実力行使に出ます。

驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲しましたが、人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続きました。

しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出しました。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側も人質の返還を求めました。

ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまいます。これに対し、この当時のオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、これ以上日本側との紛争が続き、貿易の利が損なわれることを懸念しました。

このため、「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため」とし、ノイツを解雇し彼も日本に人質として差し出しました。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していましたが、この意外な対応に安堵します。しかし、これが後には鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなりました。

これによって、ノイツは1632年から1636年までの4年間もの間日本に抑留されましたが、その後解放され、オランダに帰りました。ところがノイツと争った、末次平蔵自身はその後捕えられ、獄中で謎の死を遂げています。

その理由はよくわかっていませんが、長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に「平蔵は近いうちに死ぬだろう」と漏らしたという記録が残っており、おそらく幕府は、その後に長く続くことになる日蘭貿易を見越し、オランダと仲の悪い平蔵を邪魔な人物と考え、処分しようとしたのでしょう。

こうして寛永9年(1632年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開されましたが、その後の鎖国政策の実施に先駆け、寛永11年(1634年)には日本人が平戸などから台湾に渡ることは正式に禁止されました。ちなみに台湾は、その後は1662年(寛文元年)に鄭氏政権が誕生するまでオランダによって統治されました。

1639年、幕府はキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放とし、事実上の鎖国政策が始まりました。

1640年、建物の破風に西暦年号が記されていたという事実を口実に江戸幕府は平戸のオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承。商館は1641年に長崎の出島へ移転しました。ここに至り、以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地はこの出島のみに限定されることとなりました。

実は出島は、これに先駆け、1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で造成されていました。幕府が長崎の有力者に命じて作らせたもので、建造費は約4,000両で、これを現在のお金に換算すると約4~5億円となります。

江戸中期の長崎貿易に関する調査記録では、面積3924坪船着き場45坪と記載されていますから、合わせると、400m四方の大きさということになります。

築造費用は、門・橋・塀などの建造費は幕府からの出資でしたが、それ以外は地元長崎の25人の有力商人が出資しました。一方、幕府はポルトガル人に土地使用料を毎年80貫支払うことを当初要求しましたが、初代のオランダ出島商館長となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は55貫、現在の日本円でおよそ1億円ほどに引き下げられました。

1639年、前述のとおり、幕府は鎖国政策を始め、ポルトガル人を国外追放としたため、出島は無人状態となりました。これに対して出島築造の際に出資した商人たちが抗議を起こしたこともあり、新たな火種を作ることを恐れた幕府は、オランダ人にだけ貿易を許すことを認め、平戸にあったオランダ商館を平戸から出島に移すという措置をとりました。

しかし、キリスト教などの異宗教は国禁としたため、オランダ人は、武装と宗教活動は一切を規制されたまま、以後約200年間、監視され続けることになりました。

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とはいえ、この間、ポルトガルやイギリスを抑えて独占で日本との貿易を継続できることとなり、オランダには大きな国益がもたらされました。

幕府がオランダだけに貿易を認めたのは、プロテスタント国家のオランダが「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたためで、幕府は主としてポルトガル人によって国内布教が進んだカトリックだけがキリスト教だと考えていました。

実際には、オランダは日本の外で中国やイギリス、ポルトガルと貿易をしていましたから、幕府としてはオランダを窓口とすることで、諸外国の品を輸入することができ、かつ国内に異教徒が増えることを阻止できます。

国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威であり、国際貿易が維持できるのであれば、積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はありません。このため、逆にこれを弾圧するようになり、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達しました。

岡本大八事件というのは、家康の側近・本多正純の与力で、キリシタンだった岡本大八が、詐欺まがいの事件を犯したもので、これを機に家康のキリスト教徒に対する印象が極めて悪くなったといわれています。

1613年には、キリスト教信仰の禁止が正式に明文化され、鎖国は本格化されていきました。長崎港内に築かれた出島は、その後4区画に分けられ、それぞれにオランダ人、日本の諸役人、通詞の家などが住まうようになり、最終的には倉庫など65棟が建てられました。

出島に滞在するオランダ人は商館長は、「カピタン」と呼ばれるようになり、次席には「ヘトル」がおり、これ以外にも、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人がおり、私ももっとたくさん住まわっていたのかと思いましたが、総勢はおよそ12~13人だったようです。

しかし、商館とは名ばかりで、その生活は「国立の牢獄」と呼ばれるほど不自由でした。商館長は年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見することを義務付けられました。またオランダ商館は長崎奉行の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の「乙名」がオランダ人と直接交渉しました。

出島乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行い、この乙名の下には組頭、筆者(書記)、小使などの役人がいました。

通詞は140人以上もいたといい、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていましたが、それ全員が出島にいたわけではなく、必要に応じてその分野に詳しい通詞が出島に入りました。また、通詞筆頭の大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をしました。

これらのオランダ人と接触を持てる人員以外の一般人の出島商館への出入りは禁止されていましたが、長崎奉行所役人や長崎町年寄などの役人や組頭、宿老、出島専用の町人だけは、公用の場合に限り出入りを許されました。

この出島専用の町人としては、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番などがおり、乙名以下の役人も含めておよそ100人以上の日本人が働いていたといわれます。

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出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていました。「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者がいた場合、例えば抜荷(ぬけに)・密貿易等があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札です。

「禁制」には、次のようなことが書かれていました。

一、傾城之外女入事
一、高野ひじり之外出家山伏入事
一、諸勧進之者並に乞食入事
一、出島廻り傍示木杭之内船乗り廻る事 附橋之下船乗通事
一、断なくして阿蘭陀人出島より外江出る事
右の条々堅可相守もの也

つまり、ここには、遊女以外の女や、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入りは一切許されない、といったことや、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れは禁止、またオランダ人はもちろん許可なく出島からの外出は禁じる、といったことが書かれていました。

先述のとおり、オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上していますが、これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続されました。

1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められましたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えました。この江戸参府の際には、江戸では「長崎屋」、途中の京では「海老屋」が「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられました。

以後、1859年に至るまで、およそ210年余りの年月の間、出島だけで対オランダ貿易が行われるようになり、ここは日本における唯一の外国であり続けました。が、実はこのうちの、1793年から1815年の間の22年間だけは、世界においてオランダという国は存在していませんでした。

1793年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領されて滅亡したためであり、フランス革命軍はネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者にバタヴィア共和国を樹立させました。

やがてナポレオンが皇帝に即位すると、1806年に弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に移行しましたが、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、1815年になってようやくネーデルラント王国が建国されるに至りました。

この間の貿易をどうしていたかというと、オランダはフランスに自国を占領されてからも細々と船を日本へ送っていましたが、やがて自前では用意できなくなくなったため、オランダ東インド会社は1797年にアメリカの船と傭船契約を結び、この船が出島に入港していました。

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1799年には、さらにオランダ東インド会社が解散したため、アメリカの船は1809年(文化6年)までおおっぴらに出島に入港して貿易を行っていたといい、アメリカ船の出島への来航は、1809年までに13回も記録されています。この間、アメリカはこの来航を通じて、貿易を行うだけでなく、ひそかに日本の情報を収集していました。

一般には幕末の嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事が、江戸時代を通じて最初のアメリカ船の来航といわれていますが、実はこのペリー来航に至るまでも、オランダを装いながら色々な日本国内の情報を集めており、これがペリーの来航時にも役だったというわけです。

このアメリカ船の来航はしかし、1810年、オランダが皇帝ナポレオンの率いるフランスによって完全に併合されてしまったため、アメリカとの契約が成り立たなくなり、取りやめになりました。

フランスがオランダを占領し、その後継として建国したバタヴィア共和国からも、オランダの名で船を日本へ出そうとしましたが、この国もまた翌11年には今度はイギリスの占領下に置かれたため、1810年からはついに、3年間もの間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。

この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えたといい、これは現在の価値に換算すると10億円ほどにもなります。

この間、オランダ商館は商館長ドゥーフは、自分が所蔵していた書籍を売るなどして財政難をしのいでいましたが、その後、ようやく1815年になってネーデルランド王国が成立し、出島にもオランダ船が再入港するようになりました。

フランスがオランダに樹立したバタヴィア共和国は、国旗として旧ネーデルラント連邦共和国のものを使っていましたが、1810年にフランスが完全にこの国を併合してからは、この国旗は使われませんでした。

従って、ネーデルランド王国が再興する1815年までのこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだったということになります。

しかし、この短い期間を除けば、以後もオランダと日本の交易は淡々と進められました。

通常、オランダ船は、毎年2隻編成が組まれ、季節風の関係から7~8月ごろに来航していましたが、その航路はこの当時オランダが東アジアの植民地拠点として整備していたジャワ島西北部のバタヴィア(現在のジャカルタ、上述のバタヴィア共和国とは別)に発し、ミンドロ海峡、台湾海峡などを経て、日本に至るというものでした。

台湾からはさらに五島列島に南西の男女群島付近を通り、さらに長崎県最南部の野母崎をめざし、最終的に出島に入港しましたが、その年の11~12月には同じルートを通ってバタヴィアへ帰っていきました。従って、出島での滞在は毎年およそ4ヶ月ほどでした。

出島へのオランダ人の立ち入りは当初厳しく監視されており、とくに女性の立ち入りは禁止されていましたが、幕末に近づくにつれ、次第にそのタガが緩み始め、1817年7月には、5代目の商館長、ブロンホフが妻ティティアと子ジョンや乳母・召使いを同伴して出島に着任しました。

このとき、幕府はこれらの女性たちを出島に入れる事を拒みましたが押し切られ、長崎の町の絵師達はここぞとばかりに出島の入口まで押しかけて、彼女たちを写生し、これを題材に絵を描き、または人形などを制作したものが巷では大売れしました。

ブロンホフの家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国しましたが、日本での滞在期間中、絵師たちがさかんにモチーフにしたのが、ブロンホフ夫人であるティティアであり、彼女は日本へ旅した最初の西洋人女性とされ、この当時も「西洋婦人」として日本国中にその姿見の写しが行きわたりました。

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出島における出入りの禁制のゆるみはその後も続き、文政11年(1828年)9月には、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件がおこりました。

この事件では、これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、その後景保は獄死し、シーボルト自身は文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。世に言うシーボルト事件です。

出島における最後のカピタンとなったのは、ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスです。

オランダ領バタヴィアにおいて、高等法院の評定官、高等軍事法院議官などを歴任後、1852年7月に来日し、同年11月、出島のオランダ商館長に就任しました。就任後は幕府にこの当時の世界事情を伝えるなどの外交活動も積極的に行い、このころの米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしている意図があることを伝えたのもこの人です。

幕府に求められ、海外事情に関する情報書類である「オランダ風説書」を提出する、といったこともやっており、そのひとつである「別段風説書」には、中国(清)におけるアヘン戦争の状況やアメリカの国内事情などの情報が記載されており、幕府はこれによって1853年のペリー来航を事前に知っていました。

クルティウスはまた幕府に対し、来たるべき米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言しましたが、この交渉は不調に終わりました。

しかしその後、2度に渡るペリー艦隊来航の後、1855年(安政2年)に日米和親条約が締結されると、開国政策に転じた幕府の要求に応じ、スンビン号(のち観光丸)を幕府に寄贈するための手配を行いました。

さらには、ヤパン号(のち咸臨丸)とエド号(のち朝陽丸)の軍艦2隻の発注を幕府から受け、長崎海軍伝習所の設立やファビウス、カッテンディーケといった、のちの日本海軍の礎となる技術を伝えることになるオランダ海軍士官の招聘などにも関与。

これらの活躍を通じて日本側の信頼を得ることができ、この結果、安政2年12月23日(1856年1月30日)には、ついに日蘭和親条約が締結されました。さらに、安政4年8月29日(1857年10月16日)、日蘭追加条約を締結。これは自由貿易関係への移行を前提とした貿易規制の緩和を含む、日本が外国と結んだ最初の通商条約でした。

安政5年7月10日(1858年8月17日)には、日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結。これにより、オランダとの間の貿易は、ほぼ自由貿易となりました。

クルティウスはまた、長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官として日蘭間の交渉役を続け、この交渉の過程で日本人へオランダ語を教授するかたわら、自ら日本語の研究も進め、1857年には日本語の文法書「日本文法稿本」まで作成しました。

さらに日本初の有線式実用長距離電信実験に成功し、電信技術を日本にもたらしたのもこの人です。1860年に離日し、帰国しましたが、日本滞在中に蒐集したさまざまな書籍はライデン大学に寄贈され、以後オランダの日本研究の基礎文献とされました。明治12年(1879年)11月27日、故郷のオランダ、アーネムで死去。享年66。

上述の1855年の日蘭和親条約締結においては、オランダ人の長崎市街への出入りが許可されるようになり、翌年の1856年には「出島開放令」が出され、出島における日本人の役人の各種役職も廃止され、3年後の1859年には、オランダ商館も閉鎖されました。

事実上の大使館、また貿易施設としての「出島」としての存在意義は失われるところとなり、明治以降、出島は、1883年(明治16年)から8年間にわたって行われた中島川河口の工事によって北側部分が削られるようになりました。

さらに、1897年(明治30年)から7年にわたって行われた港湾改良工事においては、その周辺を埋め立てられ、ついには「島」でさえなくなりました。その後出島周辺にはビルが建ち並び、どこが島だったのすらわからなくなりましたが、商館があった場所には石碑が立ち、ここは「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。

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1984年(昭和59年)には、2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査が行われ、その結果、出島の東側・南側の石垣が発見され、このときに当時の出島との境界がわかるようにと、道路上に鋲が打たれました。

また、1996年(平成8年)度から長崎市が約170億円かけ、出島の復元事業を進め始め、2000年(平成12年)度までの第1期工事では、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「料理部屋」、オランダ船の船長が使用した「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」の計5棟が完成しました。

その後、第2期復元工事も行荒れ、復元作業は2006年(平成18年)4月1日に完成し、一般公開されています。オランダ船から人や物が搬出入された水門や、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など5棟を復元されているそうです。

長崎市のホームページによれば、今後とも復元作業が続けられ、中央、東部分にあったこのほかの計15棟を復元したのち、周囲に堀を巡らし、扇形の輪郭を復元する予定ということで、現在、筆者部屋他6棟の復元のため、発掘調査中ということです。

長崎市の「出島史跡整備審議会」は2050年を目標に、かつて水に囲まれた扇形の島を完全復元するよう長崎市長に提言しているといいますが、埋め立て後の開発がかなり進んでしまっていることから、はたしてそこまで復元できるかどうかは微妙なところでしょう。

出島は、鎖国によって閉ざされた江戸時代の日本にとって、唯一欧米に開かれた窓であり、細々ながら続けられた諸外国との貿易によってもたらされた物品の数々は、日本の文化や技術が戦国の時代のレベルにとどまってしまう、ということを防ぎました。

8代将軍徳川吉宗によって享保の改革(1717~1741)が行なわれた際には、実学が奨励され、このためキリスト教に関する以外のものであれば、洋書の輸入が解禁されたことから、出島には、医学、天文暦学などの世界最先端の技術書がもたらされ、これによって「蘭学」が発生しました。

この蘭学の普及は、鎖国という政策によって滞ってしまいがちな日本人の思考に合理性と柔軟性を与え、またそこに含まれていた自由・平等の思想はその後幕末の攘夷思想ともつながり、これはその後の明治維新における起爆剤ともなりました。

また、出島を通じて科学技術に長けた才能ある外国人が直接来日しており、これらの中には初期のころにオランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690–1692年滞日)、やツンベルク(1775–1776年滞日)、および幕末のシーボルト(1823–1828年および1859–1862年滞日)らが含まれます。

ちなみにシーボルトはドイツ人ですが、オランダ人と偽って日本に入国しました。

彼等は、西洋諸科学を日本に紹介し、時には通詞を通じて直接日本人に指導を与え、その一方では、帰国後にそれぞれが日本の文化や動植物を研究してヨーロッパに紹介し、これにより日本という国が欧米から忘れさられてしまうことが抑止されました。とくにこの3人の活動を褒めたたえ、「出島の三学者」と言われることもあるようです。

このように日本とオランダは出島を通じて、昔から深い関係にあり、現在も国交を結んで、さかんに貿易を行っています。が、その貿易額は、日本からオランダが1兆5000億円あまり、オランダから日本が2500億円ほどと、明らかに日本からの輸出の方が過剰です。

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日本からオランダへの直接投資も多く、EU加盟国中第1位となっているなど、日蘭の経済関係はさらに重要さを増していますが、実は現在における日本とオランダとの交友関係はそれほど良好というほどでもありません。

というのも、第二次世界大戦中、オランダは日本に対してのみ宣戦布告しており、これは、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府がこれを追認したためです。

この宣戦布告によって、両国は戦争状態に入り、戦時中は、日本軍は石油資源の獲得を主な目的として蘭印作戦と呼ばれるオランダ領東インド(現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、ここを制しています。

日本軍は、ジャワ島内で蘭印軍66000名あまりを含む連合軍82000名を捕虜とし、オランダ民間人を含む欧米の民間人9万人余も収容しました。

このときオランダ人の多くが、自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わったほか、オランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所にも送られ、ここで原爆に遭って被爆しています。

また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした「白馬事件」という事件も起こしています。「白馬」の由来は、白人を白いウマになぞらえていたことからで、1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所から慰安所に強制連行し強制売春させ強姦したといわれています。

終戦後、オランダは、こうした捕虜虐待などの容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰しており、連合国中で最も多い226人の日本人を処刑しました。

このため、戦後も長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)に昭和天皇がオランダ訪問した際には街中に「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがありました。

これらのことからか、1989年(平成元年)の大喪の礼の際も、多くの君主国が王族を派遣したものの、オランダからは王族が葬儀に参列することはありませんでした。

その後1991年(平成3年)にオランダ女王が来日した際には、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会においてこの女王から賠償を要求する発言が飛び出し、これに対して日本政府は総額2億5500万円の医療福祉支援をオランダに対して実施しました。

同年海部俊樹首相がオランダ訪問の際にオランダ人の戦没者慰霊碑に献花した際にオランダ人が花輪を池に投げ捨てるという事態も起きており、いかに反日感情が根強いのかが窺えます。

しかし2000年に今上天皇が訪問した際にはオランダのテレビ番組で献花の様子が公開され、昭和天皇と正反対に熱烈な歓迎を受け、以後オランダ国民の日本皇室に対する感情を大きく変えました。

ただ、慰安婦問題はまだ両国間で解決しておらず、2007年(平成19年)にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされています。この問題は国際法的には解決済みですが、オランダとしてはいまだ被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しいかんじです。

従って、オランダ旅行へ行き、あちらの人がフレンドリーだからといっても、日本がオランダに負った戦争責任のことは頭の隅に置いておく必要があり、また国交があるからといっても、貿易において日本の輸出額のほうが過剰になりすぎている、といったことも覚えておく必要があります。

ただ、ほんの(?)150年ほど前は出島という小さな島においてお互いの友好関係を育んでいたという事実は彼等も覚えているはずであり、この話をきっかけに、オランダ人とももっと仲良くなれるに違いありません。

かつてハワイ大学時代の私の恩師の一人もオランダ人でしたが、20年以上を経た今は音信不通になっており、まだご健在かどうかもわかりません。が、もし時間と金銭的な余裕ができたら、ぜひオランダ本国にも行き、再会を果たしたいものです。

それが無理なら、せめてハウステンボスにでも、今年はぜひ行ってみたいものですが、果たして実現するでしょうか……

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ルーシーと花子

2014-1397カナダ東部に、プリンス・エドワード島(Prince Edward Island、略称PEI)という島があります。カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、小さいながらもプリンス・エドワード・アイランド州というひとつの州でもあります。

カナダの諸州の中では面積、人口共にもっとも小さく、州都はシャーロットタウンです。総面積5,660km²は、愛媛県とほぼ同じくらいで、ここに約14万弱の人が住まい、これは静岡だと焼津市の人口とほぼ同じです。

島といいながらも、同様にカナダ沿海州であるニューブランズウィック州とはノーサンバーランド海峡を隔てて目と鼻の先であり、ここにはコンフェデレーション橋という橋が架けられ、事実上陸続きです。

カナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島という顔も持っています。気候は温暖で、土地は赤土も肥沃。切り立った赤土の崖、しずかな砂浜、なだらかな緑の丘といった風光明媚な場所であるとともに、新鮮なシーフード、独創性あふれる工芸品も有名で、世界トップクラスのゴルフコースもあります。

どれもこの島の魅力を語る上でかかせないものばかりであり、とくに夏場は観光客で賑わいますが、実はそれ以上にこの島は「赤毛のアン」シリーズを書いたL・M・モンゴメリが住んでいた島として高名です。日本でも知名度の高いこの作家の故郷でもあることから、日本人の観光客も多く、その多くは女性だといいます。

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)は、カナダでも最も高名な小説家のひとりです。島の西北部にあるクリフトンという場所で生まれましたが、ここは現在、ニューロンドンと呼ばれています。地名からもわかるようにイギリスやスコットランドからの移民が多く、モンゴメリもまたスコットランド系とイギリス系の祖先を持ちます。

28歳のころ、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編小説「赤毛のアン」を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収めました。続く11冊の本も、連作「アン・ブックス」として人気を博し、1935年にはフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けるなど、カナダでも最も有名な作家に上り詰めました。

しかし、その7年後の1942年にトロントで亡くなり、その死因は長い間、「冠状動脈血栓症」とされてきましたが、その後、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーが、うつ病による自殺だったことを明かしました。

この、ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日にクリフトンで誕生しました。

カナダ東モンゴメリの父方の祖父は、上院議員だったそうで、このため父の代にも裕福だったようですが、モンゴメリが生まれて間もないころ母が亡くなり、これがきっかけで父がカナダ西部へ出奔。このため、島の北部にあるキャベンディッシュという場所で農場を持っていた母方の祖父母夫妻に引き取られ、二人に厳しく育てられました。

夫婦の名は、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールといいました。このマクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育ったといいます。

15歳のとき(1890年)、再婚していた父が、一緒に暮らそうと言ってきたため、カナダ西部のサスカチュワン州にあるこの父と義母が住まう家で一時期暮らしましたが、この継母は11歳しか年が違わないにもかかわらず、彼女に子守りと家事手伝いを命じ、ここでしっかりと腰を落ち着けて勉強がしたいと考えていたモンゴメリは、その夢を打ち砕かれます。

このため、その1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に出戻り、キャベンディッシュの中学校へ通い始めました。多感な時期でもあり、このころから、こうした薄幸の生活の中で感じた悲哀を詩やエッセイに書くようになり、ある時、これが新聞に掲載されたことが彼女が作家を目指すきっかけとなりました。

1893年、キャベンディッシュでの中等教育を終え、プリンス・エドワードアイランド州の州都、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学しました。2年分の科目を1年で終えるという俊才だったようで、さらにプリンスエドワード州からもほどちかい、ノバスコシア州のダルハウジー大学で聴講生として文学を学びます。

このプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ時代には一級教員の資格も取得しており、大学卒業後、プリンスエドワードやバスコシアのさまざまな学校で教師を務めましたが、24歳のとき祖父が亡くなりました。このため彼女は教師を辞め、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻りました。

祖父は地元の郵便局長も務めていたため、この仕事をモンゴメリが引き継ぐようになりましたが、単調な郵便局の仕事に嫌気がさし、また気難しい祖母との生活は予想以上に辛いものでした。ちょうどこのころ、こうした彼女の身よりの相談相手となってくれたのが、近所に住む長老派教会の牧師ユーアン・マクドナルドでした。

モンゴメリとマクドナルドは瞬く間に恋に落ち、のちに二人は結婚することになります。

モンゴメリは27歳になってから、ノバスコシア州の州都ハリファックスの新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として勤めるようになります。その後、マクドナルドと結婚するまでの9年間、この会社で短編作家としてとしてのキャリアを積みましたが、その毎日がのちに、赤毛のアンという傑作を完成させることに結びつきました。

モンゴメリは、32歳のとき、ユーアン・マクドナルドと婚約にこぎつけましたが、祖母の面倒を見るというお役目もあったことから、その結婚はその4年後にこの祖母が亡くなったのちの1911年のことでした。

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このときモンゴメリは既に36歳になっていましたが、英国・スコットランドへのユーアンとの新婚旅行は素晴らしいものであり、この後、新規一転ということで、カナダ中部、アメリカと五大湖を介して国境を持つオンタリオ州のリースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ)という場所に二人で移り住みました。

こののち、モンゴメリは3人の男子を生みましたが、そのうちの真ん中の子は死産でした。このことは当人にはかなりショックだったようで、また夫のユーアンもまた結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発し、この病気は生涯快癒する事はありませんでした。

モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたといい、晩年はこうした家庭内のことだけでなく、作家としてのありようにも悩んでいたようで、こうした心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病みようになっていきました。

作家としての活躍はその後も続き、61歳のとき、それらの業績を認められ、カナダの元の宗主国、フランスの芸術院会員に推薦され、このとき同時にカナダが多くの移民を受け入れたことからイギリスからも大英帝国勲位を受けました。

しかし、閉ざされた心はそうした栄誉にも満たされず、生活に見切りをつけるためか、一家はカナダ最大の町、トロントへ移り住みましたが、このトロントでも夫婦はうつ病で苦しみ続けました。

この時期の二人については彼女の手記にもあまり記述がなく、詳しい生活の模様は不明ですが、モンゴメリの次男のスチュワート・マクドナルドの娘、つまりモンゴメリの孫にあたるケイト・マクドナルド・バトラーによれば、モンゴメリは、このころうつ病の薬を常用していたようです。

1942年4月24日、旅先の「旅路の果て荘」で死去したとされることから、自宅にいるよりも旅をして回るような生活だったのかもしれず、享年68歳でしたが、その死は冒頭でも述べたように、薬の過剰摂取による自殺だったようです。

5日後の4月29日、愛する故郷のキャベェンディッシュ共同墓地に埋葬されましたが、その追悼式では、彼女作の詩「夜警」と「アンの友だち」が朗読されたといいます。

夫のユーアン・マクドナルドは、この1年8ヶ月あとの1943年12月に死去。モンゴメリと同じこの共同墓地に埋葬されました。ちなみに、モンゴメリの祖父母の墓もこの墓地にあるようです。

彼女は、いつも愛した景色を見晴らせるという理由から、生前、この遠く海を望むこのキャベンディッシュ共同墓地を自分の墓地として選んでいたといい、その亡骸はトロントから約1000kmも離れた故郷に帰りました。

彼女の代表作、「赤毛のアン」は、1908年、モンゴメリが34歳のときに書かれたものですが、この本の成功の後、赤毛のアンはシリーズものとして定着し、これら一連のものは「アン・ブックス」として世界中で読まれました。

モンゴメリはこれらを含め、生涯に20冊の小説と短編集を書きましたが、特に初期のころの作品、「赤毛のアン」は何度も映画化され、40ヶ国語に翻訳されるなどの大成功を収めました。

この「赤毛のアン」は日本では、1952年に翻訳・紹介され、日本の少女たちにも熱狂的に愛読されました。のちに、中学の国語の教科書にも収録され、1979年に「世界名作劇場シリーズ」でテレビアニメとしても放映されたことから、モンゴメリの名を知る人も多く、その生地、プリンス・エドワード島を訪れる日本人観光客は今も多いそうです。

この、赤毛のアンを日本で最初に翻訳したのが、「村岡花子」で、彼女の生涯は現在、NHKの連続テレビ小説として毎朝放映されている、「花子とアン」でも紹介されています。花子自身がこのドラマの主人公であり、ドラマの原作は、村岡花子の義理の娘・みどりの娘、つまり花子の義理の孫にあたる村岡恵理が著わしました。

原案は、「アンのゆりかご」といい、ドラマのほうはこれにNHKがかなりの脚色をして製作し、ヒロインの村岡花子は女優の吉高由里子さんが演じています。結構視聴率が高いようで、先日も本屋さんに行ったら、その関連本が山のように積まれていました。

村岡花子の伝記本も出ているようで、その表紙にあった顔写真を見たところ、結構なべっぴんさんで、吉高由里子さんともどこか通じるような顔立ちであり、キャストしてはなかなか的を得ているな、と思いました。

村岡花子は、1893年(明治26年)に生まれ、1968年(昭和43年)に75歳で没した翻訳家・児童文学者です。とくに児童文学の翻訳として知られ、赤毛のアンはその代表作です。作者のモンゴメリの作品の多くの翻訳を行っていますが、このほか、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳も手がけています

エレナ・ポーターという作家さんの名前を知らない人も多いと思いますが、ウチのタエさのような往年の美女たちの多くは「ポリアンナシリーズ」の作者と聞いて、あぁあの~、と思い浮かべる人も多いことと思います。

アメリカ人の児童作家さんで、彼の地でも大ヒットしディズニー映画化されたほか、日本でも多くの出版社から翻訳され、1986年には「愛少女ポリアンナ物語」としてアニメ化されたことから、この世代の人には覚えている人も多いことでしょう。

また、ルイーザ・メイ・オルコットは、同じくアメリカの小説化で、「若草物語」(Little Women)の作者として高名です。彼女が姉妹達と一緒にマサチューセッツ州のコンコードで過ごした少女時代をもとにした半自伝的な話ですが、これもアンシリーズのように、「続・若草物語」、「第三若草物語」「第四若草物語」と続編が出ました。

その他、「ジョーおばさんのお話かご」「8人のいとこ」などがあり、この続編「花ざかりのローズ」などもその著作として有名なようですが、その大部分は、多くの支持者を得た「若草物語」と同じ路線をとる内容だということです。

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ちなみに私は子供のころにこの若草物語を読みましたが、男子には少々メルヘンチックな内容であり、あまり好みではありませんでした。

が、女性は一般にこういうものが大好きなようで、村岡花子もその一人だったようです。彼女がこうした海外の児童文学、少女小説の翻訳に目覚めたのは、10歳で給費生として入学した、東洋英和女学校に在学中のことだといわれています。

NHKの朝ドラには彼女が文学者として成長していく姿がうまく描かれているのですが、これを毎日見ていた人は、彼女がこの女学校に入学したいきさつについてもだいたいおわかりだと思います。が、ドラマでは少々脚色しすぎていて、実際とは異なっている部分も多いようです。

なので、以下では、ドラマとの違いも意識しながらその生涯を辿ってみたいと思います。

村岡花子は、1893年(明治26年)6月21日に山梨県甲府市において、父安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれました(ドラマ中は「安東家」となっている)。本名は「はな」であり、のちにペンネームの花子をそのまま本名として使うようになったという点はドラマのほうも忠実にその通り描いています。

が、ドラマでは父がクリスチャンであったという事実は描かれておらず、実際は花子自身も、この父の希望により、カナダ・メソジスト派の甲府教会において2歳で幼児洗礼を受けています。

父の逸平は甲府の人ではなく、駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなりました。布教の流れで甲府に移り住むようになり、そこで出会ったのが花子の母のてつであり、結婚してその実家に住むようになりました。

教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女の花子(はな)に過剰なほどの期待をかけたといい、常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えなかったといいます。

しかし、花子が5歳の時、逸平はついに家族を押し切り、それまでのしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになります。「葉茶屋(はぢゃや)」というのは、茶の葉を売る店のことで、店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してあり、試供品のお茶を往来の人に振る舞ったりしていました。

花子は、こうした葉茶屋の少ない収入から尋常小学校に通わせてもらっていましたが、このころから心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむといったふうがあり、幼少期から文学の才能があったようです。

ちょうどこのころ、逸平は社会主義活動に加わるようになり、その活動の中では特に教育の機会均等を訴えるようになりました。このため、娘の才能も伸ばすためには良い学校に入学させたいと考えるようになり、奔走の結果、信仰上のつながりから東洋英和女学校の創設者と知りあいになります。

そして、この知己の紹介で、1903年(明治36年)、10歳の花子をここの給費生としての編入させることに成功しました。

しかし、逸平本人はその後も社会運動にのめり込み、商売に身を入れなかったことから、この当時の安中家の生活は非常に困窮しており、他の弟妹は次女と三女を残して皆養子や奉公などで家を出されました。

このため、8人兄妹のうち、高い教育を受けたのは結局長女の花子のみとなり、彼女のその後の栄達は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであったともいえます。

東洋英和女学校(ドラマでは「修和女学校」という設定)では、カナダ人、イザベラ・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、古典文学も学びました。

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同級生の紹介で古典文学者で、歌人としても有名だった佐佐木信綱からも万葉集などについての講義を受けており、この佐佐木を紹介したのが、柳原白蓮で、この人はNHKドラマのほうでは、「腹心の友」として登場してきます。

ドラマのほうでは伯爵家の娘「葉山蓮子」という設定になっていますが、この柳原白蓮は実際もこの当時のいわゆる「華族」であり、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたり、今でいえば皇族です。

大正三美人の1人ともされるたいそうな美人だったようで、ドラマでも筑豊の資産家と結婚するという設定になっていますが、これは事実です、しかし、後に「白蓮事件」という駆け落ち事件を起し、華族を除籍されるなど波乱万丈の人生を送りました。この話も面白そうなのですが、今日は花子の生涯がメインなので、また後日詳しく書いてみましょう。

この東洋英和女学校の校長のイザベラ・ブラックモーアという人は、奇遇ですがモンゴメリも住んでいたことのあるノバスコシア州のオンスロー出身です。

1889年教育宣教師として来日後、東洋英和女学校の英語科教員になりました。2年後に山梨英和女学校に移籍しますが、1895年12月に東洋英和女学校に校長として復職し、その後三期にわたり校長を務めており、無論、花子が在籍していたころも校長でした。

その後、1918年(大正7年)には、東京女子大学の理事長にも就任し、カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理なども務めて日本におけるキリスト教の布教にも努めるかたわら、孤児院を設立するなど多くの社会事業に携わりましたが、1925年(大正14年)に三期目の校長を終えるとカナダに帰国しました。

在日中は、「厳しい中に自由がある」という教育理念の元に、徹底したピューリタン的信仰による教育を行ったそうで、NHKドラマの中でもあるように、女学校寄宿舎で日常生活を送る生徒にも厳しい教育を施し、規則に違反する者には厳しい罰を課しました。

校長在任中のエピソードとして、礼拝中に鼻をすすった生徒に対し、ハンカチで、鼻が真っ赤になるまで鼻をかませたとか、廊下を走った生徒に対し、30分もの間廊下を何往復も歩かせたとか、廊下でふざけていた生徒に対し、反省文を80回書かせたとかいった話が残っています。

寄宿生に The Sixty Sentences という、朝起きてから夜床につくまでの日常生活の行動を書いた60の英文を暗誦させたともいい、時折抜き打ちで校長が疑問文や否定文などで唱えさせ、英語力を鍛えさせることもあり、ドラマ中でもあるよう素行の悪い生徒には、Go to bed!を繰り返したと言います。

これは、「部屋で静かに目を閉じて反省しなさい」の意味で、彼女にとっては一番厳しい懲戒処分のひとつでした。

卒業式の日に、「学生時代が一番幸せな時代だった」との感想を述べた生徒に対し、「楽しかった、と心感じるようなら、私の教育が失敗だったと言わなければならない、最上のものは過去にはなく、将来にある。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて、進んでいくように」と語ったといいますが、NHKドラマのほうもこの部分は忠実に再現していました。

こうした厳しい指導もあり、花子の英語力はめきめきと上がっていきましたが、この頃からペンネームとして安中花子を名乗るようになり、翻訳活動も始めるようになっていました。また、この頃知り合った翻訳家の「片山広子」の勧めで日本語で童話も執筆するようになりました。

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この片山広子という人は、芥川龍之介の晩年の恋人とも知られています。花子よりも15歳年上で、知り合ったいきさつは不明ですが、同じ東洋英和女学校卒であることから、同級生に広子の姉妹か友人の知り合いでもいたのでしょう。

女学校卒業後、「松村みね子」のペンネームで歌人として活躍する傍ら、アイルランド文学を中心に翻訳も行っており、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」の37章では「才力の上にも格闘できる女性」と書かれ、恋愛を詠んだ「相聞」という詩においても「君」と歌われたのはこの片山広子のことだと言われています。

堀辰雄の「聖家族」の「細木夫人」、「菜穂子」の「三村夫人」のモデルとも言われており、晩年の随筆集「燈火節」では、1954年度の日本エッセイスト・クラブ賞も受賞しています。NHKドラマの中では、ともさかりえさんが演ずる「富山タキ」という名前の英語教師兼、校長の通訳が出てきますが、おそらくは、この片山広子がモデルでしょう。

花子は1914年に21歳で東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として山梨英和女学校に赴任しましたが、このあたりは、小学校の教諭として赴任した、という設定になっているドラマのほうとは少々違います。

同年、友人と共に歌集「さくら貝」を刊行。この時期、甲府でのキリスト教の夏季講座にも頻繁に出かけており、このとき、婦人運動家として活躍していた、のちの参議院議員、市川房枝とも出会っています。

市川房枝は愛知県の出身で大学卒業後に県内で小学校教員などをやっていましたが、体調を崩して退職しており、このころは甲府で療養生活などを送っていたようです。市川はその後、花子に婦人運動への参加を勧めるなど、その後の彼女の生涯にも関わっていきます。

花子は、24歳のとき、東京銀座のキリスト教出版社である教文館に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務するようになり、このとき、福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった「村岡儆三」と出会いました(以下は敬三と表記)。

不倫の末、1919年(大正8年)、26歳で結婚し、村岡姓となりましたが、ドラマのほうでも、この夫は印刷屋の御曹司ということになっており、一致しています。ちょうど今、そのあたりのシーンをテレビで放映していますが、果たして不倫という形で描かれるのかどうかは現時点では不明です(今日の放送分を私はまだ見ていません)。

この結婚の翌年には長男をも受けましたが、この子は6歳で亡くなっています。このことが、彼女を英語児童文学の翻訳紹介の道に入らせた要因と思われ、息子を亡くした翌年、前述の片山広子の勧めにより、マーク・トウェインの”Prince and Pauper”を「王子と乞食」の邦題で翻訳し、これを平凡社から公刊して、初の翻訳家デビューを果たしました。

ちなみに、ドラマでは彼女が童話「みみずの女王」を書いたことで雑誌社の賞を貰う、というシーンがありますが、この受賞こそは架空のものと思われるものの、「みみずの女王」ほか、「たんぽぽの目」「黄金の網」という童話三作を後年著しており、若いころから童話作家としても活躍していた、というのは事実のようです。

39歳になった、1932年から1941年11月までの9年間は、NHKのラジオ番組「子供の時間」の一コーナーである、「コドモの新聞」にも出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだったといいます。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードもいくつか発売されているそうです。

花子が、モンゴメリの「赤毛のアン」の原書と出会ったのは1939年のことです。すぐにその内容に惹きこまれ翻訳を決意しますが、この2年後に日本はアメリカとの泥沼の戦争に突入していくことになります。戦争に突入していく暗い世相の中、村岡は黙々と翻訳に取り組み、開戦後も灯火管制のもとこれに励み、終戦の頃にようやく訳し終えました。

のちに、1952年に三笠書房から出版されたこの「赤毛のアン」は日本の読者にも広く受け入れられるとともに、戦後これはアニメにまでなり、多くの少女たちを魅了したのは前述のとおりです。

しかし、童話作家、少女文学の翻訳家として著名になったこともあり、第二次世界大戦中は戦争の喧伝にも利用され、大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、意図とはしていなかったかもしれませんが、戦争遂行には協力的な姿勢を取りました。

戦後は、先にも述べたとおり、市川房枝の勧めに婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力するなど、女性運動家としても活躍しました。

その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受けましたが、1968年、脳血栓で死去。満75歳でした。

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病死した男児以外は子供に恵まれず、このため直系の子孫は存在しませんが、後に、妹・梅子の長女である、上述のみどり(1932年生)を養女としました。この妹、梅子は、おそらくドラマでは「安東かよ」と描かれている人物で、演じているのは、今年のはじめに「小さいおうち」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞した「黒木華」さんです。

この梅子の娘、みどりの娘で花子の義理の孫にあたる「村岡恵理」は、NHKドラマの原作者であると同時に、現在、東京大田区にある「赤毛のアン記念館館」の館長を務めています。

が、ホームページを見る限り、この記念館は現在どうやら休館中のようです。この記念館には花子の作品の多くが所蔵されているようですが、花子は赤毛のアンの翻訳以後も、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなどなど、モンゴメリの作品のほとんどを翻訳しています。

村岡の最後の翻訳作品となった「エミリーの求めるもの」は、彼女の没後、1969年に出版されました。その没する前年には、アメリカを訪れており、彼の地でかつての東洋英和女学院時代に知り合った外国人とも再会したかもしれません。が、残念ながらこの時すでにカナダのプリンス・エドワード島にまで行くほどの体力はなかったようです。

ちなみに、夫の村岡敬三は戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜きましたが、花子の死の5年前の1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去しています。75歳没。

この村岡敬三のお父さんは、平吉といい、戦前から聖書印刷で有名で「バイブルの村岡さん」と言われていたそうです。若いころ、上海に渡って印刷術を修め、帰国後に横浜を基盤として、聖書、讃美歌などのキリスト教書類の印刷する、「福音印刷合資会社」を設立しました。

その後、銀座に移転し、社主として活躍しましたが、敬三はこの父の事業を助け銀座進出後には同社の、銀座支店の責任者となっています。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけましたが、その後妻が結核を発病し、別居を余儀なくされました。

後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳書の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちました。花子との出逢いの当時はまだ先妻と籍を入れたままであり、妻帯者の身での禁断の恋でした。

花子との往復書簡の文面にも、彼女に対する激情と、病気に伏せる妻への愛情との葛藤が現れているといい、その数は花子との出会いから結婚までの半年間で70通以上に昇ったといいます。

2人を引き合わせるきっかけとなった花子の訳本が残っており、この本、「モーセが修学せし國」の奥付には発行人の名を挟んで「訳者 安中花子」「印刷人 村岡儆三」と2人の名前が並んでいるそうです。

その横には花子の自筆で「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」と記されているそうで、この「記念すべき日」の意味は、彼等がやりとりした手紙から、どうやら2人が初めてキスをかわした日付と推定されるそうです。

ちなみに、ドラマのほうでは二人を結びつけるきっかけになったのは、英語の辞書、あるいは、敬三に勧められて翻訳した「王子と乞食」という設定になっていますが、このあたりのことなど、事実とは微妙に時期や内容が違っています。

とまれ、二人は結婚し、東京の大森新井宿(現在の東京都大田区大森)を新居としましたが、おそらくこのころには先妻はこのころ亡くなっていたと思われます。「妻は3歩下がって夫に従う」といわれた時代にあって、結婚後も敬三と花子は2人連れ添っての外出が多かったそうで、おしどり夫婦として評判でした。

近所の人々は、当時周辺に出没していた浮浪者夫婦「おしゃれ乞食」を引き合いにだし、「この界隈で肩を並べて歩くのは「おしゃれ乞食」と村岡さんのところぐらい」と噂していたといいます。

敬三は花子の文学業の多忙さには理解を示し、資力を生かして洗濯機の購入、台所の改修などで家事の軽減を図ったそうですが、彼自身も多忙であり、1922年(大正11年)に福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継ぎいで以降は、社の拡大のために奔走し続けました。

しかし、間もなく平吉が死去したため、自身が専務取締役となり、弟の斎が常務取締役となって兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊してしまいます。

この地震では、弟の斎ががれきの下敷きになって死亡し、その悲しみを乗り越えて会社の再興をはかろうとしたところ、社の役員の裏切りに遭い、その復興もかなわなくなり、やむなく倒産に至ります。裏切りの内容はよくわかりませんが、使い込みではないでしょうか。

この地震で敬三は、先妻との間に設け、別の家へ養子にやっていた子供も失っており、経済的にも精神的にも大きな打撃を被りましたが、そんな敬三を献身的に支えたのはやはり花子でした。

こうした花子の内助の功により、印刷業での再起を志そうと決意した敬三は、1926年(大正15年)、花子の友人である片山広子や翻訳家仲間などの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業しました。

女性と子供のための本を安価に提供することを趣意とし、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版を主力として活動を再開し、1930年(昭和5年)には同社の機関誌「家庭」(後に「青蘭」に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組みました。

夫としてのみならず、英語、ドイツ語、ラテン語に通じ、キリスト教徒として聖書にも詳しかったといい、花子の翻訳家としての良き相談相手でもあり、ほんとうに仲の良い夫婦だったようです。

敬三と花子の墓地は、横浜市西区の久保山墓地にあるそうで、ここには父の平吉の墓所もあるということで、おそらく今日この頃は、NHKの朝ドラの影響でこの墓所も賑わっているのではないでしょうか。こういうことを書くとなおさら、参拝客が増えるかもしれませんが……。

ちなみに、先日の6月20日は、我々夫婦の6年目の結婚記念日でした。二人で、伊豆仁田のおしゃれなカフェでお茶をし、その後なぜか回転寿司を食べて帰ってきましたが、平凡ではあるものの幸せな一日でした。これからもモンゴメリ夫婦や村岡夫婦のように仲の良い夫婦であり続けたいと願う次第です。

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そうだ、火星へ行こう

2014-2477先日、BS・NHKの科学番組で、火星への有人探査を特集しており、こうした宇宙モノが大好きな私としては見逃すことなく、じっくり見ておりました。

現在、アメリカ航空宇宙局NASAでは、火星探査も視野に入れた次世代型のロケットを開発していますが、火星までの往復と滞在期間の合計は1年強から3年弱という長い月日がかかることが予想されることから、この間の宇宙飛行士たちの健康管理やメンタル面での問題解決に向けて真剣に取り組んでいるということでした。

また、火星へのロケットには、長距離飛行になるため多量の燃料や食料を積み込む必要があり、これまでになく大型になることが予想され、このため、火星への着陸にあたってもかなりの困難が想定されます。

しかし、着陸にあたっては、現在火星表面の探査を行っている大型の探査機「キュリオシティ」を着陸させた実績があり、その応用によってなんとか成功させることができるのではないかと目されているようです。

ところが、火星探査を終えて、いざ地球に還ろうとする際、いったいどうやって火星の重力を抜け、大気圏外へ抜け出るかについては、いまもって最良の方法が見つかっていないといいます。

せっかく月まで行っても、そこで死んでしまってはおしまいであり、生きて帰ってこそ探査といえるわけですから、この火星からの脱出については何が何でも解決しなければなりません。

火星の地表での重力の強さは地球の40%ほどしかなく、このため大気も希薄で、地表での大気圧は約750Paと地球での平均値の約0.75%に過ぎないことから、火星表面からロケットを打ち上げるのは地球に比べれば比較的容易だと思われます。が、とはいえ、まさかそのためのロケットまでを探査船に積み込むことはできません。

この番組では、この問題に対しての答えがなく、今後の大きな課題である、だけで終わってしまったので、大変がっかりしたのですが、それなら、ということでいろいろネットで調べてみたところ、火星からの帰還計画というのは、NASAを初めとして、いろいろな機関で研究されていることがわかりました。

その先駆けとして、1990年に発表された「マーズ・ダイレクト」という計画があり、これは火星の大気から帰還用燃料を製造する無人工場を先行して送り込み、有人宇宙船は往路分のみの燃料で火星に到達し、探査後に無人工場で製造されていた燃料で帰還するというプランです。

これは1990年、航空宇宙技術者で作家のロバート・ズブリンという人が提唱したもので、1990年代のロケット技術のみで比較的低コストで実現可能な案として提案され、かなり具体性があるとNASAなども高い評価をしたようです。

この計画では、まず化学工場と小型の原子炉、水素を積んだ無人の地球帰還船(ERV)を、大型のブースター(ロケット)で打ち上げ、火星に送り込みます。このブースターは、スペースシャトルのエンジンやブースターを流用したもので、アポロ計画で使用されたサターンVに匹敵する輸送力を持ちます。

8ヶ月ほどでERVは火星に到着します。そこでは、比較的簡単な化学反応により、ERVで運んだ少量の水素と火星大気の二酸化炭素を反応させて、112tのメタンと酸素を生産することができます。

このうち96tは、ミッション最後のERVの地球帰還で使用します。この燃料製造プロセスは10ヶ月ほどで完了しますが、これと並行して、ERVに搭載された無人車で周囲を調査し、有人機の着陸に適した場所を探します。

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次に、ERVの打ち上げから26ヵ月後、2隻目の宇宙船を地球から打ち上げます。こちらは火星居住ユニット、「ハブ」であり、これで4名のクルーを火星に運びます。この宇宙船は6ヶ月ほどで火星に到着し、旅行の間は、ハブと打ち上げで使用したブースターを紐で結び、中心で回転させることにより遠心力による人工重力を発生させます。

これによって、飛行中の飛行士たちは重力を得ることができ、地球にいる環境に近い環境を保つことができるため、筋力の低下を防ぐことができるとともに、食事や睡眠なども適度な重力下で行えるため、精神的なバランスも保つことができます。

火星到着時、使用済みブースター等を放棄し、ハブは空力ブレーキによりERVの近くに着陸します。着陸後、クルーは火星上に17ヶ月滞在し、持ち込んだ機材で科学研究を行い、与圧キャビン付きの地上車によって移動します。燃料にはERVが生産した余剰メタンを使用します。

地球帰還の際は、ハブは後の探検家が使用できるようにそのまま残し、ERVを使用します。離陸の際に使用されるERVのブースターは、地球への帰還のための6ヶ月間、往路と同じように人工重力を発生させる際のカウンターバランスとして使用することができ、往路の飛行士の負担もまた軽減されます。

このマーズ・ダイレクトの初期費用は、当時開発費を含め200億ドル(現在の300~350億ドル相当)と比較的リーズナブルに済むと見積もられました。

またこの計画では、万が一の安全対策も具体的に考慮されているのが特徴的です。このため、ハブとは別に2機目の地球帰還船(ERV2)をほぼ同時期に打ち上げるものとしており、このERV2はハブの着陸がうまくいくかどうかを見極めた上で、臨機応変に着陸させます。

というのも、最初はERV1の近くに着陸することを目標としますが、大気圏への突入状態によっては、ERV1より遠く離れた場所に着陸してしまうかもしれません。しかし、着陸がうまくいき、ハブが無事ERV1の近くに着陸した場合、これを見極めたのち、ERV2はここからできるだけ近くに着陸させます(目安は800km以内といわれている)。

そして火星でのミッション終了後に帰還の際には、仮にこのERV1に不具合が生じたとしても、ハブに搭載されている地上車で着陸地点が数百kmは離れた、ERV2まで辿り着き、こちらを利用できます。

が、もし、ハブの着陸をERV1の近くにすることができず、1,000km以上もずれてしまったような場合には、ERV2をハブの近くに着陸させます。これにより、ERV1は利用できなくなる可能性はありますが、少なくともERV2に故障がなければ無事帰還できます。

また、万々が一ERV2が故障の場合でも、なんとか1000km離れたERV1へ辿り着くこともけっして不可能ではないでしょう。

このように、マーズ・ダイレクトは、「地球への帰還」を前提に、常にバックアップを用意しておく、というのが計画の特徴であるとともに、この最初の計画が終了後、次々と新しい飛行士たちを火星に送り込み、計画を継続させることも可能であり、使わなかったERVを次のミッションで再利用できます。

ハブとERV2の打ち上げからさらに26ヶ月後にはハブ2とERV3を打ち上げ、ハブ2はERV1またはERV2の近くに着陸します。こうして26ヶ月ごとにハブとERVが送り込まれ、隣り合った地域の調査が進められていきます。

計画は継続的に行われるため、コストパフォーマンスに優れ、ハブとERVのセットは、最終的に1組あたり20億ドル(初期案当時の試算)程度で打ち上げられるようになるといいます。

こうして恒久的基地を築くのに適した場所が決まると、それ以降のハブとERVは常にそこに着陸させるようにします。ハブ同士を気密式のチューブで繋げば仮設の基地になりますし、その後、現地資源を用いた建物や都市の建設、火星大気の改造を行っていくこともできます。

と、このように「マーズ・ダイレクト」は、火星での永住をも視野に入れた計画になっています。サイズ的には地球よりかなり小さい火星は、人類移住の候補として注目を浴びており、その質量や半径などの点でも地球によく似た惑星であり、地球に万一のことがあった場合の移住先としては最有力候補といわれています。

火星は大気を持っており、これは地球大気の0.7%と薄いものですが、多少なりとも存在しているおかげで、太陽からの放射線や宇宙線を和らげてくれる上、宇宙船が着陸するときにはこの大気との摩擦を空力ブレーキとして使うことができます。

ただし、生理学的に見れば、火星の薄い大気は真空同然であり、宇宙服などで保護されていない生身の人間であれば、火星の表面ではわずか20秒で失神状態に陥り、1分たりとも生存できないと考えられています。

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しかし火星の環境は、灼熱の水星や金星、極低温の木星、さらに遠い軌道を巡る外惑星、真空の月や小惑星と比べればはるかに住みやすい環境だとも言えます。

既に地球上にも、火星と類似した自然環境があるといわれており、例えば、地球において、有人気球が到達した最高高度は、1961年5月に記録された34,668m(113,740フィート)で、この高度での気圧は火星表面と同じぐらいです。

また南極の最低気温はマイナス90度ほどであり、火星の平均気温よりも少し低い程度です。さらに、地球の砂漠も火星の地形と類似しており、こうして考えると移住は不可能ではないように思えてきます。

このほか、火星の1日は地球の1日に非常に近いもので、火星の太陽日は24時間39分35.244秒です。また、火星の表面積は地球の28.4%で、地球の陸地面積の29.2%と比べてわずかに少ない程度です。

ただし、火星の直径は地球の半分ほどあり、その質量は地球の約 1/10 に過ぎないため、火星の地表での重力の強さは地球の40%ほどしかありません。が、わずか17%の月に比べれば居住可能と思わせるだけの重力はあるといえます。

ただ、この低重力下で、ヒトの健康上の問題が発生しないかどうかはよく分かっていません。しかし、この問題については、これまでも各国の宇宙船における長期間の宇宙滞在の経験から多くのことが明らかになってきています。

例えば、旧ソ連では、ワレリー・ポリャコフという宇宙飛行士が。1994年1月8日から、437.7日間ものあいだ、宇宙に滞在したという記録があります。

また、ロシアは1989年9月5日のソユーズTM-8の打ち上げから、1999年8月28日のソユーズTM-29の着陸まで、3,644日に渡って宇宙に人間を滞在させ続けた最長期間記録を保持しているほか、国際宇宙ステーション(ISS)では既にこれ以上の記録を出しています。

2000年10月31日にソユーズTM-31でドッキングのために有人宇宙船を打ち上げて以来、国際共同による宇宙空間での滞在を維持しており、現在までこの滞在は13年以上に達しており、こうした宇宙での滞在経験により、健康問題に対処する知識はかなり蓄積されているといえ、これらの知見が火星でも役に立てることができるということがいわれています。

さらに火星の赤道傾斜角は25.19°で地球の23.44°にかなり近いことがわかっています。このため、火星には、「季節」があり、地球とよく似ています。ただし、火星の1年は地球の1.88年相当であるため、各季節は2倍近い期間続くことになります。

このほか、火星の大気は薄いものの、主成分は二酸化炭素であるため、火星表面でのCO2の分圧は地球の52倍にもなります。これはデメリットのようにも思えますが、逆に考えると、この濃い二酸化炭素は、火星上で植物を育てる際には大きなメリットになるのではないかということもいわれています。

ただ、火星は太陽から遠いため、表面に届く太陽のエネルギーの量が少ないため、植物が光合成を行う上においてこの点はデメリットになります。また、地球や月に届く量の半分程度でしかなく、火星の軌道は地球のそれよりも潰れた楕円であるため、太陽との距離の変化が大きく、温度や太陽からのエネルギーの量の変化を激化させます。

とはいえ、このエネルギー量に適した植物を持ち込めばすむ話であり、また人間が生活する上においては、地球でも北欧や北極圏に近い人々は、火星に近い太陽エネルギー量で生活しており、彼等の生活ぶりが参考にできると考えられています。

南極においても同様で、白夜が何ヵ月も続いたり、逆に太陽が昇らず、十分な太陽エネルギーを得ることができないような生活の中でも生きていける術をすでに人類は会得しており、各国の観測基地でいろいろな研究成果が出ています。

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人類が火星に住む上においてのこのほかの問題点としては、火星は地球に見られるような全惑星規模の強い地磁気を持っておらず、このため、太陽からの放射線を十分に防ぐことができません。薄い大気と相まって火星表面に到達する太陽からの電離放射線の量は地球のそれと比べてかなり大きいものです。

2001年にNASAが送った火星探査マーズ・オデッセイは、搭載された火星放射線環境測定機器によって人間への危険がどの程度かを測定した結果、火星周回軌道上は国際宇宙ステーションと比べて放射線のレベルは2.5倍も高いことがわかりました。

3年間このレベルの放射線に晒された場合、現在NASAが採用している安全基準の限界付近まで到達するといいます。

ただ、薄いとはいえ大気があることによってこれが放射線を吸収してくれるため放射線レベルは多少低くなりますし、高度やその地方に固有な磁場によっては、大きな地域差が生じている可能性もあります。

このため、地磁気の強い場所を選んだ上で、地表に設置される住居や作業場は火星の土を使って保護すれば、屋内で過ごしている間は被曝を大きく減らすことができると考えられています。

しかし、放射線の問題以上に大きな問題はやはり水です。人の体は約60%が水でできているといわれており、これがなければ火星では生きていけません。

これについては、21世紀初頭のNASAのマーズ・エクスプロレーション・ローバーやフェニックスや、ESA(欧州宇宙機関)のマーズ・エクスプレスなどによる観測により、火星にも水が存在することが裏付けられています。

このほかにも火星には地球型の生命を支えるのに必要な元素がかなりの量存在している可能性が高いとされ、これらも火星の水を摂取することによって体内に取り込むことができるのではないかといわれています。

ただ、現時点では火星表面に液体としての水の存在は確認されていません。ただし、2004年に、メリディアニ平原という場所に、NASAが投入した火星探査車、オポチュニティの観測結果からは、この平原では過去に液体の水が断続的に存在し、地表の下が水で満たされていた時代が何回かあったことが確認されました。

このため、火星の過去における歴史においては、メリディアニ平原のように生命の存在可能な環境が何度となく作られ、似たような場所があちこちにあったと推測されており、このほか、火星の北極には氷の湖があるのではないかと推測されています。

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2005年、イギリスの国営放送局BBCは、火星の北極地方のクレーターで氷の湖が発見されたと報じました。

欧州宇宙機関(ESA)のマーズ・エクスプレス探査機に搭載された高解像度ステレオカメラで撮影されたこのクレーターの画像には、北緯70.5度に位置し火星北極域の大半を占めるボレアリス平野にあるクレーターの底に平らな氷が広がっている様子がはっきりと写っていました。

計測したところ、このクレーターは直径35kmで深さ約2kmであることがわかりましたが、ただ、BBCの報道ではこの大きさがやや誇張されている可能性があるほか、ESAもこれが本当に「湖」であるかどうかについては何も公表していません。

火星の数多くの他の場所に見られるものと同様に、この円板状の氷は暗く低温の砂丘の頂上(高度約200m)に薄い層状の霜が凝結してクレーターの底に広がったものにすぎないのではないかという意見もあり、湖というのは少々言い過ぎだというわけです。ただ、湖ではないとしても、水(氷)が存在していることには間違いありません。

とはいえ、この場所は、霜のいくらかが一年中残りうるほど高緯度にあるため、氷が存在するのであって、他の緯度が低い場所ではまだこうした氷は確認されていません。火星の赤道付近では日中20℃を越すこともあり、氷は存在できません。

火星の大気は希薄で、水蒸気圧が小さいため、ほとんどの地域ではすぐ蒸発してしまい、存在できないのです。つまり、液体の水が存在できるのは極地などの限られた場所のみです。しかも温度が低いので氷です。ただ氷とはいえ、水であることには間違いなく、これを溶かして使えば良いのであり、こうした場所から氷を運んで飲用にすることは可能です。

こうして考えてくると、火星へ住むということに関する問題点の多くは解決できそうなことばかりであり、火星への移住ということも不可能ではないような気がしてきます。

地球と火星の通信についても、既に火星を周回している探査機があるため、現時点でもこれを火星との通信衛星として使えます。ただし、太陽が火星と地球の間に入り一直線になる前後の約2週間は、直接通信は困難になり、このため、地球とのリアルタイムな音声会話は不可能です。

しかし、こうした期間においても、他のコミュニケーション手段、例えばEメールや音声メールを用いることは、若干の不便を伴うにしても可能だといい、このため、地球とは隔離されていてひとりぼっち、という悲哀は感じなくても済みそうです。

さらには、火星上においては、普通のトランシーバーの電波でも見通し距離以上に届くはずだといい、また火星には電離層があるため、火星表面の遠く離れた地点で電離層を使った長距離の短波通信ができると考えられています。

それでは、実際の植民候補地としてはどこが適切かということを考えていくと、現時点ではやはりその最有力候補は、氷の湖が発見された極地域だろうといわれています。

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火星の北極・南極は、地球からの望遠鏡による長期間にわたる観測により、季節ごとに変化する万年雪に覆われていると考えらえており、前述のとおり北極付近には巨大な水塊が発見されています。

しかし、逆にこの発見により、より低緯度の地域にも水が存在する可能性が示されたため、入植地としての極地域の利点は減少したという見方もされているようです。地球と同様、火星の極でも夏の間は白夜、冬の間は極夜となり、できればこうした寒くて長い夜があるところには住みたくないものです。

このため、こうした極地に近い場所から氷を運んでくることを前提にするならば、中緯度地域でも良いということになり、その候補地はグンと増えてきます。火星表面の探検はまだ進行中ではありますが、これまでの火星表面の探査機の調査結果からは、火星の環境が場所によって非常に変化に富んでいることがわかっています。

従って、地球でも赤道から進むにしたがって季節による様々な気候の変化があるように、火星にも素晴らしい変化があると考えられており、それらの中から一番適した場所を選択していけばいい、ということになります。

例えば、火星のグランド・キャニオンと呼ばれるマリネリス峡谷は、長さ3,000km以上、深さ平均8kmにも達する巨大な峡谷地帯です。こうした非常に大きな落差を持っているため、この峡谷の深い谷底の気圧は火星の地表面の平均が0.7kPaに対して0.9kPaと、25%ほど高いとされています。つまり、それだけ大気が濃いということです。

峡谷はほぼ東西に走っているため、谷の断崖が落とす影のせいで太陽エネルギーの収集が酷く妨げられることも無く、またこの峡谷の川の流れのような跡は、かつての洪水によって形成されたのではないかと考えられています。

ということは、谷底にままだ水が残っている可能性もあり、また、峡谷の剥き出しの壁面は、地球のグランド・キャニオンの壁面のように、火星の地質学的な歴史を研究するのに役にたつと考えられています。

このほか、火星は二つの衛星、フォボスとダイモスを持っています。この二つの衛星は地球の月と比べてはるかに小さいく距離も火星に近いそうです。

このため、これらの衛星には火星表面から比較的アクセスを取りやすく、地球へ帰る際には一度ここへ移動してから再度ここから飛び出せば、重力が小さいために、地球帰還軌道へ移るためには、それほど大きな速度の変化を加える必要がありません。

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つまり、大幅に燃料を節約できる可能性があり、また、もしかして水などのロケットの推進剤の材料に使用できる物質がこれらの衛星に存在したとしたならば、一石二鳥となります。

もし水以外にも有用な物質が発見されたとすれば、これら衛星は火星から地球へ帰還する宇宙船の燃料補給拠点として活用され、推進剤やその他の物質を定期的に地球から火星へ運ぶ際の中継点とすることができ、経済的にも大きなメリットが生まれます。

火星に永住するにあたっては、さらにその環境をテラフォーミング(terraforming)によって、人為的に変化させ、人類の住める星に改造すればいい、という意見もあります。テラフォーミングは、「地球化」、「惑星改造」、「惑星地球化計画」とも言われ、アメリカのSF作家、ジャック・ウィリアムスンがその作品の中で用いた造語です。

SFの世界では一般的なアイデアですが、現実の科学においても、1961年に天文学者カール・セーガンが金星の環境改造に関する論文「惑星金星」をサイエンス誌に発表した事をきっかけに、世界中の研究者が研究を開始し、1976年には、テラフォーミングをテーマとしたNASAによるシンポジウムも開催されています。

1991年にはネイチャー誌に、NASAが火星のテラフォーミング計画に関する論文を発表しており、これによれば、太陽との距離がより大きい火星を地球のような惑星に作り変えるためには、まず、希薄な大気をある程度厚くして気温を上昇させることが重要な条件としています。

具体的な方法としては、メタンなどの、温室効果を発生させる炭化水素の気体を直接散布するといったものや、火星の軌道上に、フィルムにアルミニウムを蒸着した巨大なミラーを建造し、太陽光を南極・北極に当てるといったものがあります。

火星の極冠には、上述のとおり、氷やドライアイスがたくさんあるため、これが溶け始める温度まで気温が上昇すれば、大気中に二酸化炭素と水蒸気が放出され、気温の上昇が速まります。

そして、次のステップとしては黒い藻類を繁殖させます。また黒い炭素物質の粉を地表に散布するなどして、火星で太陽から受け取れるエネルギーの量を増やします。

もし火星の地下に永久凍土として水が埋もれているならば、これらがエネルギーの増大によって溶け、海ができます。海ができれば、雲ができ、雨が降り川も流れ、地球とよく似た惑星となりうるというわけです。

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テラフォーミングの研究はすなわち地球環境の研究でもあり、地球の環境破壊の修復にテラフォーミングの技術を応用する事も考えられています。例えば、温暖化対策として、北極や南極の地表を鏡あるいは白い布などで大規模で覆えば、太陽光を反射してこれらの地域の氷雪が融けることを防ぐことができるといわれています。

地球上の全ての建物を白く塗るだけでも効果があると言われており、実際、アメリカのカリフォルニア州では条例によって、商業建物は反射率の高い色で塗ることを義務付けています。また将来的には一般家庭でも同様の義務化、さらに反射効率の良い特殊コーティングの義務化、黒色の車の販売を禁止するなどの案も検討されています。

火星ではこれと逆のことをすればいいわけで、太陽光をもっと取り入れることができるようにすれば、地球のように大気や海が形成されて居住が可能になるかもしれない、というわけです。

が、こうした人為的な環境変化や地球人の入植によって、火星の環境が汚染されてしまうのではないか、と心配するむきもあります。火星にかつて生命が存在した、または現在も存在しているかについては、まだ決着がついていませんが、もし生命が存在しているとしたら、この生命へも大きな影響を与えることになります。

さらには、それほど多大なリスクを犯してまで、はたして火星に人を送り込む必要があるのか、という根本論の問題があります。

地球から火星間へ宇宙船で向かう際には、非常に高レベルの放射線を浴びることになり、また火星表面での長期居住においても、多くの放射線被ばくの可能性も高く、これらは人体における癌発生のリスクを上昇させます。また、地球環境とは異なる環境での出産においては、奇形児が生まれる可能性も高くなります。

火星への移住は新しい国家の誕生に等しいことであり、これと地球の国々は果たして「国交」を結ぶことになるのだろうかといった政治的な問題もあるほか、将来的には地球の国々との軍事衝突、つまり、スターウォーズが起こらないとも限りません。

こうしたことから、テラフォーミングまでやって何が何でも人類が住めるようにする環境にする必要はない、という意見も強く、当面はロボットによる火星探査だけをやっていればその方が経済的にも良いのではないかという人もかなり多いようです。

どんな植民活動を行うにしても、ロボットを送り込んで、まず知見を得てからのほうが良いという慎重論であり、もっともなことです。ほかにも、火星より月の方がずっと近く、人類の居住に適した環境をつくるならこちらのほうがより合理的であり、将来の有人火星ミッションの足がかりとしても使用できるだろうという意見もあります。

とはいえ、月には生命の生存に必要な元素、特に水素、窒素、炭素がほとんどないという現実があり、重力もほとんどないに等しいことから、やはり火星のほうが、という振出し論にいつも戻ってしまうようです。

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ただ、既に火星への移住計画は始まっています。

すでにオランダでは、2011年に「マーズワン(Mars One)」という民間非営利団体が設立されており、ノーベル物理学賞受賞者のヘーラルト・トホーフトも「アンバサダー」として加わっているそうで、この組織では2025年までに火星に人類初の永住地を作ることを目的としているそうです。

オランダの実業家でバス・ランスドルプという人が提唱している計画で、その宇宙飛行計画は2012年に発表され、既に4人の宇宙飛行士を送ることも決まっています。

昨年の12月、約20万人の移住希望者の中から日本人10人を含む1058人の候補者を選んだことが発表されており、この日本人10人には、59歳の男性会社社長や30代の女性医学博士などが含まれていると報じられています。

最終的に24人を選び、2025年には最初の4人が火星に住み始め、その後は、2年ごとに4人ずつ増やしていくことを予定しています。火星から地球に戻ることは現在の技術および資金的に不可能なので、移住者は技術の進歩に伴い地球帰還の手段を得られない限り、火星に永住することになります。

ランスドルプ氏は、この計画を推進するための財源は、寄付金のほか、訓練や飛行や移住の様子を24時間リアリティー番組で放送する番組の放映権料などによって賄うと主張しており、最初の4人を火星に送るコストを約60億ドルと見込んでいるそうです。

また、ランスドルプ氏は、夏季オリンピックはその開催期間に40億ドルを稼ぎだしていることをあげ、このことから60億ドルの調達は十分に可能だとしています。

さらに、2023年ころまでには地球のインターネット人口が40億人に達するという予想もあり、この人口が人類史上最大のショーを見たいと考えるならば、彼等から莫大な収入を得ることが可能としています。

有人飛行に先立ち、2018年5月に無人火星探査機を打ち上げ、水分の採取方法の研究を行うといい、このミッションにおいては、既に民間ロケットの打ち上げに成功し、自前の宇宙船のISSへのドッキングまで成功させている、アメリカのスペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ社(スペースX)との共同なども視野に入れているということです。

ただ、1989年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が試算した、火星への有人飛行の費用は4500億ドルとされていて、ランスドルプ氏の主張する60億ドルとは大きな隔たりがあります。しかし、NASAの試算は過大すぎるという意見もあり、上述の「マーズ・ダイレクト」における試算額も300~350億ドル程度です。

しかし、だとしてもこの額は、2013年のNASAの年間予算180億ドルとの倍近いものであり、本当にたった60億ドルで実現可能かぁ~?という意見も多いようです。

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ただ、この計画は、火星へ人間を送るだけで、地球へ帰還する手段がないことを前提とした「片道方式」です。このため、地球に還って来れないこと自体、「非人道的」だという批判もある一方で、往復の費用が必要ないならば、60億ドルで十分だという意見もあるようです。

また、火星上での永住にあたっては、水、食料、燃料の確保といった多くの問題もありますが、地球からそれらだけを運搬するコストは、人間を火星へ送り込んだり、戻すよりもはるかに安くつくと予想されます。

仮に火星上で食糧や水が生産できないとしても、物資を火星へ輸送するだけなら、放射線防御壁や人類移住空間などの施設が全く必要でない単純なかたちの無人宇宙船で賄うことができ、安価ですむ可能性があります。

実際、NASAは既に火星に無人探査機を「比較的に安価に」送ることに成功しており、こうしたことからこの計画の実現性は高いとする意見も多いようです。

また、現実問題として、今現在人類が持っている技術で火星へ人間を送る上においては、地球への帰還は極めて難しく、「片道切符」の方法による植民地方式しかありません。

人道的な立場からそのような政策を一国の政府が国民の税金を使って施行することはまずありえませんが、民間人ならそれが可能であり、人類はその可能性を捨てるべきではないという意見もあります。

歴史を見ても欧州からアメリカ大陸などの未知の大陸への植民を夢見て旅立った者たちは「片道切符」で死ぬ覚悟でいったわけであり、こうした人類最大のプロジェクトに命をかけてもいいという志願者は少なくないはずです。

実際、上述のように多くの希望者がおり、彼らはこの計画が片道切符だと十分に理解しているはずです。

さて、あなたなら、どうしますか?もし、たとえ片道切符であっても、火星へ住む権利が得られたら、火星で楽しく一生を暮しますか?それとも、温暖化や大災害で滅亡してしまうかもしれない、地球に暮らし続けますか?

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