若いころ、仕事の関係で日本国中のあちこちの海岸を飛び回っていました。
高度成長時代、日本では建設工事が急増し、このために骨材として川砂利を大量に採取した結果、川から海岸に供給されていた砂が急減し、あちこちの海岸で侵食を起こすようになっており、私の仕事はその防護と修復が主なものでした。
隣り合う海岸はそれぞれ独立しているわけではなく、互いに砂の供給を補い合うという互助関係にあり、このためひとつの海岸だけの侵食を防げばいいということではなく、周辺の海岸の太り具合や痩せ具合も勘案しながら、対策を進める必要があります。
このため、仕事の対象となる海岸だけでなく、関連する海岸もできるだけたくさん見る必要があり、ある日気がついてみると、日本国中の侵食が著しい海岸はほとんど見てしまい、北海道から沖縄まで行ったことのない都道府県はない、といったことになりました。
しまいにはプライベートでも見たことのない海岸に行くのが趣味のようになり、このため旅に出るとその地域の海を必ず見にいくようになりましたが、複雑な海岸線を持つ場所ではとうていそのすべてを見ることはできず、県によっては何ヶ所しか見る機会がなかったところもあります。
長崎県もそのひとつで、海岸線の長さは4,137kmであり、北方領土を除いた場合には、北海道を抜いて断トツ一位です。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためです。
この地形的特徴により、長崎県には重要港湾と地方港湾を合わせ全部で200以上もの港湾が点在しており、その数は国内の7.4%にも及び、無論これも断トツ一位です。また、長崎県内には海岸線からの距離が15km以上の地点はなく、県のほとんどの地域が海岸沿いといっても過言ではありません。
従って私が訪れたのもこのうちの数カ所だけであり、とくに長崎県北部の北松浦半島の北西端の地域は、最果ての地というかんじで、仕事でもプライベートでも行ったことがありません。
北松浦半島一帯の地域は、島しょ部も多く、北浦半島と平戸瀬戸を挟んで西向かいにある平戸島、そして平戸島の北西にある生月島(いきつきしま)、平戸島の真北にある度島(たくしま)、度島のさらに真北にある的山大島(あづちおおしま)などが、合わせて「平戸市」という行政区域になっています。
旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていましたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併して新たに平戸市となり、これにより本土にも市域が拡大しました。
旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港でした。徳川幕府が開かれる以前の1550年(天文19年)、この地を治めていた松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港を開いて、ここにポルトガルの貿易船が初めて入港しました。
1600年(慶長5年)、松浦鎮信が徳川家康より6万3千石の領地を安堵され、平戸藩が確立。松浦鎮信は1609年(慶長14年)「オランダが商館」を設置することを許されましたが、その後タイオワン事件の勃発によって、閉鎖に追い込まれました。
タイオワン事件というのは、この当時の長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツに代表されるオランダとの間で起きた紛争です。
日本は、鎖国前にはまだ平戸から船を出して台湾や中国とさかんに貿易を行っていましたが、この当時極東には、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が入り込んでおり、日本においても貿易の主導権争いが過熱している時代でもありました。
こうしたことから、元和8年(1622年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地をオランダが攻撃。しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えました。
さらに2年後の寛永元年(1624年)には、オランダは台湾島を占領、城を築いて台南の「安平」をタイオワンと呼び始めます。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとし、中国商人はこれを受け入れました。が、末次平蔵の配下の浜田弥兵衛ら日本の商人達はこれを拒否。
これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせました。このノイツの動きを知った末次平蔵も台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国し、彼らは台湾全土を代表する「使節団」だと言って、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めました。
が、使節団の人員の多くが疱瘡を患い、このため幕府側が接見を拒否したため、平蔵らの目論見は失敗に終わります。しかし家光はノイツらの謁見も拒否しており、彼等もまた何の成果もなく台湾に戻りました。
以後、ノイツは平蔵の動きに危機感を強め、平蔵が江戸に連れて行った先住民達が帰国すると、全員捕らえて監禁、台湾に渡っていた浜田弥兵衛の船も拘束して武器を取り上げるとともに、以後の渡航禁止を通達しました。
この措置に弥兵衛は激しく抗議し、渡航禁止措置の解除を求めましたが、これを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、ノイツらの隙をついてこれを組み伏せ、人質にとる実力行使に出ます。
驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲しましたが、人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続きました。
しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出しました。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側も人質の返還を求めました。
ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまいます。これに対し、この当時のオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、これ以上日本側との紛争が続き、貿易の利が損なわれることを懸念しました。
このため、「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため」とし、ノイツを解雇し彼も日本に人質として差し出しました。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していましたが、この意外な対応に安堵します。しかし、これが後には鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなりました。
これによって、ノイツは1632年から1636年までの4年間もの間日本に抑留されましたが、その後解放され、オランダに帰りました。ところがノイツと争った、末次平蔵自身はその後捕えられ、獄中で謎の死を遂げています。
その理由はよくわかっていませんが、長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に「平蔵は近いうちに死ぬだろう」と漏らしたという記録が残っており、おそらく幕府は、その後に長く続くことになる日蘭貿易を見越し、オランダと仲の悪い平蔵を邪魔な人物と考え、処分しようとしたのでしょう。
こうして寛永9年(1632年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開されましたが、その後の鎖国政策の実施に先駆け、寛永11年(1634年)には日本人が平戸などから台湾に渡ることは正式に禁止されました。ちなみに台湾は、その後は1662年(寛文元年)に鄭氏政権が誕生するまでオランダによって統治されました。
1639年、幕府はキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放とし、事実上の鎖国政策が始まりました。
1640年、建物の破風に西暦年号が記されていたという事実を口実に江戸幕府は平戸のオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承。商館は1641年に長崎の出島へ移転しました。ここに至り、以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地はこの出島のみに限定されることとなりました。
実は出島は、これに先駆け、1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で造成されていました。幕府が長崎の有力者に命じて作らせたもので、建造費は約4,000両で、これを現在のお金に換算すると約4~5億円となります。
江戸中期の長崎貿易に関する調査記録では、面積3924坪船着き場45坪と記載されていますから、合わせると、400m四方の大きさということになります。
築造費用は、門・橋・塀などの建造費は幕府からの出資でしたが、それ以外は地元長崎の25人の有力商人が出資しました。一方、幕府はポルトガル人に土地使用料を毎年80貫支払うことを当初要求しましたが、初代のオランダ出島商館長となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は55貫、現在の日本円でおよそ1億円ほどに引き下げられました。
1639年、前述のとおり、幕府は鎖国政策を始め、ポルトガル人を国外追放としたため、出島は無人状態となりました。これに対して出島築造の際に出資した商人たちが抗議を起こしたこともあり、新たな火種を作ることを恐れた幕府は、オランダ人にだけ貿易を許すことを認め、平戸にあったオランダ商館を平戸から出島に移すという措置をとりました。
しかし、キリスト教などの異宗教は国禁としたため、オランダ人は、武装と宗教活動は一切を規制されたまま、以後約200年間、監視され続けることになりました。
とはいえ、この間、ポルトガルやイギリスを抑えて独占で日本との貿易を継続できることとなり、オランダには大きな国益がもたらされました。
幕府がオランダだけに貿易を認めたのは、プロテスタント国家のオランダが「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたためで、幕府は主としてポルトガル人によって国内布教が進んだカトリックだけがキリスト教だと考えていました。
実際には、オランダは日本の外で中国やイギリス、ポルトガルと貿易をしていましたから、幕府としてはオランダを窓口とすることで、諸外国の品を輸入することができ、かつ国内に異教徒が増えることを阻止できます。
国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威であり、国際貿易が維持できるのであれば、積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はありません。このため、逆にこれを弾圧するようになり、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達しました。
岡本大八事件というのは、家康の側近・本多正純の与力で、キリシタンだった岡本大八が、詐欺まがいの事件を犯したもので、これを機に家康のキリスト教徒に対する印象が極めて悪くなったといわれています。
1613年には、キリスト教信仰の禁止が正式に明文化され、鎖国は本格化されていきました。長崎港内に築かれた出島は、その後4区画に分けられ、それぞれにオランダ人、日本の諸役人、通詞の家などが住まうようになり、最終的には倉庫など65棟が建てられました。
出島に滞在するオランダ人は商館長は、「カピタン」と呼ばれるようになり、次席には「ヘトル」がおり、これ以外にも、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人がおり、私ももっとたくさん住まわっていたのかと思いましたが、総勢はおよそ12~13人だったようです。
しかし、商館とは名ばかりで、その生活は「国立の牢獄」と呼ばれるほど不自由でした。商館長は年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見することを義務付けられました。またオランダ商館は長崎奉行の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の「乙名」がオランダ人と直接交渉しました。
出島乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行い、この乙名の下には組頭、筆者(書記)、小使などの役人がいました。
通詞は140人以上もいたといい、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていましたが、それ全員が出島にいたわけではなく、必要に応じてその分野に詳しい通詞が出島に入りました。また、通詞筆頭の大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をしました。
これらのオランダ人と接触を持てる人員以外の一般人の出島商館への出入りは禁止されていましたが、長崎奉行所役人や長崎町年寄などの役人や組頭、宿老、出島専用の町人だけは、公用の場合に限り出入りを許されました。
この出島専用の町人としては、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番などがおり、乙名以下の役人も含めておよそ100人以上の日本人が働いていたといわれます。
出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていました。「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者がいた場合、例えば抜荷(ぬけに)・密貿易等があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札です。
「禁制」には、次のようなことが書かれていました。
一、傾城之外女入事
一、高野ひじり之外出家山伏入事
一、諸勧進之者並に乞食入事
一、出島廻り傍示木杭之内船乗り廻る事 附橋之下船乗通事
一、断なくして阿蘭陀人出島より外江出る事
右の条々堅可相守もの也
つまり、ここには、遊女以外の女や、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入りは一切許されない、といったことや、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れは禁止、またオランダ人はもちろん許可なく出島からの外出は禁じる、といったことが書かれていました。
先述のとおり、オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上していますが、これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続されました。
1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められましたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えました。この江戸参府の際には、江戸では「長崎屋」、途中の京では「海老屋」が「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられました。
以後、1859年に至るまで、およそ210年余りの年月の間、出島だけで対オランダ貿易が行われるようになり、ここは日本における唯一の外国であり続けました。が、実はこのうちの、1793年から1815年の間の22年間だけは、世界においてオランダという国は存在していませんでした。
1793年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領されて滅亡したためであり、フランス革命軍はネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者にバタヴィア共和国を樹立させました。
やがてナポレオンが皇帝に即位すると、1806年に弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に移行しましたが、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、1815年になってようやくネーデルラント王国が建国されるに至りました。
この間の貿易をどうしていたかというと、オランダはフランスに自国を占領されてからも細々と船を日本へ送っていましたが、やがて自前では用意できなくなくなったため、オランダ東インド会社は1797年にアメリカの船と傭船契約を結び、この船が出島に入港していました。
1799年には、さらにオランダ東インド会社が解散したため、アメリカの船は1809年(文化6年)までおおっぴらに出島に入港して貿易を行っていたといい、アメリカ船の出島への来航は、1809年までに13回も記録されています。この間、アメリカはこの来航を通じて、貿易を行うだけでなく、ひそかに日本の情報を収集していました。
一般には幕末の嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事が、江戸時代を通じて最初のアメリカ船の来航といわれていますが、実はこのペリー来航に至るまでも、オランダを装いながら色々な日本国内の情報を集めており、これがペリーの来航時にも役だったというわけです。
このアメリカ船の来航はしかし、1810年、オランダが皇帝ナポレオンの率いるフランスによって完全に併合されてしまったため、アメリカとの契約が成り立たなくなり、取りやめになりました。
フランスがオランダを占領し、その後継として建国したバタヴィア共和国からも、オランダの名で船を日本へ出そうとしましたが、この国もまた翌11年には今度はイギリスの占領下に置かれたため、1810年からはついに、3年間もの間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。
この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えたといい、これは現在の価値に換算すると10億円ほどにもなります。
この間、オランダ商館は商館長ドゥーフは、自分が所蔵していた書籍を売るなどして財政難をしのいでいましたが、その後、ようやく1815年になってネーデルランド王国が成立し、出島にもオランダ船が再入港するようになりました。
フランスがオランダに樹立したバタヴィア共和国は、国旗として旧ネーデルラント連邦共和国のものを使っていましたが、1810年にフランスが完全にこの国を併合してからは、この国旗は使われませんでした。
従って、ネーデルランド王国が再興する1815年までのこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだったということになります。
しかし、この短い期間を除けば、以後もオランダと日本の交易は淡々と進められました。
通常、オランダ船は、毎年2隻編成が組まれ、季節風の関係から7~8月ごろに来航していましたが、その航路はこの当時オランダが東アジアの植民地拠点として整備していたジャワ島西北部のバタヴィア(現在のジャカルタ、上述のバタヴィア共和国とは別)に発し、ミンドロ海峡、台湾海峡などを経て、日本に至るというものでした。
台湾からはさらに五島列島に南西の男女群島付近を通り、さらに長崎県最南部の野母崎をめざし、最終的に出島に入港しましたが、その年の11~12月には同じルートを通ってバタヴィアへ帰っていきました。従って、出島での滞在は毎年およそ4ヶ月ほどでした。
出島へのオランダ人の立ち入りは当初厳しく監視されており、とくに女性の立ち入りは禁止されていましたが、幕末に近づくにつれ、次第にそのタガが緩み始め、1817年7月には、5代目の商館長、ブロンホフが妻ティティアと子ジョンや乳母・召使いを同伴して出島に着任しました。
このとき、幕府はこれらの女性たちを出島に入れる事を拒みましたが押し切られ、長崎の町の絵師達はここぞとばかりに出島の入口まで押しかけて、彼女たちを写生し、これを題材に絵を描き、または人形などを制作したものが巷では大売れしました。
ブロンホフの家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国しましたが、日本での滞在期間中、絵師たちがさかんにモチーフにしたのが、ブロンホフ夫人であるティティアであり、彼女は日本へ旅した最初の西洋人女性とされ、この当時も「西洋婦人」として日本国中にその姿見の写しが行きわたりました。
出島における出入りの禁制のゆるみはその後も続き、文政11年(1828年)9月には、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件がおこりました。
この事件では、これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、その後景保は獄死し、シーボルト自身は文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。世に言うシーボルト事件です。
出島における最後のカピタンとなったのは、ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスです。
オランダ領バタヴィアにおいて、高等法院の評定官、高等軍事法院議官などを歴任後、1852年7月に来日し、同年11月、出島のオランダ商館長に就任しました。就任後は幕府にこの当時の世界事情を伝えるなどの外交活動も積極的に行い、このころの米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしている意図があることを伝えたのもこの人です。
幕府に求められ、海外事情に関する情報書類である「オランダ風説書」を提出する、といったこともやっており、そのひとつである「別段風説書」には、中国(清)におけるアヘン戦争の状況やアメリカの国内事情などの情報が記載されており、幕府はこれによって1853年のペリー来航を事前に知っていました。
クルティウスはまた幕府に対し、来たるべき米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言しましたが、この交渉は不調に終わりました。
しかしその後、2度に渡るペリー艦隊来航の後、1855年(安政2年)に日米和親条約が締結されると、開国政策に転じた幕府の要求に応じ、スンビン号(のち観光丸)を幕府に寄贈するための手配を行いました。
さらには、ヤパン号(のち咸臨丸)とエド号(のち朝陽丸)の軍艦2隻の発注を幕府から受け、長崎海軍伝習所の設立やファビウス、カッテンディーケといった、のちの日本海軍の礎となる技術を伝えることになるオランダ海軍士官の招聘などにも関与。
これらの活躍を通じて日本側の信頼を得ることができ、この結果、安政2年12月23日(1856年1月30日)には、ついに日蘭和親条約が締結されました。さらに、安政4年8月29日(1857年10月16日)、日蘭追加条約を締結。これは自由貿易関係への移行を前提とした貿易規制の緩和を含む、日本が外国と結んだ最初の通商条約でした。
安政5年7月10日(1858年8月17日)には、日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結。これにより、オランダとの間の貿易は、ほぼ自由貿易となりました。
クルティウスはまた、長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官として日蘭間の交渉役を続け、この交渉の過程で日本人へオランダ語を教授するかたわら、自ら日本語の研究も進め、1857年には日本語の文法書「日本文法稿本」まで作成しました。
さらに日本初の有線式実用長距離電信実験に成功し、電信技術を日本にもたらしたのもこの人です。1860年に離日し、帰国しましたが、日本滞在中に蒐集したさまざまな書籍はライデン大学に寄贈され、以後オランダの日本研究の基礎文献とされました。明治12年(1879年)11月27日、故郷のオランダ、アーネムで死去。享年66。
上述の1855年の日蘭和親条約締結においては、オランダ人の長崎市街への出入りが許可されるようになり、翌年の1856年には「出島開放令」が出され、出島における日本人の役人の各種役職も廃止され、3年後の1859年には、オランダ商館も閉鎖されました。
事実上の大使館、また貿易施設としての「出島」としての存在意義は失われるところとなり、明治以降、出島は、1883年(明治16年)から8年間にわたって行われた中島川河口の工事によって北側部分が削られるようになりました。
さらに、1897年(明治30年)から7年にわたって行われた港湾改良工事においては、その周辺を埋め立てられ、ついには「島」でさえなくなりました。その後出島周辺にはビルが建ち並び、どこが島だったのすらわからなくなりましたが、商館があった場所には石碑が立ち、ここは「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。
1984年(昭和59年)には、2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査が行われ、その結果、出島の東側・南側の石垣が発見され、このときに当時の出島との境界がわかるようにと、道路上に鋲が打たれました。
また、1996年(平成8年)度から長崎市が約170億円かけ、出島の復元事業を進め始め、2000年(平成12年)度までの第1期工事では、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「料理部屋」、オランダ船の船長が使用した「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」の計5棟が完成しました。
その後、第2期復元工事も行荒れ、復元作業は2006年(平成18年)4月1日に完成し、一般公開されています。オランダ船から人や物が搬出入された水門や、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など5棟を復元されているそうです。
長崎市のホームページによれば、今後とも復元作業が続けられ、中央、東部分にあったこのほかの計15棟を復元したのち、周囲に堀を巡らし、扇形の輪郭を復元する予定ということで、現在、筆者部屋他6棟の復元のため、発掘調査中ということです。
長崎市の「出島史跡整備審議会」は2050年を目標に、かつて水に囲まれた扇形の島を完全復元するよう長崎市長に提言しているといいますが、埋め立て後の開発がかなり進んでしまっていることから、はたしてそこまで復元できるかどうかは微妙なところでしょう。
出島は、鎖国によって閉ざされた江戸時代の日本にとって、唯一欧米に開かれた窓であり、細々ながら続けられた諸外国との貿易によってもたらされた物品の数々は、日本の文化や技術が戦国の時代のレベルにとどまってしまう、ということを防ぎました。
8代将軍徳川吉宗によって享保の改革(1717~1741)が行なわれた際には、実学が奨励され、このためキリスト教に関する以外のものであれば、洋書の輸入が解禁されたことから、出島には、医学、天文暦学などの世界最先端の技術書がもたらされ、これによって「蘭学」が発生しました。
この蘭学の普及は、鎖国という政策によって滞ってしまいがちな日本人の思考に合理性と柔軟性を与え、またそこに含まれていた自由・平等の思想はその後幕末の攘夷思想ともつながり、これはその後の明治維新における起爆剤ともなりました。
また、出島を通じて科学技術に長けた才能ある外国人が直接来日しており、これらの中には初期のころにオランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690–1692年滞日)、やツンベルク(1775–1776年滞日)、および幕末のシーボルト(1823–1828年および1859–1862年滞日)らが含まれます。
ちなみにシーボルトはドイツ人ですが、オランダ人と偽って日本に入国しました。
彼等は、西洋諸科学を日本に紹介し、時には通詞を通じて直接日本人に指導を与え、その一方では、帰国後にそれぞれが日本の文化や動植物を研究してヨーロッパに紹介し、これにより日本という国が欧米から忘れさられてしまうことが抑止されました。とくにこの3人の活動を褒めたたえ、「出島の三学者」と言われることもあるようです。
このように日本とオランダは出島を通じて、昔から深い関係にあり、現在も国交を結んで、さかんに貿易を行っています。が、その貿易額は、日本からオランダが1兆5000億円あまり、オランダから日本が2500億円ほどと、明らかに日本からの輸出の方が過剰です。
日本からオランダへの直接投資も多く、EU加盟国中第1位となっているなど、日蘭の経済関係はさらに重要さを増していますが、実は現在における日本とオランダとの交友関係はそれほど良好というほどでもありません。
というのも、第二次世界大戦中、オランダは日本に対してのみ宣戦布告しており、これは、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府がこれを追認したためです。
この宣戦布告によって、両国は戦争状態に入り、戦時中は、日本軍は石油資源の獲得を主な目的として蘭印作戦と呼ばれるオランダ領東インド(現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、ここを制しています。
日本軍は、ジャワ島内で蘭印軍66000名あまりを含む連合軍82000名を捕虜とし、オランダ民間人を含む欧米の民間人9万人余も収容しました。
このときオランダ人の多くが、自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わったほか、オランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所にも送られ、ここで原爆に遭って被爆しています。
また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした「白馬事件」という事件も起こしています。「白馬」の由来は、白人を白いウマになぞらえていたことからで、1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所から慰安所に強制連行し強制売春させ強姦したといわれています。
終戦後、オランダは、こうした捕虜虐待などの容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰しており、連合国中で最も多い226人の日本人を処刑しました。
このため、戦後も長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)に昭和天皇がオランダ訪問した際には街中に「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがありました。
これらのことからか、1989年(平成元年)の大喪の礼の際も、多くの君主国が王族を派遣したものの、オランダからは王族が葬儀に参列することはありませんでした。
その後1991年(平成3年)にオランダ女王が来日した際には、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会においてこの女王から賠償を要求する発言が飛び出し、これに対して日本政府は総額2億5500万円の医療福祉支援をオランダに対して実施しました。
同年海部俊樹首相がオランダ訪問の際にオランダ人の戦没者慰霊碑に献花した際にオランダ人が花輪を池に投げ捨てるという事態も起きており、いかに反日感情が根強いのかが窺えます。
しかし2000年に今上天皇が訪問した際にはオランダのテレビ番組で献花の様子が公開され、昭和天皇と正反対に熱烈な歓迎を受け、以後オランダ国民の日本皇室に対する感情を大きく変えました。
ただ、慰安婦問題はまだ両国間で解決しておらず、2007年(平成19年)にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされています。この問題は国際法的には解決済みですが、オランダとしてはいまだ被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しいかんじです。
従って、オランダ旅行へ行き、あちらの人がフレンドリーだからといっても、日本がオランダに負った戦争責任のことは頭の隅に置いておく必要があり、また国交があるからといっても、貿易において日本の輸出額のほうが過剰になりすぎている、といったことも覚えておく必要があります。
ただ、ほんの(?)150年ほど前は出島という小さな島においてお互いの友好関係を育んでいたという事実は彼等も覚えているはずであり、この話をきっかけに、オランダ人とももっと仲良くなれるに違いありません。
かつてハワイ大学時代の私の恩師の一人もオランダ人でしたが、20年以上を経た今は音信不通になっており、まだご健在かどうかもわかりません。が、もし時間と金銭的な余裕ができたら、ぜひオランダ本国にも行き、再会を果たしたいものです。
それが無理なら、せめてハウステンボスにでも、今年はぜひ行ってみたいものですが、果たして実現するでしょうか……