虚無僧たちの夏 ~旧修善寺町(伊豆市)

2014-4052最近、やや心境の変化があり、活発にフィールドに出るようになりました。伊豆に落ち着いて3年目に突入し、ようやくあちこちの様子が分かるようにもなり、そうなると、まだ行ったことのない場所への興味ががぜん沸いてきたのが原因であり、そうした場所をしらみつぶしのように漁っています。

暑い夏でもあり、そんな中でもとくに最近よく行くのが渓流や滝といった場所です。

山がちの場所の多い伊豆では、ちょっとクルマを走らせればどこにでも、といったかんじで川があり、そこから少し山合いに入ればこれが渓流となり、さらに奥へ奥へと分け入ると、あちこちに滝があります。

名のないものが多い中で、有名なものとしては、演歌でご存知、浄蓮の滝や、河津町にある河津七滝(ななだる)などがあり、このほか有名どころは、万城の滝、旭滝、雄飛滝などです。

このうちの最後の二つ、旭滝と雄飛滝はウチからもクルマで十数分のところにあり、とくに旭滝の周りはきれいに整備されていて気持ちが良いので、ついつい長居をしてしまいます。

高低差100mあまりもある大滝で、細かくみると、6段に分かれており、真東を向いていて毎朝朝日を受けることから、この名がつけられたようです。

先日もここを訪れて、展望台から写真を撮り、ウチに持ち帰って現像をしていたところ、なにやらぼーっとした白い影のようなものが映っているのに気が付きました。ゴミかな、あるいはハレーションかなと思ったのですが、どうみても違うようで、拡大してみたりしているうち、これはあー「玉響(たまゆら)」だ、と気が付きました。

オーブ現象とも呼ばれる。写真などに映り込む小さな水滴の様な光球です。肉眼では見えず写真でのみ確認され、信じない人も多いようですが、霊魂が姿を現したものとされます。なぜに私の写真に写りこんだのかは謎ですが、一般に霊からの何等かの働きかけがあるときに現れるといい、私に何かを伝えたかったのかもしれません。

2014-2-4052

実はここには以前、功徳山瀧源寺という伊豆では唯一の普化宗の寺院がありましたが、明治初年に廃宗となりました。修験宗などとともに、普化宗では葬式をしなかったそうで、虚無僧たちの亡きがらはここにあった本堂の境内に埋葬だけされていたようです。

江戸時代にはここにその本堂と観音堂があり、本尊であった、木彫11面観音菩薩立像と木彫不道明坐像の2体は静岡県の県指定文化財となり、この旭滝のある谷から尾根を一つ隔てて南側の谷にある、「金龍院」というお寺に安置されているそうです。

ちなみに、この金龍院というのは、北条幻庵の菩提寺になっています。北条早雲と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた3男で、早雲の男子の中では末子となります。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺であった、金剛王院に入寺しました。

箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られます。

幻庵はここで僧侶としても活躍しましたが、馬術や弓術に優れ、甲斐の武田信虎や上杉謙信との合戦にもたびたび出陣して戦功をあげており、早雲亡きあとは、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していました。天正17年(1589年)に死去。享年97という当時としては驚異的な長寿でした。

幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)、後北条氏は豊臣秀吉による小田原成敗で攻めたてられて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡しました。

伊豆一帯は、この後北条氏とゆかりの多い場所が多いものですが、従ってこの旭滝のある近辺もまた後北条氏と縁の深い場所のようです。

2014-2-4088

話しは戻りますが、この功徳山瀧源寺がなぜ廃寺になったかといえば、これは、明治に入ってからの明治政府による神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の余波によるものです。仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃した政策で、このお寺もこのときに廃されたようです。

神仏分離令は、そもそも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、結果として多くの寺も廃されるところとなり、これが廃仏毀釈といわれるようになったものです。

このとき、瀧源寺が廃寺となっただけでなく、普化宗そのものも廃宗となりましたが、その理由は、普化宗が徳川幕府の意向を受け、ある任務を帯びた特殊な宗派だったためです。普化宗は「宗」と称して仏門を標榜していましたが、実際には教義や信仰といった内実はほとんどなく、禅の修行のみが仏的な活動だったようです。

宗徒は、いわゆる「虚無僧」と呼ばれる人々で、尺八を「法器」と称して托鉢のために吹奏して日本中を行脚して回っていましたが、実際には諸藩の内情を探るといった、スパイ的な要素も強かったようです。

1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」には、この虚無僧を保護する旨の文々が書かれており、普化宗が江戸幕府からの保護を受けて特別の任務を持っていた、とされる根拠となっています。

そこには、普化宗の山門は、勇士である浪人の隠れ家であり、守護(警察)も入ることのできない宗門(禅宗)である。よって武家の身分である事を理解すべきである、といったことや、虚無僧は、木太刀、懐剣などを心にとめ所持しなければならない、といったことが書いてあります。つまりは仏門に入った人々というよりはむしろ、武士です。

また、武家としての正しい行いを見失わず、武者修行の宗派と心得なければならない、とし、このため、日本国中の往来を許可する、とも書いてあり、この一文をもとに、その後普化宗では、虚無僧としての入宗資格や服装なども細かく決められるなど組織化されました。

この文書により、諸国通行の自由など種々の特権を得ることになったため、いわゆる「隠密」の役も務めたとも言われます。今で言う「秘密警察」のようなものであり、しかも幕府御用達の特別警察です。

こうした江戸幕府との繋がりの強かった秘密組織を明治政府が残しておくわけはありません。このため、宗派そのものは、1871年(明治4年)に解体されなくなってしまい、これと同時に旭滝がある場所にあったような普化宗のお寺の多くが廃寺となったり、他の宗門に吸収合併されたりしました。

しかし、明治23年(1890年)に東福寺の塔頭(たっちゅう、祖師や高僧の墓塔の側に建てられた小院)である善慧院に「明暗教会」として復興されたほか、戦後の1950年(昭和25年)には、宗教法人として「普化正宗明暗寺」が再興されており、現在では普化宗は復活しています。

2014-2-4093

廃仏毀釈前の普化宗の総本山は、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)にあった、金龍山梅林院一月寺でした。

また、武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)にも廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、この二寺を中心として、全国に普化宗末寺120を持つほどの大組織を持つまでになりましたが、廃仏毀釈後の一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となりました。

昭和になってから復興した明暗寺は、京都市東山区にありますが、この「明暗」というのは、時代劇でよく虚無僧が首からぶらさげている箱に書いてあるあれです。一見宗教的な意味を持っているように思えますが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味です。

この箱には名称があり、偈箱(げばこ)といいます。が、「明暗」の文字は江戸期にはなく、明治末頃から書かれるようになったもので、虚無僧の姿を真似た大道芸人が虚無僧の雰囲気出すために用いたものが流行るようになったものです。

従って、江戸時代がテーマの映画やドラマに出てくる虚無僧が下げている箱に「明暗」と書かれているのは時代考証的には間違いということになります。

偈箱の、「偈」とはこれすなわち尺八の譜面のことです。この中には偈の他、お布施等が入っており、江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などとは書かれてはいませんでした。

現在の時代劇では、よく虚無僧の恰好をして世間を欺く人物が描かれたりしますが、江戸時代にも実際にこうした偽物の虚無僧が横行していたようで、こうした偽虚無僧も本物らしく見せるためにこの皇室の裏紋を用いていたようです。

この当時の虚無僧の装束としては、深網笠をかぶり、白の手甲、脚絆に草鞋、あるいは草履、下駄等をはき、手には尺八、左手に数珠、また左の腰には袋に入れた替え笛を挿し、偈箱を首からさげている、といった風情です。

2014-2-4105

この虚無僧のトレードマークともいえる尺八ですが、これを門徒の虚無僧たちに使うように広めたのが普化宗の開祖といわれる、「心地覚心」です。もともとは、臨済宗の僧で、29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で真言密教を学びますが、さらに密教禅を深めるために、1249年(建長元年)にこの当時「宋」であった中国に留学しました。

5年ほどで帰国し、その後多くの宗教家に影響を与えましたが、この帰国の際には中国普化宗の4人の高僧を伴って帰ってきており、この4人は、紀伊由良の興国寺山内に「普化庵」という小寺を建ててもらってここを居所としました。

4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていき、これがさらに全国に広がることで、普化宗は大組織になっていきました。

この4人の中国僧のパトロン的存在だった心地覚心が、尺八を中国から持ち帰って広めたとされるわけですが、実は尺八はこれ以前からもありました。有力な説としては7世紀ごろに唐の学者で呂才という人が考案したというものがありますが、日本に伝来したのもこのころのことのようです。

「尺八」の名前の由来は標準の長さが一尺八寸である事に由来していると言われています。日本に伝わった時は雅楽楽器として伝わりましたが、平安時代頃には使われなくなってしまいました。その後、鎌倉時代になって、これを基にしたと思われる「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる縦笛が広まりました。

これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものであり、尺八と比べるとやや細めです。義経が九条大橋の欄干に立って吹いていたのは横笛ですが、おそらくはこの一節切の発展形でしょう。この一節切は武士の嗜みの一つとしてこの当時の武家社会で大いに流行し、上述の北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っています。

2014-2-4110

「田楽法師」と呼ばれるこの当時の旅芸人の中には、これを吹いて物乞いをする集団が現れ、やがてはこの集団は、「薦僧(こもそう)」と呼ばれるようになりました。

この集団がやがて普化宗と結びつき、「薦僧」の音がもじって、「虚無僧」となっていったと考えられます。心地覚心はちょうどこのころ日本では廃れていた尺八を携えて宋から戻り、自身が興した普化宗の門徒の間で広めたと考えられます。

この心地覚心が持ち帰った尺八の演奏技術は、「竹管吹簫(ちくかんすいしょう)」と呼ばれるもので、それなりの奥義であったようです。一節切の演奏方法にもこの奥義が適用されるようになり、さらに普化宗の創設とともに「法器」に指定され、形も工夫されて現在に伝わる尺八に変わっていきました。

が、一方の一節切は17世紀後半に全盛を迎えたのち、その後急速に衰退していきました。ちなみにこのとき、心地覚心は尺八以外にも「金山寺味噌」を持ち帰っており、これは彼が宋で学んだ径山寺(きんざんじ)で製造されていた味噌の製法を模したものと言われています。

やがて、虚無僧と呼ばれるようになった普化宗の門徒たちは、尺八を吹き喜捨(金品を寄付すること)を請いながら諸国を行脚し、修行するようになっていきました。しかし「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在であり、有髪の僧でした。

最初のころは普通の編笠をかぶり、白い小袖を着て袈裟を掛け、刀を帯しただけといったシンプルな姿でしたが、江戸時代になると徳川幕府の命によって、「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶることが強要され、足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つという固定スタイルになりました。

幕府は、上述のとおり、「慶長掟書」を普化宗に与え、そこには「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があったため、これをもって虚無僧は普通の人がいけないような場所にも行くことが許されていました。

しかし、その原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺や鈴法寺にも存在しないため、実は偽造ではないかともいわれています。最初のころはたしかに幕府からスパイを命じられることもあったかもしれませんが、そのためだけに永世許可証を与えられるとは考えにくく、普化宗門徒たちが自分たちの特権を守り続けるために捏造したのでしょう。

が、真偽のほどはわかりません。とはいえ、幕府からもその存在が認められた天下無双の秘密警察、という暗黙の了承が世間でまかり通るようになり、幕府も野放しにしていたことから、やがては罪を犯した武士でも普化宗の僧となれば刑をまぬがれることたができるようにまでなりました。

江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が偽虚無僧になって横行するようになり、このため、幕末近くになると、幕府は虚無僧を規制するようになりました。しかしその後、明治維新を迎え、新政府は明治4年(1871年)、普化宗を廃止する太政官布告を出しました。この結果、虚無僧たちは僧侶の資格を失い、民籍に編入されることになりました。

しかし、前述のとおり、明治21年(1888年)に京都東福寺に明暗教会が設立されてからは、虚無僧行脚が復活し、現在に至っています。

2014-2832

とはいえ、現在に至っても本当に虚無僧はいるのか?という疑問がわきます。調べてみたところ、「虚無僧尺八」の愛好者として、この京都東福寺善慧院内の明暗教会会員が約200名ほど、東京新宿区の法身寺というところに本部を置く「虚無僧研究会」のメンバーが約600名ほどもいるとのことで、両会に重複している人を除けば700人程度になるようです。

ちなみに、江戸時代でも虚無僧の数も数百人程度だったそうで、あまり実数はかわりません。ただ、これら現代の虚無僧愛好者もまた、江戸時代と同じように日常的に虚無僧姿で全国行脚しているかというとそうではなく、各会がそれぞれ年1、2回開催する大会に出席するか、何かのイベントがあると虚無僧姿で尺八を吹くだけのようです。

とはいえ、こうした会員の間での、普化禅師の禅、普化道を究めようとする精神性は高いそうで、そうした意味では江戸時代の、純真な虚無僧の精神を引き継いでいるといえるようです。

ちなみに、虚無僧が、自宅を訪れたとき喜捨を断わる場合には、「手の内ご無用」と言って断わるそうです。「手の内」とは、手のひらです。そして、何かものをもらう時には手のひらを見せて「ください」とやるわけです。

つまり、「手の内ご無用」とは、「手のひらを見せないでください」、つまり、「托鉢お断り」の意味になります。お宅にある日突然、虚無僧が現れたら、試してみてください。無論、ありがたく拝んで、喜捨を行うほうが功徳があるに決まっていますが。

2014-2-4117

こうした「純正」の虚無僧以外にも、尺八の愛好者は多いようで、その吹奏人口については正確な人口は不明ですが、推定では3万人程度もいるといわれているようです。

現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものです。古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていましたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流です。

これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からのようですが、結果として持ち運びにも便利になりました。材質は真竹ですが、近年では木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されています。

明治時代以降は、西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八も開発され、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの多様な音が楽しめるためか、こちらを好んで使う人もいるようです。

現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整します。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られます。

これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗りません。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要があります。

尺八はフルートと同じく、奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整しなければなりません。リコーダーのような縦笛なら、歌口の構造の工夫があるため初心者でも簡単に音が出せますが、尺八やフルートで音を出すには熟練が必要です。

しかし、口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができ、メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができます。

これによって、フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法が可能であり、こうしたところも尺八の愛好者が多い理由でしょう。ひとつひとつ微妙に構造が変わる尺八のもつ個性もまた様々に音色を変化させるため、これもまた愛好家にとってはたまらない魅力となっているようです。

2014-2831

尺八にも流派があり、組織として大きいのは「都山流」というそうです。1896年(明治29年)、といえば、明治21年(1888年)に明暗教会が設立されてからわずか後ですが、この年に、「中尾都山」という人が興した流派のようです。

中尾都山は独自の記譜法を使い、箏の奏者で文筆家としての評価も高かった宮城道雄という人らとも積極的に交流し、尺八と琴の合奏を広めました。この都山流はすぐに全国に広まって大組織となるとともに、この流派の所属者の中からは洋楽を学んだ作曲者も出て、新しい曲を作曲して多様なスタイルで演奏されるようになり、現在に至っています。

しかし江戸時代には、「琴古流」というのが主流だったようで、この流派は元黒田藩の藩士であった黒沢琴古という人によって創始されました。江戸へ出て一月寺や鈴法寺の吹合指南役となりましたが、天賦の才があったようで、この際にそれまでの尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定しました。これが尺八の世界では「古典」とされるものです。

その後3代に渡って、「黒沢琴古」の名跡を残しましたが3代目で途絶え、琴古流はその後、弟子の荒木古童らが隆盛を築いていき、現在も続いています。ちなみに、この荒木古童の名跡も現在、6代まで続いており、この6代目荒木古童の本名は荒木半三郎さんといい、自らCDを出し、こうした活動から数々の世界的な賞を得ています。

尺八曲に「滝落」という曲があり、古典本曲をやっている人ならば、「おぉぉ・・あれか・・」というほど有名な曲なのだそうです。そして、これは先の琴古流の36曲の中に入っている一曲だそうです。

その尺八の名曲は、冒頭で述べた旭滝から生まれたと言われており、現地に行くと、滝のすぐ側にそのことが書かれた説明板が建てられています。この地にあった寺は廃されてしまいましたが、ここで生まれた曲は今も残り、この地に伝えられていた虚無僧たちの精神もまた現在に伝わっているわけです。

写真に写っていた大きな玉響は、おそらくはこの地で修業を重ねていたかつての虚無僧であり、きっと私に今日これまでに書いてきたことなどをきちんと伝えてくれよ、と言いたかったのに違いありません。

あるいは前世でスパイだったこともあるらしい私にシンパシーを覚えて出てきてくださったのかもしれませんが、実は先にこの滝を訪れたときから、ずーっと右肩が痛いのが続いており、これはもしかしたら何等かの霊的なメッセージなのかもしれません。

それが何であるのか、解き明かされる日が来るのが楽しみです……

2014-2887

精霊のころ

2014-47557月も終わりに近づいていますが、暑さがハンパではなく、夏が苦手な私は、いっそのこと7月とともにまとめて8月も終わってくれないか、と期待したりもしています。

が、かつて東京に住んでいたころのことを思えば、この程度の暑さは許容範囲です。昼間でもクーラーなしで仕事が十分できますし、夜ともなれば、扇風機のお世話にもならなくても済む時さえあります。

それにしても、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったもので、これは、元々は、熱いものも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまう、という意味です。「暑さ」ではなく「熱さ」なわけですが、間違って「暑さ」だと思っている人も多いでしょう。

これはそもそも、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう、あるいは苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまうという意味で使われることわざです。

そういえば、あのとき色々助けてもらったよな~という人はゴマンといますが、そうした人達へのお礼や恩返しもできずのままにいることを、こうしたときにふと思い出したりもします。

中にはお礼もできないままに亡くなってしまった人達もいて、恩義を返したくても返せないという状況に陥っています。こうした人達へは、もうすぐやってくるお盆のときにでも、お線香の一本もあげて、長年のご無沙汰をわびるとともに、かつての好意に感謝の念を示すのが一番なのでしょう。

お盆といえば、先祖の霊を祀るためのものであって、親戚縁者ではない人のために祈るものではないと思っているひとも多いかもしれませんが、そうではありません。恩義を与えてくれた人達というのは、おそらく何等かの形で前世から自分と関わってきた人達だと思います。

あるいは前世では親戚や縁者だったかもしれず、もしかしたら肉親だった場合もあります。たとえそうでなくても、魂レベルでは同じグループに属している人である可能性が高く、だとすれば、身内同様の人です。なので、お盆にこうした人達の供養を行うことはごく自然のことだと思います。

また、お盆というのは、そもそも「施餓鬼」のための風習として発祥したものです。これは、訓読すれば「餓鬼に施す」と読め、仏教用語であり、死後に餓鬼道、つまり地獄に堕ちた人のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指します。

お釈迦様の十大弟子で神通第一と称され「目連尊者」という人が、神通力によって亡くなった母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていたのを発見しました。

目連は神通力で母を供養しようとしましたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できません。そこで目連尊者はお釈迦様に何とか母を救う手だてがないかたずねたところ、お釈迦様は「お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちたのだ。」といいました。

そして、「多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、餓鬼道に落ちた人々のためにご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。」と言い、目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われました。

これがお盆の起源とされている故事です。さらに、餓鬼道にいる人々に飲食を施せば、その行為を行った人の寿命はのび、またいろいろな苦難も脱することができるとされ、これ以降、多くの寺院においてお盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれます。

2014-4682

従って、お盆のというのは、そもそも自分の先祖や親族のためだけをお祀りするといったエゴイスティックなものではなく、地獄に陥った亡者に代表されるような、あの世で苦しんでいる人を救うための行事です。

このため、当初はお盆といえば、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、先祖だけでなく道ばたに倒れた人などの霊も慰めるための風習だったようです。しかし、こうした風習が常識とされ、そのまま残っている地方もある反面、施餓鬼の風習が全くなくなったり、時代とともに先祖供養だけに変容していった地方もあり、全国的にみると、後者のほうが多いわけです。

棚を作って供養する、という行為自体も様々に変化しており、地方によっては、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物を用意することがあります。

4本の麻幹あるいはマッチ棒、折った割り箸などを足に見立てて差し込み、馬、牛として仏壇まわりや精霊棚に供物とともに配すもので、きゅうりは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるようにするためのものです。

また、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、この世からあの世に帰るのが少しでも遅くなるように、また、供物を牛に乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いがそれぞれ込められています。

このほか、おそらくもっともポピュラーなものは、「盆提灯」であり、お盆の時期になると、仏壇や門前にこの提灯を飾りますが、こちらもまたご先祖が自宅に帰ってきたときに、その場所を見つけやすいように、という配慮から出たもののようです。

お供え物も地方によって違いがあり、甲信越や東海地方では仏前に安倍川餅、北信州ではおやきをお供えする風習があります。長野県や新潟県の一部地域では、送り火、迎え火の時に独特の歌を口ずさむ習慣があるなど、受け継がれた地方独自の風習が見受けられます。

川に灯籠や船を流す、というもの悲しげな風習に変わった地方も多くあります。木組に和紙を貼り付けた灯篭を流す「灯篭流し」を行う地域はかなり多いようです。船のほうはどちらかといえば特殊な部類に入り、盛岡市などのように供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われる場合あります。

2014-4736

灯籠と小船を合体させた「精霊流し」で有名なのが長崎です。長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事で、隣の佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られます。

初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて運ぶというものです。初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包んで流すそうです。

が、最近は環境への配慮から、海までは流さず、「流し場」と呼ばれる終着点までしか流dさないところも多く、海上に浮かべる場合でも必ず回収するようです。

また、私はこれを最初から川に流すのかと思っていたのですが、そうではなく、川に流す前に一度街を練り歩き、それから花火や爆竹を鳴らしまくった後に川に流すところが多いそうです。長崎県の、島原市、西海市、松浦市、五島市などもそのようで、現在でも川面や海上にこうした精霊船浮かべる風習があります。

ただし、長崎市では、江戸時代以前は実際に川から海へと流されていたようですが、1871年(明治4年)からは禁止されました。おそらくは火事予防のためだと思われますが、このため、市民が精霊船を持って行く場所として、「流し場」と呼ばれる場所を設け、ここを終着点として、人々は手でこの船を運ぶようになりました。

従って、この精霊船は水に浮かぶような構造にはなっておらず、大型のものは車輪をつけて「曳いて」運ぶそうです。長崎市民は、この精霊船に相当なお金をかけるそうで、これは東北などで盛んな「山車」を連想させる華美なものです。

この長崎市の精霊船は大きく2つに分けることができ、それは個人で造る精霊船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船です。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことだそうで、昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られていました。

しかし、最近はわりと安価に精霊船を作れるようになったことから個人でも作る人が増えました。昔から個人船、もやい船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人も多く、とくに「もやい船」に関しては、これを保有する自治会の「意地」に基づいて、その豪華さを競う傾向にあるようです。

こうした自治会で流す船のほかに、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もあるそうで、このほか、人だけでなく、ペットのために流す個人船もあるといいます。

2014-4719

この長崎市の精霊流しは毎年8月15日の夕刻から開催されます。午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されています。
船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまであります。

小型な船や一部の船では積まれる提灯にロウソクを用いるようですが、最近は振動により引火する危険があるため、電球を用いることも多いようです。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もあるそうで、材質は木製のものが多いようですが、特に決まりはなく、チガヤや強化段ボールなどが利用される場合もあるようです。

また個人船には舳先に家紋や苗字が書かれ、もやい船の場合は町名が書かれています。「艦橋」に当たる部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされ、仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることもあります。

個人や自治会を象徴するためぶら下げられる「印灯篭」にもそれぞれ工夫が加えられ、もやい船の場合はその町のシンボル的なものがデザインされ、亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いているそうです。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すものが描かれ、将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなどが描かれます。

近年ではこうした印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない「変わり精霊船」も数多く見られるそうで、例えば故人がヨット好きだった場合はヨット型、バスの運転士の場合は、「西方浄土行」と書かれた方向幕を掲げたバス型である、などです。

長崎市の「流し場」は市内各地にあるようですが、代表的な流し場である長崎市の大波止には、大型の精霊船を解体する重機の用意まであるといいます。

流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続きます。しかし「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多いようです。

2014-4717

昔から貿易港として栄え、中国なども多く入り込んでいた長崎らしく、この流し場までの精霊船の運搬は、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われます。この流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国では「魔除け」の意味もあり、かつては精霊船が通る道を清めるための意味もあったようです。

ただ、近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっているようで、数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されているそうです。

時には観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されていますが、お祭りごとの好きな長崎市民のことでもあり、度を過ぎることもあるため、大型の精霊船などでは事前に花火の取り扱い講習を受けさせ、「花火取扱責任者」を置くことなどが警察から指導される場合もあるようです。

長崎市には「長崎くんち」というお祭りがあり、この精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物にも似ています。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われています。

しかし、どこの地方でもこうしたお祭りの派手は行事はあまり好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為を取り巻くように見守っているといい、危険な行為に対しては制止を行うこともあるそうです・

この長崎市の精霊流しは、10月に行われる長崎くんちとともに、市民にとっては一大イベントであり、精霊流しが行なわれる時間帯は、長崎市中心部を始めとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車は経路を変更するまでして開催されます。

流し場に到着した精霊船は、家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体されますが、もやい船などは自治体が精霊船の処分を行います。

その解体の際に出るゴミの量はハンパではないため、長崎市では、精霊流しがの後の一定期間、一般家庭からの粗大ごみの搬入が停止されるそうです。

それほど、長崎市の人にとっては大変重要な行事です。1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際には、多くの人が被爆からわずか6日後に行われるはずであった精霊流しを思い、死んでしまったら誰が自分の精霊船を出してくれるのだろうかと気に懸けながら亡くなっていったといいます。

2014-4743

ところで、精霊流しといえばやはり、長崎出身の歌手「さだまさし」さんが作詞・作曲し、1974年(昭和49年)にリリースして大ヒットした、「精霊流し」を思い浮かべる人多いでしょう。

この曲は、さださん自身が、従兄の死に際して行われた精霊流しを題材にして創ったそうです。また、さださんは、2009年(平成21年)の暮れに父親を89歳で亡くしており、翌2010年(平成22年)に親族で精霊船を出した際には地元の各テレビ局が取材しネットワークを通じて全国に配信され、沿道からも多くの人がこの船を見送ったといいます。

が、実際の精霊流しは上述のようにかなり派手派手しいものです。このため、精霊流しを目的に長崎を訪れた観光客が実際の精霊流しを目の当たりにして、あまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるといいます。

実は私もそうだったのですが、精霊流しといえばかなりしめやかなイメージを持っており、これはさださんの作ったこの歌があまりにも悲しげなメロディーと詩であるためです。

「約束通りにあなたの愛したレコードも一緒に流しましょう。そしてあなたの船のあとをついていきましょう。」という歌詞はいかにも精霊船が静かに川を流れていくあとを家族たちがしめやかについて行く姿を連想しますが、長崎では実際には川には流しません。それどころか、この船のあとを爆竹を鳴らし、歓声をあげながら賑やかについて行くわけです。

ただ、よーく注意してみると、この歌の歌詞の中には確かに、「精霊流しが華やかに」と書かれており、この曲が納められたグレープのファーストアルバム「わすれもの」の中でも。この「精霊流し」のイントロ・アウトロ部分には、かなりの歓声や鉦の音、爆竹の音が入っています。

私もこのアルバムを持っていたのですが、その昔処分してしまいました。が、たしかにそうしたアウトロ部分があったことを覚えています。それにしても、さださんの曲がこれだけヒットしたために、実際の長崎の精霊流しをしめやかなものであると勘違いしている人がどれだけいることでしょうか。

また、全国的には精霊流しよりも灯籠流しをやるところの方が多く、実際の精霊流しを知らない人が精霊流しを灯籠流しと勘違いしたというケースも多いようです。灯籠流しもまた、死者の魂を弔って灯籠やお盆の供え物を海や川に流す行事ですが、そもそもはお盆の行事である「送り火」の一種です。

雛祭りの原型とされる流し雛の行事との類似性が指摘されており、これこそしめやかな「精霊流し」にふさわしいお盆の行事といえるでしょう。新潟県の長岡市の「柿川灯籠流し」や京都嵐山の灯籠流しがよくメディアにもとりあげられるようですが、長崎と同じく原爆の被害を受けた、広島市の原爆被爆者慰霊灯篭流しも有名です。

8月6日の平和記念式典後の夕刻から市内を流れる元安川で行われるこの灯篭流しは、昭和22年(1947)に始まったそうですが、実は広島に十数年住んでいたことのある私も一度も見たことがありません。

灯台もと暗しとはよく言いますが、地元の祭りというものは案外とそういうところがあります。ここ伊豆でも、ふもとの修禅寺温泉街で行われるお盆行事にも行ったことがありません。

一般的にお盆は8月13日から15日ですが、修善寺ではその昔養蚕がさかんで、この時期が蚕が大きく育った絹を生産するための繁忙期にあたっていたそうで、このため、この時期を避け、前倒しで8月1日から3日がお盆になっています。

修禅寺の境内にやぐらが立ち、たくさんの提灯の灯りが灯り、盆踊りの音楽に合わせて太鼓の音が響き渡るとともに、花火大会も催されるということで、地元の人たちはもちろん、観光客で大賑わいだということで、この盆踊りには。修禅寺のお坊さんも参加して一緒に踊るということです。

さすがに、わたしは盆踊りは参加しないと思いますが、夏祭りの雰囲気を味わうためにも今年は一度出かけていってみようかな、などと思いはじめているところです。

みなさんの町の夏祭りもそろそろスタートしていることかと思います。私のように灯台もと暗しとならないよう、ぜひ一度はそうしたお祭りに参加してみてください。

2014-4749

ホンダが空を飛ぶ日

2014-4282ちょうどひと月ほど前の、2014年6月27日、本田技研工業こと、ホンダから「ホンダジェット」の量産1号機が初飛行に成功したとの発表がありました。

ホンダは、1962年(昭和37年)に、創業者の本田宗一郎が航空機事業への参入を宣言し、1986年(昭和61年)から、その研究のために「和光基礎技術研究センター」を開設してからは、本格的に航空機研究を開始し始めました。

1989年(平成元年)からは、アメリカのミシシッピ州立大学ラスペット飛行研究所と提携し、小型実験機MH02を開発。1993年(平成5年)に他社製エンジンを搭載してではありますが、初飛行に成功しています。

こうして基礎技術を固めたのち、エンジンを含めすべて自社製のビジネスジェット機の開発に乗りだし、これを「HondaJet」と名付けました。その初号機、アメリカにおける登録番号N420HA)は、2003年(平成15年)12月にノースカロライナ州グリーンズボロのピードモント・トライアド国際空港にて飛行を行い、このフライトも成功裏に終わりました。

この成功により、ホンダはその後、機体構造もジェットエンジンも自社製という世界的にも珍しい構成で本格的な小型ジェット機の量産に乗り出すようになります。

それから11年余りの年月が過ぎ、ようやく量産機の初飛行に成功したわけですが、当初その飛行は、2009年初旬の予定であり、2年余り遅れたことになります。2010年末にデリバリー開始を予定していましたが、本格的な販売開始は、来年1~3月期になるようです。すでに2012年10月には量産ラインでの組み立てが開始されているそうです。

この機体は、まだ開発途上にあった2007年10月、「エンジンを翼の上に設置する独創的な空力設計」によって、日本のグッドデザイン賞金賞を受賞しています。これは、その造形がこれまでの航空力学の常識を大きく覆しながら優美な美しさを兼ね備えた点が評価されたためです。

さらに2012年9月には、アメリカ航空宇宙学会より「エアクラフトデザインアワード2012」も受賞しており、世界に冠たる航空機産業の雄であるアメリカに評価されたということは、いかにそのデザインが秀逸であるかの証明といえるでしょう。

その航続距離は2185キロ、巡航速度は時速778キロで、ライバル機とくらべても速度と燃費が約15%優れ、室内は約20%広いにもかかわらず、価格は450万ドル(約4億7000万円)に据え置かれ、この価格は他社とほぼ同じだといいます。

ここまで性能が突出した一番の理由は、この飛行機の製造販売を行うために設立されたホンダ・エアクラフトカンパニー・インコーポレーテッドの藤野道格社長が発案した特徴的なデザインによるところが大きいようです。

機体後部の左右に取り付けていたエンジンを、主翼上部に載せるような形で取り付けたことで、高速飛行時の空気抵抗を抑え、燃費向上と速度増加の効果を生み出しました。またエンジンを機体から切り離すことで余分な構造が不要となり、室内も大幅に広くなっています。

今後、ホンダにはこの航空機事業を、自動車、バイクに次ぐ3本目の柱とする狙いがあるといいます。しかし、自動車やバイクの販売はそこそこ好調であるのに、なぜいまさら飛行機なのか、ですが、このホンダのジェット機参入には、しっかりと戦略に裏打ちされた勝算があります。

経営学者マイケル・ポーターの「参入障壁の理論」というものがありますが、この理論は、新規参入しやすい業界は、それだけライバルの会社の数が増えるため、業界内の競争は激しく、利益を上げるのは容易ではなくなる、というものです。

しかし、逆に新規参入しにくい業界に参入するまでは大変ですが、一旦参入してしまえばライバルが少なく、比較的安定した利益をあげることができます。

ジェット機業界もまた、高い技術力が必要であるがゆえに新規参入が難しい業界の代表例ですが、優れた技術力を持ってすれば、楽々とその業界におけるトップの座を占めることができる可能性が高いというわけです。

今は亡きホンダの創業者、本田宗一郎はそれを見越していたに違いありません。しかし、そもそも彼は少年のころから飛行機が好きだったようで、実はホンダのオートバイのエンブレムであるウイングマークは、創業者の本田宗一郎が抱いていた、「いつかは空へ羽ばたきたい」という願いを込めて採用されたものです。

それほど宗一郎の空への憧れは強かったといえ、ホンダの航空機事業への参入は自然な成り行きといえます。が、その実現には、彼が航空機産業への参入を告げてからは52年もの年月を必要とし、また彼の亡くなった1991年からも既に23年も経っています。

2014-4343

本田宗一郎は1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれました。地元浜松の光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学し、その在校中に自動車を初めて見たといい、本田少年の目はその不思議な乗り物にくぎ付けになりました。

また、自動車だけでなく、こうした乗り物が大好きな少年で、遠く離れた浜松町の和地山練兵場というところまで自転車をこいでいき、ここから飛び立つ、軍用飛行機を見るのが好きで、またここで生まれて初めて曲芸飛行を見ました。

本田少年は小柄であり、大人用の自転車のサドルに座るとペダルまで届かず、このため、この自転車による遠出は、三角漕ぎだったといいます。

15歳で高等小学校を卒業したあとは、東京の本郷にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社。入社とは聞こえがいいですが、これは事実上、この当時めずらしくもなかった「丁稚奉公」でした。このため半年間は、社長の子供の子守りばかりさせられました。

アート商会に6年勤務後1928年(昭和3年)、21歳になった宗一郎は、のれん分けの形で浜松市にアート商会の支店を設立させてもらい独立。このころ、こうしたのれん分けをアート商会社長の榊原郁三から許されたのは、宗一郎ただ一人だったといいます。

かくして小さいながらも、自動車修理工場の主となった宗一郎ですが、日々油にまみれてもくもくとクルマを修理するだけの生活にやがて限界を感じるようになります。もっと技術力を高めたい、そんな思いから、27歳のとき、旧制 浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部)聴講生となり、ここで一から金属工学や機械工学を学び直し始めます。

そこで得た技術は無論、商売にも生かされましたが、彼はそれに増して自動車がさらに好きになり、自分でレース車を整備するようになります。1936年(昭和11年)に行われた第1回全国自動車競走大会、のちの多摩川スピードウェイでは、弟の弁二とともに自らも出場していますが、事故により負傷、リタイアを喫したりしています。

そんなかんなで、自動車修理業の傍ら、レースがあれば、仕事の合間をみて参加するような日々を続けていましたが、本業のほうは順調で、自動車修理事業はさらに拡大していき、浜松の小さな修理工場が、ついには、「東海精機重工業株式会社」という重厚な名前まで持つ会社へと発展していきました。

ちなみに、この会社は、現在も東海精機株式会社として継続しており、ホンダのグループ会社としても重要な地位を占めています。こうして小さいながらも株式会社の社長に就任した宗一郎は、さらに会社を発展させるべく、エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目を付け、その改良に乗りだしました。

しかし、ここでも技術の壁につきあたり、経験からだけではどうにもならない学問的な素養の重要性を思い知らされます。このため、宗一郎は再び、浜松高等工業学校に戻り、再度機械科の聴講生となり、ここで更に3年間を金属工学の研究に費やしました。

2014-4424

しかし本業を忘れていたわけではありません。このころ、のれん分けされていた修理工場は従業員に譲渡しましたが、東海精機重工業のほうの経営には更に専念するようになっていました。が、1942年(昭和17年)にトヨタが東海精機重工業に出資し始めると、思うところがあり自ら専務に退きます。

そんな中、1945年(昭和20年)に発生した三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。これを機に所有していた東海精機重工業の全株を一気に豊田自動織機に売却して退社。宗一郎は、「人間休業」と称して1年間の休養に入ります。

そして、翌1946年(昭和21年)10月、39歳となった宗一郎は、浜松市に「本田技術研究所」を設立、所長に就任します。現在まで続く、大会社ホンダの誕生です。

この研究所は、2年後には「本田技研工業株式会社」として株式化し、資本金100万、従業員20人でスタート。ここで宗一郎は、かねてからの念願だった二輪車の研究を始めました。東海精機重工業の専務に退いたのは、この二輪車の開発を自らの手で成し遂げたい、と考えたためでした。

結局、この二輪車製造販売は大成功に終わり、ここで培った技術をもとにさらに取り組んだ四輪事業もまた大きな成果を収め、ご存知のとおり、ホンダはトヨタ、日産に続く、大自動車メーカーとして発展していきました。

1983年(昭和58年)、76歳になった宗一郎は、取締役も退き、終身最高顧問となりました。それまでの功績を認められ、1989年(平成元年)には、アメリカの自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たします。アジア人としては初の快挙でした。

しかし、1991年(平成3年) 8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。

終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして遊んでいた時代があったといいます。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いついたのが、オートバイ研究だったそうです。

また「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっておりけっして、身内を入社させなかったといい、社名に自分の姓を付したことを一生後悔していたそうです。

2014-4172

経営難に陥ったときにマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直したということもありましたが、ともかく従業員思いの経営者としても知られており、彼等からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていました。

が、一方で共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」ともいい、作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていたそうです。

しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということも多かったという話も残っており、怒る際、「よくお前が可愛いから怒るというが、俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言ったといいます。

心に思っていることを素直に言葉でうまく表現することのできないタイプだったようで、口ではそういいながら、こよなく社員を愛していた証拠に、社長退職後には全国のHONDAディーラー店を御礼参りをした、というエピソードも残っています。

特定産業振興臨時措置法案をめぐり、他者との合併などを官側から強制されそうになったときも、普通の社長なら今後のことも考えて役人と適当なところで妥協するでしょうが、宗一郎は会社と従業員を守るために徹底的に官僚と戦いました。

特定産業振興臨時措置法案というのは、貿易自由化や資本自由化という外資参入の危機感から、通商産業省が推し進めた国内産業向けの合理化構想の法案です。

背景にあったのは、このころ国家が企業を統治する形で成功していたフランスの「混合経済」の成功であり、これを見た日本の官僚が、これをお手本にした「新産業秩序」をうたい、企業の大規模化のために政府が民間の構造改革に介入する推進策を、1962年(昭和37年)に提唱しました。

これに対し、この当時の経団連会長 石坂泰三が、「形を変えた官僚統制」だと強く反発、また合併・集中の促進よりも、「独禁法緩和が先」だとし、宗一郎もこれに同調しました。他者と合併させられるのは大迷惑だ、それよりももっと規制を緩和して各社に儲けさせたほうがよほど構造改革になりうる、というのが宗一郎の主張でした。

この法案は、1963年(昭和38年)に、自動車産業ほか、鉄鋼業・石油化学を特定産業に指定し、合併ないし整理統合、設備投資を進めることを骨子として閣議決定され国会に提出されましたが、宗一郎ら経済界の雄たちの総反発の意を汲んだ他議員らに反対され、審議未了のまま廃案に追い込まれました。

が、この政策が成功していたら、今ある、トヨタ、日産、ホンダなどの今の日本を牽引する大企業が一本化され、官僚の言いなりの国策会社になっていたかもしれません。

2014-3214

技術者としての宗一郎は、純粋そのものでした。その最晩年の皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際などには、「技術者の正装とは真っ白なツナギだ」と言いその服装で出席しようとしたといい、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席しました。

が、かつての部下の目からは技術の面ではたいしたことはなかった、と酷評されることも多く、エンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督中村良夫氏も、宗一郎が革新的な製品開発を推し進めたことは評価する一方で、「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と評しています。

東海精機時代には、学校にまで戻って金属工学を学び直した宗一郎ですが、後年になればなるほど理工学的な無理解を押し通そうとすることが多くなり、そういった衝突から会社を辞める技術者も多かった、と伝えられています。

1960年代後半から、空冷エンジンに固執する本田に対して若手技術者が反発するケースが増え、久米是志(後の3代目社長)のように出社を拒否する者も出るほどでした。

このころのホンダの市販車には、ホンダ・1300やホンダ・145などがあり、レーシングカーにもホンダ・RA302といった車種がありましたが、これらはみんな宗一郎の主張する空冷エンジンを搭載していました。

水冷よりも空冷のほうが、よりシンプルでパワフルだというのが宗一郎の主張であり、この「信念」に基づき、ホンダではこうしたクラスとしては、この当時他社と比較しても珍しくなっていた空冷エンジンを用いていました。

しかしホンダのこの空冷エンジンは、一般的な空冷エンジンに比べてより複雑な構造を持っており、このため重量増とコスト高が問題として生じるようになり、このため、本来であれば簡単構造、軽量、低コストといった空冷エンジン本来の長所が薄れる結果となっていきました。

この結果、主力車ホンダ1300の総生産台数は3年強の間に約10万6千台にとどまり、このうち日本国外へ輸出されたのは1053台にとどまりました。時代が少々違うので、参考になりにくい面もありますが、現在のホンダの主力車種フィットの年間販売台数はおよそ約20万台であり、これと比較しても3年で10万台というのはいかにも少なすぎます。

この時期、こうした宗一郎の独断による失敗によって、「このままでは会社が倒産する」と危惧されるまでにもなりましたが、そんなときでも、宗一郎は「俺が作った会社だから俺が潰すのも勝手」と反論するなど開発に関わる人物や技術者との関係は日に日悪化していきした。

やがて若手技術者らから不満を直訴される事態にまで至り、最終的に側近に「あなたは社長なのか、それとも一技術者なのか」と迫られた宗一郎は、この勧告は技術者として引導を渡されたにも等しいことをようやく悟り、引退を決意しました。

後にこの引退を進めた周囲の人間は「親父さんがあと3年居座っていたら、ホンダは潰れていただろう」と評しましたが、と同時に「あそこで身を引いたのは親父さんの偉いところ」とも述べています。

2014-2488

そんな宗一郎も社長業を離れると、実に庶民的な人だったようです。無類の鮎の友釣り好きで年に1度は多数の客を自宅に招き鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていたといいます。また、大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にバカらしい」と言い、生涯別訴は所有しませんでした。

しかし、一方では高級品が大好きだったそうで、時計などはブランド品の良いものを好んでいたといいます。しかし、これには理由があり、高級品だけを使うのは「一流であるためには一流であるものを知っておく必要がある」という独自論からきたものでした。

実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といった事も提言し、アコードとメルセデスベンツの乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証する、といったことも実践していたといいます。

バイクやクルマを売る、ということに自分なりの哲学を持っていた人でもありました。たとえば、1970年代後半から1990年代にかけて、いわゆる「三ない運動」がおこり、高校生によるオートバイならびに自動車の免許取得や車両購入、運転を禁止するため、「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンが掲げられました。

多くの高校では、このスローガンが校則に組み込まれ、各校単位でPTAが主体になってこれが実施されました。

この時代、ほかにも、非核三原則として、核兵器を「作らない」「持たない」「持ち込ませない」。公職選挙法で禁止されている寄付行為に関して「贈らない」「求めない」「受け取らない」、暴力団を「利用しない」「金を出さない」「恐れない」、飲酒運転防止のため「乗らない」「飲まない」「飲ませない」などが流行り、一種社会現象のようになっていました。

これに対し宗一郎は、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と公の場で発言したといい、長いものに巻かれろ的なこうした国民大合唱の三ない運動一般に対しても、冷ややかな態度を示し、終始批判的なスタンスを取り続けました。

こうした彼独特の哲学は、彼の死後多くの本にまとめられ、いわゆる「ビジネス書」として広く読まれていますが、彼が生前放ったこうした言葉の中には、昨今の韓国や中国に聞かせてやりたいようなものも含まれています。

作家・経済評論家の邱永漢が、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを宗一郎に聞いたところ、彼は「良いのは台湾、悪のは韓国」とだけ答えました。

その理由を邸がさらに問うと「台湾に行くと台湾の人がみんな私に「こうやって自分たちが仕事をやれるのは本田さんのお陰です」と言ってものすごく丁重に扱うのです」と答えました。自動車やオートバイの技術を持っていなかった台湾に技術を伝えた本田に対して“台湾人は”ちゃんと相応の感謝をしていたというわけです。

一方、韓国の工場が悪かった理由は、「向こうへ行ってオートバイを作るのを教えた。それで一通りできるようになったら、株を全部買いますから帰ってくれと言われた」でした。そして、さらに宗一郎は「そんな株いらねえよ、売っちまえ」とその韓国企業の株の売却を社員に命じたといいます。

逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩きました。そして「満足だった」という言葉を遺し、そのまま逝ったといいます。弔問時に遺族からそのエピソードを聞き、親友だったソニーの井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したといいます。

長年、ホンダという大会社を背負ってきた宗一郎は人に背負われたことはなく、その一生の最後の時だけでも誰かに背負われてみたい、最後の時ぐらい、気弱な自分を許してもいいだろう、と考えたのでしょう。

この井深大とは、共に技術者出身であったこともあり、強いシンパシーを感じた二人は、ごく自然に親友となっていったようです。そして、「互いの頼み事は断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたといい、また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れなかったそうです。

ある時に普段は手紙は直筆であることの多かった井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打ち、送ろうとしていたその矢先に宗一郎は帰らぬ人となった、というエピソードが残っています。

逝去時にも社葬は行わせなかったといい、その理由は「自動車会社の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という彼の遺言からでした。

そんな、宗一郎が夢見ていた航空機産業への参入ですが、生きている間にはついに自社製の飛行機を飛ばすことができなかったものの、彼が夢にまで見たホンダジェットの量産機はついに空を飛びました。やがてはホンダのエンブレムである“H”を付けたのホンダジェットが日本や海外の空を飛び回るようになるでしょう。

もうすぐこの伊豆の空をも飛び交う時代がくるでしょうが、私もまた、その飛行機に一度乗ってみたいものです。

2014-4466

リプレイ

H&M今月のはじめに、夫婦二人でトム・クルーズ主演の最新SF映画、「オールユーニードイズキル」を見に行ってきました。

「オールユーニードイズキル(All you need is kill.)」という題名から、原作は欧米人が書いたのかと思いきや、これは日本人の桜坂洋さんという作家さんの作品だそうです。映画館でみつけた宣伝用のビラにも「日本原作」とあり、副題は「戦う、死ぬ、目覚める」となっていて、なかなかうまいキャッチコピーです。

ただ、映画の邦題は小説のタイトルと同じ「オール・ユー・ニード・イズ・キル」となっていますが、英語圏でのタイトルは「Edge of Tomorrow」と変えられています。これは、All you need is kill.ではどうもこの映画のコンテンツがあちらの人には理解されがたいと判断されたためのようです。

この桜坂洋という作家さんは、元システムエンジニアだったそうで、ゲームを含むコンピュータ全般が趣味であり、コンピュータ・オタク文化にも造詣が深いということですが、失礼ながら、お写真を拝見すると、少々オタクっぽく見えなくもありません。

2004年発表の短篇「さいたまチェーンソー少女」で第16回SFマガジン読者賞を受賞後、2008年にも短篇「ナイト・オブ・ザ・ホーリーシット」で第20回SFマガジン読者賞を受賞するなど、いかにもゲームの題材になりそうな作品が多く、新進気鋭の作家として最近かなり注目されているようです。

かの日本SF界の巨匠、筒井康隆さんなどからも高い評価を受けており、筒井さんの最近作である「ダンシング・ヴァニティ」などの評論も書いているほか、「All You Need Is Kill」のような少年少女向きとも受け取れるような作品の発表の後は、一般文芸誌や純文学誌での執筆もこなされるようになりました。

この作品の英語に翻訳されたものを、スパイ映画の「ボーンシリーズ」などの人気作品を手掛けたダグ・リーマンが読んだところ、その内容に惚れ込み、早々に松坂氏にその映画化権の供与をオファーしたといい、この監督さんの作品にはほかに、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが主演した「Mr.&Mrs.スミス」などもあります。

松坂さんは、まさかハリウッドのそんなすごい監督さんから自分の作品を使いたいといった申し出が来るなどとは夢にも思っていなかったそうで、最初にこの話が来たときには、何かの冗談だろうと思ったと言います。

出演はトム・クルーズですが、脇役として、「プラダを着た悪魔」や「ヴィクトリア女王 世紀の愛」に出演して高い演技力が評価されたエミリー・ブラントが加わって、より深みのある映画に仕上がっています。

7月4日より公開されたばかりで、まだまだ上映が続いているようなので、みなさんもSFがお好きなら、ぜひ見に行ってください。

桜坂洋による原作では、この物語の部隊は、東京の遥か南方のコトイウシという架空の島ですが、映画版では主にロンドン、パリ、フランス沿岸部などのヨーロッパに変更されています。また主人公も原作では当然日本人ですが、映画版ではアメリカ人のトムクルーズとイギリス人のエミリー・ブラントに変更されています。

そのストーリーも少々変更されているようですが、ネタバレにならない程度に披露すると、まず舞台は近未来になります。地球は謎の侵略者「ギタイ」の度重なる襲撃により、壊滅状態に陥っており、地球防衛軍は辛うじて彼らの侵略を食い止めていましたが、敵の強大な戦力になす術も無く、戦死者は増える一方でした。

トム・クルーズ演ずる、ウィリアム・ケイジ少佐は、この戦争の宣伝担当のひ弱な事務官でしたが、ある日突然、この侵略戦争の最前線に送り込まれます。日ごろから体を鍛えているわけでもなく、最新式の兵器も使いこなせないケイジ少佐は、敵に何一つのダメージも与えられず、あっけなく戦場で戦死してしまいます。

ところが、次の瞬間、彼は戦地に赴く前の時間に戻っており、再び前回と同じ飛行機に乗り、同じ戦場に行って、同じような死に方をします。そして次から次へと同じように死から生へと時間が巻き戻され、その都度何度も死にますが、回数を重ねるごとにうまく死から逃れる方法を模索するようになり、次第に死に至るまでの時間も長くなっていきます。

いわゆる「学習効果」を得るわけですが、それでもその後も何度か戦死し、また前の時間に戻ってしまう出来事が繰り返されるにつれ、やがて彼は自分が何等かの理由でタイムループに巻き込まれてしまっていることに気付きます。ちょうどそんなとき、自らも同じタイムループに巻き込まれていたとする特殊部隊の軍人リタ・ヴラタスキが現れます。

このヴラタスキを演じるのがエミリー・ブラントで、ケイジ少佐は彼女と戦うにつれ、さらに戦闘技術を向上させていきます。こうして二人は終わりの無い戦いを繰り返す中、自分たちがタイムループに巻き込まれた理由をみつけ、少しずつ敵を倒す糸口をつかんでいくのですが……

2014-1120742

とまあこんな具合で、この先を書くと大ブーイングになりそうなので、これ以上はもう書きませんが、何度も死と生を繰り返すという物語は、いわゆる「ループもの」のひとつです。主としてタイムトラベルを題材としたSFで扱われることが多く、物語の中で登場人物が同じ人生の時間を何度も何度も繰り返すような設定を持つ作品のことをさします。

時間旅行が主題であることから、「時間もの」ともいわれ、結構昔からある物語の類型のひとつです。こうしたテーマは「ジュブナイル」と呼ばれるティーンエイジャーを対象とした小説分野を初めとし、最近の日本のオタク文化ではよく扱われる題材となってきています。

半永久的に反復される時間から何らかの方法で脱出することが目標となるものが多いことから、様々なゲームとしても扱われることが多いようで、ゲーム大好きの松坂洋さんがこの作品を作ったのも、自分でこうしたゲームがやってみたかったからだそうです。

このように過去の自分に戻って人生を再挑戦するという類型の物語がSF小説の一つのサブジャンルとして確立したのは、1987年発表のケン・グリムウッドの小説「リプレイ」が世界的なヒット作となって以降といわれています。

実は私も20代の後半にこの小説の翻訳版を新潮文庫で買って読んだことがあり、その面白さんに夜が更けるのも忘れて没頭したのを覚えています。たしか、二度ほど読み返した覚えがあり、各回とも一気読みできるほど面白い話でした。

こちらも、あらすじを簡単に述べておきましょう。

経済的に成功していないラジオ局のディレクターがある日突然、43歳の若さで心臓発作によって死んでしまいます。ところが、次に目を覚ますと18歳の時分に戻っており、不思議には思ったものの、せっかく再び与えられた人生だからと、もう一度その人生をやり直すことにします。

しかし、この新しい人生で彼は「過去の失敗」と「未来の記憶」を存分に利用して数々の成功をおさめ、人生をさんざんに謳歌します。しかし、結局は前と同じ年頃になると死を迎え、再び若い時に戻されて人生のやり直しを強制再開させられます。

これが何度も繰り返される、つまり「リプレイ」される人生において、次第に彼は自暴自棄と諦観に囚われるようになりますが、そんな中、同じようにリプレイを繰り返す女性と巡り合い、改めて人生に向かい合うようになります。

しかし、やがてリプレイ期間が次第に短くなり、いつかは究極の絶対死が訪れることを彼は知ります。永遠の命を得たいと考えつつも、やがては絶対死を迎えることを知った彼は、同じ運命を辿ろうとしている彼女に対して……

2014-1140200

……という話なのですが、どうでしょう。面白そうだと思いませんか。この「リプレイ」という作品は、1987年にアメリカで出版されるやいなやかなりの反響を呼び、1988年度の世界幻想文学大賞を受賞しました。

作者のケン・グリムウッドは、1944年アラバマ州に生まれで、フロリダ州ペンサコーラで育ち、大学では心理学を学び、ロサンゼルスのラジオ局で編集者として勤務する傍ら小説を書き始め、1976年に作家としてデビューしました。

専業作家となったのは「リプレイ」で成功を収めてからですが、その後も映画化の話も持ち上がるような秀逸な作品をいくつも執筆しました。が、2003年にカリフォルニア州サンタバーバラの自宅で、心臓発作によりわずか59歳の若さで亡くなりました。

死の直前までグリムウッドは「リプレイ」の続編に取り組んでいたといいますが、それにしてもその亡くなり方が、代表作「リプレイ」の主人公と同じ心臓発作だったというのは、人生は本当に奇なるものです。

グリムウッドは、この「記憶を持ったまま人生をやり直す」という発想を、ゲーテの「ファウスト」に影響を受けて生み出したようです。実際、「リプレイ」の作中においても「グレッチェン」という名前の娘が登場しますが、これはファウストの恋人の名前であり、作品内は他にもいくつか似たような人物設定が見受けられます。

ゲーテの「ファウスト」のほうは、その死後にまた人生をやり直すといったループは見られませんが、若返って人生をやり直す、という設定になっており、グリムウッドはこれを題材に、もし、ファウストが更に何度も人生を繰り返したらどうなるだろうか、との着想を得てこの物語を作ったのでしょう。

実に面白い発想であり、この着想は見事に功を奏して「リプレイ」はベストセラーとなりましたが、以後、他の作家もこれを真似するようになり、「若返りと人生のやり直し」という設定は、やがて時間を扱うSF作品の中ではごく普通に使われるようになっていきました。

ただ、類似する筋立ての作品は「リプレイ」以前にもあり、自分の人生の過去に戻って別の世界を疑似体験するというアイディアは1946年公開のアメリカ映画「素晴らしき哉、人生!」ですでにみられ、また日本でも1965年発表の筒井康隆の小説「しゃっくり」ではループ期間が10分間と短いものの世界が一定期間を反復し続ける設定がなされています。

こうした「ループもの」がよく使われるようになった背景には、近年においては時計が生活の隅々にまで普及したために人々が常に時間を意識するようになったことに加え、テレビ番組や映画などのように、始まりと終りがはっきりとしている定型放送が洪水のように流されるようになったことなどが関係ありそうです。

しかもこうした物語は、ビデオやDVDの普及によって簡単に録画再生できるようになっており、どんな人生の一シーンでも「計測可能」かつ「再生可能」ということが人々に強く意識されるようになってきました。

物語の類型化というのはそれ以前からもありましたが、近年時間というものがより身近になったことで、こうした類型化と時間の要素が結びつき、「ループもの」が流行るようになったのでしょう。

2014-1160327

とはいえ、ループものには、いくつかのパターンがあり、これらを俯瞰すると、幾つかの分類ができるようであり、主として以下のような4種類に分類できそうです。

1.主人公がループをネガティブに受け止め、苦難する姿を描くパターン
主人公は理不尽な形で閉ざされた時間の中に取り残され、リセットされてしまう努力や蓄積を苦痛と受け止め、先に進めないことに対する絶望や恐怖を味わうというもの。ホラーや悲恋モノが多い。

2.主人公がループをポジティブに受け止め、成長する姿を描くパターン
主人公はループする時間の中で成功や失敗を繰り返しつつ、自省しながら成長し、自己実現を成し遂げようとする。当初は理不尽な状況に苦しむが、やがて改心や精神的な成長を経てループから脱出する。逆に成長できずに破滅するというパターンもありうる。

3.主人公がループを特定の問題の解決に用いるというパターン
主人公はループの中で解決しなければならない具体的かつ単純な目標や心残りを抱えており、繰り返される状況の中で試行錯誤を繰り返したり、解決のための鍛錬を行ったりする。問題を解決できない停滞感と、それを解決した時の爽快感が描かれ、その双方の過程を経てループの元凶となっている根本的な問題が解決されてループが終了する。

4.主人公がループする状況そのものを楽しむというパターン
輝かしい人生の至福な時間がループされ、主人公はそれを肯定的に受け止めて享受する。この場合のループは問題解決の手段ではなく、目的そのものである。ループを繰り返している原因や脱出方法には恋愛感情が関係してくるパターンも多く見られる。

こうしてみてくると、今回我々が映画でみたオールニードイズキルは、2.でもあり、3.でもあるというかんじであり、そう考えると、あるいは2.と3.は同パターンとしてくくるべきなのかもしれません。

ところで、通常、こうした「タイムトラベル」の話を違和感なく完成させるためには、現在過去未来に同じ自分がいる、といった、いわゆる「タイムパラドックス」の問題をクリアーしなくてはなりません。

例えば、物理的なタイムトラベルにおける過去への時間跳躍では、自分の肉体ごと過去の世界に移動することになるため、過去の自分に遭遇することもありうるわけで、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がそうであるように、タイムパラドックスそのものが作品の中心テーマのひとつとして扱われる作品も多いようです。

2014-1140207

ところが、「リプレイ」のように自分の意識だけが過去の自分に戻る、あるいは世界全体が過去のある時点に戻ると設定されている作品では、自分自身との遭遇は起こらず、時間跳躍している本人の視点から考えれば、過去改変に伴うタイムパラドックス、例えば「親殺し」といったパラドックスは発生しません。

肉体の移動を伴わずに過去への一方通行的な時間遡行を繰り返すという点がこの「ループもの」の優れたところで、読み手にとってあまり深く考えさえることなく、タイムトラベルを成立させることができる、という点もまた近年こうしたループものが流行る要因なのでしょう。

ところが、最近の作品は更に複雑怪奇になってきており、従来は単純に過去に戻って人生をやり直すというシンプルな構造であったものが、最近は物語の中で時間と世界の仕組みが複雑に変化するものが多くなっており、オールニードイズキルでは、この中に「宇宙人の襲来」を加えてより複雑にしており、それゆえに娯楽性をも高めています。

こうした手法は、数多くのループものを見て目が肥えてきた映画ファンや、あるいはこうしたループものに飽きてきた層の目にも新鮮に映ります。確かに今回この映画を見た私としても評価点は高く、見終わったあとの満足感が従来のものとは明らかに違います。

が、それだけに、更にこれを進化させたループものを作ろうとすると、もうさすがに新しい発想はないだろう、これ以上大きな期待を持てるものはできないだろう、とこれ以上のものは望めないがゆえのフラストレーションを感じてしまいそうです。

従って、これをさらに超えようとすると、従来の「人生をやり直す」という形のループものではなく、もっと別の形のループものが求められてきます。更に新しい視点からのSF映画が求められているといえ、文明の発達もさることながら、SF映画においても今後もさらにその内容に大きな変革が加えられなければその味来はないでしょう。

そこで、この「ループ」というモノに関して、他にどんな発想があるかを整理してみることにすると、一般に、「ループ」に関連する概念としては、次のようなものがあるようです。

1.パラレルワールド
多重世界(ラメラスケイプ)、あるいは並行世界(パラレルワールド)と言われるもので、「世界は可能性のあるだけ存在する」、つまり、自分たちが住む世界と、別の世界はお互いに干渉できないまま常に並存していて、自分たちの世界と似通った世界は俯瞰できるものの、相関していない他の世界は観測できない、というもの。

2.終わりなき日常
多くの人が人生のよりどころとなるような価値観を見失っている現代社会では、物質的には豊かになっても個人が「自分自身の物語」を見出すのが困難になっている。なにげない日常生活まるでループしているかのように見え、人生もまたまるで同じループを繰り返しているというふうに感じる。夢に見た「輝かしい未来」はやってこないという感覚……。

3.メビウスの帯
メビウスの帯は単に循環するだけでなく、局所的には表と裏の面があるのに、全体としては1つの面としてつながっている、という位相構造に特徴がある。循環や繰り返しを想起させることから、創作においてはループ構造を持つプロットや登場人物が過去や未来のある時点で原点に戻るという形が考えられる。

4.永劫回帰
宇宙を構成する物質とその組み合わせは有限であるが、時間は無限とするもの。宇宙的視野から見た現実世界は限られたパターンの中で同じ歴史を永遠にループしている。ループものと違うのは、ループを繰り返しても過去と寸分違わぬ歴史を繰り返すだけで、過去から記憶を持ち越したり過去を学んで成長したり、失敗のやり直しはできない。

ハト

どうでしょう。1.については、既にこうした発想の映画が作られ始めていて、余り目新しさはないかもしれませんが、2.の「終わりなき日常」はSFというよりも、心理描写の世界のようでもあり、わりと新しい感覚です。

日常で「デジャブ」を感じるように、もしかしたら自分の人生は同じことを繰り返しているだけにすぎないのではないか、という虚脱感や恐怖感をうまく表現すると、斬新な作品になりそうな気がします。

3.4.については、目新しいようですが、視点を変えれば従来のループものの一種と考えることもできます。結局はそのループから抜け出せない、という点においては同じであり、そう考えると、やはり新しいループものを創作していくという相当難しそうです。

とはいえ、いずれも現実的にはありえない世界観であり、いずれもがいかに読み手に「もしかしたら……」と思わせることができるかどうかが最大のポイントであり、結局はそうした独創的な作品を生み出せるかどうかは、作り手の発想力次第ということになりそうです。今後さらに奇抜なアイデアを出せる作家さんが出てくるのを期待しましょう。

なお、ここには入ってはいませんが、輪廻転生もまた、こうしたテーマになり得る「ループもの」です。しかも、ある意味、究極のループものといえるかもしれません。

言うまでもなく、輪廻転生とは死んであの世に還った霊魂が、この世に何度も生まれ変わってくることをさしますが、「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多いようです。

ループものと明らかに違うのは、肉体・記憶・人格などの同一性が保たれない点です。ただ、キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」であり、肉体や記憶は一度で消え去りますが、「人格」だけは生前のまま次に転生するとされているようです。

この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、「輪廻」は動物などの形で転生する場合も含み、「転生」の一語のみの場合は人間の形に限った輪廻転生を指して使われます。

また、人間は人間にしか転生しないといいますが、過去に生きていた人物が別人となって現代に現れるというのはフィクションとしても魅力的なテーマであり、転生という概念を取り入れた作品は過去にも数多く作られています。

このような創作物では、記憶や能力の一部を受け継いでいるという形で描かれることが多いようですが、ある日突然ある一時期の過去生を思い出す、といった形で描かれることもあります。が、何もこれは何も創作の話ばかりではなく、現実的にもありうることです。

現に私も過去生のいくつかを思い出しており、それはスパイであったり、金貸しであったり、船大工であったりと様々です。細かいことは思い出しませんが、もしそれらをすべて思い出して「ループもの」を創作できたら、さぞかし面白いものができるのではないかと夢想したりもする次第です。

さて、今日の話はなにやら夢物語のようになってきたので、そろそろやめにします。

東海地方も梅雨が明けました。寝苦しい夜の日も多くなると思われ、そうした夜にはうなされ、その中で過去生を思い出す、といったことも多くなるかもしれません。が、それはそれで何かの役に立つかもしれません。

もし過去生を思い出したら……それを必ず書き留めておき、今後の人生に役立てましょう。過去と現在はつながっています。そして未来へも。過去生の経験は現世で役にたち、現生での出来事はやがて次の人生での糧となっていきます。そして人間は未来永劫、成長していくわけです。

私は、次に生まれ代わるとするとどんな人物になっているでしょうか。そしてみなさんは?

夏の日の夢は続きます……

2014-1150031

私は元やもめ

挑戦最近、「かもめのジョナサン完成版」を五木寛之さんが出された、とニュースで報道されているのを耳にしました。ところが、ん?完成版?「かもめのジョナサン」って完結していなかったっけ?と疑問に思ったのでちょっと調べてみました。

「かもめのジョナサン」は原題が、“Jonathan Livingston Seagull”で、これはアメリカの作家、リチャード・バックの小説です。

このリチャード・バックは、イリノイ州生まれの1936年生まれですから、今年でもう78歳にもなります。もともとは飛行家で、飛行機に関するルポルタージュを書いていたようですが、その後1970年に「かもめのジョナサン」を発表しました。

この本は、当初はほとんど評判にならなかったようですが、2年後の1972年に突如ベストセラーのトップに躍り出、各国語に翻訳され、世界中で大ヒット作となりました。

一般的には「寓話」と目されています。寓話って何なのよ、ということですが、これは動物、静物、自然現象などの人間以外の者を擬人化して登場させ、比喩によって人間の生活を揶揄したり、逆に人生の素晴らしさを諭す、といった具合に仕立てる物語です。

寓話として最もポピュラーなものはイソップ物語であり、日本では宮沢賢治の作品が有名です。リチャード・バックのこの作品では、カモメが主人公であり、ラッセル・マンソンという写真家さんによる実際のカモメの写真が随所に挿入され、かつての日本版でもこの写真がそのまま使われて出版され、私もしゃれているなと思って買った覚えがあります。

この話の主人公のカモメは、「カモメ界」にあっては異端児と呼ぶべき存在として描かれており、これがこの当時からアメリカで流行り始めていた「ヒッピー文化」ともあいまって、口コミで徐々に広がりヒットしました。

このヒッピー(Hippie)というのは、言葉では知っていても、どういうものかをはっきりと知っている人は少ないかもしれません。が、その定義も割と曖昧なようできちんと説明はしがたいところはありますが、基本的には、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とした人々のことを指します。

アウトロー(outlaw)とも似てはいますが、アウトローとは、犯罪等により法の保護を受けられなくなった人物をさします。ヒッピーもまた、ドラッグをやったりする人、というイメージがあり、必ずしもクリーンな印象ばかりではありませんが、犯罪者ばかりでもなく、彼等は単に文明以前の「野生生活」への回帰を提唱しているだけで、そのために悪いことをしてまで自分の我を通したい、というつもりはない人々です。

1960年代後半に、おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、基本的に「自然と愛と平和とセックスと自由を愛する」ということがモットーでした。この当時から泥沼化していたベトナム戦争への反対勢力とも結びつき、「正義無きベトナム戦争」への反対運動の急先鋒としての役割も担いました。

愛と平和を訴え、徴兵を拒否し、派兵に反発した若者の多くは、自分をヒッピーと称し、人間として自由に生きるというスタイルは、戦時下にあって厭戦ムードの強かった全米中に浸透しました。

カモメF

しかし、ヒッピーのイメージが良くないのは、その初期の時代に、薬物に頼って高揚感や覚醒や悟りを得ようとした若者が多く出たためです。アメリカだけでなく世界各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生しましたが、これらはドラッグの溜り場と揶揄されました。

「ビートルズ」はこうした若者たちにも熱狂的に支持されたロックバンドであり、ではビートルズもヒッピーかといえば、これは正しくはありません。が、ジョージ・ハリスンはヒッピーらと交流を持っていました。ただ、ドラッグ・カルチャーに対しては否定的な見解を持っていたようで、ヒッピーとみるとしてもその正当派と考えるべきでしょう。

また、ジョージ・ハリスンは、ヒッピーとの交流の中で、インドの瞑想に深く関る様になっており、この当時ヒッピーと呼ばれていた多くの若者もまたインド巡礼にあこがれを持っていました。

しかし一部のヒッピーたちは、ただ単に宗教的意義を深めるにとどまらず、マリファナやLSDを使用した精神解放等を強く求めるようになっていったため、後年にはヒッピー全体が社会的にかなり抑圧されるべき存在になっていきました。

とはいえ、こうしたヒッピーたちもベトナム戦争の終結と薬物に対する取り締まりにより、1970年代前半頃から、徐々に衰えていくようになり、やがて衰退しました。従って、「かもめのジョナサン」はその衰退期の直前のヒッピー全盛の時代に刊行されたことになります。

ヒッピーたちは、伝統的な社会や制度を否定し、個人の魂の解放を訴えました。その気分はまさに「かもめのジョナサン」に描かれている主人公の心理そのものであり、このこともあって、多くのヒッピーがこの物語を支持しました。

一方、「かもめのジョナサン」を信奉する者の仲には、伝統的キリスト教的価値観を否定する者もおり、彼等は東洋の前衛的な思想・宗教を積極的に取入れようとしますが、これが行き過ぎてその系統を引くカルト宗教が多数創設され、社会問題化しました。

日本においても、オウム真理教の幹部として数々の犯罪を犯した、村井秀夫が「かもめのジョナサン」の心境になったといってオウム真理教に入信したという話は有名です。

ただ、こうした悪いイメージばかりが先行するものの、ヒッピーのモットーはそもそも、”Back to nature” であり、文明を否定して自然に回帰することこそが本質です。このため、ヒッピーが廃れてしまった現在においても、多くの自然保護活動家の中にはこの系統を引く者も少なくないようです。

また、日本においては、ドラッグの規制が厳しく、アメリカ型のヒッピーというものはあまり普及しませんでした。日本には、オリジナルのヒッピー以外に、ぶらぶらしている人のことを「フーテン」と呼ぶ文化があり、ヒッピーのこともまたフーテンと呼ぶ向きもありました。

無論、アメリカのような悪いイメージではなく、松竹映画「男はつらいよ」シリーズにおいて渥美清が演じた主人公のような自由奔放な人々のことをこう呼んだのであり、アメリカのヒッピーとは一線を画していました。

カモメE

「かもめのジョナサン」は、アメリカでは1973年にはこれを原作とする映画が制作され、日本でもこの翌年の1974年にこの映画が公開されました。映画としてはあまりヒットしなかったようですが、この時点で、アメリカでのその原作本の出版数は1500万部を超え、それまでの断トツ一位の「風と共に去りぬ」をも抜き去りました。

日本でも新潮社より五木寛之の訳が出版され、120万部のベストセラーとなりましたが、このときに出版されたものは、全3部構成でした。ところが、リチャード・バックの原作本は、本来は全部で4部構成の作品でした。

リチャードが何らかの理由により第4部を封印して世に出していたもので、その理由は明らかにされていませんが、その第4部の部分に何か気に入らない部分があったとか、いずれはその部分を元に続編を出そうとしていたとか色々な説があるようです。

ところが、リチャードは、2012年の8月、自家用の飛行機を操縦してワシントン州のサンフアン島を飛行中、自機を電線に引っかけてしまい、飛行機は大破し、瀕死の重傷を負います。

このとき、76歳になっていたリチャードは、その後余儀なくされた入院生活の中でいろいろ想う所があったらしく、2014年2月にこの幻の第4部を含めた完全版を電子書籍形式で発表しました。

その理由は明らかにされていません。が、リチャード・バックは、「ジョナサン」ののちに、「イリュージョン」という小説を出版していて、私も読んではいないのですが、別の方のブログによれば、これは「現代のスピリチュアル本や自己啓発書をも凌駕する、示唆に富んだファンタジックな啓示書」だということです。

村上龍が翻訳し、2009年に集英社から出版されたようですが、そのストーリーは、町をまわっては、人を乗せて遊覧飛行するジプシー飛行機乗りの前に、自ら救世主を辞めた人物が現れ、飛行機乗りは好奇心から自分も救世主になる勉強を始める、といった話のようです。

人間の限界、生き方について語るこの本は、「かもめのジョナサン」よりもわかりやすく、ユーモアたっぷりに書かれているそうで、リチャードは過去に出版した「ジョナサン」もまた「人生訓」としてその封印されていた部分を解き放ち、これをもって老い先短い最後の花道を飾るものとしたかったのかもしれません。

また、「ジョナサン」を読まれた多くの人はその内容にスピリチュアル的なものを感じとるでしょう。もしかしたらリチャード自身もこうしたスピリチュアル的なことに造詣が深く、あるいは、飛行機事故による怪我の療養中に、あちらの世界から何等かの啓示があったのかもしれません。が、これはもう私の推測の域を出ません。

カモメD

この初版本の「かもめのジョナサン」のストーリーは概略すると以下のようです。

カモメのジョナサン・リヴィングストンは、食べることよりも空を飛ぶことに生き甲斐を感じるカモメでした。同じ群れにいる他のカモメが食べ物を漁っている間も、より速く飛ぶ方法を研究しており、飛ぶことは自由になることであり、それこそが真の生きる意味だとジョナサンは考えていました。

そんなジョナサンはやがて、規律を乱すとして群れを追放されてしまいます。しかし、ひとりになっても飛行術の修業に明け暮れていましたが、ある時、まばゆいほどの輝きを放つ二羽のカモメがジョナサンの前に現れます。そして彼らはジョナサンを「もっと高いところ」へと連れて行きました。そして、そこは実は天国でした。

この天国でジョナサンは、さらに進化し、これまでとは全く違う飛行法を学び、そして終には瞬間移動もできるようになります。こうして天国で真実を見出したジョナサンは、ふと思います。「地上にいるカモメに自分の知った真実を伝えられないだろうか」。そして、それこそが自らの「愛の証」だと考えるようになります。

こうして天国から帰ってきたジョナサンは、若いカモメと一緒に飛び、彼等に飛ぶこと意味を教えるようになります。そして教えられることはすべて教えたと考えた時点で、フレッチャーというカモメを後継者に任命します。そして、自らは仲間の元を去り、どこか別の場所を目指して、永遠の旅を続けていきます……。

この物語においては、とくに後半あたりからその内容がかなりオカルトめいてきます。ジョナサンが通常のカモメの飛行能力を遥かに超えた能力を身につけるあたりがそれで、これはもうすでに通常の鳥が空を飛ぶという次元を超えています。

実はこのほかにも、岩盤に激突したカモメを生き返らせる、といった「超常現象」が物語の中に登場しますが、仲間のカモメへの飛行法の伝授と言い、こうした死者復活の描写といい、どうも新興宗教の布教を連想させます。

このほか、ジョナサンが下界に戻るプロセスも単純には描かれておらず、やや込み入った経緯を経て地上に帰るという書き方をしており、こういうところなどは禅の影響を受けているのではないかと指摘する人もいます。

中国が発祥の「禅」においては、悟りにいたる道筋を牛に例え、そのステップを「十牛図」として著わしたものがその修業の中でよく使われますが、リチャード・バックはこの十牛図を見てこの部分を書いたに違いないと解釈する人もいるようです。

カモメC

問題の、この新しく加わった第4章ですが、ここには上のストーリーでジョナサンが仲間の元を去っていったあと、残されたカモメたちの間では、その教えだけが受け継がれる中で、ジョナサンの存在が伝説化され、神格化されていく様子が描かれているそうです。

教えが徐々に形骸化していく中で、新たな若いカモメが再び飛行実験を始めていく、といったことが書かれているらしいのですが、私もまだ読んでいないので、詳しいことはわかりません。

が、1970年代にヒットして、世界中に大きな影響を与えたこの作品の完結版が、今後どういう影響を与えていくことになるのか、はたまたまったく何の影響も及ぼさないのかは興味のあるところであり、今後も注意深くその後をみていきたいところです。

ところで、カモメ次いでに、思い出したのが、かつて「私はカモメ」と言った世界初の女性宇宙飛行士、ロシアのワレンチナ・テレシコワのことです。村井秀夫は「かもめのジョナサン」の心境になってオウム真理教に入信しましたが、テレシコワはどんな心境でこのセリフを吐いたのでしょうか。

しらべてみたところ、この「私はカモメ」は、ロシア語では、”Я чайка”と書き、これは「ヤー・チャイカ」と読みます。チャイカがカモメのことで、これにヤーをつけると、「こちら、チャイカ」という意味になります。

現在もそうですが、旧ソ連では、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」、すなわち「カモメ」という呼称が与えられました。

つまり、打ち上げ後のごく普通の事務的な応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉とみなされた、ということになります。が、さらに調べてみると、このセリフは、テレシコワが乗り込んでいた宇宙船にかなり深刻な問題が発生したときに、彼女が繰り返し口に出したものだということがわかりました。

ワレンチナ・テレシコワは、1937年(昭和12年)にソビエト西部のヤロスラヴリ州の小さな村、マスレンニコフに生まれました。学校を卒業後、通信制教育で学んだ後、織物工場で勤務しましたが、職場では旧ソ連共産党青年組織のリーダーを務めていました。

また22歳のころから地元の航空クラブでスカイダイビングを行っていたそうで、その後の宇宙飛行士の素養もこの織物工場時代に得たもののようです。30歳のとき、ソビエト初、また世界初となるはずの女性宇宙飛行士の候補に選抜され、400人を超える候補の中から選抜された5人の1人となります。

カモメB

しかし、旧ソ連では敵対するアメリカをはじめとする西側諸国にこうした事前段階での情報が漏れるのを恐れ、テレシコワに宇宙飛行士に選抜されたことを、家族にさえ打ち明けることを禁じていました。このため、彼女の家族がこの偉業を知ったのは、政府が全世界に向けて宇宙飛行を行った事を発表してからだったそうです。

宇宙飛行士に選ばれたのち、およそ一年の訓練期間を終えた彼女は、1963年6月16日、ボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となり、また初の非軍人宇宙飛行士となりました。

そもそものボストーク6号の打ち上げの目的は、宇宙飛行中の女性の体の反応のデータを集めるのが目的でした。しかし、彼女もまたこの飛行中、それまでの男性宇宙飛行士と同じように飛行記録をつけ、写真を撮り、宇宙船を操縦して「宇宙科学者」としての役割をこなしました。

彼女が撮影した宇宙の日の出の写真は、後に大気中のエアロゾル層を調査するために大変重要なものになったといい、彼女に対する評価は、単に宇宙に行って帰って来ただけという「運転士」としての行為だけでなされるものではありません。

ところが、順調にミッションをこなしていたとされるこの飛行は、実は彼女にとってはかなり過酷なものであったらしいことが、最近明らかにされています。実は、テレシコワはこの飛行中、宇宙酔いや酷い月経などに苦しめられ、この積み重ねにより更にはヒステリー状態になり、無線を通じて地上に助けを求め、叱られるまで泣き続けたといいます。

一時はパニック状態になり、心神喪失状態に陥ったとも言われており、その原因となったのは、彼女が乗船していたボストーク6号の軌道への打上げプログラムに間違いがあったことでした。

プログラムにバグがあっため、打ちあげられたロケットは遠くまで飛びすぎ、これによって彼女が乗っていた船は本来とは異なる軌道上に投入されたのです。場合によっては、戻ってこれない危険性もあり、初日に早くもそれに気付いたテレシコワは、それを素早く理解し、地球に報告しました。

このため、地上側もこのミスに気づき、帰還のためのプログラムを修正し始めましたが、テレシコワにはいつまでたってもその成果が報告されませんでした。帰還間際になって、ようやく指示が届き、彼女はようやく軌道の修正を始めますが、宇宙船をうまく誘導することができません。

しかも、降下が始まる直前には突然通信も途絶えてしまい、パニック状態となった彼女は、意識朦朧となってヘルメットの中で嘔吐を続け、このとき、通信マイクに向けて連呼したのが、「私はカモメ」、「私はカモメ」でした。つまり、こちらテレシコワ、応答どうぞ、応答どうぞ、と地上に向けて助けを求め続けていたのです。

ところが、彼女がパニくって通信を始めたとき、実は通信装置は正常に戻っていました。ただ、彼女はあまりにもパニック状態になっていたため、このとき地球の管制センターとの連絡ための通信チャンネルを間違えてセッティングしてしまいました。

このため、彼女が発した「ヤーチャイカ」の連呼は管制室には届きませんでしたが、この違うチャンネルで発せられた電波は、意外な人々にキャッチされました。

それが、地球のあちこちに基地局を持っていたアマチュア無線家たちであり、かれらは、ロシア語の辞書を引き、このヤーチャイカの意味を「私はカモメ」であることを知ります。そして、彼等はこれを聞いて、世界初の女性飛行士となったテレシコワが歓喜のあまりにこれを連呼しているのと勘違いしてしまいます。

これがのちに、「私はカモメ」として陽気に振る舞うソビエトの女性宇宙飛行士、テレシコワの偶像を創る原因となりました。彼女にとっては、誇らしげに私はカモメ、と叫んでいたわけではなく、このヤーチャイカは、「お願いだから私を助けて」という悲痛な叫びだったというわけです。

その後、彼女もこの通信ミスに気付いて、地上とも連絡が取れるようになり、また制御プログラムのエラーも修正されて、彼女は無事に地球に帰還することができました。

ところが、彼女が着陸したのは西シベリア南部のアルタイ地方の西方の農場でした。ここにパラシュートで落下してきた彼女の船には、強い風が吹きつけ、テレシコワはもう少しで湖に落下するところでした。また、この時期のシベリアは、6月といえまだ極寒季を脱しておらず、早朝であったため現地の気温は氷点下でした。

しかも、着陸地点は、当初想定していた地点から数十キロも離れており、管制センターはこの着陸位置を把握できませんでした。こうして、テレシコワは救助隊が来るまでのこの間、不安が積もらせながら冷気の中で待ち続けることになり、ようやく救助隊に見出されたのは着陸完了から2時間も経ったあとでした。

カモメA

しかし、テレシコワは、こうした自分と当局の失態を、その後長いあいだ隠し続けました。が、ごく最近このことを明らかにし、このときのことを、自らこう語っています。

「……問題は、着陸ではなく、着陸したとき、彼は私に、そのことを他言しないように頼んできたことでした。私は誰にも話さないと約束しましたが、その後、秘密は他のところから明らかになってしまいました。私が約束を破ったのではありません。」

この「彼」とされるのが、ソビエト連邦の初期のロケット開発指導者セルゲイ・コロリョフで、のちに世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7を開発したことでも有名な人物です。

R-7は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、テレシコワの快挙の2年前の1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。

このため、コロリョフアメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ米ソ宇宙開発競争の双璧を成した人物と言われています。

このテレシコワの宇宙飛行において、彼女が相当なパニックを起こしたことはその後大きな問題として取り上げられました。このため、その後長らくソビエトでは、女性飛行士の採用が敬遠され、2人目の女性宇宙飛行士であるスベトラーナ・サビツカヤが飛行するのはさらにこの19年後のことでした。

その後、テレシコワは、ジュコフスキー空軍大学に入学し、32歳で宇宙工学の単位を得て卒業しました。さらに40歳で工学博士号を得ますが、一方では、ソ連邦最高会議の一員であるという側面も持ち、52歳までは同会議の常任幹部会の一員でした。

しかし、ソビエト崩壊後、1997年、60歳のときに大統領令により、空軍と宇宙飛行士隊から引退しました。プライベートでは、26歳のとき、同僚の宇宙飛行士であるアンドリアン・ニコラエフと結婚し、一人娘のエレナを産んでいます。しかし、この結婚は政治的な結婚であったらしく、45歳で離婚、後に再婚しています。

が、2人目の夫であるシャポシュニコフ博士は、彼女が62歳の時に死去しており、現在は独身です。3年前に実施されたロシアの下院選には、プーチン首相率いる政権与党統一ロシアから出馬・当選を果たしており、ソ連邦最高会議時代以来、久々に政界に復帰することとなりました。現在77歳の宇宙バーさんは今でもお元気のようです。

1965年10月には日本社会党の招待により、最初の夫ともに夫妻で来日していますが、このときはまだ、「かもめのジョナサン」は世に誕生していませんでした。

テレシコワが乗っていた、再突入時のカプセルは、50年以上を経た今もモスクワ近郊にあるエネルギア博物館に展示されているそうです。ボストーク計画の最後の飛行物となったこの機体は宇宙開発の黎明期を物語る貴重な遺物であり、いつかロシアに旅する機会があったら、実際にどんなものであるのか見てみたい気がします。

が、おそらくモスクワのような寒い場所にはカモメはいないと思います。しかし、もしたくさんいたら、そのうちの一羽はきっとカモメのジョナサンに違いありません。

では残りのカモメたちの名は?

そう、答えは「カモメのミナサン」です。

視線