ちょうどひと月ほど前の、2014年6月27日、本田技研工業こと、ホンダから「ホンダジェット」の量産1号機が初飛行に成功したとの発表がありました。
ホンダは、1962年(昭和37年)に、創業者の本田宗一郎が航空機事業への参入を宣言し、1986年(昭和61年)から、その研究のために「和光基礎技術研究センター」を開設してからは、本格的に航空機研究を開始し始めました。
1989年(平成元年)からは、アメリカのミシシッピ州立大学ラスペット飛行研究所と提携し、小型実験機MH02を開発。1993年(平成5年)に他社製エンジンを搭載してではありますが、初飛行に成功しています。
こうして基礎技術を固めたのち、エンジンを含めすべて自社製のビジネスジェット機の開発に乗りだし、これを「HondaJet」と名付けました。その初号機、アメリカにおける登録番号N420HA)は、2003年(平成15年)12月にノースカロライナ州グリーンズボロのピードモント・トライアド国際空港にて飛行を行い、このフライトも成功裏に終わりました。
この成功により、ホンダはその後、機体構造もジェットエンジンも自社製という世界的にも珍しい構成で本格的な小型ジェット機の量産に乗り出すようになります。
それから11年余りの年月が過ぎ、ようやく量産機の初飛行に成功したわけですが、当初その飛行は、2009年初旬の予定であり、2年余り遅れたことになります。2010年末にデリバリー開始を予定していましたが、本格的な販売開始は、来年1~3月期になるようです。すでに2012年10月には量産ラインでの組み立てが開始されているそうです。
この機体は、まだ開発途上にあった2007年10月、「エンジンを翼の上に設置する独創的な空力設計」によって、日本のグッドデザイン賞金賞を受賞しています。これは、その造形がこれまでの航空力学の常識を大きく覆しながら優美な美しさを兼ね備えた点が評価されたためです。
さらに2012年9月には、アメリカ航空宇宙学会より「エアクラフトデザインアワード2012」も受賞しており、世界に冠たる航空機産業の雄であるアメリカに評価されたということは、いかにそのデザインが秀逸であるかの証明といえるでしょう。
その航続距離は2185キロ、巡航速度は時速778キロで、ライバル機とくらべても速度と燃費が約15%優れ、室内は約20%広いにもかかわらず、価格は450万ドル(約4億7000万円)に据え置かれ、この価格は他社とほぼ同じだといいます。
ここまで性能が突出した一番の理由は、この飛行機の製造販売を行うために設立されたホンダ・エアクラフトカンパニー・インコーポレーテッドの藤野道格社長が発案した特徴的なデザインによるところが大きいようです。
機体後部の左右に取り付けていたエンジンを、主翼上部に載せるような形で取り付けたことで、高速飛行時の空気抵抗を抑え、燃費向上と速度増加の効果を生み出しました。またエンジンを機体から切り離すことで余分な構造が不要となり、室内も大幅に広くなっています。
今後、ホンダにはこの航空機事業を、自動車、バイクに次ぐ3本目の柱とする狙いがあるといいます。しかし、自動車やバイクの販売はそこそこ好調であるのに、なぜいまさら飛行機なのか、ですが、このホンダのジェット機参入には、しっかりと戦略に裏打ちされた勝算があります。
経営学者マイケル・ポーターの「参入障壁の理論」というものがありますが、この理論は、新規参入しやすい業界は、それだけライバルの会社の数が増えるため、業界内の競争は激しく、利益を上げるのは容易ではなくなる、というものです。
しかし、逆に新規参入しにくい業界に参入するまでは大変ですが、一旦参入してしまえばライバルが少なく、比較的安定した利益をあげることができます。
ジェット機業界もまた、高い技術力が必要であるがゆえに新規参入が難しい業界の代表例ですが、優れた技術力を持ってすれば、楽々とその業界におけるトップの座を占めることができる可能性が高いというわけです。
今は亡きホンダの創業者、本田宗一郎はそれを見越していたに違いありません。しかし、そもそも彼は少年のころから飛行機が好きだったようで、実はホンダのオートバイのエンブレムであるウイングマークは、創業者の本田宗一郎が抱いていた、「いつかは空へ羽ばたきたい」という願いを込めて採用されたものです。
それほど宗一郎の空への憧れは強かったといえ、ホンダの航空機事業への参入は自然な成り行きといえます。が、その実現には、彼が航空機産業への参入を告げてからは52年もの年月を必要とし、また彼の亡くなった1991年からも既に23年も経っています。
本田宗一郎は1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれました。地元浜松の光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学し、その在校中に自動車を初めて見たといい、本田少年の目はその不思議な乗り物にくぎ付けになりました。
また、自動車だけでなく、こうした乗り物が大好きな少年で、遠く離れた浜松町の和地山練兵場というところまで自転車をこいでいき、ここから飛び立つ、軍用飛行機を見るのが好きで、またここで生まれて初めて曲芸飛行を見ました。
本田少年は小柄であり、大人用の自転車のサドルに座るとペダルまで届かず、このため、この自転車による遠出は、三角漕ぎだったといいます。
15歳で高等小学校を卒業したあとは、東京の本郷にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社。入社とは聞こえがいいですが、これは事実上、この当時めずらしくもなかった「丁稚奉公」でした。このため半年間は、社長の子供の子守りばかりさせられました。
アート商会に6年勤務後1928年(昭和3年)、21歳になった宗一郎は、のれん分けの形で浜松市にアート商会の支店を設立させてもらい独立。このころ、こうしたのれん分けをアート商会社長の榊原郁三から許されたのは、宗一郎ただ一人だったといいます。
かくして小さいながらも、自動車修理工場の主となった宗一郎ですが、日々油にまみれてもくもくとクルマを修理するだけの生活にやがて限界を感じるようになります。もっと技術力を高めたい、そんな思いから、27歳のとき、旧制 浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部)聴講生となり、ここで一から金属工学や機械工学を学び直し始めます。
そこで得た技術は無論、商売にも生かされましたが、彼はそれに増して自動車がさらに好きになり、自分でレース車を整備するようになります。1936年(昭和11年)に行われた第1回全国自動車競走大会、のちの多摩川スピードウェイでは、弟の弁二とともに自らも出場していますが、事故により負傷、リタイアを喫したりしています。
そんなかんなで、自動車修理業の傍ら、レースがあれば、仕事の合間をみて参加するような日々を続けていましたが、本業のほうは順調で、自動車修理事業はさらに拡大していき、浜松の小さな修理工場が、ついには、「東海精機重工業株式会社」という重厚な名前まで持つ会社へと発展していきました。
ちなみに、この会社は、現在も東海精機株式会社として継続しており、ホンダのグループ会社としても重要な地位を占めています。こうして小さいながらも株式会社の社長に就任した宗一郎は、さらに会社を発展させるべく、エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目を付け、その改良に乗りだしました。
しかし、ここでも技術の壁につきあたり、経験からだけではどうにもならない学問的な素養の重要性を思い知らされます。このため、宗一郎は再び、浜松高等工業学校に戻り、再度機械科の聴講生となり、ここで更に3年間を金属工学の研究に費やしました。
しかし本業を忘れていたわけではありません。このころ、のれん分けされていた修理工場は従業員に譲渡しましたが、東海精機重工業のほうの経営には更に専念するようになっていました。が、1942年(昭和17年)にトヨタが東海精機重工業に出資し始めると、思うところがあり自ら専務に退きます。
そんな中、1945年(昭和20年)に発生した三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。これを機に所有していた東海精機重工業の全株を一気に豊田自動織機に売却して退社。宗一郎は、「人間休業」と称して1年間の休養に入ります。
そして、翌1946年(昭和21年)10月、39歳となった宗一郎は、浜松市に「本田技術研究所」を設立、所長に就任します。現在まで続く、大会社ホンダの誕生です。
この研究所は、2年後には「本田技研工業株式会社」として株式化し、資本金100万、従業員20人でスタート。ここで宗一郎は、かねてからの念願だった二輪車の研究を始めました。東海精機重工業の専務に退いたのは、この二輪車の開発を自らの手で成し遂げたい、と考えたためでした。
結局、この二輪車製造販売は大成功に終わり、ここで培った技術をもとにさらに取り組んだ四輪事業もまた大きな成果を収め、ご存知のとおり、ホンダはトヨタ、日産に続く、大自動車メーカーとして発展していきました。
1983年(昭和58年)、76歳になった宗一郎は、取締役も退き、終身最高顧問となりました。それまでの功績を認められ、1989年(平成元年)には、アメリカの自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たします。アジア人としては初の快挙でした。
しかし、1991年(平成3年) 8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。
終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして遊んでいた時代があったといいます。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いついたのが、オートバイ研究だったそうです。
また「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっておりけっして、身内を入社させなかったといい、社名に自分の姓を付したことを一生後悔していたそうです。
経営難に陥ったときにマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直したということもありましたが、ともかく従業員思いの経営者としても知られており、彼等からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていました。
が、一方で共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」ともいい、作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていたそうです。
しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということも多かったという話も残っており、怒る際、「よくお前が可愛いから怒るというが、俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言ったといいます。
心に思っていることを素直に言葉でうまく表現することのできないタイプだったようで、口ではそういいながら、こよなく社員を愛していた証拠に、社長退職後には全国のHONDAディーラー店を御礼参りをした、というエピソードも残っています。
特定産業振興臨時措置法案をめぐり、他者との合併などを官側から強制されそうになったときも、普通の社長なら今後のことも考えて役人と適当なところで妥協するでしょうが、宗一郎は会社と従業員を守るために徹底的に官僚と戦いました。
特定産業振興臨時措置法案というのは、貿易自由化や資本自由化という外資参入の危機感から、通商産業省が推し進めた国内産業向けの合理化構想の法案です。
背景にあったのは、このころ国家が企業を統治する形で成功していたフランスの「混合経済」の成功であり、これを見た日本の官僚が、これをお手本にした「新産業秩序」をうたい、企業の大規模化のために政府が民間の構造改革に介入する推進策を、1962年(昭和37年)に提唱しました。
これに対し、この当時の経団連会長 石坂泰三が、「形を変えた官僚統制」だと強く反発、また合併・集中の促進よりも、「独禁法緩和が先」だとし、宗一郎もこれに同調しました。他者と合併させられるのは大迷惑だ、それよりももっと規制を緩和して各社に儲けさせたほうがよほど構造改革になりうる、というのが宗一郎の主張でした。
この法案は、1963年(昭和38年)に、自動車産業ほか、鉄鋼業・石油化学を特定産業に指定し、合併ないし整理統合、設備投資を進めることを骨子として閣議決定され国会に提出されましたが、宗一郎ら経済界の雄たちの総反発の意を汲んだ他議員らに反対され、審議未了のまま廃案に追い込まれました。
が、この政策が成功していたら、今ある、トヨタ、日産、ホンダなどの今の日本を牽引する大企業が一本化され、官僚の言いなりの国策会社になっていたかもしれません。
技術者としての宗一郎は、純粋そのものでした。その最晩年の皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際などには、「技術者の正装とは真っ白なツナギだ」と言いその服装で出席しようとしたといい、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席しました。
が、かつての部下の目からは技術の面ではたいしたことはなかった、と酷評されることも多く、エンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督中村良夫氏も、宗一郎が革新的な製品開発を推し進めたことは評価する一方で、「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と評しています。
東海精機時代には、学校にまで戻って金属工学を学び直した宗一郎ですが、後年になればなるほど理工学的な無理解を押し通そうとすることが多くなり、そういった衝突から会社を辞める技術者も多かった、と伝えられています。
1960年代後半から、空冷エンジンに固執する本田に対して若手技術者が反発するケースが増え、久米是志(後の3代目社長)のように出社を拒否する者も出るほどでした。
このころのホンダの市販車には、ホンダ・1300やホンダ・145などがあり、レーシングカーにもホンダ・RA302といった車種がありましたが、これらはみんな宗一郎の主張する空冷エンジンを搭載していました。
水冷よりも空冷のほうが、よりシンプルでパワフルだというのが宗一郎の主張であり、この「信念」に基づき、ホンダではこうしたクラスとしては、この当時他社と比較しても珍しくなっていた空冷エンジンを用いていました。
しかしホンダのこの空冷エンジンは、一般的な空冷エンジンに比べてより複雑な構造を持っており、このため重量増とコスト高が問題として生じるようになり、このため、本来であれば簡単構造、軽量、低コストといった空冷エンジン本来の長所が薄れる結果となっていきました。
この結果、主力車ホンダ1300の総生産台数は3年強の間に約10万6千台にとどまり、このうち日本国外へ輸出されたのは1053台にとどまりました。時代が少々違うので、参考になりにくい面もありますが、現在のホンダの主力車種フィットの年間販売台数はおよそ約20万台であり、これと比較しても3年で10万台というのはいかにも少なすぎます。
この時期、こうした宗一郎の独断による失敗によって、「このままでは会社が倒産する」と危惧されるまでにもなりましたが、そんなときでも、宗一郎は「俺が作った会社だから俺が潰すのも勝手」と反論するなど開発に関わる人物や技術者との関係は日に日悪化していきした。
やがて若手技術者らから不満を直訴される事態にまで至り、最終的に側近に「あなたは社長なのか、それとも一技術者なのか」と迫られた宗一郎は、この勧告は技術者として引導を渡されたにも等しいことをようやく悟り、引退を決意しました。
後にこの引退を進めた周囲の人間は「親父さんがあと3年居座っていたら、ホンダは潰れていただろう」と評しましたが、と同時に「あそこで身を引いたのは親父さんの偉いところ」とも述べています。
そんな宗一郎も社長業を離れると、実に庶民的な人だったようです。無類の鮎の友釣り好きで年に1度は多数の客を自宅に招き鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていたといいます。また、大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にバカらしい」と言い、生涯別訴は所有しませんでした。
しかし、一方では高級品が大好きだったそうで、時計などはブランド品の良いものを好んでいたといいます。しかし、これには理由があり、高級品だけを使うのは「一流であるためには一流であるものを知っておく必要がある」という独自論からきたものでした。
実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といった事も提言し、アコードとメルセデスベンツの乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証する、といったことも実践していたといいます。
バイクやクルマを売る、ということに自分なりの哲学を持っていた人でもありました。たとえば、1970年代後半から1990年代にかけて、いわゆる「三ない運動」がおこり、高校生によるオートバイならびに自動車の免許取得や車両購入、運転を禁止するため、「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンが掲げられました。
多くの高校では、このスローガンが校則に組み込まれ、各校単位でPTAが主体になってこれが実施されました。
この時代、ほかにも、非核三原則として、核兵器を「作らない」「持たない」「持ち込ませない」。公職選挙法で禁止されている寄付行為に関して「贈らない」「求めない」「受け取らない」、暴力団を「利用しない」「金を出さない」「恐れない」、飲酒運転防止のため「乗らない」「飲まない」「飲ませない」などが流行り、一種社会現象のようになっていました。
これに対し宗一郎は、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と公の場で発言したといい、長いものに巻かれろ的なこうした国民大合唱の三ない運動一般に対しても、冷ややかな態度を示し、終始批判的なスタンスを取り続けました。
こうした彼独特の哲学は、彼の死後多くの本にまとめられ、いわゆる「ビジネス書」として広く読まれていますが、彼が生前放ったこうした言葉の中には、昨今の韓国や中国に聞かせてやりたいようなものも含まれています。
作家・経済評論家の邱永漢が、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを宗一郎に聞いたところ、彼は「良いのは台湾、悪のは韓国」とだけ答えました。
その理由を邸がさらに問うと「台湾に行くと台湾の人がみんな私に「こうやって自分たちが仕事をやれるのは本田さんのお陰です」と言ってものすごく丁重に扱うのです」と答えました。自動車やオートバイの技術を持っていなかった台湾に技術を伝えた本田に対して“台湾人は”ちゃんと相応の感謝をしていたというわけです。
一方、韓国の工場が悪かった理由は、「向こうへ行ってオートバイを作るのを教えた。それで一通りできるようになったら、株を全部買いますから帰ってくれと言われた」でした。そして、さらに宗一郎は「そんな株いらねえよ、売っちまえ」とその韓国企業の株の売却を社員に命じたといいます。
逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩きました。そして「満足だった」という言葉を遺し、そのまま逝ったといいます。弔問時に遺族からそのエピソードを聞き、親友だったソニーの井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したといいます。
長年、ホンダという大会社を背負ってきた宗一郎は人に背負われたことはなく、その一生の最後の時だけでも誰かに背負われてみたい、最後の時ぐらい、気弱な自分を許してもいいだろう、と考えたのでしょう。
この井深大とは、共に技術者出身であったこともあり、強いシンパシーを感じた二人は、ごく自然に親友となっていったようです。そして、「互いの頼み事は断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたといい、また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れなかったそうです。
ある時に普段は手紙は直筆であることの多かった井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打ち、送ろうとしていたその矢先に宗一郎は帰らぬ人となった、というエピソードが残っています。
逝去時にも社葬は行わせなかったといい、その理由は「自動車会社の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という彼の遺言からでした。
そんな、宗一郎が夢見ていた航空機産業への参入ですが、生きている間にはついに自社製の飛行機を飛ばすことができなかったものの、彼が夢にまで見たホンダジェットの量産機はついに空を飛びました。やがてはホンダのエンブレムである“H”を付けたのホンダジェットが日本や海外の空を飛び回るようになるでしょう。
もうすぐこの伊豆の空をも飛び交う時代がくるでしょうが、私もまた、その飛行機に一度乗ってみたいものです。