最近、「かもめのジョナサン完成版」を五木寛之さんが出された、とニュースで報道されているのを耳にしました。ところが、ん?完成版?「かもめのジョナサン」って完結していなかったっけ?と疑問に思ったのでちょっと調べてみました。
「かもめのジョナサン」は原題が、“Jonathan Livingston Seagull”で、これはアメリカの作家、リチャード・バックの小説です。
このリチャード・バックは、イリノイ州生まれの1936年生まれですから、今年でもう78歳にもなります。もともとは飛行家で、飛行機に関するルポルタージュを書いていたようですが、その後1970年に「かもめのジョナサン」を発表しました。
この本は、当初はほとんど評判にならなかったようですが、2年後の1972年に突如ベストセラーのトップに躍り出、各国語に翻訳され、世界中で大ヒット作となりました。
一般的には「寓話」と目されています。寓話って何なのよ、ということですが、これは動物、静物、自然現象などの人間以外の者を擬人化して登場させ、比喩によって人間の生活を揶揄したり、逆に人生の素晴らしさを諭す、といった具合に仕立てる物語です。
寓話として最もポピュラーなものはイソップ物語であり、日本では宮沢賢治の作品が有名です。リチャード・バックのこの作品では、カモメが主人公であり、ラッセル・マンソンという写真家さんによる実際のカモメの写真が随所に挿入され、かつての日本版でもこの写真がそのまま使われて出版され、私もしゃれているなと思って買った覚えがあります。
この話の主人公のカモメは、「カモメ界」にあっては異端児と呼ぶべき存在として描かれており、これがこの当時からアメリカで流行り始めていた「ヒッピー文化」ともあいまって、口コミで徐々に広がりヒットしました。
このヒッピー(Hippie)というのは、言葉では知っていても、どういうものかをはっきりと知っている人は少ないかもしれません。が、その定義も割と曖昧なようできちんと説明はしがたいところはありますが、基本的には、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とした人々のことを指します。
アウトロー(outlaw)とも似てはいますが、アウトローとは、犯罪等により法の保護を受けられなくなった人物をさします。ヒッピーもまた、ドラッグをやったりする人、というイメージがあり、必ずしもクリーンな印象ばかりではありませんが、犯罪者ばかりでもなく、彼等は単に文明以前の「野生生活」への回帰を提唱しているだけで、そのために悪いことをしてまで自分の我を通したい、というつもりはない人々です。
1960年代後半に、おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、基本的に「自然と愛と平和とセックスと自由を愛する」ということがモットーでした。この当時から泥沼化していたベトナム戦争への反対勢力とも結びつき、「正義無きベトナム戦争」への反対運動の急先鋒としての役割も担いました。
愛と平和を訴え、徴兵を拒否し、派兵に反発した若者の多くは、自分をヒッピーと称し、人間として自由に生きるというスタイルは、戦時下にあって厭戦ムードの強かった全米中に浸透しました。
しかし、ヒッピーのイメージが良くないのは、その初期の時代に、薬物に頼って高揚感や覚醒や悟りを得ようとした若者が多く出たためです。アメリカだけでなく世界各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生しましたが、これらはドラッグの溜り場と揶揄されました。
「ビートルズ」はこうした若者たちにも熱狂的に支持されたロックバンドであり、ではビートルズもヒッピーかといえば、これは正しくはありません。が、ジョージ・ハリスンはヒッピーらと交流を持っていました。ただ、ドラッグ・カルチャーに対しては否定的な見解を持っていたようで、ヒッピーとみるとしてもその正当派と考えるべきでしょう。
また、ジョージ・ハリスンは、ヒッピーとの交流の中で、インドの瞑想に深く関る様になっており、この当時ヒッピーと呼ばれていた多くの若者もまたインド巡礼にあこがれを持っていました。
しかし一部のヒッピーたちは、ただ単に宗教的意義を深めるにとどまらず、マリファナやLSDを使用した精神解放等を強く求めるようになっていったため、後年にはヒッピー全体が社会的にかなり抑圧されるべき存在になっていきました。
とはいえ、こうしたヒッピーたちもベトナム戦争の終結と薬物に対する取り締まりにより、1970年代前半頃から、徐々に衰えていくようになり、やがて衰退しました。従って、「かもめのジョナサン」はその衰退期の直前のヒッピー全盛の時代に刊行されたことになります。
ヒッピーたちは、伝統的な社会や制度を否定し、個人の魂の解放を訴えました。その気分はまさに「かもめのジョナサン」に描かれている主人公の心理そのものであり、このこともあって、多くのヒッピーがこの物語を支持しました。
一方、「かもめのジョナサン」を信奉する者の仲には、伝統的キリスト教的価値観を否定する者もおり、彼等は東洋の前衛的な思想・宗教を積極的に取入れようとしますが、これが行き過ぎてその系統を引くカルト宗教が多数創設され、社会問題化しました。
日本においても、オウム真理教の幹部として数々の犯罪を犯した、村井秀夫が「かもめのジョナサン」の心境になったといってオウム真理教に入信したという話は有名です。
ただ、こうした悪いイメージばかりが先行するものの、ヒッピーのモットーはそもそも、”Back to nature” であり、文明を否定して自然に回帰することこそが本質です。このため、ヒッピーが廃れてしまった現在においても、多くの自然保護活動家の中にはこの系統を引く者も少なくないようです。
また、日本においては、ドラッグの規制が厳しく、アメリカ型のヒッピーというものはあまり普及しませんでした。日本には、オリジナルのヒッピー以外に、ぶらぶらしている人のことを「フーテン」と呼ぶ文化があり、ヒッピーのこともまたフーテンと呼ぶ向きもありました。
無論、アメリカのような悪いイメージではなく、松竹映画「男はつらいよ」シリーズにおいて渥美清が演じた主人公のような自由奔放な人々のことをこう呼んだのであり、アメリカのヒッピーとは一線を画していました。
「かもめのジョナサン」は、アメリカでは1973年にはこれを原作とする映画が制作され、日本でもこの翌年の1974年にこの映画が公開されました。映画としてはあまりヒットしなかったようですが、この時点で、アメリカでのその原作本の出版数は1500万部を超え、それまでの断トツ一位の「風と共に去りぬ」をも抜き去りました。
日本でも新潮社より五木寛之の訳が出版され、120万部のベストセラーとなりましたが、このときに出版されたものは、全3部構成でした。ところが、リチャード・バックの原作本は、本来は全部で4部構成の作品でした。
リチャードが何らかの理由により第4部を封印して世に出していたもので、その理由は明らかにされていませんが、その第4部の部分に何か気に入らない部分があったとか、いずれはその部分を元に続編を出そうとしていたとか色々な説があるようです。
ところが、リチャードは、2012年の8月、自家用の飛行機を操縦してワシントン州のサンフアン島を飛行中、自機を電線に引っかけてしまい、飛行機は大破し、瀕死の重傷を負います。
このとき、76歳になっていたリチャードは、その後余儀なくされた入院生活の中でいろいろ想う所があったらしく、2014年2月にこの幻の第4部を含めた完全版を電子書籍形式で発表しました。
その理由は明らかにされていません。が、リチャード・バックは、「ジョナサン」ののちに、「イリュージョン」という小説を出版していて、私も読んではいないのですが、別の方のブログによれば、これは「現代のスピリチュアル本や自己啓発書をも凌駕する、示唆に富んだファンタジックな啓示書」だということです。
村上龍が翻訳し、2009年に集英社から出版されたようですが、そのストーリーは、町をまわっては、人を乗せて遊覧飛行するジプシー飛行機乗りの前に、自ら救世主を辞めた人物が現れ、飛行機乗りは好奇心から自分も救世主になる勉強を始める、といった話のようです。
人間の限界、生き方について語るこの本は、「かもめのジョナサン」よりもわかりやすく、ユーモアたっぷりに書かれているそうで、リチャードは過去に出版した「ジョナサン」もまた「人生訓」としてその封印されていた部分を解き放ち、これをもって老い先短い最後の花道を飾るものとしたかったのかもしれません。
また、「ジョナサン」を読まれた多くの人はその内容にスピリチュアル的なものを感じとるでしょう。もしかしたらリチャード自身もこうしたスピリチュアル的なことに造詣が深く、あるいは、飛行機事故による怪我の療養中に、あちらの世界から何等かの啓示があったのかもしれません。が、これはもう私の推測の域を出ません。
この初版本の「かもめのジョナサン」のストーリーは概略すると以下のようです。
カモメのジョナサン・リヴィングストンは、食べることよりも空を飛ぶことに生き甲斐を感じるカモメでした。同じ群れにいる他のカモメが食べ物を漁っている間も、より速く飛ぶ方法を研究しており、飛ぶことは自由になることであり、それこそが真の生きる意味だとジョナサンは考えていました。
そんなジョナサンはやがて、規律を乱すとして群れを追放されてしまいます。しかし、ひとりになっても飛行術の修業に明け暮れていましたが、ある時、まばゆいほどの輝きを放つ二羽のカモメがジョナサンの前に現れます。そして彼らはジョナサンを「もっと高いところ」へと連れて行きました。そして、そこは実は天国でした。
この天国でジョナサンは、さらに進化し、これまでとは全く違う飛行法を学び、そして終には瞬間移動もできるようになります。こうして天国で真実を見出したジョナサンは、ふと思います。「地上にいるカモメに自分の知った真実を伝えられないだろうか」。そして、それこそが自らの「愛の証」だと考えるようになります。
こうして天国から帰ってきたジョナサンは、若いカモメと一緒に飛び、彼等に飛ぶこと意味を教えるようになります。そして教えられることはすべて教えたと考えた時点で、フレッチャーというカモメを後継者に任命します。そして、自らは仲間の元を去り、どこか別の場所を目指して、永遠の旅を続けていきます……。
この物語においては、とくに後半あたりからその内容がかなりオカルトめいてきます。ジョナサンが通常のカモメの飛行能力を遥かに超えた能力を身につけるあたりがそれで、これはもうすでに通常の鳥が空を飛ぶという次元を超えています。
実はこのほかにも、岩盤に激突したカモメを生き返らせる、といった「超常現象」が物語の中に登場しますが、仲間のカモメへの飛行法の伝授と言い、こうした死者復活の描写といい、どうも新興宗教の布教を連想させます。
このほか、ジョナサンが下界に戻るプロセスも単純には描かれておらず、やや込み入った経緯を経て地上に帰るという書き方をしており、こういうところなどは禅の影響を受けているのではないかと指摘する人もいます。
中国が発祥の「禅」においては、悟りにいたる道筋を牛に例え、そのステップを「十牛図」として著わしたものがその修業の中でよく使われますが、リチャード・バックはこの十牛図を見てこの部分を書いたに違いないと解釈する人もいるようです。
問題の、この新しく加わった第4章ですが、ここには上のストーリーでジョナサンが仲間の元を去っていったあと、残されたカモメたちの間では、その教えだけが受け継がれる中で、ジョナサンの存在が伝説化され、神格化されていく様子が描かれているそうです。
教えが徐々に形骸化していく中で、新たな若いカモメが再び飛行実験を始めていく、といったことが書かれているらしいのですが、私もまだ読んでいないので、詳しいことはわかりません。
が、1970年代にヒットして、世界中に大きな影響を与えたこの作品の完結版が、今後どういう影響を与えていくことになるのか、はたまたまったく何の影響も及ぼさないのかは興味のあるところであり、今後も注意深くその後をみていきたいところです。
ところで、カモメ次いでに、思い出したのが、かつて「私はカモメ」と言った世界初の女性宇宙飛行士、ロシアのワレンチナ・テレシコワのことです。村井秀夫は「かもめのジョナサン」の心境になってオウム真理教に入信しましたが、テレシコワはどんな心境でこのセリフを吐いたのでしょうか。
しらべてみたところ、この「私はカモメ」は、ロシア語では、”Я чайка”と書き、これは「ヤー・チャイカ」と読みます。チャイカがカモメのことで、これにヤーをつけると、「こちら、チャイカ」という意味になります。
現在もそうですが、旧ソ連では、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」、すなわち「カモメ」という呼称が与えられました。
つまり、打ち上げ後のごく普通の事務的な応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉とみなされた、ということになります。が、さらに調べてみると、このセリフは、テレシコワが乗り込んでいた宇宙船にかなり深刻な問題が発生したときに、彼女が繰り返し口に出したものだということがわかりました。
ワレンチナ・テレシコワは、1937年(昭和12年)にソビエト西部のヤロスラヴリ州の小さな村、マスレンニコフに生まれました。学校を卒業後、通信制教育で学んだ後、織物工場で勤務しましたが、職場では旧ソ連共産党青年組織のリーダーを務めていました。
また22歳のころから地元の航空クラブでスカイダイビングを行っていたそうで、その後の宇宙飛行士の素養もこの織物工場時代に得たもののようです。30歳のとき、ソビエト初、また世界初となるはずの女性宇宙飛行士の候補に選抜され、400人を超える候補の中から選抜された5人の1人となります。
しかし、旧ソ連では敵対するアメリカをはじめとする西側諸国にこうした事前段階での情報が漏れるのを恐れ、テレシコワに宇宙飛行士に選抜されたことを、家族にさえ打ち明けることを禁じていました。このため、彼女の家族がこの偉業を知ったのは、政府が全世界に向けて宇宙飛行を行った事を発表してからだったそうです。
宇宙飛行士に選ばれたのち、およそ一年の訓練期間を終えた彼女は、1963年6月16日、ボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となり、また初の非軍人宇宙飛行士となりました。
そもそものボストーク6号の打ち上げの目的は、宇宙飛行中の女性の体の反応のデータを集めるのが目的でした。しかし、彼女もまたこの飛行中、それまでの男性宇宙飛行士と同じように飛行記録をつけ、写真を撮り、宇宙船を操縦して「宇宙科学者」としての役割をこなしました。
彼女が撮影した宇宙の日の出の写真は、後に大気中のエアロゾル層を調査するために大変重要なものになったといい、彼女に対する評価は、単に宇宙に行って帰って来ただけという「運転士」としての行為だけでなされるものではありません。
ところが、順調にミッションをこなしていたとされるこの飛行は、実は彼女にとってはかなり過酷なものであったらしいことが、最近明らかにされています。実は、テレシコワはこの飛行中、宇宙酔いや酷い月経などに苦しめられ、この積み重ねにより更にはヒステリー状態になり、無線を通じて地上に助けを求め、叱られるまで泣き続けたといいます。
一時はパニック状態になり、心神喪失状態に陥ったとも言われており、その原因となったのは、彼女が乗船していたボストーク6号の軌道への打上げプログラムに間違いがあったことでした。
プログラムにバグがあっため、打ちあげられたロケットは遠くまで飛びすぎ、これによって彼女が乗っていた船は本来とは異なる軌道上に投入されたのです。場合によっては、戻ってこれない危険性もあり、初日に早くもそれに気付いたテレシコワは、それを素早く理解し、地球に報告しました。
このため、地上側もこのミスに気づき、帰還のためのプログラムを修正し始めましたが、テレシコワにはいつまでたってもその成果が報告されませんでした。帰還間際になって、ようやく指示が届き、彼女はようやく軌道の修正を始めますが、宇宙船をうまく誘導することができません。
しかも、降下が始まる直前には突然通信も途絶えてしまい、パニック状態となった彼女は、意識朦朧となってヘルメットの中で嘔吐を続け、このとき、通信マイクに向けて連呼したのが、「私はカモメ」、「私はカモメ」でした。つまり、こちらテレシコワ、応答どうぞ、応答どうぞ、と地上に向けて助けを求め続けていたのです。
ところが、彼女がパニくって通信を始めたとき、実は通信装置は正常に戻っていました。ただ、彼女はあまりにもパニック状態になっていたため、このとき地球の管制センターとの連絡ための通信チャンネルを間違えてセッティングしてしまいました。
このため、彼女が発した「ヤーチャイカ」の連呼は管制室には届きませんでしたが、この違うチャンネルで発せられた電波は、意外な人々にキャッチされました。
それが、地球のあちこちに基地局を持っていたアマチュア無線家たちであり、かれらは、ロシア語の辞書を引き、このヤーチャイカの意味を「私はカモメ」であることを知ります。そして、彼等はこれを聞いて、世界初の女性飛行士となったテレシコワが歓喜のあまりにこれを連呼しているのと勘違いしてしまいます。
これがのちに、「私はカモメ」として陽気に振る舞うソビエトの女性宇宙飛行士、テレシコワの偶像を創る原因となりました。彼女にとっては、誇らしげに私はカモメ、と叫んでいたわけではなく、このヤーチャイカは、「お願いだから私を助けて」という悲痛な叫びだったというわけです。
その後、彼女もこの通信ミスに気付いて、地上とも連絡が取れるようになり、また制御プログラムのエラーも修正されて、彼女は無事に地球に帰還することができました。
ところが、彼女が着陸したのは西シベリア南部のアルタイ地方の西方の農場でした。ここにパラシュートで落下してきた彼女の船には、強い風が吹きつけ、テレシコワはもう少しで湖に落下するところでした。また、この時期のシベリアは、6月といえまだ極寒季を脱しておらず、早朝であったため現地の気温は氷点下でした。
しかも、着陸地点は、当初想定していた地点から数十キロも離れており、管制センターはこの着陸位置を把握できませんでした。こうして、テレシコワは救助隊が来るまでのこの間、不安が積もらせながら冷気の中で待ち続けることになり、ようやく救助隊に見出されたのは着陸完了から2時間も経ったあとでした。
しかし、テレシコワは、こうした自分と当局の失態を、その後長いあいだ隠し続けました。が、ごく最近このことを明らかにし、このときのことを、自らこう語っています。
「……問題は、着陸ではなく、着陸したとき、彼は私に、そのことを他言しないように頼んできたことでした。私は誰にも話さないと約束しましたが、その後、秘密は他のところから明らかになってしまいました。私が約束を破ったのではありません。」
この「彼」とされるのが、ソビエト連邦の初期のロケット開発指導者セルゲイ・コロリョフで、のちに世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7を開発したことでも有名な人物です。
R-7は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、テレシコワの快挙の2年前の1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。
このため、コロリョフアメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ米ソ宇宙開発競争の双璧を成した人物と言われています。
このテレシコワの宇宙飛行において、彼女が相当なパニックを起こしたことはその後大きな問題として取り上げられました。このため、その後長らくソビエトでは、女性飛行士の採用が敬遠され、2人目の女性宇宙飛行士であるスベトラーナ・サビツカヤが飛行するのはさらにこの19年後のことでした。
その後、テレシコワは、ジュコフスキー空軍大学に入学し、32歳で宇宙工学の単位を得て卒業しました。さらに40歳で工学博士号を得ますが、一方では、ソ連邦最高会議の一員であるという側面も持ち、52歳までは同会議の常任幹部会の一員でした。
しかし、ソビエト崩壊後、1997年、60歳のときに大統領令により、空軍と宇宙飛行士隊から引退しました。プライベートでは、26歳のとき、同僚の宇宙飛行士であるアンドリアン・ニコラエフと結婚し、一人娘のエレナを産んでいます。しかし、この結婚は政治的な結婚であったらしく、45歳で離婚、後に再婚しています。
が、2人目の夫であるシャポシュニコフ博士は、彼女が62歳の時に死去しており、現在は独身です。3年前に実施されたロシアの下院選には、プーチン首相率いる政権与党統一ロシアから出馬・当選を果たしており、ソ連邦最高会議時代以来、久々に政界に復帰することとなりました。現在77歳の宇宙バーさんは今でもお元気のようです。
1965年10月には日本社会党の招待により、最初の夫ともに夫妻で来日していますが、このときはまだ、「かもめのジョナサン」は世に誕生していませんでした。
テレシコワが乗っていた、再突入時のカプセルは、50年以上を経た今もモスクワ近郊にあるエネルギア博物館に展示されているそうです。ボストーク計画の最後の飛行物となったこの機体は宇宙開発の黎明期を物語る貴重な遺物であり、いつかロシアに旅する機会があったら、実際にどんなものであるのか見てみたい気がします。
が、おそらくモスクワのような寒い場所にはカモメはいないと思います。しかし、もしたくさんいたら、そのうちの一羽はきっとカモメのジョナサンに違いありません。
では残りのカモメたちの名は?
そう、答えは「カモメのミナサン」です。