ルーシーと花子

2014-1397カナダ東部に、プリンス・エドワード島(Prince Edward Island、略称PEI)という島があります。カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、小さいながらもプリンス・エドワード・アイランド州というひとつの州でもあります。

カナダの諸州の中では面積、人口共にもっとも小さく、州都はシャーロットタウンです。総面積5,660km²は、愛媛県とほぼ同じくらいで、ここに約14万弱の人が住まい、これは静岡だと焼津市の人口とほぼ同じです。

島といいながらも、同様にカナダ沿海州であるニューブランズウィック州とはノーサンバーランド海峡を隔てて目と鼻の先であり、ここにはコンフェデレーション橋という橋が架けられ、事実上陸続きです。

カナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島という顔も持っています。気候は温暖で、土地は赤土も肥沃。切り立った赤土の崖、しずかな砂浜、なだらかな緑の丘といった風光明媚な場所であるとともに、新鮮なシーフード、独創性あふれる工芸品も有名で、世界トップクラスのゴルフコースもあります。

どれもこの島の魅力を語る上でかかせないものばかりであり、とくに夏場は観光客で賑わいますが、実はそれ以上にこの島は「赤毛のアン」シリーズを書いたL・M・モンゴメリが住んでいた島として高名です。日本でも知名度の高いこの作家の故郷でもあることから、日本人の観光客も多く、その多くは女性だといいます。

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)は、カナダでも最も高名な小説家のひとりです。島の西北部にあるクリフトンという場所で生まれましたが、ここは現在、ニューロンドンと呼ばれています。地名からもわかるようにイギリスやスコットランドからの移民が多く、モンゴメリもまたスコットランド系とイギリス系の祖先を持ちます。

28歳のころ、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編小説「赤毛のアン」を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収めました。続く11冊の本も、連作「アン・ブックス」として人気を博し、1935年にはフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けるなど、カナダでも最も有名な作家に上り詰めました。

しかし、その7年後の1942年にトロントで亡くなり、その死因は長い間、「冠状動脈血栓症」とされてきましたが、その後、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーが、うつ病による自殺だったことを明かしました。

この、ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日にクリフトンで誕生しました。

カナダ東モンゴメリの父方の祖父は、上院議員だったそうで、このため父の代にも裕福だったようですが、モンゴメリが生まれて間もないころ母が亡くなり、これがきっかけで父がカナダ西部へ出奔。このため、島の北部にあるキャベンディッシュという場所で農場を持っていた母方の祖父母夫妻に引き取られ、二人に厳しく育てられました。

夫婦の名は、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールといいました。このマクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育ったといいます。

15歳のとき(1890年)、再婚していた父が、一緒に暮らそうと言ってきたため、カナダ西部のサスカチュワン州にあるこの父と義母が住まう家で一時期暮らしましたが、この継母は11歳しか年が違わないにもかかわらず、彼女に子守りと家事手伝いを命じ、ここでしっかりと腰を落ち着けて勉強がしたいと考えていたモンゴメリは、その夢を打ち砕かれます。

このため、その1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に出戻り、キャベンディッシュの中学校へ通い始めました。多感な時期でもあり、このころから、こうした薄幸の生活の中で感じた悲哀を詩やエッセイに書くようになり、ある時、これが新聞に掲載されたことが彼女が作家を目指すきっかけとなりました。

1893年、キャベンディッシュでの中等教育を終え、プリンス・エドワードアイランド州の州都、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学しました。2年分の科目を1年で終えるという俊才だったようで、さらにプリンスエドワード州からもほどちかい、ノバスコシア州のダルハウジー大学で聴講生として文学を学びます。

このプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ時代には一級教員の資格も取得しており、大学卒業後、プリンスエドワードやバスコシアのさまざまな学校で教師を務めましたが、24歳のとき祖父が亡くなりました。このため彼女は教師を辞め、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻りました。

祖父は地元の郵便局長も務めていたため、この仕事をモンゴメリが引き継ぐようになりましたが、単調な郵便局の仕事に嫌気がさし、また気難しい祖母との生活は予想以上に辛いものでした。ちょうどこのころ、こうした彼女の身よりの相談相手となってくれたのが、近所に住む長老派教会の牧師ユーアン・マクドナルドでした。

モンゴメリとマクドナルドは瞬く間に恋に落ち、のちに二人は結婚することになります。

モンゴメリは27歳になってから、ノバスコシア州の州都ハリファックスの新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として勤めるようになります。その後、マクドナルドと結婚するまでの9年間、この会社で短編作家としてとしてのキャリアを積みましたが、その毎日がのちに、赤毛のアンという傑作を完成させることに結びつきました。

モンゴメリは、32歳のとき、ユーアン・マクドナルドと婚約にこぎつけましたが、祖母の面倒を見るというお役目もあったことから、その結婚はその4年後にこの祖母が亡くなったのちの1911年のことでした。

2014-3707

このときモンゴメリは既に36歳になっていましたが、英国・スコットランドへのユーアンとの新婚旅行は素晴らしいものであり、この後、新規一転ということで、カナダ中部、アメリカと五大湖を介して国境を持つオンタリオ州のリースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ)という場所に二人で移り住みました。

こののち、モンゴメリは3人の男子を生みましたが、そのうちの真ん中の子は死産でした。このことは当人にはかなりショックだったようで、また夫のユーアンもまた結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発し、この病気は生涯快癒する事はありませんでした。

モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたといい、晩年はこうした家庭内のことだけでなく、作家としてのありようにも悩んでいたようで、こうした心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病みようになっていきました。

作家としての活躍はその後も続き、61歳のとき、それらの業績を認められ、カナダの元の宗主国、フランスの芸術院会員に推薦され、このとき同時にカナダが多くの移民を受け入れたことからイギリスからも大英帝国勲位を受けました。

しかし、閉ざされた心はそうした栄誉にも満たされず、生活に見切りをつけるためか、一家はカナダ最大の町、トロントへ移り住みましたが、このトロントでも夫婦はうつ病で苦しみ続けました。

この時期の二人については彼女の手記にもあまり記述がなく、詳しい生活の模様は不明ですが、モンゴメリの次男のスチュワート・マクドナルドの娘、つまりモンゴメリの孫にあたるケイト・マクドナルド・バトラーによれば、モンゴメリは、このころうつ病の薬を常用していたようです。

1942年4月24日、旅先の「旅路の果て荘」で死去したとされることから、自宅にいるよりも旅をして回るような生活だったのかもしれず、享年68歳でしたが、その死は冒頭でも述べたように、薬の過剰摂取による自殺だったようです。

5日後の4月29日、愛する故郷のキャベェンディッシュ共同墓地に埋葬されましたが、その追悼式では、彼女作の詩「夜警」と「アンの友だち」が朗読されたといいます。

夫のユーアン・マクドナルドは、この1年8ヶ月あとの1943年12月に死去。モンゴメリと同じこの共同墓地に埋葬されました。ちなみに、モンゴメリの祖父母の墓もこの墓地にあるようです。

彼女は、いつも愛した景色を見晴らせるという理由から、生前、この遠く海を望むこのキャベンディッシュ共同墓地を自分の墓地として選んでいたといい、その亡骸はトロントから約1000kmも離れた故郷に帰りました。

彼女の代表作、「赤毛のアン」は、1908年、モンゴメリが34歳のときに書かれたものですが、この本の成功の後、赤毛のアンはシリーズものとして定着し、これら一連のものは「アン・ブックス」として世界中で読まれました。

モンゴメリはこれらを含め、生涯に20冊の小説と短編集を書きましたが、特に初期のころの作品、「赤毛のアン」は何度も映画化され、40ヶ国語に翻訳されるなどの大成功を収めました。

この「赤毛のアン」は日本では、1952年に翻訳・紹介され、日本の少女たちにも熱狂的に愛読されました。のちに、中学の国語の教科書にも収録され、1979年に「世界名作劇場シリーズ」でテレビアニメとしても放映されたことから、モンゴメリの名を知る人も多く、その生地、プリンス・エドワード島を訪れる日本人観光客は今も多いそうです。

この、赤毛のアンを日本で最初に翻訳したのが、「村岡花子」で、彼女の生涯は現在、NHKの連続テレビ小説として毎朝放映されている、「花子とアン」でも紹介されています。花子自身がこのドラマの主人公であり、ドラマの原作は、村岡花子の義理の娘・みどりの娘、つまり花子の義理の孫にあたる村岡恵理が著わしました。

原案は、「アンのゆりかご」といい、ドラマのほうはこれにNHKがかなりの脚色をして製作し、ヒロインの村岡花子は女優の吉高由里子さんが演じています。結構視聴率が高いようで、先日も本屋さんに行ったら、その関連本が山のように積まれていました。

村岡花子の伝記本も出ているようで、その表紙にあった顔写真を見たところ、結構なべっぴんさんで、吉高由里子さんともどこか通じるような顔立ちであり、キャストしてはなかなか的を得ているな、と思いました。

村岡花子は、1893年(明治26年)に生まれ、1968年(昭和43年)に75歳で没した翻訳家・児童文学者です。とくに児童文学の翻訳として知られ、赤毛のアンはその代表作です。作者のモンゴメリの作品の多くの翻訳を行っていますが、このほか、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳も手がけています

エレナ・ポーターという作家さんの名前を知らない人も多いと思いますが、ウチのタエさのような往年の美女たちの多くは「ポリアンナシリーズ」の作者と聞いて、あぁあの~、と思い浮かべる人も多いことと思います。

アメリカ人の児童作家さんで、彼の地でも大ヒットしディズニー映画化されたほか、日本でも多くの出版社から翻訳され、1986年には「愛少女ポリアンナ物語」としてアニメ化されたことから、この世代の人には覚えている人も多いことでしょう。

また、ルイーザ・メイ・オルコットは、同じくアメリカの小説化で、「若草物語」(Little Women)の作者として高名です。彼女が姉妹達と一緒にマサチューセッツ州のコンコードで過ごした少女時代をもとにした半自伝的な話ですが、これもアンシリーズのように、「続・若草物語」、「第三若草物語」「第四若草物語」と続編が出ました。

その他、「ジョーおばさんのお話かご」「8人のいとこ」などがあり、この続編「花ざかりのローズ」などもその著作として有名なようですが、その大部分は、多くの支持者を得た「若草物語」と同じ路線をとる内容だということです。

2014-3724

ちなみに私は子供のころにこの若草物語を読みましたが、男子には少々メルヘンチックな内容であり、あまり好みではありませんでした。

が、女性は一般にこういうものが大好きなようで、村岡花子もその一人だったようです。彼女がこうした海外の児童文学、少女小説の翻訳に目覚めたのは、10歳で給費生として入学した、東洋英和女学校に在学中のことだといわれています。

NHKの朝ドラには彼女が文学者として成長していく姿がうまく描かれているのですが、これを毎日見ていた人は、彼女がこの女学校に入学したいきさつについてもだいたいおわかりだと思います。が、ドラマでは少々脚色しすぎていて、実際とは異なっている部分も多いようです。

なので、以下では、ドラマとの違いも意識しながらその生涯を辿ってみたいと思います。

村岡花子は、1893年(明治26年)6月21日に山梨県甲府市において、父安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれました(ドラマ中は「安東家」となっている)。本名は「はな」であり、のちにペンネームの花子をそのまま本名として使うようになったという点はドラマのほうも忠実にその通り描いています。

が、ドラマでは父がクリスチャンであったという事実は描かれておらず、実際は花子自身も、この父の希望により、カナダ・メソジスト派の甲府教会において2歳で幼児洗礼を受けています。

父の逸平は甲府の人ではなく、駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなりました。布教の流れで甲府に移り住むようになり、そこで出会ったのが花子の母のてつであり、結婚してその実家に住むようになりました。

教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女の花子(はな)に過剰なほどの期待をかけたといい、常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えなかったといいます。

しかし、花子が5歳の時、逸平はついに家族を押し切り、それまでのしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになります。「葉茶屋(はぢゃや)」というのは、茶の葉を売る店のことで、店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してあり、試供品のお茶を往来の人に振る舞ったりしていました。

花子は、こうした葉茶屋の少ない収入から尋常小学校に通わせてもらっていましたが、このころから心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむといったふうがあり、幼少期から文学の才能があったようです。

ちょうどこのころ、逸平は社会主義活動に加わるようになり、その活動の中では特に教育の機会均等を訴えるようになりました。このため、娘の才能も伸ばすためには良い学校に入学させたいと考えるようになり、奔走の結果、信仰上のつながりから東洋英和女学校の創設者と知りあいになります。

そして、この知己の紹介で、1903年(明治36年)、10歳の花子をここの給費生としての編入させることに成功しました。

しかし、逸平本人はその後も社会運動にのめり込み、商売に身を入れなかったことから、この当時の安中家の生活は非常に困窮しており、他の弟妹は次女と三女を残して皆養子や奉公などで家を出されました。

このため、8人兄妹のうち、高い教育を受けたのは結局長女の花子のみとなり、彼女のその後の栄達は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであったともいえます。

東洋英和女学校(ドラマでは「修和女学校」という設定)では、カナダ人、イザベラ・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、古典文学も学びました。

2014-3732

同級生の紹介で古典文学者で、歌人としても有名だった佐佐木信綱からも万葉集などについての講義を受けており、この佐佐木を紹介したのが、柳原白蓮で、この人はNHKドラマのほうでは、「腹心の友」として登場してきます。

ドラマのほうでは伯爵家の娘「葉山蓮子」という設定になっていますが、この柳原白蓮は実際もこの当時のいわゆる「華族」であり、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたり、今でいえば皇族です。

大正三美人の1人ともされるたいそうな美人だったようで、ドラマでも筑豊の資産家と結婚するという設定になっていますが、これは事実です、しかし、後に「白蓮事件」という駆け落ち事件を起し、華族を除籍されるなど波乱万丈の人生を送りました。この話も面白そうなのですが、今日は花子の生涯がメインなので、また後日詳しく書いてみましょう。

この東洋英和女学校の校長のイザベラ・ブラックモーアという人は、奇遇ですがモンゴメリも住んでいたことのあるノバスコシア州のオンスロー出身です。

1889年教育宣教師として来日後、東洋英和女学校の英語科教員になりました。2年後に山梨英和女学校に移籍しますが、1895年12月に東洋英和女学校に校長として復職し、その後三期にわたり校長を務めており、無論、花子が在籍していたころも校長でした。

その後、1918年(大正7年)には、東京女子大学の理事長にも就任し、カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理なども務めて日本におけるキリスト教の布教にも努めるかたわら、孤児院を設立するなど多くの社会事業に携わりましたが、1925年(大正14年)に三期目の校長を終えるとカナダに帰国しました。

在日中は、「厳しい中に自由がある」という教育理念の元に、徹底したピューリタン的信仰による教育を行ったそうで、NHKドラマの中でもあるように、女学校寄宿舎で日常生活を送る生徒にも厳しい教育を施し、規則に違反する者には厳しい罰を課しました。

校長在任中のエピソードとして、礼拝中に鼻をすすった生徒に対し、ハンカチで、鼻が真っ赤になるまで鼻をかませたとか、廊下を走った生徒に対し、30分もの間廊下を何往復も歩かせたとか、廊下でふざけていた生徒に対し、反省文を80回書かせたとかいった話が残っています。

寄宿生に The Sixty Sentences という、朝起きてから夜床につくまでの日常生活の行動を書いた60の英文を暗誦させたともいい、時折抜き打ちで校長が疑問文や否定文などで唱えさせ、英語力を鍛えさせることもあり、ドラマ中でもあるよう素行の悪い生徒には、Go to bed!を繰り返したと言います。

これは、「部屋で静かに目を閉じて反省しなさい」の意味で、彼女にとっては一番厳しい懲戒処分のひとつでした。

卒業式の日に、「学生時代が一番幸せな時代だった」との感想を述べた生徒に対し、「楽しかった、と心感じるようなら、私の教育が失敗だったと言わなければならない、最上のものは過去にはなく、将来にある。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて、進んでいくように」と語ったといいますが、NHKドラマのほうもこの部分は忠実に再現していました。

こうした厳しい指導もあり、花子の英語力はめきめきと上がっていきましたが、この頃からペンネームとして安中花子を名乗るようになり、翻訳活動も始めるようになっていました。また、この頃知り合った翻訳家の「片山広子」の勧めで日本語で童話も執筆するようになりました。

2014-3734

この片山広子という人は、芥川龍之介の晩年の恋人とも知られています。花子よりも15歳年上で、知り合ったいきさつは不明ですが、同じ東洋英和女学校卒であることから、同級生に広子の姉妹か友人の知り合いでもいたのでしょう。

女学校卒業後、「松村みね子」のペンネームで歌人として活躍する傍ら、アイルランド文学を中心に翻訳も行っており、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」の37章では「才力の上にも格闘できる女性」と書かれ、恋愛を詠んだ「相聞」という詩においても「君」と歌われたのはこの片山広子のことだと言われています。

堀辰雄の「聖家族」の「細木夫人」、「菜穂子」の「三村夫人」のモデルとも言われており、晩年の随筆集「燈火節」では、1954年度の日本エッセイスト・クラブ賞も受賞しています。NHKドラマの中では、ともさかりえさんが演ずる「富山タキ」という名前の英語教師兼、校長の通訳が出てきますが、おそらくは、この片山広子がモデルでしょう。

花子は1914年に21歳で東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として山梨英和女学校に赴任しましたが、このあたりは、小学校の教諭として赴任した、という設定になっているドラマのほうとは少々違います。

同年、友人と共に歌集「さくら貝」を刊行。この時期、甲府でのキリスト教の夏季講座にも頻繁に出かけており、このとき、婦人運動家として活躍していた、のちの参議院議員、市川房枝とも出会っています。

市川房枝は愛知県の出身で大学卒業後に県内で小学校教員などをやっていましたが、体調を崩して退職しており、このころは甲府で療養生活などを送っていたようです。市川はその後、花子に婦人運動への参加を勧めるなど、その後の彼女の生涯にも関わっていきます。

花子は、24歳のとき、東京銀座のキリスト教出版社である教文館に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務するようになり、このとき、福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった「村岡儆三」と出会いました(以下は敬三と表記)。

不倫の末、1919年(大正8年)、26歳で結婚し、村岡姓となりましたが、ドラマのほうでも、この夫は印刷屋の御曹司ということになっており、一致しています。ちょうど今、そのあたりのシーンをテレビで放映していますが、果たして不倫という形で描かれるのかどうかは現時点では不明です(今日の放送分を私はまだ見ていません)。

この結婚の翌年には長男をも受けましたが、この子は6歳で亡くなっています。このことが、彼女を英語児童文学の翻訳紹介の道に入らせた要因と思われ、息子を亡くした翌年、前述の片山広子の勧めにより、マーク・トウェインの”Prince and Pauper”を「王子と乞食」の邦題で翻訳し、これを平凡社から公刊して、初の翻訳家デビューを果たしました。

ちなみに、ドラマでは彼女が童話「みみずの女王」を書いたことで雑誌社の賞を貰う、というシーンがありますが、この受賞こそは架空のものと思われるものの、「みみずの女王」ほか、「たんぽぽの目」「黄金の網」という童話三作を後年著しており、若いころから童話作家としても活躍していた、というのは事実のようです。

39歳になった、1932年から1941年11月までの9年間は、NHKのラジオ番組「子供の時間」の一コーナーである、「コドモの新聞」にも出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだったといいます。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードもいくつか発売されているそうです。

花子が、モンゴメリの「赤毛のアン」の原書と出会ったのは1939年のことです。すぐにその内容に惹きこまれ翻訳を決意しますが、この2年後に日本はアメリカとの泥沼の戦争に突入していくことになります。戦争に突入していく暗い世相の中、村岡は黙々と翻訳に取り組み、開戦後も灯火管制のもとこれに励み、終戦の頃にようやく訳し終えました。

のちに、1952年に三笠書房から出版されたこの「赤毛のアン」は日本の読者にも広く受け入れられるとともに、戦後これはアニメにまでなり、多くの少女たちを魅了したのは前述のとおりです。

しかし、童話作家、少女文学の翻訳家として著名になったこともあり、第二次世界大戦中は戦争の喧伝にも利用され、大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、意図とはしていなかったかもしれませんが、戦争遂行には協力的な姿勢を取りました。

戦後は、先にも述べたとおり、市川房枝の勧めに婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力するなど、女性運動家としても活躍しました。

その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受けましたが、1968年、脳血栓で死去。満75歳でした。

2014-3717

病死した男児以外は子供に恵まれず、このため直系の子孫は存在しませんが、後に、妹・梅子の長女である、上述のみどり(1932年生)を養女としました。この妹、梅子は、おそらくドラマでは「安東かよ」と描かれている人物で、演じているのは、今年のはじめに「小さいおうち」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞した「黒木華」さんです。

この梅子の娘、みどりの娘で花子の義理の孫にあたる「村岡恵理」は、NHKドラマの原作者であると同時に、現在、東京大田区にある「赤毛のアン記念館館」の館長を務めています。

が、ホームページを見る限り、この記念館は現在どうやら休館中のようです。この記念館には花子の作品の多くが所蔵されているようですが、花子は赤毛のアンの翻訳以後も、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなどなど、モンゴメリの作品のほとんどを翻訳しています。

村岡の最後の翻訳作品となった「エミリーの求めるもの」は、彼女の没後、1969年に出版されました。その没する前年には、アメリカを訪れており、彼の地でかつての東洋英和女学院時代に知り合った外国人とも再会したかもしれません。が、残念ながらこの時すでにカナダのプリンス・エドワード島にまで行くほどの体力はなかったようです。

ちなみに、夫の村岡敬三は戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜きましたが、花子の死の5年前の1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去しています。75歳没。

この村岡敬三のお父さんは、平吉といい、戦前から聖書印刷で有名で「バイブルの村岡さん」と言われていたそうです。若いころ、上海に渡って印刷術を修め、帰国後に横浜を基盤として、聖書、讃美歌などのキリスト教書類の印刷する、「福音印刷合資会社」を設立しました。

その後、銀座に移転し、社主として活躍しましたが、敬三はこの父の事業を助け銀座進出後には同社の、銀座支店の責任者となっています。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけましたが、その後妻が結核を発病し、別居を余儀なくされました。

後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳書の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちました。花子との出逢いの当時はまだ先妻と籍を入れたままであり、妻帯者の身での禁断の恋でした。

花子との往復書簡の文面にも、彼女に対する激情と、病気に伏せる妻への愛情との葛藤が現れているといい、その数は花子との出会いから結婚までの半年間で70通以上に昇ったといいます。

2人を引き合わせるきっかけとなった花子の訳本が残っており、この本、「モーセが修学せし國」の奥付には発行人の名を挟んで「訳者 安中花子」「印刷人 村岡儆三」と2人の名前が並んでいるそうです。

その横には花子の自筆で「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」と記されているそうで、この「記念すべき日」の意味は、彼等がやりとりした手紙から、どうやら2人が初めてキスをかわした日付と推定されるそうです。

ちなみに、ドラマのほうでは二人を結びつけるきっかけになったのは、英語の辞書、あるいは、敬三に勧められて翻訳した「王子と乞食」という設定になっていますが、このあたりのことなど、事実とは微妙に時期や内容が違っています。

とまれ、二人は結婚し、東京の大森新井宿(現在の東京都大田区大森)を新居としましたが、おそらくこのころには先妻はこのころ亡くなっていたと思われます。「妻は3歩下がって夫に従う」といわれた時代にあって、結婚後も敬三と花子は2人連れ添っての外出が多かったそうで、おしどり夫婦として評判でした。

近所の人々は、当時周辺に出没していた浮浪者夫婦「おしゃれ乞食」を引き合いにだし、「この界隈で肩を並べて歩くのは「おしゃれ乞食」と村岡さんのところぐらい」と噂していたといいます。

敬三は花子の文学業の多忙さには理解を示し、資力を生かして洗濯機の購入、台所の改修などで家事の軽減を図ったそうですが、彼自身も多忙であり、1922年(大正11年)に福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継ぎいで以降は、社の拡大のために奔走し続けました。

しかし、間もなく平吉が死去したため、自身が専務取締役となり、弟の斎が常務取締役となって兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊してしまいます。

この地震では、弟の斎ががれきの下敷きになって死亡し、その悲しみを乗り越えて会社の再興をはかろうとしたところ、社の役員の裏切りに遭い、その復興もかなわなくなり、やむなく倒産に至ります。裏切りの内容はよくわかりませんが、使い込みではないでしょうか。

この地震で敬三は、先妻との間に設け、別の家へ養子にやっていた子供も失っており、経済的にも精神的にも大きな打撃を被りましたが、そんな敬三を献身的に支えたのはやはり花子でした。

こうした花子の内助の功により、印刷業での再起を志そうと決意した敬三は、1926年(大正15年)、花子の友人である片山広子や翻訳家仲間などの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業しました。

女性と子供のための本を安価に提供することを趣意とし、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版を主力として活動を再開し、1930年(昭和5年)には同社の機関誌「家庭」(後に「青蘭」に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組みました。

夫としてのみならず、英語、ドイツ語、ラテン語に通じ、キリスト教徒として聖書にも詳しかったといい、花子の翻訳家としての良き相談相手でもあり、ほんとうに仲の良い夫婦だったようです。

敬三と花子の墓地は、横浜市西区の久保山墓地にあるそうで、ここには父の平吉の墓所もあるということで、おそらく今日この頃は、NHKの朝ドラの影響でこの墓所も賑わっているのではないでしょうか。こういうことを書くとなおさら、参拝客が増えるかもしれませんが……。

ちなみに、先日の6月20日は、我々夫婦の6年目の結婚記念日でした。二人で、伊豆仁田のおしゃれなカフェでお茶をし、その後なぜか回転寿司を食べて帰ってきましたが、平凡ではあるものの幸せな一日でした。これからもモンゴメリ夫婦や村岡夫婦のように仲の良い夫婦であり続けたいと願う次第です。

2014-3715