トォース!

2014-6177修善寺から下田へ下る途中の湯ヶ島に、「明徳寺」という曹洞宗の古刹があります。

先月の末、ここでお祭りがあり、夜には花火大会なども開かれたようなのですが、残念ながら参加できませんでした。が、前々から気になっていた場所であり、先日、湯ヶ島方面に行く機会があったので、ちょっとよってみることにしました。

実は、このお寺には「便所」の神様が祀られています。便所は、古くは「東司(とうす)」とよばれており、この東司の守護神とされるのが「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」です。

寺自体は、南北朝時代末期の明徳年間に、曹洞宗の利山忠益という禅師により創建されたとされています。曹洞宗はいわゆる「禅宗」であり、伊豆では昔から曹洞宗のお寺が多かったようで、修善寺にある、「修禅寺」もまた弘法大師が開祖といわれる曹洞宗のお寺です。もっとも弘法大師は真言宗を開いた人であり、当初は真言宗のお寺でしたが。

明徳年間といえば、1390年から1393年までの期間であり、今から600年以上も前です。時は南北朝時代(室町時代)であり、将軍は足利義満。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇で、双方がいがみ合って畿内を中心としてあちこちに内乱が起こっていた時代です。

この時代の伊豆は、鎌倉幕府が瓦解後、勢力が突出していた北条氏が落ちぶれ、伊東氏や狩野氏、工藤氏や河津氏といった豪族が群雄割拠していた時代であり、これらを平定する北条早雲が現れるのは、これよりさらに100年ほどのちのことです。

この明徳寺のある湯ヶ島は、14世紀末には既に、“お湯がいたる所に湧いている”場所という記録があることから、この当時から既に湯治場として利用されていた可能性があり、伊豆の有力者も頻繁に出入りする堀越御所のあった長岡からも比較的近いことから、こうした有力者の誰かの援助でこの寺も創建されたのでしょう。

位置的には狩野氏の居城のあった狩野城も近く、狩野氏をパトロンとして創建されたというのが妥当な推理かと思われます。狩野氏はその後北条早雲によって滅ぼされましたが、その子孫たちは地方に散らばり、そのうちの狩野景信という人がその後絵師として名をはせ、以後狩野派は日本画の主流となり、日本画壇に君臨するようになりました。

これら狩野氏の一連の話は、かなり前に書いた「狩野城」というブログに詳しいので、こちらも参照してみてください。

さて、この狩野氏が援助して建てられたと思われる明徳寺に祀られている烏枢沙摩明王は、不浄なものを浄化する徳を持っているとされる「お便所の神様」です。この明王さまには「おさすり」「おまたぎ」と呼ばれる部分があります。その形状はご想像にお任せしますが、これを撫でたり跨いだりすると下半身の病気に御利益があるといわれます。

毎年8月29日に伊豆三大奇祭ともいわれる、東司祭が行われますが、これが冒頭で述べた私が見逃したお祭りです。ほかのふたつは、尻つみ祭り、どんつく祭り、といい、尻つみ祭りは、源頼朝と八重姫が逢瀬を楽しんだと言われる伊東の音無神社で行われます。

神事は真っ暗な社殿の中で行われ、お神酒を回すのに、隣の人のお尻をつまんで合図したことから、「尻つみまつり」と言われたそうで、現在では境内で、お囃子のリズムにのってお尻をぶつけ合うユーモラスな尻相撲大会が行われるそうです。

また、どんつく祭りのほうは、伊豆南東部の稲取で行われる祭りで、男性のシンボルをかたどったご神体を神輿で担ぎ、夫婦和合、子孫繁栄などの願いを込めて、ドンと突く!のだそうで、こちらはなんと弥生時代からあるお祭りだそうです。いずれのお祭りも下ネタが特徴であり、面白そうなのでいずれ機会があったら行ってみたいと思います。

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東司の烏枢沙摩明王はもともと、インド密教における明王さまで、古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神でした。天界の「火生三昧」と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす明王です。

「この世の一切の汚れを焼き尽くす」ほどの功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとされてきた火の仏です。日本に入ってきてからは意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれました。

遠い昔のこと、ある時、インドラ(帝釈天)さまは、仏が糞の臭気に弱いと知り、ちょっとしたいたずら心から仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまったといいます。

そこに烏枢沙摩明王が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出したという伝説があり、この功績により烏枢沙摩は仏様から「厠」の守護者に任命されるようになったといいます。

厠は、すなわちトイレのことです。この厠の神様ということで、当然その功徳は便所を清めてくれるということですが、また一般的には下半身の病に霊験あらたかであるとされています。

便所は不潔な場所であるゆえ、日本では古くから人々はこれを「怨霊や悪魔の出入口」と考えており、このため、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まったのでしょう。

烏枢沙摩明王はとくに曹洞宗の寺院で祀られることが多く、伊豆以外にも海雲寺(東京品川)、瑞龍寺(富山高岡市)、万願寺(千葉県)、来振寺(岐阜県)、観音正寺(滋賀県)、大龍寺(京都市)などがあります。静岡でもほかにもうひとつ、袋井市に秋葉総本殿というお寺で烏枢沙摩明王を祀っているようです。

この明王はまた、胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めることが多かった戦国時代の武将に広く信仰されてきており、「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今も伝わっています。何かと争乱の多かった伊豆でも男子が常に求められており、明徳寺でこの明王が祀られていることもこれとは無関係ではないでしょう。

ちなみに「トイレの神様」で有名になった、シンガー・ソングライターの植村花菜さんは、明徳寺でこの曲のヒット祈願をして絵馬を奉納したそうです。

便所のことをなぜ昔の人は東司といったかですが、これは元々仏教寺院における便所を守る神様のことでした。が、やがて便所の建物をさす言葉となり、曹洞宗のような禅宗寺院では古くは重要な伽藍であり、立派なものも多かったようです。通常、東司と西司の二つがあり、この伽藍を管理する寺の役職名として、「西浄」と「東浄」のふたつがありました。

が、東司や西司とされる遺構で現存しているものは少ないそうです。また二つも同じ役職があるとややこしいためか時代とともに西のほうがなくなり、「東浄」と「東司」だけが残りましたが、やがてトイレの管理者も不要ということで「東浄」という役職は消え去り、そして、トイレのことを東司とよぶ風習だけが残りました。

しかし、現在ではこの東司という言葉も使いません。ちょっと東司に行ってきます、といっても通じることはまずありません。また厠へ行く、という人もそれほど多くなく、便所、という響きもなにやら汚らしく聞こえるためか、たいていの人は「トイレ」と呼びます。

このトイレは、いわずもがなですが、大小便の排泄の用を足すための設備を備えている場所であり、悪臭を放ち周辺の環境を汚損するおそれのある汚物を衛生的に処分するための機能を持っています。

近年の日本では、施設の多くが水洗ですが、日本以外では乾燥させたり、燃焼させたり、乾燥地帯では砂を掛けて糞便を乾燥させて処分する様式も見られます。が、衛生的に処理できればその方法はなんでもいいわけです。気候・風土・生活習慣によって、求められる機能も様々であるため、世界各地には様々な便所が存在します。

不潔、不浄なイメージが強いため、日本も含め、多くの文化圏で婉曲表現が存在します。日本の「厠(かわや)」という呼び方は古く、「古事記」に既にその記載があるそうで、ただし、文字は施設の下に水を流す溝を意味する「川屋」だったようです。

時代が更に下ると、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)などと呼ぶようになり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語も使われるようになりました。

これは唐の時代の人で、正式には雪竇(せっちょう)禅師と呼ばれていたようですが、なぜこれが雪隠になったのかについては諸説あります。

ひとつは、雪竇禅師がいた中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどったという故事から、また、この霊隠寺というお寺にトイレの掃除の大好きな雪という和尚がいたため、和尚の名前の「雪」と寺の名前の「隠」をとって雪隠という言葉が生まれたという説。

さらには、これは中国由来ではなく、日本にあった雪隠寺というお寺の雪宝和尚という人がトイレで悟りをひらいたから、あるいは、上でも述べた「西浄」の読みの「せいじょう」が、「せいじん」となり、さらになまって、「「せっちん」になったという説など色々です。

また、中国ではかつて、青い椿を便所のそばに植えて覆い隠したことから、トイレを青椿(せいちん)と呼んでいたそうで、この「せいちん」がなまって「せっちん」になったという説もあります。

青い椿?ということなのですが、この当時には時に国一つが買える値段で取引され、万病にも効く薬だとされた蒼椿があったという伝説があるようで、本当にあったかどうかはわかりません。が、椿をトイレの側に植える風習があったとみえ、これを隠語で蒼椿と呼んだのでしょう。

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さらに時代が下り、昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになりました。また、「男性化粧室」と表記する施設もあるようですが、男子は化粧しませんからこの表現は少々ヘンです。戦後では「トイレ」が主流となり、Water Closet の頭文字をとって「W.C.」などが使われるようになりました。

Closetは倉庫、納戸の意味があり、水が出る小屋、というほどの意味でしょう。これももとは暗喩です。また、「トイレ」は元々「トイレット(toilet)」という英語ですが、これは「化粧室」の意味です。が、「便器」の意味もあるようなので、欧米ではあまり使いません。

日常会話では、住居において同室に設置されることが多い風呂と合わせて「Bathroom」と呼ぶことが多く、本来は「休憩室」を意味する「Rest Room」のも多いようです。あるいは「Men’s/Lady’sRroom」と婉曲的な表現が用いられることもあります。

日本語の「便所」は、「便器」とおなじく、かなり直接的な表現です。このため近年では、公衆便所を公衆トイレに変えるべきという議論をわざわざ行った自治体もあるといい、例えば東京荒川区では「便という言葉に不潔なイメージがあり、語呂も悪い」という理由で、公衆トイレに変更する条例案が区側から提出されたことがあります。

荒川区議会でこれを議論した結果、この条例案は賛成多数で可決、本会議で採決されることになったといいます。しかし、もともと「便所」という用語もまた婉曲的な表現だったということをこの議員さんたちは知っていたのでしょうか。

便所の語源は「鬢所(びんしょ)」であり、「鬢」とは頭部の左右側面の髪のことで、室町時代の貴族の家で、この鬢を整え身支度をする場所を鬢所と呼んでいたことに由来します。

また、身支度に適した便利な場所という意味から「便利所・便宜所」が変化したという説もあります。いずれの場合でも、現在使用されている「化粧室」に近い丁寧な表現だったことが理解できます。が、いつのまにやらこれもまた汚らしいイメージを持つようになってしまっており、これは、排泄物のことを「便」と呼ぶようになっためでしょう。

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古くは「糞」といっていたものを、明治時代あたりから便と呼ぶようになったようで、「便の」原義は「順調、スラスラ」ということです。他に簡便、至便などの言葉がありますが、もともとは「好都合」の意味であり、「郵便」とは好都合な伝達・通信手段の意味です。

排泄物ということで、便もまた、「スラスラ出るもの、出ると快適で好都合なもの」の婉曲表現だったものですが、時代を経るにつれて、婉曲表現としての機能を失っていき、排泄物そのものととられることが多くなり、これが便所の「便」と重なったわけです。

従って「便所」という言葉には、元々の語源である「鬢所」の意味と、「便を出す所」という二つの意味があるわけです。このように時代ごとの背景により、ふだん使いしている言葉の意味が変わっていくというのはよくあることです。

「ご丁寧」、とか、「ご立派」というのも本来は美化語ですが、最近は「ご丁寧にも」とか「ご立派なことで」とかマイナスイメージで使われることが多くなっているのと同じです。便所という言葉も時代とともに捉われ方が変わってきており、現在の「トイレ」もいずれは汚いと思われるようなり、違う表現に改められていくのかもしれません。

この便所そのものは古墳時代からもうすでにあったようで、それ以前の弥生時代の遺跡にも下水道のような構造が見られることから、遅くともこの時代には排泄専門の施設として便所が成立していたと考えられます。

「古事記」や「日本書紀」には、皇族が厠に入ったところ誰それに狙われた云々といったことが書かれているそうで、厠で暗殺された人物の記述もあるといい、さらに平安時代の貴族は「樋箱」というおまるを使用していたこともわかっています。

一方、「餓鬼草紙」といった絵巻物には、庶民が野外で糞便する光景が描かれており、このことからこのころの一般の人は便所を使用しなかったことが伺われます。しかし、のちには宮廷で主流であった穴を掘っただけの汲み取り式便所が登場するようになり、これは設置がいたって簡単であることからその後長い間日本のトイレの主流となりました。

ところが、皇族や高い身分の武士はさらに進化していました。とくに貴人の排泄物から健康状態を確認するといったことが行われたため、引き出し式トイレが普及し、これによって側人が主人の健康を管理するといったことが行われるようになりました。

が、これは身分の高い人のみの特権であり、一般にはやはり汲み取り式のトイレが普通であり、鎌倉時代~戦国時代における京都などの都市部では、各家庭に厠が付くようになりました。戦乱の時期でもあったことから、武家の家のトイレでは襲撃に備えて人が座った正面にも面に扉があったといいます。

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時代が下って江戸時代になると、とくに農村部では大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになりました。江戸、京都、大坂など人口集積地では、共同住宅の長屋などに共同便所が作られ、ここに集まるし尿を収集し商売するものが現れました。

農村部でもし尿を効率的に集めるため、母屋とは別に、独立して便所が建てられるようになりましたが、この頃のトイレは母屋の外に設けられるのが普通であり、とくに田舎ではこの形式はその後戦後まで普通でした。

民家が密集する都会では、わざわざ外にトイレを作るよりも母屋に設置したほうが効率的なので、田舎よりも早くトイレが母屋に移動するようになったと思われますが、それでも戦後すぐにはトイレ別棟は普通だったようです。

江戸時代より前の便器は大型の瓶であり、その上に大きな木枠、木の板を乗せ用を足す事が多く、また、小さな川の上に便所を設置することもあり、これが川屋と呼ばれるようになり厠の語源になった、とは上でも書きました。また琉球などにおいては中国と同じように、便所の穴の下でブタを飼い、餌として直接供給する豚便所も存在していたそうです。

大正時代から昭和にかけて、トイレ後の手洗いがそれまでの水盆式手水(ちょうず)から、軒下につるされた陶器、ブリキ、ホーロー製等の手水を使用する形式になりました。「手水」は、トイレに行くを意味する暗喩となり、これが現在も「お手水に行く」や「ご不浄」、「御手洗」等の現代にも使用される言葉として残っています。

その後、農業へのし尿の利用は廃れていきました。日本を占領した連合国軍のアメリカ軍兵士は、サラダなど野菜を生で食べる習慣があり、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由から、このし尿利用による野菜栽培を禁じました。

また、化学肥料など他の肥料の普及などからし尿の利用価値が低下し、高度経済成長期にはまったく取引は行われなくなり、このため、汲み取ったし尿は周辺の海域に投棄されることが多くなりました。しかし、国際条約によってし尿の海洋投棄が禁止されることになると、下水道の整備や浄化槽の設置が進みました。

この「下水道」に関しても歴史は古く、最古の下水が弥生時代にはや建造されていたというのは上でも述べたとおりです。安土桃山時代には豊臣秀吉によって太閤下水と呼ばれる設備が大阪城付近に造られ、現在でも使用されています。

江戸時代にもその末期には江戸の神田界隈で煉瓦や陶器を使用した下水道設備が造られたようですが、これらは1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けたため、まとまった遺構としては残っていません。その後全国で下水道の整備が進められるようになり、2014年現在では下水道普及率は約76%だそうです。

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下水道の普及とともに、トイレの便器もまた改良され、発展してきました。現在のような衛生陶器は19世紀中期にイギリスで開発され、19世紀後期にかけてアメリカで技術が確立されました。日本では幕末に、以前の木製便器を模した陶製便器の生産が始まっていましたが、無論現在のように洋式ではなく、和式が100%でした。

日本で本格的に陶器製の便器を製造し始めたのは、現在のTOTOです。日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)の製陶研究所が母体となり、1917年に東洋陶器株式会社として設立され、その後この会社を母体とする森村財閥が形成されました。

創業者は森村市左衛門といい、その義弟である大倉孫兵衛、孫兵衛の長男の長男・和親らが出資者となって作られたのが東洋陶器株式会社であり、この会社が設立されたのは現在の北九州市小倉北区にあたり、ここは当時、福岡県企救郡と呼ばれていました。

創業から1960年代までは食器も製造していました。特に瑠璃色の色付け技術を得意としており、現在のロゴマークTOTOの瑠璃色の色はこれが起源です。大倉孫兵衛の孫の大倉和親は、1903年に製陶技術の視察のために渡欧しており、この時に衛生陶器(浴槽、洗面台、便器など)の知識を得て製造に関心を持ったとされます。

その後も洋風建築の増加にともなって衛生陶器の需要が増えたことから、大倉孫兵衛・和親の私財10万円によって日本陶器社内に製陶研究所が設立され、衛生陶器製造の研究が始まりました。

そして硬質陶器質の衛生陶器を生産するため、1913年から1916年にかけて試験的に手洗器・洗面器類が6541個、水洗式の大便器が1432個、同じく小便器が1249個も試作された、という記録が残っています。

さっそくこれを販売したところ、この試験販売の結果は大変好評であり、これを受けて大倉和親は事業化を決定し、1917年に東洋陶器株式会社として正式に発足。福岡県企救郡板櫃村に約17万平方メートルの土地を購入して工場を建設しました。

この地を選んだのは、当時、日本一の石炭生産量を誇った筑豊炭田に近く、陶器製造のために必要な火力を得るための燃料の調達が容易だったためです。また、中国景徳鎮で作られる磁器の材料として有名な、「カオリン」を朝鮮半島から輸入するのにも好立地であり、また九州の天草陶石などの原料の調達にも便利でした。

さらに鹿児島本線と日豊本線の分岐に位置し、1899年に開港した門司港も近く、商品の配送に好都合であり、TOTO本社は現在もこの地に本社を構えています。

会社が発足当時は、衛生陶器の知名度自体が低かったため、大倉らは市場の拡大を目指して高所得者や旅館などのユーザー向けに衛生陶器を解説する冊子も制作しています。また、日本陶器から技術指導や素材供給などの協力を得て磁器製の食器を作りました。

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その後、第一次世界大戦によるヨーロッパの生産能力低下などから海外での需要が大きくなり、コーヒーカップ・ソーサーなどがアメリカやイギリスに輸出されました。さらに海外の販路を開拓するために低廉な硬質陶器製食器を開発し、これは東南アジアなどに出荷され、衛生陶器とともに主力商品として育っていきました。

1923年9月の関東大震災では東京出張所が焼けましたが、住宅の復興にあわせて衛生陶器や食器の需要が発生し、丸ビルへの衛生陶器の納入などによって国内向けの売上が増加し、その後も東京市で下水道の普及が進んだことから衛生陶器の需要は伸びつづけました。この時期には皇居や那須御用邸、官庁、ホテルなど様々な顧客に衛生陶器を販売しています。

食器事業では、1926年の硬質磁器製の和食器製造の成功などにより、これが国内市場の売上を拡大させましたが、1969年、住宅の近代化などにより“本業”の衛生陶器・水栓等で十分に稼げるようになったことで、食器事業から撤退。また、略称の「東陶」が浸透したことなどから、現在のTOTOロゴの使用を開始しはじめました。

現在、日本における便器生産はこのTOTO、INAX(現・LIXIL)の2社による製造が大半を占め、ジャニス工業、アサヒ衛陶、ネポンなどがこれに続いています。そのなかでも最もやはりTOTOのシェアは高く、これは約50%であり、約25%のINAXがこれに続きます。

便器は重く嵩張るため、製造コストが安い中国などの発展途上国からの輸送では引き合わず日本市場はほぼ国内メーカーで占められ、将来的にもこの傾向は変わらないとみられています。同様の理由で日本の便器が輸出されることもなく、需要地での現地生産が主なものとなっています。

日本の便器メーカーは海外でも積極的に販売を行っており、現在最も日本のメーカーの便器が販売されている国は中国で、TOTOだけで毎年100万台以上販売されるといいます。

近年では、温水洗浄便座の普及によりパナソニック電工(現・パナソニック)、東芝、日立アプライアンス等、家電品メーカーの参入が盛んですが、これらのメーカーは焼き物の製造は出来ず「便座」部分への参入に留まっています。しかし最近ではパナソニックが樹脂製や有機ガラス系の便器を開発しシェアを伸ばしていてきています。

逆に便器のトップシェア2社は、エレクトロニクス制御技術や陶器以外の新素材導入では家電品メーカーに水を空けられており、温水洗浄便座では苦戦しています。

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この温水洗浄便座も現在の日本のトイレを語る上においては無視できない存在です。洋風便器に設置して温水によって肛門を洗浄する機能を持った便座であり、「ウォシュレット」や「シャワートイレ」などと誰もが呼びます。が、ウォシュレットはそもそもTOTO、シャワートイレはINAX(LIXIL)の商標です。

日本ではこの温水洗浄便座を装備した便器が増加しており、現在の普及率は80%に迫る勢いです。内閣府の消費動向調査によると日本における温水洗浄便座の世帯普及率は1992年には約14%だったものが2000年には約41%、2008年には約68%、2010年には71.3%に達しています。最新の統計ではおそらくほぼ80%くらいではないでしょうか。

ところが、最近、温水洗浄便座による火災や感電、漏水などの事故がしばしば起きており、これは、長年使用していることによる老朽化が一因とされるものが多いようです。温水洗浄便座は電化製品の一つとして、メーカーおよび業界団体では10年以上使用している製品については点検や取替えを勧める告知をしています。

また、ある研究グループが一般住宅や公共施設の温水洗浄便座の洗浄水を検査したところ、洗浄水から厚生労働省の水道水質基準を超える一般細菌が検出されたといい、ノズルの先端やすき間から細菌が侵入し、タンク内の温水で増殖したのが原因と指摘しました。

これに対して業界団体の温水洗浄便座協議会は、「これまで約4000万台が生産されているが、感染症などの健康被害は一件も報告されていない。タンクに水が逆流することは構造上ありえず、タンク内で菌が繁殖する危険性は低い。研究ではノズルにもともと付着していた汚物から菌が検出されたのではないか」と疑問を呈しました。

が、タンク内の水道水に含まれる塩素が揮発され、菌に適した環境下になりやすいことから、長期間使わないトイレの洗浄便座を使うときには注意するにこしたことはありません。

ところで、温水洗浄便座は日本人が発明したと思っている人も多いでしょうが、実はアメリカで医療・福祉用に開発されたものが最初です。

日本では1964年に前述の東洋陶器がアメリカンビデ社(米)の「ウォシュエアシート」を輸入販売開始したのが始まりとされます。その後、ライバルのINAXも1967年に国産初の温水洗浄便座付洋風便器「サニタリーナ61」を発売、TOTOも1969年に国産化に踏み切りました。

ただ、初期のこれら商品は温水の温度調節が難しかったことから温水の温度が安定せず、火傷を負う利用者もいたほか、価格も高く普及は程遠いものでした。70年代以前はまだ和風便器も多く採用されており、下水道の普及も進んでいなかったのが不振の一因です。

しかし、TOTOはあきらめず、独自に開発を進めてゆき、1980年、「ウォシュレット」の名称で新たな温水洗浄便座を発売しました。このウォシュレットでは温水の温度調節、着座センサーの採用、さらにビデ機能の搭載などが盛り込まれ改良が年々進みました。

やがて日本人の清潔志向の高まりとTOTOの積極的なCM展開が普及へと繋がることになります。1982年には当時話題を集めていた女性タレント、戸川純を起用したCMで流された「おしりだって、洗ってほしい」のキャッチコピーが話題になりました。

ところが初回のこのCMの放映時間がゴールデンタイムであったため、視聴者からは「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便器の宣伝とは何だ」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されました。

しかし、このCMはこの批判を乗り越えるだけのインパクトがあり、これをきっかけにウォシュレットの販売は順調に伸びていきました。1980年代半ばには伊奈製陶が「サニタリーナ」に代わって「シャワートイレ」の名称を前面に出すようになり、また松下電工(現:パナソニック)を始めに家電メーカーも参入しはじめました。

1990年代には日本の新築住宅で多くが温水洗浄便座を採用することになり、さらにオフィスビルや商業施設、ホテルといったパブリック用途にも採用が広がり、2000年代には住宅/パブリック問わず採用されるのが一般的となってきています。

さらに鉄道駅、鉄道車両のような不特定多数の利用がある場所でも、採用例が出てきたほか、和歌山県は2013年に県内全公衆トイレに温水洗浄便座を設置する計画を発表しました。

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一方、温水洗浄便座における世界のシェアは大部分は日本の企業ですが、海外ではその普及度といえばまだまだけっして高くなく、どこの先進国でも数%にも満たないようです。これはアメリカやヨーロッパなどではコンセントが便所に無いことが原因のようです。

しかし、最近では特に中国の富裕層に人気で、お金持ちの家を訪ねると結構な確率で見かけるようになっています。成田空港や秋葉原で温水洗浄便座の取り付けキットを抱える中国人や他のアジア人の姿も多く見かけられるようになっており、使った事のある外国人の口コミが広がっているようです。

温水洗浄便座の先駆け、TOTOもまたホテルや日本料理店に温水洗浄便座を置いてもらい、「口コミ」を狙っているといい、イギリスではかなりの話題になってきているといいます。

英大衆紙デーリー・エクスプレスは「未来型トイレ」との見出しで、「便座が温かくなり、紙がいらない文明の利器」と絶賛。実際に使用した英紙ガーディアンの記者も「これまでの人生で最高のトイレ経験」と感想を述べたといいます。

温水洗浄便座を設置したロンドンの和食レストラン「幸(さき)」には英メディアや顧客からの問い合わせが相次いでいるそうで、トイレだけをのぞきに来る人も多いといいますが、
英国の一般家庭で利用されているのは、まだわずか200台ほどで、レストランなどの店舗や公共施設では、この幸が初めてだったといいます。

しかし確実に、日本製の温水洗浄便座はシェアを拡げつつあるようで、アメリカでもセレブや芸能に関する情報誌「IN TOUCH WEEKLY」の電子版で、俳優のレオナルド・ディカプリオさんが最近ハリウッドヒルズにある自宅を改築した際、トイレはTOTOの最高級トイレを購入したと報じました。

彼は、「便座が暖かく、ウォシュレット機能付き。トイレは自動で蓋が開閉し、水も自動で流れ便器を清浄。リモコンも付いている。水も節約できる」と絶賛しているそうで、同紙も、「環境に気を使う彼だからこそこのトイレを選んだ」と書いているそうです。

TOTO広報によると、初めて日本に旅行に来た外国人がホテルに泊まった際に、特に感激するのがウォシュレットなのだといい、ディカプリオ以外にもマドンナや、ウィル・スミスなどの著名人も使って驚き、テレビのインタビューなどで絶賛したのは有名な話です。

いいものは必ず売れます。日本が温水便座の輸出大国になる日がいつか来ることでしょう。最近海外へ旅行することがめっきり少なくなった私ですが、次回渡航することがあれば、その国で日本製のウォッシュレットが使えるよう願いつつ今日の項は終えたいと思います。

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