犬神はお好き?

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今日は、アメリカ合衆国元大統領のロナルド・レーガンが、1980年の大統領選で初当選した日だそうです。

今からもう35年も前のことであり、当のレーガンさんは既に2004年に満93歳で亡くなっています。

69歳で大統領に選出されたというのは、アメリカの大統領としては最年長記録であり、また元俳優という経歴もその当時話題を呼びました。

歴代の大統領の中では、唯一の離婚歴を有する人物でもありましたが、大統領になる28年前に同業の女優、ナンシー・デイビスと再婚しており、この夫人もまた、反麻薬キャンペーンの支援などで大変評価の高い人でした。

レーガン大統領の功績といえば、やはり第1期目において「レーガノミックス」を実行し、大幅減税と積極的財政政策によって、アメリカ経済の回復をもたらしたことでしょう。外交面では強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象づけました。

2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、このレーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、デタント(緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判したことで、国民の熱狂的な支持を得ました。

「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などと密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援しました。

この強気の外交政策は、ソ連の解体とベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献したと評価されています。大統領退任から5年後、最晩年はアルツハイマー病を患ったことを公表して話題になりましたが、2004年6月5日、ロサンゼルスの自宅で療養中に肺炎のため死去。

亡くなった時、歴代アメリカ大統領のなかで最長寿でしたが、その後2006年12月にフェラルド・フォード元大統領が93歳165日で死去したため、歴代2番目の長寿となりました。その葬儀は死後6日後にワシントンD.C.で盛大に執り行われましたが、これはリンドン・ジョンソン元大統領以来の国葬でした。

このように歴史に残る大統領として評価の高いレーガンですが、その船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものでした。

大統領就任から69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、ジョン・ヒンクリーという精神的に不安定だった男によって狙撃されました。

3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいたブレイディ大統領報道官とシークレットサービス、ワシントン市警警官の三人が被弾してその場に倒れました。シークレットサービスと警官は軽傷でしたが、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受けたために、一命こそ取りとめたものの回復不能な障害が残りました。

大統領も肺に被弾しており、救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどでした。それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いたといいます。

執刀外科医は民主党員でしたが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせたといいます。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものでしたが一命をとりとめ、70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後には退院しました。

レーガンは入院中にも妻のナンシーに「(弾を)避けるのを忘れてたよ」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けました。その後公務復帰後の演説中に会場の飾りつけ風船が破裂するという事故があり、場内が一時騒然となりましたが、このときもレーガンは「奴は、またしくじったよ」とジョークを言い、会場は爆笑と大拍手に包まれたといいます。

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この復活により、レーガンは在職中に銃撃されながら死を免れた最初の大統領となりました。アメリカ大統領には、いわゆる「テカムセの呪い」というものがあり、これは「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」というもので、1980年に行われた大統領選挙で現職のカーター大統領を破って当選したレーガンもその該当者でした。

この呪いは、部族の領土を白人に奪われ、1811年にティピカヌーの戦いでウィリアム・ハリソンに殺されたインディアン部族、ショーニー族の酋長テカムセによるものとされるもので、20年ごとに選ばれる大統領の死を呪ったものといわれていました。

しかし、そのジンクスもついに破れ、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降続いていた呪いにも終止符が打たれました。

その後、2000年に選出されたジョージ・W・ブッシュも、2期目の2005年5月10日にグルジアで演説中に手投げ弾を投げ込まれるという事件に遭遇しました。しかし爆弾は不発に終わり、その後も2期8年の大統領職を任期を全うして現在も存命中です。

次は2020年の大統領選で当選する大統領がこの呪いのターゲットということになりますが、来年行われる2016年の大統領選では人気の高いヒラリー・クリントンが大統領となる可能性があります。この場合、次の2020年にも再選される可能性もあり、今度は彼女にお鉢が回ってくるということになりますが、テカムセの呪いは果たして女性にも有効でしょうか。

このテカムセの呪いを退けたブッシュ元大統領ですが、その任期中にはほかにもその身が危険にさらされるといったことがありました。一度目は2002年にプレッツェルを食べている最中に失神したというもので、大統領はこの菓子をのどに詰まらせて、窒息する可能性がありました。が、こん倒し顔に傷を負っただけで無事でした。

この時、アメリカの風刺漫画家はこぞって「新手のテロか?」などと描き立て、新聞各紙に大量に掲載されました。当時イラク派兵に関してアメリカと反目していたフランスの市民から、皮肉とエスプリを込めてブッシュにプレッツェルが贈られる、という「事件」もあったようです。

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2度目が上の爆弾騒ぎですが、3度目があり、これは任期満了直前にイラク人記者に靴を投げつけられる、というもので、いわゆる「ブッシュの靴」と呼ばれる事件です。

靴を投げつけたのは、ムンタゼル・アル=ザイディというイラク人の記者でした。このときブッシュは2回靴による攻撃を受けましたが、その2回ともかわして無事でした。しかもその後のインタビューでは「靴のサイズはたしか28センチだった」などと余裕を見せました。

なぜ靴だったのか、ということですが、他人の体や頭に靴をぶつけたり、靴を履いた足で踏みつける行為はイスラム世界では最大級の侮辱行為とされているためです。この当時はイラク問題が大きな国際問題になっている時期であり、この靴投げ事件をきっかけに、同様の抗議行動が頻発しました。

2009年2月に、イギリスのケンブリッジ大学を訪問していた中華人民共和国国務院総理の温家宝が、同学の学生によって靴を投げつけられるという摸倣の事件に遭ったほか、同年同じ月にインドネシアを訪問した、ヒラリー・クリントン国務長官に抗議するイスラム教徒の学生らがヒラリーの写真に約50足の靴を投げつけています。

そのほか、イタリアのベルルスコーニ首相が土産物の置物を暴漢に投げつけられるという事件や、オーストラリアの視聴者参加討論番組に出演したジョン・ハワード元首相が、参加者の一人から「イラクで死んだ人々からのお返しだ!」と叫びながら、靴を投げられたという事件もありました。

ブッシュ大統領に靴が投げつけられた同じ年の12月には、靴を投げた当人のムンタゼル・アル=ザイディ自身がパリで記者会見中に、ブッシュ支持のイラク人から靴を投げつけられるという事件もありましたが、ザイディもブッシュ同様に靴をかわすことができました。

このザイディ記者が投げつけた靴は、その後トルコの靴メーカー、バイダン社が製造するものであったことがわかりました。その後同社へはこの靴への注文も殺到したといい、これを受けてバイダン社はこの靴に「バイバイ・ブッシュ」という商品名をつけ、商標登録しました。

同じタイプの靴はそれ以前には年間4万足程度の生産量だったそうですが、事件後10日あまりで37万足もの注文が殺到し、これに乗じようと偽物造りの大国として有名な中国のメーカーが「ブッシュの靴」の製造元であると名乗りを上げたそうです。

このように、アラブ世界では、靴で人を踏みつける・靴を投げつける・靴で叩くことは、その人に対する最大の侮辱・屈辱行為に当たり、人だけでなくその人を表す絵画や写真や銅像などでもこれは同様です。アラブ世界でのデモ行進では、靴を掲げたり、人の顔のイラストの隣に靴を描くことで、政権への嫌悪感を抱くイメージ付けをしています。

湾岸戦争の後、イラクのバグダッドにあるアル・ラシードホテル入口には上のジョージ・・ブッシュ大統領のモザイク画が踏み絵となるように描かれていたといいます。ただ、この絵はイラク戦争後は米軍によりサダム・フセインのモザイク画に置き換えられたそうです。

このほかにも、フセイン元大統領の失脚後、彼の故郷であるイラク北部のティクリートに高さ約3メートル、重量は約1.5トンに及ぶブッシュの靴の銅像が設立される、ということがあったそうですが、その後これはすぐにイラク新政府の要請で撤去されています。

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日本でも、これ以前の1991年に当時の海部俊樹首相が、国会で演説中に、湾岸戦争に反対する過激派から靴を投げつけられる、という事件がありました。が、これはアラブ世界の風習とは全く関係がありません。

日本においても、ときにこの靴という西洋から入ってきた履物が嫌われる場合があります。例えば靴を脱いで入ることを前提とした日本の家屋では、家人の同意を得ずに靴(草鞋や草履であっても)のまま入る事は絶対意的なタブーです。

靴を脱ぐべき事を意味する段差が設けられた家に「上がる」)土足で家を汚すことは、家人に掃除の手間をかけさせるだけでなく、その家の尊厳に対する挑戦的な行為とみなされているわけであり、転じて「土足で上がる」という比喩ができました。

これは攻撃的で敵対的なニュアンスをあらわしており、例えば「心に土足で上がり込む」というのは人の尊厳を否定するような意味になり、「土足で踏みにじった」となるとその人の尊厳を傷つけたような意味になります。

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逆に西洋では、靴を履くというのは身だしなみの一種であり、いたずらに靴を脱ぐことはマナーとして好ましくないとされ、逆にそれを脱ぎ去ることは「乱れ」とされがちです。

このため、西洋の家では玄関ドアは必ず「内開き」になっており、これは靴を履いたまま家の中に入る風習が定着しているからです。ホテルなどもこの西洋の形式を踏襲しているため客室の扉は全て内開きです。

また、靴を履いたままベッドに寝転がってもシーツが汚れない用に、帯の様な一枚の長い布、「フットスロー」が足元に置かれることもあります。日本のホテルでは省略されることの多いこのフットスローですが、海外のちゃんとしたホテルではたいてい備えてあります。

ところが日本などの靴を脱がずに上がる文化圏の扉は必ず「内開き」となっており、さらに客宅で脱いだ靴は玄関の端に寄せるのがマナーとされます。その理由は玄関の真ん中の部分は家主が使用するスペースであり、他人である訪問者がそのスペースを奪ってはならない、とされるためです。

一方、日本語には、「足元を見る」という言葉があります。これは旅人の足袋や草履を見て宿泊客の経済力や地位を見る様子から転じた慣用句です。従って同じ履物でも上下の差があるということです。と同時に、この履物を作ることを生業としていた業種の人間は昔から身分が低いもの、とみなされていました。

欧米においても、「靴磨き」を生業とする人々は底辺社会・貧困社会のステレオタイプ的な存在です。これは主に貧しい少年達が露天商として営むことが多かったことに加え、靴磨き作業中は客から常に上から見下ろされる構図であることに起因します。

このため「自分の靴を磨かない」つまりいつも靴を他人に磨かせる人種は身分が高く、このため靴を磨かせる、という行為はその昔からブルジョワジーや権力者の象徴とみなされてきました。

日本の場合、こうした履物造りは、穢多・非人の職業とされていました。穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつです。仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称であり、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る節もあります。

穢多と非人の違いですが、一般的には士農工商穢多非人と書かれ、非人のほうが穢多よりも下とみなされることが多いようです。が、江戸期における身分制度上はこれは逆です。なぜかといえば、非人というのは、不義密通した者、近親相姦をした者、心中をして生き残った者、といった罪人のことであり、こうした連中が刑罰として非人にされたものです。

非人ということは平民としての籍が無いということであり、このため長年その立場に甘んじて罪が許されたとした場合、金を払えばまた元の平民に戻れる可能性があります。ところが、穢多の場合は平民にはなれません。このため元町民や農民だった非人はいるものの、穢多の場合は一生涯穢多のまま、ということになります。

しかし、一般的には見て見分けがつくわけではなく、公称では穢多と同一視されて呼ばれ、身分上でも非人、とされて同じ者たちとみなされることが多かったようです。

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この穢多の起源については、色々な説があるようですが、その原形は奈良時代にはすでに存在していたようです。鎌倉時代の書物にも、京都四条河原に出て肉食しようとした天狗を穢多童子が捕らえて首をねじり殺したといった記述があります。

その当時から、既に肉を扱い鳥を捕る、卑しいものとして扱われてていたようで「穢多のきもきり(肝切)」と呼ばれて天狗に恐れられるほどの存在でした。その反面、ときには神として崇められる天狗とは異なり、卑賤な者として差別の対象になっていたようです。

ただ、この当時の差別はまだ緩やかであり、しかも戦国時代には皮革は鎧や馬具の主材料でした。この皮革を整えて上納する、というのはひとつの軍需産業であり、れっきとした職業として保護されていました。

この皮づくりはどうやら京以西の西国でさかんだったようで、東日本にはこうした職業がなかったことから、東国の大名の中には自分の領国にわざわざ穢多に従事する者を呼び寄せて定住させ、皮革生産に当たらせていたようです。

ところが、江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じました。このため皮革原料として、斃死、すなわち労働作業中や病気で死んだ国内産の牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理は厳しく統制されるとともに、各農村にこうした職人が配置されて皮革原料の獲得に当たることになりました。

しかし、なにぶん死んだ動物を扱う職業であり、一般市民からは卑しい職業に携わる者、と馬鹿にされていました。日本では殺生を嫌う仏教と、血を穢れとして嫌う神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があったためです。

このため、穢多たちが居住していたのも村外れや川の側など、農業に適さない場所がかったようです。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い、離れた場所に住まわせられたわけです。

川の側に住んでいたため、当初は「かわた」とも呼ばれていました。やがてこれが、「えた」に変化し、卑称として定着化していったといわれています。江戸期に入り、幕府はこうした穢多・非人身分の頭領として、「弾左衛門」という穢多にその支配権を与えました。

身分が低いため、苗字はなく、当初は、穢多頭弾左衛門、もしくは長吏頭弾左衛門、あるいは浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれていました。が、その後穢多・非人身分の支配により金を蓄えて豊かになると、幕府への献金により「矢野弾左衛門」と自称するのを許されるようになりました。

皮革の製造加工は身分の上の非人が独占していましたが、幕府から権利を得てその製造を独占していたのは穢多のほうであり、このためその頭の矢野弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、大尽旗本並みの格式と10万石の大名並みの財力を得ていました。

やがては、武士や商人への金貸し業にも手を染めるようになり、井原西鶴は「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と書いており、これはすなわち、人が知らないと思って穢多ごときに媚びへつらっていると、こうした武士や商人を軽蔑したことばです。

一方、こうした皮革製造に携わって甘い汁を吸えた穢多はごく一部であり、多くの穢多は刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人など)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売などを扱っていました。

また、筬(おさ)と呼ばれる高度な専門的技術を要する織機の部品なども製造販売なども行っていました。これは、織物の縦糸をそろえ横糸を押し詰めて織り目を整えるための、織機の付属具で、金属または竹の細い板をくしの歯のように並べて、長方形のわくに入れたものです。

そのほか、竹細工の製造販売などを行う穢多非人もおり、このように彼等は多様な職業を家業として独占していました。

ただ、穢多非人身分とそれ以外では火の貸し借りができない、下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あり、居住地が地図に表示されないなどの差別も受けていました。

もっとも豊かな穢多の集落では、田畑を農民同様に耕し年貢も納めている例もありました。また、穢多たちは江戸時代を通じて彼等に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられています。

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ところが、明治時代になると、いわゆる身分解放令が発令され、これにより、穢多の公称、非人身分は廃止されました。

彼らにすればようやく身分を得ることができたわけですが、かたや死牛馬取得権、職業の独占も失うところとなり、このため経済的困窮に陥った例が多かったようです。またこの解放令と同時に地租改正、徴兵令、学制が布かれ、また村請制度が廃止されたことなどにより彼等は居場所を失うとともに、国家の事業に強制的に従わされる羽目になりました。

一方、彼等に汚い仕事をさせていた士農工商身分は、自らがその仕事をやらなければなくなるとともに、重要な労働力を失うこととなりました。このため、この解放令は当時の民衆から強い反発を受け、その中で各地で明治政府への反対運動もおこりました。

当然その矛先は明治政府に向けられるべきものでしたが、無知な民衆の中には、逆に「解放」の名のもとに穢多非人が自由になったために、こうした事態に陥ったのだと勘違いし、当時の俗称で、「穢多狩り」と言われるような集団リンチ暴行事件をたびたび起こすようになりました。

元々あった穢多非人への差別意識に加え、こうした強い反発を背景に、身分解放令による法的な差別解消後も、こうした元非人身分の者に対する偏見や差別は長く残りました。これがいわゆる「部落問題」であり、現在の日本においても根強く現存する人権問題、利権問題、社会問題です。

「部落」は本来「集落」の意味ですが、歴史的にエタ村と呼ばれてきた集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別部落を略した呼び名として定着したものとされます。

その定義や歴史を論じるだけでも長くなるのでもうやめますが、部落の生活は不潔であるとか、非衛生的である、彼らはとかく猜疑心に富んで穢多根性なるものがある、貯蓄心がなくていつまでも貧乏である、犯罪者が多くとかく団結して社会に反抗しようとする傾きがあるなどなど、根拠もない差別が延々と現代に至るまで行なわれてきました。

被差別部落の数や部落問題の認知度については地域較差があり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んです。が、関東以北では現存する被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にあります。また北海道や南西諸島には、この項で扱う種類の被差別部落は存在しません。

また、北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も差別用語の認識はないようです。

これは、東北地方では戦国時代などでも雪が多く、冬には食糧を生産することが困難なため冬を越すためには地域による助け合いが必要不可欠であり、部落差別をする余裕すらなかったためです。その反面、地域の助け合いを行わない・働かない者は排除され、地域的な差別こそないものの、家主が非協力的な態度であれば、周囲からも援助を得られまん。

また、北陸地方でも部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因といわれます。浄土真宗では穢多などの被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生こそ、阿弥陀如来にすがることで救われるべきだという「悪人正機説」に基づき、被差別民の救済意識が高く、代々の指導者も彼等の救済の必要性を説いていました。

このほか、四国地方では、婚姻などにおいてはそれぞれの家系で家筋が調べられ、「犬神」の有無を確かめるのが習わしとされ、これが部落問題と結びついて問題になる場合も少なくありませんでした。

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犬神というのは、狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物のことで、犬神信仰の形跡は、四国だけでなく、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在しています。

元々は平安時代に発祥した呪術に端を発しており、これは蠱術(こじゅつ)と呼ばれ、特定の動物の霊を使役する呪詛でした。飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う、というものです。

また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつくといいます。これを焼いて骨とし、器に入れて祀ると、その魂は永久にその人に憑き、願望を成就させるとされます。

こうして生み出された犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕の中に飼われているとされ、他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすいといいます。

これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われ、人の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいいます。

犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものといわれます。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者でしたが、畏敬と信頼を得ると同時にやはり動物を殺すというところが忌み嫌われたため、被差別民として扱われていました。

犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがないともいわれます。このため一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うわけです。犬神が多いとされる四国では、結婚話が持ち上がるたびにその相手の家に犬神が憑いているかどうかを確かめるのが習慣となり、これが部落問題と結びついて問題になることが多々ありました。

このように、犬神は一般には、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合が多いようです。確認はしていませんが、映画にもなった横溝正史原作の「犬神家の一族」も、元々はこうした疫病神としての犬神一族の伝承をモチーフに製作された作品でしょう。

しかし一方では犬神持ちの家は富み栄えるとされており、こうした犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどにはすぐに家を出て行って他人に憑き、これによって望むものをその家にもたらしてくれるとされます。

愛媛県の小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ犬神がおり、家族が増えるたびにこの福の神の犬神の数も増えるといいます。ただし、この犬神様はいつも憑き主の言うことを聞いてくれるとは限らず、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったといいます。

しかし、富をもたらしてくれる犬神様なら憑いてほしい、と思う人も多いでしょう。オレオレ詐欺に代表される詐欺事件などが幅を利かせるような時代ですから、自分の欲しいものが手に入るなら、犬の神様と同化してでも、それを成し遂げたい、とするような輩もいるに違いありません。

とはいえ、やはり犬神は犬神であり、本来は忌み嫌われ者です。そんなモノに憑りつかれたいと考えるような奴らには、既に犬神が取付いているのかもしれません。また、詐欺師でなくても、最近、喜怒哀楽が激しく情緒不安定、もしくは妙に嫉妬深くなった人、そうあなたも、もしかしたら犬神に憑りつかれているのかもしれません。

最近飼いイヌや飼いネコが、やたらに自分に向かって吠えてくる、唸るという人はその心配をしたほうがいいかも。一度神社へ行ってお祓いをしてもらってみてください。

もっとも富だけをもたらしてくれるイヌ神ならありがたいかもしれません。ただ、おそらく最近カネとはとんと縁がない私には憑いていないことは確かです。

ネコ好きの私としては、猫神様が憑いていてくれるとありがたいのですが、はたしてそのネコは招き猫でしょうか、それとも化け猫でしょうか……

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ネオ・ファウスト

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11月になりました。

もう既に何度も書いているように、今年はまだこれといって何を成し遂げたでもなく、不完全燃焼感がずっと続いているのですが、あともう2ヵ月ともなると、あはははは、と笑って開き直るしかしょうがないな、という気分にもなってきます。

ま、深まる秋を満喫しながら、ケセラセラで今年残りの日々を過ごすか、と考えたりもしています。明日は休日だし、何も考えずにぶらりと散歩など出かけると、良い気分転換になるかもしれません。

その11月3日は文化の日です。しかし、そもそもなんで文化の日なのかな、と改めて調べてみたところ、これは日本国憲法が公布された日であり、憲法記念日でもあるようです。

しかし、憲法記念日は別にあり、これは5月3日です。1947年(昭和22年)のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念して作られた休日です。

つまり、11月3日は憲法が「公布」された日であり、5月3日は「施行」された日です。その違いは、公布は、成立した法令の内容を広く一般に周知させるため公示する、つまり広く人々に知らしめるという行為であり、施行は、成立した法令を発効させること、すなわち法的に有効になることです。

憲法が公布されたのは、1946年(昭和21年)の11月3日であり、施行されたのは、その6ヵ月後の1947年(昭和22年)の5月3日です。おそらくは、発布から半年後に正式に施行になる、という取り決めのもとに憲法の公布が国会で認められたためでしょう。

ところが、この憲法発布はもともと11月1日の予定であったといいます。ところが、GHQ側が、その日だけは絶対にだめだと主張したのだそうです。その理由は、その半年後の5月1日は、メーデーと重なるためでした。

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年のメーデー、5月1日には、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれました。これは別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」と呼ばれました。

全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まりましたが、5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入るという騒ぎに発展し、さらに同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、「民主人民政府の樹立」が決議されるなどの混乱が生まれました。

これを見たGHQは、翌年のメーデーもまた同じ騒動に発展するのを恐れたのでしょう。その後憲法の発布を11月1日に予定していたものの、強引に11月3日にしろ、と日本政府に働きかけました。

参議院の議員たちは反対したようですが、衆議院のほうで11月3日に同意してしまい、結局押し切られてしまいます。このため半年後の5月3日が憲法の施行日となり、と同時に自動的にこの日が憲法記念日となりました。

反対した参議院側は衆議院からもGHQからもつんぼさじきにされて孤立する事態になりましたが、このときどうやら、GHQ側から、変更案に賛成するなら何等かの恩恵を与えてやる、という提案があったようです。

その内容は、賛成するなら5月3日の憲法記念日とは別途、11月3日も何等かの記念日にしてやってもいい、ということだったらしく、記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたようです。

こうして11月3日は「文化の日」と呼ばれることになりましたが、これは憲法が施行された翌年の昭和23年の「国民の祝日に関する法律」、いわゆる「祝日法」の中で定められました。その条文によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としており、日本国憲法が平和とともに「文化を重視している」ことを設立の理由としています。

ちなみにこの法律は、公布も施行も同年に行われており、この年以来、毎年11月3日は「文化の日」と定められるようになりました。

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このように現在までにわれわれは普通に文化の日、文化の日といっていますが、本来は文化などとはまるで関係なく、政治の混乱を避けるためにこの日が設けられたようなものです。

そんなもん、喜んでいてどうするんじゃぁ~と、ひねくれた国民の一部は騒ぎ出しそうですが、その後この文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催される、皇居で文化勲章の親授式が行われるなどの、既成事実が年々、着々と積まれていきました。

博物館の中にはこの日を入館料を無料にしたり、様々な催し物を開催する所も出てくるようになり、日本武道館で全日本剣道選手権大会が開催され、NHKで生放送されます。

また、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名であり、それゆえにその昔は、この日に秋の大運動会が行われる学校も多かったようです。ただ、最近は年末に行事が重なるのを嫌がる学校が多く、運動会も春先に持ってくることが多くなりましたが。

こうして元々政治の混乱からスタートした文化の日は、いまではすっかり国民に定着しました。同じく11月3日を何等かの文化記念日に制定する企業なども増え、たとえば、日本レコード協会(RIAJ)は、「レコードは文化財」としてこの日を「レコードの日」として制定しています。

また、東京都文具事務用品商業組合等が「文具と文化は歴史的にみて同義」という、わけのわからん論理で、この日を「文具の日」として制定しています。このほかにも、日本漫画家協会と出版社5社が「漫画を文化として認知してもらいたい」としてこの日を「まんがの日」として制定しています。

ここまで定着してしまった文化の日を私も別段批判するつもりはありませんが、そもそも物事の意味も知らないで騒ぐ、というのは長いものにはすぐ巻かれる癖のある日本人にはありがちなことであり、改めてしかるべき習慣かと思います。

最近通過した戦争法案に対しても、時代の流れ容認してしまうような気運が出てこないとも限りません。先日のニュース番組でもやっていましたが、最近の日本では沖縄の例もあるように、反対意見をすぐに丸め込んでしまうような風潮が蔓延しているような気がします。

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ところで、この11月3日がまんがの日、というのはどれぐらいの人が認知しているでしょうか。おそらくは、ほとんどの人が知らないのではないかと思うのですが、いまや日本が世界に誇る文化ともいわれる「漫画」というものを知らない日本人は逆にほとんどいないでしょう。

「漫画」は英語では、”comic”となり、これは”cartoon”とともに明治時代に輸入されました。その日本語訳を「漫画」としたのは、は明治から昭和にかけて活躍した元日本画家の北澤楽天や明治期の錦絵師、今泉一瓢だといわれており、両者ともその後「漫画家」と呼ばれるようになりました。

今泉一瓢福澤諭吉の義理の甥(諭吉の妻・錦の姉・今泉釖の長男)にあたり、諭吉は秀太郎に絵画の才能があることを見抜き、石版や写真術を学ぶための留学を手助けしたりしました。時事新報社で諷刺画を担当し、大きな足跡を残しましたが、病弱だったために1902年(明治35年)には北澤楽天に漫画担当を譲り、40歳で早世しました。

その北澤は、元々は代々紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役という格式高い家柄の出であり、楽天はその13代目にあたります。楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルでした。政治漫画家として本国では活躍していましたが、来日後も日本の出版社から風刺画を描いて収入を得ていました。

北澤も幼少のころから実家で日本画の手ほどきなどを得ていたようですが、1895年、楽天の風刺漫画家としての才能に目を付けた福澤諭吉の紹介により、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社します。そこで同紙の漫画欄を担当していたナンキベルと知り合い、彼から欧米漫画の技術を学びました。

ナンキベルが日本を去った後にはその後継者として同紙の漫画を担当するようになりましたが、1905年に発売されたB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌「東京パック」は日本発の漫画雑誌といわれています。

日本国内のみならず、朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売されましたが、その内容は、もっぱら政府や警察などの国家権力への風刺を扱ったものでした。

その後楽天は1915年には、日本最初の漫画家団体である東京漫画会(後の日本漫画会)の創立にも参加しており、多くの漫画史研究家より楽天は「日本の近代漫画の祖」と見なされています。

また、楽天は日本で最初の職業漫画家でもあったともいえ、第二次世界大戦前に発行された彼の「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に大きな影響を与えたとされます。

この手塚治虫のことを知らない日本人もまたいないでしょう。没後26年を経た現在でも手塚治虫といえば漫画の代名詞のように扱われており、今も昔も「漫画の神様」として慕われています。

多作の漫画家としても知られ、いったいどれくらいの漫画を残したのか調べてみたところ、総数は604作とのことで、その内分けは少年向け341作、少女向け36作、大人向け110作、低年齢向け32作、絵本39作、4コマ漫画17作、1コマ漫画29作に及びます。

細かいシリーズなどを入れると700タイトル以上といわれ、原稿枚数15万枚分といわれます。この他に出版はされていませんが、終戦(1945年)までに描いた漫画の原稿は約3000枚に及ぶといい、さらにテレビや映画などで手がけたアニメーション作品数は70作品もあります。

伝説の人という印象であり、いまさらその伝記を書くつもりもありません。が、概略を書いておきましょう。

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大阪生まれで大阪育ち、お父さんはその当時めずらしい前衛写真家でした。手塚粲(ゆたか)といい、1900年(明治33年)東京に生まれ、住友伸銅鋼管(のちの住友金属工業)に勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属して写真家として活動しました。

その手塚粲の父、手塚治虫の祖父は、手塚太郎といい明治時代には司法官を勤める高官でした。さらにその父、手塚治虫の曽祖父は医師で、こちらは手塚良仙といいました。大沢たかお、綾瀬はるかの主演で人気を博したテレビドラマ「仁」にも出てきた人物で、緒方洪庵の適塾に入門して、ここで医学の手ほどきを受けました。

大槻俊斎・伊東玄朴らと、お玉が池種痘所設立したことでも有名であり、曾孫である治虫は、手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画「陽だまりの樹」を執筆しています。維新後、大日本帝国陸軍軍医となり、西南戦争に従軍しましたが、その任地の九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院で51歳で亡くなっています。

その血を引く手塚治虫も、大阪帝国大学附属医学専門部を卒業後、医師免許取得を得ており、のちに奈良県立医科大学で医学博士の称号も取得しています。

学生のころからもうすでに漫画を毎日新聞などに持ち込んで収入を得るようになっていました。最初の単行本は「新寶島(宝島)」であり、1947年に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなりました。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなりました。

面白いことに、このときの指導教官の教授は、手塚に対して医者になるよりもむしろ漫画家になるように勧めたそうで、また母の後押しもあって、専業漫画家となることを決めたといいます。

手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるか相談したそうです。このとき母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心しました。

ちなみにその時の映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになったといわれています。

もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年)。さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。

このため、後に手塚は自伝ので、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べています。

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その後飛ぶ鳥を落とす勢いで数多くのヒット作をこの世に送り出し、「神様」とまで言われるようになりました。が、45歳になったころには、少年誌においてもうすでに手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていました。

さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになりました。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

しかし、1973年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始された「ブラック・ジャック」がヒットし、さらに1974年、「週刊少年マガジン」連載の「三つ目がとおる」のヒットも続いて、本格的復活を遂げることになります。

50代になった1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった「陽だまりの樹」や、アドルフ・ヒトラーを題材にした「アドルフに告ぐ」など、いわゆる「青年漫画」などを多く書くようになり、「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞を受賞し、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞しました。

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受けますが2カ月で退院。以前とまったく変わらない多作振りを見せていましたが、同年11月、中国でのアニメフェスティバル会場で倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌でした。

しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかったといいます。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画を描いていましたが、1989年年1月25日以降、昏睡状態に陥ります。

意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたそうで、鉛筆を握ると意識がなくなりの繰り返しだったといいます。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くしませんでした。

最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」であったといい、そして半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日に死去。墓所は、東京豊島区巣鴨の總禅寺(そうぜんじ)にあります。

その死によって「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオ・ファウスト」などの作品が未完のまま遺されましたが、その中でも最後に描かれたのは、「ネオ・ファウスト」の原稿でした。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていたといいます。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされますが、しかし、手塚が病院で描いていた遺作「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれています。

医者であった彼が自分の症状を客観的にみて何の病気であるかがわからないはずはなく、おそらくは逆に周囲を気遣って、知らないふりをしていたのではないでしょうか。

ところで、この手塚さんが亡くなったとき、私はフロリダにいました。ハワイ大学へ入学する前のことであり、このころはまだ語学がとはいえるレベルではなかったため、ここで英語を学びつつ準備をしていたのです。このとき、隣人に後の親友となる日本人留学生がいました。

彼は既にフロリダ大学の大学院生であり、海洋工学を専攻していました。同じ分野での留学を考えていた私とは年齢もほぼ同じであり、妙に気が合ったふたりは、すぐにお互いの下宿を行き来するようになりました。

このとき、彼が定期的に日本の親から送ってもらっていた雑誌が「朝日ジャーナル」であり、その中に手塚さんの最後の作品である「ネオ・ファウスト」が掲載されていました。この当時のフロリダは日本から遠く離れた辺境の地であり、日本からの情報はほんのわずかです。

このため、彼から借りてむさぼるようにこの雑誌を読んでいましたが、結局、私がフロリダを引き払う前に、手塚さんは亡くなり、このため、毎回楽しいに呼んでいたネオ・ファウストも私の中で未完に終わりました。

「朝日ジャーナル」での「ネオ・ファウスト「の連載は1988年1月から開始され1年近く続けられていたといいますが、私が渡航したのは確か5月であり、フロリダにおける滞在はほぼその連載と重なります。

手塚さんはこの作品の連載中に胃癌で入院していますが、ベッドの上でこれを描き続けながらも死の間際までこの作品の完成にこだわっており、痛み止めのモルヒネを打ちながら、手が動かなくなるまでこの作品を描いていたといいます。

手塚治虫の娘である手塚るみ子さんは、「体を若返らせたい、もう一度人生をやり直したい、まだまだやり残したことはあるんだ」という主人公の願いは治虫自身の願いと重なる、とのちに語っています。

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未完に終わった大作ですが、実は、この作品の漫画化の前に、同目のタイトルでアニメ映画の企画がもたれたことがありました。このとき、完全なシナリオ原稿を書き上げていますが、その後予算の面から計画は立ち消え、その後に手塚が死去したことから、この作品が日の目をみることはありませんでした。

ストーリーは漫画とはかなり異なるようですが、その物語の概要は以下のようなものです。ウィキペディアからの引用ですが、ほとんど変更はしていません。文化の日にふさわしいかどうかはわかりませんが、手塚ワールドの最後の物語としては記念すべきものだと言えるかと思います。ご一読ください。

ネオ・ファウスト アニメ版あらすじ(出典:ウィキペディア)

舞台は現代の学園都市から始まる。一人の女悪魔メフィストフェレスは人間界に降り立ち、「フェレス」という偽名を使った。フェレスはファッション雑誌を参考に可愛い女の子へと姿を変え、とある大学教授を探していた。

フェレスは神と賭けをしたからである。もし善良な選ばれた人間の魂を、悪魔的な魂に変えることができたら、地球は悪魔たちのものになるといった内容であった。その賭けの魂に選ばれたのが、大学の老教授であるファウストである。

その頃、ファウストはおのれの人生にはかなんでおり、助手が置いていった牛乳に毒が入っていると悟ると、それを飲み干そうとする。それを見たフェレスは、ファウストの自殺を止め、悪魔の契約をする。契約の内容は、3つの願いごとを叶え、彼が満足すれば代わりに魂を悪魔に譲る、というものであった。

3つの願いごとは「若返る」「絶世の美女をものにする」「権力者になる」に決まった。そして、その願いが叶えば、「時間よとまれ、今のお前は美しい」という約束のもとに悪魔との契約は実行される。

フェレスはファウストを若返らせ、権力者にすべく、この国の大統領になることを薦めた。まずファウストは、フェレスの計画通り、6000億ドルほどの金を用意して裏工作を行い、大蔵大臣の地位を得る。ファウストはその前後に、一人の少女に恋をして愛を育むが、その兄である軍事司令官を殺す。

ファウストは彼を殺したことによって、軍事司令官の地位を得た。そして大統領はファウストに、隣国との戦争に勝てば大統領の地位を与えることを約束する。ファウストは隣国に勝つために、かつて自分が研究していた人工生命体を使うことにした。

ファウストは大量の資金を投入し、昔自分が務めていた大学で人工人間を大量生産した。ファウストは戦争に勝つだけでなく隣国を丸ごと壊滅状態にしたが、大統領からはやり過ぎだと警戒される。ファウストはフェレスの助言を受け、大統領を殺害するクーデターを計画し、実行に移す。大統領は思惑通り殺された。

しかし、ファウストは若さ・絶世の美女・権力、全てを手に入れたはずなのに、一向に満足はできなかった。

クーデターの最中、思いがけないことに人工人間たちは暴走を始め、自らの手で増殖し、破壊の限りを尽くすようになる。そこへファウストに一本の電話が入り、かつて自分が恋をしていた少女が人工人間たちに襲われつつあることを知る。

ファウストは、本当に自分の大切なものは何だったのかを悟り、人工人間たちが量産されている大学のコンピューター施設を破壊しに出向く。ファウストは手榴弾でコンピューターを破壊するが、人工人間たちはファウストに自動小銃で痛手を与える。

ファウストは血を流しながらも、バイクで少女を助けに行く。少女が住んでいた家は、炎に包まれていた。もう逃げることもできないほど燃え上がった建物の中で、ファウストは少女を抱きしめると、この上ない幸せを感じた。そして満足した彼は「時間よとまれ、今のお前は美しい」を叫ぶ。

ファウストの魂はフェレスのものになるはずであったが、フェレスはファウストに恋心を抱きつつも自分のものにはならないと悟っていたため、契約書を青い炎で焼いた。ファウストと少女は、焼け崩れた建物の中に包まれる。

しかし、二人の魂は一つの光となって天高く舞い上がった。それを見ていたフェレスは、泣いているような、笑っているような複雑な顔でいつまでもそれを見つめていた。

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