祝ハロウィン!

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明日はハロウィンだそうで、昨今は町のあちこちでおばけカボチャのディスプレイやら、魔女やお化けを模した人形などが飾られることが多くなりました。

ほんの十年ほど前までは、これほどの盛り上がりはなかったように記憶しているのですが、最近は10月末日になると、あちこちで仮装パーティが開かれることも普通になり、東京では渋谷の交差点などでいろいろな仮装をした外国人が集結し、これに対して機動隊が出動する、といったことも風物詩になりつつあるようです。

近年のハロウィーンの経済効果は1100億円に上るといわれており、バレンタインデーの1080億円、ホワイトデーの730億円を抜き去って、すでに6740億円のクリスマスに次ぐビッグイベントとなっているそうです。

その「元凶」はというと、1970年代に、「キディランド」が、ハロウィン関連商品の店頭販売を開始したことのようです。玩具製作会社のタカラトミーのグループ企業で、同社の玩具だけでなく、他のキャラクター玩具や関連書籍などを置いている店で、若い人には人気があります。

キディランド原宿店における販売促進の一環として、ハロウィン・パレードを開催したのが嚆矢といわれているようで、毎年恒例行事となりました。原宿表参道といえばファッションの発信地であり、流行に敏感な若者たちがこのハロウィンという一風変わった催しに飛びついたことで、全国に広まるようになっていったのでしょう。

無論、クリスマスなどと同様に、日本では宗教的色彩はかなり薄い行事です。このため、その意味を知りながら騒いでいるといった人は、実はほとんどいないのではないでしょうか。

もともとは、全ヨーロッパ人のご先祖様といえる、ケルト人たちの「サウィン祭」というお祭りであり、彼等の1年の終りは10月31日でした。この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられており、同じくこの時期になると有害な精霊や魔女などが地下から這い出して来ると信じられていました。

ケルト人たちが31日の夜、こうした魔物たちから身を守るために被るようになったのが仮面であり、またその仮面に合わせて仮装をすることもありました。そして、魔除けのために焚き火をしましたが、さらに時代が進むと焚火のかわりに、野菜をくりぬいた中に蝋燭を立ててランタンとする、「ジャック・オー・ランタン」を作るようになりました。

この野菜は、現在ではカボチャが主流となっていますが、カボチャを使うようになったのはこれが豊富に収穫できたアメリカで普及したためであり、その昔、ヨーロッパ諸国ではカブの一種である「ルタバガ」を使っていました。

日本産のカブにも似ていますが、別種であり、日本では「カブラ」という場合もあります。原産地はスウェーデンとされ、北欧からロシアにかけて栽培され、重要な栄養源となっていたものですが、やがてスコットランドに移入され、他のイギリス各地や北アメリカにも広まっていきました。

現代ではこのカボチャのランタンは、アメリカからヨーロッパに逆輸入されて使われているようですが、アイルランドなど一部の地域では今でもこのルタバガを使っているそうです。アメリカにジャック・オー・ランタンの風習を伝えたのもこのアイルランドからの移民といわれています。

ハロウィンのこのほかの行事としては、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat)」つまり、「お菓子をくれないと悪戯するよ」と唱える、というものがあり、お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい、とされています。

これは、古くは9世紀のヨーロッパのキリスト教における「ソウリング(Souling)という儀式が由来といわれおり、この時代のキリスト教では、11月2日が「死者の日」でした。

「ハロウィン」の語源は、カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日(古くは「万聖節」とも)」の前晩にあたることから、諸聖人の日の英語での旧称”All Hallows”のeve(前夜)、”Hallows eve”が訛って、”Halloween”と呼ばれるようになったとされています。

一方、この万聖節が終わった翌日の11月2日は逆に「死者の日」とされ、キリスト教徒は「魂のケーキ」を乞いながら、村から村へと歩きました。ケーキといっても現在のようなものではなく、この時代には、 香辛料と干しぶどう入りの甘いパンを指します。

キリスト教徒が物乞いをし、このケーキをもらうときには、それと引き換えにその家の亡くなった親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをすると約束します。これが「魂のケーキ」であり、毎年11月2日になると、村人たちはそのためにこのパンケーキを焼いて訪れるキリスト教徒を待っていました。

古くはケルト人たちも上述のサウィン祭の期間中に徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す古代の風習を持っていましたが、この風習がキリスト教会によってこの魂のケーキの分配に変えられたともいわれています。

魂のケーキの分配は、ヨーロッパにおけるキリスト教の広まりとともに奨励され、広まっていきましたが、これが、現在の家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄ってハロウィン・パーティーを開く、あるいは、近所の家を巡っては「トリック・オア・トリート」を繰り返して菓子をせびる、というふうに発展したわけです。

元々は11月2日に行われていたものですが、これが時代が下るにつれ、日にちの近い、10月末日のハロウィンと習合するようになったものでしょう。

私が20年ほどまえにアメリカにいたころにもハロウィンになると近所の子供たちが様々な仮装をして下宿にやって来ていたかと思います。確か何等かのお菓子を用意して待ち受けていたような記憶がありますが、なかなか楽しい行事ではありました。

ただ、日本ではこの「トリック・オア・トリート」の風習だけは伝わらず、おばけカボチャをかざる習慣と仮装の習慣だけが定着しました。

中身を理解せず、うわべだけを取って身につけるというのは、海外の風習の良いとこどりをすぐにする日本人の悪い癖ではあります。が、ハロウィンになると仮装をして町を練り歩く、というこの風習が逆に日本に滞在している外国人に大ウケしました。

いまやこうした在留外国人だけでなく、この季節になるとそれを目当てに多くの外国人が来日するといい、渋谷の交差点などで仮装しているのは日本人よりも外国人のほうが多いようです。仮装行列はアニメやコスプレとともに日本発のポップカルチャーとまで言われつつあります。

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このように、日本では仮装だけがハロウィンの行事として定着しましたが、実は「トリック・オア・トリート」と似た日本独自の行事があり、これは「ローソクもらい」といいます。

子供たちが浴衣を着て提灯を持ち、夕暮れ時から夜にかけて近所の家々を回って歌を歌い、ローソクやお菓子を貰い歩く、というもので、欧米で行われているトリック・オア・トリートとかなり似ています。

ただ、全国的な行事ではなく、北海道の富良野や函館、江差などの道南地方や札幌市など家々の密集する地域、およびその周辺の市町だけで行われているようです。時期は七夕の7月7日、あるいは旧歴の七夕である8月7日におこなわれるようです。

七夕というのは、元々は農作業で疲労した体を休めるため休日という意味合いが強い行事ですが、七夕のときに吊るす短冊は、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の幟(のぼり)とも関係しているといわれ、そういう意味では、「死者の日」が起源である、トリック・オア・トリートとも似ています。

函館の古い習俗を記した安政2年(1855年)の「函館風俗書」という博物誌には、七夕の習わしとして、子供たちがめいめいに「額灯籠(四角い形をした行燈風の灯籠)」を差し出して、柳に五色の短冊をつけて、笛や太鼓を鳴らし囃し立てて歩くようすが描かれているそうです。

ローソクもらいの習俗が北海道に根付いた説のひとつとしては、青森県の青森ねぶた、弘前ねぷたとの関連があげられており、灯籠を見せて歩く習わしは、「ねぶたッコ見てくれ」と練り歩く青森県のねぶたの習わしに似ているようです。

津軽地方では戦前までのねぶたの照明はローソクであったため、ローソクをもらって歩くことが習慣となっていたそうで、青森の西津軽、北津軽といった地方では「今年豊年 田の神祭り」などと唱え、家々を廻ってローソクをもらって歩いたり、ねぶたをリヤカーに乗せ「ローソク出さねばがっちゃくぞ」などと言いながら各家を廻り歩いていたそうです。

現在北海道で行われているローソクもらいにもそうした風習の名残が見て取れ、ローソクもらいの日には、学童前から小学校低学年の子供たちが缶灯籠や提灯を手に三々五々集まり、7人前後の集団となって、囃し歌を歌って、ローソクもらうために近隣各戸を訪ねあるくといいます。

無論、子供たちは当然お菓子を貰うことを期待しているわけですが、引越してきたばかりの人など、この行事を知らない人は囃し歌の通りにローソクをあげてしまうので子供ががっかりしてしまうことあるそうです。ただ、逆に菓子を準備していない家は菓子代としてお小遣いをあげる家もあるそうで、現代っ子にはこちらのほうが嬉しいのかもしれません。

とはいえ、最近のように物騒な世の中であることを反映し、最近では治安の悪化や火災の心配などからこうした行事を行わなくったところも多いといい、また人間関係の希薄さも手伝ってローソクもらいをするところは確実に減少しているようです。場所によっては日が沈む前の明るい時間帯に行う地域も増えてきているといいます。

このローソクもらいに関連して、「お月見泥棒」という行事をやるところもあるようです。これは、いわゆる「お月見イベント」であり、こちらはお盆や七夕ではなく、中秋の名月の夜に行われます。

十五夜の夜、飾られているお月見のお供え物を、この日に限って盗んでいいというもので、かつて江戸時代の子供たちは、竿のような長い棒の先に釘や針金をつけてお団子を盗んだといいます。この風習は、その昔は子供たちは月からの使者と考えられていたことからきており、この日に限り盗むことが許されていたためだといいます。

お供えする側も縁側の盗みやすい位置にお供えするなど工夫していたといい、現在では「お月見くださ〜い」、「お月見泥棒でーす」などと声をかけて、各家を回りお菓子をもらう風習が残っているようです。

各地にこの風習が残っているようですが、一般的、といわれるほどまでは普及しておらず、福島や茨城、千葉などの農村部でみられるほか、東京の多摩地区、甲府のほか、愛知県や三重、奈良、大阪、大分などで似たような風習があるとか。ほかに、鹿児島の与論島や沖縄の宮古島でも同じようなものがあるといいます。

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しかし、こうした日本の「ローソクもらい」や「お月見泥棒」では、ハロウィのような仮装は伴いません。ハロウィンで仮装をしてトリック・オア・トリートをやるのは、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るためでしたが、日本では自らが化けるという発想はなく、もっぱら火や鳴り物で魔物を退散させるという行事が多いようです。

一方、ハロウィンで仮装されるものには、魔物を退散させるためには目には目ということで、一般的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があります。

たとえば幽霊、魔女、コウモリ、悪魔、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビなどの民間で伝承されるものや、ドラキュラや狼男、フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物などです。

日本でもこうした怖いもの、恐ろしい者に扮するということは昔から行われており、その代表例がお化け屋敷であり、そのルーツは江戸時代の見世物小屋にあります。へび女やタコ女・タコ娘、手足のなりだるま女に奇形動物、生人形といった不気味なものが江戸の庶民は大好きでした。

お化けに扮するというのもそうした見世物小屋の見世物の中から出てきたものと考えられますが、ただ日本では、こうした「仮装」は欧米のハロウィンのような年中行事とは習合しませんでした。

こうした見世物小屋でのお化けや、お伊勢参り、富士登山などの宗教における集団参詣の仮装、あるいは民衆踊りの際に仮装などなどで、それらの多くは単独で普及したものがほとんどで、年間行事とは無縁です。

また、江戸時代の京都では、人気芸妓が歴史上の人物や物語の登場人物に扮して祇園などを練り歩く、ということが行われたいたそうで、途中で馴染み客から「所望!」という呼び声が掛かると、立ち止まって役にちなんだ舞を披露する「ねりもの」と呼ばれる仮装行列がありました。

一方の欧米では、いわゆるカーニバル、と呼ばれるものの中で仮装が普及しましたが、このカーニバルとは何かといえば、そもそもこれはカトリックなど西方教会の文化圏で見られる「謝肉祭」と呼ばれるお祭り行事のことです。

カーニバルの語源は、ラテン語のcarnem(肉を)levare(取り除く)に由来し、肉に別れを告げる宴のことを指しました。「断食の前夜」の意で、カトリックでは、イエス・キリストの受難に心をはせるためにこのとき断食を行っていました。もっとも現在では「食事制限」になっており、1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑える程度です。

その断食祭りがなぜ仮装につながったかについては諸説あるようですが、その昔のカトリック信者たちは、その祭りの最後に自分たちの日頃の罪深さを大きな藁人形に転嫁し、それを火あぶりにして閉幕するというのがお決まりだったといいます。そして、やがては自分たちがその藁人形そのものに扮するということが行われるようになったのでしょう。

このほか欧米では仮装舞踏会や仮面舞踏会がなどでも仮装をしますが、これらもそもそもは婚礼などのめでたい行事の一環として行われていたものであり、ハロウィンやカーニバルと同様にお祭りごとの余興として発展したものです。

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このようにただ一口に仮装といっても、その中身やそれが行われるようになった背景には文化の違いあります。日本と欧米それぞれの歴史があるわけですが、ただ、最近ではそうしたものがごっちゃになり、何が何だかよくわからなくなりつつあります。

仮装とコスプレの違いは何か、といわれて、それは何とすぐに答えられる人も少ないのではないでしょうか。仮装の定義としては、「着用者の本来の属性・立場とは異なる服装をするもの」ということになり、一般的には、自分の立場を秘匿し別人であることを装う「変装」とは区別されます。

また「扮装」という言葉を使うこともありますが、これは主に演劇や舞台芸術における衣裳を指します。近年では、仮装に用いられるこうした衣服・装身具の一式を衣裳やコスチューム等とも言いますが、この「コスチューム」なるものの定義によっては、従来の仮装が「コスプレ」になる、というのが一般的な解釈のようです。

そもそもこのコスチュームなるものは、SFの世界から出てきたものです。1960年代後半のアメリカでは、「SF大会」とよばれるイベントがSFファンの間で開かれるようになり、この頃の人気番組、「スタートレック」などのSF作品に登場する人物の仮装大会が行われていました。

日本においてもこのアメリカで主に開かれていたSF大会の影響を強く受けた日本SF大会が1960年代末から1970年代から行われるようになり、この中のプログラムのひとつとして、「コスチューム・ショー」が取り入れられていました。最初にこのショーが行われたのは1974年の京都大会だそうで、翌年からは毎年行われるようになりました。

1978年に神奈川県芦ノ湖で開催された第17回日本SF大会の仮装パーティーにおいては、当時はファンの一人だったSF評論家の小谷真理やひかわ玲子らで構成されたファンタジーサークル「ローレリアス」が、「火星の秘密兵器(創元SF文庫)」というSFの登場人物に扮した格好で参加しました。

これを見た参加者がその姿を見て、この当時に日本で流行っていたアニメ「海のトリトン」の仮装だと勘違いし、本人らも強く否定しなかったことから、いつの間にか、日本のコスプレ第1号は、海のトリトンだ、と言われるようになったそうです。

実際にはその後も毎年行われている日本SF大会の中で出てきた別のアニメキャラのコスプレが第一号なのでしょうが、それが何だったのかはもううあやふやになっており、ともかくも日本のコスプレ第一号や海のトリトンということになりました。また、以後、毎年のようにこうしたコスプレのコンテストが行なわれるようになりました。

ただ、この当時はまだSFの主人公になりきる、「架空の人物に扮する」という行為をする人達は、活字でのSFファンが多勢を占めていた当時において特異な存在であり、ともすれば異端とみなされる、という風潮もありました。

このためコスプレをやる連中というのは、自称「SFファン」とする一般のSFファンとは一線を画す、少数の限られた嗜好団体でした。

しかし、SFファンというのは、これらのコスプレファンも含めてそもそもがかなりオタッキーな連中であり、かなりマニアックな知識持っている反面、何かと白い目で見られることも多く、こうしたSFファンクラブというものに対しては、何かしら一見識がないと参加しづらい、という一面がありました。

これに対して、コスプレというのは、ひと目みただけで、それが何者なのか、というのが想像できるという特徴があり、このため、それまでハードルの高かったSFのコミュニティーに、「単に参加してみたかっただけ」というライトなSF層にも受けました。

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その後、「仮装」という見た目がわかりやすい形でSF大会へ参加するこうしたライトSF層の人々が増え、それまで「覗き見」だけだった者らも取り込んでSFファン層はどんどんと厚くなってきました。

一方では、こうしたSFとは別に、日本独特の文化である、「漫画」の世界でもコスプレは行われるようになっていきます。同人(同好の士)が、資金を出して漫画雑誌を作成、共同で販売するという、いわゆる「同人誌」の即売会等でもコスプレは行なわれるようになりました。

このころから、単にアニメの仮装と呼ばれていたマンガやアニメの扮装をすることをコスチュームプレイと呼ぶようになり、元は少女マンガの同人作家やファンがコミケ(同人誌即売会、コミックマーケットの略)をお祭りの場として派手な格好をしていた中から、アニメのキャラクターの扮装をする者が現われ、徐々に増えていきました。

1977年になってこうしたコミケにおいて、上述の「海のトリトン」の衣装をした少女が登場して注目を集めましたが、これがSF大会とコミケの世界が合体した最初の出来事だったようです。その次の回には「科学忍者隊ガッチャマン」のコスプレが登場し、徐々に広まっていきました。

その後、こうしたSFの世界とコミケの世界の融合は続きます。1979年にテレビで放送されるようになった「機動戦士ガンダム」はかなりSF色の強いアニメであり、ガンダムの登場人物になりきるコスプレファンの中には多くのSFファンが包含されていました。

1970年代後半に大ヒットしたSF映画「スター・ウォーズ」の人気により、アメリカでもコスプレはさらにポピュラーとなり、「機動戦士ガンダム」などの日本のアニメも人気を博しました。

これによりアメリカ全土で行なわれるようになったアニメコンベンションなどのイベントでは日本の漫画やアニメのキャラクターに扮する光景が見られるようになり、SF大会におけるコスプレと双璧をなすようになっていきました。

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一方の日本でも1990年代にはコスプレの人口は増大し続け、コミケのコスプレイヤーは1991年には約200人、1994年に約6000人、1997年には約8000人を数えました。その後ヒットしたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の流行もあり、こうしたコミケなどの世界は「サブカルチャー」とまで言われるようになっていきます。

これと同時にコスプレという用語・行為も普及し、1990年代初頭のビジュアル系バンドブームの火付け役となるX JAPANのライブではファンによる凝ったコスプレが披露され、これがまた、コスプレの流行に拍車をかけました。

この頃から商業資本もコスプレに着目するようになり、従来、コスプレ衣装はコスプレイヤーによる自家製によるものしかありませんでしたが、これを既製服として製作・販売する業者が現れ、「コスチュームパラダイス(現・コスパ)」と呼ばれるようなコスプレを専門に製作するような会社も現れました。

こうした業者が製造するコスプレ衣装は、製作者の技術に出来が左右される自家製の物に対してかなりハイレベルで、しかも一定レベル以上の品質を保っていたために人気を集め、ブランドを確立することに成功しました。以後、これを真似るコスプレ衣装製作業社が増えた事で市場はさらに拡大していきました。

イベントについても、それまではコミックマーケットを始めとする同人誌即売会や、日本SF大会等において付随的に行われていた状態から、コスプレ単独のイベントも開催されるようになりました。

形式としては、コスプレをしてダンスミュージックやアニメソングに合わせて踊る「コスプレダンスパーティーや、コスプレイヤー同士が互いに交流や撮影を行ったり、アマチュアカメラマン(カメラ小僧)に撮影の場を提供する撮影会などがあるようです。

模型メーカーによって射出成形で大量生産されるプラモデルに対し、少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼び、個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られますが、こうしたガレージキットにおいてもSFやアニメのフィギアは人気です。

ミニチュア模型で有名な造形メーカー、海洋堂は、こうしたガレージキットを製作する小規模製造業者を集めた「ワンダーフェスティバル」と呼ばれる見本市などを開催していますが、ここにも多くのSFファンやアニメファンが訪れ、彼等の中に混じって行われるコスプレのパフォーマンスが人気を博すようになっています。

2003年からはテレビ東京系のテレビ愛知が主催となって、名古屋市内を会場とし、世界各地の著名なコスプレイヤーを日本に招いて「世界コスプレサミット」が開催されるようになっています。このコスプレサミットは2005年は名古屋市内だけではなく愛・地球博会場でも行われました。

2005年に紀宮清子内親王が黒田慶樹と結婚した際に、結婚披露宴で着用したウェディングドレスは、「ルパン三世 カリオストロの城」のヒロイン、クラリス姫だったそうで、いまやコスプレ文化は皇室にまで浸透しつつあるようです。

また、日本発のコスプレは世界に進出しつつあります。欧米諸国を始め、東アジア諸国ではコスプレを行なう層が増えており、各国で行われているコスプレサミットなどにおいては、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもあります。

日本人のコスプレに対するイメージは、とかく「オタクがやるもの」になりがちですが、これに対して、外国人のイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という、いわば変身願望の延長線にあるもののようで、そのイメージの違いは甚大です。

お隣の中国でも、日本の漫画やアニメを愛好する者によるコスプレが流行っているそうで、コスプレは中国語では「角色扮演」と書くそうです。中国政府は「国家事業」としてコスプレイベントの全国大会である角色扮演嘉年華(コスプレカーニバル)を毎年主催しているといいます。

しかし、中国にはもともと様々な題材で仮装して劇を行う文化があり、日本発の角色扮演もわりとすんなりと受け入れられる土台があったようです。同好会を作って数人でキャラクターに扮し、昔ながらの「寸劇」を行うことも普通に行われており、日本作品のコスプレも大人気だといいます。

いま何かと問題になっている、南沙諸島に駐留している中国兵士たちにも、いっそのこと甲殻機動隊のコスチュームや甲冑を着せたりさせれば、諸外国からの批判も多少和らぐかとも思うのですが、どうでしょう。しかし、逆にGIジョーや、スターウォーズキャラの扮装だと、さらにアメリカの怒りを買い、扮装が紛争に化けてしまうかもしれませんが。

なので、どうせ日本の真似をするなら、彦ニャンやクマモンなどのゆるきゃらにすれば、何かと話題のタネになるかと思うのですが、そこのところ、森元首相似の周金平さん、いかがでしょうか。

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フィラデルフィア・エクスペリメント

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米海軍のイージス駆逐艦が、ついに中国が「領海」と主張する人工島の周辺海域に侵入しました。

米国防当局者は、27日早朝、横須賀基地配備の「ラッセン」が、この人工島の周囲12海里(約22キロ)以内の海域に入った、と明らかにしました。中国は猛反発したものの、とりあえずはアメリカとは今まともに戦っては勝てない、と判断したのか、静観の構えのようです。

これに対して、日本を始め、南沙諸島に近いフィリピンやベトナムの国民は、ヤレヤレ~とばかりにエールを送っています。それもそのはず、公海にある岩礁を勝手に埋め立てて自分の国の領土だ、と主張しているような国を誰がほめたたえるでしょうか。

そもそも米軍は既に今年の5月以降、中国が造成する人工島12カイリ内に米艦船や航空機を送る考えを明らかにしていましたが、ホワイトハウスが「待った」をかけていました。しかし、9月下旬のオバマ米大統領と中国の習近平国家主席との会談でも、習主席は人工島造成の中止要請を拒否した結果、オバマ氏はかなり怒ったそうです。

この会談の結果をうけて米艦船派遣決断し、直後に米側は関係国にその方針を伝達しました。日本もこの航行の情報はかなり以前から得ていたようですが、この情報を得て、やっぱアメリカは世界の警察だよな~、やるなアメリカ!と、安倍総理以下の閣僚が快哉の声をあげたかどうかまでは、メディアも伝えてきていません。

それにしても、たった駆逐艦一隻で中国に立ち向かうとは大胆だな、という印象を誰でももつでしょう。派遣されたこのラッセン、というのがどういう船なのか調べてみたところ、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦で、艦艇No.はDDG-82。

「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦」の32番艦だそうで、これと同タイプの駆逐艦は1988年以降このラッセンを含めて63隻も造られているアメリカ海軍のベストセラー艦のようです。その数からもわかるようにアメリカの海防における主力艦であり、かつ攻撃能力も大変高いため、主要な海上攻撃力でもあります。

そもそもアメリカ海軍って何隻船を持っているのよ、ということで調べてみたところ、現在505隻が現役で運営されており、この中には、11席の空母と、71の潜水艦、22席の巡洋艦と、28隻のフリゲート艦なども含まれています。

対する日本は全艦船数137隻で、駆逐艦に相当するミサイル護衛艦は8隻にすぎませんから、いかにアメリカの海軍力が強大かがわかります。

63隻の駆逐艦は、そのすべてがこのラッセンと同タイプのようで、現在さらに同型艦が5隻追加発注されているとのことで、計画ではさらに3隻が建造されて最終的には70隻になる予定だといいます。もっともアーレイ・バーク級は1988年から建造が始まっていて、その都度改良が加えられてきていますから、新しいものほど性能がアップしています。

なので、そのすべてが同じ性能というわけではありませんが、それにしても同じタイプの船がこれほどまで継続して建造されるというのは、やはりそれなりに優れた駆逐艦なのだと思います。

さらに調べてみたところ、この船の設計は、1980年代ごろから始まったようです。それまでの船は「大戦型駆逐艦」と呼ばれ、主として大砲や魚雷といった重火器、そしてICBM(大陸間弾道弾)の搭載などに重視が置かれていました。

が、ソ連との冷戦が終わるころからは、大陸間のような長距離ではなく「中距離」の艦対空ミサイルに重点が置かれるようになり、これを搭載したミサイル駆逐艦としての性能が求められるようになりました。

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そして主に攻撃力の要となる装備として対地攻撃力でも有利なトマホーク武器システム(TWS)と、卓越した対空戦闘能力を実現するイージスシステムが導入されてこの級が完成しました。

私は軍事オタクではないので、詳しい事はわかりませんが、このトマホークというのは、主には遠く離れた敵をやっつけるもので、相手が艦船であろうが、陸上のものであろうが、自分でレーダー装置を保有して敵を探す自律型のミサイルです。

その最大射程は、中距離とはいいつつも長いものでは到達距離が2500~3000kmもあり、短いものでも1250km~1650kmもあるようです。

そもそも「トマホーク」とは、アメリカインディアンが白人との戦いの中で使った独特の手斧であり、柄の長さは30-50cm程度で、もともと雑事用の手斧だそうです。普段の野外活動でも便利で、インディアンが白人と戦う際にはとくに白兵戦では信頼性のある武器になっていたといいます。

現在のアメリカ陸軍でも、柄が強化プラスチック製の合成素材でできたトマホークが正式採用されているそうです。ジャングル戦の多いベトナム戦争やイラク戦争などでも実戦に使用されましたが、「飛び道具」として敵に投げつける場合もあるそうで、ミサイルのほうのトマホークもこれになぞらえたのでしょう。

また、イージスシステムというのは、防空戦闘を重視して開発された艦載武器システムの総称で、こちらは、“Aegis“という、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾のことで、元々の発音は「アイギス」です。

この盾はあらゆる邪悪を払うとされており、現代版のイージスシステムも、レーダーなどのセンサー・システム、コンピュータとデータ・リンクによる情報システム、ミサイルとその発射機などの攻撃システムなどで構成されていて、飛来する敵のミサイルや弾丸を邪悪なものとみなしてバッタバッタと叩き落とします。

防空のみならず、敵としての目標物の捜索から識別、判断から攻撃に至るまでを、迅速に行なうことができシステムであり、このシステムで同時に捕捉・追跡できる目標は128以上といわれ、その内の脅威度が高いと判定された10個以上の目標を同時迎撃できるといいます。

きわめて優秀な情報能力をもっていることから、情勢をはるかにすばやく分析できるほか、レーダーの特性上、電子妨害への耐性も強いという特長もあります。

しかし、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦はこれらの世界最先端の攻撃・防御システムを持っている一方で、対潜哨戒ヘリコプターの格納庫をもたないため、自分で索敵できる以上の広範囲の敵を察知できない、また航続距離も航空母艦などより劣っている、といった弱点があります。

このため、今回のラッセンによる南沙諸島の航行でもそれほど長距離は航海しなかったようで、また単独で派遣されたのではなく、P3哨戒機などの「空からの目」を伴っていただろう、と推察されているようです。

このラッセンという艦名はベトナム戦争で名誉勲章を受章したクライド・エヴェレット・ラッセン中尉にちなみます。同型艦の建造計画のうちの第三期目にあたるフライトIIA(現在の期)の3隻目に建造されたもので、2001年にフロリダ州のタンパで就役しました。

米国の先制攻撃戦略の柱である「ミサイル防衛」前進拠点基地である、日本の「横須賀港」に配備されたのは2005年9月からで、同港における7隻目のイージス艦となりました。これにより、横須賀基地の第7艦隊は、旗艦ブルー・リッジ以下、空母キティホークも含め11隻体制となりました。

艦籍も新しく、日本に在沖するアメリカ艦艇としては最新鋭の部類に入ります。弾道ミサイルを追尾できる高性能のレーダーを備え、 弾道ミサイル防衛システムの機能の一部を担う能力もあり、横須賀に着任して4年後の2009年7月には、密輸を疑われた北朝鮮の貨物船、カンナム1号をこのラッセンが追跡したと報じられました。

2010年11月に黄海で行われた米韓合同演習に参加するなど、有事には韓国海軍との連携で事に当たることも想定されているようです。が、無論、日本の海上自衛隊との連携も想定されているようです。また、2012年2には、東京都が実施した帰宅困難者対策訓練に参加し、東京港から横須賀海軍施設まで帰宅困難者役の東京都職員を代替輸送したそうです。

ただ、2009年2月には、横須賀港内でプレジャーボートと接触する、といった事故発生しており、怪我人は出なかったものの、業務上過失往来妨害の疑いでラッセンのアンソニー・シモンズ艦長とボートの船長の両方が、書類送検されています。

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現在横須賀の米海軍第7艦隊には、このラッセン以外にもアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦が6隻配備されており、今後の中国の出方次第によっては、今度はこれらの複数の駆逐艦の「出撃」もありうるのかもしれません。

ちなみに、現在海上自衛隊が保有するミサイル護衛艦「こんごう型」や「あたご型」は、このアーレイ・バーク級の建造にも大きな影響を与えたといわれており、日本における護衛艦の「お手本」ともいえる艦のようです。

先日通過した安保法の施行により、近い将来この姉妹館ともいえる日米の駆逐艦が、つるんで南沙諸島における「公海」を航行する、といったこともあるのかもしれません。

ところで、なのですが、1943年の今日10月28日と同日に、同じアメリカ海軍の駆逐艦、「エルドリッジ」がフィラデルフィア沖で、極秘裏にある実験を行った、とされる噂があります。

「フィラデルフィア計画」と呼ばれる実験で、この話は、1984年に公開されたSF映画、「フィラデルフィア・エクスペリメント」のモチーフともなりました。

この映画のあらすじはこうです。

第二次世界大戦中の1943年、フィラデルフィア港でアメリカ海軍によるある極秘実験が行われようとしていました。「フィラデルフィア計画」と呼ばれるその実験は、敵のレーダーから消え、味方の船を探知されないようにするというものでした。

この実験のために、駆逐艦「エルドリッジ」の船上にはものものしい実験装置が取り付けられていましたが、実験をスタートさせるために、その実験機械のスイッチが入れられた途端、エルドリッジ号は不思議な光に包まれレーダーから消えてしまいます。と同時に船体そのものまで消え始めていました。

暴走した装置の影響から逃れるため、主人公である二人の水夫は海に飛び込み、光の中に消えてしまいます。……しばらくして二人が姿を現したのは、なんと1984年のアメリカ。
朝になり、コーラのアルミ缶を見つけた二人は、その材質が何か分らず首をかしげますが、さらに国道に出ると、見慣れぬ車が走っており、更に疑問は深まるばかり……

一方、二人が現れた1984年の世界では、1943年の実験を行った責任者である物理学者が実験行っており、この博士の実験によりひとつの町が消えてしまっていました。紆余曲折あって、この博士に出会った二人は、1943年の自分の世界で行われた実験でもこの博士が主任であったことを知り、彼に助けを求めます。

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博士は、保管してあった当時のフィラデルフィア実験の資料を取り出し、漠然と思考を巡らせ始めますが、そこへ町が消えたことを訝しんだ軍が、彼等のせいだと決めつけ、捕えようとします。

そのころ、町が消えた実験地域は急激に気圧が低下し続け、そこに1943年からタイムスリップしてこようとしていたエルドリッジ号が合体しようとしていました。今や時空のなかに大きなゆがんだ穴ができようとしており、絶体絶命となった彼等のとった行動は……

という話なのですが、後段の話はかなりややこしいので、まだこの映画をみていない方、ご興味のある方は、レンタルショップへ直行していただくとしましょう。

この映画の結末だけ簡単に述べておくと、1943年の世界では、フィラデルフィアにエルドリッジ号は無事帰還しますが、実験の傷痕の深さに人々は震撼する、という展開です。しかし、1984の世界では町は元に戻り、世界は破滅から救われる、ということになり、一応ハッピーエンドです。

ただ、1943年の世界から未来へタイムスリップした二人の水夫のうち、一人は未来に残ります。もう一人は元の世界に戻り、やがて年月を経て、1984年の世界で二人は再会する、というのがこの映画のオチであり、そこのところがまたこの映画を面白くしています。

無論、映画のほうはSFにすぎないわけですが、実はこうした実験を実際にアメリカ海軍が、「ステルス実験」として行っていたのではないか、という話があり、これが上述のフィラデルフィア計画です。

あくまで推定の息を出ないので、「都市伝説」の一種ではないのか、ともいわれますが、実験が行われた「らしい」とされる駆逐艦は実存し、その名も映画と同じく「エルドリッジ」といいます。

ステルスとは、そもそも軍用機、軍艦、戦闘車両等の兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする軍事技術の総称であり、現在ではステルス戦闘機や、ステルス機能を持った艦船が実用化されています。

そのためのステルス化の実験を、1943年当時の技術を使って実用化しようとしていたのではないか、といわれるのがこの「フィラデルフィア計画」における実験です。まことしやかにささやかれるその「伝説」によれば、この実験は、1931年、ニコラ・テスラの提唱によるものだったといわれています。

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ニコラ・テスラやエジソンと同時期に活躍した発明家で、先日のブログでも彼のことを書きました(電脳エトセトラ)。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテス電球を発明した人物として知られていますが、アメリカ海軍が設立したと言われる「レインボー・プロジェクト」にも関わったとされます。

これは、この当時のレーダーは、「船体が発する、特徴ある磁気に反応するシステムである」と考えられていたことに基づくプロジェクトであり、テスラは、「テスラコイル(高周波・高電圧を発生させる変圧器)で船体の磁気を消滅させれば、レーダーを回避できる」と考えていたことから、米海軍がそのアイデアを実現させようと具現化した計画といわれます。

その後、この実験は、ハンガリーから亡命してきた科学者で、第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる「フォン・ノイマン」に引き継がれ、1943年、駆逐艦「エルドリッジ」に船員を乗せ、初の人体実験を行なうこととなったとされます。

エルドリッジは、1943年に就航した駆逐艦で、アメリカはこのころもう既に日本と太平洋戦争に突入していました。同艦も戦闘に投入され、当初はアメリカ周辺を航行する貨物船団などの護衛を担っていましたが、1944年からは、沖縄に向い、ここで護衛や哨戒任務についていました。

フィラデルフィア計画が行われたとされる1943年はまだアメリカ沿岸で貨物船の護衛を担当していた時期であり、「伝説」によれば、実験はエルドリッジが就役して間もない1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われました。

実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであり、エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生し、駆逐艦がレーダーから認められなくなりました。

実験は成功したかのように見えましたが、不可思議な現象が起こります。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていきました。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまいました。

「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りでしたが、その直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていました。

エルドリッジはそれから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動します。再び戻ってきたエルドリッジですが、驚くべきことに乗員には、その体が突然燃え上がる、発火した計器から火が移り火だるまになる、衣服だけが船体に焼き付けられる、といった現象が起きるとともに、中には、板に体が溶け込んだ者もいました。

突然凍り付いた、半身だけ透明になった、壁の中に吸い込まれたという証言もあり、また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図のごとくだったといいます。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだったといいます。

実験自体は成功したように見えましたが、こうした乗員の被害は甚大であり、一説によれば「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になったといわれます。そして、このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したのだといわれています。

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そもそも、この「実験が行われた」という密告は、1956年に天文学の分野で博士号を持つモーリス・ケッチャム・ジェサップという作家の元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から届いた手紙に端を発するといわれ、その手紙には「レインボー・プロジェクト」の内容が克明に綴られていたといいます。

しかし、モーリスはこの手紙を受け取った3年後(1959年4月)、謎の自殺をしています。排気ガスをホースで車内にひきこみ、一酸化炭素中毒で死亡するというものでした。彼の死後、アメリカ海軍は総力をあげてこのアレンデという人物を捜したといいますが、その捜索は失敗に終わったといわれます。

モーリス・ジェソップがまだ生きていたころ、彼自身が執筆したUFOに関する一冊の本が海軍研究所に郵送されてきたそうです。そこには様々な科学的な手書きのコメントが書き込んであったといい、個人的に興味を持った研究所の研究員がこの本をジェソップに見せました。

そうしたところ、ジェサップはこの本のコメントを書きこんだ人物と、以前フィラデルフィア計画について手紙を彼のところに送ってきた人物、すなわちカルロス・マイケル・アレンデは同一人物だろうと推断したといいます。

このアレンデという人物が何者だったのか、フィラデルフィア計画に携わっていた研究者のひとりだったのかどうか、といった事実関係については、その後何も資料が出てくることもなく、この話はそれっきりになりました。

さらに後年、アメリカ海軍歴史センター、および海軍研究所(ONR)がこの実験が本当に行われたのかどうかを検証したといわれます。

その調査によれば、この実験に供されたとされる駆逐艦エルドリッジは、1943年8月27日にニューアークで就役して以来、実験が行われたとされる、10月末までには一度もフィラデルフィアに寄港していない、と記録されていました。

この期間を含めたエルドリッジの戦時日報はマイクロフィルムに保存されており、誰でもそのコピーの閲覧を請求できます。また、ノーフォークで、テレポートしてきたとされるエルドリッジを目撃したとされる商船アンドリュー・フルセスは、記録によると10月25日にはノーフォークを出港しており、以降1943年中は地中海にありました。

また、同船に乗り組んでいた米海軍予備士官ウィリアム・S・ドッジ少尉は、彼も他の乗組員もノーフォーク在泊中に特に変わったものは見ていないと断定する手紙を寄せており、そもそも、エルドリッジとアンドリュー・フルセスが同時にノーフォークに在泊していたことはありません。

この話が「都市伝説」の域を出ない、でっち上げだ、とされることが多いのはこうした「事実」の積み重ねによるものです。しかし、一方では、こうした記録は、本当のことを知られたくないアメリカ海軍の上層部によって塗り替えられたのではないか、とする説も根強いようです。

その後、ノーフォークを管轄する第5海軍管区の将兵だったある人物が、海軍工廠で行われていた様々な実験がこの都市伝説の元となったのではないか、と語ったといいます。この人物が誰かは公表されていませんが、彼が語った説としては、これは「消磁」に関する実験でなかったか、としているようです。

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この消磁というのは、艦船が持つ磁気が地磁気を乱すのを探知して爆発する「磁気機雷」から身を守るため、艦船に電線を巻き付け電流を流し、電磁石の原理でもともとの艦艇の磁気を打ち消す作業のことです。

消磁をきちんと行えば、艦船は磁気機雷からは「見えなく」なるといい、ただし、人間の目やレーダー、ソナーなどには通常通り映ります。現在においても、日本の海上自衛隊などでも「横須賀消磁所」という施設を保有しており、ここで自衛艦の永久磁気を定期的に消磁しています。

特に水上鋼鉄艦艇の艦首艦尾方向の消磁を「デパーミング」と呼び、船体外周に大きなコイルをゆっくりと通して、電流の極性を変えながら徐々に弱くしていくことで磁気を消していく作業を行なうそうです。また、潜水艦では艦載消磁装置の消費電力削減のためにあらかじめ誘導磁気を打ち消すように船体永久磁気を付けているようです。

その後、1950年代になって米海軍の駆逐艦ティマーマン(Timmerman)では、この消磁を強力に実施するためにある種の実験が行われたそうです。

このときには通常の400Hzの発電機ではなく、コイルを小型化できる高周波数(1,000Hz)の発電機を搭載して実験が行われたとのことです。この実験では高周波発電機から放電現象などが起こりましたが、組員への影響はなかったとされます。こうした特殊実験とフィラデルフィア計画が混同されたのではないか、とされるわけです。

その後エルドリッジは1951年にアメリカ海軍から除籍され、ギリシャ海軍に払い下げられ、1991年には除籍、解体のため売却されているため、今となっては本当に船員が床や壁に塗り込まれたのかどうかを検証する、といったことも不可能です。

一説では、「マンハッタン計画に対する欺瞞作戦」とも言われています。第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画であり、この計画へ人々の目を向けさせないようにするため、こうした有りそうな話をでっち上げたのではないか、とする説です。

このマンハッタン計画の中心人物こそフォン・ノイマンであり、フィラデルフィア計画をテスラから引き継いだとされるのもノイマンです。

マンハッタン計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施しました。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなりました。

一方のフィラデルフィア計画が実際にあった実験なのか、そもそも成功したのかどうか、はたまたあくまで都市伝説なのかについては、これを読んだ方々の想像にお任せしますが、現在でもこうした不可解な超常現象の伝説は、多くのマニアを惹きつけています。

秋の夜長も長くなってきました。映画、フィラデルフィア・エクスペリメントをまだご覧になっていない方はぜひご鑑賞いただき、さらに想像力を膨らませて頂く、というのもまた一興かと思う次第です。

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爪楊枝の季節

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伊豆の山々もかなり色めいてきました。

当別荘地のメイン通りの桜の葉も先週までは黄色を帯びていたものが、かなり赤くなり、あとは落葉を待つばかり、といったかんじです。今朝ゴミ出しに外へ出たときの寒暖計の温度は10度でした。

東京では木枯らし一号が昨日吹いたといいます。季節が秋から冬へと変わる時期に、初めて吹く北よりの強い風のことを言います。10月半ばから11月末の初冬の間に、初めて吹く毎秒8メートル以上の風、と気象庁では定義しています。

冬型の気圧配置があらわれたときに吹きます。冬型になったときには、ユーラシア大陸から日本に向かって吹いてくる冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含みますが、日本列島の中央部には連山があるために、日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失います。

結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となり、これが吹き抜けることによって木枯らしとなります。気圧配置の状況によっては災害が起こる可能性のあるほど強風になることもあり、こうした、場合には警報が出る場合もあります。

ただ、台風ほどひどくはなく、全国的に吹き荒れるということはむしろ少ないようです。気象庁では、人口の多い東京と大阪でのみ「木枯らし1号」のお知らせを発表しています。今年と去年は10月(去年は東京大阪とも27日)でしたが、東京でも近畿でもだいたい11月以降になることが多く、2005年には近畿で12月5日という記録がありました。

木枯らし一号に対して、春先に吹き荒れるのが春一番です。こちらは、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件としています。木枯らし一号がこれから本格的な冬を告げる嵐であるのに対し、こちらは春の訪れの予告です。

従って、近年の日本では、一般的にはこの木枯らし一号が吹き荒れる11月の頭から、春一番の吹く2月の中旬ぐらいまでが、真冬、ということになるようです。二十四節気に基づく節切りでは、だいたい11月6日ごろの立冬から2月5日頃の立春の前日まで、とされており、だいたいこれとも一致します。

次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬です。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなりますから、太陽からの暖を取る時間も短くなるということで、生物にとっての冬は直接に命の危険にさらされる季節でもあります。このため、多くの生物はこの間、活動を控えたり、様々な方法で越冬体制に入ります。

多くの動物は、凍結しない場所で活動を停止しじっとするようになり、一般にはこれを冬眠といいます。トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜ります。ほ乳類のコウモリやヤマネ、クマなどの哺乳動物は体温を下げて冬眠します。

しかし、シカやサルなどのように、冬眠しない動物もおり、これらの動物は餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぎます。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われているようです。

一方、低温というのは植物にとってはかなり厳しい環境であり、平たくて薄い葉はとくにその影響を受けやくなります。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えますが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てます。これが、落葉です。多くの落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らします。

人間は、といえば防寒のために厚手の冬服に着替え、さらに手袋やマフラーなどの防寒具を着用して寒さを防ぎます。火を使えるのは人間だけであり、暖房器具を使用するのも冬ならではのことです。こたつが恋しい季節であり、我が家でもそろそろストーブを出そうかと思っています。

北半球においては、一般に農業生産は春から秋にかけて行われ、冬は翌年の生産への準備に当たる季節です。このため、その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多くなります。クリスマスもそんな中で訪れる一日です。

一般に「イエス・キリストの誕生日」と考えられていますが、実はこれには根拠がないようで、キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、3世紀の古代ギリシアでは5月20日と推測していました。

今のように、12月25日ごろになったのは、農業活動における収穫の時期が終わり、牧畜などであちこちを放浪していた民がたちも本拠に戻り、家族と過ごす時期に合わせてキリストの生誕日をここに持ってきた、という説もあるようです。

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日本でも神道にのっとり、この時期には大祓(おおはらい)が行われます。これはその年に起きてしまった災厄をリセットして翌年の国体の鎮守を図る儀式です。日本人もまた農耕民族であるため、時期としては農作業が一段落した年末、という時期が選ばれたのでしょう。

このほか、針供養、お歳暮といった行事もおおかた12月に取り行われ、これに忘年会が続き、大掃除、年越しそば、除夜の鐘と段取りが進んでいきます。

木枯らし一号から、この年末のあまたある行事の数々の合間には、関東地方では上天気が続き、この間、からっ風(空っ風)が吹きまくります。主に山を越えて吹きつける下降気流のことで、山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となります。

ここ静岡でも、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。しかし、からっ風といえば、やはり群馬県であり、ここに冬場に吹く北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。

上州名物は、「かかあ天下と空っ風」といわれるように、女性が強い県とも言われます。これは、上州では養蚕が盛んであったことに由来しているようです。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、当然、発言力も大きくなります。

きめ細かな蚕の飼育、すなわち女性の持つ繊細な感覚と骨身を惜しまぬ勤勉さであり、上州の女性は、春から夏にかけては、養蚕に精を出し、秋の収穫を終えると今度は、糸挽きと織物に専念しました。このため群馬では高い品質の生糸と織物が生産されるようになり、ひいてはその原動力である女性は高く評価されるようになりました。

かつての彼女らの収入は、男性のそれよりもはるかに高額であり、このため、「上州では女が男を捨てる」とよく言われていたようです。嫌いな夫、働きがいも生活力もない夫に多額の慰謝料を支払うことが出来るのは、それを可能にする経済的実力を手にしていた、というわけです。今の上州の女性も男性を捨てる傾向があるのでしょうか。

一方では、懸命に働く女房を見て、男どうしが自分の女房を自慢し合った、ともいわれているようで、それを他県人が「かかあ天下」と揶揄し「かかあ天下と空っ風」の言葉が生まれた、という説もあります。

また群馬県南部は関東平野の北西に当たり、かつては中山道の宿場町として江戸からの街道者で賑わいました。宿場町であったことから賭場も多く、群馬男のバクチ好きはよく知られるところです。このバクチの金の出所といえばかかあが稼いだ金であり、その金でバクチを打つというのは、まさにヒモです。

このため、金を貰うためにはかかあを大事にしなければならず、これがやがてはバクチ打ちが持つ資質、「義理人情に厚い」に変わっていったといわれており、そのDNAは現代の群馬県民にも受け継がれているといいます。

群馬県民の、情に厚く、小さいことにこだわらない、だれにでも愛想がよく気持ちいい、といった気質もまた博徒をもてなすバクチ打ちから受け継いだ気質と思われ、一方では、自分の尺度で物事を押しつける直情型が多く、「見た目重視の内容なし」で物事が進みがち、という群馬男性の気質も単純ゲームである賭博のせいだともいいます。

一方では、「かかあ天下」の気質を受け継いだ群馬の女性は、生まれもって行動的であるといわれ、会社組織であれば部下のミスもカバーする責任感のあるタイプの上司が多いといいます。おおらかで包容力もありますが、意外に些細なことで悩むことも多く、情に厚いが気配りベタで、誤解され敵をつくりやすいそうです。

私の知人・友人には群馬県民はほとんどいません。なので、これらが当たっているのかどうかは正直なところよくわかりません。が、もし間違っていたら、群馬県民の方、お許しください。

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ところで、こうした「木枯らし」「博打打」といったキーワードからどうしても連想してしまうのが、「木枯らし紋次郎」です。笹沢左保の股旅物時代小説を原作とし、フジテレビ系列で1970年代に放映され、大人気を博したテレビドラマです。

私の世代の人にはおなじみのキャラクターですが、同番組を見ていない若い方に簡単に説明しておくと、その舞台は天保年間の江戸時代です。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉の機転に助けられます。

薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は、10歳の時に家を捨てて渡世人となりますが、ボロボロな大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝をくわえているのが彼独特のスタイルです。その旅の先々で色々なトラブルに出くわしますが、かならずその劇中で紋次郎が口にする決め台詞が「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」です。

毎回毎回、事件には関与しない、との姿勢を貫こうとしますが、その生まれ持っての「優しさ」ゆえに結局は事に関わってしまい、いつも人助けをしてしまう……というストーリーです。しかし、一話完結となっており、毎回のストーリーに連続性はありません。

自分には関わりがないこと、といいながらいつも関わってしまう照れ隠しなのか、物語の最後になると、いつもお決まりのシーンがあります。

その咥えている長い楊枝を、ニヒルに片方の口端を上げながら「スー~ッ」と息を吸い込んだあと、勢いよく「ピッ」と吹き出すと、その楊枝が物語の要となっている文物、時には人物に命中します。これがまたカッコよく、世代を超えた男性を虜にしました。

私が聞いた話では、この木枯らし紋次郎が流行っていたころには、企業のエレベーターの中に、よく爪楊枝が転がっていたといいます。このころのサラリーマンたちは、この紋次郎を自分になぞらえて、こうしてひと目につかないところで、上司に向かって楊枝を飛ばし、ウサを晴らしていたに違いありません。

番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、1972年の元日に放送開始されました。ただ、市川監督は監修と第1シリーズの1~3話・18話で演出(監督)を務めただけで、全作品のメガホンを取ったわけではないようです。が、要となる部分では物語全般でかなり細かい部分に渡って関わっており、とくにその中でもこだわった斬新な映像美は秀逸でした。

実は、市川監督は実は元アニメーターだった、という話は意外に知られていません。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務めていました。

アニメの下絵描きからスタートし、「ミッキー・マウス」や「シリー・シンフォニーシリーズ(ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーションシリーズ)」などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだといいます。

市川昆は、1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれました。呉服問屋の生まれでしたが、父が急死し4歳から伯母の住む大阪に移り、その後脊椎カリエスで長野県に転地療養。その後広島市に住んだこともあり、彼自身は難を逃れましたが、母親は被爆しています。出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名しました。

改名の理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われています。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を週刊朝日に投稿し当選した、とされます。調べてみたところ、これが小説だったのか、漫画だったのかどうかはよくわかりません。

当初は画家に憧れていたといい、なので漫画だったのかもしれません。ともかく画家にあこがれていた少年時時代でしたが、ただ、この当時は画家というのはその画材を得るためにも相当裕福ではないと無理な時代であり、あきらめざるを得ませんでした。

1932年に公開された伊丹万作監督の「國士無双」を見て、感動し志望を映画界に変更。映画人になるための早道として、得意だった絵を武器に京都のJ.O.スタヂオのトーキー漫画部に入所しました。

1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画「新説カチカチ山」を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。このころ、東宝と改名していた東宝京都撮影所の閉鎖にともなって、東京撮影所に転勤になりました。

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この東宝の砧(きぬた)撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなりました。終戦を29歳で迎え、1948年の「花ひらく」で監督デビュー。アニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人となりました。

戦後すぐには、東宝で風刺喜劇やオーソドックスなメロドラマ作品も撮っていますが、1955年(昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。「ビルマの竪琴」で一躍名監督の仲間入りを果たし、その後大映に移籍。このように映画会社を転々とする中で文芸映画を中心に数々の名作を発表してその地位を確立しました。

とりわけ1960年(昭和35年)の「おとうと」は大正時代を舞台にした姉弟の愛を表現したもので、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となりました。1965年(昭和40年)には総監督として製作した「東京オリンピック」が、当時の興行記録を塗り替え、一大センセーションを起こします。

市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリータッチの映画を撮りあげました。冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影しました。

また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げて好評を博しました。

その後テレビ放送が開始され、一般家庭にも普及していく中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくありませんでした。しかし、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年よりこの分野に積極的に進出。

通常、映画監督のテレビ進出はフィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにとどまることが多いものですが、市川はそれだけでなく、テレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛け、テレビ史においても先駆的な役割を果たしました。

1965年から1966年にかけて放送された「源氏物語(毎日放送)」では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、テレビに関連する様々な業績に与えられ、知名度も非常に高いアメリカの「エミー賞」にノミネートされたこともあります。

テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)のCMが彼の手によりシリーズ化されました。このCMでは、大原が和服姿で登場し、ぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」と懇願。

サントーレッドは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、このCMは1980年(昭和55年)から10年間もシリーズ化されて放送されていました。

そして、1972年に監督・監修を手がけた、フジテレビの連続テレビ時代劇「市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ」です。テレビで放映されるにもかかわらず、映画と同じフィルム撮りとし、市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われています。

元々原作の笹沢佐保は紋次郎を田宮二郎をモデルにイメージしていたそうです。が、「主役は新人で」という市川の意向により、元・俳優座の若手実力派で当時すでに準主役級の俳優として活躍していながらも、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった中村敦夫が紋次郎役に抜擢されました。

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これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく」といった定番スタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチ。

22時30分開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にも関わらず、第1シーズンでは毎週の視聴率が30パーセントを超え、最高視聴率が38パーセントを記録する大人気番組になりました。

その殺陣においても、それまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュな殺陣を捨て、ひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒同士の喧嘩にも独特な殺陣が導入されました。時の博徒が正式な剣術を身につけているというのはありえず、このため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった演出が多用されました。

また、田舎の博徒が銘のある刀を持つことなどありえないとし、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行いません。

金もないのに刀の手入れを砥師に頼むといったことも考えられないことから、自分で刀を研ぐ、着ている道中がっぱも自分で繕う、といったリアリティを重視したたて(殺陣)がシリーズ全編を通して徹底されていました。

ただ、紋次郎のまとっていた外套は元々江戸時代の風俗には無く、西部劇のガンマンが着けていたポンチョを真似て採用されたものだと、後に中村がトーク番組で語っています。また、道中がっぱのほかにもこの当時の渡世人は三度笠をしていた、というのは、明治期以降に流行した講談などにおける創作とも言われています。

三度笠というのは、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついたものであり、これと縞模様のかっぱを常用していた、というのは、俗説のようです。

ドラマの主題歌「だれかが風の中で」は、その作詞を市川の妻で市川監督作品のほぼすべてに関わった名脚本家の和田夏十に依頼。また作曲をフォークバンド・六文銭を率いるフォークシンガーの小室に依頼。力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なこのメロディーを、上條恒彦が歌いあげました。

上条のその歌声はおよそ時代劇には似つかわしくないものでしたが、逆にその新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけでシングル23万枚を売り上げる同年度屈指の大ヒット曲となりました。

最近の映画やテレビでは普通になっている、血しぶきが飛ぶ、といった演技もこのドラマでは見送られました。フジテレビジョン編成部の金子満プロデューサーが、「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否され、ヒットしない」という信念を持っていたためであり、金子は市川崑が演出として提案した凄惨なアクションシーンを毅然とした態度で拒否しました。

市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、こうして流血のシーンは無くなりましたが、金子は「血はともかく、映像は素晴らしいものだった」と当時を回願しています。

「喧嘩の仕方や衣裳、食事もヤクザらしいリアリティを持たせて描き、最初と最後には情緒たっぷりのナレーションを毎回同じ時間に同じ場所で流す」といった市川のストーリーとともに、金子が主張した「絶対に血のアップを撮らせない」という方針がなければ、これほどまでの人気は得られなかったのかもしれません。

この初代の木枯らし紋次郎の人気から、1977年には「新・木枯し紋次郎」が同じ中村敦夫主演で製作されましたが、このときのテレビ局は東京12チャンネルでした。本作での紋次郎の決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったそうですが、これは前作ほどの話題とはなりませんでした。

1993年にも中村敦夫主演で映画「帰って来た木枯し紋次郎」が東宝配給で制作され、監督も市川崑が務めました。当初はTVスペシャルのために製作されたものでしたが、出来栄えが良かったため急遽劇場上映が決定したもので、主題歌も、テレビ版の「だれかが風の中で」が使われていました。

このほか、1990年には岩城滉一、2009年には江口洋介の主演で単発のスペシャルドラマが製作されています。

中村敦夫は、この「帰って来た木枯し紋次郎」を最後に役者を休止し、1998年(平成10年)の参議院議員選挙に立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となりました。

同年「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を一人で旗揚げをし、任期中は議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動などに取り組んで、活躍されましたが、2004年(平成16年)7月参議院選挙では比例区に転向して出馬し、落選。

政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰し、最近ではサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じる事が多くなっています。また、最近では評論活動や執筆活動も続けており、同志社大学などの大学などで講演も行っているようです。

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その後市川監督のほうは、「木枯らし紋次郎」がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともありました。

しかし、1970年代に入り、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けたところ、その絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で人気を博し、全作が大ヒットとなりました。これを機に横溝正史ブームが始り、さらに「細雪」「おはん」、「鹿鳴館」などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した「幸福」、時代劇「四十七人の刺客」などもリリース。

そのほか、「どら平太」「かあちゃん」など、多彩な領域で成果を収めましたが、役所広司が主演してヒットしたこの2000年の「どら平太」が撮影された時には既に、85歳を超えていました。

90歳を超えても現役で活躍したという点では新藤兼人に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となっていました。2006年(平成18年)に監督した「犬神家の一族」は30年前の作品をリメイクしたものであり、老いてなおその実験精神は衰えませんでした。

この映画では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみせたといい、カット割や構図も前作を踏襲したものが多かったようですが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するエンディングとなっており、この挨拶が市川の長年にわたる監督生活のラストカットとなりました。

結局この作品が遺作となり、2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。92歳没。同年3月、日本政府は閣議に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定しました。

しかし、日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれましたが、錚々たる授賞歴の一方で、キネマ旬報社の叢書「世界の映画作家」では最後まで採り上げられませんでした。

黒澤明監督のように、世界に誇れる映画人、というふうに紹介されなかったのは、この年代の巨匠としてはめずらしく社会的テーマを前面に打ち出した作品がほとんどなかったからだといわれています。

が、木枯らし紋次郎シリーズや金田一耕助シリーズのように、日本人のような繊細な民族の心の琴線にだけひっかかるような映画を撮ることができるのは、彼だけではなかったか、という気がします。

市川の独特の映像表現は、後輩の映画監督に多大な影響を与えており、枚挙のいとまはありませんが、彼と同じく故人となっている、伊丹十三は「師匠は市川崑さんです」と明言していたそうで、彼が手がけた英映画の完成したシナリオは、必ず市川のもとに届けられたといいます。

また、三島由紀夫は「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える」と書いています。

今は、伊丹や三島といった天才とともにあちらの世で新しい作品の構想を練っているに非違いありません。今後とも市川監督のDNAを受け継いだ映画人の中からは、あの世にいるその監督からのインスピレーションを得た作品が数多く出てくるに違いありません。

それにしても、カッコ良かった木枯らし紋次郎、もう一度みたいものです。これからのからっ風が吹く季節、紋次郎になったつもりで、もういちど青空に向かって楊枝を飛ばしてみるのもいいかもしれません。みなさんもひとついかがでしょうか。

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海の向こうへ

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10月も下旬になってきました。

今年ももうあと2ヵ月……

そろそろ大掃除の算段やら年賀状の準備のことを考えている人も多いでしょう。さすがに来年の正月の準備をしている人はまだ少ないでしょうが、年末年始にかけて海外旅行などへ行く予定のある人などは、そろそろそのスケジュールについて考え初めていることでしょう。

日本人の海外旅行先ランキングを調べてみると、やはりアメリカが断トツ一位で、だいたい例年370~380万人くらいで推移しているようです。ただし、その半数はハワイであり、グアムがだいたい4分の1を占めます。従って、アメリカ本土まで足を延ばす人は100万人ちょっとにすぎません。

アメリカに次いで日本人がよく行くのはやはり中国であり、だいたい270~280万人くらいです。この数字は香港や台湾を除いたものであり、ハワイやグアムを除いたアメリカ本土を遥かに超え、断トツ、という印象があります。

一方中国人のほうも日本へ旅行する人が多く、ここ数年はたいてい旅行先の第1~2位で推移しているようです。

お互いいがみあっているようにみえても、お互い旅行先に隣国を選びたがる、というのはやはりその文化や風物をお互い認め合っているようにもみえます。ただ、近くて遠いは隣人、ということで逆にお互いのことをよく知らないので、行ってみて確認しよう、と思っているのかもしれません。

日本人の海外旅行者の第1号は幕末のジョン万次郎ではないか、という説もあるようです。

が、彼は漂流してアメリカに渡ったはずであり、海外旅行?と少々首をかしげたくなります。調べてみると、彼はこの渡航した先のアメリカで、日本人としては初めて鉄道に乗っており、かつ気船に乗ったのも彼が初めてではないか、といわれていることに起因しているようです。

たしかに幕末に蒸気船に乗った日本人は多いでしょうが、アメリカ本土まで行って鉄道にまで乗った人物というのは、幕末改革期の初期のころには万次郎しかいなかったかもしれません。

しかし、万次郎がアメリカに渡ったのは遭難という不可抗力のためであり、やはり海外旅行第一号とはいえないでしょう。日本が各国と国交を結び、正式に相手国への入国許可を得てから海外旅行をするようになるのは、やはり明治時代以降ということになるようです。

それにしてもその多くは新政府の官員による「視察」や「技術導入」などが主であり、いずれにしても一般市民には観光を目的とした海外旅行は無縁でした。

海外へ行くためには船以外の手段がなかった当時、これに乗船する、できるというのはよほど裕福な人でなければ考えられず、庶民にとっては海外旅行などは夢の夢であったでしょう。

海外へ渡航するための船も明治のはじめごろにはまだ北前船のような帆掛け船ばかりであり、海外へ行けるような能力のある船は軍艦として輸入されたものばかりでした。「商船」というものが初めて登場したものは1874年(明治7年)であり、この年、岩崎弥太郎が創立した三菱商会の本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名しました。

この会社は、アメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた日本の航海自主権を、政府の援助や三菱商会が運営していた三菱銅山の利益を元に、激しい値下げ競争を行うことで取戻す役割を果たしました。その後、三井系国策会社である「共同運輸会社」とさらなる値下げ競争を行ったことで商船による輸送運賃はどんどんと下がっていきました。

さらに、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介で両社が合併し、日本郵船会社が設立。その後も欧米の海運会社が独占する世界中の航路に分け入ってゆき、わずか10年余りで世界の主要都市ほぼ全てに航路を開設しました。

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おそらく、こうした海外への商船の進出が加速する間に、これらの船便に便乗して海外旅行をした人は割といたと考えられます。が、その第一号が誰だったか、といわれるとなかなか特定は難しいようです。

ただ、海外留学も海外旅行の範疇に入る、と考えるならば、1862年(文久元年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送っており、これが嚆矢と考えられます。幕府は次いでヨーロッパの諸国へも留学生を派遣しており、また長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しています。

1866年には留学のための外国渡航が幕府によって正式に許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。とはいえ、これ以前の古代にも、日本から中国へ仏教などの導入を目的として僧侶を留学させており、海外留学のはじまりといえば、奈良時代の遣唐使とうことになります。

こうした留学を除き、あくまで旅行目的で海外旅行をするようになったのは、やはり明治時代以降でしょう。

明治8年(1875年)6月の外務省の報告書にある「海外行ノ免許ヲ得タル我官民ノ総数」においては、イギリス行きの「免状の現数」は131、アメリカ行きの免状は304となっています。

この免状というのは、海外への渡航を国が許可したことを示す免許証、つまり現在で言うところの旅券(パスポート)のことで、要は、当時はこれがなければ海外に渡航することができなかったということです。当初は、「海外行免状」と呼ばれていましたが、明治11年(1878年)には現在のような「海外旅券」に改称されました。

また、この時にはこれとあわせて「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどが取り決められていました。

この海外渡航に旅行が含まれたいたかどかは特定できません。ただ、私の推測ですが一般的な海外旅行は明治中ごろまではまだ普及していなかったでしょう。政府によって富国強兵策が進められ、積極的な外貨獲得のために多くの日本人が海外へ出ていった時代であり、その多くは商用か留学目的だったでしょう。

しかし、明治末期になるとかなりその数も増えてきたとみえ、明治24(1891)年には、に「浦潮遊航船」と称する新潟発ウラジオストックク行きの海外旅行ツアーが実現していた、という記録があるようです。この当時の新潟新聞の記事によれば、加能丸という総トン数300トンあまりの船で24名あまりが2週間ほどの旅行へ行って帰ってきたとされます。

この新聞記事によれば「其目的は同地を一覧せんとする人々及び冒険起業の志士を載せ行くに在り」だそうで、これは明らかに旅行目的です。旅行料金は、「上等35円 並等25円 但往復滞在食料共」ともあり、おそらくは日本で最初のツアー旅行と考えられます。

このほか、明治29年(1896年)ころから、明治35年(1902年)にかけて、兵庫県や、長崎、岡山、三重などの中学校(旧制)や商船学校などが、満鮮旅行を実施した、という記録が残っており、修学旅行での海外旅行もこのころまでには始まっていたようです。

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また、1901年(明治34年)の報知新聞の特集記事では、20世紀中に海外旅行が一般化することが予測されていました。

1月2日と3日の2日にわたって同紙紙面に掲載した未来予測記事で、これは「二十世紀の豫言」というタイトルでした。

その中で旅行については、「十九世紀の末年に於て尠くとも八十日間を要したりし世界一周は二十世紀末には七日を要すれば足ることなるべくまた世界文明國の人民は男女を問はず必ず一回以上世界漫遊をなすに至らむ」と書いてあり、いずれ海外旅行は一般化するだろうと予測しています。

ちなにみにこの予言の中では「航海の便利至らざる無きと共に鐵道(鉄道)は五大洲を貫通して自由に通行するを得べし」としており、いずれ航海は廃れ、鉄道がこれにとって代わるだろう、としています。

このほか、鉄道に関しては、高速化のみならず、電化や快適性の向上などが的中しており、地下鉄、高架線もさることながら、ゴムタイヤによるモノレールや新交通システムの登場までも言い当てています。さらに自動車の普及についても言及していました。

「五大州」とは、アメリカ大陸・ヨーロッパ大陸・アジア大陸・アフリカ大陸・オセアニアのことであり、これらの大陸で鉄道網がくまなく敷設されるために、船舶が衰退するとう論理のようです。しかし、たしかにその後船舶航行が衰退していったのは確かですが、これに代わって飛行機が取って代わるといったことまでは予測していません。

ただ、この当時既にあった飛行船については、「チェッペリン式の空中船は大に發達して空中に軍艦漂ひ空中に修羅場を現出すべく、從って空中に砲臺(砲台)浮ぶの奇觀を呈するに至らん」としています。

この「大に発達」したものが飛行機と解釈するかどうかは別として、空飛ぶ乗り物についてもある程度の進化を遂げるであろうことを示唆しているといえます。

さすがに、現在のようにインターネットの普及によって世界の距離が縮まる、といったことまでは予測していませんが、「無線電信は一層進歩し、無線電話は世界諸國に聯絡(連絡)」するようになる、と書いています。

このほか「數十年の後、歐洲(欧州)の天に戰雲暗澹たる状況を電氣力により天然色の寫眞で得」ることができる、と書いており、これはカラーファックスのことと考えられます。さらに「傳聲器(伝声器)の改良」、すなわち電話機や電話網の改良や「對話(対話)者の肖像現出する裝置」といった記述もみられ、これはテレビ電話のことかと推察されます。

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明治の終わりごろというのは、かなり欧米から情報が入って来ていた時代であり、ここまでの予想が出きたのもそうした豊富な情報量のおかげでしょう。が、それにしても1901年といえば、今から114年も前のことであり、この予未来予想はかなり頑張った結果、といえるでしょう。

その後、大正から昭和に入るころまでには、日本人の海外旅行者はさらに増えていったと考えられます。1912年(大正元年)には、 外国人観光客誘客促進を目的とした任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立されましたが、これは現在の日本交通公社(JTB)の前身です。

外国人観光客を日本に呼び込むための機関でしたが、数少ない日本人の海外旅行者の旅行先での便宜などを図っていたことは想像に難くありません。1930年(昭和5年)には、鉄道省にも国際観光局が設置されており、これらの努力により、1936年(昭和11年)には、日本を訪れる外国人旅行者は4万人を超えました。

しかし、このころから日本は戦時色が強くなり、日本人の外国への旅行は業務や視察、留学などの特定の認可し得る目的が無ければならなくなりました。

この当時の日本人の海外渡航者数を調べてみたのですが、それらしい統計がみあたりません。ただ、昭和7年(1932年)には、満州国が立国しており、満州以外への渡航が制限されていたとすれば、日本人の海外渡航者数のほとんどは、この満州へ渡ったと人たちではないかと考えられます。

満州の人口は、昭和7年が約3400万人、昭和12年(1937年)が約3700万人、少佐17年(1942年)が4400万人です。この数字すべてが渡航者数とは限りませんが、海外渡航が制限されていたこの時代、他国への出国も含めて、この数字の範囲内であったことはおそらくまちがいないでしょう。

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太平洋戦争中にかけての海外への渡航はさらに日本政府による強い規制を受けてきており、このころにはもう、物見遊山の海外旅行などというものは認めらるようなことはありえない時代です。海外へ出国、といっても戦争に行くのと等しい時代であり、海外旅行をうんぬんするのは無意味といえます。

戦後にかけてもやはり海外旅行は厳しい制限をかけられており、外務省などの資料の中に、「日本人海外旅行者数」としてはっきりと数字であげられているのは、昭和30年代に入ってからです。

昭和38年(1963年)の段階で128万人とされており、こうした数字が残っているのは、この年の4月1日以降は現金とトラベラーズチェックによる年間総額外貨500ドル以内の職業や会社などの都合による渡航が一般化されたためです。

ただ、この当時はまだ個人のチェックの利用は難しく、これもいちいち旅行代理店を介してではないと認可されませんでした。一般の市民が職業上の理由や会社の都合ではなく、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは翌1964年(昭和39年)以降であり、年1回500ドルまでの外貨の持出しが許されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)以降はそれまでの「1人年間1回限り」という回数制限も撤廃され1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができることとなり、これ以降、次第に現在のような遊行が目的の海外旅行が広がり始めました。

これら自由化当初の海外旅行はかなりお高く、その費用も50万円程度だったようで、これは現在の換算では300万円ほどにもなるようです。当然海外へ行けるのは一部の富裕層に限られており、庶民には夢の夢でした。

テレビ番組「兼高かおる世界の旅」が放映されて人気を博すようになったのもこの時代であり、この番組で紹介される世界各地のナレーション付き映像も庶民にとっては夢の世界のはなしではありましたが、文字通り人々に夢を与えました。

「アップダウンクイズ」といった番組が始まったのもこの頃であり、10問正解して夢のハワイ」のキャッチフレーズで始まるこの番組も高い視聴率を得ていました。大手の食品メーカーなども懸賞として海外旅行を提供するようになり、「トリスを飲んでハワイへ行こう」は流行語にもなりました。

これは、1961年(昭和36年)にトリスが始めたもので、ウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものでした。ただ、この当時はまだ一般市民の海外渡航には制約があったため、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程でした。

その後、上のとおり1964年(昭和39年)に海外旅行は自由化されましたが、まだまだ高度成長化は単緒にすぎず国民の多くは貧しかったため、当選者のほとんどはこの預金証書を旅行に使わず現金化していたそうです。

海外旅行がさらに一般化し始めたのは1970年代からで、1972年には海外渡航者は300万人を突破しました。飛行機の大型化やドルが変動相場制に移行しての円高や旅行費用の低下が進み、韓国や台湾などの近隣国であれば国内旅行よりも多少高い金額ぐらいで旅行できるようになりました。

1980年代後半には急激な円高となり、1988年からはアメリカ合衆国訪問時にはビザが免除になったこともあって、海外旅行者が大幅に増加しました。ちなみに私が留学を目指したのはこの時代であり、一年くらいの滞在費用しか持っていなかったものの、その軍資金が半年ほどで倍増して小躍りしたのを覚えています。

1995年に一時過去最高の1ドル=79円台まで進行した円高の際には、国内旅行と海外旅行の費用が逆転するケースが発生するようになりました。しかし、その後は円安傾向となり、平成3年には海外旅行者が初めて減少に転じました。

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平成7~8年ころから増減を繰り返す横ばい状態になり、それを反映してか、海外旅行先としては欧米が減り、日本の周辺国への旅行が増えているようです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の影響や、2003年のイラク戦争等の影響もあり、海外におけるテロ行為のリスクがあらためて認識されるようになったことも減少に影響しているようです。

日本からの海外出国者数は、現在ではだいたい1400~1500万人くらいで、世界で13番目ほどの多さですが、人口比で見た海外出国率では決して多いほうではないようです。冒頭で述べたとおり中国が人気が高く、世代別でみてみると、40代男性が最も多く、30代男性、50代男性、20代女性がそれに続きます。

近年では男女とも60代の伸びが著しいのに対し、20代の若年層に限っては、2000年前後から減少傾向が続いているようで、若い人が海外へ行かなくなったのが気になります。20代男性は2000年代半ばを境に60代に抜かれ、90年代まで世代別のトップの旅行者数だった20代女性も3分の2未満に減少しています。

法務省の統計データによれば、日本人の海外旅行者数がピークだった2000年に20代の海外旅行者数は418万人でしたが、2010年は270万人にまで落ち込んでおり、現在に至るまで依然として低迷している状態です。

その原因はよくわかりませんが、最近の若い人は贅沢をしないようで、我々の世代のようにクルマを欲しがりませんし、海外旅行に対してもあまり興味がないようにみえます。しかし、おそらくは長引く不況によって正規雇用者より年収が低い非正規雇用者が増加するなど、収入面での影響があるに違いありません。

しかし、最近は格安航空会社(ローコストキャリア:LCC)が増えたことも反映して、格安パッケージも増えてきており、これは若者の間で人気です。往復の交通・宿泊込みで東アジアの都市2泊3日の旅行が、たった1万円台後半というのもあるそうで、若い人だけでなく壮年、高年層にも人気のようです。

東京~新大阪間の東海道新幹線の往復運賃(3万円程度)よりも安く、この値段ならば予算の乏しい学生なども海外旅行へ行けます。しかし、いざ旅立とうとすると、空港利用税だの旅券発給手数料だのを取られるため、全体費用が嵩む点は問題であり、できたばかりの観光庁は何をやっているのか、と思います。もう少しなんとか頑張って欲しいと思います。

とはいえ、海外旅行が夢また夢と言われた時代に比べれば、それこそ夢のような時代であり、若い人は社会経験を積むという意味でも、アルバイトをしてでもワーキングホリデーでもなんでもいいから海外へ行ってほしいと思います。

旅行費用が高いから、という理由以外に、外国語が苦手だから、国内旅行のほうが好きだから、という内向きな答えばかりが返ってくるのは、今の日本の若者には冒険心がなくなってしまったのではないかという気がして気がかりです。

「海外に行くことで日本の良いところ悪いところがわかる」とよくいいますが、実際に海外へ行くと、日本の常識が通用しないことがわかります。逆に日本では非常識なことがある国では当たり前のことだとされていることもあり、そうしたことを知ることで、自分がこれまで生きてきた世界の小ささを知り、逆に豊かさなども発見できるとも思うわけです。

とはいえ、今年こそは海外旅行をしたいと思っていた私の夢もどうやら今の段階では無理なようです。来年こそは、ここ十数年に変わってきた海外を見るためにも若返って、ぜひ飛躍をしたいと思います。みなさんもご一緒にいかがでしょうか。

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電脳エトセトラ

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今日は、トーマス・エジソンが白熱電球を完成させた日だそうです。

日本産の竹の繊維を使ったフィラメントで熱電球を完成させ、1879年の今日、アメリカ・ニュージャージー州で初めて一般に公開しました。

が、エジソンの発明した電球は寿命が短すぎ実用に供するのは難しかったようです。その2年後の1881年、イギリスのジョゼフ・ウィルスン・スワンという物理学者が、このエジソンの電球を改良し、セルロース製フィラメントを用いて販売したものが実用化第一号といわれます。

しかし、スワンはその販売を独占せず、電球の発明者エジソンとともに1883 年、「エジソン & スワン連合電灯会社」を創設して、その普及に貢献しました。その後このフィラメントには、タングステンが使われるようになって飛躍的に寿命が延び、これによって、さらに白熱電球は世界中に広まりました。

ちなみに、エジソンが、白熱電球に使用した竹は、京都男山の石清水八幡宮にあったものだそうです。その境内には、現在彼の記念碑があります。また、嵐山の法輪寺にも記念碑がありますが、こちらはこの寺域内に、電気・電波・コンピュータの守護神として崇敬を集めている「電電宮」というお社があるためです。

がしかし、ご存知のとおり、現在では白熱電球はLED電球に取って代わられ、その存在は風前の灯です。

日本では既に大手メーカー各社が白熱電球の製造を中止しています。地球温暖化防止・環境保護として、白熱電球の生産・販売を終了し、蛍光灯やLED電球への切替を消費者やメーカーに促す動きは世界的に広がっており、早晩白熱電球は過去のものになるでしょう。

ただ、エジソンの発明したものは電球だけでなく、蓄音器、白熱電球、活動写真などなど数えきれないほどのものがあり、傑出した発明家として知られています。生涯におよそ1,300もの発明を行った人物であり、人々の生活を一変させるような重要な発明を数多く残したことで知られる立志伝中の人物です。

その中でも、最も大きな功績は、発電から送電までを含む「電力システム」の事業化に成功したこと、とよくいわれます。エジソンは世界有数の巨大企業「エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社」の設立者でもあり、資産家のJ・Pモルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電力システムの開発・普及に努力しました。

しかし、発電から送電までを含む電力システムの事業化にあたっては、直流のほうが有利である、として送電方法について交流を推進するニコラ・テスラおよび彼を支援するウェスティングハウス・エレクトリック社と激しく対立しました。

その結果としては、テスラが勝利しましたが、その理由は、交流の利点は、変圧器を用いた電圧の変換が容易である事、送電において直流よりもより遠方に電気を送ることが可能であったことなどです。また直流が必須である電気器具を使用する場合も、交流から直流への変換は容易ですが、逆に直流から交流への変換は困難であることなどもその理由です。

エジソンはアメリカ生まれですが、このテスラはオーストリア生まれです。1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用されました。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失いました。

1887年、独立したテスラは、「テスラ電灯社」を設立し、独自に交流電流による電力事業を推進。同年に交流電源に関する特許を得ます。この特許を使用した交流発電機はウェスティングハウス・エレクトリック社の技師、ベンジャミン・G・ランムの設計によってナイアガラの滝のエドワード・ディーン・アダムズ発電所に世界で初めて取り付けられました。

この発電機は、「テスラタービン」と呼ばれ、その性能の高さと安定した電力の供給能力は高く評価され、その後またたくまに世界中で使われるようになりました。現在においても、送配電システムは交流がおおよそ主流となっているのは、このテスラの功績によるところが大きいようです。

テスラは、1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となりましたが、共に受賞できませんでした。双方が同時受賞を嫌ったためとも言われています。2人は生涯に渡って仲が悪く、直流か交流か、といった論争による「電流戦争」はそれほどまでに深いいしこりを残しました。

その後、テスラは1930年代にも受賞候補に選ばれましたが、やはり受賞できませんでした。しかし、1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は断るものの、再考して1917年にこれを受けました。

考え直した理由はよくわかりませんが、二人ともこのころにはかなり高齢になっており、そろそろ許し合おうか、という気分にもなっていたと考えられます。またこの受賞の3年前にエジソンは自前の研究所を火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙っており、それに対する同情めいた気持ちなどがあったのかもしれません。

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エジソンは、1931年に84歳で死去。また、対するテスラは、その12年後の1943年に83歳で亡くなりました。2人は生涯いがみ合っていましたが、エジソンが典型的な実験科学者であったのに対して、テスラは理論科学者であったことから、その研究手法は水と油ほどの違いがあり、そうしたことが不仲の原因ではなかったか、とはよくいわれることです。

死後、エジソンの名は、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社」に残されましたが、同社はその後「エジソン」の名をとりさって、現在は「ゼネラル・エレクトリック社」になっています。従って、エジソンの直系の会社で彼の名を冠している会社はありません。

しかし、アメリカ国内の電力・配電会社の社名でエジソンの名前を冠しているところは少なくなく、コンソリデイテッド・エジソン(ニューヨーク)、サザンカルフォルニア・エジソン(ロサンゼルス)、コモンウエルズ・エジソン(シカゴ)などが挙げられます。

対するテスラの直系の会社もありません。ただ、彼は旧オーストリア帝国の出身であり、これは現在のクロアチア西部、セルビアにあたることから、セルビアの首都、ベオグラードにある国際空港は、彼の名にちなみ、ベオグラード・ニコラ・テスラ空港と呼ばれています。

また、アメリカには、彼の名前を冠した「テスラ・モーターズ」という自動車会社があります。シリコンバレーのパロアルトを拠点に、バッテリー式電気自動車と電気自動車関連商品を開発・製造・販売している会社であり、昨今急速に拡大している会社です。

社名は無論、ニコラ・テスラにちなむものであり、製造しているクルマの発動機は、「三相交流誘導電動機」といい交流電力を利用したものであり、同じく交流誘導電動機や多相交流の送電システムを考案・設計したテスラにあやかってのことのようです。

創業者の、イーロン・マスクは、南アフリカ共和国・プレトリア出身のアメリカの起業家であり、現在では同社から離れ、NASAからも宇宙船の設計開発を委託されるほどのアメリカ屈指の有力企業に成長した「スペースX社」の共同設立者およびCEOです。

電子メールアカウントとインターネットを利用した決済サービスを提供するPayPal社の前身であるX.com社を1999年に設立した人物でもあります。絵に描いたような「アメリカン・ドリーム」を体現した人ですが、元々はアメリカ人ではなく、南アフリカ人の技術者の父親とカナダ人の母親との間に南アフリカで生まれました。

10歳のときにコンピュータを買い、プログラミングを独学したといい、12歳のときに最初の商業ソフトウェアであるBlasterを販売しています。17歳のとき、親の援助なしに家から独立し、南アフリカでの徴兵を拒否してアメリカへ移住を決意しました。

母親はカナダの生まれであったため、当初はカナダに移住し、カナダ中南部のサスカチュワン州の小麦農場で働き、穀物貯蔵所の清掃をしたり野菜畑で働いたり、製材所でのボイラーの清掃やチェーンソーで丸木を切る仕事などもしていました。トロントへ引っ越して、クイーンズ大学を入学後、米ペンシルベニア大学から奨学金を受け、同校で学位を取得。

高エネルギー物理学を学ぶためスタンフォード大学の大学院へ進みましたが、2日在籍しただけで退学し、弟とともに、オンラインコンテンツ出版ソフトを提供するZip2社を起業。この会社はのちに大手コンピュータメーカー、コンパック社に買収され、マスクは3億700万USドルの現金と、ストックオプションで3400万ドルを手にいれました。

ストックオプションとは、所属する会社から自社株式を購入できる権利で、株価が上がれば上がるほど利益も大きくなるため、アメリカでは業績に貢献した役員らのボーナス(賞与)としてよく利用されるシステムです。

この成功により、PayPal社やテスラモーター社を育てあげましたが、現在ではスペースX社における宇宙開発のほか、太陽光発電会社「ソーラーシティ社」なども立ち上げ、同社の会長に就任しています。2013年には時速約800マイル(約1287キロ)の輸送機関ハイパーループ構想を明らかにしました。

これは、100pa程度に減圧された「チューブ」の中を空中浮上(非接触)させた列車を走らせるというもので、車両前面からチューブ内のエアを搭載したファンで吸い込み、底面から圧縮排出して車体を浮上させます。

区間はロサンゼルスとサンフランシスコ間(全長610km)での施行を予定しており、これを最高時速1,220kmの速度で30分で結ぶ計画です。建設には、20年以上かかると見積もられており、全体建設費用は75億ドル(9,000億円)を見込むといい、車体の開発費も含めると合計で10億ドル(120億円)に上ると予想されています。

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そんなもの本当に実現するんかいな、と懐疑的になってしまいますが、日本だって夢の夢といわれたリニアモーターカーを実現しようとしており、可能性がないわけではないでしょう。彼が立ち上げた、テスラ・モーターズ社のクルマを見れば、それもあるのかな、とつい思ってしまいます。

日本ではまだ馴染のないこの会社の販売している車は、アメリカでは高い評価を得ています。最新型の「モデルS」は、セダンタイプの電気自動車であり、テスラ・ロードスターに続いて同社としては2車種目で、そのパワートレインには、新規開発された9インチの液冷式モーターを採用しています。

最高航続距離は最高300マイル(約483km)を誇り、充電可能な電圧は110V、220V、440Vに対応。220Vなら4時間、440Vなら最短45分で充電可能とされています。

最高速度は200km/hといわれますが、これは安全のため制限されている速度です。また、0~100km/hの加速は4秒を切るそうで、この性能は30万ドルのスーパーカーにも劣らない驚異的な加速性能だといいます。

年費もトヨタ・プリウスのおよそ2倍で、370km走っても電気代が500円程度で済むといい、その後さらに、モデルXというクロスオーバーSUVタイプの電気自動車も発売を予定しているといいます。

電気自動車(EV)は、ガソリン車やハイブリッド車に比べても必要なメンテナンスは極めて少なく、オイル交換は不要です。またブレーキのメンテナンス等も電気制動によるブレーキングシステムのために少なく済みます。ミッションオイル、ブレーキフルード、および冷却水の交換も不要であるため、水素自動車に次ぐエコカーとして日本でも注目されています。

トヨタ自動車は、2010年にまだイーロン・マスクがCEOだったときにカリフォルニア州で記者会見を行い、EVそのものや部品の開発も含めての業務・資本提携にテスラ社と合意したと発表しています。

同年には、テスラ東京青山ショールームがオープンしており、この時に合わせ、ロサンゼルス郊外の港で日本向け車両12台が報道関係者に公開されました。それに伴い日本語版ウェブサイトも開発され、ロードスターの予約が開始されたといい、初出荷分は売約済みで、価格は1,810万円だったそうです。

最新型のモデルSの推定価格は60,000米ドルとされており、これは現在のレートでは700万円強であり、かなりお求めやすくなっています。新車を購入のご予定の方、検討されてはいかがでしょうか。

さて、余談がすぎましたが、このテスラ・モーターズの名前の由来となった、ニコラ・テスラは、その晩年には霊界との通信装置の開発に乗り出すなど、かなりオカルト色い研究を行っていたようです。このことは、変人といわれたテスラの名を一層胡散臭いものとして響かせる原因ともなっており、彼への正当な評価を余計に難しくさせています。

もっとも、晩年の研究においてオカルト色が強まったのはエジソンも同様であり、エジソンもまた、超自然的、オカルト的なものに魅せられていたといい、来世を信じていたといいます。降霊術を信じていて、近代神智学を創唱した人物として知られる、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席したこともあります。

神智学というのは、通常の人間的な認識能力を超えた神秘体験や神秘的直観、神もしくは天使の啓示によって、神を体験・認識しようとするもので、現在スピリチュアリズの源流とされているものです。

仲の悪かったエジソンもテスラは、まるで示し合わせたように、その晩年に死者と交信する電信装置(Spirit Phone) を研究しており、こうした研究から人々からかなり変人扱いされました。

ただ、テスラもエジソンも、社会とうまくやっていく能力にほんの少々欠けていただけであり、自分が不思議と思うことに対する純粋な探究心からこうしたオカルト的な研究に没頭していたとも考えられます。

研究テーマが風変わりであるだけに、世間からは色眼鏡で見られることも多かったものの、彼等は真剣そのものでした。とくにエジソンは、「人間の魂もエネルギーである」と考え、「宇宙のエネルギーの一部である」と考えていました。

「エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだ」と考えており、エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録することで発明としていたに過ぎない」のだといいます。

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また、エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に「自由思想家協会」という組織を支持していました。「自由思想家」というのは、教会や聖書の権威にとらわれず、理性的見地から神を考察することを信条としている人々で、一般には、権威や教条に拘束されず自由に考える思想家のことをさします。

こうした概念や考え方は近年では「セレンディピティ」と表現されることもあります。これは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することであり、また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけることです。平たく言うと、「ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取ること」でもあります。

「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ「セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)」という童話にちなんだものだそうです。

セレンディップとは現在のスリランカのことであり、このためこれは「スリランカの3人の王子」という意味になります。ウォルポールがこの言葉を初めて用いたのは、友人に宛てた書簡においてであり、この手紙のなかで、自分がみつけたほんのちょっとした発見について説明しています。その書簡の原文も残っているといいます。

その中には、彼が生み出した「セレンディピティ」という言葉に関する説明もあり、「セレンディップの3人の王子」という童話の中に登場する王子たちが、旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見する、といったことを綴っています。

たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためであり、現象を注意深く観察していれば、予想外の発見ができる、それが「セレンディピティ」だというわけです。

日本語では、この「セレンディピティ」を「偶察力」などと訳される場合もあるようですが、確固とした訳語は定まってはいないようです。統合失調症の治療法の第一人者である、神戸大学名誉教授の中井久夫さんという精神科医は、これを「徴候的知」と呼びました。

「微候」というのは、物事の起こる前触れ、きざし、るし、気配のことで、「インフレの微候がみられる」という風に使います。類義語に「前兆」がありますが、「前兆」はある出来事が起こる以前にその出現を知らせるもので、これに対して「徴候」または「兆候」はある出来事が起こりかけているという気配をいいます。

ほんのちょっとのしるしで、何かを知ることができる能力というわけですが、セレンディピティは、失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつくという、一種のサクセスストーリー的なエピソードとして語られることが多いようです。

また科学的な大発見をより身近なものとして説明するためのエピソードの一つとして語られることが多いようです。ワクチンによる予防接種を開発し、狂犬病ワクチンなどを生み出したフランスの生化学者、ルイ・パスツールによれば、「構えのある心」(the prepared mind)がセレンディピティのポイントなのだといい、次のような言葉を残しています。

「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」

セレンディピティが見出せる代表例としては、アルフレッド・ノーベルによる、ダイナマイトの発明(1866年・ニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化することを偶然発見)、ヴィルヘルム・レントゲンによる、X線の発見(1895年・電磁波の研究から偶然発見)、キュリー夫妻による、ラジウムの発見(1898年X線の研究から偶然発見)などがあります。

また、アレクサンダー・フレミングによる、リゾチームとペニシリンの発見(1922年と1928年)は、フレミングが培養実験の際に誤って、雑菌であるアオカビを混入させたことが、のちに世界中の人々を感染症から救うことになる抗生物質発見のきっかけになりました。

カーボンナノチューブを開発した、日本の飯島澄男(当時NEC筑波研究所研究員、名城大学終身教授)も、フラーレンという特殊素材を作っている際に、偶然カーボンナノチューブを発見しました。

この発見は、と同時にこの研究のために開発していたTEM(透過電子顕微鏡)の発達を加速させ、これにより電子顕微鏡の技術開発においても日本は世界にリードするほどの高度な技術を得るところとなりました。

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このセレンディピティによく似た意味のことばに、シンクロニシティ(synchronicity)というのもあります。「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」「同時性」「同時発生」とも言います。

これは、たとえば、同時発生的に離れた場所で起きた二つの事象が、そのときには何も関係がないと思っていたにもかかわらず、後になって客観的に考えてみると、シンクロ的に起きたのだと確信できるようになる、といったことです。

例えば、会いたいと思っていた人にバッタリと出会う、とか、タクシーをさがしていると、目の前で客が降りる、といったことであり、あとで考えてみると、どう考えても偶然ではなかったと思えたりするわけです。また、買おうと思っていたものを突然プレゼントされる、といったこともシンクロニシティです。

心理学者のユングもこうした事象は、「偶然」によって起きているのではなく、何等かの理由があり、必然的に同時に起こった(co-inciding)ものとみなせる、ということを書いています。

スピリチュアル的にも、何かのサインや呼び寄せた偶然、いわゆる「虫の知らせ」だということもあります。第六感(sixth sense)である、ともいわれ、これは五感以外のもので五感を超えるものを指しており、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きのことです。

自身や家族等の生命に危険が迫った際に「虫の知らせが起きた」と認識されたり、電話がかかってくる前に予知したり、その電話が誰から掛かって来るかを予知したという主張がなされる場合があります。数百キロ離れた水場に向かって迷わず移動するある種の動物は、人間より遥かに優れた嗅覚で水の匂いを嗅ぎ当てているとされます。

また、人間においての「嫌な予感」というものは、人間に備わっている野性的な本能からきているといわれ、機械の部品の変形による微かな摩擦音やコンロのガスの臭いが若干違うなど「いつもと違う」ということを無意識のうちに感じ取っている、とされます。

チェルノブイリ原発の爆発事故では、この事故の2日前から、一部の作業員が「何か落ち着かないと自覚していた」と、その後のインタビューに答えています。

こうした能力はまた、予知能力だともいわれます。時系列的にみて、その時点では発生していない事柄について予め知ることであり、経験則や情報による確定的な予測と異なり、超能力や啓示などの超越的感覚によるものを指すことが多いものです。

現代科学においては、こうした超越的感覚をなんとか実現できないか、といった試みも行われるようになっています。例えば、地震予知や火山噴火の予知であり、このほか、事故の発生の確率の危険予知、設備等の不全の事前予知保全などがあります。

そのために開発されているのが、人工知能(artificial intelligence、AI)であり、人工的にコンピュータ上などで人間と同様の知能を実現させようという試みです。

日本だけでなく、いまや世界中で無人戦闘機や、無人自動車ロボットカーの開発をしています。がしかし、いまだに完全な自動化には至っていません。ロボット向け人工知能も研究も進んでいますが、環境から学習する従来型の行動型システムから脱却しておらず、「我思う、故に我あり」といった人工知能が開発されるのはまだまだ先とみなされています。

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しかし、2045年には人工知能が知識・知能の点で人間を超越し、科学技術の進歩を担う技術的特異点(シンギュラリティ)が訪れるとする向きもあり、早くも「2045年問題」を唱える学者もいます。技術的特異点とは、科学技術が十分意発達し、この時点で人類を支配するのは人工知能やポストヒューマンである、という時期です。

この時点ではこれまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなると考えられており、こうした未来においては十分に複雑なコンピュータネットワークが群知能を作り出すかもしれません。将来にわたって改良された計算資源によってAI研究者が知性を持つのに十分な大きさのニューラルネットワークを作成している可能性もあります。

こうした巨大ネットワークを別名、巨大知(Organic Intelligence)といい、人類が技術的特異点に達するころにはこれも実現しているのではないかといわれます。

これは、環境を観測するセンサーや各種コンテンツ配信システムがインターネットへ接続され、地球全体で情報が統合処理される結果として成立する地球規模の知性です。端的には、地球全体を覆うコラボレーション関係の成立とも説明できます。

楽天技術研究所が2007年に提唱を開始した「サード・リアリティ」という概念を説明する文章の中では、都市や国家単位の規模で成立する集合知同士がインターネットで相互接続され、統合して処理が行えるようになる結果として、地球全体として成立しつつある知性として、この巨大知が説明されています。

それによれば、環境を観測するセンサーや各種コンテンツ配信システムのインターネットへの接続により、産業、医療、気象、交通、農業、芸術作品等の様々な情報がインターネット上に蓄積され、不特定多数の人間により改変が行われることで、人類が得た多様な知識が地球全体で統合処理されるようになります。

その結果として、地球全体を覆う程に巨大かつ高度な知性が成立します。そしてこの巨大知の成立の結果として、従来は思いつきもしなかったような新しい発想が生まれやすくなり、文明の進歩も大幅に加速されることになります。

現時点においても、2010年以降は、急激に向上した計算機の性能を活かし、インターネット上に蓄積されたビッグデータの解析により様々な知識の抽出を行うことが一般化しました。その知識を利用して、学術研究やビジネスを行うことが可能になり、例えば、Twitterのビッグデータのトレンドがテレビ番組で頻繁に紹介されるようになりました。

東北大震災では、この災害時にスマホでツイッターで情報を上げた人の動向を分析した研究者がおり、その結果、被災直後に津波が来ることを予想して、多くの人が家族の安否を気遣って自宅に戻ろうとしていた、といったことが彼等が使用したスマホのGPS分析などからわかっています。

このようにビッグデータを巨大知の卵と考え、これを逆に利用して人工知能を開発しようとする研究も盛んに行われるようになっており、「ビックデータ」ということば自体の成立から10年ほどが経過した2015年以降も、インターネット上への知識の蓄積と通信速度の向上に伴い、巨大知の更なる高度化が進行していると考えられます。

2010年代中盤においてはさらに、IoTの普及が進行しているといわれます。IoTとは、モノのインターネット(Internet of Things、IoT)のことで、一般的には、識別可能な「もの」がインターネット/クラウドに接続され、情報交換することにより機器相互が制御しあう、あるいは情報が流通する仕組みです。

わかりにくい概念ですが、数多くの情報が含まれているスマートフォンや、ID情報を埋め込んだタグのように、IPアドレスを持った機器からはそこに格納されている「コンテンツ」をインターネットを使って自由に売り買いできる時代になっています。これをIT業界では「サービスのモノ化が進んでいる」と表現しており、これがIoTです。

近年では、ものすごく膨大な量の情報をゴマ粒のような小さなワンチップのIC (集積回路)に集約してIoTを実現できるようになりつつあり、インターネットを対象とする研究者らは、こうしたICタグと種々のセンサーを合体させ、これによって収集された実世界に関する精緻な情報をインターネット上で統合処理できるようになると予測しています。

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動物や人間などのレベルだけでなく、細菌レベルでもこうした情報が収集できるようになると考えられており、そうした精緻な情報を世界的に集合させることによって、「集団的知性(Collective Intelligence、CI)」と呼ばれるようなものまで、仮想現実の中で模倣できるようになるのではないか、とまでいわれています。

集団的知性の好例は政党です。政治的方針を形成するために多数の人々を集め、候補者を選別し、選挙活動に資金提供しますが、その根本とは、「法律」や「顧客」による制限がなくても任意の状況に適切に対応する能力を有することです。

政党というのは、一つのポリシーを持つ人々を集めた集団であり、自分たちの目的によっては勝手に法律を作り変えることができるわけであり、その目的いかんによっては非常に単純な思考集団とみなせなくもありません。先日、戦争法の通過を許した、アジアのどこかの国の第一党与党も、その傾向にあります。

そう考えれば、軍隊、労働組合、企業も、政党と同じように特定の目的に特化した組織であり、集団的知性の本質の一部を備えているといわれます。

これを模倣した人工的に作られた集団知性は、それ自体に知能、精神が存在するかのように見える「知性体」でもあり、将来的には、政党や軍隊、企業が持っているのと同等の「コミュニティ能力」をも持っているものになる可能性もある、というわけです。

だんだんと、SF的になってきたのでもうやめますが、一方では、哲学・思想的な側面から、こうした人工的な集合知を実現させることは許されない、とする立場の学者も当然います。

それはそうです。そうした人工知能によって政治やら軍隊が動かされるような時代になったとすれば、各個人の思考・行動においては、自己の裁量が介入する余地が殆ど無くなっている可能性があるわけです。

すべてコンピュータがやってくれる、という世界では、人間の行動パターンの変化が無くなり、環境変化への柔軟性が損なわれてしまう可能性もあり、将来的にやってくるかもしれない氷河期には人類は滅亡しており、後の世界は機械が支配していた、なんてこともあるわけです。

機械に支配された将来の人類、というパターンのSF映画が数多くつくられていますが、巨大知、集団知が実現した世界では、人類は自分では何も考えない、考えられないような生物になっている可能性もあるわけであり、科学の発達がすべて正しい、と考えるのは早計なようです。

さて、今日は話題もりだくさんで、しかも最後のほう、結構お堅い内容になりましたが、ご理解いただけたでしょうか。

今晩は、オリオン座流星群がピークだそうです。これを読んで疲れた方は、夜半、東の空を眺めて、気を取り直してください。

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