爪楊枝の季節

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伊豆の山々もかなり色めいてきました。

当別荘地のメイン通りの桜の葉も先週までは黄色を帯びていたものが、かなり赤くなり、あとは落葉を待つばかり、といったかんじです。今朝ゴミ出しに外へ出たときの寒暖計の温度は10度でした。

東京では木枯らし一号が昨日吹いたといいます。季節が秋から冬へと変わる時期に、初めて吹く北よりの強い風のことを言います。10月半ばから11月末の初冬の間に、初めて吹く毎秒8メートル以上の風、と気象庁では定義しています。

冬型の気圧配置があらわれたときに吹きます。冬型になったときには、ユーラシア大陸から日本に向かって吹いてくる冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含みますが、日本列島の中央部には連山があるために、日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失います。

結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となり、これが吹き抜けることによって木枯らしとなります。気圧配置の状況によっては災害が起こる可能性のあるほど強風になることもあり、こうした、場合には警報が出る場合もあります。

ただ、台風ほどひどくはなく、全国的に吹き荒れるということはむしろ少ないようです。気象庁では、人口の多い東京と大阪でのみ「木枯らし1号」のお知らせを発表しています。今年と去年は10月(去年は東京大阪とも27日)でしたが、東京でも近畿でもだいたい11月以降になることが多く、2005年には近畿で12月5日という記録がありました。

木枯らし一号に対して、春先に吹き荒れるのが春一番です。こちらは、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件としています。木枯らし一号がこれから本格的な冬を告げる嵐であるのに対し、こちらは春の訪れの予告です。

従って、近年の日本では、一般的にはこの木枯らし一号が吹き荒れる11月の頭から、春一番の吹く2月の中旬ぐらいまでが、真冬、ということになるようです。二十四節気に基づく節切りでは、だいたい11月6日ごろの立冬から2月5日頃の立春の前日まで、とされており、だいたいこれとも一致します。

次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬です。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなりますから、太陽からの暖を取る時間も短くなるということで、生物にとっての冬は直接に命の危険にさらされる季節でもあります。このため、多くの生物はこの間、活動を控えたり、様々な方法で越冬体制に入ります。

多くの動物は、凍結しない場所で活動を停止しじっとするようになり、一般にはこれを冬眠といいます。トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜ります。ほ乳類のコウモリやヤマネ、クマなどの哺乳動物は体温を下げて冬眠します。

しかし、シカやサルなどのように、冬眠しない動物もおり、これらの動物は餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぎます。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われているようです。

一方、低温というのは植物にとってはかなり厳しい環境であり、平たくて薄い葉はとくにその影響を受けやくなります。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えますが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てます。これが、落葉です。多くの落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らします。

人間は、といえば防寒のために厚手の冬服に着替え、さらに手袋やマフラーなどの防寒具を着用して寒さを防ぎます。火を使えるのは人間だけであり、暖房器具を使用するのも冬ならではのことです。こたつが恋しい季節であり、我が家でもそろそろストーブを出そうかと思っています。

北半球においては、一般に農業生産は春から秋にかけて行われ、冬は翌年の生産への準備に当たる季節です。このため、その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多くなります。クリスマスもそんな中で訪れる一日です。

一般に「イエス・キリストの誕生日」と考えられていますが、実はこれには根拠がないようで、キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、3世紀の古代ギリシアでは5月20日と推測していました。

今のように、12月25日ごろになったのは、農業活動における収穫の時期が終わり、牧畜などであちこちを放浪していた民がたちも本拠に戻り、家族と過ごす時期に合わせてキリストの生誕日をここに持ってきた、という説もあるようです。

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日本でも神道にのっとり、この時期には大祓(おおはらい)が行われます。これはその年に起きてしまった災厄をリセットして翌年の国体の鎮守を図る儀式です。日本人もまた農耕民族であるため、時期としては農作業が一段落した年末、という時期が選ばれたのでしょう。

このほか、針供養、お歳暮といった行事もおおかた12月に取り行われ、これに忘年会が続き、大掃除、年越しそば、除夜の鐘と段取りが進んでいきます。

木枯らし一号から、この年末のあまたある行事の数々の合間には、関東地方では上天気が続き、この間、からっ風(空っ風)が吹きまくります。主に山を越えて吹きつける下降気流のことで、山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となります。

ここ静岡でも、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。しかし、からっ風といえば、やはり群馬県であり、ここに冬場に吹く北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。

上州名物は、「かかあ天下と空っ風」といわれるように、女性が強い県とも言われます。これは、上州では養蚕が盛んであったことに由来しているようです。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、当然、発言力も大きくなります。

きめ細かな蚕の飼育、すなわち女性の持つ繊細な感覚と骨身を惜しまぬ勤勉さであり、上州の女性は、春から夏にかけては、養蚕に精を出し、秋の収穫を終えると今度は、糸挽きと織物に専念しました。このため群馬では高い品質の生糸と織物が生産されるようになり、ひいてはその原動力である女性は高く評価されるようになりました。

かつての彼女らの収入は、男性のそれよりもはるかに高額であり、このため、「上州では女が男を捨てる」とよく言われていたようです。嫌いな夫、働きがいも生活力もない夫に多額の慰謝料を支払うことが出来るのは、それを可能にする経済的実力を手にしていた、というわけです。今の上州の女性も男性を捨てる傾向があるのでしょうか。

一方では、懸命に働く女房を見て、男どうしが自分の女房を自慢し合った、ともいわれているようで、それを他県人が「かかあ天下」と揶揄し「かかあ天下と空っ風」の言葉が生まれた、という説もあります。

また群馬県南部は関東平野の北西に当たり、かつては中山道の宿場町として江戸からの街道者で賑わいました。宿場町であったことから賭場も多く、群馬男のバクチ好きはよく知られるところです。このバクチの金の出所といえばかかあが稼いだ金であり、その金でバクチを打つというのは、まさにヒモです。

このため、金を貰うためにはかかあを大事にしなければならず、これがやがてはバクチ打ちが持つ資質、「義理人情に厚い」に変わっていったといわれており、そのDNAは現代の群馬県民にも受け継がれているといいます。

群馬県民の、情に厚く、小さいことにこだわらない、だれにでも愛想がよく気持ちいい、といった気質もまた博徒をもてなすバクチ打ちから受け継いだ気質と思われ、一方では、自分の尺度で物事を押しつける直情型が多く、「見た目重視の内容なし」で物事が進みがち、という群馬男性の気質も単純ゲームである賭博のせいだともいいます。

一方では、「かかあ天下」の気質を受け継いだ群馬の女性は、生まれもって行動的であるといわれ、会社組織であれば部下のミスもカバーする責任感のあるタイプの上司が多いといいます。おおらかで包容力もありますが、意外に些細なことで悩むことも多く、情に厚いが気配りベタで、誤解され敵をつくりやすいそうです。

私の知人・友人には群馬県民はほとんどいません。なので、これらが当たっているのかどうかは正直なところよくわかりません。が、もし間違っていたら、群馬県民の方、お許しください。

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ところで、こうした「木枯らし」「博打打」といったキーワードからどうしても連想してしまうのが、「木枯らし紋次郎」です。笹沢左保の股旅物時代小説を原作とし、フジテレビ系列で1970年代に放映され、大人気を博したテレビドラマです。

私の世代の人にはおなじみのキャラクターですが、同番組を見ていない若い方に簡単に説明しておくと、その舞台は天保年間の江戸時代です。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉の機転に助けられます。

薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は、10歳の時に家を捨てて渡世人となりますが、ボロボロな大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝をくわえているのが彼独特のスタイルです。その旅の先々で色々なトラブルに出くわしますが、かならずその劇中で紋次郎が口にする決め台詞が「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」です。

毎回毎回、事件には関与しない、との姿勢を貫こうとしますが、その生まれ持っての「優しさ」ゆえに結局は事に関わってしまい、いつも人助けをしてしまう……というストーリーです。しかし、一話完結となっており、毎回のストーリーに連続性はありません。

自分には関わりがないこと、といいながらいつも関わってしまう照れ隠しなのか、物語の最後になると、いつもお決まりのシーンがあります。

その咥えている長い楊枝を、ニヒルに片方の口端を上げながら「スー~ッ」と息を吸い込んだあと、勢いよく「ピッ」と吹き出すと、その楊枝が物語の要となっている文物、時には人物に命中します。これがまたカッコよく、世代を超えた男性を虜にしました。

私が聞いた話では、この木枯らし紋次郎が流行っていたころには、企業のエレベーターの中に、よく爪楊枝が転がっていたといいます。このころのサラリーマンたちは、この紋次郎を自分になぞらえて、こうしてひと目につかないところで、上司に向かって楊枝を飛ばし、ウサを晴らしていたに違いありません。

番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、1972年の元日に放送開始されました。ただ、市川監督は監修と第1シリーズの1~3話・18話で演出(監督)を務めただけで、全作品のメガホンを取ったわけではないようです。が、要となる部分では物語全般でかなり細かい部分に渡って関わっており、とくにその中でもこだわった斬新な映像美は秀逸でした。

実は、市川監督は実は元アニメーターだった、という話は意外に知られていません。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務めていました。

アニメの下絵描きからスタートし、「ミッキー・マウス」や「シリー・シンフォニーシリーズ(ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーションシリーズ)」などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだといいます。

市川昆は、1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれました。呉服問屋の生まれでしたが、父が急死し4歳から伯母の住む大阪に移り、その後脊椎カリエスで長野県に転地療養。その後広島市に住んだこともあり、彼自身は難を逃れましたが、母親は被爆しています。出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名しました。

改名の理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われています。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を週刊朝日に投稿し当選した、とされます。調べてみたところ、これが小説だったのか、漫画だったのかどうかはよくわかりません。

当初は画家に憧れていたといい、なので漫画だったのかもしれません。ともかく画家にあこがれていた少年時時代でしたが、ただ、この当時は画家というのはその画材を得るためにも相当裕福ではないと無理な時代であり、あきらめざるを得ませんでした。

1932年に公開された伊丹万作監督の「國士無双」を見て、感動し志望を映画界に変更。映画人になるための早道として、得意だった絵を武器に京都のJ.O.スタヂオのトーキー漫画部に入所しました。

1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画「新説カチカチ山」を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。このころ、東宝と改名していた東宝京都撮影所の閉鎖にともなって、東京撮影所に転勤になりました。

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この東宝の砧(きぬた)撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなりました。終戦を29歳で迎え、1948年の「花ひらく」で監督デビュー。アニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人となりました。

戦後すぐには、東宝で風刺喜劇やオーソドックスなメロドラマ作品も撮っていますが、1955年(昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。「ビルマの竪琴」で一躍名監督の仲間入りを果たし、その後大映に移籍。このように映画会社を転々とする中で文芸映画を中心に数々の名作を発表してその地位を確立しました。

とりわけ1960年(昭和35年)の「おとうと」は大正時代を舞台にした姉弟の愛を表現したもので、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となりました。1965年(昭和40年)には総監督として製作した「東京オリンピック」が、当時の興行記録を塗り替え、一大センセーションを起こします。

市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリータッチの映画を撮りあげました。冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影しました。

また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げて好評を博しました。

その後テレビ放送が開始され、一般家庭にも普及していく中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくありませんでした。しかし、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年よりこの分野に積極的に進出。

通常、映画監督のテレビ進出はフィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにとどまることが多いものですが、市川はそれだけでなく、テレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛け、テレビ史においても先駆的な役割を果たしました。

1965年から1966年にかけて放送された「源氏物語(毎日放送)」では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、テレビに関連する様々な業績に与えられ、知名度も非常に高いアメリカの「エミー賞」にノミネートされたこともあります。

テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)のCMが彼の手によりシリーズ化されました。このCMでは、大原が和服姿で登場し、ぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」と懇願。

サントーレッドは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、このCMは1980年(昭和55年)から10年間もシリーズ化されて放送されていました。

そして、1972年に監督・監修を手がけた、フジテレビの連続テレビ時代劇「市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ」です。テレビで放映されるにもかかわらず、映画と同じフィルム撮りとし、市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われています。

元々原作の笹沢佐保は紋次郎を田宮二郎をモデルにイメージしていたそうです。が、「主役は新人で」という市川の意向により、元・俳優座の若手実力派で当時すでに準主役級の俳優として活躍していながらも、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった中村敦夫が紋次郎役に抜擢されました。

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これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく」といった定番スタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチ。

22時30分開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にも関わらず、第1シーズンでは毎週の視聴率が30パーセントを超え、最高視聴率が38パーセントを記録する大人気番組になりました。

その殺陣においても、それまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュな殺陣を捨て、ひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒同士の喧嘩にも独特な殺陣が導入されました。時の博徒が正式な剣術を身につけているというのはありえず、このため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった演出が多用されました。

また、田舎の博徒が銘のある刀を持つことなどありえないとし、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行いません。

金もないのに刀の手入れを砥師に頼むといったことも考えられないことから、自分で刀を研ぐ、着ている道中がっぱも自分で繕う、といったリアリティを重視したたて(殺陣)がシリーズ全編を通して徹底されていました。

ただ、紋次郎のまとっていた外套は元々江戸時代の風俗には無く、西部劇のガンマンが着けていたポンチョを真似て採用されたものだと、後に中村がトーク番組で語っています。また、道中がっぱのほかにもこの当時の渡世人は三度笠をしていた、というのは、明治期以降に流行した講談などにおける創作とも言われています。

三度笠というのは、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついたものであり、これと縞模様のかっぱを常用していた、というのは、俗説のようです。

ドラマの主題歌「だれかが風の中で」は、その作詞を市川の妻で市川監督作品のほぼすべてに関わった名脚本家の和田夏十に依頼。また作曲をフォークバンド・六文銭を率いるフォークシンガーの小室に依頼。力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なこのメロディーを、上條恒彦が歌いあげました。

上条のその歌声はおよそ時代劇には似つかわしくないものでしたが、逆にその新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけでシングル23万枚を売り上げる同年度屈指の大ヒット曲となりました。

最近の映画やテレビでは普通になっている、血しぶきが飛ぶ、といった演技もこのドラマでは見送られました。フジテレビジョン編成部の金子満プロデューサーが、「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否され、ヒットしない」という信念を持っていたためであり、金子は市川崑が演出として提案した凄惨なアクションシーンを毅然とした態度で拒否しました。

市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、こうして流血のシーンは無くなりましたが、金子は「血はともかく、映像は素晴らしいものだった」と当時を回願しています。

「喧嘩の仕方や衣裳、食事もヤクザらしいリアリティを持たせて描き、最初と最後には情緒たっぷりのナレーションを毎回同じ時間に同じ場所で流す」といった市川のストーリーとともに、金子が主張した「絶対に血のアップを撮らせない」という方針がなければ、これほどまでの人気は得られなかったのかもしれません。

この初代の木枯らし紋次郎の人気から、1977年には「新・木枯し紋次郎」が同じ中村敦夫主演で製作されましたが、このときのテレビ局は東京12チャンネルでした。本作での紋次郎の決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったそうですが、これは前作ほどの話題とはなりませんでした。

1993年にも中村敦夫主演で映画「帰って来た木枯し紋次郎」が東宝配給で制作され、監督も市川崑が務めました。当初はTVスペシャルのために製作されたものでしたが、出来栄えが良かったため急遽劇場上映が決定したもので、主題歌も、テレビ版の「だれかが風の中で」が使われていました。

このほか、1990年には岩城滉一、2009年には江口洋介の主演で単発のスペシャルドラマが製作されています。

中村敦夫は、この「帰って来た木枯し紋次郎」を最後に役者を休止し、1998年(平成10年)の参議院議員選挙に立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となりました。

同年「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を一人で旗揚げをし、任期中は議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動などに取り組んで、活躍されましたが、2004年(平成16年)7月参議院選挙では比例区に転向して出馬し、落選。

政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰し、最近ではサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じる事が多くなっています。また、最近では評論活動や執筆活動も続けており、同志社大学などの大学などで講演も行っているようです。

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その後市川監督のほうは、「木枯らし紋次郎」がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともありました。

しかし、1970年代に入り、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けたところ、その絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で人気を博し、全作が大ヒットとなりました。これを機に横溝正史ブームが始り、さらに「細雪」「おはん」、「鹿鳴館」などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した「幸福」、時代劇「四十七人の刺客」などもリリース。

そのほか、「どら平太」「かあちゃん」など、多彩な領域で成果を収めましたが、役所広司が主演してヒットしたこの2000年の「どら平太」が撮影された時には既に、85歳を超えていました。

90歳を超えても現役で活躍したという点では新藤兼人に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となっていました。2006年(平成18年)に監督した「犬神家の一族」は30年前の作品をリメイクしたものであり、老いてなおその実験精神は衰えませんでした。

この映画では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみせたといい、カット割や構図も前作を踏襲したものが多かったようですが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するエンディングとなっており、この挨拶が市川の長年にわたる監督生活のラストカットとなりました。

結局この作品が遺作となり、2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。92歳没。同年3月、日本政府は閣議に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定しました。

しかし、日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれましたが、錚々たる授賞歴の一方で、キネマ旬報社の叢書「世界の映画作家」では最後まで採り上げられませんでした。

黒澤明監督のように、世界に誇れる映画人、というふうに紹介されなかったのは、この年代の巨匠としてはめずらしく社会的テーマを前面に打ち出した作品がほとんどなかったからだといわれています。

が、木枯らし紋次郎シリーズや金田一耕助シリーズのように、日本人のような繊細な民族の心の琴線にだけひっかかるような映画を撮ることができるのは、彼だけではなかったか、という気がします。

市川の独特の映像表現は、後輩の映画監督に多大な影響を与えており、枚挙のいとまはありませんが、彼と同じく故人となっている、伊丹十三は「師匠は市川崑さんです」と明言していたそうで、彼が手がけた英映画の完成したシナリオは、必ず市川のもとに届けられたといいます。

また、三島由紀夫は「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える」と書いています。

今は、伊丹や三島といった天才とともにあちらの世で新しい作品の構想を練っているに非違いありません。今後とも市川監督のDNAを受け継いだ映画人の中からは、あの世にいるその監督からのインスピレーションを得た作品が数多く出てくるに違いありません。

それにしても、カッコ良かった木枯らし紋次郎、もう一度みたいものです。これからのからっ風が吹く季節、紋次郎になったつもりで、もういちど青空に向かって楊枝を飛ばしてみるのもいいかもしれません。みなさんもひとついかがでしょうか。

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