海の向こうへ

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10月も下旬になってきました。

今年ももうあと2ヵ月……

そろそろ大掃除の算段やら年賀状の準備のことを考えている人も多いでしょう。さすがに来年の正月の準備をしている人はまだ少ないでしょうが、年末年始にかけて海外旅行などへ行く予定のある人などは、そろそろそのスケジュールについて考え初めていることでしょう。

日本人の海外旅行先ランキングを調べてみると、やはりアメリカが断トツ一位で、だいたい例年370~380万人くらいで推移しているようです。ただし、その半数はハワイであり、グアムがだいたい4分の1を占めます。従って、アメリカ本土まで足を延ばす人は100万人ちょっとにすぎません。

アメリカに次いで日本人がよく行くのはやはり中国であり、だいたい270~280万人くらいです。この数字は香港や台湾を除いたものであり、ハワイやグアムを除いたアメリカ本土を遥かに超え、断トツ、という印象があります。

一方中国人のほうも日本へ旅行する人が多く、ここ数年はたいてい旅行先の第1~2位で推移しているようです。

お互いいがみあっているようにみえても、お互い旅行先に隣国を選びたがる、というのはやはりその文化や風物をお互い認め合っているようにもみえます。ただ、近くて遠いは隣人、ということで逆にお互いのことをよく知らないので、行ってみて確認しよう、と思っているのかもしれません。

日本人の海外旅行者の第1号は幕末のジョン万次郎ではないか、という説もあるようです。

が、彼は漂流してアメリカに渡ったはずであり、海外旅行?と少々首をかしげたくなります。調べてみると、彼はこの渡航した先のアメリカで、日本人としては初めて鉄道に乗っており、かつ気船に乗ったのも彼が初めてではないか、といわれていることに起因しているようです。

たしかに幕末に蒸気船に乗った日本人は多いでしょうが、アメリカ本土まで行って鉄道にまで乗った人物というのは、幕末改革期の初期のころには万次郎しかいなかったかもしれません。

しかし、万次郎がアメリカに渡ったのは遭難という不可抗力のためであり、やはり海外旅行第一号とはいえないでしょう。日本が各国と国交を結び、正式に相手国への入国許可を得てから海外旅行をするようになるのは、やはり明治時代以降ということになるようです。

それにしてもその多くは新政府の官員による「視察」や「技術導入」などが主であり、いずれにしても一般市民には観光を目的とした海外旅行は無縁でした。

海外へ行くためには船以外の手段がなかった当時、これに乗船する、できるというのはよほど裕福な人でなければ考えられず、庶民にとっては海外旅行などは夢の夢であったでしょう。

海外へ渡航するための船も明治のはじめごろにはまだ北前船のような帆掛け船ばかりであり、海外へ行けるような能力のある船は軍艦として輸入されたものばかりでした。「商船」というものが初めて登場したものは1874年(明治7年)であり、この年、岩崎弥太郎が創立した三菱商会の本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名しました。

この会社は、アメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた日本の航海自主権を、政府の援助や三菱商会が運営していた三菱銅山の利益を元に、激しい値下げ競争を行うことで取戻す役割を果たしました。その後、三井系国策会社である「共同運輸会社」とさらなる値下げ競争を行ったことで商船による輸送運賃はどんどんと下がっていきました。

さらに、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介で両社が合併し、日本郵船会社が設立。その後も欧米の海運会社が独占する世界中の航路に分け入ってゆき、わずか10年余りで世界の主要都市ほぼ全てに航路を開設しました。

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おそらく、こうした海外への商船の進出が加速する間に、これらの船便に便乗して海外旅行をした人は割といたと考えられます。が、その第一号が誰だったか、といわれるとなかなか特定は難しいようです。

ただ、海外留学も海外旅行の範疇に入る、と考えるならば、1862年(文久元年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送っており、これが嚆矢と考えられます。幕府は次いでヨーロッパの諸国へも留学生を派遣しており、また長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しています。

1866年には留学のための外国渡航が幕府によって正式に許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。とはいえ、これ以前の古代にも、日本から中国へ仏教などの導入を目的として僧侶を留学させており、海外留学のはじまりといえば、奈良時代の遣唐使とうことになります。

こうした留学を除き、あくまで旅行目的で海外旅行をするようになったのは、やはり明治時代以降でしょう。

明治8年(1875年)6月の外務省の報告書にある「海外行ノ免許ヲ得タル我官民ノ総数」においては、イギリス行きの「免状の現数」は131、アメリカ行きの免状は304となっています。

この免状というのは、海外への渡航を国が許可したことを示す免許証、つまり現在で言うところの旅券(パスポート)のことで、要は、当時はこれがなければ海外に渡航することができなかったということです。当初は、「海外行免状」と呼ばれていましたが、明治11年(1878年)には現在のような「海外旅券」に改称されました。

また、この時にはこれとあわせて「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどが取り決められていました。

この海外渡航に旅行が含まれたいたかどかは特定できません。ただ、私の推測ですが一般的な海外旅行は明治中ごろまではまだ普及していなかったでしょう。政府によって富国強兵策が進められ、積極的な外貨獲得のために多くの日本人が海外へ出ていった時代であり、その多くは商用か留学目的だったでしょう。

しかし、明治末期になるとかなりその数も増えてきたとみえ、明治24(1891)年には、に「浦潮遊航船」と称する新潟発ウラジオストックク行きの海外旅行ツアーが実現していた、という記録があるようです。この当時の新潟新聞の記事によれば、加能丸という総トン数300トンあまりの船で24名あまりが2週間ほどの旅行へ行って帰ってきたとされます。

この新聞記事によれば「其目的は同地を一覧せんとする人々及び冒険起業の志士を載せ行くに在り」だそうで、これは明らかに旅行目的です。旅行料金は、「上等35円 並等25円 但往復滞在食料共」ともあり、おそらくは日本で最初のツアー旅行と考えられます。

このほか、明治29年(1896年)ころから、明治35年(1902年)にかけて、兵庫県や、長崎、岡山、三重などの中学校(旧制)や商船学校などが、満鮮旅行を実施した、という記録が残っており、修学旅行での海外旅行もこのころまでには始まっていたようです。

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また、1901年(明治34年)の報知新聞の特集記事では、20世紀中に海外旅行が一般化することが予測されていました。

1月2日と3日の2日にわたって同紙紙面に掲載した未来予測記事で、これは「二十世紀の豫言」というタイトルでした。

その中で旅行については、「十九世紀の末年に於て尠くとも八十日間を要したりし世界一周は二十世紀末には七日を要すれば足ることなるべくまた世界文明國の人民は男女を問はず必ず一回以上世界漫遊をなすに至らむ」と書いてあり、いずれ海外旅行は一般化するだろうと予測しています。

ちなにみにこの予言の中では「航海の便利至らざる無きと共に鐵道(鉄道)は五大洲を貫通して自由に通行するを得べし」としており、いずれ航海は廃れ、鉄道がこれにとって代わるだろう、としています。

このほか、鉄道に関しては、高速化のみならず、電化や快適性の向上などが的中しており、地下鉄、高架線もさることながら、ゴムタイヤによるモノレールや新交通システムの登場までも言い当てています。さらに自動車の普及についても言及していました。

「五大州」とは、アメリカ大陸・ヨーロッパ大陸・アジア大陸・アフリカ大陸・オセアニアのことであり、これらの大陸で鉄道網がくまなく敷設されるために、船舶が衰退するとう論理のようです。しかし、たしかにその後船舶航行が衰退していったのは確かですが、これに代わって飛行機が取って代わるといったことまでは予測していません。

ただ、この当時既にあった飛行船については、「チェッペリン式の空中船は大に發達して空中に軍艦漂ひ空中に修羅場を現出すべく、從って空中に砲臺(砲台)浮ぶの奇觀を呈するに至らん」としています。

この「大に発達」したものが飛行機と解釈するかどうかは別として、空飛ぶ乗り物についてもある程度の進化を遂げるであろうことを示唆しているといえます。

さすがに、現在のようにインターネットの普及によって世界の距離が縮まる、といったことまでは予測していませんが、「無線電信は一層進歩し、無線電話は世界諸國に聯絡(連絡)」するようになる、と書いています。

このほか「數十年の後、歐洲(欧州)の天に戰雲暗澹たる状況を電氣力により天然色の寫眞で得」ることができる、と書いており、これはカラーファックスのことと考えられます。さらに「傳聲器(伝声器)の改良」、すなわち電話機や電話網の改良や「對話(対話)者の肖像現出する裝置」といった記述もみられ、これはテレビ電話のことかと推察されます。

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明治の終わりごろというのは、かなり欧米から情報が入って来ていた時代であり、ここまでの予想が出きたのもそうした豊富な情報量のおかげでしょう。が、それにしても1901年といえば、今から114年も前のことであり、この予未来予想はかなり頑張った結果、といえるでしょう。

その後、大正から昭和に入るころまでには、日本人の海外旅行者はさらに増えていったと考えられます。1912年(大正元年)には、 外国人観光客誘客促進を目的とした任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立されましたが、これは現在の日本交通公社(JTB)の前身です。

外国人観光客を日本に呼び込むための機関でしたが、数少ない日本人の海外旅行者の旅行先での便宜などを図っていたことは想像に難くありません。1930年(昭和5年)には、鉄道省にも国際観光局が設置されており、これらの努力により、1936年(昭和11年)には、日本を訪れる外国人旅行者は4万人を超えました。

しかし、このころから日本は戦時色が強くなり、日本人の外国への旅行は業務や視察、留学などの特定の認可し得る目的が無ければならなくなりました。

この当時の日本人の海外渡航者数を調べてみたのですが、それらしい統計がみあたりません。ただ、昭和7年(1932年)には、満州国が立国しており、満州以外への渡航が制限されていたとすれば、日本人の海外渡航者数のほとんどは、この満州へ渡ったと人たちではないかと考えられます。

満州の人口は、昭和7年が約3400万人、昭和12年(1937年)が約3700万人、少佐17年(1942年)が4400万人です。この数字すべてが渡航者数とは限りませんが、海外渡航が制限されていたこの時代、他国への出国も含めて、この数字の範囲内であったことはおそらくまちがいないでしょう。

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太平洋戦争中にかけての海外への渡航はさらに日本政府による強い規制を受けてきており、このころにはもう、物見遊山の海外旅行などというものは認めらるようなことはありえない時代です。海外へ出国、といっても戦争に行くのと等しい時代であり、海外旅行をうんぬんするのは無意味といえます。

戦後にかけてもやはり海外旅行は厳しい制限をかけられており、外務省などの資料の中に、「日本人海外旅行者数」としてはっきりと数字であげられているのは、昭和30年代に入ってからです。

昭和38年(1963年)の段階で128万人とされており、こうした数字が残っているのは、この年の4月1日以降は現金とトラベラーズチェックによる年間総額外貨500ドル以内の職業や会社などの都合による渡航が一般化されたためです。

ただ、この当時はまだ個人のチェックの利用は難しく、これもいちいち旅行代理店を介してではないと認可されませんでした。一般の市民が職業上の理由や会社の都合ではなく、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは翌1964年(昭和39年)以降であり、年1回500ドルまでの外貨の持出しが許されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)以降はそれまでの「1人年間1回限り」という回数制限も撤廃され1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができることとなり、これ以降、次第に現在のような遊行が目的の海外旅行が広がり始めました。

これら自由化当初の海外旅行はかなりお高く、その費用も50万円程度だったようで、これは現在の換算では300万円ほどにもなるようです。当然海外へ行けるのは一部の富裕層に限られており、庶民には夢の夢でした。

テレビ番組「兼高かおる世界の旅」が放映されて人気を博すようになったのもこの時代であり、この番組で紹介される世界各地のナレーション付き映像も庶民にとっては夢の世界のはなしではありましたが、文字通り人々に夢を与えました。

「アップダウンクイズ」といった番組が始まったのもこの頃であり、10問正解して夢のハワイ」のキャッチフレーズで始まるこの番組も高い視聴率を得ていました。大手の食品メーカーなども懸賞として海外旅行を提供するようになり、「トリスを飲んでハワイへ行こう」は流行語にもなりました。

これは、1961年(昭和36年)にトリスが始めたもので、ウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものでした。ただ、この当時はまだ一般市民の海外渡航には制約があったため、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程でした。

その後、上のとおり1964年(昭和39年)に海外旅行は自由化されましたが、まだまだ高度成長化は単緒にすぎず国民の多くは貧しかったため、当選者のほとんどはこの預金証書を旅行に使わず現金化していたそうです。

海外旅行がさらに一般化し始めたのは1970年代からで、1972年には海外渡航者は300万人を突破しました。飛行機の大型化やドルが変動相場制に移行しての円高や旅行費用の低下が進み、韓国や台湾などの近隣国であれば国内旅行よりも多少高い金額ぐらいで旅行できるようになりました。

1980年代後半には急激な円高となり、1988年からはアメリカ合衆国訪問時にはビザが免除になったこともあって、海外旅行者が大幅に増加しました。ちなみに私が留学を目指したのはこの時代であり、一年くらいの滞在費用しか持っていなかったものの、その軍資金が半年ほどで倍増して小躍りしたのを覚えています。

1995年に一時過去最高の1ドル=79円台まで進行した円高の際には、国内旅行と海外旅行の費用が逆転するケースが発生するようになりました。しかし、その後は円安傾向となり、平成3年には海外旅行者が初めて減少に転じました。

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平成7~8年ころから増減を繰り返す横ばい状態になり、それを反映してか、海外旅行先としては欧米が減り、日本の周辺国への旅行が増えているようです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の影響や、2003年のイラク戦争等の影響もあり、海外におけるテロ行為のリスクがあらためて認識されるようになったことも減少に影響しているようです。

日本からの海外出国者数は、現在ではだいたい1400~1500万人くらいで、世界で13番目ほどの多さですが、人口比で見た海外出国率では決して多いほうではないようです。冒頭で述べたとおり中国が人気が高く、世代別でみてみると、40代男性が最も多く、30代男性、50代男性、20代女性がそれに続きます。

近年では男女とも60代の伸びが著しいのに対し、20代の若年層に限っては、2000年前後から減少傾向が続いているようで、若い人が海外へ行かなくなったのが気になります。20代男性は2000年代半ばを境に60代に抜かれ、90年代まで世代別のトップの旅行者数だった20代女性も3分の2未満に減少しています。

法務省の統計データによれば、日本人の海外旅行者数がピークだった2000年に20代の海外旅行者数は418万人でしたが、2010年は270万人にまで落ち込んでおり、現在に至るまで依然として低迷している状態です。

その原因はよくわかりませんが、最近の若い人は贅沢をしないようで、我々の世代のようにクルマを欲しがりませんし、海外旅行に対してもあまり興味がないようにみえます。しかし、おそらくは長引く不況によって正規雇用者より年収が低い非正規雇用者が増加するなど、収入面での影響があるに違いありません。

しかし、最近は格安航空会社(ローコストキャリア:LCC)が増えたことも反映して、格安パッケージも増えてきており、これは若者の間で人気です。往復の交通・宿泊込みで東アジアの都市2泊3日の旅行が、たった1万円台後半というのもあるそうで、若い人だけでなく壮年、高年層にも人気のようです。

東京~新大阪間の東海道新幹線の往復運賃(3万円程度)よりも安く、この値段ならば予算の乏しい学生なども海外旅行へ行けます。しかし、いざ旅立とうとすると、空港利用税だの旅券発給手数料だのを取られるため、全体費用が嵩む点は問題であり、できたばかりの観光庁は何をやっているのか、と思います。もう少しなんとか頑張って欲しいと思います。

とはいえ、海外旅行が夢また夢と言われた時代に比べれば、それこそ夢のような時代であり、若い人は社会経験を積むという意味でも、アルバイトをしてでもワーキングホリデーでもなんでもいいから海外へ行ってほしいと思います。

旅行費用が高いから、という理由以外に、外国語が苦手だから、国内旅行のほうが好きだから、という内向きな答えばかりが返ってくるのは、今の日本の若者には冒険心がなくなってしまったのではないかという気がして気がかりです。

「海外に行くことで日本の良いところ悪いところがわかる」とよくいいますが、実際に海外へ行くと、日本の常識が通用しないことがわかります。逆に日本では非常識なことがある国では当たり前のことだとされていることもあり、そうしたことを知ることで、自分がこれまで生きてきた世界の小ささを知り、逆に豊かさなども発見できるとも思うわけです。

とはいえ、今年こそは海外旅行をしたいと思っていた私の夢もどうやら今の段階では無理なようです。来年こそは、ここ十数年に変わってきた海外を見るためにも若返って、ぜひ飛躍をしたいと思います。みなさんもご一緒にいかがでしょうか。

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