犬神はお好き?

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今日は、アメリカ合衆国元大統領のロナルド・レーガンが、1980年の大統領選で初当選した日だそうです。

今からもう35年も前のことであり、当のレーガンさんは既に2004年に満93歳で亡くなっています。

69歳で大統領に選出されたというのは、アメリカの大統領としては最年長記録であり、また元俳優という経歴もその当時話題を呼びました。

歴代の大統領の中では、唯一の離婚歴を有する人物でもありましたが、大統領になる28年前に同業の女優、ナンシー・デイビスと再婚しており、この夫人もまた、反麻薬キャンペーンの支援などで大変評価の高い人でした。

レーガン大統領の功績といえば、やはり第1期目において「レーガノミックス」を実行し、大幅減税と積極的財政政策によって、アメリカ経済の回復をもたらしたことでしょう。外交面では強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象づけました。

2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、このレーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、デタント(緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判したことで、国民の熱狂的な支持を得ました。

「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などと密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援しました。

この強気の外交政策は、ソ連の解体とベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献したと評価されています。大統領退任から5年後、最晩年はアルツハイマー病を患ったことを公表して話題になりましたが、2004年6月5日、ロサンゼルスの自宅で療養中に肺炎のため死去。

亡くなった時、歴代アメリカ大統領のなかで最長寿でしたが、その後2006年12月にフェラルド・フォード元大統領が93歳165日で死去したため、歴代2番目の長寿となりました。その葬儀は死後6日後にワシントンD.C.で盛大に執り行われましたが、これはリンドン・ジョンソン元大統領以来の国葬でした。

このように歴史に残る大統領として評価の高いレーガンですが、その船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものでした。

大統領就任から69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、ジョン・ヒンクリーという精神的に不安定だった男によって狙撃されました。

3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいたブレイディ大統領報道官とシークレットサービス、ワシントン市警警官の三人が被弾してその場に倒れました。シークレットサービスと警官は軽傷でしたが、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受けたために、一命こそ取りとめたものの回復不能な障害が残りました。

大統領も肺に被弾しており、救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどでした。それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いたといいます。

執刀外科医は民主党員でしたが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせたといいます。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものでしたが一命をとりとめ、70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後には退院しました。

レーガンは入院中にも妻のナンシーに「(弾を)避けるのを忘れてたよ」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けました。その後公務復帰後の演説中に会場の飾りつけ風船が破裂するという事故があり、場内が一時騒然となりましたが、このときもレーガンは「奴は、またしくじったよ」とジョークを言い、会場は爆笑と大拍手に包まれたといいます。

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この復活により、レーガンは在職中に銃撃されながら死を免れた最初の大統領となりました。アメリカ大統領には、いわゆる「テカムセの呪い」というものがあり、これは「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」というもので、1980年に行われた大統領選挙で現職のカーター大統領を破って当選したレーガンもその該当者でした。

この呪いは、部族の領土を白人に奪われ、1811年にティピカヌーの戦いでウィリアム・ハリソンに殺されたインディアン部族、ショーニー族の酋長テカムセによるものとされるもので、20年ごとに選ばれる大統領の死を呪ったものといわれていました。

しかし、そのジンクスもついに破れ、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降続いていた呪いにも終止符が打たれました。

その後、2000年に選出されたジョージ・W・ブッシュも、2期目の2005年5月10日にグルジアで演説中に手投げ弾を投げ込まれるという事件に遭遇しました。しかし爆弾は不発に終わり、その後も2期8年の大統領職を任期を全うして現在も存命中です。

次は2020年の大統領選で当選する大統領がこの呪いのターゲットということになりますが、来年行われる2016年の大統領選では人気の高いヒラリー・クリントンが大統領となる可能性があります。この場合、次の2020年にも再選される可能性もあり、今度は彼女にお鉢が回ってくるということになりますが、テカムセの呪いは果たして女性にも有効でしょうか。

このテカムセの呪いを退けたブッシュ元大統領ですが、その任期中にはほかにもその身が危険にさらされるといったことがありました。一度目は2002年にプレッツェルを食べている最中に失神したというもので、大統領はこの菓子をのどに詰まらせて、窒息する可能性がありました。が、こん倒し顔に傷を負っただけで無事でした。

この時、アメリカの風刺漫画家はこぞって「新手のテロか?」などと描き立て、新聞各紙に大量に掲載されました。当時イラク派兵に関してアメリカと反目していたフランスの市民から、皮肉とエスプリを込めてブッシュにプレッツェルが贈られる、という「事件」もあったようです。

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2度目が上の爆弾騒ぎですが、3度目があり、これは任期満了直前にイラク人記者に靴を投げつけられる、というもので、いわゆる「ブッシュの靴」と呼ばれる事件です。

靴を投げつけたのは、ムンタゼル・アル=ザイディというイラク人の記者でした。このときブッシュは2回靴による攻撃を受けましたが、その2回ともかわして無事でした。しかもその後のインタビューでは「靴のサイズはたしか28センチだった」などと余裕を見せました。

なぜ靴だったのか、ということですが、他人の体や頭に靴をぶつけたり、靴を履いた足で踏みつける行為はイスラム世界では最大級の侮辱行為とされているためです。この当時はイラク問題が大きな国際問題になっている時期であり、この靴投げ事件をきっかけに、同様の抗議行動が頻発しました。

2009年2月に、イギリスのケンブリッジ大学を訪問していた中華人民共和国国務院総理の温家宝が、同学の学生によって靴を投げつけられるという摸倣の事件に遭ったほか、同年同じ月にインドネシアを訪問した、ヒラリー・クリントン国務長官に抗議するイスラム教徒の学生らがヒラリーの写真に約50足の靴を投げつけています。

そのほか、イタリアのベルルスコーニ首相が土産物の置物を暴漢に投げつけられるという事件や、オーストラリアの視聴者参加討論番組に出演したジョン・ハワード元首相が、参加者の一人から「イラクで死んだ人々からのお返しだ!」と叫びながら、靴を投げられたという事件もありました。

ブッシュ大統領に靴が投げつけられた同じ年の12月には、靴を投げた当人のムンタゼル・アル=ザイディ自身がパリで記者会見中に、ブッシュ支持のイラク人から靴を投げつけられるという事件もありましたが、ザイディもブッシュ同様に靴をかわすことができました。

このザイディ記者が投げつけた靴は、その後トルコの靴メーカー、バイダン社が製造するものであったことがわかりました。その後同社へはこの靴への注文も殺到したといい、これを受けてバイダン社はこの靴に「バイバイ・ブッシュ」という商品名をつけ、商標登録しました。

同じタイプの靴はそれ以前には年間4万足程度の生産量だったそうですが、事件後10日あまりで37万足もの注文が殺到し、これに乗じようと偽物造りの大国として有名な中国のメーカーが「ブッシュの靴」の製造元であると名乗りを上げたそうです。

このように、アラブ世界では、靴で人を踏みつける・靴を投げつける・靴で叩くことは、その人に対する最大の侮辱・屈辱行為に当たり、人だけでなくその人を表す絵画や写真や銅像などでもこれは同様です。アラブ世界でのデモ行進では、靴を掲げたり、人の顔のイラストの隣に靴を描くことで、政権への嫌悪感を抱くイメージ付けをしています。

湾岸戦争の後、イラクのバグダッドにあるアル・ラシードホテル入口には上のジョージ・・ブッシュ大統領のモザイク画が踏み絵となるように描かれていたといいます。ただ、この絵はイラク戦争後は米軍によりサダム・フセインのモザイク画に置き換えられたそうです。

このほかにも、フセイン元大統領の失脚後、彼の故郷であるイラク北部のティクリートに高さ約3メートル、重量は約1.5トンに及ぶブッシュの靴の銅像が設立される、ということがあったそうですが、その後これはすぐにイラク新政府の要請で撤去されています。

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日本でも、これ以前の1991年に当時の海部俊樹首相が、国会で演説中に、湾岸戦争に反対する過激派から靴を投げつけられる、という事件がありました。が、これはアラブ世界の風習とは全く関係がありません。

日本においても、ときにこの靴という西洋から入ってきた履物が嫌われる場合があります。例えば靴を脱いで入ることを前提とした日本の家屋では、家人の同意を得ずに靴(草鞋や草履であっても)のまま入る事は絶対意的なタブーです。

靴を脱ぐべき事を意味する段差が設けられた家に「上がる」)土足で家を汚すことは、家人に掃除の手間をかけさせるだけでなく、その家の尊厳に対する挑戦的な行為とみなされているわけであり、転じて「土足で上がる」という比喩ができました。

これは攻撃的で敵対的なニュアンスをあらわしており、例えば「心に土足で上がり込む」というのは人の尊厳を否定するような意味になり、「土足で踏みにじった」となるとその人の尊厳を傷つけたような意味になります。

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逆に西洋では、靴を履くというのは身だしなみの一種であり、いたずらに靴を脱ぐことはマナーとして好ましくないとされ、逆にそれを脱ぎ去ることは「乱れ」とされがちです。

このため、西洋の家では玄関ドアは必ず「内開き」になっており、これは靴を履いたまま家の中に入る風習が定着しているからです。ホテルなどもこの西洋の形式を踏襲しているため客室の扉は全て内開きです。

また、靴を履いたままベッドに寝転がってもシーツが汚れない用に、帯の様な一枚の長い布、「フットスロー」が足元に置かれることもあります。日本のホテルでは省略されることの多いこのフットスローですが、海外のちゃんとしたホテルではたいてい備えてあります。

ところが日本などの靴を脱がずに上がる文化圏の扉は必ず「内開き」となっており、さらに客宅で脱いだ靴は玄関の端に寄せるのがマナーとされます。その理由は玄関の真ん中の部分は家主が使用するスペースであり、他人である訪問者がそのスペースを奪ってはならない、とされるためです。

一方、日本語には、「足元を見る」という言葉があります。これは旅人の足袋や草履を見て宿泊客の経済力や地位を見る様子から転じた慣用句です。従って同じ履物でも上下の差があるということです。と同時に、この履物を作ることを生業としていた業種の人間は昔から身分が低いもの、とみなされていました。

欧米においても、「靴磨き」を生業とする人々は底辺社会・貧困社会のステレオタイプ的な存在です。これは主に貧しい少年達が露天商として営むことが多かったことに加え、靴磨き作業中は客から常に上から見下ろされる構図であることに起因します。

このため「自分の靴を磨かない」つまりいつも靴を他人に磨かせる人種は身分が高く、このため靴を磨かせる、という行為はその昔からブルジョワジーや権力者の象徴とみなされてきました。

日本の場合、こうした履物造りは、穢多・非人の職業とされていました。穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつです。仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称であり、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る節もあります。

穢多と非人の違いですが、一般的には士農工商穢多非人と書かれ、非人のほうが穢多よりも下とみなされることが多いようです。が、江戸期における身分制度上はこれは逆です。なぜかといえば、非人というのは、不義密通した者、近親相姦をした者、心中をして生き残った者、といった罪人のことであり、こうした連中が刑罰として非人にされたものです。

非人ということは平民としての籍が無いということであり、このため長年その立場に甘んじて罪が許されたとした場合、金を払えばまた元の平民に戻れる可能性があります。ところが、穢多の場合は平民にはなれません。このため元町民や農民だった非人はいるものの、穢多の場合は一生涯穢多のまま、ということになります。

しかし、一般的には見て見分けがつくわけではなく、公称では穢多と同一視されて呼ばれ、身分上でも非人、とされて同じ者たちとみなされることが多かったようです。

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この穢多の起源については、色々な説があるようですが、その原形は奈良時代にはすでに存在していたようです。鎌倉時代の書物にも、京都四条河原に出て肉食しようとした天狗を穢多童子が捕らえて首をねじり殺したといった記述があります。

その当時から、既に肉を扱い鳥を捕る、卑しいものとして扱われてていたようで「穢多のきもきり(肝切)」と呼ばれて天狗に恐れられるほどの存在でした。その反面、ときには神として崇められる天狗とは異なり、卑賤な者として差別の対象になっていたようです。

ただ、この当時の差別はまだ緩やかであり、しかも戦国時代には皮革は鎧や馬具の主材料でした。この皮革を整えて上納する、というのはひとつの軍需産業であり、れっきとした職業として保護されていました。

この皮づくりはどうやら京以西の西国でさかんだったようで、東日本にはこうした職業がなかったことから、東国の大名の中には自分の領国にわざわざ穢多に従事する者を呼び寄せて定住させ、皮革生産に当たらせていたようです。

ところが、江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じました。このため皮革原料として、斃死、すなわち労働作業中や病気で死んだ国内産の牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理は厳しく統制されるとともに、各農村にこうした職人が配置されて皮革原料の獲得に当たることになりました。

しかし、なにぶん死んだ動物を扱う職業であり、一般市民からは卑しい職業に携わる者、と馬鹿にされていました。日本では殺生を嫌う仏教と、血を穢れとして嫌う神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があったためです。

このため、穢多たちが居住していたのも村外れや川の側など、農業に適さない場所がかったようです。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い、離れた場所に住まわせられたわけです。

川の側に住んでいたため、当初は「かわた」とも呼ばれていました。やがてこれが、「えた」に変化し、卑称として定着化していったといわれています。江戸期に入り、幕府はこうした穢多・非人身分の頭領として、「弾左衛門」という穢多にその支配権を与えました。

身分が低いため、苗字はなく、当初は、穢多頭弾左衛門、もしくは長吏頭弾左衛門、あるいは浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれていました。が、その後穢多・非人身分の支配により金を蓄えて豊かになると、幕府への献金により「矢野弾左衛門」と自称するのを許されるようになりました。

皮革の製造加工は身分の上の非人が独占していましたが、幕府から権利を得てその製造を独占していたのは穢多のほうであり、このためその頭の矢野弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、大尽旗本並みの格式と10万石の大名並みの財力を得ていました。

やがては、武士や商人への金貸し業にも手を染めるようになり、井原西鶴は「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と書いており、これはすなわち、人が知らないと思って穢多ごときに媚びへつらっていると、こうした武士や商人を軽蔑したことばです。

一方、こうした皮革製造に携わって甘い汁を吸えた穢多はごく一部であり、多くの穢多は刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人など)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売などを扱っていました。

また、筬(おさ)と呼ばれる高度な専門的技術を要する織機の部品なども製造販売なども行っていました。これは、織物の縦糸をそろえ横糸を押し詰めて織り目を整えるための、織機の付属具で、金属または竹の細い板をくしの歯のように並べて、長方形のわくに入れたものです。

そのほか、竹細工の製造販売などを行う穢多非人もおり、このように彼等は多様な職業を家業として独占していました。

ただ、穢多非人身分とそれ以外では火の貸し借りができない、下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あり、居住地が地図に表示されないなどの差別も受けていました。

もっとも豊かな穢多の集落では、田畑を農民同様に耕し年貢も納めている例もありました。また、穢多たちは江戸時代を通じて彼等に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられています。

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ところが、明治時代になると、いわゆる身分解放令が発令され、これにより、穢多の公称、非人身分は廃止されました。

彼らにすればようやく身分を得ることができたわけですが、かたや死牛馬取得権、職業の独占も失うところとなり、このため経済的困窮に陥った例が多かったようです。またこの解放令と同時に地租改正、徴兵令、学制が布かれ、また村請制度が廃止されたことなどにより彼等は居場所を失うとともに、国家の事業に強制的に従わされる羽目になりました。

一方、彼等に汚い仕事をさせていた士農工商身分は、自らがその仕事をやらなければなくなるとともに、重要な労働力を失うこととなりました。このため、この解放令は当時の民衆から強い反発を受け、その中で各地で明治政府への反対運動もおこりました。

当然その矛先は明治政府に向けられるべきものでしたが、無知な民衆の中には、逆に「解放」の名のもとに穢多非人が自由になったために、こうした事態に陥ったのだと勘違いし、当時の俗称で、「穢多狩り」と言われるような集団リンチ暴行事件をたびたび起こすようになりました。

元々あった穢多非人への差別意識に加え、こうした強い反発を背景に、身分解放令による法的な差別解消後も、こうした元非人身分の者に対する偏見や差別は長く残りました。これがいわゆる「部落問題」であり、現在の日本においても根強く現存する人権問題、利権問題、社会問題です。

「部落」は本来「集落」の意味ですが、歴史的にエタ村と呼ばれてきた集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別部落を略した呼び名として定着したものとされます。

その定義や歴史を論じるだけでも長くなるのでもうやめますが、部落の生活は不潔であるとか、非衛生的である、彼らはとかく猜疑心に富んで穢多根性なるものがある、貯蓄心がなくていつまでも貧乏である、犯罪者が多くとかく団結して社会に反抗しようとする傾きがあるなどなど、根拠もない差別が延々と現代に至るまで行なわれてきました。

被差別部落の数や部落問題の認知度については地域較差があり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んです。が、関東以北では現存する被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にあります。また北海道や南西諸島には、この項で扱う種類の被差別部落は存在しません。

また、北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も差別用語の認識はないようです。

これは、東北地方では戦国時代などでも雪が多く、冬には食糧を生産することが困難なため冬を越すためには地域による助け合いが必要不可欠であり、部落差別をする余裕すらなかったためです。その反面、地域の助け合いを行わない・働かない者は排除され、地域的な差別こそないものの、家主が非協力的な態度であれば、周囲からも援助を得られまん。

また、北陸地方でも部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因といわれます。浄土真宗では穢多などの被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生こそ、阿弥陀如来にすがることで救われるべきだという「悪人正機説」に基づき、被差別民の救済意識が高く、代々の指導者も彼等の救済の必要性を説いていました。

このほか、四国地方では、婚姻などにおいてはそれぞれの家系で家筋が調べられ、「犬神」の有無を確かめるのが習わしとされ、これが部落問題と結びついて問題になる場合も少なくありませんでした。

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犬神というのは、狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物のことで、犬神信仰の形跡は、四国だけでなく、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在しています。

元々は平安時代に発祥した呪術に端を発しており、これは蠱術(こじゅつ)と呼ばれ、特定の動物の霊を使役する呪詛でした。飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う、というものです。

また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつくといいます。これを焼いて骨とし、器に入れて祀ると、その魂は永久にその人に憑き、願望を成就させるとされます。

こうして生み出された犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕の中に飼われているとされ、他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすいといいます。

これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われ、人の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいいます。

犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものといわれます。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者でしたが、畏敬と信頼を得ると同時にやはり動物を殺すというところが忌み嫌われたため、被差別民として扱われていました。

犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがないともいわれます。このため一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うわけです。犬神が多いとされる四国では、結婚話が持ち上がるたびにその相手の家に犬神が憑いているかどうかを確かめるのが習慣となり、これが部落問題と結びついて問題になることが多々ありました。

このように、犬神は一般には、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合が多いようです。確認はしていませんが、映画にもなった横溝正史原作の「犬神家の一族」も、元々はこうした疫病神としての犬神一族の伝承をモチーフに製作された作品でしょう。

しかし一方では犬神持ちの家は富み栄えるとされており、こうした犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどにはすぐに家を出て行って他人に憑き、これによって望むものをその家にもたらしてくれるとされます。

愛媛県の小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ犬神がおり、家族が増えるたびにこの福の神の犬神の数も増えるといいます。ただし、この犬神様はいつも憑き主の言うことを聞いてくれるとは限らず、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったといいます。

しかし、富をもたらしてくれる犬神様なら憑いてほしい、と思う人も多いでしょう。オレオレ詐欺に代表される詐欺事件などが幅を利かせるような時代ですから、自分の欲しいものが手に入るなら、犬の神様と同化してでも、それを成し遂げたい、とするような輩もいるに違いありません。

とはいえ、やはり犬神は犬神であり、本来は忌み嫌われ者です。そんなモノに憑りつかれたいと考えるような奴らには、既に犬神が取付いているのかもしれません。また、詐欺師でなくても、最近、喜怒哀楽が激しく情緒不安定、もしくは妙に嫉妬深くなった人、そうあなたも、もしかしたら犬神に憑りつかれているのかもしれません。

最近飼いイヌや飼いネコが、やたらに自分に向かって吠えてくる、唸るという人はその心配をしたほうがいいかも。一度神社へ行ってお祓いをしてもらってみてください。

もっとも富だけをもたらしてくれるイヌ神ならありがたいかもしれません。ただ、おそらく最近カネとはとんと縁がない私には憑いていないことは確かです。

ネコ好きの私としては、猫神様が憑いていてくれるとありがたいのですが、はたしてそのネコは招き猫でしょうか、それとも化け猫でしょうか……

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