ちょっと前の夏のこと、アメリカ政府がアラスカ州にある北米大陸の最高峰「マッキンリー」を、先住民の呼称である「デナリ」に変更すると発表した、というニュースが流れました。
1897年、この山は、当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーにちなみマッキンリー山と命名されました。1867年に、アラスカをロシアから購入してからちょうど30年を経たときのことです。
この翌年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利するなど、このころのアメリカは絶頂期に達しつつありました。
このアメリカを率いていたのが、第25代目のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーです。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領でもあります。
1893年の恐慌後、回復に向けて国の経済を立て直すべく、金本位制を導入したことで、アメリカは立ち直りはじめました。ちょうどこのころ、まだ世界の超大国であったスペインはアメリカ喉元のキューバに進出しようとしていたため、アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていました。
マッキンリーは、その蛮行を止めるように強硬に要求しましたが、スペインが聞きいれなかったため、1898年、ついに米西戦争が勃発しました。
アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領し、戦争はアメリカの勝利で終わりました。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれました。
翌年にはハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となりました。1900年の大統領選では、最初の大統領就任の際にも戦った民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンと再び争いました。
ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開しましたが、経済の復興を成し遂げ、米西戦争の勝利などによっても国民から絶大なる信頼を受けたマッキンリーは再選を成し遂げました。
しかし、1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺されました。チョルゴッシュは大統領に向かって二発の銃弾を撃ち込んだあと再び発砲しようとしましたが、大統領の護衛によって殴られ、続いて激怒した群衆によって制圧されました。
腹を立てた群衆が激しくチョルゴッシュを打ちつけ、その場で殺してしまいそうな雰囲気を見たマッキンリーは、負傷していたにもかかわらず、「誰も彼に危害を加えるな!」と叫んだといいます。
撃たれた大統領の体の中の銃弾は、一発は摘出されましたが、医師は二発目の弾丸を発見することができませんでした。この当時はすでにX線検査機が実用化されていましたが、医師はそれを使用することでどのような副作用が生じるかを不安に思いました。このため体内の弾丸を捜索するためにこの最新鋭機器を使用しませんでした。
結局この残された弾丸が致命傷となり、一週間後に大統領は亡くなりました。彼の後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継ぎましたが、このルーズベルトもまた、アメリカを第一次世界大戦の勝利へと導き、アメリカは二代続いたこの共和党の大統領によってより強固な国へと導かれました。
この名大統領といわれたマッキンリーの名を冠した山をなぜいまさら、デナリ(Denali)に変更したかですが、サリー・ジュエル内務長官は「この地に対する敬意を表し、アラスカ先住民の伝統と、アラスカ州の人々の強い支持を認め、公式にデナリと改称する」と、声明を出しており、地元からの強い要望があったことをうかがわせます。
また、1980年には、アラスカ州法に基づき、山を含む周囲にデナリ国立公園が設置され、同時に、アラスカ地名局は山の呼称も既にデナリと改称していました。ただし連邦地名局は、引き続きマッキンリー山という呼称を使っており、その後、2つの呼称が混在していました。
しかし、アラスカ人は「デナリ」の名を好む傾向があり、また連邦政府での呼称もデナリに変更しようとする運動もありました。その一方で、観光客などは山はマッキンリー、国立公園はデナリと呼び分けることもあったようです。
それをなぜあえて今改めて改名の表明をしたかですが、これは最近、世界的にもヨーロッパ人がつけた土地の名前を元のものに戻す例が増えていることと無関係ではないようです。
数年前にも、ニュージーランドにあるクック山が、元からあったマオリ語の呼称「アオラキ」に変更され、クック山はカッコ内に併記されることになったという例がありました。また、ネパールにあるチョモランマも、その昔はインド測量局で長官を務めていたジョージ・エベレストにちなんでエベレストと呼ばれていました。
マッキンリーの改称名のデナリは、地元の先住民族コユコン・アサバスカンの言葉で、「偉大なもの」を意味し、神の山として崇められています。このため、アラスカ州では名称の変更を歓迎していますが、オハイオ州選出の議員は面白くなさそうです。
マッキンリー山の名の由来となった第25代米国大統領マッキンリーは、オハイオ出身であるためです。ただ、長年親しまれてきた名前だけに、残したいとする向きも多いようで、ナショナル ジオグラフィック誌では、「デナリ(マッキンリー山)」のようにマッキンリーの方をカッコ内に入れることにする、と表明しています。
私的にも、デナリという馴染のない言葉よりも、マッキンリーのほうが親しみやすいので、以下でも従来どおりのマッキンリーで通して話を進めたいと思います。
このデナリことマッキンリーですが、北アメリカ最高峰の山であり、その標高は6,190mです。エベレストよりも大きな山体と比高を持ちます。比高というのは、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差のことで、ようはその山の麓からの高さのことです。
エベレストの標高はマッキンリーより2700mも高くなっていますが、元々この山があるチベット高原が高いところにあるため、その比高は3700m程度に過ぎません。一方、マッキンリーはふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5500mにも達します。
これがこの山の登頂を難しくしている理由です。2015年までに冬季登頂を果たしたのは10隊17人にすぎず、冬のマッキンリーでは6人が死亡しています。
一方のエベレストはというと、1953年のエドモンド・ヒラリー初登頂以来、シェルパ・ガイドなどを除いても1万4千人以上が登頂を果たしており、今では登るために入山料を払わなければならなくなっており、観光地化されているといっていいほどです。
ちなみにエベレストでの死亡者数は、これまでで231人もいます。このため、山頂付近にはこの山で死んで、回収不可能となった人の死体がゴロゴロとあちこちに転がっているといい、そこは世界の最高峰、やはり一般の観光地とは違います。
これと比べればマッキンリーの登山者数がいかに少ないかがわかります。その登山を難しくしているのは、やはり高緯度にあることであり、極寒の地であることです。夏でも山頂の平均気温はマイナス20℃程度であり、冬には5700m地点に据えられた温度計の最低気温が日常的に氷点下40°Cを下回り、1995年には-59.4°Cを記録しました。
1969年以前には、中腹の約4600m地点で最低気温−73.3°Cを記録したこともあります。また、マッキンリーはこのように気温が低いことの影響でヒマラヤやアンデスの同一標高よりも気圧が低いのが特徴で、そのため登山者にとっては高山病の危険性などが高くなり、一層その登山の危険度を増します。
マッキンリー山頂と同じ程度に低い気圧になるヒマラヤの場所は、登山シーズンで比較するとマッキンリー山頂よりも約300〜450m程高いところにあるといいます。この気圧は夏よりも冬のほうがさらに一段と低くなるため、冬季の登山はさらに過酷です。冬のマッキンリー山頂の気圧は夏のヒマラヤの7000m超に相当するといいます。
しかも、山頂は常に風が吹き荒れています。冬にはジェット気流の影響からしばしば時速160km(秒速44m)の風が吹き下ろし、さらにその登山路の途中にある風が集まるような場所では、風速が倍増します。
このマッキンリーに最初に登ったのは誰かについては、諸論があります。1903年にアメリカの探検家、フレデリック・アルバート・クックにより初登頂されたと報じられたことがありましたが、この登頂は、1909年にクックに同行したエド・バレルという人物によって否定されました。
なぜ否定したかについてですが、実は彼はこのクックのライバルの登山家、ロバート・エドウィン・ピアリーという男に大金で買収され、偽証したのではないか、ということが言われています。
このクックとピアリーは犬猿の仲でした。その理由ですが、そもそもこの二人は同僚でした。1891年、クックは、ピアリーのグリーンランド初探検に医師として参加し、以後1897年までに4度にわたるグリーンランド探検を共に行っています。
クックは有能な片腕として活躍していました。ところがその後、ピアリーとの探検を出版することに際しての著作権の問題で揉めた末袂を分かち、別行動をとるようにりました。と同時に、何かあるたびにお互いの誹謗中傷を始めました。
その後ピアリーの興味はグリーンランドから北極点へと移り、1909年には彼を含めて6名が北極点に到達しました。ところが、この探検から帰還後、元の仲間であるクック が、「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張。相次ぐ極点征服のニュースは世界を驚愕させ大論争になりました。
調査委員会が設けられましたが、結局クックの訴えは退けられ、しかも詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定されました。ところが、このときもピアリーが証人を買収していたことがのちに判明しました。
実際、クックは北極点の数百キロ手前までしか到達していなかったことがその後の調査でわかったようですが、ピアリーもまた北極点に達していませんでした。さらに後の別の詳しい測量では、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北極点から約6kmの地点であったことが分かっています。
また、ナビゲーションの技術を持つものがいなかったにも関わらず旅程が不自然に順調であることなどから、二人の到達そのものを疑問視する説もいまもって根強いようです。
結局、人類で初めて北極点に到達したとされるのが確認されたのはかなり測量の技術が発達した1926年のことであり、アメリカのリチャード・バードが、ノルウェー・スピッツベルゲン島から北極点まで飛行機による往復飛行に成功したときのことです。これは同時に航空機のよる世界初の北極点到達の記録となっています。
一方、「徒歩」での到達は1937年のこととされ、これはソ連の科学者イワン・ドミトリーヴィッチ・パパーニンによるものでした。ただし、彼も北極点までは飛行機で行っており、流氷上に着水後、そのまま氷上で史上初の漂流越冬観測を行いました。
マッキンリーの登頂に際しても、ピアリーはクックと行動を共にしたエド・バレルを買収して偽証させたとされ、当時の金で5,000ドルもの大金を払ったといわれています。これは現在の日本円で1,000万円にも相当しますが、それほどの対価を払っても相手をおとしめたい、というのはかなりのえげつない男です。
虚栄心の強いいやなヤツ、というイメージを持ってしまいがちですが、冒険に対する情熱は相当のもので、1898年に初めて北極点到達に挑戦して失敗したときには、凍傷で足指8本を失っています。またグリーンランド探検を行った際には、現地のイヌイット女性との間に二児をもうけており、単なるお高い金持ちでもなかったようです。
このほかにも、鉄の精錬技術を持たないグリーンランドのイヌイット族が鉄を利用している謎がピアリーの調査で判明するなどの功績をあげています。イヌイット族は1万年前に落下したと推測される56トンもの巨大な隕鉄を利用していたことを発見したのは彼です。
しかし、ピアリーはこの一部をアメリカへ持ち帰り博物館に4万ドル (5万ドルとも) で売却しており、金の亡者といわれてもしかたのないような一面はあったようです。
結局、このピアリーの横槍によって、クックのマッキンリー初登頂が事実だったかどうかはうやむやになりました。その後、1913年に宣教師のハドソン・スタック以下の4名が初登頂に成功したとされ、1947年には、バーバラ・ウォシュバーンが女性として初めて頂上に到達しました。
マッキンリーに登頂した初の日本人は、冒険家として高名な植村直己です。1970年8月26日のマッキンリー単独初登頂に続き、1984年2月12日にも冬期単独初登頂を達成しており、彼の冒険は常に「世界初」にこだわったものでした。
43歳の誕生日にこの世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたとされますが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となりました。その後出身校の明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれましたが発見されることはありませんでした。
ただ、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、雪洞に残された植村の装備が遺品として発見されており、冬季初登頂は間違いないとされます。しかしその後の捜索によっても発見されず、やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られました。
現在に至るまで遺体は未発見であり、最後の交信で消息が確認された1984年2月13日をが、現在では彼の命日とされています。
ちなみに、同じ登山家の栗秋正寿が、これから4年後の1998年3月8日に日本人としては初のマッキンリーの冬季単独登頂および帰還に成功しており、この冬季単独登頂は史上最年少での快挙であり、世界で4人目でした。
その後マッキンリーに登頂した日本人としては、「珍獣ハンター」として有名なタレントのイモトアヤコが知られています。もっとも、単独ではなく、日本テレビ撮影隊の一員として登頂に成功しました。
登ったのも冬季ではなく、2015年6月21日 であり、登山開始から16日目のことでした。ただ、頂上付近では急激な天候の変化があり、見る間に山頂付近が雲に覆われ、視界はあっという間に奪われる、という状況でした。しかし、同日13時35分、イモトは見事マッキンリーの頂上、6,190メートルの頂に到達することとなりました。
私もこの時の状況録画をテレビ見ていたのですが、一歩間違えば死と隣り合わせといわれるような危険な現場だっただけに、お笑いタレントといわれるいつものひょうきんな彼女ではなく、真剣そのもののその行動には、正直感動を覚えました。
これまでも、2009年5月のキリマンジャロ登頂成功を皮切りに、モンブラン、アコンカグア、マッターホルン、マナスル、キナバルなどなどの名峰に登っており、その「根性」には感服です。
もうすでに冒険家といっても良いほどのレベルにあると思いますが、この「日テレ登山部」としての活動はどこまで続くのでしょうか。
それにしても、そもそも冒険家という職業はあるのでしょうか。
この冒険家というものの定義ですが、これは、ウィキペディアによれば、それが名誉、利益のために、あるいはなんらそれがもたらすものがなくても冒険それ自体のために危険な企て、冒険、試みに敢えて挑戦を試みる人たちのこととされます。
一方、探検家というのもありますが、こちらは探索すべき余地が残されている未知の領域に直接に赴くことにより調査する人々を指し、ときにその調査は無謀のものであることも多く、冒険家もこの範疇に含まれるようです。
広義の意味においては、探検家には宇宙飛行士を含むこともあり、その目的は、軍事・商業・学術・旅行・宗教、およびそれらのルートの開拓などであり、無論、冒険そのものによってスリルを楽しむ?ことが目的の場合もあります。
探検や冒険をするひとたちに、なぜ冒険などするのか、と聞かれて明確に答えられる場合は少ないようで、それはあえていえば登山家のジョージ・マロニーが言ったように、そこに山があるから、そこに冒険があるから、ということになるでしょうか。
古代から中世にかけての探検家、冒険家はどちらかというと孤立した存在で、組織的で計画的な探検家への援助はほとんど行われてきませんでした。古代の探検家達の名前はほとんど伝わっていませんが、古代エジプトのネコ2世の命令を受けたフェニキア人によりアフリカ周航が行われたといいます。
また紀元前5世紀にはカルタゴ(現在のチュニジア・アフリカ北部)のハンノという航海者が象牙海岸(現コートジボアール・アフリカ西部)付近まで航海したという記録が残っています。
東洋人としても7世紀には、西遊記で有名な玄奘(げんじょう)による中国・インド往復が行われました。また、ま0世紀になると、ヴァイキングのレイフ・エリクソンが北米大陸に到達しており、このころからヨーロッパ人の探検家が続出するようになりました。
13世紀には、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロによってイタリア・中国往復が達成されており、このころからアジアとヨーロッパがつながり始めました。
彼らの探検の動機は主に商業や宗教であり、交通の未発達な時代の国家戦略的でない探検という点で共通しています。15世紀中ばに入り、ヨーロッパで大探検時代、いわゆる大航海時代がはじまると、ヨーロッパの各国や有力なパトロンが国家的または商業上の戦略としてさまざまな探検をサポートしました。
この時代に探検が盛んになった背景には船や航海術の発達、そして西洋諸国が商業主義・資本主義の道を歩み始めていたことが挙げられます。 とりわけ、アラビア商人が一手に握っていたインドとの交易が最大の目的であり、コロンブスのアメリカ到達も結局はインドを目指したものでし。
よく知られた話ですが、コロンブス自身は自分がインドに到達したと思い込んでおり、結局のところインドとの交易は喜望峰周りで航海したヴァスコ・ダ・ガマにより達成されました。この時代の探検家では1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスがもっとも知られています。
コロンブスの他にも、アフリカの南端を回りインドのカリカットに到達したヴァスコ・ダ・ガマや世界一周航海をなしとげたマゼランは有名です。ただ、マゼラン自身は航海の途上フィリピンのマクタン島で現地の人間に殺されています。マゼランの航海は265人で出発しましたが、無事にスペインに帰還したのはわずか18人でした。
大探検時代を経て世界の姿が明らかになりつつあった近代には、未だ知られていなかった各地に探検家達は赴くようになりました。 アメリカ内部の探検や、アフリカ内部の探検が行われ、また、南方大陸として存在が予言されていた大陸を目指して太平洋・オーストラリアの探検も行われました。
さらに時代が下ると探検家達は、上述のように北極点・南極点を目指すとともに、高い山を目指すようになりました。 この時代の探検の特色は名誉や学問のために探検が行われたことにあり、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンはこの時代にビーグル号に乗って航海をしています。
18世紀に入ると日本人でも探検家といわれる人々が多く出るようになります。蝦夷地・樺太探検を行った間宮林蔵(1775~1844年)、千島列島・南西諸島を探検した笹森儀助 (1845~1915年)、チベットへ潜入した河口慧海 (1866~1945年)、南極探検をした白瀬矗(1861~1946年)、千島列島探検をした郡司成忠(1860~1924年)などがそれです。
これらの中でも、河口慧海は異色です。 他の探検家と呼ばれる人たちはすべて、この当時国家的な事業であった測量に携わっていたのに対し、チベットへ向かったのは、この地にあった「仏典」を単独入手するためです。
幕末の1866年(慶応元年)に泉州は堺(現・大阪府堺市)に生まれました。1890年(明治23年)、24歳のとき出家し、当時は東京本所にあった百羅漢寺で修業しました。2年後には大阪妙徳寺に移り、ここで禅を学び、その後、五百羅漢寺に帰って住職を勉めるまでになります。
しかし、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求め、この当時その昔の日本と同じように鎖国状態にあり、秘境といわれたチベットを目指しました。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果たしましたが、最初の侵入は1897年(明治30年)のことです。6月に神戸港から旅立ち、当初シンガポール経由で英領インドカルカッタへ向かいました。
ここでチベット語学者でありチベット潜入経験のあるインド人の、サラット・チャンドラ・ダースの知遇を得、彼の紹介を得ることでおよそ1年ほど現地の学校で正式のチベット語を習うことができました。またその間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究しました。
その結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにします。1899年(明治32年)1月、33歳の彼は、仏陀が成道したとされる、インド北東部、ブッダガヤに詣でました。
その際、地元の仏教会の有力者から、ブッダ(お釈迦さま)の舎利(遺骨)をおさめた銀製の塔とその進呈書、そしてヤシの葉に書かれた経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託されます。
同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地でチベット仏教の巨大仏塔(ストゥーパ)の住職の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査します。同年3月、カトマンズを後にし、険しい山道を経て徐々に北西に進んで行きますが、途中、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなりました。
ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索しました。
新たな間道を目指して途中の村に滞在し、そこにあった仏堂に納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機しました。そして1900年(明治33年)6月、この村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発。
同年7月4日、ネパール領とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功しました。入国後は、同国の尊者との面会や、聖地カなどの巡礼の後、1901年(明治34年)にチベットの首府ラサに到達。
そしてチベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されます。慧海はそれまで中国人と偽って行動しましたが、この時にチベット人であるとウソをついたのは、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためでした。
一方、チベットに入国後に世話になった人々には中国人であると言ってしまっていたため、そうした一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要がありました。このため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなりました。
慧海は元々禅道で修業していたことから整骨の心得などがあり、このため身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになりました。このため次第にラサにおいて医者としての名声が高まるようになり、チベット語でセライ・アムチー(セラの医者)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになります。
本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていましたが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間ではもっぱらセライ・アムチーという名で知られることになりました。その名声はついには法王ダライ・ラマ13世にまでおよび、慧海はついに法王にまで召喚されます。
その際侍従医長から侍従医にも推薦されていますが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っています。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになりました。
この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主であり、前大臣の厚意によってこの高僧を師として学ぶこともできるようになりました。
こうしてまたたくまに2年がすぎましたが、この間、どこからか彼は生粋のチベット人ではないのではないか、という噂が立つようになります。
その噂をもとに素性を調べた人物がいたのかどうかわかりませんが、その後はさらに彼が日本人だという噂まで出てきたため、さすがにこれはヤバイと感じた彼はラサ脱出を計画。
1902年(明治35年)の5月、このころまでには慧海上旬、親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出しました。
このときは、通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができました。しかし、その後、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を慧海は聞き込みます。
その後かつて教えを受けたインド人の恩師などの反対を押し切り、その救出を模索するため、チベットの隣国、ネパールに赴きました。そして交渉の結果、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功。
これを読んで感動したダライ・ダマの命によって多くの知人が解放されたとされます。また慧海はこのとき国王より多くの梵語仏典を賜りました。1903年(明治36年)、37歳になった慧海は、同年4月に英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月には旅立った時と同じ神戸港に帰着。日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国でした。
無論、それまで謎の国とされていたチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことであり、その後も長くこの冒険は語り継がれるところとなりました。
その後、チベットはイギリスや中国に干渉される形となったため、鎖国状態からは解放されました。河口慧海は解放されはじめていたチベットに、大正時代(大正2年~4年ころ)になってから2回目の入境を果たしています。
ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功し、また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集しました。
持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは現在も専門家の間では、チベット研究の重要資料と目されています。1903年(明治36年)に帰国した慧海は、その後、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に「西蔵旅行記」を刊行しますが、これはベストセラーになりました。
英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されており、その体験談は世界的にも一大センセーションを巻き起こしましたが、その一方で、彼のチベット入境は俄かには人々には信じられず、当初はその真偽を疑われてしまいました。
しかしその後はチベット人の証言者なども現れ、それが事実であるとわかると、彼はヒーロー視にされるようになりました。「西蔵旅行記」は仮名遣いに改訂されて「チベット旅行記」として出版され、これらも好評を博しました。
晩年は、経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱しまし。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献しました。
最晩年は蔵和辞典(チべット語和訳辞典)の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で終戦の年、1945年の春先に東京世田谷の自宅で死去。享年78。 慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されましたが、現在は青山霊園に改葬されています。
現在、日本政府は台湾やチベットをさておき、中国優先政策を対中外交の基本姿勢としているため、チベット亡命政府を認知していません。
しかし、中国政府もチベット自治区も外国人の入国を拒否していないため、首都ラサなどへは、空路、列車、車をチャーターして陸路で入ることができます。
列車と航空機を利用するのが一般的なようで、日本のツーリストも普通にツアー旅行を組んでいます。が、慧海が入国した当時のこの地はまったくの秘境の地であり、そこを訪れるだけが冒険でした。
現代では、こうした冒険の地は、探検しつくされつつあります。しかし探検家は深海の探検や、海中や水中を含む洞窟の探検、ギアナのテーブルマウンテン、密林の奥地など未だ人間を拒み続けているわずかな場所を目指して今も冒険を続けています。
ただ、そうした場所は枯渇しつつあり、大勢は地球外の探検に傾いています。現在のところ地球外の探検が国家による巨大なプロジェクトとして行われようとされているのは周知のとおりです。
そのうち河口慧海のように、秘境といわれるような宇宙人の巣窟に冒険家が行くような時代が来るのかもしれません。そのころまでには私もこれを読んでいる方々も生きてはいないでしょうが。