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今日は、11月9日ということで、「119番の日」だそうです。

消防庁が1987年に制定。この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われます。

119番のお世話になった、という人は少なからずいるでしょう。消防機関への緊急通報用電話番号であり、火災の場合は無論のこと、病気や怪我で救急医療が必要な場合に電話すると、消防本部の通信指令室の受付台に接続されます。

消防本部というのは、市町村や区などにおける消防事務を行なうために設置する常備消防機関です。一部の地域では、複数の工場や市町村を含めた「広域連合」に設置され、これらは「消防組合」と呼ばれる場合もあります。

また、東京では「東京消防庁」が設置されており、これは東京23区を所轄する大きな消防本部であり、東京都が管理しています。23区以外の市町村でも、消防業務を東京都に委託している地域は、東京消防庁が管轄します。例えば東京の多摩地区では消防業務を都に委託しており、多摩消防署は東京消防庁の管轄下にあります。

東京都区内もしくはこうした東京消防庁の管轄下にある地域で119番に電話すると、大手町の災害救急情報センターもしくは立川の多摩災害救急情報センターに接続されることになっています。

一方、東京消防庁の管轄以外の地区での通報は、従来はその市町村毎の消防本部に接続されていましたが、2010年代からは、こうした「集中受付制」を始めた地域もあります。

これは、東京消防庁や警察の110番を真似た情報伝達体制であり、複数の市町村が共同で、119番電話を受けるセンターを設ける、というものです。例えば、千葉には「ちば消防共同指令センター」があり、これは千葉県北東部・南部の20の消防本部の119番通報の受信や、消防車や救急車の無線管制等の通信指令業務の運用を共同で行っています。

共同運用を行うことで、業務の効率化が図られるとともに、各消防本部の連携及び情報の共有化が可能となり、隣接地域や大規模な災害時の相互応援体制が充実強化される、というメリットがあります。このように地元消防本部ではなく「消防共同指令センター」が通報を受け付け出動指令を発する地域もだんだんと増えてきています。

この電話により火災を知らせるというしくみですが、導入されたのは大正時代になってからです。火災報知が制度化されたのは、1917年(大正6年)4月1日からで、この日から電話で消防を呼ぶことができるようになりました。

ただ、この当時はまだ電話は交換手に通話先を伝えてつなぐ方式であり、番号はありません。交換手に「火事」と言えば、そのまま交換手が近くの消防組織につないでくれたからです。

その後、1926年(大正15年)に電話に初めて「自働交換機」が導入されたことで、交換手が不要になり、ダイヤル方式の「自働電話」が初めて登場しました。一方、従来どおり交換手を使って電話をかける形式も残され、こちらは「手働電話」と呼ばれていました。

自働電話を掛ける、受ける人には電話番号が必要でしたが、手働で掛ける人には不要であり、そうした電話利用者が混在していた時代です。

この自働局電話の加入者のための火事の通報用に定められた番号はまだ119番ではなく、112番でした。ダイヤル式の電話のことを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、この電話では1から順に左回りで番号が並んでおり、2・3……と続いて9、0が最後です。

一番早くダイヤルできるのが「1」であり、その次が「2」「3」」となり、一番時間がかかるのが「0」です。つまり、112という番号を回すには比較的時間が少なく済み、緊急用に適していたためです。111にしてもよかったはずですが、それにしなかった理由はよくわかりません。が、おそらく何か別な特別な用途のために残しておきたかったのでしょう。

大正時代以降に112番がスタートした当時はしかし、電話が普及して間もない頃で掛け間違いが多発していました。このため、翌年1927年(昭和2年)に、当時地域番号としては使用されていなかった「9」を使用し、間違い電話を減らす目的で119番に改められました。

警察通報用の110番も同様の理由で同じ時期に決められた番号であり、同じように11に続いて間違い防止のため0を加えて導入された番号のようです。

早くダイヤルするために「1」を二回続けたあと、緊急時にも心を落ち着かせ、最後の1つを回せるように時間のかかる番号「9」や「0」が割り当てられるようになったという俗説がありますが、これは間違いで、都市伝説のたぐいの話のようです。

110番となった理由としては、このほか国民に覚えやすい番号とすること、誤報が少ないように番号を3桁にすること、ストッパーまでの距離が短い「1」を多くすることであり、このあたりの事情は消防用の119も同じです。

なお、110番は導入された当初は消防と違って全国統一はされておらず、各地区によっては、110だけでなく、大阪・京都・神戸は1110番、名古屋の「118」、「1110」など様々でした。

手働交換が主流の地方では、自働電話を入手したわずかな人種が110番という番号を個人で所有している場合すらあったようです。もっとも手働電話の場合は、火事のときと同じく交換手に「泥棒だ」と言えば警察につないでもらえるため特に不便でもなく、消防ほどはこの110番は重要視されていなかったようです。

戦後すぐの1948年にGHQからの申し入れにより、全国的に110番に統一してはどうかと提案がありましたが、とりあえずは東京だけが110番となりました。全国的に統一されたのは、1954年(昭和29年)7月1日に新警察法が施行されてからです。

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日本ではあたりまえになっている、この119番や110番などの緊急通報用電話番号ですが、世界共通ではありません。たとえば、アメリカでは「911番」であり、警察と消防は共通です。指令センターで緊急通報を受け、受信係は通報者からその通報の内容を聴いて警察に伝えるか消防に伝えるかを判断する形式です。

イギリスやEU加盟国も同様であり、イギリスは「999番」であり、EU加盟国の多くでは「112番」です。日本と同様に110番が警察、119番が救急・消防という国には台湾などがあります。警察、救急、消防という3分野に緊急通報番号が割り当てられている国もあり、それぞれです。

日本では消防と救急をひとくくりにして119番、警察を110番にしていますが、このほかの緊急通報番号として、118番というものがあります。

意外と知らない人が多く、これは、日本における海上で発生した事件・事故の緊急通報用電話番号です。船舶電話からは海上保安庁の運用司令センター、船舶電話以外の一般電話(公衆電話、携帯含む)からは全国11ヵ所の各管区海上保安本部に接続されます。

118番以外にも、「局番+4999(至急救急)」というのがあり、これは同じく海上保安庁本庁や各海上保安部署に繋がります。どちらにかけても通報できる点がが、119番や110番と違います。

これはおそらく、海上では必ずしも電話ができるという状況にない場合も多く、選択肢を多くしたかった、ということなのでしょう。2007年(平成19年)4月1日からは、GPS機能付き携帯電話からの通報で通報者の位置情報が緊急通報位置通知として、自動送付されるようになったことで、海での場所もさらに特定しやすくなりました。

また、使用目的も海難事故のみならず、海上における不発弾(機雷等)の発見、密航・密輸、不審船情報や海上環境事犯の通報先ともなっています。

一般人からの認知度が低い理由は、導入されたのが2000年(平成12年)からと最近であるためです。しかし、2010年度末までには、52000件を超える通報があり、これによってこれまでに2万人近い人々と6000隻近い船舶の救助が行われたそうです。

密漁や密航・密輸などの事犯についても、目撃者からの通報により解決されるケースが増えてきているそうです。最近日本近海では領海に不法侵入して密漁をする船が増えているようですから、赤地に黄色い五つ星の旗を掲げた不審船舶などを発見したら、即118番をしましょう。

海上保安庁は、この電話番号の一層の周知を図るため、11月9日の「119番の日」、1月10日の「110番の日」にならって、2011年より1月18日を「118番の日」に制定しているそうです。またキャッチコピーとして「海のもしもは118番」を掲げてアピールしているようです。

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この海上保安庁は、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省)外局として海上保安庁が設立されることとなったものです。

一方、消防のほうの歴史はかなり古く、江戸時代初期の1629年、幕府から大名へ江戸の町の火消役を命ずる奉書が出されたのが起源とされ、これを「奉書火消」といいます。消防というものが初めて組織化されたわけであり、我が国の消防史上、画期的なことと言えます。

それまでは長らく日本には消防の組織が置かれず、火災に対してほとんど為す術がなく、このため、失火した場合は打ち首、放火した場合は火あぶりと、非常に厳しい刑罰が科されていました。

が、奉書火消が導入された当初は、出火の報を受けても奉書をいちいち書いて出動を命じる、というのんびりしたものであり、実際的な消防活動とはいえませんでした。このためさらに1643年には、武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」も制度化されました。

武家火消はさらに幕府直轄で旗本が担当した「定火消」と、大名に課役として命じられた「大名火消」に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在するようになりました。

このように官民で消防組織が編成されるようになりましたが、ポンプもない時代では技術的にも限界があり、消防活動の中心は、火災周辺の住宅を破壊して延焼を防ぐ「破壊消火」であり、消防技術としては龍吐水や水鉄砲など小規模の火を水で消すため道具が作られた程度でした。

大政奉還に伴い、従来の大名や旗本による常設消防機関であった大名火消や定火消は姿を消し、江戸以来の町火消だけが残りました。これは明治時代になって「消防組」と呼ばれるようになります。内務省はこの消防組を警察機関の一部として吸収しましたが、これによっていわゆる「警察消防時代」が幕を開けました。

消防技術の面では、腕用ポンプや蒸気ポンプが輸入・国産化され、近代的な消防戦術が導入されました。消防は高度化・専門化を促され、「鳶職」から消防へと専門化を遂げ、その過程でかつての消防組は、現在の「消防署」にもつながるものへと変革されていきました。

大正期には、電話も普及し自動車ポンプが輸入され、都市を中心に消防が充実していき、地方都市でも消防組内に常備部を置くようになりました。自動車用のエンジンを使った手引きガソリンポンプや三輪消防ポンプが昭和に入って普及し始めます。

第二次世界大戦後は、GHQの指導により警察から独立し、1948年にいわゆる自治体消防制度が発足しました。大戦中に「警防団(後述)」として組織された消防組も、警察部門から切り離されて消防団に取り込まれて再出発します。

その後、消防は着実に進展を遂げ、20世紀末までに消防常備化がほとんど完了し、日本の消防は世界的にも非常に優れた組織・技術を持つに至りました。

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一方の警察は、第二次世界大戦後はGHQにより、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948年に旧警察法が定められました。この旧法では、地方分権色の強い国家地方警察と自治体警察の二本立ての運営で行われていましたが、1954年には現警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁・道府県警察に統一されて今日に至っています。

こうした歴史を持つ警察と消防がまだ一体化していた明治時代に、近代的な警察消防時代の基礎を築いたのが、「川路利良(としよし)」だといわれます。

東京都千代田区の北の丸公園に「弥生慰霊堂(弥生廟)」というのがあります。これは警察・消防殉職者のための慰霊施設ですが、川路利良はその功績を称えられ、ここにたった二人しかいない特別功労者のひとりとして祀られています。

もうひとりはガンベッタ・グロース(Gmbetta gulose?)といい、これは警察消防が創成期のころに、顧問だったフランス人のようです。

調べてみましたが、詳しい人物像には行きあたることができませんでした。が、川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議しており、このとき同国から招いたお雇い外国人の一人と考えられます。川路とともに創成期の警察消防の建設に功績があったとみなされ、合祀されたのでしょう。

この弥生慰霊堂のことを少し書いておくと、これかつては弥生神社と呼ばれていたようです。廟の形態をとりながらも社殿は神社建築に近いもので、本殿正面の脇には燈籠があるなど、全体的に神社だった頃の面影を漂わせています。

1877年(明治10年)に起きた西南戦争に出征して戦死した警察官(警視隊員)は名誉の戦死として東京招魂社(現靖国神社)に祀られましたが、凶悪犯逮捕や災害警備で殉職した警察官に対しては追悼すらありませんでした。このため、1881年(明治14年)ごろから警察・消防殉職者のための警視庁招魂社創建の議が唱えられるようになりました。

こうして1885年(明治18年)に本郷に創建されたのが「弥生神社」です。最初に祀られたのは1871年(明治4年)以降の殉職者94柱でしたが、現在の合祀者は2500柱超にまでなっています。その内訳は、警防団員が約5割、警視庁職員が約3割、東京消防庁職員が訳2割、その他皇宮警察本部、関東管区警察局、東京都警察通信部などとなっています。

ちなみに多数を占める警防団員というのは、上でも述べましたが、二次大戦勃発直前の1939年(昭和14年)に主に「空襲或いは災害から市民を守るため」に作られた団体職員です。

警察および消防の補助組織としての任務が課されていましたが、日本の敗戦に伴って存在意義が薄くなったため1947年(昭和22年)に廃止され、消防団に改組移行されているため、現在はありません。弥生神社に祀られている柱の多くは戦時中にその任務を遂行中に亡くなった方のものでしょう。

本郷弥生町に建てられたため、弥生神社と呼ばれていましたが、その後、芝公園に遷座され、さらに警視庁鍛冶橋庁舎構内、青山墓地内、1931年(昭和6年)には麹町区(現千代田区)隼町へと転々としました。

戦前は警視庁の管理下にありましたが、戦後の「神道指令」により、警視庁が神社を管理できなくなったため、1946年(昭和21年)に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会が結成され、1947年(昭和22年)に現在の北の丸公園内に遷座されました。

と同時に名称を「弥生廟」と改めたのは、靖国神社のように祀られた人が神格化されるのを警察や消防関係者が嫌ったからでしょうか。その後、1983年(昭和58年)9月に名称を「弥生慰霊堂」に改称し、「弥生廟奉賛会」の名も「弥生奉賛会」に改めると同時に、従来の神式の慰霊祭からいわゆる“無宗教”形式の慰霊祭に変更し、現在に至っています。

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この廟に特別功労者として祀られている、川路利良(としよし)は、薩摩出身の武士です。
天保5年(1834年)薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として薩摩国比志島村(現在の鹿児島市皆与志町比志島地区)に生まれました。

薩摩藩の家臣は上士、郷士などに分かれ、川路家は身分の低い準士分でしたが、のちに帝国大学文科大学(東京帝国大学文学部)の教授になる、漢学者の重野安繹(やすつぐ)に漢学を、坂口源七兵衛に直真影流剣術を学びました。坂口源七兵衛とは、江戸後期にこの流派の名人といわれた坂口兼儔(かねとも・作市とも)の子孫かと思われます。

直真影流は江戸時代にいち早く竹刀と防具を使用した打ち込み稽古を導入したことで知られ、江戸時代後期には全国に最も広まりました。一般に薩摩といえば「示現流」といわれますが、直心影流は藩校の造士館も含め藩内で大いに稽古されていました。

元治元年(1864年)、30歳のとき、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価されるようになりました。慶応3年(1867年)には、藩の歩兵隊の小隊長に任命されたことで、西洋兵学を学ぶ機会を得ます。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩官軍の大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくるなどの功績をあげました。その後東北に転戦し、福島の磐城(いわき)浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えるとすぐに会津戦争に参加するなど血気さかんでした。

磐城浅川での旧幕府軍との戦いでは、敵の銃弾が股間に当たり負傷しました。このとき、一発の銃弾が川路の「金玉袋」を貫きましたが、金玉の「本体」は無事でした。

このことから、川路は戦場にあっても金玉袋が縮まず垂れ下がっていた、つまり怖がっていなかったから、といわれるようになり、彼の豪胆さを示す逸話となりました。その後も薩摩藩兵は事あるごとに「川路のキンタマ」とこのときの川路を讃えたといいます。

こうした戦功により、明治2年(1869年)、藩の兵器奉行に昇進。維新後の明治4年(1871年)には、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。典事というのは明治以降の太政官制度では中程度の役人で、給料はそれほど高くなく70円程度で、現在価値では30~40万円ほどになります。

しかし、翌年にはいきなり、邏卒(らそつ)総長に抜擢されており、これは現在の巡査部長ほどの役職になります。その直後に、司法省の西欧視察団(8人)の一員にも命じられて欧州各国の警察を視察しており、こうした抜擢は将来を嘱望されてのものだったでしょう。

この明治5年(1872年)の初めての渡欧の際、川路はマルセイユからパリへ向かう列車内で便意を催したもののトイレに窮しました。やむを得ず座席で日本から持参していた新聞紙の上に排便をし、その大便を新聞紙に包んで走行中の列車の窓から投げ捨てたところ、運悪くそれが保線夫に当たってしまいました。

その保線夫が新聞に包まれた大便を地元警察に持ち込んだことから、「日本人が大便を投げ捨てた」と地元紙に報じられてしまいます。この逸話はその後日本でも“大便放擲(ほうてき)事件”として知られるようになり、かの司馬遼太郎さんも小説「翔ぶが如く」の冒頭部分でこの話を面白おかしく書いています。

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帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立しました。ジョゼフ・フーシェというのは、ナポレオンの下で警察大臣を務め、近代警察の原型となった警察機構をフランスに組織した人物です。

特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名で、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(冷血動物)」とあだ名されました。後世においては「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」評されました。

おそらく川路にこのフーシェの産み出したのと同様の組織を日本にも導入するように勧め、かつ導入にあたっての用具や装備などをフランスからあれこれ取り寄せる、あるいは日本で作らせるための指導などをしたのが、上述のガンベッタ・グロースなのでしょう。

明治7年(1874年)、警視庁が創設。これに伴い、川路も満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任 。これは現在でも史上最年少とされます。警察創成期のことであり、この時代の川路の業務は多忙を極めました。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといい、一日の睡眠はわずか4時間に満たなかったといいます。

その後、征韓論に端を発し、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した、いわゆる「明治六年政変」が勃発します。征韓論の主導者と目されていた西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従いました。

このとき川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明しました。

この国家存亡の危機にあり、当時の政府トップ、内務卿となっていた大久保利通からはこうした川路の言動はいかにも心強いものでした。彼の信任を受けた川路は、密偵を各地に放って、不平士族の動向を探ろうとしました。

高知県士族たちが起こした喰違の変(右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件)や佐賀の乱などを起こした旧武士たちの動向を探るために、これらの地方にも密偵を放ちましたが、川路はとりわけ西郷を擁する薩摩の動向を探ることに注力しました。

このとき、川路と同じく薩摩出身の腹心の部下で、中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込みますが、中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられてしまいます。

川路にすれば、薩摩藩内でも評価の高い腹心の中原なら不平士族の離間工作が図れると考えたのですが、意に反してかえって中原は捕えられ、苛烈な拷問が加えられました。結果として、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」が彼からとられたため、以後、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされるようになってしまいます。

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そうこうしているうちに、西郷以下の薩摩藩士たちが決起。1877年(明治10年)2月にはついに西南戦争が勃発しますが、このとき川路は陸軍少将に兼任され、その鎮圧を命じられます。

警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦しますが、激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けることに成功します。5月には市内北部の大口攻略戦に参加、6月には逆に南部の宮之城に転戦してここでも激戦の末、西郷軍を退けて進軍を果たしました。

しかし、その後旅団長の座を大山巌(後の第2代大警視)に譲り、警察官による本戦は大山のもとで行われることとなり、川路は東京へ戻りました。3万人といわれた西郷軍は激しい戦いを繰り広げましたが、その2倍の6万人の政府軍に打ち破られ、9月の城山籠城戦にも破れて西南戦争は終結しました。

東京で元の大警視の仕事に戻った川路でしたが、終戦後の明治11年(1878年)、突然スキャンダルにみまわれます。

この年の3月、内閣総理大臣や元老、枢密院議長などの政府重職を歴任した黒田清隆の妻が急死した際、かねてより酒乱で知られていた黒田が酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れた際、川路も薩摩出身であることから黒田をかばってこの噂をもみ消した、と新聞で叩かれたのです。

黒田は、開拓長官時代にも商船に乗船した際、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決していました。

こうしたこともあって黒い噂が出たようですが、このために、黒田は辞表を提出しました。が、大久保利通の説得でこれを撤回。伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ、自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じました。

川路は、黒田の妻の墓を開け、病死であることを確認したと発表しましたが、噂はなかなか消えず、川路だけでなく、政府内の薩摩出身者に批判が集まるようになります。

その2か月後の5月には、川路の庇護者であったこの大久保利通は暗殺(紀尾井坂の変)されています。暗殺実行者の不平士族6名(のち処刑)が残した斬奸状には、大久保自身が、国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした、と記されていました。

大久保が暗殺されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになりますが、明治14年(1881年)にいわゆる、開拓使官有物払下げ事件で失脚。これは開拓使の廃止に伴い、官営事業の設備を民間に払い下げる際、北海道開拓使長官だった黒田が、事業が赤字であったことを理由に、諸施設を非常な安値で売り飛ばそうとした事件です。

黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はその売却先が同じく薩摩出身の政商・五代友厚だとして激しく非難したため、払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退きました。その後伊藤博文の後をうけて第2代の総理大臣にまで上り詰めましたが、その醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけました。

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しかし、薩摩閥はその後も長州閥とともに政府内で君臨し続けます。そんな中にあっても篤実な川路の評価はますます高く、明治12年(1879年)には、再び欧州の警察を視察。ところが船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤル(ルイ14世の王宮)を随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまいます。

咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなりませんでした。同年8月日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月に帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去しました。享年わずか46歳。墓所は青山霊園にあります。

川路の死に際しては、先の黒田事件の余波もあり、関西の政商である藤田組が贋札事件の捜査を恐れ毒殺したという噂なども立ちました。藤田組は、長州人の藤田伝三郎によって創設された組織で、現在その中核はDOWAホールディングス株式会社となっており、ゼネコンの大成建設もそのルーツはこの藤田組につながります。

明治になって長州藩が大砲・小銃・砲弾・銃弾などを払い下げたとき、藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得たほか、西南戦争が勃発すると征討軍の軍需物資を用立てて巨額の富を得ました。

この事件は、藤田組がドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金にしようと企てた、というもので、会社に家宅捜索が入り、藤田は関係者とされる7名と共に拘引逮捕されました。しかし、何ら証拠がなく無罪放免となり、3年後に別の容疑者が逮捕されて冤罪が晴れました。

藤田が濡れ衣を着せられた理由としては、長州人脈を頼りに、若くして大金持ちになったことを妬まれたことがあったとされ、また背後に薩摩と長州の勢力争いがあったことが取沙汰されています。

このころ薩摩側は西郷隆盛の戦死や大久保利通の暗殺と次々に有力者を失い、長州に押されており、そこで薩摩閥が支配していた川路の内務省警視局を動かして、長州系の大物の不正を暴こうという動きがありました。

これより前に、長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件に連座したとして、危うく政治生命を失いかけたこともあり、そこに藤田のニセ札事件が起こりました。その密告情報を得ていたのは薩摩出身の川路が仕切る警視局であり、そんな中での大警視の川路の死は、実は長州閥による暗殺ではなかったか、と噂されたというわけです。

しかし、川路は鹿児島県では「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として長らく裏切り者の印象を持たれて評価が低めであり、そうした評価もあってか、自らも薩摩閥とみられることを嫌っていたようです。

警察内にも派閥を作らせず、藩閥に関係なく純粋に警察という組織の育成に尽力しました。その結果、警視庁に在職した期間は決して長いものではなかったものの、警察制度創始者としては現在も高い評価がされています。警察の在り方を示した川路の語録は「警察手眼(しゅげん)」として編纂され、警察官のバイブルとして現在も広く読み継がれています。

明治18年(1885年)、上述の弥生神社(現 弥生慰霊堂)に特別功労者として祀られました。また現在、警視庁警察学校には彫塑家・北村西望の作となる立像が、警視庁下谷警察署敷地内には川路邸宅跡の石碑が建っています。警察博物館には川路大警視コーナーが設けられ、川路の着用した制服、サーベルが展示されています。

かつて人々に嫌われた鹿児島でも、生誕地である皆与志町の生家近くのバス停は川路にちなみ「大警視」と名付けられており、生誕の地には記念碑が、川路が率いた別働第三旅団の激戦地である霧島市(旧横川町)内にも銅像が建っています。

平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎らの提唱で鹿児島県警察本部前に銅像が設置されるなど、現在の地元でも人気があまりないながらも、ようやくその功績や人物像が再評価の段階に入りつつあるといいます。

蒲鉾が大好物であったそうで、あまりによく買うので料理屋だと思われていたといいます。
その川路大警視にあやかって今晩はおでんにでもしようかと思っている次第です。

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